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モンゴメリ日記

1939年

夫の病気と息子チェスターの就職先を心配するモンゴメリ、ヒトラーによる侵略の恐怖も
 

1939年1月1日(日曜日)
“旅路の終り”
今日は新しい年の最初の日だ。気持ちよくそして寒い。夜雪に変わった。私は毎日を気持ちよく過ごしている。私は毎日忙しく働いている。そして今夜は疲れているように見えない。チェスターが“幸せな新年を”と私に言づけた。去年の暮れにはいくつかの争い事があった。

1939年1月3日(火曜日)
再び私はよく眠れるようになり、そして夢を見た。私は飛んでいる。私は子供の時以来そんなにたびたび夢を見たことはない。夢の中で私はすべての物を越えて易しく喜んで飛んで行った。
 スチュワートは今日2つの試験を受けようと思っている。チェスターは昨日はのどが痛いとうそぶき、今日は私の古い本を読むのをパスした。二人ともとても楽しそうだ。

1939年1月4日(水曜日)
灰色のつまらない日だ。今夜は嘆くような風が吹いている。しかし私はこのような思い出が好きだ。私は毛布にくるまりながらその音を聞くのが好きだ。私は昨晩良い夜を過ごせなかった。坐骨神経痛と頭痛が一日中夜まで続きつらい思いをした。スチュワートは今日彼の三番目のテストを受け満足した。私は毎日一人だがむしろ気分が良いと思った。私は古いカム・マクファーレンの手紙の束を見つけて読んだ。それからそれらを燃やした。それらは意味のあることは何もない。私は彼には何のアイデアも得られない。
 フリードが死んでから間もなく20年になる。もし今夜彼女が私の部屋に来て立っていたら、彼女は昔の自分を発見するだろう。本をめくりながら20年以上の昔のことを思い返す。そして私たちは座って長い夜をよき会話をして過ごすのだ。
 私は決して私の生活がそれらの空想なしには我慢できないとは言っていない。

1939年1月6日(金曜日)
昨晩、チェスターと私は“レディバニシーズ”を観に行った。それは極めて良かった。そしてそれは映画を見た後、チェスターと議論する行為を再び取り戻した。
 今日私は“アンオブアイ”(イングルサイドか)の校閲を始めた。3章分を終えた。しかしこれから毎日それに取り組まなければならない。私はあまり幸せそうではない。

1939年1月8日(日曜日)
寒さとともにみじめさの中に立ち止まっている。そしてE(ユーアンの事)は大変具合が悪く夕飯を食べられない。彼はいつも体調が悪いように見える。私は彼の体調を説明することはできない。私自身の体調がよくないときは助ける忍耐を奮い起こすこともできない。しかし私はそれをすべきだ。そしてした。それは私に下された唯一の嫌な使命だ。

1939年1月11日(水曜日)
私は一週間の中で最高の時を得た。ユーアンと私は谷間にドライブに出かけ楽しい一日を過ごした。ユーアンは彼の不可解な気まぐれを起こした。とても快活で気分がよさそうに見える。B夫人がクレジット地区に家を買った。そして私は聞いた――彼女からではないが――それは彼女が必要とする十分な物であったと。私はそれが本当であることを望む。
 今夜私の部屋にチェスターがきて紙を放った――クリスマスの試験だ。彼はすべて受かった! 私はそのことで余計な恐れや苦しみを抱かないように何週間かのあいだ期待しないでいた。終わりまであと二つ、それはこの春の5つの葉(重要事項)である。
 私の冷えた心もやややわらいだ。

1939年1月14日(土曜日)
旅路の終り
金曜日にヒューマスタード夫人が脳溢血の発作で死んだ。それで私は今日アランマスタードと彼の妻とともに葬儀に出かけた。私たちはエルマーマスタード家で正餐を摂った。ここは嘗て来た時よりもお化け屋敷のように変わったと思った。私はかつて秋の夜最初にここに来たときはジムマスタード夫人がいて、彼女は優雅で親切な夫人だった。左側にいた私たちに言った“あなたはほかの人間より誇り高い”と。彼女とジェームズは6人の家族と一緒にいた。しかし今はエルマー一人だ。今や恰幅の良い中年男だ。
 ヒューマスタード夫人は主婦として集会で我々に挨拶した。彼女とヒューは夜に汽車でアックスブリッジに下ってきて私たちと会った。彼女が告別式で挨拶したことで、私はリースクデール牧師館で過ごした幸せな7年間、フリードの死、そしてユーアンと私の結婚式の様子を思い返した。――決して戻らない今と昔の数週間、数日、の日々である。ウィルマスタードはかつて私の聖書研究会の生徒の一人だった。今や高齢の牧師だ。私を車に乗せて墓地に行くために来た。私が降りた時に彼は喜んで言った。“いかにわたしの母があなたの事を考えていたことかと思いますマクドナルドさん”と涙にぬれた目で言った。

1939年1月18日(水曜日)
月曜日に私はプリンスエドワード島のミスターギボンの記事の校正を終えた。火曜日にそれをタイプで打って、晩の9時まで一日中打ち続けた。その夜私は疲れ果てた。今日も私は再びタイプを打っている。それは仕事を終わらすには避けがたく重要なことである。
 2年前ラッキーが死んだ。私は可愛い可愛い猫を永久に失った。

1939年1月21日(土曜日)
着々とタイピング作業が片付いている。昨日ミスターギボンが手紙で、私の文章は“完璧だ”と言ってきた。ユーアンと私は今日アルバート夫人とステラの料理を見に行った。しかしユーアンにみじめなボケが戻ってきた。私は彼がもう一つの時間(人格)になることを恐れる。

1939年1月22日(日曜日)
ユーアンは昨晩少ししか眠れなかった。そして一日中非常にみじめであった。しきりにうめきながらぶつぶつ言っている。スチュアートは今夜キングストンから帰ってきた。あの子が戻ったことは大変うれしい。私が最後を迎えたらどうなるか? 私が元気をだして生きながらえないと助けられない。
 私は屈辱的な嫌な仕事を完遂させるために忙しい。

1939年1月23日(月曜日)
旅路の終わり
私は昨晩長い看護の時間を過ごした。それはかつてないほど長い時間だった。ユーアンは一日中大変具合が悪かった。彼の顔にははっきりと死相が出ていた。私は一日中根気強くタイプを打った。それはこのことからの逃避でもあった。
 イソベルから手紙をもらった。彼女は心のよりどころをメアリ女王からキャロル王に移し、クドクドと愚痴を並べた。
 かわいそうなイソベル! しかし私はそのことは彼女に魅力的な人生を与える運になるだろうと大胆に言った。

1939年1月24日(火曜日)
ユーアンは具合の悪い夜を過ごし、昼はそれにも増して一日中悪い。彼は今夜私が仕事をしている部屋に来てひどく悪い状況を作り出した。私はその状況には吐き気がする――それは20年前から続くことだ。
 私は少し泣いたがまもなく仕事に戻った。それはいかに奇妙で我慢できないことか――そしてそれらを寛大に見てきたことか。

(夫のユーアンは学生時代に患った鬱病の発作をこの時より20年前の1919年にふたたびぶり返したのです。それ以来モンゴメリはずっとこの奇妙な病状に悩まされていたのです)

1939年1月25日(水曜日)
悪い日だ。ユーアンは昨夜は眠れず、一日中体調が悪い。そして島に行きたいという狂った気持ちが起こってくる――狂気、なぜならそこに行くには一年のうちで一番悪い時期だからだ。しかし私がこのことを言うと彼は怒り狂った。たくさんの悪い事態がよみがえってくる。食べられない――“貧しい” などなど。私は(島に行くことで)人生の終わりの道程をユーアンにいくらかの安らぎを与えられると思ったのだ。それはむしろつらい日々になるかもしれない――何もなく強い逆風が吹くことになるかも。私は落胆したように見えた。しかし私は一日中タイプ仕事から抜け出せない。ユーアンは今夜は少し気持ちが安らいだように見える。

1939年1月26日(木曜日)
ユーアンは薬屋で求めたカプセルを服用し眠った。私は何もできない。しかしユーアンは今日は少し具合が良いように見える。そして少し食事をとった。夕暮れ時にぞんざいに言った。 “二週間(島に)行くか” 私は(喜んで)一日中タイプを打った。

1939年1月27日(金曜日)
ユーアンは昨晩カプセルを飲んだ。そしてよく寝た。しかし空虚な日であった。彼は一日中ひどく具合が悪いようにみえた。晩の八時に彼は大変弱いので最後まで長く考えることができないと宣言した。もちろん彼はこの時においていったことを信じている。
 私は一日中タイプを打った。

1939年1月28日(土曜日)
ユーアンはよく眠って順調に過ごしているように見える。私は午前中ずっとタイプを打ったが午後にはやめてバラショウ夫人の記者クラブにお茶に行った。それはとても良い時間でさらに良い晩だった。チェスターと私は滑稽な映画を見に行った。

1939年1月29日(日曜日)
ユーアンは昨晩ひどく咳込みながら眠った。かつて私は起きた時彼が泣いているのを見つけた。それは痛ましいことだった。かれはひとしきり子供のように見えた。彼は一日中公正な心である。しかし言動には常に彼の “悪い精神状態” が出ている。

1939年1月31日(火曜日)
旅路の終わり
私は今日ついにイングルサイドのタイプ作業を終えた。それから私は記者クラブの夕食会に出かけ、良い時を過ごした。
 うちの猫ジョージセニオアは今日ちょっとした楽しいいさかいを引き起こした。彼は彼自身の窓辺にたたずんでいた! それは日影の部分は凍り付いて日の当たったところは溶けている日であった。ジョージは出て行った。彼の足と腹の毛はすべて濡れていた。それから台所の窓に飛び上がって雪のくぼみに飛び降りた。トンプソン夫人が彼と共に入ってきて、いつものように夫人が彼を抱き上げた時彼は動かなかった。彼の体ははすっかり凍っていた。夫人がお湯を取って彼にかけた。私達はかつてジョージにこのような逆境がかかったとを知らない。

1939年2月1日(水曜日)
ユーアンは夜を通して咳き込むこと無く過ごした。しかし彼は一日中具合が悪く見え、彼の “悪い兆候” を示した。彼にはすべての日が新しい一日だ。(ボケたように過去のことを忘れるようになってしまったのであろうか)他の医者がほしい! 私たちは今日スチュアートの部屋を掃除し、そして私は疲れた。生活はとてもわびしく見える。

1939年2月2日(木曜日)
ハッキリせず鈍い。私は一日中タイプ原稿の校正をした。ユーアンは非常に具合が悪い。しかしいくらかの頃よりは良い。リーブズが来てトランプゲームでユーアンを負かしたあとEは恐ろしい顔で座り込んだ。しかしその後彼はゲームの事を忘れ快活になった。ミスターリーブと私はリーブ夫人とユーアンとともに再びゲームを始めた。ユーアンはどんなときにも負けるのを好まず、彼が一つの言葉にこだわっているときにはとりわけそう見える。大体において私は調子よく勝った。しかし今夜は慎重に下手にプレイしてユーアンとリーブ夫人に勝たせるようにした。(それにもかかわらず)我々はすべてのゲームに勝ってしまった! よもや神は世界を皮肉に動かしているのではないだろうか。

1939年2月3日(金曜日)
私は寝不足だ。そう見える。私は下町に行って小さな施しをしよう。私は施しが必要な人々をえり分けた。私は下町の少年たちのところに行った。こそこそうろつき熱心に見て回った。おい君と呼びかけアガサクリスティの新しい本を与えた。そして弁当も。どちらも私が作ったものではない。計画してやったとも思わせないようにした。それからチェスターと一緒に家に帰ってきた。ユーアンは正常な精神状態に見える。しかし彼は一日中額に暖かい水袋を当てている。

1939年2月4日(土曜日)
ユーアンは今日別の医者に掛かって、周到に彼の精神に対する手術をする。そのようなことは神のみぞ知るであろうか。一層の恐れと支払いの苦労がかかり、おそらく十分良い結果が得られるだろう。手術に対して神経がイラついている。
 今夜は飾りのない目で天文学を読み返した。読んだけれども魅了させられるようなことは何も得られなかった。それは遠い昔の春の夜、古い農場で双眼鏡を持って星々を見て歩いたことを私の苦い心に思い返させた。いまやそれらの星は私の心にかつてと同じ安らぎを与えてくれない。苦い気持ちは過ぎ去った年月と同じように深い。
 古い友達である偉大な星が助けてくれるであろうか。偉大な自然は何も変化することはないのだ。

1939年2月6日(月曜日)
旅路の終わり、リバーサイドドライブ210番地
ユーアンの彼の内面の熱さによる不満から最悪の破れた夜を過ごした。彼は一日中絶え間なくしゃべっている。それは彼の望ましくない兆候の現れだ。そのような途切れることのない言葉による攻撃は彼の内面の状態に依っている。そのような冬の日には、私は自分の庭に逃避して忍耐力を取り戻すこともできない。とりわけ冬の日の早い灰色の夕闇が降りてきた時には。しかし私はある一つの事によって心を平静に保とうと努力する――私を苦痛から解き放ってくれるものはチェスターと彼の妻である――そしてしばしそれを考えることが苦痛から解き放ってくれる。

1939年2月7日(火曜日)
今日の午後私は牧師ウィバースの協会へ行った。私は再びそれらの催しを楽しんだ。私は皆に“ある郵便袋の立案者”の話をした。アロンゾ・スミス夫人に会った。(今や未亡人)彼女に会うのはかつて1920年代の早い時期にわたしが自動車で島に里帰りして以来だ。彼女はスチュアートについて語った。彼はかっていかに美しい子供だったか。彼女の話によって、私はかつて二人の男の子を統治した“忘れていたやんちゃな時代”のことを思い返し空想に旅立っていった。
 先年の冬チェスターはキプリングのジャングルブックに強烈な印象を受け、“野生の掟”に興味を持った。そして野獣の生き方にとらわれた。私は彼が(チェスター)が野生の掟にこだわるのは彼の家庭がそのようなものと同じになっているのだと目星をつけた。それは間違いなく“裁き”である。そして彼の家族のメンバーは全員それに従わなければならない。もし家族の誰かが反逆したときは“野生の掟”に従って懲らしめるわけである。二三年に渡って私は家族の者全員に“野生の掟”を通した。しかし今日私がスミス夫人を首にしたことを思い出すまで(そのような態度を取っていたことを)すっかり忘れていた。ああ悲しや。そのことは私が様々な家庭の事柄に野生の掟を持ち込んでいたのだと気づくことは困難だったということだ。
 スチュアート・パーカー夫人がユーアンが牧師を引退した折に私に言った。――“今はどのように自分が見つけた時間を過ごしていますか?”と!!!!!。
 私はこのように言ったかもしれない。“私は7時半に起きて、大体夜の11時まで激しく働きます”と。しかし私はそうではない。そのような言い方をすることは夫人の常であろうか? 彼女が考えているようではなく、私は小説を放り出して15分ほどうたた寝したあとで書く。
 私は晩にビクトリアへ行って、Y.P.の紙を読んだ。そう、私は今や呼ぶことができる。それからベッドへ行った。

1939年2月8日(水曜日)
ユーアンは今日有名な神経専門医のところへ行った――ドクターマッケンジーである。しまいに親切な医者は言った。彼はユーアンにほどこせることは何もないと言った。おそらくこのような態度はこの場合には最も良い診断とは言えないだろう。そのような診断はユーアンに絶望を与えてしまう。
 私は一日中イングランドマガジン向けに数編の短編小説をタイプで打った。(いくらかの時間をパーカー夫人《近所の婦人のことであろうか》のために取られた)そして夜には打ち上がった。おそらく目を傷め、吐き気に悩まされるだろう。私はこの年吐き気に悩まされている。しまいに何か安心を与えてくれる物はないかと私はアスピリンの威光にすがることにした。私はいくらかの安息を得た。

1939年2月9日(木曜日)
“旅路の終わり”トロント
私はよく眠れてユーアンの気分も良い平穏な日であった。意地悪な嵐が町を襲い、通りの上を風が吹き過ぎていった。今夜は仕事が良く回りユーアンは暖炉の床を掃除した。今夜は笑い声と冗談に包まれた。先週の金曜日とは良い対称である。

1939年2月10日(金曜日)
今夜は思案をしている――そしてちょっと孤独である。たくさんの新しい事柄――そしてわずかな古い事柄。それは新しい事柄より良い。しかし創作に盛り込むことはない、しかし古い記憶について一つ間違ってしまった。
 今夜チェスターはミスタードウニーが彼と一緒に共同事業を始めようと言った話をした。ミスタードウニーがK.C.において15年間体験したことを与え、そしてチェスターが望むなら素晴らしい事業の始まりが得られるであろうと。私は彼の事業の始まりが多くの煩雑な事柄で埋め尽くされてしまうことを恐れた。それは願下げだ! それはたくさんの運を与えてくれるだろうか。私はこの10年来ひどく悲観的になっている。彼らは不幸に向かって不断の前進を続けている。
 ヒトラーは世界に緊張を与え続けている。世界中に不安を与えている。彼は狂人で何をしでかすかわからない。
 私が少女時代抱いていた印象は、ドイツ人は親切で紳士的な人たちだということだ。彼らを根本的に変えてしまったものは何か? 彼らの道徳を混乱させて狂わせてしまったものは何か? かつて私が知っていたドイツの事柄と言えば。ダルハウジーのライチェ教授、そして女学校のドイツ語とフランス語の先生、ミス・オエラー先生だ、私は二人ともとても好きだ。L.教授は“古い学校”における完璧な紳士であった。――親切で礼儀正しく紳士的。そして何よりも有能な教師。ミス・オエラーは40がらみ、背が高くて恰幅が良い、ぽっちゃりしてしわのない顔と柔らかい茶色の髪と目をしていた。彼らはいつも子供っぽく純真で、そしてミス・カーはいつでも不当にも繰り返し彼女をはねつけた。ミス・オーはどこかのアメリカの大学のドイツ人の教授と婚約中で、その相手の乏しい収入が増加すれば結婚するだろうと見られていた。私はクリスマス週のある夜、さびれたH.L.C.のミス・オエラーが昼間彼のフィアンセからはこを受け取りそして輝いたことを思い出した。夕食後私は彼女がその箱を開けるとき部屋に来てくれるように頼まれた。私はその箱の中にあった物によってミス・オエラーに起こったハプニングを決して忘れない。一つの箱の中が20の贈り物でいっぱいになっていた。すべては単純で安物であった。ドナーのポケットブックは彼の愛の融通の利かなさを表している。しかしすべての物は値札とカード(クリスマスカード)とともに丁重に縛り上げられていた。私たちは楽しんだ。私はそれらのことをすべて思い出すことができる。輝きあふれる小さな金属製の豚のことも。派手な色のキッチリ計られたテープが彼のお腹の隙間を連想させる。
 よろしい、その浮かれた晩は44年も昔のことである。私はミス・オエラーがハリファックスを去った後のことは何も聞いていない。彼女はその翌年H.L.C.(ダルハウジー大学)を去った。私は彼らの結婚生活が信仰心と愛にあふれ、ともに多くの幸せなクリスマスを過ごしてくれたことを祈る。もし彼女が今も生きていたら大変に年を取った夫人になり、そして世界は残念なことにクリスマスギフトの箱から多くの災いを引き出すことになってしまい、小さな同性愛者の豚が大きな笑い声を上げるだろう。

1939年2月12日(日曜日)
旅路の終わり オンタリオ州トロント
チェスターと私は今朝はニレの木教会に行った。献金の間私は子供のころのキャベンディッシュ教会での献金のことを思い起こしていた。教会のそれぞれの角に立てかけてある長い木製の棒や竿、コーナーの一端には暗く赤い質感の袋がある。信者がおのおのの席を立って出口に向かうとき、率直に“献金を”と呼ばわりながら長老が袋を持っておのおのの角を回る。誰もが落とす――いくばくかを落とす。この袋に1セントの献金を落とすはずである。時折街に来た訪問者が、彼の同国人のために奢って”10セントのお金を入れる”それはちょっと飛び離れたイベントである。
 かつての日々、(牧師の)給料は“献金”によって支払われていた。だれかが家族の三か月分の暮らしを回していた。たかが日曜日の説教の呼びかけで得られたわずかな献金で。ランプの油と“サラリー”で男は教会を照らし掃き清める。それはいつも10セントのお金を見せびらかすことなしに行われる。我々は教会に行き若い蠅が床にお金を落としてしまったとする。その最もいい例は我々が座っているとき恥ずかしそうな顔をして献金袋を見上げていた;恐ろしい引きずる音がしたのですべての会衆が注意を向けたところ――赤い頬をして探りまわっている――そのような不面目を犯すまいと思う。なぜ、それは翌日の学校で語られるからだ。――“モードは昨日教会で献金を落としたのよ”と。

1939年2月14日(火曜日)
バレンタインにチェスターは私にハート型の箱に入ったキャンディをくれた。それはかつての平穏な暮らしを思い起こさせる。
 今夜は私は一人だ。――そして私はコダスコープで古い映画フィルムを映してみた。それはバラクロウ夫人がグレン村の(屋敷の)ステップから降りてくるところだ。笑って話しながら! 親愛なるラックがしっぽを揺らしながらノーバルの芝生を横切って走っている。すべては美しく作られた見世物だ! それは身の毛がよだつほど恐ろしい。私はずっと後になったら再びこの映画を見たいと思うだろう。

1939年2月15日(水曜日)
私は日記に短い書き付けをすることなしにベッドに行くことはできない。なにかうまい文句はないだろうか。そしていかに良く書くか――より良く書くことは心配事の負担を和らげてくれるからだ。今日は暗く雪交じりで冷たい。ユーアンはあまり具合がよくなく、同様に私の目も大変疲れている。私は“冬疲れ”に見える。
 私はメアリ.Cの結婚式について書いた日記の古い項目を読んだ。私たちは愛らしいステキな緑色のテントで一晩中踊り明かし楽しい時を過ごした。魔法の杖を振るように、私を若い時に連れ戻してくれる。光は踊り、笑い声は輪になって続く。

1939年2月17日(金曜日)
トロントのはずれ“旅路の終わり”
夜が明ける前に私は暴力的な頭痛で起きだした。アスピリンはどこに行ったのだろう。しかし私は昨日も。毎日薬中毒のように見える。昨日トンプソン夫人(家政婦のことであろうか)が家に帰った。週末は私は一人だ。そしてそれは結構なことだ。今夜はチェスターと私はラニイメードにドクターキルダーを観に行った。そして車を借りる手続きをするために、凍えるような風の吹く道を2マイル行き、そして戻った。少しも呼吸は乱れていないように見える。完全にカッコいい老婦人ではないか!!

1939年2月18日(土曜日)
ユーアンは日々気分が悪く私は毎日非常に忙しい。しかしトンプソン夫人が今夜戻ってくる。スチュアートはマーガレットの家の夕食に出かけて行った。彼らは二人ともステキに見える。そして芝生を横切って車に乗った――彼は燕尾服で彼女は可愛いイブニングドレスであった。
 私は先ごろチェスターの“キルト姿”のスナップ写真を撮った。彼はいつもとても素敵に見える――一般の服装をする時よりも。

チェスター

1939年2月19日(日曜日)
今日の午後、私とチェスターはジョージタウンのY.P.委員会に援助のために行った。私たちは天候に恵まれず、フロントガラスに冷たい雪交じりの雨がかかった。
(出かけている留守に)私たちはミューレイを呼んだ。マリオンは大変疲れているように見える。無理もない――彼らは赤ん坊を抱えている。彼女は大変良いメイドではあるけれども可哀そうな小さなパットは少し歩き始めたところだ。――3歳と半で――彼女の目はうつろでしかと見ているようにみえない。しかし彼女は悲嘆に沈んでいるわけではない。
 私はジョー’タウンの会合を楽しんだ。そこにはたくさんのユニオン(町の名)の古い友達がいた。私はミスターアンドミセスのレジットに会った――ノーバルの牧師とその妻である。彼女はとても良い人に見える――私は彼のことをそんなに気遣わない。老婦人。ジョー’タウンのウイーラーはまた私にあえて楽しそうだ。“おお、またノーバルにいらしてくださるとは思いませんでした”と彼女は言った。私に物悲しそうに、そう。それは奇妙で不愉快な最後の2年間のことである。私は彼らとの苦渋に満ちた思い出を忘れたのか? 私ははるかな昔成功しなかった思い出を考えた。
 私たちは幾人かの若い者を家に連れてきた。それはとても不愉快なドライブであった――雨と氷である。フロントガラスのワイパーは氷を払いのけられない。そして道路は雨水で池のようになっている。私は家に帰りついて疲れた体をベッドに横たえたとき心からほっとした。
 ユーアンは大変なうつ病のままである。

1939年2月20日(月曜日)
ユーアンは今日は一層悪い。一日中重い溜息をつき、そして言う “もう終わりだ!” と。夜にはドクターレーンに徹底的に診てもらいたいと要求した。ドクターはやってきて彼に鎮静剤を与えた。彼は夜食が用意されている台所に来て私に言った。“わしは大変に難しい問題がお前の手にゆだねられてることが分かったマクドナルド夫人よ” 問題の解明は彼方に放り投げられた。19年の間それについて――たえず付きまとっているおぞましさが帰ってきた。この頃の年はもうそれについて希望を持つことはあきらめていた。ユーアンは決して元のようによくなることはない。なお悪いことに彼との間のもめごとはまったくの精神的なことだ。実のところ彼は慢性の気管支炎かメンタル関係のどちらかが冬には悪化する。彼の “ノイローゼによる成果だ” 
 今夜は私の忍耐力もくたびれ切った。おそらく最後には夜中緊張させられるだろう。

1939年2月22日(水曜日)
“旅路の終わり” トロント
ユーアンは他の医者の所に行った。今日はだれが “忍耐力を尽きさせられる” 目に合うのであろうか。彼は家に戻ってきたときたいへん青ざめてむっつりしていた。しかししまいには他の医者が与えたコデイン(鎮静剤)の錠剤を服用して正常になり希望にあふれた。しかし私は疲れてがっかりした。彼の口には恐ろしく不合理な言葉が戻ってきた(をしゃべるようになった)。

1939年2月24日(金曜日)
私はインフルエンザに罹ることを恐れる。ユーアンは他の医者の所にいき、医者は彼の考えるところの “静脈洞炎に欠陥がある“ と語った。そしてそれについてすぐ治療を始めるといった。
 私は部屋に書物を持っている。それは今宵私に少しばかりの幸福を与える。

1939年2月27日(月曜日)
インフルエンザで疲れ切った三日間をベッドで過ごした。そしてなおも気分はかなり悪い。そしてなおベッドにぶっ倒れ、あわれなEが “よくない兆候の” 詳細な情報を繰り返していることに耳を傾けた。そしてインフルエンザによる鬱な気分との激しい戦いが戻って来た。
 今夜はアルダスを読もうと思う。私はこれのコピーを1896年に買った! それはたくさんの事柄から芯を掴むことができない罪により、あなたを虜にすることができない。彼女はユーモアのセンスが致命的に欠如している。
 かつての日記に我々は冷たく “陰鬱な” 冬を持ったとある。私たちは猛烈に春が来るのを望んだ――もし私が大胆ならば。私が春をめざしてまっすぐに進んでいくことを大胆に望んだことがなかったとしたら不思議なことだ。恐らくそうではないだろう。
 ユーアンは再び彼の “恐怖症” のため苦しんでいる。そして床の上を絶え間なく歩いている。私はこの困難を耐えることを望む。しかし私も半分病気なのでそうすることはできない。私はこれまで一度も可哀そうなアマンダにこの憂鬱な状況を書き送ったことはない。

1939年2月28日(火曜日)
毎日咳ばかりで疲れ切った時期にきたと思う。
世界はジョークから離れることはできない。
 私は少し古びた1801年度版、黄色の子牛の皮で装丁されたヘクターマクニールの詩を読もうと思う。それは彼の詮索好きを表している。彼は世界を愛をこめて抒情的に書いている――さもなくば記述に値することは何もない。彼の韻律はすべて無駄に踏まれている――バイロンの“イギリスの鳥とスコットランドの評論家”が気に入り影響されて喜んでいる。しかし“私の肩掛けの下に来い”、“私のちっぽけなことを見よ” と “しかしアン、私は娘の近くに寄る”はこの上なくすぐれて永久不滅である。
 ヘクターマクニールは私の曽曽祖父であるジョンマクニールの最初の親類である。本の初めの口絵に彼の肖像画がある。彼はハンサムな詩人だ。私はその肖像がオリジナルの版画であることに驚く。彼は決して結婚しなかった。しかし私は彼が“二人の純粋な息子”を持っていることを知っている。ヘクターは彼の人生を同性愛者の片割れとして過ごしたが、私は彼がほかの小娘にも近寄っていたことを恐れる。彼の抒情詩を軽蔑する。私は彼の改まった経歴の裏に長らく忘れていた苦しみの感情と憎しみが沸き上がっていたことに驚く。彼は1818年に死んだ。私は彼の墓がどこにあるか知らない。
 私はその中に一行の面白い言葉を見る――“私の肩掛けの下に来い”――“彼らは共に横たわる” この80歳の年寄りのとんまなこと! 私が以前見たか聞いたかした他の版ではこの部分は“年寄り、彼らは肩掛けを取り上げた”などとなっている。
 私の今持っている版は古い土地の2番目の本屋で私が取り上げたものだ。見出し語に鉛筆で“A.W.1809”と記してある。A.W.とはだれなのか? そして彼か他の誰かかが142ページの詩編にアンダーラインをひいたのであろうか?
     おお汝の性質は最も恩知らずだ
     そして愛と私にとって最も不公平
     おお驚くべき婦人よささやかな風よ
     ハープの音は再び調子をあわせることはない
 100年前の恋人を捨てた小娘の理由はこの傍線部にあるのか。
 私は二枚のラック(死んだ猫のこと)のスナップ写真を見つけた。それで私は悪い考えに取りつかれることはなくなった。小さな一枚は窓のところにいる“大変な幸運”である。他の一枚はピンボケでライオンのように見える。しかし彼の美しい前足がそこにある。“おおラッキイ”愛しい小さな相棒よ。もう一度お前の絹のような体をこの腕に抱けたなら。

1939年3月3日(金曜日)
私は一日中不愉快に過ごした後切れない咳でみじめな夜を過ごしている。しかしそれは暖かい日の照る日で、ユーアンもいくらか気分がよく――そのあとストークス社のミスクインがR.K.O.映画社でアンオブウインディポプラを映画化したい、そしておそらくアンの夢の家も!!!、と手紙で知らせてきた。なぜこのような良い知らせが今起こったのか。それは私に希望を抱かせた。4年のあいだストークス社はそれらの本の重要なプロダクト(映画化)について何の試しもしなかった。私はそれらの本にすべての希望を託していた。

1939年3月4日(土曜日)
今夜アーネスト・ウエッブ(アンのモデルになったマートル・マクニールの旦那)が二週間のバカンスのためにうちに来た。彼の人生のうちで初めてのことである。私たちは彼と夕食を摂りそれからM's(マートルのことか)が来て彼を連れ出した。島から来た人に合うのはいつでも良いことだ。

1939年3月6日(月曜日)
私はA of I (アンオブイングルサイドのことか)のいくつかの章をタイプで打ち始めた。
これは教会紙に連載するイングルサイドの歴史である。私は少し気分がよいように思えたが、しかしまだ疲れやすい。
映画の権利について考えないようにしているが、考えないことは不可能である。咳が出て眠れなかった昨夜は、私の考えはぐるぐる回っていた。
すべてが解決するまで、このこと(映画化のこと)について一言も聞かなければよかったと心から思った。
 ユーアンはよい状態を保っている。しかしいくつかの医者を掛かり回っているが、いかなる医者の療法と薬が彼の精神を立ち上がらせてくれるのか私にはわからない。彼はこの点についてまったく受け付けない。

1939年3月7日(火曜日)
“旅路の終わり”トロント
昨夜は素晴らしい眠りについた......祝福された癒しの眠りであった。午後ストークス社から手紙が来た。私はそれを開くのを恐れた。それにはR.K.O.映画社か“今週の初めに”決定すると書いてあった。サスペンスには耐えられない。よく寝たにも拘らず、私はまだ引きずっていて、生命力がなく、咳がひどい。

1939年3月8日(水曜日)
悪い夜だ。頻繁に咳が出る.。ユーアンが自分のことをしゃべりながらあたりをうろついていたので良く眠ることができなかった。しかし、ストークス社からの連絡があった。R.K.O.はウィンディ・ポプラースとハウス・オブ・ドリームの映画化の権利金として7500ドルを提示しているとのことだ。
私は10000ドルを希望していたが、今では風と共に去りぬのような大作を除けばそのような大金が支払われることはほとんどない。
私はカナダとイギリスでの映画化の権利を持っている。

1939年3月9日(木曜日)
前日はずっと雪であった。このように冬の季節はいつも退屈である。
私はまだ疲れて元気がなく、タイピングの間に頻繁に休息をとらねばならない。この咳が治まればいいのだが。
でも今週はユーアンはずっと良くなっていて、頭の中で声が聞こえると言う話をしなくなっている。

1939年3月10日(金曜日)
今日は、大きな出来事の後に必ず訪れる、人生の転換点のような感覚に包まれた一日だった。
そして、数週間ぶりに自分らしく感じることができた。病気になるのは恐ろしいが、しかし、良くなることがどんなに素晴らしいことかを知るために、病気になることは本当に価値がある。
今夜の夕食で、チェスターは「次の冬にはここにはいない」と言い放った。もちろん彼が成功すれば(この家にはいなくなるだろう)、そんなことはないのだが、それにしても、まるで "跪く"ような言葉です。
私の胸に運命の鐘のような音が鳴り響いた。何はともあれ彼が去るのを見るのは恐ろしいことだ。そして、どこに彼はどこにいくのだろう? どこに居場所があるのだろう? この問題は私に重くのしかかる。

1939年3月17日(金曜日)
寒い嵐のような日が続いています。水曜日にはラクナウに行きブックフェアで講演をしたのだが、その終わりに吹雪になった。私はジョンソン博士とその奥さんのところへ行った。とてもいい人たちだが、家がとても寒い。その行きも帰りも電車の乗り継ぎが悪く、とにかく今日は家にたどり着いた。疲れがたまっていてキレそうだった。でも、リーブズでのユーチューブゲームに行ったがユーアンはかなりノロノロしているようだったが、私は時々より楽しめた。

1939年3月21日(火曜日)
「ジャーニーズ・エンド」 オンタリオ州トロント
昨日の昼過ぎに、完成した『Anne of the Year』のMSを持って街に出た。イングリッシュサイドのマクレランド氏(出版社の社長)のところへ。ヒトラーがチェコスロバキアを占領して、新しい戦争の恐怖が迫っている。このような「危機」の繰り返しが、世界の神経を逆なでしている。世界中が憎しみと恐怖と不信に包まれ、その解決策は見出せないままだ。
権力にまみれた独裁者が破滅的な国を支配している限り、解決は望めない。私の夢である「偉大なる腕」は、秩序をもたらす前に介入しなければならない。ヨーロッパというカオスは、戦争によって介入してくるのではないかと恐れている。
私は昨夜、汽車でオレンジヴィルに行き、「緑のアン」の劇を「公開」した。「赤毛の人」は地元のキャスト。まだまだ寒く、「早く帰りたい」と思った。
今日、喜んで家に戻った。スチュアートが、もし戦争が始まったら、5年生の生徒たちは、戦争に参加する必要はないだろうと言った。6年生は海外に派遣し、帰国後に卒業させるというものだ。
先の戦争も恐ろしかったが、こんなことになるとは......。まあ、他の何千人もの人がそれに直面しなければならないのだ。

1939年3月22日(水曜日)
今朝、子供たちと一緒に新しい春物のコートを買ってきた。かなりいい物。自分のことに少し関心が持てるようになったのは、むしろ喜ばしいことだ。この2年間は、自分が何を着ているかなんて気にもしていなかった。そんな時、私はノラと一緒にランチして、グンガ・ディンを観に行ったんだけど、これがなかなか面白かった。キプリングもグンガ・ディンも、見たら驚いただろうが。ということだ。私はノラと一緒に家に帰り、満足のいくおしゃべりをした。
チェスターが来たとき、というのも、彼は今日、新しい口頭試問を受けたからだ。今年から導入されたもので、私は一日中ハラハラドキドキしていた。
しかし、彼はその中でかなりうまくいったと思っている。
家に帰るとストークス社から手紙が来ていたのだが、今晩は開けるつもりはない。今夜は動揺するようなニュースがあるかもしれない。契約は実際に結ばれている。

1939年3月23日(木曜日)
今日は今日は春めいて気持ちがよい日だ。私はストークス社からの手紙を開き、座って書いている。私たちの契約では、ストークスの映画化権で得られるかもしれない金額の半分が、合意されたのだと思う。イギリスとカナダの著作権は全部私にある。ということは、予想より1,500ドルほど多いということだ。
チェスターとドラムスを観に行った。ハイランド人がそこにいる。いつもドキドキします。きっと私の血も彼らと同じだろう。

1939年3月26日(日曜日)
チェスターからルエラと子供たちを夕食に呼んで欲しいと言われていた。今日は子供たちと一緒に夕食を食べた。
私は今までそうだったように喜んでそうした。昨夜は拷問だった。彼は今朝やってきて私たちは楽しい夕食を摂ったが、残念なことに、アクシデントがあったという感じだ。リトル・カム(モードの孫)が私の大切な陶磁器の犬を拾ってもうひとつの犬「ゴグ」の上に落としてしまった。
暖炉前のタイルに頭も肩も粉々に砕け散った。
私は涙をこらえるのがやっとだった。それはいつもと同じように、彼の手の届かないところに置かなかった自分の責任だ。私はずっとその犬たちが好きだった。私が買ったのは結婚旅行でヨークに行ったとき。彼ら(犬の置物)は当時98歳。そして、それを私より先に愛したのは誰だろう? その人は売ってくれた人が言うには、この作品はある老人の家の調度品。最近亡くなった乙女チックなヨークの女性、彼女も愛用していたのだろうか。
そして、その平たい金縁の暗い目? 片方のゴッグの目は文字どおり破片になっている。(重重しい名前を付けているようですが、狆のような犬の陶器なんですね)


     この間未訳


1939年5月16日(火曜日
昨日、C.(チェスター)は "Conflict of laws"(法に抵触する問題の試験)を受けたが、まだ自分では簡単だと思っている。
今日はいい天気だったので、午前中にS.M.と一緒に街へ行った。ノラと一緒に昼食をとり、「ワザリングハイツ」(映画であろう)を見に行った。いい絵だ。とても悲しいのだが、本の持つ稲妻のような迫力がない。それから、私は一緒に家に帰った。ノラは夕食まで居た。彼女はとても孤独で、とても勇敢だ。私たちは近くに住んでいる。

1939年5月17日(水曜日)
チェスターは今朝、抵当権を設定し、「いつものように悩みに悩んだ末に過ごした」。愁嘆場。本人は「大丈夫だと思う」と言っていたが、私は「大丈夫ではない」と感じていた。他の人に比べて自信があるようだ。もう一人しかいない。
今夜のユーアンは少し明るいようだ。

1939年5月18日(木曜日)
午前中は頭痛がひどく、一日中体調が悪かった。
ストーク(出版社)からのエアメールの手紙には、署名すべき別のR.K.O.文書(映画会社との契約のことであろう)が含まれていた
今日の午後、チェスターは証拠調べの試験を受けたが、大丈夫だと思う。最後の試験だ。そんなことがあり得るのだろうか? 私が経験した苦悩は
1930年以来、彼の試験に関して! 彼にその価値はない。しかし妻や家族がいるのだからそれを支えるために、何かできることがあるはずだ。しかもその頭脳は働いていれば(怠けていなければ)第一線で活躍できるのに。まあ、それはそれで仕方がない。
今夜はリーブズがユークレに来たが、私はとても疲れてしまった。

1939年5月19日(金曜日)
今日はスタディクラブのメンバー全員でウィットビーに出かけて、ミセスとランチをしました。荒くれた楽しいドライブ、素敵なランチ、そして楽しい午後を過ごしました。それ等のすべては、私は一時的に私が永久に何であったかが分かった、(開放感を得たと言う事であろうか)
笑い、物語を話し、久しぶりにキラキラと輝いていました。内心、自分の気持ちと対比して昨年の同じ日のことである。あの日は、恐怖の戦慄が走った。ひとつだけ、少し傷ついたことがある。ロバーツ夫人が笑って言った。しかし今、彼らは私をクラブに誘い、「私をとても恐れていた」。私も自分たちの仲間だと、それはそれでいいのですが、私は(私の職業を理解する人が)誰もいないと思うのが嫌だった。人は皆怯えなければならないのだ。女性がそのような物書きの仕事で他人のことをあれこれ書くと言うことは、その人は畏怖の念を抱かせる生き物であり、人々はそれを本当に心地よいと思えないのだ。
ユーアンは今日の夕方、階段の最後の3段から落ちた。大したことはなかったのだが神経質な悪寒がする。今晩は不思議なことに、その一つを体験した。

1939年5月20日(土曜日)
「ジャーニーズ・エンド」トロント
チェスターは今日、"召集"(弁護士試験)のために署名しなければならない書類を家に持ってきた。なんと通らなかったら大変だ。彼の友人、ドナルド・F・ダウニーは今日こう尋ねた。
もし、彼をパートナーとして迎え入れたら、会社にどれだけの資金を入れられるか!? 彼は、しばらく前から宙に浮いていた。私には、あまりに幸運なことに、それが真実であるように思える。
ダウニー氏は15年のキャリアを持つK.C.(弁護士)であり、良い仕事をしていると言われています。何はともあれチェスターの(弁護士としての)最初の数年間は、このような後ろ盾があれば、とても素晴らしいことだと思います。

1939年5月22日(月曜日)
この日誌では何も言わなかったが、私たちは皆この日誌を読んでいる。
カナダでは、国王夫妻の訪問により、大変な盛り上がりを見せている。女王。今日彼らはトロントにやってきました。チェスターは第48軍に所属しハイランダーズ(カナダ陸軍連隊の名)は、そのルート上にある連隊の1つだったので、彼は非常によく見ることができた。その代償として約10時間、容赦なく立ち続けなければならなかった。
そしてそのあとは、Bloorにあるレーン博士のオフィスのベランダに招待された。その日は曇り空で、雨が降りそうで降らない。私たちはジョージ(英国王)とエリザベスをじっくりと見ることはできないがよく見える。彼女はとても可愛らしくどこまでもハートを掴んでいる。

1939年5月23日(火曜日)
今日、チェスターが会社から帰ってくると、ダウニーさんが気楽に話していたそうです。パートナーシップを組み、支店を開設する。顧客開拓の中心地であるニュー・オンタリオにある事務所です。私は少し動揺しています。チェスターは(弁護士の)経験もないのに、そこに行くのに適しているのだろうかと疑問に思う。しかし、そこは「若者の国」であり、おそらくははるかに良いチャンスがあるのです。混雑している高齢者向けの州より、そちらの方がいい。だから、私は何も反論せずダウニー氏がそこに行くのが一番賢明だと思うのなら、彼はそうした方がいいと言った。
ユーアンがこのような危機(息子の仕事の問題)を得意とするならば!」。しかし、彼は全く無関心です。彼はただ、自分自身の様々な「症状」と「来世への不安」だけが気になる。今(の暮らし)」は彼にとってはどうでもいいことなのだ。

1939年5月25日(木曜日)
今日、医学の試験の結果が出たが、スチュアートは合格していた。彼はかなり確信を持っていた。そのため、例年のようなハラハラドキドキはない。それでも確信が持てたので、ほっとした。

1939年5月26日(金曜日)
"ジャーニーズ・エンド"、リバーサイドドライブ210A、トロント
今日の午後、郵便配達人が薄い封筒を軽蔑したように玄関の前庭にポンと置いた。その中には、R.K.O.(映画社)から7500ドルの小切手が入っていた。
もちろん、このうち750ドルは広告代理店に、1700ドルほどはストークス社に支払われる。残りの5000ドルは、私たちの車の購入費用としてとても重宝する。もしこれがなかったら、私はお金を借りなければならなかっただろう。今まで1ドルも借りたことがない。
今晩は素敵な夜だった。渓谷が紫色に泳ぎその上に作業している。(空が景色に趣を加えていると言う事か)
庭のそして、昨年の春にトンプソ夫人がいたことを切なく思った。一緒に鍬を入れ、比較し、語り合った。それは退屈で、苦痛だ彼女の欺瞞(的な発言)。しかし、私はそれを(庭を)見るために自分自身を持参する(足を運ぶ)必要がある、人生には必ず起こること、そして乗り越えなければならないことがある。

1939年5月27日(土曜日)
チェスターがオフィスから帰ってきてこう言ったので私はとても驚いた。ボガート氏が、彼とパートナーシップを結び、北に支店を開設してほしいと頼んできた。ボガードが私のことをあれほど悪く言っていたのに理解できない。過去にチェスターは彼と一緒に行ったことはない。ボガードは曲者で、こう呼ばれているそうだ。"チゼラー" と、非常に不可解なことばかりです。私自身はダウニー氏が好きです。
ボガートとは苦い思い出があるからだ。しかし、すべてが心配だ。
今夜はバラクロー夫人が週末に来た。彼女が言うにはあるNr.と過ごした日々。ランダル夫人との関係は、私とほぼ同じである。トンプソン夫人にそれでお互いに弔い合いで、二人とも気分が良くなった。(お互いに嫌な人間のことを話し合ったのか)

1939年5月28日(日
ユーアンは一日中とても元気がなく、「腸が焼けつくような感じがする」と訴え続けていた。B夫人と私は教会に行き、帰宅して夕食をとったときトンプソン夫人の横暴がまた見られた。彼女はまるでマーガレット・ラッセルがいたときと同じように、夕食をテーブルに並べ、それから私はそれを待つために残されたまま2階へ逃げ込んだ。しかし、もっと悪いことがあった。私は2つの夕食の鶏肉。鶏は食卓に並んだが、あんなにボロボロでそのうちのひとつは トンプソン夫人は1つの側面をほぼ丸ごと切り落としたのだ。(トンプソン婦人は勝手にマクドナルド家の家事をしたのか)
自分とジューンの夕食、ジューンのためとはいえ、その為にこんなことを我慢するなんて、私はなんて馬鹿なんでしょう。

1939年5月29日(月曜日)
「ジャーニーズ・エンド」トロント
夕方から植木を並べた。ロックガーデンはとても素敵になったし、私の蔓性植物が家を覆い始めている。貧乏なユアンが通っている無数の医者の中で一番新しいブカン医師のところにはこの一年、通っていたのだが、今日、ぶっきらぼうに「何もできない」と言われ、そのためその結果、ユアンはひどい晩を過ごすことになった。神経性喘息の発作を起こし
一晩中、馬鹿みたいにわめき散らしている。「もし彼が王様かお金持ちだったら、お医者さんたちは(もっと丁重に扱うだろう)といった具合に。哀れな医師は請求書を発行させる代わりに、本当のことを教えてやった。(神経症には打つ手はないと言う事)

1939年5月30日(火曜日)
今夜は、心配事を全部片付けて、年次プレス・クルー・メンに行った。いつも楽しい行事で、とても楽しかった。
今日、ボロボロになった古いスクラップブックを見ていたら、ブライオンの写真が出てきた。12歳の時の自分の髪 というわけで、ここに保存しておくことにする。スクラップブックがボロボロになりそうだ。
美しい金色の茶色。大人になるにつれて黒ずんできて、とてもきれいな茶色になった。幼い頃、学校に行くときはいつも2本の髪を結んでいた。首の後ろで輪っかを作ってリボンで結んでいた。日曜日は太い三つ編みを1本にして背中に垂らすか、1本の三つ編みの部分を大きなリボンで結ぶかどちらかにしていた。
10代の頃は、当時はほとんど一般的だった「カドガン」の三つ編みをしていた。それは、シオンズ自分の髪がひどくまっすぐであることが悲しかった。私は、髪をくしゃくしゃにしたりした、私はカールアイロンを見るのは初めてだった。祖父と祖母はカールアイロンを持たせてくれなかった。これは小さな悲劇だった。
同年代の子が皆そうであるように何かを共有することが必要だ。私には何が必要か、私の高すぎるおでこを和らげるためのものだ。
{髪が長くて、長くて、長くて。房が厚い。ゆるゆるで、私の体まで届いている。膝のあたり。今でも髪の毛はふさふさだ。この歳で。でも、もう財産にはならない。
ボブヘアーが一般的な時代だ。15年前に一度、私は(そうしてみようとした)しかし、息子たちが反対し、またユーアンはそれが嫌だったのだ。男の子は
ユーアンには全く関係ないが。でも今は髪を切らないことにした。もう私の年齢でボブヘアーになる女性はほとんどいない。それにまともな見た目を保つために、時間をかけなければならないのです 私はそれを(時間を)無駄にはしない。

1939年5月31日(水曜日)
「ジャーニーズ・エンド」トロント
チェスターは、今日中に試験の結果が出ると確信していた。で書けなかった。
ユアンは「熱」治療を受けている。別の医者からで、かなりを、「治る」と確信している。

1939年6月2日(金)
昨日もサスペンスな一日だった。緊張が走る。今日、チェスターは行かなかった。
というのも、彼は今週中に結果が出るかもしれない。だから? 結果を電話する人がいた。
しかし、私はそうした。私は、まるで一回転したように立っていた。一人です。少年の一人だった。
チェスターはスルーされた。このように、"まともな "パーセンテージで、"まとも"なのです。
部屋に戻って座ると、手足が震えたが、何も感じなかった。プレゼンテーションを行う。もしチェスターがセントアンドリュースを出たときにロースクールに行き、卒業できていたら
5年という短い期間で卒業できたことは、とても幸せなことだった。しかしでも、ほとんどひどい安堵感しかない。彼は卒業したのだ。彼には学歴がある。
職業を得ることができるはずであり、もし彼がそう願うなら、それは常に彼のものである。私は、彼に関する限り、決して心配する必要はない。
試験の結果、きっと他の心配事が出てくるだろう。チェスターを信用することはできない、残念だ。しかし、このような特殊な試練を乗り越えられるのは
プレゼンテーションは終わりを告げた。
私たちは方法と手段について長い間話し合い、今日の夕方、彼がノーヴァル リーブズが来て、私は妙に軽い気持ちでプレイしていた。信じられない気持ちです。終わるはずがない!」と。
ユアンは一日中、湯たんぽをベッドやソファにくくりつけて横になっていた。額に十数個の症状を訴えながら。しかし、リーブズが来た途端、その晩彼はすっかり元気になり、とても陽気で普通だった。ちょっと大変だ。我慢してください。心配なのは、息切れの発作だ。ただの神経が原因かもしれないし、心臓の病気かもしれない。しかし、どの医師も心臓に異常があるとは言っていない。

1939年6月4日(日曜日)
"ジャーニーズ・エンド"
昼食後、チェスターはノーヴァルに挨拶に行き、家族を連れてきた。ルエラはとても素敵で幸せだった。かわいそうに、この5年間辛い思いをしてきたんだろうな。チェスターが埋め合わせをしてくれるといいのだが。
子供たちが来ると、ジューンは子供たちと一緒に走り回り、遊び始めた。彼女はいつもそうだ。部屋にいたトンプソン夫人はすぐにカルフォルニアに向かった。ジューンは自分のところへ行き、ドアを閉めた。ジューンは二度と姿を見せなかった!
チェスターの合格を祝って、私たちは外出した。クックスビルのクロフトンビラで夕食をとった。すべてが素敵で、ごく普通のことだった。みんな元気そうで、チェスターはとてもいい人で、自分の子供たちをとても誇りに思っていた。カム。とても愛おしい存在だった。ウェイターたちは皆、彼のために大騒ぎをした。プッシーは明るくて可愛い。遠くへ行くなんて嫌だなぁ。
夕食後、私たちは彼らを家に連れて帰り、田舎を横切って楽しいドライブをした。ノーバル。景色も素敵で、少なくとも私たちは一時的に幸せだった。私たちがノーバルを抜けて戻ってくると、雪の下でスピレアが咲いているのが見えた。
帰りはとても楽しいドライブだった。チェスターとのドライブが恋しくなる。彼は運転中はいつもベストな状態で、とても楽しい仲間だ。この影は私たちの間にあったものがなくなりました。ああ、神様、彼らが二度と戻ってこないことを祈っています。

1939年6月5日(月曜日)夕方
チェスターとMrダウニーは今日、パートナーシップについて合意に達した。私は2000ドルを出資する。ああ、うまくいくといいなあ。
ジム・キャンベルから"輝く水の湖 "のカードが届いた。写真家たちはキャベンディッシュではなく、パーク・コマー・ポンドであることを、ついに理解したようだ。"私は彼に期待する。

1939年6月8日(木曜日)
ユーアンはここ数日、とても元気そうだ。頭も気にならないようだ。
今日、チェスターが彼のプロフェッショナルなカードを何枚か持って帰ってきた。私はそれを見て不思議と非現実的な感じがする。
チェスターは今日、私が彼の財政的なスタートを切ったとき、私にこう言った。母さん、こんな風に助けてもらって、ボクがどれだけ幸せだか自分でわかっていないだろうなんて思わないでね。
我が家の若い猫 "スモーク "は、良い猫の行くところへ行ったようだ。ある日突然外に出て行ってしまったのだ。数日前の夜から一向に帰ってこない。今まで猫を失ったことはなかったが、惜しさのかけらもない。逆にホッとしている。好きにもなれなかった。彼は何の魅力もない猫。彼とッキーを一緒に考えるなんて、とんでもない。同じ種に属しているとしても。(モンゴメリーはラッキーを特別な猫だと考えていたのでしょう)

1939年6月13日(火曜日)
ユーアンは元気でいる。なんということか。チェスターの居場所の絵に、突然の変化が訪れた。結局、Mr.ダウニー氏は、チェスターが北に行かず、ここにいるのがちょうどいいと考えている。リッチモンド・ヒルは空きがあるそうです。どう考えたらいいんだろう。錫を使用している。//チェスターがリッチモンド・ヒルで練習を積めば、もっと良くなるはずだ。
遠くへ行くよりも、私たちのために。しかし、それは非常に大きな "もしも"だ。そこにはすでに弁護士もいるし、大きな町でもない。しかし、ダウニーさんは知っているはずだ。
私は副鼻腔炎により数か月の間、頭から鼻に抜ける不快感で考えがまとまらず、イマジネーションもバラバラになった

1939年6月15日(木曜日)
"旅路の終わり"
昨夜は素晴らしい快眠でした。そして今日は召集日だった。チェスターが弁護士として召集されたとき。ユーアン、スチュアート、私の3人で行ってきた。私は何も感じなかった。もし状況が違っていたら感じたかもしれない高揚感も、結局のところ私はちょっと嬉しくて興奮せずにはいられなかった。チェスターはガウンがとてもよく似合っていた。それは彼が弁護士の姿になることだ。すべてが興味深かった。
今夜、彼とダウニー氏は署名した。パートナーシップの定款を作成した。チェスターは週37ドルの給料と利益の一定割合を得る(仕事を取った場合)。支店はもちろんしばらくの間利益は出ない。しかしこのレートなら、もしかしたら1年後には私がチェスターの新しい事務所のために2000ドルを出資した甲斐があったということになるだろう。
不思議なことに、ボガート氏から今夜みんなが出かけている間に電話があった。ユーアンが電話に出た。ミスターBはチェスターがうまくいったことを祝福した。
私をうまく使って、不思議なことに成功は私にかかっているとのこと。そしてその結果良いスタートを切ることができた。もっと不思議なのはチェスターに電話したことを話すようにユーアンに頼んだことだ。なぜ? 警告だと思います。ダウニーさんと一緒に行くのはやめた方がいんじゃないかというのだ。
またどうして? もし私がその場にいたら(ユーアンが電話に出たとき)Bさん(ボガード氏)にもっと説明するように要求するということだ。嫌なことばかりだ。(ボガード氏はチェスターの親が作家で裕福だから、弁護士にでもなんにでもさせてもらえるのだろうと言ったのか)(チェスターにそのように皮肉を言ってやれと言う事か)
おそらく彼は(B氏は)誠実なのだろう。そして、もしかしたら彼は本当にチェスターが弁護士になることを阻止しようとしているのか。
ダウニーと一緒に就業を完遂させるというのは、それは非常に不可解なことだ。フリーデがいればよかったのに。私は彼女と一緒に行くために生きている。
今日、召集令状が届きました。彼女は、「リトル・パンチ」をとても愛していたのです。でも、彼女がどんなに辛かったか知らなくてよかった。(フリーデの恋人も召集されて戦士していた)私たちの期待を裏切ったのです。私の部屋は薄明かりで、彼女は壁の絵から私を見下ろしている。
パークコーナーの小道にある白樺。妖精の呪文を口ずさむことができたら彼女の横で写真の中に飛び込み、昔の私たちを見つける。
人生が重くのしかかる前に。私たちはあの赤い池に出るカーブを曲がった小道と、その先にある橋。11月の夜、これが最後の散歩となった。そして、帰ってきたら、もう暗くなっていて、光がきらきらと輝いている。古い台所の窓から、白樺が銀色にささやき合っている。年だ。
      フリーデ
      笑顔で歌い、生きているから
      他の人と同じように
      彼らは不思議そうに見つめながら言う
      あなたを忘れてしまった。
      彼らは知らない、笑いは
      私が身につけるべき衣服
      孤独の波が押し寄せるとき
      私の精神は丸裸にされた
本当だ。フリーデが亡くなって20年、その間に彼女の喪失の痛みは、耐えられるようになったが、決して止むことはなく、これからもないだろう。いつか本当にあの絵の中に入って、彼女に手を差し伸べるまで。彼女が影の中に立ってこう言う。私たちの断絶の年月はまるでなかったかのようになかったことに
私には見えるのような色合いです。私のところに来た日に「パパからパパへ"親愛なるモードちゃん" それはその時の流行は"パパ "と "マンマ"
そんなの聞いたことないという言葉があります。それは"ビクトリア朝" でも "パパ "はいつまでもとても甘美に響きます。彼は私の誕生日を決して忘れなかった。
私の子供時代には、誰も覚えていなかったのです。このカードを開いて、彼の姿を見るとき、年月を越えて彼の愛が伝わってきます。親愛なる "パパ "へ!!!

1939年6月17日(土曜日)
トロント、リバーサイド・ドライブ210A
イングルサイドのアンのジャケットのデザインが今日ストークス(出版社)から来た。特にこの画家は「アン」をばかばかしいほど若く見せている、「商売」のためだ。ということなのだろう。
Grosset and Dunlap社から『青い城』復刻版が送られてきた。これは、かなり魅力的だ。私の本がすべて再版されることになっている。
みんな出かけていて、とても寂しい。今夜は私一人。
Tさん(モンゴメリの家に寄留していたトンプソン婦人)の行動で受けた古傷がまた痛む。この3年間、私はずっと私を憎み、私を侮辱した女と、この数ヶ月一緒にいのだ。私が馬鹿だった。6月だろうがなんだろうが、すぐにでも彼女を追い出すべきだった。(トンプソン婦人は6月にモードの家を出ると言った)
最悪なのは、もう誰も信じられないという気持ちだ。(がさつなトンプソン婦人がモンゴメリを辱めることが多かったと言う事)
もう一人、チェスターはもうすぐいなくなるし、ある意味ありがたいことだ。(チェスターも厄介をかける息子だと思っていたのだろうか)
彼にとってはそれが一番だろう、しかし私は彼がいなくなるととても寂しくなる。スチュアートはほとんど家にいないし、チェスターは良い仲間だ。以前、人は年を取るとこうなると言われたのを覚えています。若い時のように強く感じないのだ。まあ、私はまだ、そのような何も感じないという幸せな状態。
J(夫であるユーアンの事)は今夜、古い本である「グレのいる家」を再読しています。こんなにも悲しい本、こんなにも苦しい本! この本は極端だ。
これほどまでに卑屈で卑劣で忌まわしい人間の集団がどこにあるのだろう。1人や2人はまともな人がいるはずだ。でも、とても力強くて、すべてが痛烈に刻み込まれていて、私を苦しめた。(痛烈に書かれていることがモンゴメリの心には響くと言う事か)
自分自身と同じようにさびしさを感じる。カイリヤード校の反動で書かれたものです。しかしボニーブライアーブッシュの人々は、私が見つけた現実の人々に近いです。
トンプソン夫人一人につき十数人のまっとうな忠誠心を持つ人がいる。私はそれを知っている。だが今夜だけは、それを感じることができない。ローラがかつて持っていた昔のクリスマスに送ってくれた古いカードをここに置いておく。私はそれを出来る限り保存したいと思う。私は今日、グリーンシャッターの中にあるのを見つけて、そこに入れておいた。しおりです。イルはそこにあるべきものではない。

1939年6月19日(月曜日)
今日は素敵な日だった。よく眠れたし、一日中元気だった。
私は ジム・キャンベルからの手紙によると、エイミーに息子ができたそうです。彼女は幸せな結婚をし、アメリカで看護婦として大成功を収めた。彼女にアメリカに行けとアドバイスしてよかったと思う。彼女は家では何の役にも立たなかっただろうが、病院の規律に従うことは彼女を一人前にした。私は彼女に行くよう勧めた後、非常に多くの疑問があった。
彼女は母親に、もし私が行くのを勧めないのなら、行くのをあきらめると言っていたということだ。しかし結果的にそれは正しいアドバイスだった。他のこともそうであってほしいと願うばかりだ。

1939年6月20日(火曜日)
“旅路の果て”
今夜、夕食のとき、ゼファー(町の名)の(引っ越し屋の)トラックが家の前に停まり、私たちを乗せて行った。Tさん(モンゴメリの家に寄留していたトンプソン婦人)の家財道具をすべて載せて去っていきました。それを見て、私は嫌な予感がした。彼女がかわいそうだ。彼女は哀れな愚かな生き物で、判断力が全くありません(彼女は愚かなので嫌いだけど憐れんでやらねばならないと言う事)(人間を虫けら並みに呼ぶモンゴメリ独特の蔑みであろう)。
ユーアンはここ数日、とても不機嫌です。しかし、彼は本当に悪いことをしたことがない(不機嫌だが善良な男だと言う事)。甲状腺の治療を始めてから私は今でも毎日半粒のタブレット(錠剤)を与えています。スチュアートはそれで十分安全だと言っています(病気にも効くだろうと言う事。モンゴメリの次男スチュワートは医者になるために医学の勉強をしていた)。

1939年6月23日(金曜日)
ダウニー氏(弁護士事務所の所長)は現在、C.(モンゴメリの長男チェスターのこと)がオーロラ(トロントの北にある町)で起業する方が良いと考えている。
リッチモンドヒル(郡の名前)。私は、彼らが永久的な決定を下すことを望む。私はそこに良い口(弁護士の依頼が多いこと)があると信じている。そこは小さな町に過ぎない。 その町にはすでに3人の弁護士がいて、トロントで仕事をしているにもかかわらず、そちらにも事務所を持っている。 今日の午後、スチュアートと私はグレン(村の名)に出かけ、グレンのハウスで夕食を食べた。 私たちはノーヴァルを通り、駅前通りを登っていった。頂上で見下ろした ノーバルとクレジット川の有名な景色を見ながら、私は初めて見たときのことを思い出した。 それは、バラと金色の(空のことであろう)3月の夕方、ユーアンと私が車で移動しているときに見たものだ。 ユニオンへ向かう途中、ふと立ち止まって見下ろしたのだった。その夜、私たちはとても幸せだった(かつての時)。そして 今となっては苦い思い出である。その苦い思い出はすべての年月を毒している。 その前にあったことをより多くの人に知ってもらうために。
私たちはグレンで楽しい時間を過ごした後、アンドリューで行われたガーデンパーティに行った。私が朗読の約束をしていたマクドナルドの家。私はまた、自宅のようにくつろぐことができた。
私に会うのをとても喜んでくれた素敵な女性たち。そしてスチュアート(モードの次男)と私は夏の夜のドライブを楽しんだ。彼はあまり手のかからないとてもいい子だ。

1939年6月24日(土曜日)
落ち着かない夜が続き、一日中あまり気分が良くなかった。ダウニーとチェスターはオーロラへ行き、そこに支社を開くことにした。これでいいのだろうか。
でも、どうしても不安なのだ。

1939年6月25日(日曜日)
今日の午後、ルエラ(モードの長男チェスターの妻)と子供たちがやってきて、みんなでオーロラの事務所にするのによさそうな建物を見に行った。私たちはそこを借りることができるかもしれない。借りられるといいんだけど。オフィスが併設されている。元医師の住居なので、とても安くて便利だと思う。
帰宅
ダウニーズ。彼はとてもいい人で、きれいな場所に住んでいるようです。彼は良い(道具か何か)を持っている必要があります。このままでは練習ができない。
今夜、バルコニーに出ると、カナダ横断郵便の車が星条旗を掲げて通過していくのが見えた。色とりどりのライト。私たちが慣れ親しんできた驚異の光景です。でも、いつもドキドキします。
今日、ジョイ・レアードが噂になっていることを聞いた。既婚男性とスチュアートがそこから逃れたことに、私はいくら感謝してもしきれない。
篭絡する彼女の父親と兄は 酔っぱらいの罪で服役中。ノーヴァルでの女性への暴行事件。 私が満足したことは、トンプソン夫人がいなくなったら もう彼女(トンプソン婦人)は ジョイ(モンゴメリが嫌っていた女)のためにこの家(モードの家)を探ることができなくなることだ。
レアードと二人はいつも仲良くしている。 頻繁に文通をしており、ある日私はこの家で ジューンが遊べるように レクリエーションの場を提供した。 スチュアートの名前は、屑籠の中を調べて見つけた。ジューンが投げ入れた手紙がそこに落ちていた。 その手紙で彼女(ジョイ)が彼(息子スチュアート)のことをどう言っているか見てみようとした。 彼(スチュアート)にあの手紙を見せたかった。彼女は悪口を言っていた。その中で彼とマーガレットは次のように言っています。 とても嬉しかった」そうです。 スチュアートを断ったのですか? (スチュアートは)「うぬぼれの強い失敗作」でしかなかった。 また、彼女は次のように述べている。 彼(スチュアート)をいい気に使うことができる。 今年は高価なものを買う必要はない。 (スチュアートからもらう?)誕生日プレゼント、クリスマスプレゼントには)明らかに好奇心旺盛だった。
マーガレットに興味を持つかという質問をした。T(モンゴメリの家に寄留していたトンプソン婦人)さんなら彼女の好みで、その中には「スッチー(スチュワートのことか)はマーガレットをあまり誘わないのですか? それなら、誰よりも多く連れ出して遠くへ行く」等々。屈辱的です。
スチュアートが気を持たせたことがある。このような生き物(ジョイのこと)が私の部下にあのような言いがかりだ。もしスチュアートがその手紙を見たとき下品さ、粗雑さ、そして毒があることを実感したことだろう。逃げてきたことも当然だろう。
(モンゴメリは大事な下の息子があばずれのような女と付き合うことを良しとせず、高尚な相手を仕向けたのです)

1939年6月26日(月曜日)
今朝、チェスターはダウ氏から電話があってネイが話をしたいそうだ。と言っているということで、出掛けた。縮こまっているインターン(弁護士研修者)(モードの息子のこと)を見るのは楽しいものではない。
ダウニーさんはまず、私が他の母親と同じように、自分の息子には何も欠点があるように見せないと言った!!!!(自分の息子は擁護するということ) 私はとても苦笑いをし、皮肉な笑みを浮かべ、チェスターの欠点は誰よりもよく知っているつもりだと断言した。彼(弁護士事務所長のダウニー氏)は私の言うことを信じていなかったようで(あんたも正直ではないだろうということ)、そのことを詳しく説明し始めました。
チェスターは怠け者だ。チェスターは何事も「すべて知っている」と思いすぎている。チェスターは身だしなみに無頓着だったが、L.V.E.(不明)によってこれを修飾した。 この1年で、この点については大きく改善されたとのことでした。私は チェスターのことをそう思っているのなら、なぜ彼を(弁護士に)誘ったのかと問いたくなった。しかし、私はそうしなかった。そして、自分の旗を掲げ続けたと思う。
ダウニー氏は、結局(自分の事務所への入所はダメだと言った) しかし、ひとつだけ慰めの言葉をかけてくれた。「チェスターは法的な頭脳を持っていると。誰よりも 私自身、チェスターのことをずっとそう思っていましたし、それが私に(モードに)チェスターに法律を学ぶよう強く勧めたのは、そのためだった」と。それでも私は このインタビューは、憂鬱な気分と、このビジネス全体に対する疑念を抱かせるものだった。パートナーシップのどうしても理解できないことがある。 チェスターの悪口を言われるのは、もうこりごりなのだろうか。いいえ、私は それはないだろう。彼(チェスター)にはダウニーさんが知らない欠点があり、そのうちのひとつは は、まだ彼を完全に破壊する(その欠点によりダメになってしまうだろうこと)ことを恐れている。
チェスターが16歳になるまで私は彼の良い話ばかりを聞いていた。みんなは素敵な彼のことを私に話してくれた。まあ、何度やっても(弁護士試験に挑戦しても)無駄なんだけどね。

1939年6月27日(火曜日)
今日イチゴジャムを作った。今年はそんなにたくさん作る必要はないだろう。
チェスターはいつもこのジャムが大好きだった。今日、彼はオーロラ(チェスターが事務所を開いた町)へ出かけていった。遺言を作るように頼んできた家へだが、遺言執行者からはまだ何の連絡もない。彼(遺言執行者)は、ある日「オーロラには良い弁護士がいた方がいい」と言ったそうだ。“神に感謝すべきことである”
今晩は天気が良かったので、チェスターと散歩に出かけた。芝生に花が咲き、空気がおいしい。もうチェスターと一緒に歩くことは何度もないだろう。
ユーアンはとても元気がなく、たくさんの些細な症状を訴え続けている。でも、ボーリングはそれなりに楽しいみたいである。
甲状腺を患ってから、本当に悪い症状が出るようになった。

1939年6月29日(木曜日)
雨と雷の不快な蒸し暑い日。チェスターはオーロラでの場所を手に入れることができた。トロントの事務所の所長はそれ(チェスターの手を)を借りることはない。しかし、彼は別のオフィス(弁護士事務所にするオフィス)を見つけた。自分の家も。
自分の家。それは本当に便利で山ほど高価ではないが、それは暮らしの為には必要だ。それは得ることができる。
国際情勢は引き続き憂慮すべきものだ。狂人が支配している
ドイツの暴虐とその結果はどうなるだろうか? しかしどうであろうとも人生はすべて何らかの方法で続き、その日常生活の些細な事が続いていきます。

1939年6月30日(金) I
今夜は、傷つき、痣ができ、汚れているにもかかわらず、私は長い息を吸っている。よかった。トンプソン夫人は行ってしまった! 火曜日、彼女は6時のバスで出発すると私に告げた。今日、私は友人との昼食に誘われ、3時には戻ると告げた。
3時に家に着くと、トンプソン夫人とジューンはいなかった。これを期待していたということである。私は部屋に上がり、思わず苦い涙を流した。あまりにも醜いことだった。
そんな風に、誰かが私の家を出て行ってしまうなんて。私は彼女が喜んでいたのと対照的な気持ちだった。
2年前の3月の嵐の夜、彼女は戻ってきた。そのことが私を苦しめた。私はかわいそうなジューンが行ってしまう前に彼女にさよならを言いたかったのに。私の気持ちとは裏腹であるが、彼女のために、母親がどんな計画であれうまくやることを期待する。
私の家は、彼女を排除することができた。彼女は嘘をつきながら去っていった。マクドナルド氏に別れを告げたとき―その場に居合わせた彼女は、母親が手術を受けることになったと言った。
手術 、シャイアーズを通じて、これが嘘であることを知った。彼女の母親には、手術という観念もない。しかし、義姉は虫垂炎で手術をしなければならないかもしれない。
このほかにも忙しい一日を過ごしたが、夕方にはミルトン・シンプソンとその家族がやってきた。ミルトンの奥さんから電話があった。私はいつもミルトンが好きなのだが、あまりに疲れていたので、彼と話をし、彼の話を聞くのは大変なことだった。彼が去っていくとき、ミルトンは私の肩に手を置いていった。「モード、また会えてよかったよ!」と言った。
シンプソンから「よかった」という言葉を聞いたのは、このときが初めてだった。口には出さないが、明らかに自分が相続人だと感じている相続人の態度は常にそうである。“会えてよかった”ということです。本当に、ミルトンは調子が悪いんだな!。それとも、私たちと同じように、彼も年をとったのだと実感しているのか
若者の友人たちは、少しの間、青春の幻想を取り戻してくれるのである。だから、「会えてよかった」と言うことになるのだろうか。
(1939年の日記記載終了)



1940年

(この年は日記の記載なし)



1941年

1941年7月8日
おお神よ、このような人生の終わり方とは。このような苦難とみじめさとは。



1942年

1942年3月23日
私の過ぎ去った過去は地獄、地獄、地獄の連続であった。私の心は遠くへ行ってしまった――私の生きてきた世界は狂ってしまった。私の人生を終わりにしたい。おお神よ私を許したまえ。私のひどい立場は誰にも夢にもわからないだろう。


補  足

1940
日記の1936年9月29日の記述の後に、この日付(1940年12月25日)の記述が挿入されている。
1940年7月23日、彼女は長年の文通相手であるG.B.マクミラン宛に、「数週間前」に負傷した腕について、フランス崩壊のニュース、現在インターン中のスチュアートについて、そして個人的な心配事についても触れていた。
1940年8月付のカード(ハガキ)には「曲がり角を曲がった」と書かれていたが、次のカードは1940年11月21日付、"とても具合が悪い" と書かれていた。

1941年
7月8日、激痛。
1941年2月28日、彼女はマクミランにこう報告していた、"もう良くはない"。と
1941年4月23日、彼女はマクミランに謎めいた手紙を書いた。
そして1941年8月26日には、"手紙が書けません" と結んでいる。
マクミランへの最後の手紙は2通残っている。
1941年9月15日、モンゴメリは「親愛なる友人として、これ以上良くなることはない、と
1941年12月23日には、長年の文通相手に "おそらくこれが最後" と挨拶している。

1942年
1942年は長年の文通相手に "おそらくこれが最後" と挨拶している。
それ以後L.M.モンゴメリは1942年4月24日に死去した。死亡診断書の死因は「冠状動脈血栓症」であった。彼女はキャベンディッシュに埋葬された。




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