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モンゴメリ日記



1901年

1901年1月23日(水曜日)
今日郵便物が来たとき、昨日発行されたDaily Patriotに飛びついた。そして最初に目にしたのは、ページ全体に大きな黒い文字で書かれた女王、本日死去」であった。
この知らせは予想されていたことで、女王は重い病気にかかり回復の見込みはほとんどなかった。しかしこの知らせは非常に大きなショックだった。あらゆるものの根底が崩れ落ちたような気がした。まるで現存するすべてのものの土台が崩れ、信頼できる目印が一掃されたように感じた。
ヴィクトリア女王が死ぬなんて誰が考えただろう? "女王" というのは永遠に続く丘のように不変の事実であるかのように思えた。喪失感はほとんど個人的なものだ。

1901年3月2日
パークコーナー、P.E.I.
――ここは世界で最も素晴らしい遊びの家だ。私たちはこれまで多くの愉快なラケットで、壁一面がその「良い時間」のエッセンスで満たされているようだった(壁一面に私たちのどんちゃん騒ぎの声が反響しているようだ)。私の古い記憶ではパーク・コーナーに行くのが世界で一番の楽しみだった。
 各部屋に思い出がある。台所の光り輝く古い「ウォータールー」(ナポレオンの古戦場にちなんだ井戸の汲みだし口の装置でもあったものか)でつま先立ちの乾杯をし、前室で過ごす。愉快な夜、寝たり話したりした2階の大きな寝室、そして特にあの有名な古い{パントリー}(食料貯蔵庫)には良いものが蓄えられていて、そこに入るのが私たちの習慣だった。就寝時に群がって骨をかじり、フルーツケーキをパクつき大声で叫ぶのが習慣だった。笑。その食料庫は歴史的なものだ。
階段の踊り場の壁には、ある古いネジが突き刺さっている。自分が大人になったことをはっきりと認識させてくれる。以前私の記憶の彼方にあるパーク・コーナーは、そのネジがちょうど私の鼻と同じ高さにあった。私は毎回自分の体長を測っていた。今は膝のあたりに来ている。
私はクララがとても恋しい。彼女と私の間には他の人にはない共感があるのだ。ステラと私の間には存在しないし存在し得ない。ステラは楽しいことや陽気なことが大好きな女の子だ。でも私はケイトのように心を開くことができない。古き良き時代。(子供時代)もう二度と戻れない。もう二度と戻れない。
あの頃のように自由で盲目的に(生きたい)。でもその時だけだ。普段の私は正気で愚か者の楽園より、明晰な視力を好むほどだ......。(世の中を明晰に判断することを視力に例えたのか)

1901年3月6日(水曜日)
今日、デイリー・パトリオット(紙)を手に取ったとき、最初に目にしたのは長い社説だった。この窮屈な町(キャベンディッシュであろう)の「詩人」(すなわち私の人間性)をすべて書き上げるために、誰かが(編集者であろう)身を粉にして書き上げたものである。
小さな島。この暴挙(作家になる夢)の半ばで、私は自分の名前が書き出されているのを見つけた。「ルーシー・モード・モンゴメリ」、これは私が大嫌いな名前だ。私は見出しで若手作家の第一人者」と書かれ、その後に賛辞と引用が何段も続く。私は少し微笑みながら、そして少し心苦しく思いながら、その紙を置いた。昔は、昔は。昔なら、これはオリーブ(栄冠)のとても高い志に思えただろう。
シュライナー曰く、「憧れのものから甘さが取り除かれたとき、苦さが来る」。おそらく、この小さな一口から、すべての甘さが取り除かれたわけではないのだろう。
名声、それは私を喜ばせるものだった。苦労の末に勝ち取った自分の居場所の証。しかしその喜びは、というのも、父が亡くなってから誰が車に乗っていたかと(誰が私の夢に賛同してくれたか)というと、誰もいないのだ。父はどんなに誇りに思い喜んだことだろう。しかし今となってはどうでもいいことだ。
 私の成功は、自分以外の誰も喜ばせることはできない。私は一人なのだ。父が亡くなってからというもの、私の人生は決して同じとは思えない。何かが失われ、その代わりにあるのは、痛みと孤独と憧れで、それは時に鈍くなるけれどもいつもそこにある。私は自分が不幸だと言っているのではない。そうではない。しかし私の存在はある種、ネガティブな出来事だ。私は全体として人生を楽しんでいるし美しい瞬間もある。
私の成功の尺度は大きくなり(成功の欲望が大きくなった)、世界と世界のすべてを鋭く評価できるようになった。時代が提供する喜びや興味。しかしその根底にあるのは、虚しさだ。

(モンゴメリは最初は新進作家として評論家から注目されていたものの、短編小説では高尚すぎる精神を追っていたために、大衆受けするような成功は得られませんでした、その後ひょんなことから素朴な少女の苦労の話を書いてやっと多くの少女たちの共感を得て、世界的な作家になりました)

1901年3月21日(金曜日)
P.E.I.、キャベンディッシュ
今日、"Munsey's"(クマザサ)誌に私の詩 "Comparisons"(比較検討)が挿絵入りで届いた。それは本当に素敵だった。このところ新しい雑誌(新しく私の詩を載せてくれる雑誌)がいくつもできて、とてもラッキーだ。
私の作品、私は自分の詩に関して向上していることを実感している。もしそうならそれは奇妙なことだと思うが。私がどれだけ勉強し努力しているかということを考えるとそうでないと思う(奇妙ではない)。さらに私は自分が発展していると思う。時々目印になるような詩を書く(私の発達状態を知るための目印になる詩)。
このことを強調するために振り返ってみると、この作品は6年前に書いたものでないか。1ヶ月前や1年前(の服なら)は、私がその同じ服を着ることができたのと同じように。その(今ある詩の素材は)、当時はまだ織られていなかった(知らなかったのだよと)。
今週は2篇の詩を書いた。一年前、以前は書けなかったが、今は簡単に自然に書けるようになった。これは励みになる。将来は何か価値あることを成し遂げられるかもしれない。(詩と言うのは欧米の雑誌では短歌や俳句と同じように風流の気分を表すものとして載せられている物だろう)
私は有名(ベストセラー作家)になるとは思っていない。そうなりたいとは思っていない。しかし私は自分の選んだ分野で、優秀な労働者の間で認められる場所を持ちたいのだ。作家という職業だ。それが幸せであり、それを手に入れるのが難しければ難しいほど、幸せだと私は信じている。獲得した時の喜びはひとしおだ。
 私は本当に、忍耐という救いの手を持たなければならないと思うのだ。10代の頃、「憧れの人」(雑誌の編者)に手紙を出すと、最初は失敗や落胆の連続だった。私の惨めな小さな原稿は、自分ではそう思っていても、惨めなものだった。今となっては不思議なほど大胆に出せる。今となっては大人になったら作家になる」と思っていなかった時期がある(ことが信じられないほどだ)。それは常に私の人生のあらゆる希望、努力、野心を中心に据えた目標だ。
私は、誰が忘れることができるだろうか、私の文章が最初に賞賛されたことを覚えている。私は12歳くらいで、「詩」の束を持っていた。
私は自分のことをとても気にしていたので、書き出した後、人目からそっと隠していた。そのような人たちに見られるのは耐えられない。笑われるかもしれない。そのときでさえ私は無表情ながらも強く感じていた。
私の志を理解し、共感してくれる人は、私の周りには誰もいなかったということだ。私は他の子供たちとは違っていた。私の住む小さな(村の)世界では、私のことを何か気味が悪いと思っていたようだ。私の愚かで貴重な韻を踏む姿を見せるくらいなら死んだほうがましだ。それでも他の人がどう思うのか知りたかった。
虚栄心ではなく、公平な審査員が(いたら)メリット(価値)を見いだしてくれるかどうかを見極めたいという強い思いからだ。
そこで私は、それを確かめるために、許しがたい小さな策略を用いた。今となってはとても滑稽に見える、少し可哀想な気もするが、その時は自分自身が法廷にいるような気がして、というのは言い過ぎかもしれないが、もしその判決が否なら、その時私は夢を捨てていたかもしない。それは確かに一時は霜が降りたかもしれない。(悲観して冷たい気持ちになったかもしれない)
その頃、学校の教師がここに下宿していた――イジー・ロビンソン。私は彼女を好きになれなかったし、彼女も私を嫌った。もし私が彼女に「詩」を見せてその感想を聞いていたら、確かに励ましの言葉はもらえなかったろう。しかしその彼女は(モンゴメリはであろう)ある晩歌手の様だった。私はおずおずと彼女に「『Evening』という曲を聴いたことがあるか」と尋ねた。「夕べの夢」だ。その「Evening Dreams」は私の自作で、彼女は確かにそれが(誰が作った物か)知らなかったが、当時は私は自分の最高傑作だと思っていた。今は現存しておらず、私が知っているのは最初の2節しか覚えていない。R嬢が「この歌の歌詞を知らないか」と聞いてきたことが、私の記憶に残っている。
そこで私は、震える声で、最初の2節を繰り返した。

     「夕陽が沈むとき
     西の方角にひっそりと
     虹色の光芒の中で
     私は座って休んでいる。

     現在も未来も忘れてしまう。
     もう一度、過去を振り返る
     目の前に広がるのは
     昔の美しい日」

印象的なオリジナルだね。また12歳の子供に長い「過去」があるのだろうか。私はまさに息を呑むように歌い終えたが、R嬢は裁縫に忙しく、この歌は気にしてなかった。私は自分の顔色の悪さと全身の震えに気づいた。私は青ざめたのだ。私にとっては重要なことだ。彼女は穏やかに、その歌は聞いたことがないけれども、とてもきれいな言葉だと思うと言った。
 その言葉が実に誠実であったことは、文学的な見地から見ると彼女の評判を落とすに違いない(彼女はあまり鑑賞眼がないと言う事か)。しかし私にとっては、この上なく甘い褒め言葉だったのだ。私はこれまで、いや、これほどまでに良い批評をそれ以後も手に入れることができなかったのだ。あのおいしい瞬間が過ぎ去った。私は古い台所を出て、夏の夜の琥珀色の空気の中、白樺の下の小道を踊りながら。その言葉の記憶を胸に抱きながら、歓喜の狂乱に包まれた。
 私の最初の文学的な励ましは少し皮肉なものだった。その人は、私の友人ではなく、また、私の知り合いでもない。私や私のことを褒める前に、舌を噛み切っていたかもしれない。(それほど私を疎んでいた相手だが)
 おそらく、その翌年のある日、彼女の口癖が私を勇気づけたのでだろう。冬、文学という滑りやすい道への第一歩を踏み出すことになった。私の夕べの夢はとても丹念に紙の両面に書かれていて、何度も読み直して、納得のいくものができたので、それを編集者に送った。(モンゴメリ12歳の頃)
祖母が持っていたアメリカの家庭雑誌「ザ・ハウスホールド」誌だ。そのときお金をもらうという発想はなかった。実際、私はその当時は文章を書くことでお金をもらうということを知らなかった。少なくとも、私の初期の発想では。
将来の名声の夢は、営利目的の思惑によって汚されることはなかったのである。残念なことに『ハウスホールド』誌の編集者はあまり褒めなかったが、もっと差別的だった。そのために「切手」が必要なことも知らずに、切手を同封していなかったにもかかわらず、その詩を送り返してきた。(この生意気な子に採用されないことを思い知らせてやると言ったのだろうか)
 ところで、先日、同じ雑誌に、私の詩が掲載されたことをお知らせしておこう。(その雑誌からの)報酬を初めて手にした。しかし同じ編集者がいるとは思えない。当時からかなり間が空いている。最初の拒絶と今回の受諾の間には、時間的な隔たりがある。詩の違い、書き手の違いと同じだ。
(それによって)私の志は一時期、芽を摘まれた。1年後、私はその打撃から立ち直った。そして、もっと控えめな飛翔を試みた。イブニング誌を手に取り、残酷な編集者にもかかわらず、私はまだいくらかの信頼を持っていた。週刊誌のシャーロットタウン・エグザミナー(審査員という意味の雑誌)に送った。私は(その雑誌には)これならと思うような詩がよく載るので、載ると確信していた。その点では、私の作品も勝るとも劣らない。一週間もすれば、私の詩が「詩人」誌に載るというおいしい夢を見ていた。(詩の)コーナーに、私の名前が添えられている。自分が不思議な存在に見えた
学友は地元の小さな有名人だ(自分は通っている学校で有名人になれるのではないか)。Examiner誌が来たとき、私はそれを開けてみた。震えるほどの熱望。残念なことに、そこには夜見た夢の気配はなかった。
それでも、私はまだ絶望していなかった。次号に載るかもしれないと思ったからだ。しかしそれはなかった。ない。そこで私はあきらめて失敗の杯(苦い気分)をかすになるまで飲み干した。それは今となってはすべてとても面白いことだが(思い出でになったが)、当時の私にとっては恐ろしく現実的で悲劇的なことだったのだ。私は屈辱のどん底に突き落とされ、二度と立ち上がれないと思った。
私は夕べの夢(私の書いた詩)は燃やし、どうしようもないから書き続けたけれども、私はもう冷たく残酷な編集者に送らない。
このようなことはすべて深い秘密のうちに行われたのである。郵便局があったからこそできたことだ。そのため、私以外の誰にも知られることはなかった。
夕べの夢の旅。こうしてもし私が予想外の事態に見舞われた(失敗してしまった)としても、それは私がそのような事態を避けるためだったのだ。(自分の家が郵便局でよかった)
成功の予感があっただけに、他人に知られる悔しさは免れた。失敗した。私は哀れな小さな希望と、さらに哀れな小さな絶望を、自分の中に閉じ込めた。自分の魂だけで、変なことをやっている。
この忌まわしい体験の後、3年が過ぎた。そして、私は西に向かった(プリンスアルバータに行っていた父に呼び寄せられている)。私はまた詩と呼ばれるものを犯した。それらはかなりひどいものだったが、「イブニング・ドリームス」(夕べの夢)の改良版。この頃になると私の長い間麻痺していた野望は再び頭をもたげ始めた。私は古いルフォース岬を書き上げた。
そのほとんどは、マスタード先生の疑惑の眼差しとホームシックに悩まされながら(プリンスアルバータでの)旧制高校の私の机で、韻を踏んで書いたものだ。下界(カナダ東部の都会)に送った。パトリオット誌に送った。もう『イグザミナー』はいらない!。
4週間が過ぎた。ある日曜日の午後、ちょうど私が日曜学校に出かけようとしたとき、父が土曜の夜の郵便物を持って来て、その中にパトリオットがあった。私はそれを手に取り、包装を破り、自分の詩を見つけたのだ。自分で読む前に、私が最初にしたことは、その紙を、"あ、これだ"と突き出すことだった。喜びと誇りのあまり、父の手を握りしめ日曜学校へ駆け出した。
興奮の渦に巻き込まれる。それは成功のカップについた最初の甘い泡であり、もちろんもちろん、それは私を酔わせた。日曜学校から帰ると、私は新聞を手に取ると、一人でほくそ笑んでいた。その中に恐るべき印刷の間違いがあった。
しかしそれは私の詩であり、本当の意味での新聞に最初の愛しい我が子(自分で書いた文)が黒い活字で並んでいるのを見る瞬間は決して忘れることができない。きっとあの素晴らしい畏敬の念がその中にあるのだろう。母が生まれて初めて自分の子の顔を見たときのような喜びがある。
その冬から(モンゴメリー16歳のころ)翌年の夏にかけて、私は他の詩やいくつかの散文を書いて印刷された。私の小さなマルコポーロ(号の難破事故)の物語がモントリオール・ウィットネスに掲載され、サスカチュワンに関する私の記事はタイムズに掲載され、コピーされコメントされた。いくつかの都市圏の新聞が好意的に受け止めてくれた。また"6月"やそれに類するテーマが、あの気難しいパトリオットに掲載されたのだ。私は自分はかなりの文学者だと自負し始めていた。
 しかし、不潔な金儲けの悪魔が私の心に忍び込んでいた。私は物語を書き、そしてニューヨーク・サン紙(ゴシップ新聞ではないのか)に送った。私はその『サン』紙のことを何一つ知らなかった。しかし私はその会社が記事料を払うと聞いていた。ニューヨーク・サンは私の記事を送り返してきた。私は顔をひっぱたかれたようにたじろいだが、そのまま続けた。書くことだ。私はそのときから、「ネバーギブアップ」という最初で最後の、そして真ん中の(人生がある限り続く)教訓を学んでいたのだ。
しかし、ある日私の行ったP.W.C.(プリンスオブウェールズカレッジ)に通っていた年、Ch'Town(州都シャーロットタウン)の郵便局へ行くと、薄い手紙と一緒に届いた三流雑誌の宛名が書いてある。その中にある雑誌を受け取るための簡単なメモがあった。私が婦人公論に送った「すみれだけ」の詩の対価としてその雑誌の購読料を支払ってくれるもので、2冊申し込んだ。一冊は私が持っていて、もう一冊はおばあちゃんにあげた。
その雑誌は下らない小さな物語を載せていて、それが最初に私のペンがもたらした具体的な報酬だ。しかしその代償は私の詩が乗っている雑誌だ。ゴミのようなものだった......。
ビデフォードで教えていた年、私はたくさん書きたくさん学んだ。それでも編集者が明らかな2つの雑誌を除いては、私の(書いた)ものは戻ってきた。文学はそれ自体が報酬であり、金銭とは全く関係ないと考えていた。私はよく完全に落胆してあきらめなかったものだと思う。
最初は、苦労して作った詩や物語が冷たい拒絶票のようなものと一緒に戻ってくると、ひどく嫌な気分になったものだ。涙が出るほど自分でもびっくりするほど、そのかわいそうなものを隠そうと、忍び足で逃げ出したものだ。トランクの奥深くに、くしゃくしゃになった原稿がある。しかし、しばらくすると私は硬直してしまった。(かたくなになったという事か)
そして、それを気にしなくなった。ただ歯を食いしばって、「必ず成功する」と言うだけだ。そして、一度もダメかという疑念が湧いたことはなかった。私はこのことを説明することができない。
自分の星を信じるという、変わらぬ信念がそこにあった。私は自分自身を信じた。そして、いつも一人で、ひっそりと静かに闘い続けた。誰かが自分の野望を嘲笑し、失敗を笑っても私は黙って聞いていた。
私の落書きを愚行とし、無駄とした親戚の嘲笑を浴びた。そんなことはまったく気にならない。心の底では、どんな落胆の中でも必ず成功すると思っていた。
その日はついにハリファックスで、5ドルの小切手を受け取ったときにやってきた(モンゴメリ18歳の頃)。ゴールデン・デイズ、ストーリー(小説)のためのもの(報酬)だ。それは私のペンが初めて稼いだお金だった。(ダルハウジー大学の学友からうらやましがられたと書いている)
それ自体は大したことではないが、私にとってはこの(採用の)手紙は大きな意味を持つものであった。
その日以来、私は何度も何度も失敗を重ねながら、成功の呪文を唱えてきた。しかしそれを補って余りある成功もあった。今日、私は足場となる成功を得た。

  

(左)ロビンソン先生、(これはモンゴメリにキツク当たった姉ではなく妹の方)
   (右)12歳のわたし、生意気そうに見られたかな 

1901年8月23日
キャベンディッシュ、P.E.L. .
...私はこの夏の間、勤勉で立派に働いてきた。物語を書いたり手紙、小説、歴史、百科事典を読み、丹念に教会に通うことを積極的に行っている。ベリーを摘み、ファンシーワークや写真に手を出し、ケーキを作った。パイやプリンを作ったり、電話をかけたり受けたり。他の人のためにパイプを吹いたり、踊ったり、笑ったり泣いたり、喜んだり唸ったりしてきたが、もう疲れた。
疲れた、疲れた、全てに。このまま「一か八か」眠ってしまいたいくらいだ。でも、結局のところそれは贅沢な話だ。8時間寝れば十分だし、朝も起きられる。朝、レースを走る強者のように喜びながら起きられる。
さて、私の職業はというと手紙を書くこと? ああ、書いている。やるしかないんだ。というのも、その多くに関しては、しないほうがいいと思っているからだ。魂を込めることができない(書く気が乗らない)手紙を書くことに何の意味があるのだろうか。あるいは読むのも、同じように不利になるのでは?(そんな手紙を読んでも面白くないだろう)
中には、書くのが好きな手紙もある。言いたいことは山ほどあるし、ペンはなめらかに動くし、私の思考の軌跡をたどり、私が納得のいく手紙ができあがるまで。自分の名前を書くのが恥ずかしい。しかし決して署名しない手紙もある。(私の署名などしてやるものかということか)
このような愚かな無意味なことを恥じる。これらの手紙は、私が書くのが嫌いなものであり、私がすり潰したものである。もうあまり付き合いのない文通相手に機械的に送り出す。しかしその知己(知り合いの関係)を完全には失いたくはない。
では、教会は? 私は時々、なぜこんなに定期的に教会に行くのだろうと自問する。ラリー(回りゲームのようなもの)。まあいろいろな理由があって行くのだが、その中にはとても良い理由もあればとても薄っぺらで恥ずかしい理由もある。これは立派なことなのだが、これは行かないと黒い羊の烙印を押されそうだ。では。この静かで何もない土地で、教会は本当に社会的な機能であり、唯一のものだ。定期的に行っているものだ。私たちは外に出て友人に会い、そして彼らに会い、そして私たちの襟を正すのだ。そうでなければ、ほとんどを優しい慈悲に委ねることになる蛾と錆の――最高の服。(服を教会に来た会衆に見せて賞賛してもらうのか)
 ああ、惨めな理由だ! では、もう少し良いものをご紹介しよう。私が教会に行くのは たまには世間を忘れたいからだ。そして霊的な自分を正面から見つめるのだ。私が行くのは次のことをよく考えるからだ。
たとえ真理を完全に見出すことができなくても、あらゆる場所で真理を探し、最後に教会と奉仕活動のすべての関連は、良いことをもたらし、また私の中にある最良のもの、つまり、昔の思い出、古い友人、そし美しいもの、神聖なものに対する幼い頃の憧れ。これらはすべてのために教会に行くのだ。
そして私は読書をする。ああ、おとぎの国の門を開ける私の忠実な古い鍵よ。小説を......。愉快な作品ばかりで読み終えるまで眠れなかった。テーブルをベッドに寄せて枕で体を支えながら、「椿姫」の物語が始まるまで読んだ。主人公の冒険が終わり、私は精神的な衝撃を受けながらこの世界に戻ってきた。
現実の世界では(ランプの)オイルがほとんど切れていて、背中と目が痛くて、とても眠い。
 しかし、私は読書をフィクション(作り話、小説)だけに、あるいは主にフィクションに限定してきたわけではない。歴史や伝記も好きだし、百科事典も好きだった。毎月2、3冊の巨大な本を会場から持ち帰り、(家人に)眉をひそめさせていた。雑多な情報を得るために目を通した。本に飢えているときは、たとえ百科事典でもよいから丸ごと一冊読むことは、食事のパンが(良い物語が)ないよりましだ!」。(本が知識の糧だと言うわけですね)
 この夏、私は精力的にペンを走らせた(雑誌に投稿する小説を書いた)。このままでは骨髄が侵されるのではと思うほど暑い日も、物語や詩を紡ぎ出している。私の灰白質(灰白質が思考の源だと言うことを知っていたのか)は絶望的に焼けただれている。しかし、ああ、私は自分の仕事を愛している。私はこの仕事が大好きだ! 大好きだ。
物語を紡ぎ、書斎の窓際に座って、空気のようなもの(あいまいな想像)を形にするのが好きなんだ。詩にしている。この夏も順調に進み、新しい日記をいくつか追加した。
私の(小説を買ってくれる出版社)のリスト。彼らはバラエティに富んでいて、それぞれの好みに合わせなければならない。私はジュヴナイルストーリー(子供向けの物語)をたくさん書いている。こういうのは好きなんだけど、もしそのほとんどに道徳を持ち込む必要がなかったらもっと好きなんだ。そうしないと売れないのだ。その私が書きたい、そして読みたいと思う幼年小説は、とにかく次のようなものだ。
芸術のための芸術」、いや。「楽しみのための楽しみ」である。ジャムのスプーンのように、陰湿なモラルが隠されているわけでもない楽しみのための楽しみ本である。しかし編集者たちの中で若者"をターゲットにする人たちは、自分たち(編集者の立場か)のことを真剣に考えすぎている。モラルは広くても狭くても、その雑誌の体質に合うようにしなければならない。
 来月はハリファックスに行き、展示会に参加するつもりだ。その際、私は冬に備え、短い外出をしなければならない。

Cavendish, P.E.L.
1901年8月28日。
この世で本物の「昔ながらの」庭ほど素敵なものはない。私は以前からこのことはずっと知っているが、昨日の午後、改めて実感した。ベッシーの写真を撮るために「ジョージ・マクニール夫人」宅に行ったときだ。写真撮影は退屈だったが、庭はそれを補って余りあるものだった。昔ながらの庭には、ある種の必需品がある。それがなければそれ自体(昔ながらの庭)ではないのだ。詩人のように、それは作られたものではなく、生まれたものでなければならない。長年にわたる献身的な努力と配慮の賜物だ。新しさやモダンさが少しでもあると庭を台無しにする。
ひとつには、世間から隔絶され、閉じられた「庭」でなければならない。できれば柳かリンゴの木かモミの木で囲まれているのがいい。そのためには蛤の貝殻で縁取られた、あるいはリボングラスで縁取られたトリムウォーク(庭を巡る小道)、そして昔ながらの庭に咲く、めったに咲かない花々がなければならない。現代のカタログには載っていない、おばあちゃんたちが植えた多年草。世紀が若かったころの手(昔のデザインの飾り物であろうか)。ポピー(庭の置物)があるはずだ。
絹のフルスカートのガウン、重厚でピンク色の甘美な「キャベツ」ローズ、虎のような...。百合は華麗に寝そべる歩哨のようで、縞模様の服を着た「スウィート・ウィリアム」、ブリーディング(出血)・・・ハート、子供の頃大好きだったサウザンウッド、羽毛のような刺激的なバター、花嫁のブーケ」、それは今でいう水仙のような白いものだ。花嫁のブーケはこうでなくっちゃね、ヒイラギのホックは大胆な乙女のように誇らしげに、紫色の「アダムとイブ」のスパイク、ピンクと白の「ムスク、スウィートバーム、スウィートメイ」、ライラック色のフリルのついたスカートの「バウンシング・ベス」、純白の「ジューン」百合の花、真紅の牡丹、愛らしい瞳のサクラソウ。サクラソウもアイリッシュも、スカーレット・ライトニングもプリンス・フェザーも、皆、生えている整然とした混乱。
親愛なる古い庭園!その息吹は、まさに祝福である。

ブリーディング・ハート

1901年11月13日(水曜日)
エコー社
ハリファックス、ノバスコシア州
はい、もう全部書き上げられると思う。最初の孤独の苦しみは乗り越えた。ホームシックになり、毎日の生活に慣れ、そして自分自身のための小さなニッチ(私がいる隙間)は、やや狭いながらも十分にぴったりとしたものだった。だから2ヶ月前に落としたこの日記を再開するのに十分な "砂"(こまごまとした経験)を得たと思う。
私は今、「モーニング・クロニクル」と「デイリー・エコー」のオフィスに一人でいる。新聞は印刷に入り、追加校正はまだ始まっていない。参っている。頭上では機械を転がして悪魔のような音を立てている。
アウアー(商品名か)の照明のシェードを乱暴に揺らす。窓の外では、エンジンの排気ガスが猛烈に吹き出している(エンジンで電気を起こして各機械を動かしているのであろう)。事務所内では、ニュース編集者と「Beach-」の編集者がいて仲睦まじく言い合いをしている。そしてここには私がいる――Echoの校正係と総合的な便利屋だ。前回の記事からかなり「プレスト・チェンジ」して(勢いが違って)いるでしょう。私は新聞社の女だ。
いい響きだろう? そうなのだ、現実はとてもシラケるのだ。土のものだから、泥臭いし、欠点もある。(私は田舎者だということか)新聞社での生活は、他の場所と同じように「すべてがビールと.....スキットル.」(踊り回る生活)というわけではない。でも全体としては、決して悪い人生ではない。
9月11日、私は家を出た。出発の直前に、新聞社から電報が届いた。エコー誌の編集者から、冬の間校正係にならないかと誘われた。この会社のために多くの仕事をするロッティ・シャットフォードが、私を推薦してくれたのだ。その場で決められず郵便屋さんと一緒に(ハリファックスに)行く格好になった。汽車に乗る。しかしもし引き受けたとしても家に帰る時間はあるはずだ。せめて荷造りする時間だけでも。それ以来キャベンディッシュは見ていない。
水曜日から金曜日までシャーロットタウンに滞在し、それからハリファックスへ。楽しい旅だったが、ハリファックスに着いたのは8時で、土砂降りの雨の中だった。私はタクシーでW.C.A.(ハリファックスでの宿舎)に行ったが、そこでバーサ・クラークが約束通り、私のために部屋を用意してくれたはずなのだが。しかし私が鳴らしたベルにより、秘書が玄関まで出てきたとき、そのような部屋は予約されていないと言われた。
私は一日の移動で疲れきっており、自分の部屋に腰を下ろしたくなった。その時タクシー運転手の視線を浴びながら泣いた。しかし、私はそうしなかった。おそらくタクシー運転手の気持ちを考えてのことだった。もっと言えば秘書は急いで、どうせなら一晩泊めてあげると付け加えた。だから私はタクシー運転手にぐったりとしながらお金を払い、荷物を引っ張って二階の大きなビッグバーン風のような場所に行った。
そのアパートには簡易ベッドが3つあり、まるで病棟のような雰囲気だった。想像できるものなら何でもいい。ちょっと身だしなみを整えてから夕飯のために下に降りた。しかし疲れていて食べられない。夕食の後私はベッドに入った。私のルームメイトはブラッグという女子大生と、メッセンジャーという女子大生がいた。ダルハウジー大学の学生である。しかしその時、私は彼らが誰であるか知らなかったし、また慣れないガタンゴトンという音のせいでよく眠れなかった。翌朝は体が硬く不機嫌になった。雨はまだ降っていた。
あまり嬉しくない気分でEcho紙のオフィスまでトボトボと歩いていった。結局、ニュース編集者のタウントン氏の隠れ家に辿り着き、タウントン氏から事業部長のダンさんを紹介され、面談をした。
最初は、この仕事を引き受けようかどうしようか迷っていた。給料はわずか5ドル。(当時の価値で1ドル=2万円だったとすると、月に10万円くらいの給料か)しかし私が求めていたのはお金ではなく、経験とジャーナリズムの世界でのスタートだったのだ。だから最終的には承諾した。祖母がプレスコット(祖母の孫で意地悪な性格だった)を家に住まわせることは知っていた。
冬の間、彼女は(祖母はどうなるか)、彼(プレスコット)はたぶん嫌がるだろうけど、恥ずかしくてできないだろうね。そして彼と彼の家族(プレスコットの父であるジョン叔父の家族)は、その対価として十分なもの(金)を取っているのだ。
祖母は私が家に滞在することを望んでいた。しかしこの仕事の最悪な点は、私がすぐに働かなければならないことだった。もうキャベンディッシュには戻れないのだ。
ダン氏の聖域を出て、出勤するようにと指示を受けた後、月曜日の朝、私はW.C.A.(モンゴメリがハリファックスで仮に泊まっていたキリスト教女子青年会の宿舎)に戻りベッドに入った。
その時、私は本当に気分が悪くなった。その晩さらに二人の少女が到着し、私の部屋に預けられた。秘書(W.C.A.の管理者であろう)は私が下宿を見つけるまで預かってくれることになったのだが、もし私の部屋が収容可能な限り、他の人と「同室」でもかまわない。しかしそれはホブソンの選択(それしかない究極の選択)のように思えたので、私はできるだけ快く承諾した。
翌日は日曜日だったので、午前中はベッドで過ごし午後からはトランクの送付を指示する手紙を書いた(私が書き物をする道具が入ったトランクを送ってほしいと言う事)。この2週間は行李の中身で過ごすことになる。あちこちを訪問したり遊んだりすることだけを考えて詰め込んだもので、仕事の為の物ではない。(モンゴメリの言う仕事とは自分で書く小説のこと)
オフィス、しかし、「悪魔が運転するときには、ニーズがなければならない」のである。(新聞社の仕事は悪魔がやらせていると言う事か)
日曜日の夕方お茶を飲んだ後、私はバーサ・クラークに会いに行った。彼女は家政婦でハリファックスのホテルはまったく変わっていない。友人を見つけると、なんと心地よいことだろう。変わらない。彼女は変わらない。昔、私たちがそうであったように、陽気でフレンドリーだ。H.L.C.(ハリファックス)での仲良し。
最初は、悪魔を追い払うために、一晩おきに彼女を責め立てていた。ノスタルジーに浸る。何度か彼女と食事に行ったことがある。下宿生活という砂漠の中で、良い夕食は好きだ。その後、まるで金ピカのように、誰に対しても、どんな運命に対しても、微笑むことができるようになった。
世の中の犯罪のほとんどは、お腹を空かせた人たちが起こしているに違いない。私はお腹が空いているときは、いつも「反逆、策略、戦利品に適している」(略奪したくなるということか)と感じる。だから今、私は不機嫌なのだ。恐怖があるのだ。私の中の女の子が。

新聞社で働くためにハリファックスに出発する私

ハリファックス、ノバスコシア州、エコー・オフィス
1901年11月14日(木曜日).
私はまだ苛立ちと空腹と不機嫌さを抱えているが、幸いなことにそのような状態が続いてはいない。
前回のエントリーからずっと日記を中断してしまい、これが日記を再開する最初のチャンスだ。今5時でオフィスはかなり暗い。仕事から上がらなければならない。心に火をつけてから次に進む。幸いなことに命と手足に別状はない。しかも、私が宙に浮いている間(1人でボーッとしていた時間)に、男性が入ってくることはなかった。さて、私はどこにいたのでしょう?
9月16日(月曜日)の朝、私は粛々とエコー社に向かった。校正の謎に迫った。何もなかったがとても手ごわくて、うまくいった。
私は朝9時に出社する。最初の仕事は新聞に目を通すことだ。朝の編集で(記事)が入ったクロニクル(新聞)から、私が思うような社説を切り抜いて郵送する。(新聞の版を組む人に原稿を渡す)
受け取った人(植字工だろう)は、はにかんだり、もじもじしたりする。それが終わると私は自分自身(の仕事)に飛び込む。
読書室に入って、島の日刊紙(島で出ている様々な新聞)に熱心に目を通す。それを読み終わるころには、校正刷りが降りてきている。組版室から奇妙なスライド(伝送パイプ)を通して奇妙な小箱に入れてきた。(原文では組版室のことは音楽室となっている。組版の部屋にいろいろな機械があるのを楽器と見間違えたのだろうか)(また校正刷りというのは、活字工が組んだ版の一部の記事を版組にまちがいがないかどうか仮に印刷して、校正係に戻されたものである)
自分のデスクに座り、一番心地の良い椅子を引きずり込み、"鍬を入れる"。校正を行う。これは難しくないが何だか面倒くさい。見出しと編集者が私の一番の悩みの種である。見出しには自然な傾向がある。編集長はダジャレを言うという恐ろしい癖がある。というのも私はこのようなことを言われると困ってしまうからだ。どんなに注意しても "誤りは忍び寄る"そしてその代償として災難に見舞われる(ダジャレで文句を言われるということか)。今、悪夢を見るとすれば、それはいまやっている私の鼻の先で繰り広げている社説である。
午前中はずっと順調に校正が進み、その間に私は仕事(自分の小説を書くこと)をする。暇な時間は好きなように使える。正午には1時間の休息がある。(社から出て)ウールロウズ・レストランで昼食(原文ではdinner、夕食)をとってから、街をぶらぶらする。昼食後、校正がどんどん進み、(ちゃんとした版が組みあがったら印刷して)2時半ごろには新聞が出来上がる。
印刷が始まると、途端に一息つく。しかし私は5時までいる、時には電話応対、電信へのサイン、広告の追加校正などを行うためだ。この時はいつもポカーンとしているのだが、やっと解放される。(広告は新聞社の大事な収入源なので時間を取ってゆっくり表現などを直します)
以上、いつもの日課である。土曜日の『Echo』紙には、多くの記事が掲載されている。その中に「社交辞令」というページがある。そのほとんどは私の仕事である。これを編集する。あまり好きな仕事とは言えないが、唯一積極的に取り組んでいるのは社交辞令の「ごまかし」で、これを忌み嫌うが(仕方なくやる)これは新聞社の手口の一つである。
社交辞令(各地からの便り、有名人の消息)が載る場所に(たとえばウィンザー)から期限内に(電信記事が)出てこないと、「偽の社交辞令」と呼ばれる。(ものをでっちあげて作る)
タウントン氏は、私の目の前でウィンザーの週刊誌を叩きつけ、淡々とこう言う。「その社交辞令を捏造してください、モンゴメリーさん」。
そこで哀れな「ミスM」はおとなしく仕事に取りかかり、紹介用のパラパラを作成するのです。秋の紅葉」「まろやかな日」「10月の霜」などについて、グラフを描く。季節に合わせた古めのものなど。そして新聞紙面を丹念に見ていく。ウィンザーにある某大手出版社の週刊誌から人物の紹介や結婚式、ニュースなどを切り抜いている。婚約、お茶会などを書簡風にまとめ、そして社交辞令の出来上がりだ。以前は葬式も、編集者が必ず青ペンすることに気づくまでは。(葬式の記事は各地からの便りに入れてはいけないらしい)どうやら、葬式は社会的な場ではないらしい。
それから、月曜日の『エコー』には、コラムのような目まぐるしい内容を書いている。題して「アラウンド "The Tea-Table"(お茶の席にいて世界を回るという表現)で、Cynthia(シンシア、記者名)と署名している。スタッフのシンプソンさんは、4、5人の哀愁漂う娼婦のような乙女たちがテーブルを囲み、ゴシップを話しているのであろう(挿絵を描いた)私はむしろそれがいいと思っている。シンシアの網にかかるものはすべて魚(酒のつまみ)であり、楽しみ、流行、気まぐれである。
プリンス・ストリートにある赤レンガ造りのクロニクル・ビルディング。(編集室の)オフィスは2階にある。私のオフィスは裏山に面した奥の部屋だ。私は思う。もし洗濯婦の庭を、ブロック(町の一区画)の真ん中に配置してハリゴニアン(ハリファックス人のこと)の洗濯婦が全員その周辺に住んでいるかどうかはわからないが、かなりの割合の人がこの一画に住んでいるはずだ。
風を受けながら 地上でも屋根の上でも、猫が絶えず徘徊している。その憂鬱な遠吠えが壁に響く。ほとんどの(猫は可愛くない)しかし、その中に一匹、可愛らしい雄がいる。
その角の(家の)窓枠にいる、私はこの人に手を出したいと思っている。彼はかつて私の家にいた猫「ボブ」を思い出させるほど、つややかでふっくらとした灰色をしている。
(ここで、もし涙が出るのを恐れなければ、本当にホームシックで涙を流すことができるのだが......。この汚れた顔に、きれいな筋をつけることになる。このオフィスは本当に最悪の場所だ。ホコリまみれになるのは初めてだ。
私はスタッフで唯一の女子という栄誉に浴しているが、下に2人いる。(下の事務所にも女子社員がいたのか)
ビジネスオフィス(営業部)では、ミス・ヘンズレーと話したことがあるだけだ。ミニー・マクドナルドは私の友人で、かわいい女の子だ。しかし男はたくさんいる。私は彼らを覚えて頭の中に配置するのに苦労した。新聞社では新入社員の紹介というものがないようで、朝一番に来た最初の2週間は、(記者の)誰かが電話で呼び出されるたびに、私は"君の名前か、君の人生か"と、大急ぎで対応しなければならなかった。(電話がかかってきた名前の人はあなたですか、あなたですかと)あらゆる人に聞いて回った。でも、もう今は(スタッフの顔と名前も覚えて)全部解決している。
 ダン氏はその先頭にいる、つまりビジネス・マネージャーである。両紙(クロニクル社で発行している2つの新聞)とも、彼の支配下にある。すべての人々から心底嫌われているようだ。
彼はいつも私にとても礼儀正しいのだが、私は彼とほとんど関わりを持っていない。私も梳かされてしまうかもしれない。彼はある種の美男子で、襟を正している。(キチンとした格好をしている)顎は攻撃的で、何か問題が起きると、はっきりとした口調で言われる。
 ニュース編集者のタントン氏は、私が「ドクター・フェル」(悪魔)と呼んでいる人物だ。嫌悪感を抱く。というのも彼は私にとても親切にしてくれたし、いつも校正の間違いを指摘されたときに私の意見を聞いてくれるのだが、どうしてもそうなってしまうのだ。私は彼の雰囲気は不快で決して安らぐことはない。
 マリン・エディター(貿易系統の記者か)のバクスター氏は、私のオフィスと同じで、スタッフの中で一番好きな人だ。彼は本当は夜のスタッフなのだが、日中も頻繁に顔を出しては原稿を書いている。船荷証券は最も手近な被害者に向かって、多かれ少なかれゲスなダジャレを発射する。だいたい私だ。背が高く、骨太で赤毛の彼は、とても陽気で気ままな性格だ。手先が器用で優しい。
 「警察官」のジミー・ゴーワンもこの事務所に住んでいる。彼もまた沈黙は金であると信じている人たちである。最初私は彼を不機嫌な年老いた化石だと思った。しかし彼は本当に善良な心の持ち主で、その沈黙は彼のせいではなく、彼の不幸のためなのだ。またこの場所に出没する事務員もいる。
 編集長のマクレラン氏は、洗練された年配の紳士で、とても愛想がいい。礼儀正しいが、良い社説がダメになったときは別だ。私には何の落ち度もないのに。
洒落が好きなのは前述の通りだが、洒落が流行ってるようである。場の空気だ。私は細菌を飲み込んだに違いない――おそらくバクスターは細菌を大量に排出するのだろう。先日、私は自分自身がダジャレを作っていることに気づいた。この病気が進行する前に、解毒剤を発見しなければならない。
 Fraser氏は "Beach-comber"のコラムを担当し、通常Echoの社説を執筆している。
浅はかな賢さで、トミー・フレーザーを唯一無二の存在だと考えている。「今までにない重要な出来事」としている。そこそこイケメンでとても俗物。
 シンプソン氏はスタッフのアーティスト(差し絵描きのような者)だ。私は彼のことが好きだが、彼はあまり人気がないようだ。ちょっとおバカさんなんだと思う。ヒッコリーさん、ハミルトンさん、マクドンさん。
 アルドは、たまに立ち寄る夜型の人たちだが、とてもいい感じだ。ジョスト氏とケラハー氏はビジネスオフィス(営業部か)で、後者はかなり好感が持てる。
 私はここに来てからずっと新聞を食い散らかしている。私たちはたくさんの暇さえあればその中に入っている。シンシア(モンゴメリがコラムを書く時のペンネーム)が考え出すようなアイデアを探している。(読んだ新聞の中に)自分のもの(自分で使いたくなる表現のことか)を見つけると、どこにでも持っていく愛すべき習慣がある。

1901年11月16日(土曜日)
エコーオフィス
ハリファックス
この日記は、最近の他のことと同じように、手当たり次第に書き上げなければならない。前回の日記を中断させたのは何だったか忘れてしまった。たぶんお腹が空いて止めざるを得なかったのだろう。
とにかく、これは土曜日の午後で、奴隷はまだオールに鎖でつながれたままだ(臨時社員なので時間は束縛される)。いやはや。新聞界では「土曜日はお休み」なのだが。土曜日は私にとって最も忙しい日だ。(私は土曜も休みにならない)
土曜版エコーはその週の中で一番大きいからだ。(厚いというのだろう)しかしもう印刷が始まっている特にやることはない。ハリファックスで食事をして、夜はバーサと一緒に過ごすので気分は上々、さっそく落とした糸(楽しみの続きか)を拾いに行く。
 ロッティ・シャットフォードは、展示会の週のある日にオフィスに駆け込んできて私はそれを見た。それ以来何度も(駆け込んでくる)。彼女はほとんど変わっていない。ある晩彼女と彼女の弟は私に会いたがっていた。いいえそんなことはない。ロマンチックな香りを想像してほしい。彼は結婚しているだけでなく、二度結婚している。
 私への興味は純粋に知的なものだ。彼は私の落書き(短編小説のことだろう)を賞賛している。私は彼に失望した。ロティから想像していた彼とは違っていた。手紙によるとかなり一般的な意見を持っているようで、自分の意見を主張したがる。特に宗教に関しては、季節を問わず、「リベラル」な意見を持っている。
ロッティの妹エドナは、ここハリファックスの別の兄弟の家で結婚した。先週は 私は結婚式に招待され、半日休みをもらって参列したのだが全く楽しめなかった。ロッティと彼女の家族の2、3人以外は知らないが、当然ながら彼らは多くの業務(結婚式の準備)で忙しくそれどころではない。群衆の中の(結婚式会場での)孤独ほど孤独なものはない。私は退屈でたまらなかった。(式が終わって)まともに結婚式から逃げられると死ぬほど嬉しい。
 しかし、ああ、ああ、ああ! 寂しい? ホームシック? そんなこと言うなよ! 最初の10日間はここにいる間私は死のうと思ったし、そうしたいと思った。今は自分を笑うことができるが。笑い事ではない。このようなひどい(憂鬱の)発作はまだ2回しかない。西の方角に行ったときと、初めて(先生になって)ビデフォードに行ったときだ。私はあまり体調がよく無かった。
と言うことだが営業時間外にやることがない。これが悪い方向に作用してしまった。一日中それほど悪くはなかったのだが、オフィスを出てから、「あれ?」半マイルの道のりを知っている顔を見ることもなく歩き、気がついたら見知らぬ場所に一人でいた(下宿のことか)。狭い小さなホールの寝室には、私の家の神々(懐かしい事物のこと)が一人もいない。
淋しさに身も心も蝕まれベッドに倒れこんだ。慰められることを拒否した。しかし今はもうすっかり慣れた。唯一今は、会社を出て寒い中を歩いて帰るときがブルーな気分だ。秋の夕暮れ。そのとき私は丘の上の古い赤い道。自宅の愛すべき「書斎」や「家」が恋しくなる。
ちょうどホームシックが一番ひどいときに展覧会を訪れた。そのときが私の苦悩のどん底であったことを覚えている。
その日のうちはこれほどひどい孤独に襲われることはなかった。そしてできるだけ低くなったところで、私は上昇を始めた。(気分が一番悪くなって、また良くなり始めたと言う事か)
そもそもその日は退屈な一日だった。3時半に降りて(退社して)急いでWCA(YWCA、キリスト教女子青年会といい、困っている女性の支援をする会)に行き着替えた。そして路面電車に乗った。混雑していて、乗っている人は私以外のすべての人が皆誰かの知り合いだった。(知り合いと一緒に電車に乗っている人が多いと言う事)
グラウンド(ハリファックスの古い埋葬の土地)で降りたときレインコートを置いてきてしまった。電車から離れ雨が降り始めるまでそれを見逃すことはなかった。私はそれを回収した。(すぐ気が付いたという事か)
この後、コートを着ることになるのだが、そのときが最後のチャンスだった。1セントでもあれば、私はその展覧会を見ようが見まいが、その場から立ち去る。(乞食になったつもりで帰るということか)
しかし、誰も1セントを出してくれなかったので、私はふらふらと歩き、25セント払って(展覧会の)中に入った。その展覧会について説明するように言われるのはあまり好きではないが。(それでは)「目が見えない人」の烙印を押されそうで怖い。私は(展覧会の)人ごみの中をさみしく歩き回りバカを見ることになるだけだろうと知っている。そう感じたからだ。
もし私がここに来たときに期待していたように、ただの観光で来ていたなら、私は百万分の一でも気にしなかった。しかしこのままでこの見知らぬ人たちの中にいると、すべてが台無しになる。私はただ肘を曲げてお金のために十分長く滞在したと判断できたときは(料金に見合う元は取ったということか)うれしかった。
土砂降りの雨の中退出し、混雑した路面電車が来るまで10分ほど待った。電車がやってきて、他の数人と一緒に無鉄砲に乗り込み外側に立っていた。つり革にぶら下がり、二人の獣(ムサイ男)の間に挟まれながら家路についた。濡れた長いゴムのコートを着た男たち、そのうちの一人が悪い葉巻を吸っていた。
だから、私の展覧会への旅は大成功とは言えなかった。今振り返ってみてもいい気はしない。

1901年11月18日(月曜日)
エコーオフィス
ハリファックス、ノバスコシア
今日は、物事が裸で自然な罵声を浴びせるような一日だった。昨夜はよく眠れず、一日中不機嫌で、みんなもそうだったらしい。そして今日もまた編集部の惨めなジョークが一つトロッコから外れてしまった。(受けずにシラケてしまったということ)
午後からはまるで荒野を彷徨うような生活になってしまった(気分が殺伐としてきたということか)。しかし今、雲は晴れてきた。新聞は印刷され、そして下の事務室の誰かが、コピーボックスに大きな糖蜜の「キス」(差し入れ)を送ってきてくれた。この繊細な配慮が私の荒れた羽をなめらかにしてくれたのだ。(がさついた気分を鳥の羽根の荒れに例えている)(さすがに会社の管理部は社員の気持ちこともよく気が付くと言うことです)
さて、「再開と前進」(気分を取り直した)だが、W.C.A.で1週間過ごした後次の場所へ移動した。(モンゴメリはハリファックスでの就業中、始めはY.W.C.A.に泊まっていた)
チャーチ・ストリート23番地の現在の住まいはまあまあ気に入っているのだが......。このところ執筆活動になかなかまとまった時間がとれず苦労している。私の給料は食事代と寝床代だけで、しかも法律違反である裸で出歩くのは気候的に無理があるので、その分のお金を稼がないといけない。(衣服も買わねばならない)
他の方法で身を固める。(短編小説で稼いで生活費の足しにする)
最初に思いついたのは夜に書くことだった。まあやってみたんだ。2つの市場性のあるアイデア(売れそうな小説の筋)だ。それにストッキングにダーニングを施し(穴やほつれを修理する)、ボタンが縫い付けられている襟を立てなければならない。
そして毎朝6時に起床し、出勤前に執筆することを決意したのだ! 2回、いや3回やったかもしれない。そしてそれは不可能だと結論づけた。空腹で肌寒い部屋ではいい仕事はできない。よくあることだが、前夜は遅くまで起きていた。そこで私は自分にこう言い聞かせた。厳粛に。
「さあ、モード、どうするんだ? プリマスの信条(イギリス人がアメリカ13州植民地の人間を別の国の者として見下したこと。我が家以外のところでは小説は書けないと言う事)を捨て去り、この問題から逃れるために、あなたは2つのコースを選択する必要がある。それはあの狭い島に戻るか、何か計画を立てるかどちらかだ。そうすれば "ポットボイル(雑誌に売り込む駄文)の製造が可能になる" そこでモードは一生懸命考えた。
さて、私はかつて家で、天才の炎を燃やすためには私は一人で邪魔されない孤独が必要だと考えていた。私は一人で部屋は静かでなければならない。それはって言えば小説を創造するためには最後の手段だったんだ。
新聞社で何か書いたり、ましてや価値のあるものを書いたりすることはできないだろう。数分おきに校正刷りが落ちてきて人が出入りしている。記者と会話し、電話が鳴り響き、機械がドンドンと音を立て、引きずり回されながら...。
こんな場所で小説を書けるか? 私ならその考えを一笑に付すだろう、いや嘲笑することになるだろう。しかし不可能を可能にしたのだ。私はアイルランド人の意見に賛成だ。「何にでも慣れることができる、たとえ首吊りでも!」。
そこで毎朝、ここで(新聞社で)私は文章(雑誌に投稿する小説)を書いているがそれも悪くない。もう慣れた。パラグラフ(文章の段落)の途中で止まって、不審な電話をしてきた人にインタビューしたり、また韻を踏んだら(詩を書いたら)一旦(物書き)を中断して校正と皺くちゃの原稿を読み清書する。一日の仕事のうちではあるのだが気に入らないことがある。努力はしている。しかしそれはしなければならないことであり、私は不平を言わない、いや、少しも言わない!
最近、私の(短編小説が)私の背中を押す(やる気を出させる)一流雑誌に載ったから褒めてくれてもいいよ。特にデリネーター、スマートセット、アインスリーなどはこの茨の道をさまよう哀れな羊飼いを受け入れてくれるのだ。(生涯に500編以上の短編小説を書いたモンゴメリは新聞社の仕事の合間にも小説を書いていたのですね)

1901年11月23日(土曜日)
エコーオフィス
ハリファックス
...私は今、デリネーター誌から25ドルの記事に対するCテック(小切手)を受け取ったところだ。見てくださいこのスマイル。
また一週間が終わってしまった。明日は日曜日だ栄光あれ。私はこのところハリファックスに来てからというもの、ある種の宗教的な放蕩三昧に耽っている。すべての教会を回った。先週の日曜日の夕方、私はノースエンドにあるユニバーサリスト教会へ行った。とても面白い教会だったが、確かに地道な活動としてはあまり気にならないだろう。講演会やコンサートを組み合わせたものだ。牧師は「何をすべきか」というテーマで、非常に論理的で痛切な真実を語ってくれた。
男は本当に不老不死を信じるのか? 音楽は魅力的だ、私はしかしその信仰がどこにあるのかはよくわからなかった。私の親愛なる正統派の人たちがどう思うか想像して思わず微笑んでしまった。キャベンディッシュはこの素晴らしいパフォーマンスをどう思うだろう。確かに彼らは半分は理解でき、残りの半分は恐ろしさでいっぱいになるだろう。
礼拝はとてもシンプルだった。私がSt.S.(セントサンダンス教会か)に行った日曜日、もう一方の極端にいたLuke's教会に行った日曜日。そこは非常に「高尚」であり、そこでの宗教的遵守は肯定的なものとなっている。骨組みも意味もない無味乾燥なものだ。キリスト教の真髄は儀式の殻に包まれ、ほとんど失われている。
編集室の頭上で何をやっているのか知らないが、彼らはまさにカーニバルを謳歌しているようだ、ドンドコ転がしたり引きずったり。今にも天井が落ちてきそうだ。
あのコンポジットルーム(印刷の活字を組む部屋)は不思議な場所だ。ある日思い切って上がってみたら大きな不気味な部屋で、多くの不気味な人物が不気味なものにかがみ込んでいる。活字のガレーと(ギャレー、活字が並んでいるところを展覧会と皮肉った)、片側に並んでいるライノタイプ(キーボードを打つと活字の母型が並べられ、それに溶けた鉛を流し込み、自動的に印刷の版を作る機械)の機械が不気だ。その様子はノーム(小人の職人)の薄汚れた仕事場のようだ。ライノタイプについては、私は魔法だと信じている。まるで脳みそがあるかのように、素晴らしいことができるのだ。(なんでも手作りの社会で生きていたモンゴメリが今のAI技術を見たらどう思うであろうか)
次に訪れたのは地下室、詩的に言えば「地獄の台所」だ。ここでは大きなプレス機が巨大なロール状の白い紙を一端から取り込みそれを落下させる。もう一方からは、切って折った「エコーズ」が出てくる(輪転印刷機のこと)。この時代における人類の天才的な叙事詩は、今世紀は巨大な機械仕掛けの世紀であるということだ。2~3千年前、人は不滅の詩を書いた。今日彼らは驚くべき発明品を作り出し、かつては想像もしなかった自然の力を意のままにする。どちらが優れているか、ああ黄金時代の神々よ、結局のところ、私たちは失ったものと同じくらいに得たのだろうか? 世界の美しい幼年期は永遠に失われた。歌い、恋をした過ぎ去った数世紀の間その時代はあった。戦争する青春!
私は新聞社にいることを忘れていた。
この時期のハリゴニアン(ハリファックス民)にとって最大の出来事は、10月のロイヤルビジット(皇族の訪問)である。ハリファックスは、その頭上が華やかで豪華な装飾で飾られ、その上に立っていた。華やかで愛国的ではあるが決して美しくはない。私たちのオフィスは黄と緑で飾られ、まるで黄疸が出たかのような状態だった。
ホイ公爵夫妻は10月19日(土曜日)午後にこちらに到着した。私たち新聞社以外のすべての人は休日だった。しかし私たちは急いで2時までに出発。私は抜け出して州会議事堂に駆けつけた。門の前で30分ほど凍えながら立っていた。やっとのことで報酬(目指す侯爵夫人の姿)を手に入れ、馬車が到着したとき公爵夫妻が門を出たところを、私は自由自在に見ることができた。
未来の王は、赤い鼻を持つ取るに足らない男だ。公爵夫人は大柄で、どちらかというと立派な格好をした女性で、どちらかというと黒を基調にしたダボダボした感じだ。
私は2時に降りた(会社から?)のだが桟敷席には行かなかった。ハリファックスの町ではみんな行ったのだろう。私は誰も一緒に行く人がいなかったので行っても何も見えないだろうから、ただ家にいて祝杯をあげたんだ。新しい雑誌を読んだり、キャンディーを食べたりして、四半期休暇を過ごした。
夕方、私はミニー・マクドナルドと彼女の妹のケイトと一緒にこの街を見に出かけた。 イルミネーションはどれも素晴らしく、軍艦は壮大で、 シンシア(モンゴメリが新聞社で使っていたペンネーム)は、「おとぎの国の幼い夢」と新聞のコラムに書いている。 次の「コピー」(記事では)港には12隻の軍艦があり、船体、スパー(船の帆柱についている横桁)などすべてにおいて美しさが際立っていて電飾で浮き出ている。漆黒の闇に浮かび上がるその効果は幻想的だった。と書かれている。 やがて雨が降り出し傘を持っていなかったのでよく降られた。 ずぶ濡れになりながら「もうたくさんだ」と不満げに帰途についた。 王室の訪問はもうたくさんだ。私は恐ろしいほど風邪を引き、私の最高の帽子は臆病(よれよれになった、かぶって出かけられなくなった)になってしまった。 それ以来申し訳なさそうな顔をしている(帽子が)。 ,さて私はついにこの日記を最新のものにし、そして間違いなく膨大な量のナンセンスをこの日記に書いた。 しかし人はどこかに少しの無意味さを持たなければならない。 私の人生には他にあまりないのだ。それで私の説明が軽薄なのは当然である。だからそのままでいいのだ。

1901年12月8日(土曜日)
ハリファックス、エコー・オフィス
このところ忙しかった――まるでそれが(忙しさが)ニュースででもあるかのように! しかし私はビジー・ウィズ・ザ・ビー、事務仕事に追われ、ポットボイラー(金儲けのために書く粗末な原稿で、モンゴメリーが雑誌に載せていた短編小説のこと)を書き、クリスマスプレゼントを作り...。 買ったりするのも大変だからね......(自分で作るのか)等々。 この「etc」(その他の物)のひとつに、私が心底嫌いな仕事がある。私の魂を揺さぶるものだ。それは悪いことだ。 肉体が疼くだけでも十分なのに、それが魂に突き刺さるとなると......たまらない。 精神的な神経を酷使する。私たちは、私たちの新聞に広告を出すすべての企業を無料で取材する。 「そのため私はすべての店舗を訪問しインタビューしなければならない。 そしてその情報を「2本の棒」のようなコピー(宣伝文句)に結晶化させるのだ。毎日午後3時から午後5時まで、鼻が紫色になるまでビジネス街を歩き回る。 寒さでメモを取る指がしびれる。だから「もういいやと思う。 次回はもう、その頃には自尊心を取り戻しているかもしれない。もうかなりハリファックスの店員たちの高慢な愛顧の下に気持ちもしぼんでしまった。

1901年12月12日(木曜日)
ハリファックス、エコー・オフィス
(店に広告を出してくれと頼みに行くので)「自尊心を取り戻せなかったが、新しい帽子を手に入れたよ!」。それは悪い風のようなもので良いことではないが、私の嫌な任務が私にもたらしたものでもある。
先日の夕方、ボン・マルシェの記事を書きに行ったのだが、ボン・マルシェは精肉店であることを標榜しているハリファックスの施設である。経営者はとても親切だった。彼は言った「エコー紙が女性を派遣したことを喜び、エコー紙を励ますために、飽きずに続けられるよう(また広告を出してくれると言う事)良い記事を書いてくれれば新しいウォーキングハット(外出帽)を一つ送ってくれるそうだ。
冗談かと思ったのだが、昨日その帽子が届いたがとても可愛いものだった。ありがとうございますボン・マルシェ。

1901年12月20日(木曜日)
ハリファックス、エコー・オフィス
「この施設ではすべての雑用はこの男に任されている。現筆者」 (モンゴメリが自分のことを雑用係に例えて言っている。どこかの文章の引用ではないかと思われる)
 今までで最も奇妙なものが昨日来た。 ある作家が "A Royal Betrothal"(王家の婚約)という物語を組み立てていた。それがあるイギリスの新聞に掲載されたものを(エコーオフィスでその小説のコピーを取り寄せて)、半分ほど読み終えたところでコピーを紛失してしまったのだ。そこでタウントン氏は私に物語の「終わり」を書くように要求した。私は息を呑んだ。 どうすればいいのかわからない。私はこの物語を見たことがなく、設定された内容も十分ではなかった。 最終的な展開を知ることができない。さらに私の知識では王室の恋愛事情は限られており、王と王妃を軽やかに表現する軽快な文章を書く習慣がない。 しかし昨夜は家に帰ってから仕事に没頭してしまった。どうにかこうにか完成させたということだ。それで今日「王家の誓い」の原稿が勇ましく出来上がってきたのだが、誰も私が継ぎ足した分と原文との継ぎ目がどこにあるのかわからないだろう? もし原作者がこれを見たらどう思うだろう。 彼、彼女はどう思うのだろう。

1902年

1902年1月20日(月曜日)
ハリファックス、エコー・オフィス
昨夜ミルティー・クラークに誘われ、フォート・マッセイ校のホールに行った。私は「経験値」(作家の経験になること)を求めておとなしく中国人達に教えを請うた。彼らは30人ほど。その中で「緑は緑に」原則で「緑は緑に」と割り当てられたのだろう。(田舎者には私のような田舎者を割り当てるということか)
 一人は中国から来たばかりだと言う人がいた。彼は一言もしゃべれず、私は彼に英語を教えるための仕事を始めた。彼はよく発達した豚の尻尾を持っていて、ああなんと恐ろしい臭いを放っていたことだろうか(豚に見えるような不細工だったと言うのだろうか、正直でいい)。でもクラスの中には中国の小柄な男の子もいて、これでもかというほどかわいい顔をしていた。さて私の弟子はというと、英語を教えるのは、ビデフォード校の「アモス」よりもずっと難しい。
やれやれ。アーチーの家でお茶した時のことを思い出したよ。(モンゴメリはかつての教師時代に風変わりな子の家に家庭訪問に行って、ひどい目に遭ったことがあると言っている)

1902年2月1日(土曜日)
エコーオフィス
ハリファックス
今週ずっと続いていた「寒波」はいくらか和らいでいる。私はこの時期(冬)が始まって以来ずっと「凍りつき」状態だったので、今気がつくと「凍りついて」いた。徐々に解凍され蘇生していく感覚は、とても魅力的だ。斬新です。
ちょうど「週間シンシアの庭」(新聞のコラム)の原稿を書き終えたところで、暇なときにスカーレットレターを再読している。初めて読んで以来、たびたび読み返している。
何年か前、学校の茶色い机の後ろで読んでいたとき、そこではたくさんの青リンゴから小説まで、おいしい「禁断の果実」をむさぼり食っていのだ。
今週のある日、ロッティ・シャットフォードが私に会いに来た。「正直なところ、私は......私たちの友情には何の価値もない。それはどうでもよかった。昔ダルハウジーで感じたことだ。
彼女は知的だ。しかし彼女と一緒にいて本当にくつろげるとは思えなかった。明るい彼女はとても賢いのだが、私はどうしても束縛感を拭い去れないのだ。どこか私の性格上、彼女が近づくと本能が閉ざされ拒否されるのだ。ロッティは近代的で、快活で、陽気な人だ。私は彼女の好意を失いたくない。しかし相互の重要な要素であるこの不思議なもの、親和力と呼ばれるものが全くなく、何もない。
それを補うことはできない。二人の間に存在するのは、一見すると共通点はほとんどない。またこの場合のように意見や好み、追い求めている物が非常によく似ていて、ほとんど奇妙に思えるほどだが、本当の意味での精神の交わりは存在し得ない。正直なところそうかもしれない。私は長い間自分に言い聞かせようとしてきた。ロティと私の間の漠然とした絆は、本当に上流階級の友情のもの(知的な交わりのことか)だったのか。しかしそうではない。彼女は私の人生のどの局面においても本当に何の価値もないのだ。何もないのだ。
私たちのどちらかが、もう一方の所有物であり(お前は私の求めるような者になっていろということか)、そのため私たちのどちらも、自分自身を見つけて主張することができない。その中で自分の中のロッティは、多くの点で立派だが、私には向いていない。
今後、私は私たちの関係をありのままに受け入れ、もはや努力することはないだろう。それ以上の価値を見いだすことができず、失望を繰り返して苦い思いをすることになる。ホントです。愛情は知的な経験則では生まれない。私はあきらめる。無駄な試みはやめよう。

ロッティ・シャートフォード

1902年3月15日(土曜日)
ハリファックス、エコー・オフィス
私は死んでいない、おそらく私のやや長い沈黙とから推測されるように前回のコラムでは全体的に暗い雰囲気で書いた。それどころか私は己を元気で華やかにしようと思う。しかし私はまだあの恐ろしい時をヒヤヒヤしながら振り返っている。まるで自分が病気になったのと同じぐらい急に元気になった。そしてそれはなんと陽気なことであったことか。それ以来、私は人生を楽しんでいる。
 悪い銘柄のタバコは私の魂を縮こまらせる。ゴールディングは副官で、私の代わりに勤務している。いつか興味本位でタウントンさんが不在のときにタバコの銘柄と入手先を教えてくださいと聞いてみようと思っている。
バクスターは今、ジョークを言った。私は立ち止まって笑わなければならない。ちょっと失礼します。これで任務は完了だ! そうだ私はまた大丈夫だ、栄光あれ! でも書くことがないんだ。私は何もしていないし、このところ記録する価値のあるものは何もない。
今日は土曜日の夜だ。明日は公園を散歩しようと思っている。天気予報によると晴れだそうだ。

1902年3月29日(土曜日)
ハリファックス、エコー・オフィス
今週は惨憺たる状況だ。雨と霧が降り続いた。骨や骨髄だけでなく魂にまで入り込んできてもやもやさせる。
しかし私はそれでも生きている。校正刷りを読み、見出しを分解し、植字工と喧嘩をし、バクスター(記者の1人であろう)と冗談を言い合った。私は不潔な金儲けのために、いくつかの日曜学校の詩を挽いたが(詩を書くことを小麦を挽いて食べ物を作ることにひっかけている)、いま私は心から一つの本当の詩を書いた。
私は自分の「鍋奉行」的(事務所の賄い的な仕事)なものが嫌いだ。しかし書くことはこの上なく楽しい。私が崇拝する芸術の適切な化身となるような良いものを書く。結局のところ悪意ある神々でも、すべてを汚すことはできないのだ。少なくともひとつだけは触れることができない。

1902年4月8日 火曜日(火曜日)
ハリファックス、エコー・オフィス
昨夜はペンシー(ペンシー・マクニールはモンゴメリの子供の時の友達だった)の夢を見た。私たちがまた一緒に子供になっている夢を見た。海岸をさまよっている過去を鮮やかによみがえらせてくれた。このような夢は、起きている時間の単なる回顧にはないものだ......。(その場にいるように感じる夢は単なる追憶とは違い、鮮やかである)
 ペンシーと私は、成長するにつれて疎遠になっていった。それはどちらのせいでもなかったのだ。子供時代という絆は過ぎ去り、共通の趣味もなくなった。しかし(私たちの友情から)何も奪うことはできない。
ペンシーは今、妻であり母である。あの頃の子供とは大違いだ。昔の遊び時代は私にとっては全く別の生き物に思えるほど、かわいそうな小娘。誤解されがちな、行き過ぎた空想と、奇妙な内なる夢の生活。
誰も予想しなかったことだ。彼女は古風で小さなモードだった――昔のモードだ。欠点はたくさんあるけれど、心はとても愛に満ちていて温かい。私もあの頃はこんなに暖かくて、愛に満ちていて、ハングリーで激情的な小さな心だったのか!? あの頃の火種はすべて燃え尽きたのか。そうではないだろう。ときどき燃え上がる
そして、私の魂が痛む。哀れな魂! そして哀れな心! いつも不平等な関係で一緒に苦労してきた。しかし当時は魂(野望のことか)がない――とにかくとても小さい――おそらく胚の状態である――そして幸せであることに気づかない。魂の進化が始まったとき(将来の夢が起こったとき)苦しみがある。それでも、魂(夢)があることは良いことに違いないし、おそらくいつかその成長の痛みもなくなり、すべてがうまくいき、価値あるものになるだろう。

1902年5月1日(木曜日)
モリス・ストリート25 ハリファックス
私は「逃亡」した。マクドナルド夫妻はこの春に家事を放棄して夏休みの間、寮に入ることになったので、私も予告して引っ越した。私は今はもっといいところにいる。今、私の凝り固まった魂は解凍され始めている。
モリス25番地は大きな灰色の石造りの家で、アンドリュース夫人とその家族(娘)が住んでいる。私は最初Aさんは未亡人だと思い込んでいた。Aさん(旦那さん)は、もう亡くなっていると思ったが、まだ生身でいることがわかった。
抑圧されている私は3階の小さな部屋から(屋根裏部屋か)、数エーカーの裏庭を眺めている。裏庭は私の宿命のようだ。
ケイト・Mとミセス・Mは私の部屋の隣に大きな部屋を持ち、ミニーは正面の(道路沿いの)部屋を持っている。もちろんこの3人が楽しい時間を過ごすのは言うまでもない。
私たちの「フラット」(3階のフロア)には他のボーダー(間借り人)もいる。
一人はマカフィーさんという方で、某社の店員をされている。呉服屋さんである。彼は背が低くてハゲているがとても楽しい人だ。
コルボーム氏もまた呉服屋さん。
「コリー」は大きな「牛のような」目をした良い心の持ち主だ。彼はいい女になりそう(な優しい顔をしているの)だが、まあ「神が作ったから(神が彼を男に作ったから)、男で通す」のだろう。
(コリーの)「同居人」のアンディは薬屋で、まったく面白みがない。(モンゴメリは人物の観察に余念がなかった)
2階の大きな部屋には、3人の子持ちのピアソン夫人が住んでいる。彼女はいい人なんだけど面白みがない。そして私たちのサークルの最後は、グラントさんだ。84歳の若々しい独身男性で、一日中酒類の卸売店で働きながら遊びほうけている。
夜はケイト、マカフィー、そして私と一緒にホイスト(議論し合いか)をする。その上彼は私たち女子には、良いことも悪いことも、そして無関心なことも、どんなジョークでも吹っ掛けてしまうのだ。
84歳でも役に立つんだ。

1902年5月4日(日曜日)
ハリファックス、モリス通り25番地
私は自分の部屋でこれを書いている。グラント神父以外の人は、皆教会に出かけたままだ。
私は家にいて、タウントン氏のために小説(新聞に載せる小説の原稿)を"expurgate"(取捨添削)した。氏の留守中、ゴールディング氏がEcho誌(モンゴメリが勤めた新聞社の夕刊紙)に連載を始めた。
(小説を書いた人が)"アンダー・ザ・シャドウ"A.P.A.の資料を手に入れるべきところを、そうせずに本屋でセンセーショナルな(恋愛)小説を買ってきて(参考にして)書き始めたのだ。その小説はTさん(編集長か)が帰ってきたときは、まだ半分しか終わっていなかった。それでこのままでは夏が終わってしまうので、私はそれ(原稿)を受け取り、容赦なくすべての不要な部分をカットするように命じられた。私は指示に従いキスや戯言のほとんどをカットした。抱擁、愛の営みの3分の2、そしてその結果幸せなことにすべての描写を通常の3分の1ほどの長さにまで短縮することができた。
主よ、この作品をこのまま設置しなければならなかった(新聞の版に組み込むこと)編集者の魂にご慈悲を。

1902年5月12日(月曜日)
ハリファックス、エコー・オフィス
今日はこの一ヶ月で一番笑った。私は再び「悪童のダーリン」を読む。その本は、私の日記であるあなたに責任がある。この本から私は初めて汚物をつけ始めた。私が9歳くらいのとき、キャベンディッシュのフレイザーさんが、「汚物」をくれた。
その本は我が家に下宿していた学校の先生が持っていた。当時は古典的なものだった。私はこの本を何度も読み直して、すぐに「ディリー」(日記)を書き始めた。
フールスキャップ(学校の先生が売る原稿用紙)を折って切って4枚縫って(閉じて)本にし、赤い紙で覆った。表紙には「Maud Montgomery's Diry」と書いた。
数年前、私は象徴主義的な発作で(つまらないものだと思ったのか)それを燃やした。本当に残念なことだ。文学の珍品の一つとして保存しておくべきだったのだ。
この「悪ガキ」は、もちろん私のモデルである。彼はほとんどすべての単語を悪意で綴り、だから私も悪意を持ってそうした。彼はいつも悪さをしていて日記に書いている。私は元来あまりやんちゃではないのだが。
本好きで夢見がちな私は、それでも多くの悪戯を企てた。"デア・デイリー"(私の親愛なる日記)に書くためだ。しかし、それ以来私はその本(「悪童のダーリン」のこと)を見たことがなく、すっかり忘れていた。新しい発見だった。今日も無茶苦茶面白くてつい吠えてしまった。
当時はかなり真剣に読んでいたので、昔より面白いと思うようになったのだろう。"リトル・ゴーギーを"モデルにして"ヒーローに"

1902年5月20日(金曜日)
25 モリス・ストリート ハリファックス
今日、私は内心大笑いした。ダートマスの女の子、ラッセルさんが、最近私たちのスタッフに加わった、どちらかというと素敵な人だが、私にこう言った。
「私が今まで読んだ中で最も奇妙な作品です。章から章へさまよい続けている。何週間も経っても埒が明かず、8回で終わってしまった。リケッティ(感染症のことか)分割。理解できないわ」。
私は彼女のために謎を解くことができたのに、解かなかったのだ。(私が添削して短くぶった切った新聞の連載小説のこと)

5月31日(土曜日) 1902年
ハリファックス、エコー・オフィス
今日はオフィスでの最後の日!? さて申し訳ない。私はこのデスクに腰を下ろしている。この日は快晴ですべてが順調だ。いつも通り(通りで誰かが)ジョギングしている。プシューッ、心臓が痛くなりそうだ。
いずれにせよ私はここですべてうまくいっていることを知っているので快適である。あのダン氏(事業部長)もそう言っていた。マクレラン氏(編集長)は私に、この建物を手に入れることができると言った。(ここでずっと働いてもいいと言った)
秋になったらまたここに来たい。来たいけど来れないと思う。そうしよう。もうチャンスはないかもしれないのであきらめるのは残念だ。でも私はおばあちゃんと一緒に家にいるべきだと思っている。彼女は幸せでも満足でもない。プレスコット(お婆さんの息子であるジョン叔父の息子)にひどい仕打ちを受けた。奴は昔から悪党だったんだ。彼は最後までそうであろう。

月曜日の夜、1902年6月2日
ハリファックス、モリス・ストリート25番地、ノヴァスコシア
私は疲れていて笑うと肋骨が痛くなる。私は本当に人はさまざまな方法でこんなにたくさんのバカをすることができるのかと思う。しかしジョサイア・アレンのように「先回りをしてはいけない」。ジョサイア・アレンの奥さんですか? そうでなければ......どこかの他の有名人。
 昨日の朝、ケイト・マクドナルドと私は "ループ"した。つまり、私たちは玄関先で路面電車に乗り込み、玄関に戻るまで延々と乗り続けた。また5マイルの遠足だったが、ハリファックスの見るべきところをすべて見てきた。でもハリファックスは今きれいだ。木々は立派に葉を茂らせ、どの草地もタンポポで色鮮やかだ。
 午後はMcLellan夫妻とお茶をした。アニー・フレーザーがシャーロットタウンに来ていて、とても楽しい時間を過ごすことができた。アニーと私は夕方、フォート・マッセイでの最後の日曜日の晩の礼拝に行った。確かに教会だ! 教会としては私などは用なしだから。冷温庫と呼ぶべきだろう。昨年の秋からずっと定期的に通っているが生きている人は一人もいない(知り合いがいない)。牧師も一度も私に話しかけたことがない。
 私は毎週日曜日の夕方、中国人たちの学校で教えている。その時マーティー・クラークが私を教育長に紹介し、私が授業(教師)を受けることを告げた。そのとき彼はお礼の言葉もないと言って喜んだ。先週の日曜日に私は先生のところへ行きこう言った(私は此処を去りますのでもう教師はできません)、彼はアイムソーリー(残念ですな)と言った。先生たちは誰一人として私に話しかけたことがない。学校内の誰であってもその程度の関係だったのだ。
礼拝の後ファルコナー氏が電報を読み上げた。その日キッチナー卿はボーア軍将兵と和平条約に調印した。これは長い間引きずっていた戦争がやっと終わったということだ。教会にいた全員が大きく息を吸った。なんともドラマチックな瞬間であった。私は、あの戦争の最初の段階の興奮を忘れることができない。それはその時生きていたということが大事なんだ。しかしこのところ退屈な藪漕ぎが続いている。
日曜の夜だから(講和の)祝賀のためにできることは鐘を鳴らすことだけだ。鐘を鳴らす。彼らはこれを力いっぱい実行したのだ。帰宅した後ミス・アンドリュースと私は公園を散歩したのだが、そこはいつものようにメイドの女の子とその兵士でいっぱいだった。
帰宅してからは完璧にハラハラするような怪談を読んだ。それは最も恐ろしいことだ。ベッドで読んだのだが読み終わった後、私はどうしたと思うか?  電気を消すためにベッドを出られたか? いやだ! もしケイト・Mが幸運にも(見に来なかったら)そのランプは朝まで明るく燃えていたことだろう。ケイトの軽やかな足音が階段で聞こえたので、私は彼女を呼んで私の苦境を説明した。そして彼女に電気を消してもらった。もし私が自分でベッドの外に出てやっていたらきっと何かが来て、私が再びベットに乗り込もうとした時、足をつかまれてしまったに違いない。(このエピソードは赤毛のアン第三巻に使われている)この話はリットンの「お化け屋敷」で、私は良心的だと思うのでお勧めする。
さて、今夜ハリファックスは頭を上げたカインの方を向いて立ち、その方法によって平和を祝う。(旧約聖書でカインが弟のアベルを殺した罪から立ち直る故事にちなんでいるのか)足で立っていられる者は皆外に出ていた、ミン、ケイトそして私も。あまりの面白さに言葉が出なかった。私はこのままではまた顔面がこわばる。この先もずっと壮絶なニヤケ顔が続くのだろう。(6月にモンゴメリはキャベンディッシュに戻った)

新聞社の建物

1902年9月21日(日曜日)
キャベンディッシュ
最近新しい友達ができた。これはキャベンディッシュではある種の趣がある。奇跡的だ。その人はノーラ・ルフルジーといい、学校の先生をしている。
ジョン・レアードの家で下宿している。私たちは最初からお互いに好意を抱いていた。それ以来ずっと仲良くしている。ノーラは私にぴったりだ。私たちは決して退屈することなくお互いに楽しくて仕方がないのだ。彼女は私にとってポジティブな神の贈り物だ。キャベンディッシュには他に親しい友人がいないからだ。アマンダ(モンゴメリの小学校時代の同級生)と私のあいだは、もうずいぶん長いこと私たちの友情は空虚なショー(見せかけだけ)に過ぎないのだ。ルーシーと私はかつて表層的な意味で(うわべは)親密であった。しかし1年ほど前、私は彼女の中に欺瞞と裏切りを発見してしまったのだ。
彼女が他人に対して罪の意識を持つ(憎まれ口を利く)ことは知っていたが、私はそのことは愚かにも彼女が私に対して実践することはないと信じていた。このことでまったくもって私の彼女への好感度は地に落ちた。私は自分の立場上、彼女と表立って別れることはできない。
しかし、それ以来私は彼女を親密な関係から完全にシャットアウトした。つまりノーラは「長い間感じていたこと(趣味の合う友達が欲しい)」を満たしているのだ。

1902年11月30日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
ものすごく眠い。ここに書き込んでいるより、ベッドで寝ている方がいい。この日記を最新(の書き込み)にしたら、「すぐに、そして、すぐに」行こうと思っている。
 11月は、実にエキサイティングな月だった。11月の初めにはバプテスト派が一連のリバイバル・ミーティングを開始した。彼らは「伝道師」を雇い、その手助けをした。マクドゥーガル(クリスチャンネーム:サム)と呼ばれている男だ。
本当に彼は美味しかった 彼はイケメンだっった。とろけるような黒い目をしていた。15歳の子供たちはその前に倒れた。その目はまるでナインピンのようだった。そして彼はとても悲痛なうめき声をあげることができた。また彼は歌え! その他は、無教養で、扇情的で、とても下品で歯がゆい思いをした。
私の精神を蝕む。しかし私は、そう、祝福された。とても楽しかった。残念だったのは一晩休まないといけなかったことだ。
このようなことが3週間ほど続いた後、暴露があった。キャベンディッシュではこの10年間、こんなスキャンダルはなかった。サム牧師が長老派だったと判明したのだ。バプティストの血は恐怖で固まった。哀れなサミーは追い出された。 それ以来平和と退屈が戻ってきた。
 金曜日の夜、ノーラはずっとここにいて、私たちは遅い時間まで話をした。そして昨日 フリーデ・キャンベルと彼女の従兄弟のジム・キャンベルが到着し、フリーデと私は 私たちの心に近い様々なテーマについて協議した。そのため私は2晩の寝不足を解消するためにこれからすぐベットに行ってくる。(モンゴメリは長老派だったが、キリスト教ではどの宗派の会合に参加してもいいことになっている)(アンの話の中で、町から来てホテルに滞在している観光客も参加している)

1903年

1903年4月12日、火曜日
吹雪になった! しかしそれは珍しくはない。この2週間にうちに冷たい雨に挟まれて何度か吹雪があった。どんより曇って冷たく不愉快な春である。天気は私に悪い影響を及ぼし、私は陰鬱で意気消沈した――人生における悪い状況と陰鬱な気持ちとに対抗する唯一の抵抗のため、お気に入りの4冊の古い小説を読み返して一週を過ごした。
 今日私は“7つの切妻屋根の家”を読んだ――そのような月のそのような日に読むには幾分不向きな本である。それは奇妙で気味の悪い創作である。それは私にすべての章の中でいくつかの不可解な印象を味合わせた。痛ましい涙が私の目に浮かんだ。そのような涙はいつも私を傷つける。かつて甘さに満ちた悲哀の本を読んで涙に暮れたことがある。そのような悲哀はいつも涙にくれる想像を私にもたらす。しかし今は――おー、苦い――苦いのみ!! 私は本を愛し、それを読むことに満足を見出す。私はいつもこの時間(読書の時間)を心労を和らげるための時間としている。かつて私は激しく獰猛に抵抗した。しかし成長するにつれて私はそれらの痛み(物語に書かれている悲哀の痛みと喜び)に折り合いをつけて楽しむようになった。“7つの切妻”はすべてのホーソン小説の中でも説明しがたい魅力を持っている。――それは軽やかで幻想的ですべての行に彼の想像がこもっている。
 しかし多くの本の中で私を傷つけない一冊は――アービングの“アルハンブラ”である。それは喜びにあふれており、私の陰鬱な生活に火をともしてくれる。アービングは、私をすべてを忘れてムーア人の寂れた宮殿と中庭の素晴らしい幻想に浸らせてくれる。彼の目を通して見、彼の耳を通して聞き、そして長く埋もれていた帝国の文明のロマンと魅力を飲む。この本は私を神秘的な世界へいざなう扉のように見える。私は草原の中で空を見上げる。私は喜びにあふれて歩き回り、青春の痛み無き喜びが戻ってくる。ワシントンアービング、私は感謝する。死とその墓に。彼の魅力は日々の輝かしさと暗さを網目のように織りなす動かぬ価値だ。私はあなたの“アルハンブラ”に感謝する。
 それから私はジョージエリオットの“アダムビデ”を読んだ。――またカップ一杯の悲嘆と喜びに混ざるために。苦さと甘さ。力にあふれる本である。趣のない終末である。彼女の描く人物描写は乱雑で自由奔放である。私は彼女の投げやりな筆致には共感しない。
 最後の4冊目は“ルべイヤット”である。血のような赤い紐で真珠を繋ぎ合わせたような東洋風の幻想である。1000年前のペルシアの詩人がなぜこんなにモダンな命を持っているのであろうか。――モダンなのは彼の無神論的な態度にかかっているのだ。彼の快楽主義と哲学である。彼はおそらく不幸な男で彼の“われらに食べさせろ、飲ませろ、そして陽気な明日と死を”の格言である。どのような人間がこのような不幸なステージにいつも立っているのだろう。彼らは憂鬱な未来に向かって進むしかなく、そして今日という日は彼等に獰猛な意志(世の中に対する不満)を持つ以外に与えられるものがない。“明日だ!” 年取ったオマールは軽蔑して叫んだ。
     “明日、我はする。
     われは7000年の昨日とともにある。”
彼が今日、良い時を過ごす方法は何だろうか、この不信心者に。しかし誰がそれを与えてくれるか? 我ら、我らのだれがのちの時代の単純な幸せで生きている我らのだれが? おお、だめだ! 幸せは捉えどころのない事柄である。我々は暴力的な手か“カップ一杯の葡萄酒”で騙して心を平静にすることはできない。――我々がみなすべて同等の価値を持っているわけではない。
 私は春の世界が来ることを望む。私は生きていることに疲れた。5年間のみじめな仕事の生活が過ぎた(郵便業務のことか?)。私はそれを不思議と思わない。それらの業務は私の親しい友達同様に常に私の回りにある。私は良く知られている“大変楽しい女性”である。うわべはいつも気持ちの良い“良い会社”(郵便局)である。そして“いつも気持ちがよい人”である。そう辛辣な人々が笑いながら言うと聞いている。それは彼らは私の仮面の下の痛烈な表情を知ることはないからだ。私は彼らが気づかないことに感謝する。私は人に軽蔑されたくない。そしてその苦しみを取り除いてくれるものはなんだか分からない――決して。そしてその原因は――私に? それは、はるかに大きなものである。(文学で成功したいという野望であろう)
 中でも最も悪いことは私がより良い方法を知らないということである。生活は毎年少しづつ小さな困難を私に加える。世界の中で私は孤独に実際的な生活に追われている。まもなく青年期は過ぎ去り、私はくすんだ土気色の顔になり、喜びも成功もなく孤独にあがく中年になる。
 私は天候は陰鬱な気持ちに大いに関係があると思う。日の輝きが戻ったとき私は再び悪くない生活であることを発見するだろう――しかり公平に。しかし熱狂的な幸せではない、熱狂的な幸せとはすべての普通の生活を続けていくうちに来る。太陽の光の中で私の心は再び新鮮さを取り戻す。
 古い日記が私の慰めになってくれるだろうか? それは私の暗い気持ちの吐き出し口だ。その中で私は苦々しい気持ちと痛々しい毒気のあふれる生活を見る。私が到達した偉大なる恐れは到底書き表すことができない。それらは私の最も暗い日々を思い出させる。おそらく私はこの古い家を出ていくことを望んでいたのだ。まぎれもなくこれは私の心を悲しませた。私は大変幸せではない。みじめで悲しいと思う。私はどこにいてもみじめさが付きまとう。――私の不運はこの家に対する愛のほかに愛を求められないからではないか。この家との別れは耐え難い苦痛である。私は去年の秋ハリファクスにいた時の寂しさを忘れることはできない。そしていつかここを立つ。もう二度と戻らない。その時私には10倍もの苦痛が襲うであろう。
 ノーラがここに来たとき私たちは交換日記を書き始めた。彼女はある日のことを書いた。そして私はその次の日を書いた。それはふざけた調子のものだった。それはすべての事柄をおどけや冗談で書きあらわしたものである。そして挿絵やマンガを独自に書き添えた。その中には少しでも軽蔑に値することがあればすべて収めた。私たちはうまくやったと思う。バカげたページ以外何もない――そうだそこには私たちがいる! そしてもう一つよりバカげていることは私の書く力がそれらをうまくやる助けになっているということだ。もし見知らぬ人がこの文章を読んだら、これを書いたのはまだ人生のことも知らぬ無鉄砲な10代の少女のカップルだと思うに違いない。その上で最も子供っぽい半分は――私の書いた部分である。

1903年6月30日、火曜日
P.E.島、キャベンディッシュ
私は間違えようもない楽しい6月を過ごしている――1束の幸せな日々を。私はそれを楽しんでいる。世界は輝いて美しい。とらえどころのない6月の夕暮れ。それらは11月の物悲しい日々に並ぶものである。
 ノーラは二、三日前に去った。彼女は学校で教える。私は彼女に大変な失敗をしてしまい、そして彼女が去ったことで安堵した。そのわけはおばあさんがいつも彼女の生き方を拒絶したからだ、お婆さんはこの家に他の夫人が入ってすることはすべて気に入らず、子供っぽく拒絶するからだ。ノーラはこの冬、彼女自身の確固としたバイタリティーあふれる滑稽な信念によって動き、そして私は彼女とお婆さんの間で金床とハンマーの間で打たれるように板挟みとなった。私はノーラのやることがお婆さんに見えないようにスクリーンを張り、平静に見えるように四六時中務めなければならなかった。私は去年の冬の日々を世界にいる親密な友人との交際に充てることが出来なかった…

1903年8月16日、日曜日
P.E.島、キャベンディッシュ
メイ叔母さんと私は今朝、B教会(バプテスト教会のこと)に行った。リジー・スチュワートがここに座れと示した。そして私はまさに私の後ろの席でエドウィン・シンプソンが日曜学校のクラスを教えているのを発見した! 彼は日曜学校の終りの祈りを唱えると、私の頭の方に身を乗り出した。私は誰かが私の表情を見て大いに楽しんでいると思いはしないかと思った!
 エドの説教は大変良い。けれども時には1時間に及ぶほど長い。私はいつも彼に与えられた知力の贈り物を公平に評価する。終いに彼は言った。
 “今朝ここに立っていると我々の過ぎ去った幸せと絶望の対比が浮かんでくる。”――それから彼はまっすぐ私を見た。彼が(かつて)何といって結婚の申し込みをしたか私は知らない、思い出すことはない。私の注意はどこかよそのところに向いているのだ。
 私たちは夕べのサービスの為に戻ってきた、私たちが出るとき演壇にいるエドに会った。そしてそれからのいくらかの間立ち止まって彼と陳腐な話をした。陰からすべてのジョン・クラークスとアーサー・シンプソンとが私たちの様子を伺っているような不愉快な時間だった。

1903年8月23日、日曜日
ルーとファニーと私は今週の午後ずっとあちこち訪問して浮かれ騒いでいた。私たちは死ぬ程ふざけ回った。もちろん私はそれ以外にも個人的に大変厄介な時も持った。その中から例を一つ上げる。
 
状況 アリス・マクニール夫人の応接間。A・マクニール夫人は後ろでかぎ針編みをしている。モードは真ん中にいて網細工をしている、ルーは右、ファニーは左にいて、背景に刺繍された座布団の覆いがかすかに見える。
 
  アリス夫人 ミスターシンプソンがこの前の日曜日の晩、説教をしたの聞きましたか? モード。
  モード    おお、知っています。(彼女は輪の加工を失敗した)
  アリス夫人 それはすばらしい説教でしたか?
  モード    大変よかったですわ。(ルーとファニーはモードの後ろから意味ありげな笑いを交わす)
  アリス夫人 そして私には彼はとても素敵に見えたの、どう?
  モード    おお、そうですね。(網は猛烈に憤って、息の下から“チェッ”と言った)
 
それはこのような場合には当然起こること。私はかつてこんな悪い事態に陥ったことは知らない。人はエドと私のあいだに何があったかなぜ知ることができるのか。人々はいかにしてそのような疑いを持つのか。誰がそのようなことを言ったことを知っているのか。そして私が彼らにどんなふうに返答するか見ているのだ。これは十分に悪い事態だ。しかし彼らの挑発は僅かなことでしかない。おしゃべりと質問の中にそれらの推測を混ぜておくということ以外にどんなふうに私に最悪の影響を与える方法があるであろうか。

1903年9月14日、月曜日
昨晩、エド・(エドウィン・シンプソン)説教師が再びB教会(バプテスト教会)に来た。それから間もなく私は、そこにソフィー・シンプソンが入ってくるのに出会った。おお親愛なるソフィー!。いかに私は彼女を愛していることか!! 私達が教会から出るとき、私は歩みながら彼女に話しかけた。彼女は直ちに回り中に聞こえるほど大きな声で私に尋ねた。“エドをみた?”
 私は答えた。しかしソフィーは私がいいかげんなことを言っていると思ったのだろう。エドが通り過ぎようとしたとき、ソフィーは彼を捕まえて、大きな声で言った。
 “エド、ここにモードがいるわよ!”
 もしエドがソフィーのために熱心に祈ってくれたら、彼女はずっと至福であるだろうと思う。
 今晩はソフィーとエドを呼んだ(私は嫌だが二人を呼ばねばならない)。私達は皆居間に座り、小一時間話し続けた。私はもう何を話したか覚えていない。そして彼が何を言ったかも。すべてが夢の中の出来事のようだった。ソフィーといえば彼女がどうしようとしているかわからない。彼女は不器用に相手をしながら何か私たちに取って重要な議題を出すように求めた。しかし私はバカのように語る言葉を知らない。エドもまた可愛らしい。善良さは良いこと。我々はすべてのことをどう解釈すべきか――私はソフィーと同じくらい考えた。あの少女は骨にゆっくりと肉をつけていく。彼女は嫌悪感を発散しているように見える。私は決して生きている魂が彼女がいうようにしゃべるのを聞いたことがない。(文法? 文法!)それは哀れな貧しい魂だ。そして私は彼女を(ソフィーを)憐れむ。――しかし私は長い道のりを行くのが好きだ。
 私は彼らを招いている時間が終わったことに感謝した。彼らが立ち上がるときエドは暖炉の下の小さなテーブルに横たえたバラの花を取り上げてルベイヤーにちなんで言った。――それは称賛すべき大学の教授の名だ。それから彼は私の目を見据えて四行詩を唱えた。
     “詩の本は木の枝の下に
     一本のパンと一杯の葡萄酒と
     荒野の歌の近くに
     おお、荒野は今や理想郷である。”
 その詩は決して運命を例えるには適当なたとえではなかった。しかしエドの長い求婚を終わらせるにはいいたとえだ。
 彼は来週の木曜にシカゴに旅立つ。そして私はどこへ出かけても彼に出会うという危険から逃れられる。
(モンゴメリは一度は承諾したエドウィン・シンプソンの求婚を翻して振ってしまいました。それからあともエドは彼女に言い寄ってしつこく付きまとっていました)

1903年12月3日、水曜日
今日雑誌の連載小説を請け負った――それは2番目の階段を上がることだ。それは私が尊重される作家とみなされるステキな知らせだ。それは大成への足がかりであると同時に500ドル(この500ドルは当時の価値で1ドルが1万円なら500万円も得たことになる。モンゴメリはこのほかにもたくさんの短編小説を雑誌い売り込んでおり、18歳の時以来、新進作家としてかなり稼いでいたと思われる)も得ることになった。今や編集者はしばしば私に原稿を依頼する。私の名前は今やいくつもの雑誌の目次に載っている“よく知られた人気のある作家の”名前となった。寄稿者の年が来た。そして出版社、編集者の年、フィラデルフィアの出版委員会は私のサインつきの写真を求めた。
 その通り、私は夢を現実にした。そして夢は現実より甘い。そう、しかし物語を現実的に書くことは夢を語るのにいっそうふさわしい。私は成功するために付きまとっている仕事と思索が喜びだ。私はそれに満足する。私の孤独な戦いを知らない者に私は援助も激励の言葉も何一つ受けていない。私の大望をあざけって笑った冷笑はいまや影を潜めた。金は彼らを黙らせた。しかし私は決して私をあざけった連中を忘れない。私の忍耐強さは多くの障害に勝った。私は今やそれを喜んでいる。



1904年

1904年1月3日、日曜日
なんという日であろうか! ひとつの巨大な雪嵐が世界の端から端まで覆ってしまった。そして寒暖計はゼロを指している。私は息が詰まったように感じた。窓ガラスは雪と霜で覆われ、いっそう閉じ込められた感じを強めている。それは3日の間続いたように見えた。
 以前読んだ雑誌の一節が頭をよぎった。――“不幸な人は日記をつける”と。“幸せな人は日記をつけるにはいそがしすぎる”と。 
 かつて私はそれは賢い言葉だと思った。しかし、しばし考えた後、私はその警句は本当ではないと断固として思った。それは本当である。私は完全に幸せな牧師というものを知らない。しかし私は日記をつけ続けて、それを行う時いつも大変幸せである。もし、忙しい人たちが幸せだというのなら、私は山ほど長く続く。幸せな義務をたくさん持っていた。
いや、この警句は次のように読むべきであろう。“日記は孤独な人が書き続けるものである”――日記は孤独で生活に追われ、そこ以外に緊張した気分を吐き出すすべのない人がつけるものだと。
誰かが,“語ることはそれ自身を超える”といった。私はそんなに強固に日記に固執しているとは思わない。私は日記にあふれるほどたくさんは書き込まない。それは相棒であり生活の断片なのだ。
 今日私はプリンスアルバータ時代の日記を読み終わった。私はそれらの日々を思い返した。そしてそれらの記憶が鮮明によみがえってきた。それは最も大切な日々の思い出である――それは過ぎ去った過去の光景と感覚と感情を呼び起こす力がある。

 私はプリンスアルバータでの日々を思い返したくない。特に継母と彼女が振るった大変不幸な権力のことを。しかしもしもう一度あの限定された過去の時代で暮らせるなら、私は喜んでそうするだろう。なんと “はしゃいだことだろう” ウィルとローラ、そして私で! 私が彼らのことを書いた部分を読むとき私の心は少し疼く。
 私は今夜何をしようか、わからない。私は檻に閉じ込められた動物の様である。一日中歩き回り、外では嵐がうなりを上げている。読んで読んで読みまくって、そして新しい小説の着想を何も得られないと、脳みそが締めつけられたような状態になり、力が抜けていくのを止められない。私は安堵感が起こってきて、最後の10分間に強く誓う。私は私の心の有様を正確に表現する。この誓いはたいていの場合より良い創作を生み出すためになる。そして社会の中で尊敬される作家になるために。

1904年3月11日、月曜日
キャベンディッシュ、プリンスエドワード島
…私はもうそれ程長く雪には閉じ込められない。親しい木々や野原の友人のところへ出て行くことが出来る。私は雪に覆われた恋人達の小道を横切っていった。私はこの場所に心酔している。――私はほかのどこよりもここにいるのが幸せである。さびしい冬の白い光景の中にいてさえも。
(モンゴメリは私は木の生まれ変わりだと言っています)

   
(これが恋人達の小道です。モンゴメリは広い草原よりも狭く入り組んだささやかな場所のほうが好きだったのでしょうか)
(ここは農場に挟まれた農道だったところです。今では道の両側がゴルフコースになっています)

静かな木陰の道のどこからそのような力が来るのだろう。どうしてここにたたずんでいると私の心は喜びの香油を注がれた様に生活の苦しみから逃れられるのだろう? それはわからない。しかしいつもここに来る。そして私はここにいることの喜び無しに時たま襲ってくる惨めさから逃れることが出来ただろうか。
私はその理由を知ることは出来ない――しかしここはいつも私に働きかける。そして私がここを情熱的に愛する時、私が惨めな気持ちでいるいくばくの間に私は自問する。ここなしに私は生活していけるだろうかと。いつか、すぐか先かわからないけれど、キャベンディシュを離れる時が来ると思うと私は(恋人たちの小道から)離れることに言葉にならない苦さを覚えるのだ。

…過去を振り返って考えて見ると甘くかすみのかかった年月と対照的に、ハッキリしたつまらない人たちの姿が浮かんでいる。私は彼らがもう少しましな人たちだったらと考える誘惑に駆られる。――私は彼らを買いかぶっていた。ありていに言えば彼らは私にしばしば、非常にしばしば悲しい時を過ごさせた。私は過去に戻って彼らと過ごす時間を取り戻したいとは思わない。私が幸せでないとしてもそのことを逆説的に考えることは出来るだろう。私は(それらの人たちとの経験から)より多くのものを学んだ。人生は豊かになり、私はより多くの(別の)生きる道を学んだ。いや、ほほえましい幼い少女気分よ、おまえは善良で美しい。そして私は(少女らしいことを)楽しむ。しかし冷静で先見の明のある気分に従えば、この最も値打ちのある少女らしい気分を保っていくことは出来ない。もし私が思慮足りない年代に戻れるとしても私はそれを望まない。

1904年3月16日、水曜日
キャベンディッシュ P.E.I.
私は今晩大変気違いじみたことをした――そのために今大変苦しんでいる。
 今日は吹雪が荒れ狂った。私は一日中気分がよくない――今日という日の陰鬱さは私が心に抱いていたある大仕事に取り掛かるにはうってつけの“陰鬱”さではあるまいか。私はその仕事に取り掛かり、不健全な考えには道を与えない。すべての良い考えは私に少しばかりの成功を与える、しかし今日はその仕事に取り掛かるのに十分な精神力がない。今晩私は何も読まず、仕事に取り掛かるのに十分な気分ではない。(読むことは)恐怖に立ち向かう私の唯一の手段である。
 不愉快な気分の中で、私は小さなかばんの鍵を開けた。そこにはウイリィ・プリチャードからの手紙の束が入っている。それらを取り上げて読んだ。それはおろかなことだと思う――それは私に不安と陰鬱な気分を与える――しかし私はそれらの手紙がどんな効果をもたらすか予測できない。何が得られるのかわからないが、それらの手紙を読みながら私は冷たい手に喉首を掴まれたように緊張し続けた。それらの手紙の束を読み終わってしまうのが恐ろしいので読むのをやめた。それは恐ろしい恐怖だ。私は部屋から逃げ出して2~3分考えた。もし私がそのような気持ち悪さのために悲鳴を上げなければ私は狂ってしまうだろう。身の毛のよだつ叫び声を上げることは心を落ち着かせることに役立つ。しかし私はそうせずにゆっくりと心が落ちつくのを待つ。
 私はベッドから起き上がって、それを書かねばならない。そして半分冷静に私はそれを書くのだと。おお、どうやって私は孤独な闇の中に光が降りてくるような状況を書き表せるだろうか? 私には出来ない。
(赤毛のアンの執筆にとりかかるような情景に見えますが、後でモンゴメリは赤毛のアンを書き始めたのは1905年の中頃だと言っていますから、この時から1年後ですね)

 私はなぜウィルの手紙が私にそのような影響を与えたのかわからない。彼は私に何もしていない。しかし彼はずっとよい親友だ。

私はそれらの手紙を読んでいる間中、居心地よく様々な夢想が乱れ起こる。しかし一日中続いた孤独で悲しい気分はもう過ぎ去った。そして私は激しく彼に対する好意が蘇って来る。彼は良い友達だった――そして私達は一緒に良い時を過ごした。そして彼は死んでいるのだ!!
 私は私の気分を納得することが出来ない。そして私は自分の気持ちを理解する手がかりをもっていない。私は恐ろしく孤独だ。可愛そうなおばあさんは年取って耳が遠く、子供っぽいことにこだわっている。彼女は何をするにもいつも私を頼りにしている。私は現実の友達を近くに持っていない。私はおばあさんを一週間中家から出さないようにし、知り合いの人が訪れたときにも、抑圧された不満を心の中に閉じ込めて出さないようにして、何も問題ありませんと話す。
 この古くからの日記(もう15年くらい続けていた)は、不平を並べるところである。しかしそれはすべての良いことを書くところでもある。私はずっと書き続けているが、ほかに何か良い方法を知らない。現実には私は途切れ途切れの仕事は出来ない。私はこの古い我が家を深く愛している。おじいさんはおろかにもこの家を私に相続させなかった――そして私はキャベンディッシュの村も深く愛している。これでもし私が少しばかりの世間付き合いと公平な自由を持っていたなら、私は完璧に幸せなのだが。そして私はそれらの手紙を読むとき、彼らに認められていた日々に戻り、そして彼らに答え、愚かしい喜びの会話に浸ることを望む。
 太陽の日が差して来たとき、私は正常に戻った。そして私は仕事(物書き)に戻ることが出来た。しかしそれは何の気楽さももたらさない。おー、私はこんなにも孤独だ――孤独だ――そして今私はそれに耐えることが出来ない。私は吐き気がする。おびえた赤ん坊のように希望も耐久力も度胸もない――何もない! 私は陰におびえ、吹きすさぶ風の音におびえる。おお、こんな気分が私の心の中に入ってくるとは! もし私はこの気持ちを言葉に出来れば、それは私を助けてくれるだろう。しかし私には出来ない――私にはこの気持ちを明確に書きとめることは出来ない。

 私はここに最後の気持ちを述べる。私はそれらの日々に戻りたくないのではないか。私は熟考する。私はそのように見える――しかしもし私が望まないのであれば――望まないのであれば! それらの手紙はウィルがかつての私の姿を見せたものである――かつての生活のいらいらさせる場所をよみがえらすものである。そしてかつてと今とのいらいらさせるような違いを思わせるものである。この出来事はすべての他の夜よりも私を満足させた――そしてすべての満足感が戻ってきた。これはもうよそう。
 しかし私はひとつのことを思う――私がこの古い手紙を読みたくなったのは今日のような日だからだろうか――いや、いや、違う――私は 過ぎ去った過去をそれ以上想像することは出来ない。この過去は死んだようなものであるー―しかしこのことについてそんなに長く追っていくことは出来ない。
 おお、ウィル、ウィル、もしあなたが戻ってきてくれたなら、そしてそして友情が再び戻ってきたなら! 私はこの愛について考えることが出来ない――それはこの気分のためには何のためにもならない――確かに。私は愛について考えるのは嫌悪を覚える。しかし私はそんなに長く、この古い友情を苦々しく思っているのか。この感じはウィルのことを思うたびに戻ってくる。おお、ウィル、あなたはどこにいるの? あなたはどこへ行ってしまったの?
 私は死んでしまったのかもしれない。私は生きることについて考えるのは苦手だ――退屈で孤独な明日の前に惨めな夜が来るであろう。私は灯りを消し激しく泣き始めた。なぜ私はこんなことを書き連ねているのだ――すべては馬鹿げておろかなことだ。これらはたわいないことをくどくど言っているように読める。しかし私は悲しくない。
 これは奇妙だ――しかし、もし私が今夜、どこか宇宙の深遠にいるウィルかハーマンのどちらかを選ぶなら、わたしはウィルを呼ぶ。わたしは決して彼(ウィル)の道に行かない。私はハーマンの道に行く――しかし今夜はわたしは彼を欲する。わたしは彼に会いたい――彼と一緒に笑いたい――彼の灰色の目が見える。そして彼のおどけた笑い顔が浮かぶ――わたしは彼の皮肉を聞きたい――皮肉を言ってもらいたい――浮ついたダンスやピクニックの場で。

(ウィリィ-・プリチャードはモンゴメリが少女の頃、父親に呼ばれて暮らしたカナダ西部、プリンスアルバータの町で友達だった少年です。ハンサムではありませんでしたが、頭がよく機転の利く少年だったので、モンゴメリは精神的な助けになってくれるウィルを大変気に入っていました。しかし1年後モンゴメリがプリンスエドワード島に戻ってからまもなく、ウィルは肺炎にかかって死んでしまいました)。

彼は手紙の中で語っている。わたしは彼の生意気さと不真面目さが欲しい。わたしは彼のしゃれたセンスと少年らしいお世辞が欲しい。
 しかし彼は死んだ――彼は死んだ。そして彼が今どこかの場所にいるにしても、彼はそれらの気遣いを使うことは出来ない――彼のそのような振る舞いを何も知ることは出来ない。おお、わたしは今は別の世の生活があることを信じることが出来ない。それは重苦しい考えである。わたしははあの世など信用できない――すべてが異なっている世界など!いや、いや、わたしはそこには行きたくない。
 これは狂気を伴ってくる。わたしはもう書くのをやめる。わたしはこれ以上考えることを望まない。おお、私は生きることに疲れた!

1904年3月17日
キャベンディッシュ、P.E.I

 私は昨夜書いた部分の日記を読み終わった。それはかなり悪い文章だが、より悪くはない。私は起きなければならない。私は泣きながら寝たことなど忘れて家事に取り掛からねばならない。今朝は私は起きたくなかった。――起きることは無駄のように見えた。しかしいまや起きたほうがよい。今日は大変輝く明るい日だ。そして私は働くのに足りる気分だ。もし私が逃げてしまえば私は気分よくなるだろう。しかし私たちはこの冬中より悪い日々をすごしていかねばならないのだ。それはひどく恐ろしい。今は3月の中盤で春のように見えるわけがない。その代わりに1月の光景と気温を持っている。冬という状況は気分をふさがせてしまう。しかし私の沈んだ気分には丁度いい贈り物だ。私は夏と自由を恋求める。

1904年4月9日、
……もし私が時たま私の友達に相談することが出来れば、私の見解はより正常になり、精神衛生にも良いだろう。しかしそれは出来ない。私の友達は、同性の友達ですらこの家に来ることを喜ばない。うちのお婆さんは非常に変わった偏屈な婦人だからだ。彼女は私が思い返す限りでは一度も他人が来ることを喜んだことはない。自分の子供たちを除いては。私のところに来るお客は明らかに歓迎されていない。自然と彼らは再び訪問しないように気を使うことになる。この不幸な欠陥はババアが年をとると共に増加し、しまいには私は誰にも家に来るように訊ねなくなってしまった。私はもうこの状態をあきらめてしまった。私はもこのことについて語らないことにした。
もちろん私はこの困難な状況は、どこかほかの場所で起こっていることだと想像することは出来る。しかしそれは私には何の助けにもならない。
私はババアに関する愚痴を並べた。しかし彼女は非常に困難な問題を抱えたババアだ。彼女はガリガリの細い腕を上げて何か気に入らないことを指し示す。私はババアが何が気に入らないのかわからない。“私はそんな(ババアの)要求には応えないことが出来る”――“断じて応えないことが”――しかし私はそのようには出来ない。そうすれば大変こじれた厄介な事態を引き起こす。そのかわり妥協する。彼女は大変年寄りで争いでは大変しつこい。お爺さんは彼女の気難しい性格をからかい、ジョン伯父さんとその子供達は彼女を大変ひどい目にあわせたからだ。私は生活の大部分をこのババアをなだめるために使い、プライベートな部分を社交的な生活に使っている。
……この春少しだけ計画が出来た。私の持っている庭のうち2、3箇所裸でいる場所に新しい植え込みをするために杭を植えて花壇を作る計画を立てている。自由に使える場所に植えつける、私はきれいな服が大好きで、花々を愛している。……私は明るい色の可愛いドレスが欲しい。それは丁度花のようだ。神は人間を花を植えるように育てる。神はこの世を飾るために(人間を)用いる。世界という庭に植える人間という花はすべて美しいものを植えたい。しかし神は非常に貧しい選択もしてしまう。それは明白なことだ! もしすべてのことが美しく計画されているならば神は人の衣装をバラとチューリップのように作るであろう。

(モンゴメリのおじいさんとおばあさん)

1904年7月6日、水曜日
キャベンディッシュ、P.E.I.
私はキャベンディッシュは地球上で一番美しい場所だと思う。私はこのような晩には散歩に行きたくなる。世界はすべて緑にあふれ、新鮮だ。
熟れた―しかし熟れすぎない豊穣さが尽きることなく包んでいる。そして緑の原を越えた先に青い湾の帯がある。海岸は絶え間なく海の響きを立てている。キャベンディッシュは私が住み、ささやかな社交生活を営むには完璧な場所である。幾人かの若い人たちとってはキャベンディッシュはありふれた場所に過ぎないだろう。

1904年8月3日、水曜日
私はこの上なく良い2週間をすごした。ノーラが戻ってきて滞在している。彼女はジョン・レアードのところに滞在している、私は彼女を家に呼ぶことは出来ない。家にはL伯父さん(リアンダー伯父さん)が来ているからだ。しかし私達は非常に精力あふれる有用な時間を過ごした。いくらかの午後、私達は海岸で過ごした。カメラと弁当箱を持って海岸へ下っていった。水着を着ると間もなく私達は水陸両用の生活をするために海に下りていった。泳ぎと飛び込みと写真撮影である。私達は一日中忘れられない波に漬かった。それは素晴らしく楽しいことだった。
 ノーラが家に帰る日、私はとても失敗してしまった。しかし私はこの楽しい二週間のことを何ヶ月も覚えているだろう。

海岸で写真撮影をするノーラ

1904年11月14日、月曜日
キャベンディッシュ、P.E.I.
どうして世界は悪い雰囲気の中に浸っているのだろう! 世界は昨日よりも醜くなった。――茶色の毛皮をまとった貴婦人のように威厳のある姿だ。昨日彼女は若気の挑戦をした。春の草原の上すべてを暖かい春の空気で満たした。暖かい陽光と青い霞と共に――そしてどうして汚れたのだろう。年老いた醜い魔女のように。景色はすべてぼろきれのように皺がよっている。彼女は一晩中、一日中怒って荒れ狂った。私は意地悪な風が木の回りでうなり声を上げ、窓にぶつかる音で早く目が覚めた。私は夜の嵐の音を聞くのが好きだ。風は心地よく吹き降りてきてやさしく包む。それは決して捕まえることが出来ないように見える。
 今日は荒涼としたもの悲しい日でそして夜もそうだ。二、三週間前にはそうなるとは予想できなかった。
 今晩私はくたびれた私の部屋を何枚かの写真で飾った。先週の穏やかな曇りの日、私は写真機を持って森に出かけた。私は年が眠っていく様子の写真を幾枚か欲しかった。そして牧場の角、トウヒの根元の小川、葉の落ちたカバノキ、そして白樺の枝、などいく枚かの写真を撮った。それらの写真はよく撮れた。そして私が町で得た余裕のある新しい額縁に納めた。私のささやかな趣味はなんと私に恩恵を与えてくれるのだろう。
 写真を飾り終わったあとで、私は何枚かのネガと共に座り、私が決して会ったことがなく、また会うことが難しい二、三の人々に手紙を書いた。もし彼らが道徳的に正しい人たちでなければそのような手紙は送らない。どちらも物書きで歓迎される人達だ。そして私の生活に喜びを与えてくれる人々だ。
 4年前牧師館で、物書きとしての家業を始めたバージニアの折衷主義者、フランク・モンロー・ベバリー、――彼の名前は彼にとって最高のものだ。おろかにも雑誌の中の、雨は森の中にという詩を私に読んで聞かせた。そして文通が私達の作家としてのキャリアを高めるのに役に立つかと訊ねた。私は何か自分の文学的野心を高めてくれる友達がいなかったので熱心に同意した。しかし間もなく私はF.M.B.が彼自身が言っているほどたいした存在ではないと思い始めた。
彼の書くものはすべてにおいて見込みがない。彼の手紙はとるに足らず興味深さと楽しさのどちらの助けにもならない。この文通は3年間引きずってそれから簡単にやめた。これより前ミスターBは、彼の他の文通者、フィラデルフィアの文芸記者であったミリアム・ジーバーを紹介してきた。この名前は大変大きな手ごたえのある人物を思わせる。しかし私は興味を持って精力的に(ジーバーとの)文通に取り組むことにした。

ああ悲しや! 私はまたしてもあてが外れてしまった。ミスジーバーは疑いもなく私の行く道の助けにはならない。それにもかかわらず彼女の手紙は大変愉快で、あらゆる流行に精通していた。ミリアムジーバーは好奇心の強い気風を持っているということが彼女の手紙の端々から感じられた。私は個人的な友人関係が壊れるという事態には耐えられない大変神経質な性格だ。彼女の感情の変化には慎重に注意を払った。個人的な通信であっても彼女の手紙は私の人生に趣を与えてくれた。そして文通が中断してしまったことを残念に思う。ミリアムは6月に結婚した。(彼女が結婚して以来)私はひとつも彼女の消息を知らない。

 このことの前、彼女は自分の文通先を振り返リ、二人の文通相手を私に紹介した。一人はアルバータ州、ディズペリーのエフライム・ウィーバー。もう一人はスコットランド、アロウアのジョージ・ボイド・マクミランである。
 私は、私の幼い期待を打ち破られたミリアムとベバリーとの文通の経験から、ウィーバーとの文通をあまり期待を持たずに始めた。それに加えて私はどこかに私の気性と合うような人がいることは知らなかった。――ミスジーバーがこの人は確かだと保証しても、彼女はウィーバーに直接会って気性を確かめたわけではないのだから。それから私はナザレの町にキリストが訪れたときのような興味を引き起こされ始めた。ミスターウィーバーは私の期待を転換させてくれる理想の文通者だった。彼の手紙は最も重要な物となった。この人は夢想的な人である。幾人かの現実的ではないタイプの人間だ。健康的なやさしい夢想で包んでくれる。しかしそれだけでなく彼は申し分のない学識を持っている。彼の手紙は洗練されていて思慮深い。私が向上するために熱望している使徒からの書簡のように興味を誘った。彼はアルバータの孤独な農場で書いている。しかし彼の言葉は始まりであり終わりである。

(モンゴメリは小説家の修行の助けにするために、深い知識を持ち、それを柔らかな夢想で包み込むような技術を持っている人を探していたのです。そのような人は中々見つかりませんでしたが、ウィーバーと文通してやっと見つけたといっています。「始まりであり終わりである」はキリスト教徒が使う表現で、宇宙のすべてを包含する神のような力を持っているということです)

 私の他の文通者はスコットランドの新聞記者のミスターマクミランである。こちらはさらに成功である。彼はミスターウィーバーよりも学識的ではないが、しかし彼はよい二番手である。私は思う。彼は男としては大変文通に合っている人で、そして彼のいる土地もまた大変興味を誘う土地である。
 もし私がこれらの気質のあった精神の文通者に出会えなかったら、それは私に喜びを与えることは出来なかったろう。しかしそれらの制限された友達から送られてくる力は私に生き生きとした興味を呼び起こした。私は彼らとの文通を“さあ始めよう”――私の魂が書くことを喜んでいる。すべてのことに誤解や非難を恐れることなく。
距離も文通を妨げる壁にはならない。これらの手紙と日記により私は健全な知的生活を維持することが出来る。もし手紙で率直に語ることがなく、心が閉じこもった語を選んで書いていれば、これらの文通に不安と不快の種が付きまとうであろう。

  
 (ジーバーさんは男のようで実に堅実な顔していらっしゃる) (ウィーバーさんは教師然とした顔をしています、(またマクミランさんは新聞記者になりたてです)



1905年

1905年1月2日(月曜日)
キャベンディッシュ、P.E.l.
今晩古い手紙の束を読み返していたらとても古い手紙に出会った。少女時代に母の女友達が母に宛てて書いたものである。数年前この手紙を見つけて以来、それは私の大切な宝物になっている。
この少女らしい手紙は、昔の冗談や、愉快な思い出を推測するための資料になっている。子供の頃に母親を失うというのはとても恐ろしいことだ。私はそれを苦い経験から知っている。苦い経験、それは誤解から不当な仕打ちに傷つき、身動きが取れなくなったとき何度経験したことか。「ああ、母が生きていたら」と嘆いたことがある。"
しかし、その願いのすぐ後に、いつも本能的な思いがやってくる。もし母が生きていたとしても、エミリー叔母さんやアニー叔母さんのような人だったら、もっと大変なことになるということだ。子供の頃からそれは自分にとってもっと悪いことだと気づいていた。彼女の死よりも悲劇である。
アニー叔母さんは、私がずっと愛してきた女性だ。彼女は親切で陽気で、心一杯に善良な女性だ。しかしそれ以外の点では、彼女は単なる現実的な心の持ち主であり、祖母のような傲慢さはない。母親のような心の狭さと不寛容さ。彼女は大柄な叔母だが、私のような子の母親としては失敗だっただろう。
エミリー叔母さんについては、私は気にしたことがない。知的な資質がなく、無愛想で、欠点をあげつらい口うるさい、そして怒りっぽい。私は、彼女が、かつて、私の幼い野心と幼い欠点を笑い中傷を浴びせたことを決して許すことができない。
この秋、私は町でキャンベル夫人、旧姓イライザ・マクニールと一夜を過ごした。彼女は母のまた従兄弟で幼なじみでもある。彼女(キャンベル夫人のこと)は、私の母はアニーおばさんやエミリーおばさんとは、肉体的には少しも似ていない、精神的にも、感情的にも似ていなかったと言った。もし母が生きていたら、私は母親に望むすべてのものを彼女の中に見出せたであろう。精神的で詩的な少女で、言葉では言い表せないほどすばらしい感情と高貴な衝動に満ちていた。それを聞いて、私はどんなに嬉しかったことか。キャンベル夫人は、私にあるものをくれたのだと思った。人生を輝かせるお守り。もうその願いを阻むものはない。私が母を想う気持ちが母ならわかってくれるだろう。
大人になればなるほど、私の子供時代がいかに感情に飢えていたかがわかるということだ。私は二人の年寄りに育てられたが、どちらも最良の状態ではなかった。その人たちは、すでに不寛容で凝り固まった性格になっていた。彼らは10歳の幼い少女にふさわしいしつけをしたとはいえない。それはまだ自立心の発達していない子供にふさわしい育て方を知らなかったともいえる。
マクニール爺さんは、私が何年経っても彼のことをよおぼえているのは、険悪で、癇癪持ちの男だったからである。私はいつも彼を恐れていた。彼はあらゆる方法で私の子供心を傷つけ、私の自尊心に傷をつけた。その傷跡は私の魂そのものに焼き付けられ、そしてそれは私のプライドを傷つける。
まれに突発的にわざと、そしてしばしば恥ずかしくなるようなやり方で親切をしめした。私のことを思ってすでにあれこれやっていた。彼が自分のことを心配してくれるとは思っていなかったので小さな言い争いが起こった。
そのころの私は、世界のすべて、つまり私の世界を相手に、孤独であるかのように思えた。私の子供じみた欠点や短所は、たくさんあったのだが、それをマクニールのおじさんやおばさんが家に来るたびに、すべて詳しく説明された。(この子はこんな風でしょうがないということか)
このことが何よりも恨めしかった。他の子供たちの欠点は親が家族会議の場で搾取しているのに(自分の家だけで叱ったと言う事)。なぜ、私の場合はそうなのだろう? またか。
この叔父と叔母は、私を批難し、叱る権利を傲慢に主張した。もし私に子供がいたら、こんなことはしなかっただろう。親が恨んでいる。私は当時から正義感が非常に鋭かった。祖父と祖母が私を矯正する権利は認めるが、叔父と叔母にはそのようなことは全く感じない。そのため私が反抗しても彼らの好感度は上がらない。私はその時そう思い、そして今もそう思っている。
(叔父さん叔母さんたちは)その改革エネルギー(躾けのエネルギー)を自分の子供たちに注いだほうがよかったのだ。そのうちの何人かは、私と同じくらい必要だったに違いない。
祖母は、物質的にはとても親切にしてくれた。私はよく世話をしてもらい、よく食べ、よく着飾った。私が反抗的な態度をとると、必ずと言っていいほど、私に投げかける言葉があるのだ。「この恩知らず」と。しかし私と祖母とは二人の人間が互いに快適に過ごすために不可欠なあらゆる点において、これほどまで性質の変わった人間だったということがあるであろうか。
祖母は冷淡で控えめだった。愛情も感性も狭い。そんな二人が、やむなく一つ屋根の下に住むと必ずどちらかが不快になるはずで、その一人が依存する側(私)、もう一人が(祖母)。祖母は「祖母なりに」私に優しくしてくれた。彼女の "やり方"は私は常に恩知らずだと非難し続けることだ。
幼少の頃、まだ自制心や理解力を身につける前に悪事を働いてしまったことがある。私は、自分の立場をわきまえながら、「彼女」のやり方に反抗することもあった。
しかし、私の子供時代が実際にそうであったという印象を与えることはないだろう。不幸なことだ。子供時代というのは本来あるべき姿であり、簡単に手に入れられるものではない。猛烈に不幸な時期もあった。しかし、私はその間にはとてもうまくいっていた。物心ついたときからいつもそう思っていた。
私は理想的な美の王国のすぐ近くにいた。その王国と私の間には、薄いベールがかかっているに過ぎない。私はそれを完全に脇に寄せることはできなかったけれど、ときどき風が吹いて、その風をなびかせ、私はその魅惑的な世界を垣間見ることができた。その領域は、ほんの一瞬だが、その一瞬が私をいつも楽しませてくれた。価値あるものだ。
当時も今も、私には2つの大きな癒しと慰めがある。自然界と書物の世界。それらは私の魂に生命を与え続けている、しかし私は決してそのようなことに無制限に耽溺(ひたり続ける)したわけではない。いつも本を読んでいて、「のぞきめ」よりも物語が好きだからと口うるさく叱られた。また、一人で森や道を散策するために忍び足で田舎の小道に出かけることもあった。かわいそうに賢明でない祖母は、(この喜びか)まったく理解できない。自分には何の喜びもないこと(祖母にとっては楽しくもないこと)に、どうして喜びを見出すことができるのか、少しもわからない。
私が何か不適切な動機でこっそりと出かけたと判断して出迎えるのだ。帰ってきた私に生きるのが嫌になるようなことを言った。
これはすべて、彼女が私を愛していなかったからではない。しかし、彼女の愛は理解という救いの手が少しも入っていないのだから、何の力もないのだ。
今、冷静に振り返ってみると、私は迷うことなく祖母が私の性質や気質に対処した方法は最も賢明でなかったと言えるだろう。ここ数年、私は必要という苦い強制のもとでここにいるのは自分自身の為だけで充分だ。私がおばあちゃんとここにいるのは、そうしなければ、おばあちゃんが古巣を離れることになるので、彼女の心を傷つけることになるからだ。私はこのような事態が発生しても、辛抱強く対応している。幼いころにお世話になった。しかし、彼女は私の生活を苦しめることになる。些細なことだが、それを理解することができない。
私の人生に最初に訪れた悲しみをよく覚えている。私はその悲しみを忘れることができなかった。苦い。私は9歳だった。私は灰色の小さな子猫を飼っていた。私はその生き物を熱烈に愛した。それがある日、毒で死んでしまった。私はその時の苦しみは忘れられない。最初、私は自分の小さなペットが死んだことが信じられなかった。死んだ。それに気づいたとき、私はほとんど気が狂ってしまった。悲しみで頭が真っ白になった。それは私は悲しみの洗礼を受け、マラー(川)の水の中に沈んでいった。私は今までそれ以来、あの小さな死への熱い悲しみを笑ったことはない。それはあまりにも象徴的である。私は痛みというものを知ってしまったのだ。
私の心はほとんど壊れていた。もし、私に母親がいたら...賢明で優しい母親が私を抱きしめてくれたら...。その苦しみを過小評価することなく、理解して慰めてくれる。その原因を軽蔑しているのであれば、それは私にとって良いことであったろう。しかし、祖母はただお前は一日中泣くことしかできないのかいと言って私を置き去りにした。私は孤独のうちに、灰色の小さな体を魂が抜けるような思いで見つめた。私は嘆き悲しみ、その日はずっと荒れ狂い、その後数週間はもっと静かだった。悲しみは私に最初の人生の経験を与えた。厳しいものだ。それは人生の痛みのアルファ(最初の経験と言う事であろう)であり、私の心に深く刻み込まれた。
それ以来、アルファベットの綴りはほぼ通しで書いてきたと思う(これは悲しみに遭うたびにそれをアルファベットの順番になぞらえて語っているのであろう)。ああ。悲しみ、私はすぐにあなたの退屈な入門書をすべて学ぶことができないのだろうか? 私は多くの大切なものを失った
その小さな灰色の子猫が死んでから、私はそれに続く連続した損失を少しづつ受け入れてきた。より静かに、より控えめに、そして今では涙と叫びはすべて内心ではもうすぐ修行が終わるのでは? ああ、もしかしたら悲しみは、自制心が表に出ているだけで、その下にある能力は......と知っている。"貪欲に"鮮やかに"、"力強く"、"力強く"、"力強く"、"力強く"、"力強く"。だから、終わりはまだない。
おそらく、祖父と祖母が若かった頃は、私のように考えることもできたろう。しかし、子供たち(モンゴメリの叔父さん叔母さんたち)は早くから自分たちのもとを去り、あとは二人のそのままの人生を阻むものは何もなく、一心同体。心がゆがんでいる。情緒的に早くも老け込んでしまい、マンネリ化してしまった。自分たちには合っているが、他の人には全く合わないような生活をしている。まだ、魂も身体も成長していない子供(祖父母のこと)に育てられるのは大変不幸なことだ。
高齢者だが、若さと年齢の差はあまりにも大きく、この差を埋めることができるのは心も老いない例外的な性格の人たちだけだ。

1905年1月27日(金曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
この2日間、ひどい嵐に見舞われた。これまでで最悪の嵐と言ってもいいくらいだ。すべての悪い嵐は、そのコントラスト(いい時と悪い時の差)によって最悪のものに見えるということを知らなかったら現在の悪さは、おぼろげになった過去の悪さに対してのものだ。しかし、私はまったくこの漂流者のような状態は、これまでで最悪のものだ。(積もった雪の山は)家のような高さで、四方を塞いでいる。アルプにアルプ」だ。一階は黄昏時のように暗い。確かに雪の流れはとても美しいが牢獄に建築の美しさはあまり気にならない。郵便物が二日前から来ない。あの白い巨大な壁を見ると叫びたくなる。私は鈍感に慣れているので、この2日間の言いようのない憂鬱さには参った。このままでは私の魂までカビてしまいそうだ。そのため私は自分自身を正気に保つために物語を書き上げ、たくさんタイプライターを打ち、派手な襟を作り仕事をした。
雪国の牢獄から素晴らしい世界へ連れて行ってくれる本を再読した。うちの前の果樹園は、木々が雪で覆われていて見る価値がある。まるで夢の中で見た大理石の妖精の宮廷のようだ。今夜の天気は晴れて、燃えるようなローズとゴールドの素晴らしい夕焼けが見えた。その光があの果樹園に降り注ぎ、私は嵐を許した。これ以上素敵なことはない。

1905年2月8日(水曜日。(今日は水曜日? そうだ)
今朝は結局、出撃して雪かきをする必要がなかった。というのも、外に出られなかったからだ。今朝はドアも窓もすべて家の東側は完全に雪に覆われていた。このようなことはないと思う。このような嵐は、生きている人間の記憶ではこれまで見たことがない。プリンスエドワード島では見たことがない嵐だ。嵐は一日中、猛威を振るった。
朝食後、私は無理やり日曜版のイースターストーリー(復活祭の短編小説か)を書き上げた。最近、学校の新聞から注文があった。(テーマを指定されて書くのは嫌だ!)それから、私は夕食の時間までタイプライター。夕食後さらにタイプライティングをし、その後30分ほど仕事をした。ポイントレースのセンターピースで1時間。そして、もう何もすることがなくなった。
私は、メモ帳に書き留めた。私の本には全部に印をつけてあるのですぐに発見できる。私はこれまで本に印をつける習慣があった。私はそれほど大変なことではなかった。今は鉛筆でやっているが、以前は墨汁を使っていた。そのため私は感傷的な「サラダの日」を過ごした痕跡を消すことができない。
日が暮れてから手紙を書き、派手な仕事をし、読書をした。 憂鬱に浸っている。明日は郵便が来ないかもしれない。病膏盲に入れば憂いなし。
昔のスコットランド移民は言った。彼が家に帰ったら彼は家が焼けていることを発見する。そして家族は皆インデアンの殺人鬼に殺されている。“これは完全に馬鹿げた考えである”。

1905年3月3日(木曜日)
キャベンディッシュ、P. E. I
もうだめだ...今夜もまた、この貧相な日記にペンでうなり声を上げなければならない。私はちょうど黄昏の中で恨み言を言いながら、残りの暗い気分を晴らさねばならない。この生活は本当にひどい
 前回のエントリーの(前回日記に書き込んだ)翌日、ジョージ・キャンベルの赤ん坊が肺炎で死んだという知らせが入った。翌日、私はパーク・コーナーに行き、2週間ほど滞在した。もしここにいたら、私は理性を失っていたかもしれない。それは嵐に次ぐ嵐だった。列車は完全に遮断された。10日間も郵便が来ないのだ。その後、船から、町から、郵便物を追い出し始めた。まだ汽車が通れないので、今もそうしている。このようなことはこれまで島でも知られていない。
 私はパークコーナーにいたので、それほど気にならなかった。ステラと私は二人で嵐をものともせず、あちこちに出かけ楽しい時間を過ごした。それから私は家に帰った。
先週の日曜日から、この悲惨な一週間をここまで落ち込むことなく過ごしている。しかし今夜はすべての力と勇気が失われてしまったようだ。このところ月曜日から郵便物が来ない。散歩にも行けず、運動不足が続いている。精神的、肉体的な苦痛がある。
仲間との交流で前向きな気持ちになれる。仕事ばかりしていられない。読む本もないし。毎朝、目が覚めると、また新しい一日が始まる。私には仕事が足かせになっている。
私は明日の夜紙を取り、ブラウニング婦人の評論を書こうと思う。しかし私の心はそこにはない。私はブラウニング婦人を読みたくない。私の全身、私は夜は調子を崩したようだ――ジャラジャラとした不協和音しかない。これはこの恐怖の封鎖が解除されれば、私はすぐに元の状態に戻るだろう。正常な姿勢で。しかし、今の私は落ち着きのない内なる火に蝕まれているようだ。孤独を感じる。
書くべきことが何もないのに、やめるのが怖い。私には、それしかできないようだ。書くことで外見的な平静を保ち、もし止めると涙と嗚咽が出る。もし、一人で逃げ出し、「泣く」ことができれば、気分はすっきりするのだが。
しかし、部屋が寒すぎてそうもいかない。泣いているところをおばあちゃんに見られて、いつも怒られているようだ。おばあちゃんは不思議な人だ。彼女はいつも、完璧に幸せでない人を痛烈に恨んでいるようだ。自分の都合のいいように生きている。さらに、彼女はまた自立していることについても激しく憤慨している。一緒に暮らす人の思想や趣味、希望に(憤慨)。夏には自分の部屋まで逃げ込める。このような悪と和解するために十分な自由を享受することができる。しかしこのような状況下で冬はそれができないのだ。祖母(の性格)ではどうしようもないことだと思うし、私はそれを甘んじて受け入れている。やむを得ない病気だ。ここにいるのは私の義務で、喜んでそうしているのだが、彼女のせいで些細なことでも、私にはとても難しいことなのだ。
例えば、祖母は9時に寝るが、他の人も皆9時に寝る。9時になったら嫌が応でも行かなくちゃいけない。祖母は風呂に入ると、子供じみた怒りに駆られるようだ。
冬は部屋が寒いので、2週間に一度くらいは彼女が寝た後で私が起きていることにしている。暖かい台所でお風呂に入るのだ。私が何か使うと、祖母は怒る。小さなランプが私の髪を巻いたところを哀れなほど見せてくれる。小心だ。まれに自分の部屋で灯りをつけることを許してくれない。友だちが夜来るときは台所でもてなさなければならない。
祖母は私がケーキを焼くことを許さない(ちょっと豪華なものは目に触るのか)。古いものが家に残っている。寝室を掃除すると怒られる。生活の細部にまでこだわりがある。我慢しているつもりでも心が病んでしまう。
もう一つ、私にとって悲しむべきことがある。私が生きているこの人生は、私にふさわしくないのではないかと恐れている。私は他のどのような人生があるのか。私は上記のような習慣に自分自身を形作ることを余儀なくされている。その必要性がなくなったとき、私を捕虜にする、あるいはするかもしれない(新しい生活に)他の存在に適応できないのではと心配になる。私は次のことも知っている。現在の生活は幸せでも満足でもないけれども、おそらくは仕方がないのだ。
こう考えるとると、なおさらである。この考えは私が感じるとき、しばしば私を叱咤激励する。自分の現状に不満がある。しかし、ある苦しみが、この先もっとひどくなるという初期の段階より後期の段階の方が悪くなっても、耐える助けにはならない。むしろ辛くなる。それでもその先にあるものを探すことができればどんな辛いことにも耐えられる。今後私の人生はより良いものになるはずだ。しかしそれはすべて見えにくくて不確実である。
ああ、哀れな悲観主義者よ、この調子で書いているのは、他のどんな方法でも書けないからだ。そして、この魂に突き刺さるような痛みに襲われないように、(書くのを)やめるのが怖い。
涙が出るほど元気を出せ。それにもかかわらず春が来れば、元気になってまた希望に満ち溢れ、人生は楽しいと思えるようになり、そのすべてが的を得たと思えるような価値になる。

1905年3月11日(土曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
いや、今夜は不平を言うつもりはない。郵便物はない。にもかかわらず私はとても満足し陽気な気分だ。ブルーフィット(うつ病)は過ぎ去りそして、再び物事に興味を持つようになった。
悲惨なエントリー(日記の記述)の翌日の夜、私は以下の場所に行った。そのことを考えると一日中退屈だったのだが、夕方になってからクリーム色のシルクのブラウスを着て、髪を丁寧に整えホールに向かった(何かの発表会か)。結局時間と労力の無駄だったけれども楽しかった。灰色物質(お札のことか、脳の灰白質か)を無駄にしたあの文学は今となってはとてもつまらないものだ。私はただ新刊を手に入れるためだ。新しい本が30冊ほど入ってくるので、もし海峡の封鎖が解かれ彼らが来たら、私はジャンボリー(大喜び)

1905年3月23日(木曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I. 、u
私たちは雪解けを経験した、本当に、本当に雪解けだ。ああ、この喜びは! 墓地の向こうで半世紀前に死んだ人たちは、心臓でさえも一様にどきどきしていたに違いない。
春の大きな鼓動が伝わってくる。テレーズ(土地の名前)には裸地がある(雪が溶けて地面がのぞいたところ)白い流れほど美しくはないけれど、でも、とても愛おしい。まだ雪の山はあるけれど春もある。今夜は丘の上で手を叩いて笑い声を上げて喜んだ。一気に人生が美しく見えるようになった。私は、まるで子どものように走ったり、踊ったり、歌ったり楽しんだ。

1905年3月26日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.l. .
これは確かにかなり退屈な一日だった 雨と霧そしてサービス(郵便業務か)なし、しかし私の心は春になっても憂鬱だがあまり気にしていない。私は我慢できるという意味であれば何でもいい。今夜は霧とぬかるみに逆らって、思い切って出かけてきた。広場の周りを歩く。古いミルブリッジの窪みは見ものだ。フェンスの上部にある(郵便受けか)これは明日は郵便が来ないということだが、気にしない。
一日中、本を読んでいた。ある雑誌の記事で奇妙な空想が鮮やかによみがえった。私の幼い頃の話だが、その物語は、2人の不機嫌な叔母さんと暮らす、孤独な少女のものだった。
少女は本当の仲間を持たず、空想で仲間を作り上げたのだ。その仲間は丘の上の木立に「エリザベス1世」と呼ばれる人が住んでいて、その子は、ショックを受けた想像力のないおばさんたちに、しつこく「嘘」を小売りしていた。
エリザベスとの会話や冒険。我が家の居間には昔から大きな本棚があり、食器として使われていた。キャビネットそれぞれの扉には大きな楕円形のガラスがあり、部屋をぼんやりと映し出している。私が幼い頃このガラス戸に映る私の姿は、幼い私にとって「本物の人々」だと想像することができた。左側の扉に写っているのはケイティ・モーリス、右側の扉に写っているのはルーシー・グレイ。なぜこのような名前をつけたのかはわからない。ワーズワースのバラッドとは何の関係もないのだが、当時はそれは読んだことも聞いたこともなかったからだ。実際、意図的に名前をつけたという記憶はまったくない。遡ればケイティ・モーリスとルーシー・グレイは本棚の奥の妖精の部屋に住んでいた。ケイティは私と同じ幼い女の子で、私は彼女を心から愛していた。(自分が写った姿ではないのか)
私はそのドアの前に立って、何時間も彼女に話しかけていた。秘密を打ち明ける。特にたそがれ時、火が消えた後が好きだった。部屋とその反射が光と影のグラマラスなのだ。
生きること、受け取ること、ルーシー・グレイは成長し未亡人となった。私はケイティほど彼女を好きではなかった。彼女はいつも悲しげで、いつも悲惨な話を私に聞かせてくれた。それでも私はいつも順番に彼女を訪ねて、彼女の気持ちを害さないように、細心の注意を払っていた。ケイティに嫉妬し、そのケイティも自分を嫌っていたからだ。こんなことを言うと、まるで気がふれたようだが、しかしそれが私にとってどれほど現実的なことであったか、私は決して言葉では言い表せない。
ガラス戸の向こうのケイトに手を振らずに、部屋を通り抜けることはできない。終了。

1905年5月20日(月曜日)
キャベンディッシュ、P.E.L.
......2週間ほど前に、長らく待っていた図書館の本が届いた。自分用に送ったものだ。私はまともな束縛をすべて破って(仕事を放りだした)昼も夜も読書をしていた。
この春、キップリングの「ジャングル・ブックス」を買った。素晴らしい作品だ。私は子供のころにそれが手に入らなかったことを残念に思っている。しかし、次善の策は、大人になってからそれを手に入れることだ。
また、「ピックウィック・ペーパーズ」と「デイヴィッドカッパーフィールド」を買って読み直した。不朽の名作「ペーパーズ」を初めて読んだのは子供の頃。私は、カバーのない本を家中に置いて、それを楽しんでいた。この本はいつも私を空腹にさせる本だった。そこでハムエッグやミルクポンチでお祝いしていた。『ピクウィック』を読み終えたら、食器棚を物色するのが常だった。
この間、図書館の本を持ち帰った。他に手に入らないからとホブソンズチョイスで購入。私は何も知らないしたいした価値もないと思って、急いで読まなかった。
先週の木曜日、ついに読み始めた。一章も読まないうちに、私は読むに値すると思った。というのもこの本がどういうものなのか、もっと早く知っていればと思うからだ。この本全体が、とても楽しいものだった。私の「双子の魂」はエリザベスに宿っているに違いない。少なくともガーデニングに関する限りは。彼女は、私がいつも言っていることを100個も言ってくれた。十分に考えてから言おうと思っていた。もう言わなくていいんだ。エリザベスはそれをとてもうまくやってのけていた。
私はできるだけ早く "恋人の家"(恋人たちの小道のこと)に逃げ込んだ。12月から5月5日まで私はそこに行くことができなかったのだ。もう一回そこに自分がいることに気づいて、新しく生まれ変わったような気分だった。あの天国の小道がなければ私はどうなってしまうのだろう!
私は再び2階に移動した(婆あから離れて)。つまり、再び暮らし始めたのだ。それは部屋を変えただけでこんなことが起こるなんて、不思議な気がする。しかしそうなのだ。私にとってこれは幸せと不幸せの違いを意味する。
私はほとんどここで生活しているようなもので、庭で生活していない時間帯はそれはとても楽しい生活で、このように、私は自分自身のための居場所を形づくるので、ほとんど満足している。

1905年7月30日、日曜日の夕方
キャベンディッシュ、P.E.L.
2ヶ月以上の沈黙! 不平不満もない! ブルーでもない! これはどういうことだろうか? さて、この夏はかなり良い夏だった。とても幸せで明るい気分だ。
呻きながら冬を過ごし、夏の快感を少しも入れず。ひとつにはこの夏は私たちだけだからだ。リアンダーおじさん一家は来なかった。それは私にとって大きな意味を持つ。私は書き、読み、放浪し、夢を見て、のんびりと庭で過ごす。そして怖くなる。この状態が長く続くはずがない、嵐の前の静けさだと感じている。
私の庭は、この夏私にとって大きな喜びだった。この夏、私は本当に花に囲まれて。薔薇......こんな薔薇が!? 私のブラッシュダブルの大きな茂み、それは今まで何もしなかったのに、3年間溜め込んだ甘さを全部吐き出した。何十個も咲いている。テーブルの上に大きな花瓶がある。今、私の目の前にある。そして、私の後ろには、スイートピーでいっぱいの花瓶がある。黄色いポピー、炎の息吹のようなナスタチウム。この上なく素晴らしい。毎朝庭に出て、どんなものがあるか見るのが楽しみだ。
一晩で新しい花を咲かせた。そんな時、私の心ははち切れんばかりに喜びでいっぱいである。ああ昔の神話はなんと賢いのだろう。庭だ。ああ、ピンクのバラよ、君にキスを贈ろう、昔を思い出すよ。あなたと私は姉妹のようなものだ。あなたはバラに、私は女に生まれた。もっと幸せになれるかもしれない。でも、でも、私はガーデンを持った女でよかったと思う。そして悲しみも。三つの祝福を!三つの祝福を全部で.。
この夏は、この日記にもっと(楽しいことを)頻繁に書くようにしなければならない。来年の冬もまた、この古ぼけた日記帳に文句をつけたくはない。生きている友人のように不平不満ばかりになる。
今日の午後、私は何年も前に作った古いスクラップブック(思いでの品々を集めた本)に目を通していた。学校と大学に通っている間。何度も笑い、何度もため息をついた。それにはあの頃の冗談と愉快が詰まっているような気がした。私がこの仕事を始めた頃、ここで教えていたセレーナ・ロビンソン先生も一緒にこのスクラップブックを作っていて、二人でそのスクラップブックに、熱心に、熱心に、"スクリューベニア"(スケッチブックの背景を飾るカット絵)を描いた。最初のページに私の入れたものは、かつてセレーナのスリッパを飾っていた小さな靴のバックルで、そのバックルはスクラップブックのマスコットとして彼女がくれたものだ。馬の蹄鉄、その下には、ウィルPがその年に送ってくれた小さなファンシーカレンダーがある。P.W.C.(プリンスオブウェールズカレッジ師範学校)にいた頃。これは「ホテル・ド・マクミラン」で有名なアイレックがくれたカレンダー。
ある日のことだ。かわいそうに、「アイレック」はどうなったんだろうね。メアリー・C.メアリー・C.と私は、彼をめぐって、どんなに楽しんだことだろう。でもあの頃、メアリー・Cと私の間でC.と私は楽しめなかった!
1ページほど私の入試の時間割と合格者リストが掲載されている。なんというたくさんのどきどきする物が並んでいることか。今の私がその試験に合格できるとは思えないが...。でも、まあ、他のものは合格できるかもしれない。
この本には、派手な「カード」がいくつも載っている。これらのカードの持ち主の名前は、華やかな花束の下に隠されている。手首を切り落とした細い手が、私たちの学生時代の愛すべき流行だったのだ。だれでもオシャレに憧れる人は、このカードを一箱買ってきて交換する。仲間たちと一緒に。今は「絵手紙」にその座を奪われている。
「他の時代、他の流行」。
これは私が初めて出演したオペラのプログラムだ。ヘドリー・バンテンのシャープで初々しい小さな顔が、その上に彼の婚約者が、この街にやってきて、その熱狂ぶりは、私の前に立ち現れる。私がヘドリーと「縁を切る」と聞いて急いだからだ。私は全くその行為や願望に罪はない。しかしあえて言えば、ヘドリーは世話をする必要があったのだ。結局他の女と結婚してしまった。
A先生の部屋で、私の机から欠けた木片がある。マスタード氏の名刺と一緒に並んでいるのは、正真正銘の訪問カードだ。M氏は「ファンシーカード」のような軽薄なものには決して手出さなかったから。
ローラ・Pの舞踏会用ドレスの一部もある。燃え尽きたマッチの残骸。メアリー・Cと私の戯れ言の隣には、フロリー・マーチーの記録がある。
息子の結婚式。
プリンス・ストリートの有名な古いランプポストの破片と、その隣にあるのは私が初めて付き添いを受けた夜に着ていたクリーム色のショールのフリンジの一部。家までエスコート。その重要な機会を忘れる少女はいない。女の子。あの夜、私はお嬢様の敷居をまたいだのだ。その年の秋、クリーム色のショールは「スクエア」と呼ばれ、大流行した。どの女の子も持っているか、持っていたいと思っている。新しくて柔らかくてフワフワしているときは、とてもきれいで素敵。
「プリンス・オブ・ウェールズ・カレッジの入学式プログラム」、赤の切れ端とリボンもついている。その夜、あるエッセイを読んだ。親切な記者は、翌朝の新聞に、その栄光を誇らしげに載せてくれた。毎日ここに私の名前があり、ここに私があの夜身につけた色あせた花がある そして私は教員の免許証」の試験の時刻表!? あの「受験生」の顔がずらりと並ぶ-メアリー・C・私。
ここにアイダ、あそこにネリー・マクグラス、私の前にファニー・ワイズ、右側に私、ネル・ロジャーソン プシューッ! ネルはこの前4人目の赤ん坊の洗礼を受けた。私の名前にちなんで!免許試験はかなり前に行われたんだ!
リスのしっぽ、四つ葉のクローバー、マクギルのリボンだ。確かにバラエティに富んでいるね。そして「ほたるの」ほたるは昔のプリンスアルバート時代。他に猫は? 祝福をはい―「ココの」、「カリシマの」、「マックスの」、私「メフィスト、トム、レディ・キャサリン、トプス...(それらの猫は)この毛皮の切れ端だけが残った、死んだり消えたりした仔猫たち。 I
これは何か?毛糸のバラの装飾品だ。ソファーのクッションから。そう、レム・マクロードのあの夜(厭なレムが求婚に来た夜)、私はそのクッションに座っていたのだ。パークコーナーでプロポーズされたんだ! レムは今、西の方にいる。昨年の冬、マギー・セラーズと結婚した。もちろん彼女は、私のスクラップブックにあるその記念品のことも知らないだろう、そしてさらにもう一つ、レムがかつて手紙で送ってくれた詩の一節がある。彼が書いたのではない。レムは詩を書いたり読んだりすることに罪悪感を持つことはなかった。詩を紙に書いて、彼らはとても感傷的だ、と書いて送ってきた。私の気持ちも......」という手紙。とても感傷的だ。
私の....ビデフォードの時間表分単位で記載された文書と、ビデフォードの教え子たちの住所をくれた。
レディース・カレッジのリボン-ハリファックスは今、迫っている。そして、ああそうだ、もっと詩を!ルー・ディスタントは、手紙に詩を送ることではレムをしのぐ。ルーの詩の趣味は下線を学校の先生のように引いていた。ここに珠玉の一篇がある。
        「彼女はとても小さかった」。神様のお庭からお借りした、

        ちっぽけで純粋なつぼみです。
        私の人生を喜びの明るい夢で満たすために"

ルーは本当に私を "小さな純粋な芽"だと思ったのか?バーサ・クラークと私はいつも必死で切り抜きをしている姿に悲鳴をあげた。
大きな袖の昔ながらのファッションプレート! 大きなパフスリーブはまたしてものものだ。今、先日大きな袖のついた新しいドレスを着たときのダルファウジー(大学)の少女に戻ったような奇妙な感覚を覚える。風船のように膨らませ、「ファイバーセーム(筋の入った皮)等」で硬くしたものだ。スタッフというのは、ある女の子が他の女の子に、「私のこと、見てよ」と言うときによく言われる言葉だ。ドレスの大きな袖をコートの細い袖の中に突っ込む。

1905年8月11日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
私はユージーン・アラムを再読している。15歳のときに初めて読んだのだがそれ以来だ。ネイト(モンゴメリの幼馴染の少年)も同時に読んでいて、二人ともうっとりして私たちは、そのロマンチックな時期にリットン狂いだった。二人で座っていたのを覚えている。学校の丘のモミの木の下で、その本について議論していた。それ以来、そのモミの木やネイトの記憶と結びついているのだ。ネイトの手紙の中にその夜、彼がこの本について書いているのを読んで、私はこの本を読みたくなった。私は、15歳のときの熱狂的な崇拝とは違うが、まだ好きであることがわかった。そのとき感心したことの多くが、今となっては窮屈で華美に思える。しかし私はこの本が他の多くのリットン作品よりも純粋なスタイルで書かれており、欠点はあってもこの作品には興味を引きつける何かがありる。とても悲しくそれが私が好きな理由かもしれない。
若さは悲しみを楽しむものであり、ある種の心に残る印象がある。死にゆく短調の音楽のような響きがある。ネイトは、その人物像に魅了された。アラムは今でも彼の理想なのだろうか。そんなことはないだろう。私たちの理想は年をとるにつれて変化し、そして残念なことに私たちは消えていくのだ。

1905年10月1日
キャベンディッシュ、P.E.I.
夏が終わりましたね。夏が終わった! その事実を前にして私はどれほど身がすくんだことか......。冬は言いようのない恐怖に襲われる。
私は今、不安と心配で半分病気になっており、この2年間はずっとそうだった。この1ヶ月。ジョン叔父さんとプレスコット(ジョン叔父の子供か?)は、この夏ずっと祖母を恥ずかしめて使っていた。つまり彼女を追い出そうとしてるのだ。プレスコットは、そのために結婚してこの家に住むんだ!」。おばあちゃんと私は彼女にひどい目に遭わされた。彼女は完全に祖父の不条理の力を借りている。(祖父がマクニール家を祖母が生きている間だけ住まわせ、モンゴメリには残さなかったこと)貪欲である。祖母は自分が住んでいた家を出ないと言ったがそれ以来、ジョン叔父さんは彼女と一度も口をきかず、仕事もしない。
そして、彼らは様々な方法でつまらない意地悪をしてきた。ボスタブズフ38章(最後まで耐え忍ぶものは救われますと言う事)は信じられない。 どうなるかはわからない。私自身はほとんど気にしていない。しかし祖母のことが心配なのだ。もちろんこの古い建物を離れることは、私を深く傷つける。この家は、私が何年もの間、どんなに辛いことがあってもいつも熱烈に愛してきたところだから。
幸せとは程遠い生活だった。でも祖父が亡くなってからずっと、いつかこのようなことが起こると思っていた。そして、その現実はとても厳しいものだ。
長い間の期待に比べれば、はるかに悪い。実際、私はそのようなことはないと信じている。このようなダモクレスの剣を持たずにすむのはありがたいことだ。これ以上頭を悩ませることはないだろう。
ジョンとその一族は、私がずっと障害物であったため、私を憎んでいる。もし私がいなかったらおばあさんを家から追い出そうとする彼らの計画にずっと協力してきたのだ。それを知っているからこそ、彼らは私を憎んでいるのだ。
それは 私は決して忘れないし、彼らが私を利用したことを決して許せないと思っている。祖父が亡くなってからというもの 些細な悪意や嫉妬を、様々な形で示してきた。
千差万別(の悪意)だ。ジョン叔父さんは私の幼い記憶の時から、私が嫌いなのだ。子供の頃、私は彼を言いようのないほど恐れていたし。親切にされたことは一度もない。威圧的で、侮辱的で、不公平で、機嫌の悪い男だった。他人の権利や気持ちを思いやる気持ちが微塵もない。いじめっ子がそうであるように、彼もまたいじめるだけだからだ。
自らを守ることができないほど弱かったのだ。私は彼を恐れなくなったが、決してやめることはできない。嫌いなのだ。私が文学で成功したことで、彼はさらに私に対して険悪になった。彼の家族は頭が悪いので(作家などにはなれない)、彼はそれを知っていて、そのために私を憎んでいるのだ。しかし、私はどう見られようと構わない。ただ、祖母のことだけが心配なのだ。(やはりこの頃は家長主義が残っていた時代だったのであろう)

1905年10月15日、日曜日の夕方
キャベンディッシュ、P.E.l.
.... 私とフリーデ・キャンベルは先週の土曜日、日曜日と親しく語り合った。私にとっての慰めだ。私はとても寂しく、悲しい気持ちでいたが彼女の訪問は楽しみだ。
私は元来、ブルーな人間でも感傷的な人間でもないのだが、マーク・リプレイが言うように状況が私に嫌な気持ちを与えるのだ。

1905年11月24日(金曜日)
私はフリーデとおしゃべりしてこの夜を有意義なものにした。というのも私はいつもの知っている人たちと話さなければならなかったからだ。その人たちはとても面白くなかったからだ。人はどうしてこんなにも面白い世界なのに、こんなに退屈なのか?
ウェドロック夫妻は、明らかに自分たちが出した夕食が人々を喜ばせると考えていたようだ。とても豪華なものだった。食卓が「うなる」ことがなければ、「うなる」べきだったのだ。あまりに多くの料理で、何を食べようかと迷っているうちに時間が経ってしまった。私の右隣の人は食事中ずっと「面白い」演説をする人だった。(ウェドロック夫妻の晩再開に呼ばれたのであろう)
神様はどんな良い目的のために彼を造られたのだろうと、私はずっと考えていた。私は自分の家を持ちたいものだ。そして、そのような人たちが集まることで面白い話ができるようになるのだ。
しかし私が自分の家を持つ可能性はほとんどない。祖母がいなくなったら、シャーロットタウンかどこかへ移住することにしよう。安い下宿を見つけ、鍋釜を書き、生計を立てる。楽しい展望だね本当に、でも慈善事業や貧民窟に入るよりはましだと思うし。
というわけで、(今日の記述も)終わる。ありがとう。

1905年12月10日(日)
大雪!? やれやれ、これは哀しみの始まりなのだろう。なんということだろう。冬だ! しかし他の条件下では(青空の下、雪が輝いて見える時など)、この素晴らしい白いものを、どんなに愛せることだろう。昔は季節を愛するように、冬を愛していた。これから先また冬を愛することができるだろうか。どうなんだろう?
この3週間はかなり忙しかった。バーサ・マッケンジーが結婚することになった。私は彼女の付き添い役だ。だからちょっとだけ楽しみなのだ。気分転換になる。 しかし、今日は体調が悪く、悲惨な面しか見ることができない。
世界全体が厚い雪の渦で覆われている。私のマムはまだ咲いているが色あせてきている。私は彼らを恋しいと思うだろう。人間のような友達だ。でも、ヒヤシンスやナルシシが顔を出している。窓際の箱の中で愛しい頭を上げているのだから、1年後には大きな期待をしている。
 
後日談
気分が良くなった。なぜ? 今降っている雨は止むからだ。今日の朝は雪かきをする必要はないだろう。
新しい読み物が何もない時に私は通常、階段の上の(屋根裏の)古いトランクの本をあれこれ探るが、私の最高の本は、私の部屋の小さな本棚に置いてある。トランクの中身は、学校の本や大学の本、紙表紙の小説などだ。
私は、今夜は「安全な羅針盤」という本を見つけ、古いものを(部屋に)持ち帰った。を連想させる。その本は、私の子供の頃の名品だった。母が持っていたもので、母の形見と書かれていた。宗教色は強いが、面白い。というわけで、日曜のお供に最適だった。扉絵にはぞっとするような物が描かれている。私はその魅力に取りつかれた。それは、木の下に横たわる少年の絵とその凡例だった。「首が折れ、安息日を破った若者が死んでいた」。その少年は日曜日に木に登ってサクランボを食べるという凶悪な犯罪を犯してしまったのだ。
この本は、そのクラスの(子供向けの本としては)欠点はあったが、その美点はそれ自体であった。おそらくこの本は私の性格の良いところを形成するのに役立った。
今でも日曜日にさくらんぼを食べることがある。あの小さな赤い本はずっと持っていなければならない。そのすべてのページと物語が子供の頃の私に取り憑いているのだ。私は、この章がとても魅力的だったことを覚えている。
庭の話は、私にとってとても重要だった。「庭」は「心」であり、私はよくもがいたものだ。この本を読んでからというもの、必死になって短気、利己主義などの雑草を取り除き、徳の花を植えた。そうすることで少なくとも長続きするような良いことがあったのだろうか。

1905年12月24日、日曜日の夜
キャベンディッシュ、P.E.アイランド
明日はクリスマスとバーサの結婚式の日だ。私は髪を切って十数本の三つ編みと「子供」にして、ちゃんとフワフワになるように傷めつけてここに座っている。明日もオシャレに、次の転生では私の髪が自然な巻き髪でありますように!
私の花嫁付添い人のドレスは、空き部屋のベッドの上で寒々とした状態で横たわっている。花柄のシルクオーガンジーで、フリルやパフ、レースがあしらわれ、見た目はやや雪と霜の世界では季節外れだし、私の白いカーネーションのブーケとホワイトヒヤシンスとアスパラガス、シダ―後者は、その台所のような名前にも関わらずシダの魂のように見えますが、居間のテーブルの上の花瓶にある。これは昨日来たのだが、この騒ぎと細部で私が嫌いなことを和解させてくれた。
結婚すること、結婚させること。結婚式というのは、ほとんどの場合埃にまみれた下品なもののように思える。掃いたりこすったり焼いたり借りたり、様々な嫌がらせを受けながら、その本来あるべき美しさは、まったく失われているように思う。(結婚式はその準備ばかり忙しいという事)
私は結婚したいと思うのだが、一生できないだろう。結婚するならば、型にはまったことをしなければならない。しかしだからといって結婚式はこうあるべきという理想を持ってはいけないと言うことはない。理想的な世界に住んでいるのなら、私は次のようにするだろう。
6月の朝、輝かしい朝日が射し庭や野原のバラが甘美に咲き乱れていることだろう。薔薇のように早く起き、服を着る。彼の目を楽しませるめに、私をできるだけ美しくする。
そして夜明けの静寂の中、私は彼のもとへ降り立つ。他の誰ともなく、私たちは一緒に大きな森の中心部へ行き、そこのアーチは広大な聖堂の通路のようで、朝の風そのものが歌っている。花嫁の賛美歌を歌い、そこで永遠の愛を誓い合う。そして私たちは手に手を取って、忙しい日々に戻っていくのだ。私たちの生活のおかげで、永遠に栄光を得ることができるのだから。
これが私の理想だ。しかし現実は全く別のものだ。ただ、もし結婚するとしても、アーチの下で結婚することはないだろう。ピンクと白のティッシュペーパーの「バラ」(作り物の飾り)で装飾され神の思し召しとは無縁のように見える。もし、私の理想を裏切るようなことがあれば牧師さんがいる間、離婚裁判の前を見据えているような派手なものだ。結婚の儀式を読んでいたのだ!!!
昨日、金曜日、水曜日は、バーサと一緒にケーキを混ぜたり、アイシングをしたりした。お菓子作り、掃除、雑巾がけ、飾り付け。これらのことは私を肉体的に、精神的に疲弊し、人生から「花束」を奪ってしまった。バーサの二人の兄、ボブとミルトンと話をしなければならない。ミルトンは子煩悩で私が今まで読んだり見たりしたどんな本よりも、私に不信感を抱かせる。
ボブはまともな奴だが、彼もまたどうしようもない奴だ。知り合い程度なら大目に見ることができるが、彼が与える歓迎されない注意は、田舎の田舎者の吐き気を催す注意である。精神的に窒息しそうな感じだ。しかし私は彼に礼儀正しくしなければならない。バーサーのため、そして自分のためにも、彼は私が信頼できる数少ない人々の一人なのだから。どこへでも連れて行ってくれる頼もしさがある。私はこのような必要な相手に合わせる礼儀が大嫌いだ。そして、それが意味する忌まわしい依存心。しかしこの物質的な現実の世界ではこのようなものだ、ということになる。

火曜日の夕方
1905年12月26日
キャベンディッシュ、P.E.I.
今、家に着いたところだが、暖かいベッドでぐっすり眠れることに人生最大の幸福を感じている。
昨日は、今までで一番陽気なクリスマスだった。私は朝からバーサの家で、何もかもを満喫した。そして12時に式があり、その後夕食をとり、とても陽気な午後を過ごした。そして3時にバーサとウィル、そしてボブと私はエベニーザに出発した。エベニーザはウィルが住んでいる場所の名前だが、それはウィルの不幸であって、彼のせいではない。この日は天気が良く道も良かったので、とても楽しくドライブができた。到着すると、しかしお楽しみの時間は終わってしまった。その夜、レセプションがあったのだが、私はそのレセプションに参加しなかったのでその人たちのことは知らないし、知ろうともしないので死ぬほど退屈だった。唯一の楽しみは酔っぱらいのバイオリン弾き。ひどい話だが彼は酔っぱらっていたが面白かった。2時にベッドに入ったが、とても疲れていて眠れなかった。これは翌日も引きずっているようだった。ボブと私は今日の午後に帰宅した。
まあ、これだけのことをやってのけるのは楽しいことだ。あえて言えば、私はしばらくはまた孤独で、また悩む時間が出来てしまったようだ。ああ、心配性でうんざりしている。世界で最も耐えがたいことだ。祖父が亡くなってから私はここで多くのことを経験し、それに耐える力が弱まってきたように思う。


1906年

1906年1月1日(月曜日)
キャベンディッシュ、P.E.アイランド
素敵なお正月だ。しかし今日はラッセルマクニールと一緒にグラスゴーに行きペンシーに会ってきた。可哀そうなペンシーは結核で死にかけており、私はかってこのような悲しい訪問をしたことはない。
 それは素晴らしい子供時代の思い出をくくる紐だ。それは忘れていた成長時代の光景を呼び起こすものだ。しかしそれは突然ねじ切られた。ペンシーと私は彼女が結婚して以来遠くに離れてしまったので非常に少ししか会っていない。しかし彼女が病気になってから私達の友情は復活した。私たちは度々お互いに楽しい時を持った間柄である。でも今、何と私たちは学校での日々や子供らしい遊びについて話しあったことか。
 私たちは新年の入り口に立っている。ああ、この一年は私に何をもたらしてくれるのだろう。心配事から解放されるだけで私は満足だ。
私は疲れていて、寂しく、落胆しているように感じる。忍耐、悲しい心。永遠がある。この人生は、さまざまな人生の連続の中の、曇りのような一日に過ぎないだろう。

1906年1月26日(木曜日)
この一週間は、社会的に見ても、私の運命が大きく左右されることが多いようだ。アニー・スチュワートが家に遊びに来ていて、先週の土曜日の夜、ジョージ・Rと私は招待された。私たちはゲームをした。私たちはそのゲームを楽しんだ。その後私たちは「降霊術」とテーブルラップを作った。もちろんこれはとても楽しいことだった。しかしこれは不思議なことで科学的な説明はできない。
月曜日の夜、J.R.スチュワート夫人が「ガチョウの晩餐会」を開き、メンバーたちに振る舞った。ベルヤーとマクドナルドの両婦人婦人が来て、またテーブルラッピングをした。私たちはこのテーブル・ラッピングを片足で立ち上がったり、部屋の中を歩き回ったりと、様々な曲芸のようにしてやった。
昨夜はJ.R.スチュワートのところでダンスがあり、私も参加した。とても楽しかった。素敵な時間だ。つまり潜在意識がある今だからこそ、楽しい時間を過ごすことができるのだ。
心配事が部分的に気にならなくなったが、他のことでは不平を言う。歯が痛む。
(モンゴメリは不平をぶちまけるために日記を書くのだと言っています)

1906年2月3日(土曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
昨日、私は牧師館でベルヤーズ夫妻と午後を過ごした。夫妻はとても親切で、私の特別な友人だ。私はある本を借りた。Belyea氏から話題の本、"The Law of Psychic Phenomena"(心霊現象の法則)を受け取り読み始めた。昨夜10時、2階のベッドで読んだのだが、とても魅力的な内容で、1時間半ほど読んだ。あまりの寒さにやめてしまった。今日読み終えた。それはこの本は素晴らしい本で、私はこの本のいくつかの理論に強い関心を抱いている。

1906年3月6日(土曜日)
今晩は素晴らしい天気だったので、ウィルバー・クラークと私はスタンレイのワンダーロックスを訪ねに行った。もしダーニー・クラークがいなかったら、私はどうなっていただろうかと時々思う。
その家には男の子の家族がいたのだ!!! みんな私にとても親切にしてくれていい子たちだった。兄弟のような仲良しで、いつも良いことをする準備ができていて、無意味な情緒はない。ということだ。
フリードに会って、少し内緒話をしたのだが、それは私にできることよりももっと良いことだった。(フリードが)信頼できる理解ある友人(モードのこと)に対して、時折見せるこのような小さな吐露(グチでしょうね)は私の激しい性格にとって、まさに安全弁であり、悩みを寄せ付けないようにしてくれる。魂を蝕むキャベンディッシュには、私が助言を求めることができる人が誰もいないのだ。私は、自分の人生の汚い部分を誰かの視線にさらすことができない。
部外者である私はここで、誰に対しても同じように笑顔と冗談を絶やさず落ち着いていられる。しかし、私は何らかの出口を持たなければならない。そして、Fleedeと私の日記の間で、私はそれなりにまごまごしている。しかし、ああ、人生は飢えた醜いものだ。
もし私が平均的な自由の尺度をもっていたなら、それをもっとすばらしいものにすることができたのに。豊かで美しいものだ。それが私の中にあるのだ。

1906年4月5日(木曜日)
ジョー・スチュワートでのパーティーの後、今日は何とも薄気味悪い気分だ。
昨夜のことだ。ウェリントン・マクブリーもいた。彼はシドニーに住んでいる。そして3年前に弁護士をしていたネイト(モンゴメリの幼馴染の少年)のニュースを教えてくれた。
ネイトは少し前に新聞で見たのだが、実は結婚していた!? ウェリントン・マクブリーはウルフヴィルのメイベル・サンダースさんのところに居たのだが、その後すぐにシドニーに旅立った。そこで仕事をしていたが。彼の多くの友人などなどの話をしてくれた。Wellington M.(ウェリントン・マクブリー)はネイトについて、私が驚いたことを2つ教えてくれた。ひとつは、彼は非常に灰色の髪になっていた。Nate grayとは、なんということだろう。ついこの間まで彼が巻き毛の小学生だった? そんな彼が白髪になるなんて何の関係があるんだ? ネイト! 白髪だと! もうひとつは、もっと驚くべきことだった。ウェリントンはネイトがシドニーでは(弁護士として)あまり活躍せず、「生気がなく、退屈な奴」と思われているという事だ。これには驚いた。以前は生き生きとした野心に満ち溢れていたネイトがそんなにも変わってしまうものなのだろうかか? ありえない。
私は彼が大学を卒業するまでには、長く厳しい闘いがあったことを知っている。おそらく、それはあまりにも気力も根性も使い果たしたのだろう。私は確かにネイトはまさに法律で成功する男だと思っていた。
かわいそうなNate、彼が幸せで、素敵な奥さんがいることを祈っています。彼はどうだっただろう。彼女(奥さん)が、自分より前に誰かを愛したことがあるかと尋ねたとき、彼は誰も愛したことがないと断言するだろうし、しかしまたあえて言おう。でも彼は何十人もの人を愛してきたと思うよと
彼は(自分は)正直に真実を話していると思うでしょう。終わりなき世界! アーメン!
しかし、ネイトは灰色だ! 次に聞くのは...おじいちゃんになったのかということだ。

4月18日(火) 1906年
キャベンディッシュ・P.E.I.
しばらくは、プレスコットが(モードの)おばあちゃんに手を出すことはないだろう。彼はとても病んでいて、冬の間ずっと病んでいて、ひどい顔をしている。私は彼の主治医が言う結核のようなものを恐れている。あのようなことをしていては、かわいそうでならない。彼の行動と言えば、こんなことがあるのかと思うほどだ。(ひどいものか)

日曜日の夕方
1906年5月13日
なぜ今夜この日記を書くのか? これは難しくはない。私は本当に理由はないのだが、ブルーで(陰鬱で)寂しくて心配だからだ。そしてそれは今の私には当たり前すぎて、書く価値がないのだ...。

日曜日の夕方
1906年10月7日
キャベンディッシュ、P.E.I.
今年の5月以来、一言もない!?(日記の記述がであろう) まあほとんど忙しすぎたからね。さてそんな中、落ち葉の月......長い夕方、暇を持て余す。
今晩は風が強く、予定していたバプティスト教会には行けそうにないので、落とした糸を拾う(記憶の切れ端を集めると言う事だろうか)。とはいえ、本当に書くことがないのだ。
夏が終わった。夏も終わったが、ほとんど楽しい夏だった。昨年に比べ心配事が少なく、概ね快適な日々を過ごしている。冬が来るのが楽しみでならないが、寂しいものになることが予想される。
この夏、私はあまり遠くを歩きまわっていない。6月に短い時間ではあったが、街への旅をして非常に楽しいものだった。一日行って次の日に帰る。バーティと私は一晩のおしゃべりのために、私たちはそれを(町へ行く旅を)最大限に活用した。私たちは一度もベッドに入らず、ただ座っていて話していた。もっと頻繁に会えればと思う。
一ヶ月前の日曜日の朝、私はパークコーナーまで馬車で行き、夕方にはまた戻ってきた。1年半ぶりだったのでとても嬉しかった。また懐かしい場所(モードの親戚のキャンベル家のこと)に戻ってきたのだ。
リアンダーおじさん(モードの一番上の伯父さん)、メイおばさん、ケネディは7月と8月に5週間ほどここ(マクニール家)で過ごした。彼らの滞在は、前回ほど嫌なものではなかった。L叔父さんは気分を落ち着かせる薬を見つけ、その結果彼のいさかいを減らし、その結果彼の気性も和らいだ。マリーおばさんと一緒にお風呂に入ったり、遊びに行ったりして、とても楽しかった。私はむしろ彼らを見送るのが残念でした。(モンゴメリもそのような薬が必要だったかもしれない)
ジョン叔父さん一家は、リアンダー伯父さんがここに滞在しているうちは自分たちの意地悪さを決して表に出さない。
8月のある日の午後、私たちは邸宅の敷地内でピクニックをした。その時、私はエドウィン・シンプソンに会ったんだ!」。そのことについては、あまり多くを語る必要はないだろう(エドとモードのいさかい)。でもそんなことはどうでもよかった。全ては昔のことだ。私は彼には全く無関心であった。彼に会うことに何の喜びもなく、単なる一人の人間としては私はむしろそうしたくない。しかし、しかし、昔の恥や屈辱、自制心は消え去った。過去はついに死んだのだ。と、私は全ての参加者の前で彼と1時間立ち話をしたが、全く気にならなかった。
つまり、野次馬が見ている限りはだが。ある意味では私はそれを気にしていた。実を言うと退屈だったのだ。でも逃げられないので最初は片足で、次はもう片方の足で立ち、無理矢理聞いてた。退屈だったのだ。しかし逃げるわけにもいかず、私から彼に話しかけたと思った。しかし全く逆で、彼が私に話しかけてきたのだ。彼は明らかに自分をよく見せようとしていた。
この8年間、彼の頭の中には 彼の全人格は、まるで息を吐くように"お嬢さん、あなたは何を失ったか見てください"と言わんばかりに自分をおごり高ぶって見せる。一方、私の心の奥底には「よかった、この男から逃れられた」という思いがある。一週間もすれば彼は"死ぬまで語り継がれる"
彼は相変わらずハンサムで利口で うぬぼれ屋で表面的だ。彼はイリノイ州の都市の教会の牧師で、ある立場から見れば成功者である。しかし誰からも好かれていないようで、自分のことを話しすぎる。言ったこと、考えたこと、やったこと、などなど。彼は月曜日の午後をここで過ごし、私たちと一緒にお茶を飲んだ。彼は翌日キャベンディッシュを発ち、それっきりだった。
残念なことに、彼はうぬぼれが強いのだ。しかし、私はそれが彼をとても快適にしていると思う。

1906年10月12日(金曜日)
キャベンディッシュ、P.E.アイランド
今日の午後、ユーアン・マクドナルドは、スコットランドへ旅立つ前に、さよならを言うために電話をかけてきた。グラスゴー大学で冬の間勉強する予定だ。そして座っている私の左手には彼の小さな高級ダイヤモンドの婚約指輪が嵌められている。
そう、驚くべきことなのだ。そして誰よりも私自身がこのことを驚いている。私はこのような出来事や動機を明確に分析することができるのだろうか。
3年前、私たちの会衆は、ユーアン・マクドナルドを牧師として呼び、そして彼は1903年9月に(わたしたちの長老会に)入会した。彼は、その前の年パインヒル(神学校)を卒業した直後の春にここで説教をし、非常に好評を博し印象に残っている。彼は島の者で、東のヴァレーフィールドの近くに住んでいた。彼はカナダ人でありながら、ハイランド・スコッチと呼ばれる民族性を持っている。スコッチ(ゲール語)訛りが強いが、気にならない程度だ。彼はハンサムな人だと思われているようだが、私はむしろ可愛い顔と呼ぶべきだと思う。体格は中肉中背で、体格は良いがやや硬く、直立した威厳のある体型である。
今はともかく、後年は腹が出るかもしれない。太い黒髪、黒髪、黒髪。険しい目、清潔感のあるバラ色の健康的な顔、美しい横顔、そしてとても楽しい。頬のくぼみが魅力的な笑顔で、とても人間味のある方だ。34歳くらいの青年。
1903年の9月1日火曜日にキャベンディッシュ教会で彼の入信式が行われた。この礼拝は、宗教的なものであると同時に社交的なものであり、教会には多くの人々が集まった。カーディガンのエドウィン・スミス師が説教をし、エドウィン・シンプソン氏は、数日後私にこう言った。
「マクドナルドは、母親から "この服を着なさい"と言われているような、格好いい男の子だ」と思ったそうだ。「聖職叙任式に最高のスーツを着ていくんだ」。私はその時、ユーアンには全く興味がなかった。しかしこの(シンプソンの)発言はあまり良いとは思えなかった。部外者から彼を呼んだばかりの会衆の一員(わたしのこと)に、自分の牧師に対する批判や嘲笑を言われたくない思っていた。
私は、エドウィン・シンプソンが、自分の牧師を批判したり、嘲笑したりするのをまったく快く思っていないことを、なんとなく自分でも「察知」していた。若い未婚の牧師が、住んでいる地域に放たれ、そしてその時々に応じて受けたちょっとした嘲笑が、彼に対する私の偏見になるかもしれないと思ったのだ。
マクドナルド氏はキャベンディッシュで下宿が取れなかったので、1905年の春までスタンレーに下宿していた。その間私は彼の姿をほとんど見かけなかった。
もちろん、教会の礼拝や仕事(モンゴメリはマクドナルド牧師の教会の手伝いをしていた)では、かなりの割合でゴシップはいつも起こっている。未婚の聖職者のことは、よく彼の名前に結びつけられたものだ。
会衆の少女達の中で年齢やある程度の賢さにより、牧師の妻に「ふさわしい」と思われる人物は、スタンレーのマーガレット・ロス、ラスティコのメイベル・ウールナー、そしてキャベンディッシュの「私自身」。
 私はマーガレット・ロスを見ただけで、あとは知らないが、彼女はいかなる意味でも寵愛を受ける候補者であった。彼女は当時、不幸な恋の渦中にあったのだと思う。他の男のことを考える余裕もなかった。メイベル・ウールナー。しかし彼は彼女を好意的に見ており、私が後で知ったことだが、彼は何もしなかった。
それを彼に見せるのは気が引ける。しかし、少なくとも紳士本人(ユーアンのこと)によれば、彼は初めて私を見たとき、もし私がまだ "オーダーメイド"(恋人が決まっている)のでないならと決心したのだ。運を試してみることにした。しかしかわいそうなことに、その人(わたし)は簡単に見つけることができなかったということだ。ゴシップはいつも私を誰かと結びつけていた。
私とエドウィン・シンプソンのいきさつが残り、時折エドの登場によってそのゴシップが補強されたC.(キャベンディッシュ)に登場し、私に声をかけてきた。
私はといえば、夫を得るために現場(教会の手伝い)にいたわけではない。また私は牧師の妻になりたいとは少しも思っていない。田舎の牧師夫人の生活というのは、私はいつも立派な奴隷の代名詞のように思っていた。
信念や性格が自立している女性(自分のわがままな野望を持っている人、モードのこと)は失敗作(牧師の妻としては不適当)にならざるを得ない。妻はこうでなければならないという「公式」な観点で、あるいは思い込みの正統派で本当の自分を覆い隠さなければならない。正当性と慣習主義で、時には非常に息苦しくなることがあるだろう。彼女はホスト(会衆の接待)もできないだろう!」。
私はマクドナルド氏を恋人にしたいとは思っていなかった。彼の中に友人を見つけることができる。しかし何度か会っているうちに、私には無理だと思うようになった。彼は好感が持てるし、楽しい人だったが、特別な親和性は見出せなかった。ということで、全く魅力を感じなかった。彼は知的な人間ではなく、また大学教育を受けているにもかかわらず教養がない。彼は堅実で良い説教をしたが、説教壇の外では流暢に話すことができず、どこか内気で社交界では不器用で、会話の幅が非常に狭い。彼はとてもよい人で、私は彼がとても好きなのだが、彼は実質的なよそ者だったし、そのようであり続けた。
1905年の春に、彼がここに住むようになるまで。C.(キャベンディッシュ)で、ジョン・レアードの家に下宿していた。彼は頻繁に郵便物を取りに来て、いつの間にか、いつしか1時間くらい長居をして、私に話しかけるのが習慣になっていた。そのうちに彼のことをよく知ると、私が予想していた以上に、彼の中にある深みを発見した。うわべでは隠され、抑圧されている思考や感情が。また語彙の貧しさと静けさのせいでもあると思う。私は神学や哲学など、彼が唯一得意とする分野でのおしゃべりを楽しんでいる。
その上で、私は彼自身に惹かれ始めたとは言えない。私は彼が好きで彼に会えて嬉しいと言うことをより強く感じるようになった。しかしゴシップを耳にすることはあってもこの春まで、彼のことを真剣に考えることはなかった。なにしろ、午後は電話で他愛のない話をするくらいで、何もしなかった。
一度や二度、文学部から家まで送ってもらったことがある。私は彼が単なる友好的な意味しか持っていないと考える理由はなかった。単純な親しみ以外の何ものでもない。彼はそのようなことを一切しようとせずラブ・メイクをしたことはなかったが、そのようなことを見たり暗示したり、ほのめかしたりしたことはなかった。そのようなことはほとんどの男性はするものなのに、このことはそれ以上のものになりたいという気持ちが全くないことを表しているのだろう。
単なる友人である。しかしユーアン・マクドナルドの場合はそうとは言い切れない。正当な理由もないのに、そう感じることがあった。彼は私のことを気にかけていて、遅かれ早かれ私に結婚を申し込んでくるだろうと思ったのだ。
そして、この頃になると、私は自分に問いかけるほど、彼に興味を抱くようになった。もし、彼がそうなったら、そしてそうなったときに、私はどんな答えをするのだろうかと真剣に考えた。私はそれを決めるのが非常に難しいことだと感じ、何ヶ月も決心がつかなかったということだ。昨年の春は私にとって悩みの多い、どちらかというと不幸な時期だった。
前述のように、私は牧師と結婚することに気が進まなかった。その反面で一方、結婚を抽象的にとらえれば、いい人がいれば結婚してもいいと思っていた。結婚してくださいということだ。私は家庭と交際相手が欲しかったし、何よりも率直に言って、私は子供が欲しかったのだ。私にはいつも恐ろしいことだと思うのだ。自分が生んだ生命を後世に残さず、人生を終えるというのは、とても辛いことだ。子供のいない老後を想像するのは辛いものだ。
 しかし、私はこれらすべてを望んでいたのだが結婚するほどには欲しくなかったのだ。もし、そのような結婚で合理的に幸せになれないのであれば、誰であれ、合理的に幸せになれない。
繰り返す。私が愛する男性との結婚のような、完璧で歓喜に満ちた幸せは私はもう期待することはない。私はこの不幸のせいで、労働とパンとバターの幸せだけあればいいと、とても謙虚になった。この8年間の狭量と飢えが、私の人生への要求を強くしたのだ。
 しかしマクドナルド氏との結婚ではそれすら叶えられない。その場合私だけでなく彼も不幸になる。さらに悪いことに、私はかつて私が愛することができる男性に出会った。圧倒的な情熱と献身。あのハーマン・リーアードを追放した後、数年間は私はその苦悩から麻痺してしまい、もうこの先生きていけないと思った。もう恋はしない。でも今は私を惹きつけるようなタイプの男性に出会えれば、また愛せるのだとわかっている。そのようなタイプは珍しく、その可能性は100分の1だ。私の人生に現れることはない。しかし万が一、そのようなことが起こった場合、その結果は私は確信している。絶対的に間違いなく、私にとってはある種の悲劇であり、そうかもしれない。他の人に "危険は冒さない"と言ったこともあった。
 その一方で、将来の孤独を言いようのないほど恐れていた。一人になって、この世で完全に一人になって、新しい人生を歩まなければならなくなる。見知らぬ土地で、見知らぬ人たちの中で、たった一人で暮らす。ある時、私はその選択肢にも向き合えなかった。抽象的に見れば特定の人物を選ぶのは、正直なところ、悪の選択としか思えなかった。
最も少ない? と思いながら、バランスをとってみたが、結論は出なかった。しかしある種の気分、つまり朝の気分は、自分がより賢明であると思うようになった。
自由を守り、人生を信頼する。他の気分、つまり夕方や3時の気分は夜の気分で、結婚に傾いた。ある気分では孤独の方が大きいように思え、悪であり、別の交友関係では、たとえそこから逃れられなくともということである。(自分の希望をかなえたいと思う時は結婚したくなく、夕方寂しくなった時は結婚したくなると言うことです)
また、この問題でかなり悩んだ。祖母が生きている限り結婚しない。そうすると私は公平に男を縛ることができるだろうか。私の若さと華やかさが失われるまで、私を待ち続けること出来るだろうか。(そのような男は)完全に消えてしまった。しかし結局のところこれは私ではなく彼が解決することだ。もし、彼が十分に(私を)気に掛けてくれるなら(待ってもらってもいいだろうと)、そうでなければ(彼は)他で妻を探すのは至極自由なことだ。
私は何度も自問自答した。ユーアン・マクドナルドを大切に思うか、彼との結婚を正当化する彼の笑顔に惹かれる瞬間がありました。そしてある種の否定できない、しかし、圧倒されるわけでもなく、特に微妙でもない。彼は私に肉体的な魅力を感じ、そう思うようになった。しかし一般的には私はそうではないと思った。私は彼が好きで、彼を尊敬し、彼の良いところをすべて見ていた。心も性格も、はっきり言えば、私は彼のことがとても好きだった。しかし、私はそれがすべてだと知っていた。
夏の間、突然、困惑する私の自己研磨の真っ最中に、次のようなことがあった。彼が辞職してスコットランドに行くという知らせがあった。その時私はなぜか私の人生から彼を切り離すことはできなかった。彼は私の人生の一部であるかのように思えたからだ。私は直視することができなかった。彼が去っていく虚しさと空白を思うと。
ある晩、彼が私を呼んで、私たちはウィル・ヒューストンの家まで馬車で行った。その途中暗い雨の降る夜の帰り道、彼は突然こう言った。「私を完璧に幸せにしてくれるものが一つあるのですが、おそらくそれはあまりにも期待することはできない」。「私の人生を共にする妻になってください」
私は、彼が私が自由になるまで待ってくれるなら結婚すると言った。彼は「私をあきらめるくらいなら、喜んでそうします」と。そうしてついに決着がついたのだ。
私は、この結婚に同意したことが最も賢明な選択であったと思う。しかし未来が証してくれるだろうということだ。どんな結婚でもリスクを負うものだ―まさに「良くも悪くも」だ。式がそれを示している。私は満足感を感じている。
(このユーアン・マクドナルドの人柄については、虹の谷に出てくるメレディス牧師にその面影があります)

1906年11月4日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
なんて恐ろしい日なんだ! 北から恐ろしいハリケーンが吹き荒れている。寒さが厳しい。また水曜日の午後から昨夜まで大雨が降っている。私はお天気が悪いとどうしても気分が滅入ってしまうし、ここも寂しい。このさびしい季節に ユーアンの元気な声が聞こえないのがとても寂しい。彼は、今夜はスコットランドだ。彼から連絡があるのは、まだ2週間後だろうか...。

1906年11月6日
キャベンディッシュ、P.E.I.
火曜日の夜1時
...昨日、エドウィン・シンプソンから手紙が来た!
過去は死んだと言ったかな? まあ、彼は明らかに悪霊のような性癖を持っている。過去を掘り起こす(蒸し返す)彼の手紙は私を完全に動揺させた。昨日、祖母がそれを私に手渡したとき、私の頭に浮かんだのは8年前によく知り、よく経験したのと同じような恐ろしい昔の感覚。
昔は(エドウィンの手紙など)勇気を出して開封するまでに1時間かかった。もちろん、開く前から彼が手紙を書いた動機が単純なものであることは知っていた。
マクドナルドさんと私の間に何かあるのかどうか調べるのだ。彼は当然昨年の夏に帰国した際にそのゴシップを聞き、それが彼に影響を与えたようだ。
私が想像していた以上にあるいは可能性があったのである。エドの手紙の多くは私を悩ませ苛立たせたが、そのうちのいくつかは私を悲しませた。そしてその悲しみを自責の念で縛る。私はエドに大きな傷を負わせたと思っている。
私は彼の言う忘却は、きっととっくに来ていると思っていたのだ。残念にも来ていないのだ。そしてエドがどうして私に対してそのような感情を残しているのか、私には理解できない。彼が私に対して憤りと軽蔑の念を抱いているとしたら、それはもう私に対するどんな感情も(恋心は残っていないのだろうと)思える。しかし彼がそうでないことはあまりにも明白だ。彼はまだ将来的に私たちが再会できることを望んでいるのではと心配だ。ユーアン・マクドナルドは問題ない。
さて、エドは遅ればせながら(私から)説明を受けることになろう。検死官による審問を行うことにしよう。私たちの死んだ過去についてぞっとするような手続きだが、それで古いものが捨てられるなら亡霊は永遠に......正当化される(まだ期待していても無駄だよと言う事)
さて、もう2時だ。電気を消して寝ようと思う。

1906年11月20日(火曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今日はいい一日だった。あらゆる意味で良い一日だった。晴天で穏やかな日だった。私は心身ともに健康で、仕事もはかどり、魅力的な時間を過ごすことができた。今夜は散歩。
しかし、日曜日と昨日は悪い悪い日だった。期待していた手紙は届かず、土曜日にユーアンから連絡がありがっかりした。そして日曜日の夜、私はエドウィン・シンプソンに(拳突くを与える手紙)手紙を書いた。それはとても不快な作業で、実際に気分が悪くなった。病んでいる。書き上げた後、しばらく横になっていなければならなかった。確かに不幸なことだ。このようなことが私を支配しているのだ。しかし、「どんな神々がいるにせよ」感謝しする。と書かれている。もし、この先、この文章によって、また彼(エドウィン)からの手紙が来て、それに答えるのはもっと難しいことだろう。しかしそうならない可能性も十分にある。私はエドに私が言わなければならないことは、彼にとって楽しい読み物ではないだろう。彼の巨大な虚栄心は、おそらく次のように考えるだろう。このことに警鐘を鳴らし傷つく危険を冒すことを選ばないかもしれない。それは虚栄心と真実を知りたいという気持ちのせめぎ合い。前者が勝つ可能性がある(自分は偉いのだからまだモンゴメリを責める権利があるという事)。しかしたとえそうであっても、私は彼が攻撃するための武器である私を責めるということができなくなります。もし彼が今、私の申し出に応じないのなら、私の本当の理由を話さなければならない(彼奴の体質が気に入らないと言う事)。もちろんこの手紙を書いたことで、私はひどく動揺し、またもや一睡もできず、惨めに寝返りを打ち、無駄なことを想像した。その結果、昨日は一日中頭痛に悩まされました。何もする気になれなかった。でも、ユーアンから遅ればせながら手紙が届き少し元気が出た。ベッドに入りぐっすり眠れた。睡眠をとることで、今日一日有意義に過ごせそうだ。(モンゴメリはうるさくて派手な男ではなく、地味な男が好きだったようだ)
今日の夜はとてもいい天気だった。私は11月の澄んだ空気の中、丘に登った。月明かりの秋の夜長になるまで歩き回った。私は一人だったが、孤独ではなかった。思考は素早く、鮮明で、想像力は活発であり明るい。私は架空の仲間と架空の会話を重ねた。
自分でも驚くほど、たくさんのエピグラム(短い詩)を考え出した。そして私はまだ、不思議な、野性的な、甘い精神の生命にうずうずしながら、家に帰り、一本の文章を書いた。
新しい連載の一章を、滞りなく、楽しく書き上げた。ああ元気で生き生きとしていて、面白くて、すべてが生きていると感じるのはいいことだ!。

日曜日の夕方
1906年12月2日
キャベンディッシュ、P.E.I.
今シーズンの最初の本格的な吹雪に見舞われている。一日中雪が降り続き、雪崩も発生している。そのためとても寂しく退屈な一日だった。
私はこのところ、どちらかというと面白味のないマンネリ化した生活を送っている。でもいいことが先週の火曜日に起こった。私の短編小説「クォーレ」を出版社が受け入れてくれたのだ。アレクサンダー・エイブラハムでの反乱」に対して100ドルを送ってきたのだ。.どの店でもこの雑誌は大きな雑誌の一つで、そこに載るということは、自分が成長しつつあることの証だ。
今日、私は「未来の生活」という新しい本を読んだ。とても面白い本だった。しかし、結局のところ、この問題を解決することはできなかった。これまでどんな権威あるその古い質問に対する明確な答えは、「」です。という問いかけが、いつの時代も続くのだろう。
今日もまた、この古い日記の以前のページで、私が書いていたことを読んた。ハーマン・レアードへの愛について。それはなんと狂おしいほどの恋心だったことだろう。しかしそれは知っておいた方がいいことを教えてくれた。私はそれを感じたことを残念に思っていない、いや、嬉しい。どんな経験も人生を豊かにしてくれるし。人は死ねば生き返るのか?  しかし、私にはそのような経験が深ければ深いほど、より大きな豊かさをもたらす。私はより深く、広い心を持った女になった。あの昔の愛、あの昔の誘惑、あの頃の私。その古い苦悩。それは私の魂を、他の方法では決して得られないような深さまでかき立てたのだ。知っていてよかった。それは残念なことだったが。
たとえそれが愛であったとしても、愛を知らずに人生を終えるのは、とても残念なことです。不幸で満たされない愛。私は人生の充実を知ることはないだろう。その人が私を愛してくれていることを知って、私はその人に自分を捧げた。しかし、私は何もかも騙されたわけではない。

マクドナルド師


1907年

日曜日の夕方、1907年1月20日
いつから日曜の夕べをまた楽しめるようになったのだろうか、楽しい。この6年間、少なくとも冬はほとんどそうであった。 私にとっては、自分の存在意義のうちで陰鬱で輝きのないもののすべてを象徴している。これは典型的な例だ。今日は礼拝がなく、大雨が降って吹雪いてる。 祖母は讃美歌を読みながら泣いている。彼女の絶え間ない「鼻かみ」。 それは本当の悲しみの威厳や哀しみとは無縁のもので(年寄りの単なる悲観だと言うのだろうか)私はかなり神経質になっている。
 私は長い間、この日記に書いていない。どういうわけか私は心を失った。私は落ち込んだり悩んだりしたことがある。この6週間は私をさらに悪化させるだけだった。ユーアンはひどく落ち込んでいるようだ。彼は頭痛と不眠に悩まされていると言っているが、それ以外には何も言ってこないし、何が原因なのかがわからない。何かあるのではと心配でならない。 そうでなければなぜ彼はこんなに落ち込んでいるのだろうか、彼の手紙は、彼(やらねばならん、やらねばならんのだと言うように)が自分自身を強制しているような悲惨な感じを私に与える。 私は日記を書くことに何の興味もないかのように他のことで精一杯だった。今までどれだけ冬を乗り切るために彼の手紙を頼りにしていたかというのに、その彼の手紙が私を失望させた。そして心配で憂鬱になるくらい、本当に受け取るのが怖い。私は彼に 医者に行ったことがあるのですかと聞くが、医者は助けにならないと言うだけだ。 私の質問に対して彼はそれ以上何もしない。そんなことはないだろうに。このように私は様々な恐ろしい仮定と恐怖で自分を不安にさせる。ただ一つ確実に言えることは、彼は勉強が出来ず、時間を無駄にしているということだ。
 今、私を元気づけてくれるものはただ一つ、大きな箱入りの金水仙だ。 芽を豊かに吹き出した。見ているだけで心が落ち着く。
 教会の借金のために、コンサートと晩餐会を準備しようとしている。 一方は「悲しい」と感じ、他方は「悔しい」と感じる嫌な仕事だ。 会衆はその半分が敵対している。私は平和を保ち乱れた羽毛を滑らかにする。私はこのような些細な事柄のために とにかくお金を集めること。宗教はそのような下品なものであってはならないのだ。もし人々がポケットに手を入れ、そのポケットに手を入れるだけの意味がないのだ。 教会のためにきちんとお金を払うことはあまり意味のないことなのだ。しかし私たちは この世界では、人々は私たちが見つけたように、彼らと私たちの下でできる最善のことをするのだ。 少なくともこれらの心配事は外見的なもので、それほど深いものではない。 私の人生の他の人たちとは違って。私はそれを気にせずただ笑い飛ばすだけだ。 しかし惨めで嫌がらせばかりしていると、そのようなものでさえも追加されたピン(チクっとする)は耐え難いようだ。この日記は確かに私の「青い本」だ。人生が嫌になるときがある1 そしてまた激しく愛する時もある。 もし半分でもあればどんなに美しいものにできるだろうかと苦心惨憺の思いだ。 私の自然の本能はすべて妨げられるようだ。 その思いは私を文学に向かわせるもので、幸いなことに物語の中にまではその力は及ばない。 ここでは誰も、何も、阻止することはできない。(物語の中では)それ以外の(世間的な)ことはすべて否定されるのだ。私は庭も、社会生活も、友人を訪ねることもできない。 しかしありがたいことに、魂、心は、自由であり、何ものにもとらわれない。一挙に 物質という牢獄を飛び越え、星々の間に舞い上がる。 この冬の文芸協会は、二晩を除いてすべて失敗だった。 それは荒れ模様だった。私はあまり気にしていない。今私が行くのは、(文芸協会に)行く方が簡単だからだ。 行かない理由を100回説明するのは、特に結局のところ説明できないのだから。 正直に説明しても、何かまともな嘘をつくしかない。 今の私にとって文芸協会には何の楽しみもない。 迷惑をかける。暗い中、1マイルの悪路を一人で歩いていかなければならないのだ。 しかしこのことは、くすくす笑っている大勢の人たちと一緒に家に帰ることに比べれば半分も気にならない。 女の子や見栄っ張りな男の子と一緒にいると、惨めなほど場違いな感じがする。今、私の文学座には昔の仲間が残っている。 このところ体調があまりよくないのだ。だから私は青く、寂しく、不機嫌である。 老いている。ただし暗く光る月を通して若い月が輝いている数少ない時間以外はそうであるが。 樅の木や冬の黄昏の白い静けさに包まれると私はひとときでも我を忘れることができる。 水仙を見るときにも。今見てきた。 憂鬱な気分や落ち込んでいる自分を恥ずかしく思う。結局のところ私は多くのことを持っている。私は隠れてなんかいない、馬鹿じゃない、何かできるはずだ。 私はまだペンを持っていて、かわいい灰色の猫を飼っていて、私以外の誰にも慣れない。 より良いより高貴な誰でもなく世界のすべてのための自分自身。私は成長したいのだ。 欠点を取り除き見苦しい成長を剪定するために、より良くより気高くなりたいのだ。 他の誰でもない私であるために、永遠のすべての時代すべての人生を通じてこの後に続くのだ。時々私は奇妙な気まぐれな慰めを得ることがある。 「気にするな!」と思った。今度生まれてきたら、私が今の生で逃したものを手に入れることができるのだ。 今ギボンの「ローマ」を読んでいる。大作である。何百万人もの人が 男も女も生きて、苦労して、苦しんで、成功して、失敗してきたんだ。そのような大勢の中の一人というのは何なのか。 個人の不老不死?(これはまさにモンゴメリが赤毛のアンで成功する一歩手前の時、必ず成功するぞという決心が述べられている)

火曜日の夜
1907年2月5日
キャベンディッシュ、P.E.I. ,
元気が出た。以前とどれだけ違うか。手紙を読むのも返事をしても寒く、北東の嵐が来ている。でも、ブルーで寂しい感じはしない。今夜はいつものように書いている。私がエドの手紙を受け取ったとき、彼の手紙は一度も二度読みしたことがない。
今日、ユーアンから手紙が来た。11月の時に一気に元るのも嫌になるくらいだ。人生にはなんと奇妙な弧を描くものがあるのだろう......。(手紙に去年のことが書いてあったのか)

1907年2月25日(月曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
私は猛烈に不平を言わなければならない!。なるべく我慢してきたけ今晩にでも(日記を書きに)来ないと破裂しそうだ。私たちは「恐ろしいほどの寒波」に見舞われている。 5日間も氷点下が続いている。家が寒くてとても住めるような状態じゃない。 祖母は台所以外では火を使わないからだ。私はずっと 24時間震え続けている。肉体的な不快感に精神的な不快感が加われば、それはもう大変なことになる。 精神的な不快感は、私の我慢の限界に達している。私は屈するしかないのだとこの日記にうったえる。 この冬は今までで最も全く孤独な冬である。そしてユーアンの手紙。 今月初めの元気な一件の後、とても陰鬱な日々が続いている。どうしたんだろう? どうしたんだ?なぜ教えてくれないのだろう?頭痛よりもっとひどいことがあるに違いない と不眠症で落ち込んでいる。毎日毎日、寒い日が続いている。 生気のない単調なものだ。ああ春が来ればいいのに。 でも1週間前にひとつだけ、本当にいいことがあった。私は10月中旬からフリーデに会ったことがなかったのだが、ある晩にチャンスがあったのだ。その時私は 精神的、感情的に、ええ、精神的にも肉体的にも。フリーデと私は 彼女の部屋に入り、ショールを巻き、床にしゃがみこんで、箱入りの チョコレートキャラメルを挟んで、自分たちのことを話した。ああ、楽しかった! 私はそれ以来、その記憶と味に生きているのだ......。

1907年8月16日(金曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
この間に、また新たな空白が生まれた(日記の空白のことか)。しかしあまり書くことがなく、また私はとても忙しく、満足している。春が来てからというもの、私は憂鬱になることもなく、またこの生活は耐えられるものであり、まれに楽しいものでもある。
前回のエントリー(日記に書き込んだこと)以降、本当に重要なことが一つあった。4月15日にボストンのL.C.ペイジ社から、私の本の出版を受け入れるという手紙を受け取った。原稿を送ったところ、印税ベースで出版するとの申し出があった。
私の人生は、「本物の」本を書くことだった。ここ数年しかし、なぜかとても大変なことのように思えてなかなか踏み出せずにいた。始める勇気がない。私は昔から物語を始めるのが嫌いだった(長い話を書くのは大変だ)。最初の一文を書き上げると書き上げた段落は、半分終わったような気がする。だから本を書き始めることはかなり大きな仕事だと思った。それにどうすればいいのかわからない。そのための時間をどうとるか。普段の仕事の合間を縫って書く余裕はなかった。
私はいつもノートに思いついたことを書き留めるようにしていた。プロット、事件、キャラクター、描写のアイデア。二年前の1905年の春、このノートに目を通し、何か適当なアイデアはないかと考えていた。某日曜学校新聞に書きたい短編連載があったのだが、その時に見つけたのが老夫婦が孤児院に子供を引き取りたいと申請する。男の子を欲したが間違って女の子が送られた" というプロット。これならいけると思った 私はこれでいいと思った。
章を立て、事件を考え、ヒロインを "膨らませる"。どういうわけか彼女は私にはとてもリアルに感じられ、異常なほど憑りつかれたようになった。彼女はこのままではもったいないと思った。
刹那的な(一時の新聞に載せる)小連載でよいのか。そこで思いついたのが、「彼女について本を書こう」ということだった。あなたには(生き生きと感じられた少女)中心的なアイデアとキャラクター。あとは、それを十分な分量で展開すればいい。一冊の本になるような章を。その結果生まれたのが『赤毛のアン』だ。
5月のある晩から実際に書き始め、そのほとんどを、5月のある晩に書いた。(1905年と思われる)その夏から秋にかけて、通常の仕事が終わった後の夕方。1906年1月頃に完成したと思う。それは愛にあふれた仕事だった。
これほど書くことに喜びを感じたことはない。私は「道徳」や「日曜日(敬虔でいなければならないこと)」を投げ捨てた。学校の理想を捨て、「アン」を本物の人間の少女にした(欲求で一杯の子ということか)。私の多くのその章には、自分の幼い頃の経験や夢が織り込まれている。その背景として、「恋人の小径」が非常に重要な位置を占めている。
この作品にはたくさんの事件があるが、結局のところ、"アン"の存在によって成り立っている。彼女こそこの本だ。
この本は、私の古い中古のタイプライターで打って書いた。大文字は平文(斜体がないという事か)で、"w"はまったく印刷されない。次にやるべきことは出版社を見つけることであった。私はインディアナポリスのBobbs-Merrill社に送った。この会社はまだ新しい会社で、最近、「ベストセラー」をいくつも出して、頭角を現してきた。私は新しい会社の方が、すでに実績のある老舗の会社よりもチャンスがある。作家の優先リストがあると思った。ところがBobbs-Merrillは非常に迅速に、正式な書類を添付して送り返した。印刷した断り書きがあった。私は落胆の声を上げた。そしてもう一つの方法としてニューヨークのMacMilan Co.に送った。「老舗の会社」なら、新しい作家にチャンスを与える傾向があるかもしれない。マクミラン社も同様にそれを送り返した。私は今度は泣かず騒がずに次のところに送った。
ボストンのロスロップ、リー、シェパードという、いわば "中間の業績の会社"である。彼らは送り返してきた。次にニューヨークのヘンリー・ホルト社に送った。彼らもそれを拒否した。しかし、他の人たちのように正式に印刷された伝票ではない。タイプライターで書かれた悲痛な叫びが送られてきた。
読者はこの物語に「いくらかの長所」を見出したが、「それを認めるには十分でない」と述べている。この「かすかな賞賛で非難する」ことは、私を平静にしてくれた。
印刷された伝票(断わり書き)でも無理だった。私は「アン」を洋服箱の中の古い帽子箱にしまい込んだ。いつか時間のあるときに、彼女を7章(の短編)にまで減らそうと決心した。その(7章)章を書き、前述の日曜学校新聞に送った。
その原稿は昨年の冬のある日、私が帽子箱の中で見つけるまで眠っていた。物色していた私はシートをめくり始め、あちこちのページを読んだ。なぜか、面白いのだ。他の人もそう思うはずだ。「そうだもう一回やってみよう」と言って、L.C.ペイジ社に送った。L.C.ペイジ社はそれを受けて、私にその続編を書くように頼んできた。この本は売れるかもしれないし、売れないかもしれないということだ。私はお金ではなく愛のために書いたのだ、このような本が最も売れることはよくある。
人生におけるすべてにおいて成功する物は営利目的のために作られたものではなく、真実によって書かれたものである。
私はペイジ社がどんな出版社か知らない。いや、それをを全く知らない。彼らは卸売ペースの10パーセントのロイヤリティを私に与えると言ってきた。これは新人の作家にとっても気前がいいとは言えない。それから5年間は同じ条件だ。私はこれが全く気に入らないのだが、しかし私は出版社がアンの原稿を取らなくなるかもしれないので、抗議するのが怖かった。私はこの本を世に問う。たとえ大成功でなくともこれは出発点なのだ。
さて私は本を書いた。何年も前に夢見た、あのオモチャのような学校の机の上で何年も前に夢見て何年も苦労して、やっと実現したのだ。そして夢と同じように現実も甘美である。
ユーアンは4月に帰国した。彼はとても元気そうで、頭痛と不眠症もすっかり回復していた。
(※赤毛のアンはモンゴメリが1905年の5月から1906年の1月にかけて書き上げて、それがL.C.ペイジ社に採用されたのが1906年の暮れで、それから出版されたのが、1908年の6月ということになる)

1907年10月9日(水曜日)
Cavendish, P.E.I.
....昨日、新しい本の最初の6ページを書いた......「アン」の続編だ。その夏の間、私はそのための材料を集め、章を区切り、忙しい日々を送っていた。事件を考え、それを互いにはめ込み、キャラクターを作り上げる。事件を考案し、互いに適合させる。これは仕事の嫌な部分だが、もう終わったことなので、乾いた骨に生命の息吹を吹き込み、生き返らせることは純粋な喜びだ。
創造する喜びを感じている。アンは、まるで私が産んだかのように、私の中でリアルな存在だ。そして愛しい人。

1907年11月18日(月曜日)
キャベンディッシュ, P.E.I.
今夜、暗くなってから、あるいはちょうど暗くなってから、恋人の小径を散歩してみた。こんなに遅くまでいたのは初めてで、楽しかったのだが、本当はちょっとだけ不快でない恐怖を感じながら。この路地全体の性格が変わってしまったようだ。森は神秘的で、ミステリアスなささやきに満ちており疎遠になったようで、不気味だった。木々は、私のよく知った友人たちなのだが飄々としている。聞こえてくる音は、昼間の合唱のように陽気で仲間思いの音ではなく、忍び寄り、囁き、不気味で、まるで生命がない。
森は突然、ほとんど敵対的なもの、少なくとも異質なものに変わった。知らない人、気の利かない人。忍び足で歩いているような気がしてきた。そして、古くから知られている、原始的な理不尽な恐怖を感じたのだ。
民族の幼年期には、暗闇や影に対する畏怖の念を抱き、身じろぎするほどであった。暗がりの中に潜む、目に見えない危険。20世紀の理性がそれを鎮めた。しかし、そのようなことをしても、「己を知る」ことにはならない。私は盲目のパニックに陥り、恥ずかしげもなく逃げ出したことだろう。しかしいつもより早く歩いた。
魅力的だが神聖とは言い難い場所から脱出した。異教徒とファウヌスやサテュロスのお祭り騒ぎに明け暮れた。野生の地はどこも暗闇の中にいて完全にキリスト教化されることはない。そこには昼には陽の光の下で姿を見せない生命が潜んでいる。が、夜とともにその姿を取り戻す。(モンゴメリは小説を魅力的にするために怪しい神話にも通じていたのです)

1907年12月14日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
20年前には想像もつかなかったことを夜にしてしまった。この驚くべきことは何だったのか?なぜかというと、私は一人で「キャベンディッシュ・ロードの森」(おばけの森のことか)を歩いたのだ。
子供の頃、私はこの森をとても恐れていた。1マイルほど入ったところにジャック一家が住んでいて、小さなお店を開いていた。お茶や砂糖などを売っていた。私はよく日用品を買いに行かされた。その森を行くときの恐怖の苦しみは忘れられない。森の中の距離は4分の1マイルにも満たないのだが、その距離は私には果てしなく続くように思えた私は、この内心の恐怖を誰にも話す勇気がなかった。
その森で私を待ち受けていたのは、恐怖だった。それが何であったかを定義することはできない。私の恐怖は言葉では言い表せないほど、古い原始的なものを恐れた黎明期の祖先から受け継いだ耳である。
森には理由がある。私はただ盲目的で理不尽な恐怖を感じていただけなのだ。しかしこれはすべて昼間の話だ。日没後にあの森を抜けるなんて、ありえない。どうしてそんなことができるのか、私には理解できない。そういえば、あるここに(マクニール家のこと)寄宿していた投票権を持つ学校の先生は、夜中にそこへ行き、向こう側に住む管財人と校務の打ち合わせをする。私の目には、彼は世界が見たこともないような偉大なヒーローだった。でも、今夜はその中を通り抜けた。今まで通った覚えはない日没後に一人で。私の黄昏の旅路の邪魔になるしその道には、いつも仲間がいた。でも今夜は一人でいるのが好きだ。。
わたしは昔、あの森で怖い思いをしたことを思い出すことさえなかった。家に帰ると全然勇気が出ない。これから先、恐る恐る楽しみにしていることは、すべてそうではないのだろうか。このようにそのときが来たら、気にしないようにしよう、恐れないようにしよう。

1907年12月17日(火曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
...夜はとても寂しく、とても長く、そして短い空間がある(見通しが悪くなるということか)。太陽のない灰色の日。私は一日中働き、考え、そして夜が早く訪れると、気難しくなる。
私の魂に沈んでいる。その気持ちは筆舌に尽くしがたい。それは恐ろしいものだ。どんな痛みよりもひどい。言葉で表現できる限りでは、私は大きな、そして体や頭の疲れではなく、重い恐怖と結びついた不快感。
未来が、どんな未来でも、幸せな未来でも、いや、何よりも幸せな未来でも。この奇妙な気分は、幸せになるためには、より多くの努力と、より多くのものを必要とするように思われる。私が持っている以上の浮力。私の恐怖は幻想的な形をしている。幸せになるのは面倒くさい、エネルギーが必要すぎる。そんなとき唯一、諦めの境地として期待できるのは、色彩のない未来だろう。私の感情的な性質を全く必要としない、より少ない存在だ。そんな時希望も信念もない。私は自分が生き物であることを確信する。
誰からも愛されない、今まで心に浮かんだ憎い思いはすべて私が産んだぬるぬるした憎いもののように、潜んでいたところから這い出してきて誕生した。私の人生のあらゆる過ちと間違い、そして私の呪われているほど良い記憶力が意識の初期の夜明けから、その一つひとつが恥ずかしく思い出される。
私はこのことから自分を納得させようとする。私は言う 「これは病的なナンセンスであり、私の現在の環境におけるある種の異常な条件によって私には欠点がたくさんある。しかし私は全体として平均的な人間であり、平均的なシェア(付き合いのことか)を持っている。"愛らしさと友達の数は平均的" すべて無駄なことだ。同じように私はアルファベットを暗唱している。このような気分でもう一つ不思議なことは、その間に、私はこの先もずっとそうなんだろうなという気がする。それは無駄なことだと自分に言い聞かせ、乗り越えてきた。そう、そういう気分は、これは永久に続くのだ」という理不尽な答えが返ってくる。この状態は、何か楽しい出来事や外出があるまで続く。
あるいは熟睡することで、正常な状態に戻る。そうすると、私はかなり高い確率で逆の行動に出ることがある(元気にふるまうということではないか)。神に感謝すべき存在である。おそらく私は人一倍、環境に対して敏感なのだと思う。
想像力豊かな気質の致命的な影である。神々は私たちを許さない「恩に着る」。いわゆる贈り物(モンゴメリが持って生まれた文学の才能のこと、天の賜物ともいう)に対して、彼らは私たちに丸々代償を払わせるのだ。(文才を持ったが、その為に神経質にもなったという事)


1908年

1908年1月12日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.l.
......私は新しい本を書き続けているが、この時期にはかなり気の抜けた仕事である。 冬だ。他の部屋はどこも暖かくないので台所で書かなければならない。 郵便局との行き来も多いしいつも邪魔が入る。この家には使っていない部屋が6つある。 1つを図書館として整備し、暖かくしてはいけない理由はない。 祖母がそのような計画を聞いてくれないという強力な理由以外にはない。 一瞬でも......。

1908年5月3日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.l.
...しかし、春が来たので私はより良いことができるようになる。 私の愛する隅々や森の仲間たち、とても愛されている、いや、愛されすぎている。 これらの者たちと別れることを考えるととても耐えられないので......。 ブルームフィールドは滅多に会わないので、私は彼の、あるいは誰かのものになるのに適しているのだろうかと思う。 もし、そうでなかったら? 結婚の責任を引き受けることはできないと感じる瞬間がある。

1908年5月24日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
私は今、とても元気だ。多分、強壮剤を飲んでいるのだろう。 にやにやしながらもそれが私を助けてくれている。しかし私はむしろ、私がこのような状態から脱出したことが、私を助けてくれたのだと信じている。 寒さと湿気と憂鬱の束縛から、美しい、ああ、とても美しい!――屋外で。 私の愛する小道や森や畑の世界。ああ、私はそれらを愛している――愛している。毎日より多くの親愛なる仲間たちと一緒に。このままではいけないと思い、心が折れそうだ。 今夜...この素敵な5月の夜...私は海岸まで歩いた。それは相変わらず美しかった。これまでと同じだ。キャベンディッシュの海岸は世界で一番美しいと思う。これは単に私の好意的で愚かな空想に過ぎない。世界中を旅して回った男の話を聞いたことがあるがキャベンディッシュほど美しいビーチは見たことがないと言っている。 砂浜は、自然の良さが際立っている。一人でそこに座っていると今夜は、一人だけど寂しくはない、私はどんなものもキャベンディッシュを愛したようにも好きになれないと痛感した。 そして、ここで本当に不満に思ったことは一度もない。 病気や悩みがあるとき、不満な気分になって、それを書き留めたことはある。 この日記に書き出すことでそれを払拭することができる。しかしそのような気分は過ぎ去るものであり、またそのような気分と比較することが少ない。その場合でも、その場所ではなく既存の条件に対してだ。 もし私の願いが叶うなら一生ここで暮らしたい。 ここ数年の辛い環境から解放された。もしジョンおじさんの家族がいなかったら、もし私がここで独立した家庭と存在であったとしても、私は絶対にここにいる事を心から願っている。 望ましい変化であっても簡単に変えられる時代は過ぎ去った。 私は33歳で私の好みや習慣は形成されている、いや、むしろ形成されてきたのだ。 私はこの場所に縛られている。 古い付き合いと自然な愛情による千差万別の絆、それは知性によるものではなく 欠点や欠点を見抜き、それを認める講師ではなく泣き叫ぶ心の声だ。 "ああ見えても愛してる"

1908年6月20日(土曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今日は、アン自身が言うように、「私の人生におけるエポック」だった。私の本が今日出版社から届いたばかりだ。正直なところ私にとっては誇らしいことであった。 この瞬間、私の手の中にすべての夢と希望と野心と葛藤とが、私の全意識の中で私の最初の本だ。素晴らしい本ではないが、私の、私の、私の本だ。 私が生んだものであり、私がいなければ決して生まれなかったものが存在するのだ。見た目は私が望んでいたとおりの本だ。 表紙のデザイン、しっかりした製本、しっかりした印刷。アンは(孤児院で)適当なものがないからということで古い服を着用している。 献辞のページには、「父と母の思い出に」と書かれていた。 母。ああ、もし彼らが生きていてくれたら喜びと誇りに思うだろう。どんなふうに父の目が輝いたことだろう。

1908年6月30日
キャベンディッシュ、P.E.I.
これほど美しい6月は記憶にない。この上なく美しい太陽の月である。 この緑はあなたの心に染み入ることだろう。 魂に響く。クローバー畑を通り過ぎるのは、祝福に値することだ。 私はずっと気分が良くなっている。昨年の冬にあった憂鬱な気分や神経過敏な状態は、そして再び希望に満ちた明るい気持ちになった。このようなことは誰にでもできることだ。 毎朝執筆の前に丘の上に座り、トウヒの木々を眺める。 その向こうには緑の草原が広がっている。主に感謝しながらこの上なく甘い人生を。
 おお、我が古い家は今キャラウェイが大きくレース状に波打っている。 6月の風に吹かれ、キンポウゲが散っている。
 そして早生いちごを摘んできた。今日の夕方海岸に下りて行って風の吹く、甘い香りのする草むらで一杯摘んた。私はいちご狩りが好きだ。この職業には何か永遠の青春のようなものを感じる。この職業では神々はオリンポスの高地でイチゴを摘んでいたかもしれない。 このところの日々は私の本のレビューのおかげでずっと面白い。レビューは今のところとても好評だ。アンの第二作目は今、出版社から続編を急がされている(出版社はアンの人気が高いうちに続編を出させようと思ったのだろう)。私はそれに取り組んでいるのだが、この作品はそのようなグリーンゲイブルズのアンほどには簡単にはいかない。無理にやらなければならないのだ。

1908年7月16日
キャベンディッシュ、P.E.I.
忙しい2週間が過ぎ去った。Leanderおじさん(モンゴメリの一番上の伯父さん)とMary(メアリおばさんはリアンダー伯父さんの三人目の妻でまだモンゴメリと同じくらい若かった)おばさんが来ている。今月1日から。Mおばさんと私は何度か「ディップ」(お茶の会か)をした。古い親愛なる海岸。アルマ・マクニールが1ヶ月間家にいて、私たちは次のようなことをした。楽しいおしゃべりと散歩、そして素晴らしい入浴を楽しんた。私はすっかり元気になった。そして、その変化は言いようのない喜びであり。この夏私たちはとても美しい夏を過ごしている。という感じだ。
今夜、ある出会いがあった。それは、最初は不愉快で、次に面白く、そして最終的にはかなり動揺した。アマンダが郵便物を取りに来たので、一緒に門の前まで散歩に行った。そのときエドウィン・シンプソンと彼のブライダル(結婚相手)に会った。昨年の冬エドが結婚すると聞いた。お相手の女性の名前は聞かなかったが
それ以来聞いていない。エドは、私が「教えてくれ」と言っても、決して相手にしてくれなかった。私が婚約を破棄した本当の理由。私はこのことに驚かなかった。というのも、彼は誠実にそれを(結婚を)求めていたわけではなく、むしろそれをほのめかしていたのだ。彼は(私がエドとの婚約を破棄したこと)をただ私への非難に利用することができるのだ。私が承諾したと言うことに彼はとても驚いたと思う。その上私のマクドナルド氏に関する彼のヒントを無視したことで、彼はこう考えるようになった。
彼が「あまり信用していない」あの「噂」には、やはり何かあるのだろう。彼の結婚の知らせは、私に影響を与える限りにおいて、私に喜びを与えてくれた(しつこく付きまとわれることもなくなった)。という安堵感がある。彼のためにもよかった。私の知る限り、エドは私のせいでずっと独身を貫いてきたのだ。でも彼はそうではないのかと。もしそうなら私はとても驚かなければならない。しかし私は確かに彼に悪いことをしたと思っているし、その感覚はいつも不安なものだった。私はまた、自分自身のためにもよかったと思う。今後(またエドに)会うこととか、手紙をもらうとかへの恐怖から解放されるのだから。
(モンゴメリは一度は結婚を承諾したエドウィン・シンプソンとの婚約を破棄した)
6月のある日、新聞でそのことを知るまでは、それ以上のことは考えもしなかった。花嫁を連れて島に到着したとの知らせがあった。このことは、むしろ私の心を揺さぶった。私は(次のことを)知っていた。彼はキャベンディッシュの友人を訪ねるだろうし、私もどこかで彼らに会うはずだということだ。見知らぬ土地で会っても全然かまわないし、そうでなければ、というのも私はもともと彼女に興味があったのだ。しかし私は彼らの友人や私の友人の前で、彼らに会うことを考えたら快くはなかった。
私たちの古い関係を疑い、「どう受け止めるか」を見ているのだろう(世間が)。少なくとも二人は恥ずかしい思いをすることになる。しかしその一方で、私自身は、そのようなエドの花嫁を覗き見することは望んでいなかった。
彼らはC.(キャベンディッシュ)に来て、エドは先週の日曜日の夕方、バプティスト教会で説教をした。その晩は私たちの教会でも礼拝があったので、私が行くことはできなかった。B.教会に行くことも、私たちの教会に来ることも。それ以来、私は彼らのことを何も聞いていない。
このころにはキャベンディッシュを離れているはずだ。アマンダと門で別れた後、私は元気に歩いて帰った。デイヴィッド・マクニールの丘から降りてくると、二人乗りのバギーがピアスの丘から下りてくるのが見えた。しかし私はそれが「特定の誰か」だとは思わなかったし、私はあまりに池の上にボートに乗っているのは誰なのかと、それを確認することに夢中で、決して目を向けることはなかった。バギーが私のすぐそばに来るまで、バギーを見回していたのだが、その時私は何気なく(バギーの方に)顔を向けた。と思って見ていたらエドと花嫁の方にだった。
もっと早く振り向けばよかったと、私は決して自分を許さないだろう。そうしていれば、どんな人なのかじっくりと見ることができたのに。そうすれば、彼女がどんな人なのか、よく見ることができただろうに。
エドにお辞儀をして微笑む間もなく二人は通り過ぎた。奥さんを見るために一瞬たりとも注意を緩めなかったが、グレーのスーツを着た女性というのがその一瞬の印象だった。
「メリーウィドウのような帽子、厚いシフォンベール。その顔は、私が見た限りでは、まるでその場にいないようなものだ。驚いたが、お辞儀をするくらいの心の余裕はあった。にこやかに微笑む。しかし、エドには誠実さなど微塵もなかった。私はむしろ、私が心を込めて接したという事実そのものが、彼にとっては侮辱と映ったのではないだろうか。(私がエドが結婚したと言うことがわかって済々しているのだろうと)私がついに彼を拒否した自分の理不尽な頑固さによって彼を失ったという事実に対して、お世辞にも無関心であることを示している。
ともかくも彼は微笑みもしない。ただ帽子に指を硬く添えて、「おはようございます」ほとんど気づかないほどのお辞儀。その表情はというと......本当に「素」の顔をしていた。
しかし、もちろん、それは単に彼の困惑の結果であり、子供たちは言う。突然の出会いに 私は自分の気持ちを知っていたので、彼のことをある程度正確に推測することができる。彼の妻がどうだったかは問題である。
まさか、さっきの女の人が、「あ、(エドを振った過去の女は)この人だ」と思うようなことはないだろう。夫の "過去"と何らかの関係があったのだろうか。私が知っている限り、エドは彼女に(私との浮気を喜んでいたことを)一度も話してはいない。
橋に着くと、驚きの息苦しさはどこへやら消えて。そして楽しさがこみ上げてきた。私は一人で小さく笑った。なんという出会いなのだろう。1年以上前、エドは私に「時は忘却をもたらさず、またクローゼットの中の骨格(結婚式のドレスを膨らませる骨組み)は、彼にとってまだとてもリアルなものだった」など。
「忘却」は、彼が思っているよりも近いところにあったのだろう。まあ、まあ、彼が初めてではないのでだが。というのは、私はいい加減な表現が好きなために、自分以上のことを言ってしまうという意味だ。それを笑うのはフェアではない。(モンゴメリはかなり浮気性の女と見られていたようだ)
楽しいことの後に、「不安なこと」がやってきた。エドウィン・シンプソンは何ものでもない。今の私にとって、嫌なものでさえない。しかしそれでも彼の姿を見るといつも(またあの厭な)過去が鮮明に蘇り、その憎悪と苦悩が蘇るので、私はまた同じことを繰り返しているようで、耐えられない。
エド夫人に対する私の好奇心は、まったく衰えない運命にあったわけではないん。あるとき一昨日、アルマの家に行ったとき、彼女はB.チャーチ(バプテス教会)で彼女(エドの新妻)を見たそうだ。私の興味がどれほど強いかを全く知らずに彼女についていくつか教えてくれた。彼女は「美人ではないが、とても賢くてお金を持っていると言われている」というようなことを言った。私は思わず声を詰まらせた。昔、エドが私に言った巧みなスピーチの一つを思い出したからだ。昔は 昔、幼い頃の「夢」を語るとき、彼(エド)はいつもこう思っていたそうだ。「見た目がよくて、お金を持っている女性と結婚できれば、かなり満足できる」。
私は「ルックス」(見かけの良さ)に関しては合格点かもしないが、「ルックス」に関しては、私は本当に......。
「お金」も「お金になる見込み」もないのだ(この当時のモンゴメリは)。エドは本当に私にシンプソン的な褒め言葉(浮ついたお世辞のような物)、それは私が十分に魅力的であるという考えを伝えることである。しかし、彼は私にこう思わせることに成功しただけだった。
彼は、この重要なことを放棄してくれた(婚約破棄を認めてくれた)彼の慈悲深さに、私はとても感謝しなければならないと思った。私の場合資格はない。彼の言葉の中に見え隠れする虚栄心と下品さに私はうんざりした。
さて、彼の影はついに私の人生から消え去った。私は彼の繁栄を祈ることにしよう。ということです。

しつこいエドウィン・シンプソン

1908年7月31日(金曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今朝はとても刺激的で不快な感覚を味わった。私はとても思い出すだけで震えがくるほど揺さぶられた。
とても暑い朝で風も強かった。午前中の仕事を終えてから私は、いつものように丘の上を散歩してから原稿を書いた。帰ってきてから書斎に入り、最後の原稿に取りかかったところだった。メアリーおばさんが居間を走っていく音が聞こえた。"モード、家が火事よー"と叫んだ。どうやって降りて出てきたのか......そこはまったく覚えていないのだ。ある場所、台所の屋根に2フィート四方ほどの炎が上がり、明らかに火花から燃え移ったようだ。この場所にはまともなハシゴはなく、その種のものはすべておじさんたちに持ち去られて久しい。しかし、私は古い朽ちた3年前から半分欠けている梯子(はしご)を。おばさんと二人で裏の森からどうにかこうにかそれを引きずりながら、そして屋根の上に持ち上げた。そこで水の入ったバケツを手に取り、上へよじ登った。幸いなことに、私が心配していたように、はしごは私の下で折れることはなかった。火に近づけなかったが、一番上の段に立ち、水をかけてみたということだ。幸運にも、狙いが定まった。水は炎の中心部に当たって、リアンダー叔父さんがバケツをもう一杯渡してくれて、完全に消した。というのも火は表面だけで、食いつく暇がなかったかである。あと10分遅かったら、きっと手遅れだっただろう。
危機が去ったことを知ったとき、私の持続的な興奮は消え去り、そして私は涙を流し、頭から足まで震え、ベッドに入るしかなかった。神経が弱っている今の私にとって、このようなショックはむしろ深刻なことだ。私にはそれに耐えるだけの予備力がないようだ。私は火が怖いのだ。そして生まれてこのかた、ずっとその恐怖に取り憑かれている。
自分が住んでいる家が燃えている夢を何度も見る。それを止める努力もできないまま燃えるのを見続ける。これはもしかしてそれは、私がいつの日か「燃え尽きる」ことを意味している。(皮肉をちょっと入れている)

1908年8月3日(月曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今日、2冊目の本を書き上げた(アンの青春)。あまりに長い間熟考していたため、しかしグリーン・ゲイブルズほど良い出来でないことは確かだ。去年の10月に書き始めたのだが、ブロック化し(章立てのこと)(ネタの)収集と手配をした。
この夏もずっと材料集めをしていた。この間、私は心配事で良い本を作るには、あまり良い環境ではない。いずれにせよ、完成したことに感謝している。
そして、最悪の仕事であるタイプライターが残っている。タイプ打ちはとても面倒で時間がかかる。
(モンゴメリの書いた字は読みにくいと編集者から不評だったので、モンゴメリは手描きした原稿をタイプで打ち直していた)

1908年8月29日(土曜日) キャベンディッシュ、P.E.I.
L(モンゴメリの一番上のリアンダー伯父)伯父さんは昨日出かけた。木曜日の朝私は町へ出たところ、二人の ボストンの文学者の友人のアメリカ人女性が、ボストンを旅行していた。 私の本を読んだので会いたいと言ってきた。今はなかなか街へ出ることはできない。でもこんなボロボロの町(キャベンディッシュ)に来てもらうわけにはいかない。 売れっ子作家の私が、なぜこんなところにいるのか彼らにはわからないだろう。 このような惨めな修理(を重ねた)家に住み、周囲の柵はガタガタである。そして私は知らない人にその理由を説明することができまない。そこで私は悩んだ。そして街(シャーロットタウンのこと)へ出て彼らに会う約束をした。楽しい旅だったということだ。彼らはブライトンの農場に下宿していた。 私が今まで見た中で一番きれいな場所だ。 金曜の夜に家に帰ると、フリーデ・キャンベルとクララがいた。 夫のフレッド・ウィルソンも来ている。フレッドは立派な男で親切そうで優しい。クララは太っていて陽気な人だ。私は彼女に会えて嬉しかったが、今の私たちの間には溝がある。 その幅は広すぎて埋められない。少女時代が過ぎ去った今、私たちに共通するものは何もありません。 理想も意見も嗜好も希望も、「野心」と書こうと思っていた。 しかしクララが野心を持っているというのは馬鹿げている(平凡な主婦だと言いたいのか)。彼女は自分の人生と夫にとても満足していて、幸せであることを心から嬉しく思う。 しかし、今の彼女の付き合いにはすぐに飽きてしまう。彼女とフリーデが 姉妹になれるかどうか、重要な点では全く違うのだから(才能の無い人はつまらないなという事)。

1908年10月15日(木曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
火曜日にパーク・コーナーに行ったとき思いがけず楽しい旅ができた。 ウィル・ヒューストンと会う機会があった。私は2年ぶりの訪問だった。それは私にとってまた親愛なる古い場所を見ることができ、陽気な午後を過ごすことができた。 ステラはこの2週間、体調がとても良くなった。 食欲も元気も出てきたし、病的なまでに人に会うのが嫌だったのが、だいぶなくなってきた。 でも冬が怖い。冬とそれに立ち向かう力がないような気がするのだ。 心配が尽きない。祖母はすでにリウマチで苦しんでいる。 この冬はひどいことになるのではと心配している。重篤な症状にならないことを祈っている。 今日ペイジ(出版社)から手紙が来て、私の写真と個人的なスケッチ(自己紹介文)を要求された。 「詮索好きな編集者」のために、「アン」が書かれることになった経緯を書いた。どうやらアンは大成功だ。ベストセラー」であり第五版まで出ている。 私の一番強い思いは、信じられないということだ。このような単純なこの物語は、P.E.I.の素朴な農村を舞台に子どもたちを対象として書かれた小さな物語である。 賑やかな世の中で本当に採点された(評価された)のだろうか。この作品についてのたくさんの素敵な手紙と批評は尽きることがない。そのほとんどはお世辞だったが。 3、4通はかなり軽蔑的な口調で、3通は本当に意地悪だった。 ある書評では、「この本は幸福と楽観主義を放っている」と書かれていた。私がこの本を読むと、この本が書かれた時の心配と憂鬱と気遣いの状況を考えると、私はどうだろうかという疑問がある。ありがたいことに私は自分の人生の影(嫌な思い)を仕事に持ち込まないようにすることができる。私は他の人の人生を暗くしたくはない。 楽観主義と陽光。(明るい話でいいではないかと言う事)気持ちいい? ええ、もちろん楽しいよ。私の長年の努力が報われたような気がしてとてもうれしい。苦労と努力の結果、成功の栄冠を手にすることができた。しかしその成功はまた、多くの些細な悪意、恨み、嫉妬を呼び起こす。それは私を苦しめるものではない。
私の本当の友人は誰一人として罪を犯したことがない。しかし、時折私は一種の恐怖を感じることがある。人間の本性に吐き気がする。

1908年10月23日(金曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今日、私は「アボンリーのアン」のタイプライターを打ち終えた。 この仕事は実に退屈で骨の折れる仕事だった。ここ数日は 大変だった。また気分が悪くなり、疲れ、心が折れ、そして、そのような状態に陥った。 何とも言いようのない、征服しがたい動揺がある。この発作は、きっと物理的なものなのだろう(精神疲労とでもいうものが)原因だろう。だんだんひどくなり、期間も長くなっているようだ。私はしかし、ここで医者に相談することはできない。 噂話や憶測が飛び交うので、遠くの人に相談するのは難しい。しかし、もしもっともっと悪くなったらやってみなければならない。ああ、この数日、数ヶ月の惨めさよ。
夜だ。いつもは眠れるのだが、ある晩は眠れず、まるで1年分の長さのように思えた。 年だ。時間をつぶすために考えることさえできなかった。私の性格がおかしくなってしまったようだ。 普段は好きなことがすべて嫌いになり、普段、私が望んでいることすべて考えることも億劫になった。

1908年10月28日(水曜日)
今日は少し気分がよくなったので、この美しい日森の中を散歩して帰ってきた。しかしある人が「今日は春のようですね」と言ったが、私はこの日が春だとは全く思わなかった。それはまるで暖かく、春のように晴れやかで青空が広がっている。成長し、目覚めるという、はっきりしない、鋭く感じられる精神。そのかわり、世界には、休息と平和の精神、達成された仕事と終わった仕事、折り重なるような眠っているような手の動き。それは私の気分とぴったりで、私も横になりたい。
このような憂鬱と不安の最悪の発作が過ぎると、私にはまるで、厳しい闘いを潜り抜けたかのような、「弾き出された」感覚。悪と闇の「支配と力」と格闘している。
今夜、部屋の窓から薄明かりの中を眺めていたら、とてもきれいなものを見た。堤防のカラマツの大木の細い上に、ちょうど新月が見えた。私は新月があるところのこの世の中に生きていてよかったと思う。

1908年10月31日(土曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
私たちの美しい10月は、美しいままには終わらない。昨日今日と大雨、にわか雪、強風の嵐の一日だった。木々は鞭打ち、ぼろぼろで、世の中が見苦しく見える。私は、どちらも体調が悪いのです。
この数日。私は漠然とした、差し迫った悪の恐怖に取り付かれているようだ。一撃を予期して萎縮してしまうような、このような感覚は、しばしば私に訪れる。(感受性が鋭いためか精神が病むことがあったのであろう)今は根拠はないが、理性ではどうにもならない。その結果、私は何をするにも、読書をするにも、楽しさや満足感を得ることができない。私は自分自身を強制的に仕事、読書、裁縫、おしゃべりに向け、そのすべてにおいて、私はこのばかげたことに神経を尖らせているのだ。
理性のない恐怖を制御することも、追い払うこともできない。この恐怖に耐えることは、何よりも難しい。他の何ものでもない。私はあまりにも孤独なのでしょう。私の気質は、生まれつき内観と自己分析が、このところ病的なまでに激しくなっている。いくつかの私の現在の精神的、いや、心霊的なプロセスは、好奇心を掻き立てられると同時に嫌なものだ。たとえば、前にも述べたように、私は子供の頃多くの人から、厳しい言葉や残酷な「切り傷」、それに劣らず残酷なからかいを受けた。母の実家の人たちだ。その時は痛かったのですが、すぐにその痛みはなくなった。そして、その人たちを恨んだり、不機嫌になったりした記憶はない。
それが過ぎ去った後、その原因を作った人たちのことはすぐに忘れた。さて、最近ではこれらすべてのまるで、その出来事が鮮明に記憶に蘇ってくるかのようなのだ。
私の内面的な意識の乱れによって、どこか(記憶の)低い(底の部分)ところから湧き上がってきたものだ。そして不思議なことに、今、私は、激しく許しがたい、苦い憤りを感じています。そのような不正(家族の勝手さ)や「厳しさ」を私に与えた人たちに対して感じることです。私は彼らを許すことはできないし、怒り以外のどんな感情でも彼らを見ることはできないような気がする。憎しみの感情は、加害を受けた当時には全く感じなかったものだ。今感じている(憎しみの)強さ。原因が何であれ、これは不自然なことだ。
このことを書き出したり、理解ある友人に話したりすることは、いつも私を助けてくれる。それは悪意を出すようなものだ。私はいつもその時は、かなり楽になる。
しかし、この漠然とした邪悪な恐怖はあまり救われないようだ。書き出すことができない。なぜならそれを真実に近い形で表現する言葉が見つからないからだ。私は嬉しい。寝る時間になれば、この惨めさを忘れて眠りにつくことができる。だいたいよく眠れるというのは、とても幸せなことだ。昔、私は苛立ったことがある。9時には必ず寝なければならないことに、いささか抵抗がある。祖母がそう決めたからだ。でも、今はもう喜んで行くしかない。できれば早めに。一人で二階に上がり、自分を解放することはとても安堵する。明るく、笑顔で、元気よくしなければならないということ。寝室で横になっていると、本当にほっとする。ベッドで、自分が望むように惨めになることができるのだ。
かわいそうなおばあちゃん、いろいろな意味で我慢しているのだね。私はできるだけ(なんとかしてあげたいが)しかし、私は多くの点で非常に無力で、ジョン叔父さんのせいでもある。恥ずべき行為であり、祖母自身の頑固な子供っぽさでもある。環境変化にもかかわらず、昔からのやり方や習慣に固執している。
自分の無力さに、ある種の野蛮な絶望を感じることがあります。祖母には5人の子供がいるが、誰ひとりとして、あるいは一度たりとも生活を共有しようとはしない。そのようなことは、まったく思いもよらないのだ。祖母が20年前のように有能な女性ではない(助けがいる年寄りになった)ことを、彼らは知らないのだ。
エミリーおばさんの家には、夫に守られながら成人した娘たちがたくさんいる。この10年間、彼女(エミリー叔母さん)は一度も、私の代わりにそのうちの一人を派遣すると言ったことはない。
私が1週間か2週間気分転換に出かける(ちょっとした遠出をする)間、子供たちはほとんど他人のようにかまってくれない。叔母はこの3年間に一度、自分の母を訪ねただけである。彼女は(エミリー叔母さんの家は)わずか26マイルしか離れていないのに。

1908年11月10日(火曜日)
キャベンディッシュ、P.E. I.
この2日間は、私にとってつらいものだった。寒くて雨が降って退屈だった。これが私の苦しみの原因ではないのだが悪化させている。あの恐ろしい恐怖感が戻ってきた。人に会うのが病的なほど怖い。家に人が来ると隠れたくなる。その上、身体的にも惨めなものだ。頭の中が、何かが削られているような奇妙な感覚に襲われる。部屋を行ったり来たりしている。顔には神経痛があり、"風邪"のような不快感もある。口が痛い。いつも猛烈に歩きたくなる。本も読めない。昨夜は朝近くまで眠れなかった。それが今日の午前中いっぱい続いた。しかし今日の午後はまた良くならない。読書をしたり、丘の上の黄昏の散歩を楽しんだりと考えることはできるが。
ユーアンは私の体調を心配して執筆を控えるように言っている。一ヶ月間。私は彼を喜ばせるために譲歩したが、結局それが賢明なこととは思えないということだ。書いているときは幸せで、心配事や悩みをすべて忘れてしまうのだ。もし私が書けば書くほど、病的な思索にふける時間が増える。(ユーアンのアドバイスもかなり的確だったと言える)
 今日、トロントのあるジャーナリストから手紙をもらった。私の出生、学歴、経歴をすべて知りたいということで、新聞に特別記事を掲載することになった。物語を書き始めたのはいつからか、どのようにしてか、などなど。さて私は彼が欲しがっている事実をそのまま伝えることにしよう。それ以上彼が知りたいということはないだろう。また読者もそうだろう。その唯一の鍵はこの古い日記にある。
 今晩はウェイヴァリーを読んでいた。素晴らしいスコット!(ウォルター・スコット、イギリスの詩人)彼の魔法は決して失敗することなく。きらびやかで空虚な現代小説に飽きた後、私はいつもこの小説に戻ってくる。まるで飽き飽きした旧友のように彼を魅了し続けるのだ。昔読んだ数少ないスコットの小説は、私にとってとても魅力的なものだった。一冊だけ家の中にあった古い紙表紙のロブ・ロイを、私は読みふけるまで読みふけった。それをバラバラにしてしまった。それから、ネイト(幼馴染の少年)のおかげで、The TalismanとIvanhoeを手に入れた。ホール図書館から取り出して、私に貸した。もちろん、私は文芸に参加することも、その会員になることも許されなかった。憧れていたのだが。これも祖父と祖母の過ちだった。祖母はそれは私にとって無邪気な喜びであったばかりでなく、もしあの小さな図書館を利用することができたなら、それは本当に永続的な利益となっただろうに。しかし、時折私はその中の一冊を手に入れて読むと、なんと楽しいことだろう。スコットの小説は、私にとって、とても大切なものだ。そのため、古い思い出の魅力が加わっているのだ。

1908年12月1日(火曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.(突然の霹靂)
信頼できる有能な医者に診てもらって、自分のことを相談できたらと切に願う。スタンレーの一番近い医者、スチュアート・シンプソンのところへ行くことはできない。彼は時々 "発作"(ゴシップを言いたくてしかたなくなる)に見舞われ、そのような時は最初に会った人にそのことを(わたしが医者にかかったことを)話す。彼は会うなり、患者の病気について、下品なコメントとともに説明する。そして、どんな場合でも神経症を治療する能力はないだろう。しかし、いくつかの医学的なアドバイスを受けたい考えている。先週の木曜、金曜、土曜の3日間は冷静に判断すると今までで最も惨めな日々だった。私の人生の中で過ぎ去ったことだが。今まで経験したことのない最悪の時になった。この週の前半は、体調もよく気分もよかった。ほとんどいつもの自分。水曜日の夜、再び変化が訪れた。――突然、何の前触れもなく。まるで黒い雲が私の上に降り注いだようだった。私は最も耐え難い神経の不安と、同じように耐え難い災難の到来を予感させる魂が(モンゴメリには第六感のような物もあったのかもしれない)。その夜私は一睡もできなかった。木曜日はもっと悪い。本を読むことも、仕事をすることも、食べることも、何もできなかった。木曜日の夜もまた。金曜日、さらに悪化し、金曜日の夜、眠れない。土曜日はというと、それはもう大変だった。書ききれないほどだ。すべての瞬間が苦痛だった。寒い部屋に閉じこもり、歩き回った。何時間も床に座っている。このころには寝不足と体調不良も重なり物を食べることができない。しかし恐ろしいほどの神経的苦痛は、もう少しで過ぎ去る。ああ、私はどんな気持ちだったか説明できないし、説明しようとしても馬鹿馬鹿しい。しかし率直に言ってもう二度とこんな思いをするくらいなら、死んだほうがましだ。(神経過敏だ)
ところが、夕暮れ頃になると、一気に雲行きが怪しくなってきた。恐ろしい気分は消え去り数分後、私はベッドに横たわり、疲れ切っていたがとても幸せなことに平和で、安らかで。その安堵感は言葉では言い表せないほどだ。私はすぐに動けるようになったので、服を脱いでベッドに入った。ああ、眠れた。
いや、それ以上に、眠る前にただそこに横たわることはとても幸せなことだった。それ以来、私は順調に回復している。まだあの恐ろしい時間の影響が残っていて、、まだあまり良い状態ではない。

1908年12月3日(木曜日)
キャベンディッシュ、 P.E.I.
今日はまた嫌な一日だったが、今回は肉体的な苦しみだった。ひどい風邪のせいだ。昨日の夕方からら風邪の気配を感じ始め非常に悪い夜を過ごした。頭がひどく痛くて眠れない。それから空気は氷点下数度という寒さと強風。私の部屋はとても寒く、衣服の上から顔を出すことができず、我慢していた。そのため、凍えたり息苦しくなったりを繰り返しながら、終わりの見えない時間を過ごした。
今日も台所のソファーで、咳と頭痛に悩まされながら、人と一緒に過ごした。郵便物を取りに来るのはしょっちゅうだ。しかし体調が悪いといっても、あの頃と比べれば大したことはない。
先週は大変な日だった。郵便はいつものように、私の本についての手紙とたくさんの批評を運んできた。好意的な批評は、硬く、冷たく、きらめく石であり、それを求める魂にむなしく響く。その厳しい環境の中で、少しでも人間的な交わりや優しさという家庭のパンを味わう時間だ。

1908年12月13日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.l.
2週間前のあのひどい気分は、私の気分の「危機」であったようだ。とにかくそれ以来一度も再発することなく、何とも言えない安堵感があります。とはいえ確かに、いつも疲れているし、気力もないので、本当に元気ではない。あの恐ろしい神経不安の発作に比べれば、たいしたことはないようだ。おそらく、もしこのままだとだんだん休めなくなる。私は(書くことに)自分のすべてを費やしているようだ。それと格闘して疲れ果ててしまうのだ......。
(わけもなく不安になるということは明るい話を考えてばかりいる反動ででもあるのか)(しかしモンゴメリは物語を考えずにはいられないと言っている)


わたし

1909年

1909年1月10日
キャベンディッシュ、P.E.I.
新年が明けて10日が経った。新年は私に新たな悲しみをもたらした。一昨日1月2日、バーティ・マッキンタイアから手紙が届き、彼女のことを知った。母親は元旦の朝亡くなった。私にとっては、青天の霹靂であった。メアリー叔母さんがあまり元気でないことは知っていた。持病の喉の不調が再発し、苦しんでいたのだが、まさか、そして、実際彼女はそれで死ぬことはなかった。しかし、それは心不全によるものだった。胸膜炎だ。
それは私にとって痛恨の極みであった。彼女の世代の中で、私にとってこれほど大切な人はいなかった。私はPWC(プリンス・エドワード・カレッジ)に行くまで、メアリー叔母さんをよく知らなかった。それ以前の人生で一度か二度、私は彼女に対して偏見を持った、残念ながらその偏見と不信感は、幼い頃に植えつけられたもので、その当時は、"憧れの存在"だった。
祖母やアニーおばさんの話を聞いたことがある。今となってはそのほとんどが事実無根か、あるいは偏見によって歪曲されたものだった。それを口にした人たちの噂話と狭い心で、より悪くなってしまった。虚偽。しかし当時の私はまだそのことを知らず、次のような錯覚に陥っていた。祖母とアニーおばさんは、すべての判断に間違いがなく、またあらゆる点で彼らの意見が(メアリ―おばさんを評価するための)最終的な言葉であった。
しかし、私はメアリー叔母さんを知るだけで、彼らが彼女にどんな不義理をしたかを理解することができたのだ。これほど勇敢で、優しくて、気丈で、親切で、愛情深く、忠実な魂はない。そして彼女の結婚生活の状況は、あらゆるものを必要としたのだ。彼女が持っている勇気と忠誠心。ダンカン叔父さんはとても放蕩な人だったので大家族の世話と養育は、すべて彼女に任されたのだ。
私は、偏見に満ちた無知の秤(評価)が落ちた瞬間から、彼女を愛していた。その後、何年もの間、私たちは会うたびに親密になっていったという事だ。
私は木曜日に街に出て、土曜日に行われるはずだった葬儀に参列した。しかし、ジェームスとローラは流され、家に到着したのが遅くなったため土曜日の午後に延期され、日曜日まで滞在することができなくなった。土曜日の夕方に帰宅する。こういう時、縛られていることを痛感する。楽しみを諦めることはあまり気にならないのだが、一緒にいられないのは辛い。友人たちの試練の時にそばにいること。
それでも、私は親愛なるおばさんに別れを告げた。彼女はいつも美しい女性で花に囲まれ、完璧な顔で横たわる姿は、いつにも増して美しく見えた。安らぎと甘さ。そして、いとこたちとマギーおばさんに会えるという悲しい喜びがあった。彼らに会うのはとても久しぶりだった。ハリーとカスバートはとても愛しい男の子だ。
帰ってきたとき、胸が張り裂けそうだった。今まで一度もおばちゃんが門まで来て、手を振ってくれることはなかった。別れの仕草が特徴的だ。いつものように彼女がこう言うのが聞こえてきそうでした。「早く帰ってきてね」。でも、そこには誰もいなくて、かわいそうなハリーが立っているだけだった。冬の日差しの中、私はもう二度とシャーロットタウンを訪れる気になれないような気がした。

1909年2月20日
キャベンディッシュ、P.E.I.
今日の午後、私はとても美しい本、ブリス・カーマンの "神出鬼没"を読んだ。最近ユーアンが送ってくれたものだ。この本は私が今まで読んだ本の中で最も役に立った本の一つだ。今まで読んだ本の中で最も多くの恩恵を受けた。希望に満ち、励まされ、自分自身と人生を最良のものにしようと決心した。
この本を読んでから この本は、「あらゆる芸術の中で最も古いもの-芸術」についての一連のレッスンだ」生きること、それは私たちの多くが十分な指導を必要とし、また学校では決して教えてくれない。この本は美化された常識が混ざり合ったものである。センスと星の数ほどある願望。最初のエッセイは、人格の「意味」についてである。彼はそれを定義しようとしているが、ほとんど成功しているとは思えない。それは非常にとらえどころのないものであり世界で最も大きな力だ。富や教育によって支配されるものではないのだ。
カーマンは、土、心、体の三位一体の耕作(深く検討すること)を主張しているが、その通りであるのだ。キリスト教に欠けているもの、それはキリスト教の重大な過ちである精神的なものを強調しすぎ、肉体は死すべきもの、あるいはせいぜい死すべきものと教えてきた。肉体を重要でないものとして軽視している。
肉体は創造主のイメージを貶めるものであり、冒涜的である。獣心や魂は肉体を通してのみ表現される。だから私たちは、その道具として完璧なものを作り、それを維持するように努めなければならない。
本能の価値についてのエッセイは、実に真実である。(我々キリスト教徒は)本能を何度も無視し、その代償を払い、そして苦い罰を受けてきた(好みが合わない人たちとも親しくあれというキリスト教徒の教訓)。それがいかに(世間的にうまくやるには)安全な指針であるかを学んだ。特に重要なのは、ある一文である。「私たちはしばしば本能的な好みの微妙な示唆(好みが合わないという感じ)に反して、自分を過剰に説得してしまう。関係者全員にとって悲惨な結果になるような関係を築き、また"価値のない友好関係を築こうとする"
私はこれまで何度このようなことをしたことか、そして今、その無駄な努力をどれほど後悔しているか。私は何度も子供の頃、私に罪はないのに、それをやってしまった。私は、子供のころに、自然に欲していた仲間になる適切な相手がいなかったので、私はありあわせの相手を選んだ。女学生のような親密な関係を築いたが、それは私にとって何の役にも立たず、いや、むしろ害になった。(気が合いもしない相手は文学の野望の参考にならない)
それが今、私の周りにまとわりついて、邪魔で無価値なのだ。私はそれを自分の本能を無視し、自分のせいにしていたのだから。他の人から「いい人だ」「いい人だ」と言われた人に友情を見出すこと。そのような人と交際することは価値があるに違いないと思ったのだが。今はもっと賢くなっている。私は、自分が(うわべだけ)親しいと思う人とは決して親密になろうとしない。私は常にすべての人に親しみを持って接するよう心がけてはいるが、それはうわべだけでよい。私の本能が警告しているように、フリーデの好きな言葉で言えば、"ヨセフを知っているその種族"でない者達には私の魂の門を開こうとは決してしない。
(これはモンゴメリが、自分の興味に合わない人と無理に深い意見を交わすことはないと言っている)

1909年3月16日(火曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今夜はもうダメだ、疲れた。だからいつものように私は避難所を探す。この日記を書くことで、物思いにふけったり、憂鬱になったりしている。2週間前にページ社から昨年夏に送った写真より、もっと遅い(最近の)写真を送ってほしいという依頼があった。某有名書籍雑誌の巻頭グラビアに掲載したいとのこと。私は返事を書いた。「春までは都合よく街に出られない」と言うことを、しかし、先週またしても可能な限りすぐに撮影するようにとの手紙を受け取った。重要だ。私は偉大なアメリカ人たちが「緊急かつ重要」であるとは思っていなかった。しかし、私は疲れ果てて降参し、その準備に取り掛かった。必要な機械が動き出した。
子供の頃、街への旅行とパークコーナーへの旅行が唯一の外出だった。この2つは私にとって大きな喜びであった。旅行といえばパーク・コーナーは比較的よくあることで、通常は年に2回程度である。(シャーロットタウンの)街へ出るのは2、3年に一度という非常に稀なことで、ヨーロッパ旅行と同じくらいの割合で、目新しさ、興奮、喜びがあった。
今でいうなら、それは楽しくて魅力的な場所での短い滞在を意味し、そこではみんないつもお洒落をしていて、ナッツやキャンディー、お菓子を手に入れることができるようだ。オレンジが好きな人は、もちろんのこと、いろいろなものを見て楽しむことができる。お店のウインドウには素敵なものが並んでいる。(さすがに町はすごい)
私は、記憶にある限りでは、初めて町に行ったときのことを覚えている。私はまだせいぜい6歳でいたような気がする。おじいさん。祖母、父、私の4人で、大きな二人乗りのワゴン車に乗って町へ行った。そのとき父と一緒ならどこでもいいというのが、私にとっての幸せだった。とても楽しい一日だったが、一番嬉しかったのは、帰る間際の小さな冒険だった。その時他のメンバー(家族)は、街角で友人たちと出会い、話をするために立ち寄った。その時、私は「世話になってない」ので、すぐさま近くの通りを探索した。冒険をする。一人で道を歩くなんて、とても陽気で自立した気分だったよ。それは素敵な通りだった。それ以来同じ目では見ていない。
いずれにせよあんなに魅力的な通りは他にはない。その中で見て一番驚いたのは、女性が家の上で絨毯を揺らしている姿だった。私はめまいがするほどその光景に驚かされた。私のところでは絨毯は裏庭で振っていた。家のてっぺんで振るなんて、聞いたことがない。
通りの底に着いて、私は冷静に開いているドアの階段を駆け下りた。そしてそこはとても魅力的な薄暗い場所であることがわかった。床は足首まである美しい巻き毛の屑で覆われている。しかしちょうど私が到達したとき階段の足元に人がいるのが見えた。私は恥ずかしながらすぐに退散した。帰り道、水差しを持った少女に出合った。手に持っている。二人とも立ち止まり本能的で型破りな仲間意識で子供らしく、親密な内緒話に突入した。彼女は陽気な女性で黒い瞳に黒い髪の三つ編みが2本。私たちはお互いに二人とも考えたこともないような名前以外は、自分のことをすべて話した。
別れ際に私は生涯の友と別れるような気がした。私たちは「二度と会っていない」。私が大人のところに戻ったとき、彼らは私を気にせず、私が不思議の国への歓喜の旅に出かけたことを何も知らなかった。
しかし、今時町へ出るのにそんなロマンはない。昨日の朝は5時に起きて、私が準備するまでに、私が約束したチームが来ていた。駅から(キャベンディッシュまで)降りてきてくれたのだ。こうして電車に乗るということは、昔郵便配達の人と一緒に乗ったのと比べると格段に進歩した。貧乏だった。しかし、快適ではない。(橇の)運転手はいつもバカなフランス人の男の子で運転は長くて疲れる。特に昨日の朝はそうだった。道路はとても荒れていて、そりだらけだった。ハンターリバー(駅のある町)に到着したときにはもうくたくただった。町に着いてもまだ疲れが残っている。そこで私は突然の感覚に打ちのめされた。寂寥感。以前はいつも、まずメアリーおばさんのところへ行き、そこで歓待を受けた。暖かい歓迎が私を待っていた。しかし今はそうもいかない。バーティは学校に行っていて、可愛い顔と声の小さなおばさんは外に出ていた。墓地、不思議と胸騒ぎがして、私は山の手に行き、写真を撮るために(写真館の椅子に)座った。私が感じていたように、疲れて、絶望的で、虹の外にいるように見えないように。(写真に写る私は希望の世界にいるように見せたいということ)
そして、私は必要な買い物を済ませるために、街をあわただしく駆け回った。私はまるで彷徨う悪夢のようなもので、私が時折感じるのと同じような感覚だ。夢の中で見知らぬ土地を歩き回っていて、道が分からなくなったとき、人と会うのが嫌で、無理に声を張り上げたり、態度に出したり、受け取ったりした。
2時に図書館でバーティに会った。それが唯一の楽しいところだった。3時、列車が出発した。4時にハンターリバーに到着し、11マイルの荒れた道を再び(橇でキャベンディッシュに向けて)道路を走った。家に帰ったら、今までで一番疲れていた。そして、ひどく神経質になっている。横になることもできないほど疲れていた。私は些細な音でも叫ばなければならないような、時計の音に耐えられないような繊細な様子であった。私はベッドに入り、神経質なほど激しく泣いた。耐えられないほどの倦怠感。しかしそれが落ち着いたので、すぐに眠りについた。しかし、一晩中苦しい夢に悩まされた。今日も惨めだ。
十分だ。疲れを感じるのは恐ろしいことだ。痛みの方が本当に楽だ。私はまだ昨日の影響からしばらくは回復しない。

1909年4月11日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
...水没した友人たちが(記憶の中に埋もれた人)どうなったか知りたい人がいたら、彼女に教えてあげよう)。本を書く。そうすれば彼らは失われた時代の深みから、「静かに浮かび上がってくる」だろう。(本を出版したことで、私の消息を知りたい人からの手紙が届いたと言う事)
昨日、世界各地にある私の文通仲間であるロッティ・シャットフォード(現夫人)から手紙が来た。昨日はバンクーバーのハンディ夫人から手紙が届いたもう7年間も連絡はなかった。今、彼女はアンを読み私に手紙をくれた。彼女の手紙は他の手紙と同様、率直で、親切で、そして寛大なものだ。私はロッティの手紙をいつも楽しんでいた。
まさに社交界。私たちの知性は完全に調和しているように見える。私たちの人格の調和がとれていないのだ。ロティは嫉妬や妬みとは無縁の性格の持ち主だった。率直で、誠実で、高潔な人だった。私はいつもそのことを認識し賞賛していました。彼女の良いところは、微妙な "フィットネス"(思想のかみ合いか)がないと感じつつも真の友情の本質である。私は彼女の手紙を受け取って嬉しく思った。
お返事を書くことにする。しかし私は、私たちの文通を再開することは良いことや喜びはないと思う。私たちのどちらにも可能であるが、私はそのような試みをしないだろう。ということだ。(いまさら文通しても得られるものはないと言う事ですね、シビアですね)
昨日もロンドン・スペクテイター誌が届き、2段組の批評が掲載されていた。これまでで最も好意的なレビューだ。私はとても光栄に思っているというのが率直な感想だ。Spectator誌は「大きな」文芸批評の中でも最大のもので賞賛の声も多い。彼らからの批評は大変な重みを持つ。

1909年4月16日(金曜日)
キャベンディッシュ
今週のうち2日間は本当に天気に恵まれた。あとは......そう、それは天国の反対側!? 火曜日と水曜日は、6月のような陽気で暖かい日だった。天候の影響なのか、たまたまそうなったのかは分からないが。この2日間、私はすっかり元気になり、希望に満ちた平和な「昔の清風」のような気分でした。過去の思い出も、今の気持ちも、すべて苦しくなくなった。
夜の散歩も楽しかったし、そのうちの1回は墓場まで行った。散歩に適した明るい場所とは言い難いでしょう?でも、私はいつもあの西に傾斜したお墓の丘を哀愁漂う穏やかな雰囲気の中で、ぶらぶらと歩いてみる。春の夕暮れ。石に書かれた名前を読み、年代を記し、そして考えるのが好きだ。そこに埋まっている愛と憎しみと希望と恐怖のすべてについて。私は自分もその時が来たら、母の側に埋葬されるだろう。
その晩の散歩の後、私は家に入り天文学の新しい本を勉強した。誰でも理解できるごく普通の天文学だ。それはとても魅力的なものだった。その本をベッドに持ち込んで、一晩中枕を並べていたほどだ。星座の文字に目を通した。天文という科目は、常に私にとって大きな魅力がある。一度でいいから望遠鏡をのぞいてみたいものだ。

1909年6月1日(火曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今晩は良い時間を過ごせた。友人を訪ねに丘の上に行った。これは仕事の時間ではない。私の友人と呼ばれる人は、単に古い知人だ。私はこの人が好きだ。良い時間は私が一人で歩いて帰宅しているときにやってきた。私の目の前には輝く海の夕日の残光が弧を描いていた。その光に照らされた背の高いモミの木がしっとりとした赤い道に、優雅さと美しさが浮かび上がっている。(自然の美しい光景に感化されるんですね)
木曜日の夜、異母姉のケイトから電報が届いた。前日の母(継母)の死は突然のことであった。私はモンゴメリー夫人(モンゴメリの父ヒュー・ジョンの後妻であったメアリ・アン・マクレー)を愛していたわけではないが、彼女の病気を望んだことは一度もない。子供たちのためにも、この訃報はとても残念だ。子供たちは二重に親の世話と助言が最も必要な年頃に、孤児になってしまったのだ。しかし、少なくともモンゴメリー夫人の子は、この先も十分な扶養を受けられると思う。ここ数年、不動産業で大儲けしている。また身近な親戚がたくさんいて、面倒を見てくれる。(モンゴメリ婦人の子供のこと)
今日、トロントのジャーナリストから手紙が来て、論文を読んで欲しいと言われた。6月にトロントで開催される国際女性評議会の前に。もちろん私の本に対しての名誉です。私は行けないし、もっと悪いことに、行きたくもないということだ。昔からの旅行意欲がすっかり失せてしまったようだ。私はどんな変化でも、たとえそれが望ましいものであっても。(もう興味はないと言う事か)
私の背後では満月が深まり、白い輝きが混ざり合っていた。西の金と炎 私は丘を下り、小道を登ってきた。白樺が若葉の枝を垂らしている。リンゴのが愛おしそうに群がっている
古い家 月明かりがすべてを和らげ、昔ながらの姿になった。古代の平和の隠れ家 "である1本の木。このような時、私はいかにこの古い場所に対する私の愛は、深く根ざし、強く、本能的なものであろうか。私の魂のすべての繊維に溶け込んだ情熱。
私のように、物や人を愛することは恐ろしいことだ。今日から新しい本「The Story Girl」の執筆に取り掛かった。この本の構想はこの冬の間、私の脳裏に芽生えていたのだが、今日の夜、私の愛すべき白い部屋から(書き)始めた。これはいいアイデアだと思うし、きっとうまくいくと思う。しかし私は悲しい気持ちにもなる。この古い家では完成させるのに十分な時間がかかるし、私には決してできないように思える。他の場所で書くべくように書くことは、つまり何かはっきりしない、とらえどころのない"ブーケ"(香りのような物)が、他の場所で書かれた場合には欠落してしまうだろう。これは愚かなことだと思う。
そしておそらく私の終末の思考は、非常に悲しいものだ。しかし、それは今楽しい若い世界であり、その美しさは私にとって新しいワインのようなものだ。
健康状態の改善は続いており、単なる存在に昔のような喜びを再び感じています。青い空、南の斜面の緑、空気のような魅力。小柳
アンデルセン童話を再読しているが、相変わらず楽しい。私は子供の頃に読んでいてよかったと思いう。それを知らない子どもは喜びを知らなかったろう。私の初期の先生の一人であったフレイザー先生は学校で、いろいろなものに賞品を出していた。この提案は大きな反響を呼んだ。4年生になるとこの賞は、最も頻繁に「頭」(学業トップ)になった生徒に贈られるものだった。私はそれを受賞した。ウェリントン・ネルソンは算数クラスで賞を取り、彼の賞品は『ネルソン』だった。
アンデルセン物語。この物語を読んだときの幸福感は忘れがたい。ウェリントンが去った後、私は二度とアンデルセン物語を読むことはなかった。完全版を手に入れることができる。このたびようやく完全版を手に入れることができた。イギリスから取り寄せた。ウェリントンが持っていたのと同じ版で、ストーリーは全く失われていない。その魅力は今でも童話に楽しみを見出すことができるのは嬉しいことだ。
私の賞品も童話集で、その中に「蜜柑のシチュー」というのがあった。「ベルタ伯爵夫人」と「ガファー風と雨女」は、私に多くの喜びを与えてくれた。スリル満点だ。まだ持っている。この『ハニーシチュー』には幽霊がたくさん出てくる。これには、特別な魅力があった。実際今日に至るまで、私は以下のものほど好きなものはない。
背筋が凍るような、よくできた怪談話。

1909年6月3日(木曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今日の夕方、いつものように海岸に行った。そこはとても静かで寂しい場所だったが、私が子供の頃はそうではなかった。サバを釣っていた頃だ。海岸には漁師小屋が点在していた。祖父と叔父のジョンさんは、後者の海岸で一緒に釣りをしていた。「トニー・ワイアンド」というのは、この地方独特の人物だ。と、Geo.Ageもそこに漁師小屋を持っていた。R.はその近くにあった。数メートル先の海岸沿いの「ビッグレーン」の端は岩がなくなり、砂地が広がっているところだ。海岸の丘は漁師たちの小さなコロニーだった。ここは「カーンポア」と呼ばれていた。その理由は、インド軍の反乱でコーンポールが大虐殺されたという知らせが届いた日に、最後の釘が打たれたからだと私は思っている。現在では今は一軒も残っておらず、名前も忘れられている。
私は子供の頃、海岸で過ごすことが多かった。男たちは朝早くから起きて3時か4時になると、漁に出るのだ。そして私たち子どもは、朝食を取るために8時か9時に(寝室から)下りてきて、その後夕食、そして魚がよく釣れる日ならお茶も。もし、私たちが降りたときに彼らが「いない」場合は、待たなければならなかった。サバの食いがよければ何時間もかかることもある。そのため私はすぐにその海岸にあるすべての入り江、岬、岩。私たちはのぞき眼鏡を手に取り、船を見たり、水を漕いだり、貝殻や小石を拾ったり、岩に座ったりする。そして夢を見る。小石はたくさんあって美しく、中には不思議なものもあった。
干潮時の岩は、私たちが「カタツムリ」と呼んでいた数百万匹の貝に覆われていた。ペリウィンクルが正しい名前だと思う。大小さまざまな貝殻を持っていた。ハシバミの実ほどの大きさから、ピンの頭のような小さな殻まで。私はかつて、おそらくはこの小さなカタツムリは赤ちゃんカタツムリで、やがて大きくなる。そしてその貝殻がどのように成長したのか、理解できなかった。そして本当にそうなのかどうか、まだ理解できていない。私たちはよく、こぶしくらいの大きな空の「カタツムリの殻」を束ねるが、それは遠くの砂浜や深海から流れ着いたのだ。
それから、ほとんどの人が珍味だと思っていたムール貝があった。持ち帰って焼くと私はあまり好きではなかったのだが、よく食べていた。というのも、どちらかというと流行りのような気がしたからだ。同じような理由でダルス(海藻)も気にせず食べていた。私は、「コンブ」という細長いリボンのようなものを集める方が好きでしたし、「コンブ」という奇妙で小さな葡萄のようなものが集まっている海藻(子持ち昆布のことか)で、つまんで爆発するとかなりの音がする。
海は常に柔らかい砂岩の崖にぶつかり、崖を削り取っていく。美しいアーチや洞窟がたくさんある。私たちの漁師小屋の東側にはかなり大胆な岬である。この岬の「くびれ」(海に出っ張った細いところ)に穴が開いている。手を突っ込めないほど小さな穴が開いている。その穴は季節ごとに大きくなった。ある夏、ペンシー・マクニールと私は、冒険心で這うように(その穴を)通り抜けた。狭いので、二人で恐る恐る喜びを爆発させたものだ。もし、途中で止まっていたらどうなっていただろう?
数年後には直立歩行で通れるようになった。さらに数年後には馬と荷車で通れるようになったかもしれない。その後、岬の岩盤と繋がっている細い橋状の岩が崩れ、岬が島のようになった。その壁には門扉が開けられていた。昔から大好きな場所だ。
この海岸には多くの物語や伝説があり、私はそれを聞いた。年配の方が話していた。祖父はドラマチックな話が好きで、よく喋る人だった。その細かい点を記憶し、うまく伝えることができた。その歴史は50年代初めのひどいアメリカンゲイル(ヤンキーストーム)と呼ばれるもので、その理由は湾内にいた何百隻ものアメリカ漁船が難破したからだ。
北岸にある。この大嵐で最も印象的で哀れな物語のひとつが、この話だ。フランクリン・デクスター号、私はそれを聞いていて飽きなかった。フランクリン・デクスター号はトブマー岬に漂着した。乗員は全員死亡し、うち4人は兄弟で、一人は船長で船の持ち主だった。彼はたった一人の息子であり、ポートランドの男性であった。嵐の後彼らの遺体は他の多くの人たちと一緒に、キャベンディッシュ教会の庭に埋葬された。彼らの失意のどん底にいた父親がやってきて、遺体を引き取ると主張した。母に息子たちを連れて行くと約束したのだからと言いながら家に帰る。棺はニューロンドンの貿易船に乗せられ、その間に父親は旅客船で帰国した。その商船はセス・ホール4人の遺体を乗せたままニューロンドン港を出港し、それ以来音沙汰がない。まるで運命的な出来事のように、私にはいつも思えた。
あの少年たちの死体は海に沈む運命にあるのだと。また次のような話もある。セス・ホール号の船長は不敬な男で、港を出航したのは、ある時間帯のことだった。潮の満ち引きで出られなくなったとき。「もう出られない」と言われたが、その夜、ニューロンドン港を出航すると言い返した。
その夜、地獄へ直行しても、全能の神が邪魔をするはずはない!」。そして、ルフォース岬の話もある。これは、ちょっとした悲劇の、書かれざる歴史である。セント・ジョン島」がフランスに属していた時代にさかのぼる。それは1760年代のある時期(日付は覚えていない)。ただ2つだけ残っている日付がある。私の記憶では学生時代に苦労して学んだことの中で、次のようなものがある。シーザーがイギリスに上陸したのは紀元前53年、ワーテルローの戦いが行われたのは1815年である。
フランスとイギリスは戦争中であった。フランスの私掠船はセント・ローレンスに出没し、ニューイングランド植民地の商業を略奪した。そのうちの1隻が
ルフォースという船長が指揮をとっていた。ある夜、現在の沖合に錨を降ろし、キャベンディッシュの海岸は、当時はもちろん森林に覆われた静かな場所だったが。なぜか乗組員が上陸し、岬で野宿して一夜を明かした。船長とその部下は仲間はテントを共有し、戦利品の分配に努めた。彼らは喧嘩して、日の出とともに決闘することになった。しかし、夜が明けると、朝船長が遠くを歩いていると、航海士が悪戯にその場を離れた。ピストルを振り上げ、背中を撃った。この航海士がこの件に関して、何らかの処罰を受けたことはあるだろうか?おそらくないだろう。長い歴史の中の単なる一文に過ぎないのだ。
流血と海賊のページだ。しかし、船長は乗組員によってその場所に埋葬された。倒れた場所、祖父が彼の父である老いた "スピーカー"が、その倒れた場所で、祖父のマクニールは少年時代にその墓を見たことがあるが、結局は波打ち際に崩れ落ちた。(墓はなくなった)
現在では、私が穴の開いた岬と言ったのは、象の岬と呼ばれるようになった。おそらく、この海岸で唯一印象的な外観の岬だからだろう。
本当のルフォース岬は、もっと下にある取るに足らない小さなポイントだ。西へ6、7マイル行くと、ニューロンドン岬が見えてくる。遥か沖合まで続く、長く鋭い舌のような岬だ。子供の頃、私は一度もその向こう側はどうなっているのだろうと、想像をめぐらせたものでした。きっと魅惑的なんだろうな、と。だんだん理解できるようになったときでもその向こうは、私たちの海岸と同じような別の海岸に過ぎないということを、まだ覚えている。謎と魅力に満ちている。私はあの人里離れた寂しい場所に立ってみたいと思った。その先には、失われた夕陽の大地が広がっていた。私は、その岬から見る夕日ほど美しい光景を見たことがない。ここ数年この回転灯(灯台)が、近年新たな魅力として加わった。夏の夜の薄暗がりの中で、岬の上でビーコンのように点滅している。
     "危険な海の泡の上で
     見失われた妖精の国"
マルコポーロ号の遭難事故は、私の記憶の中にある。私はまだ7歳だったが、ドラマチックな出来事と、そのときのことを鮮明に記憶している。
この夏は、普段の静かな夏とは全く違って刺激的だった。キャベンディッシュの眠たい夏。
マルコポーロ号はとても有名な古い船で、同船種の中では最速の帆船だった。その記録は破られたことがない。この船には奇妙でロマンチックな物語がある。多くの伝説の核となり、あるものは信頼でき、またあるものは単なる空想に過ぎない。他の船にまつわる空想のこの船はついにイギリスで断罪された。プリムソル・ビルの下で。所有者はこの法案を逃れるために、ノルウェー人にこの船を売却し、カナダから板材の貨物を運ぶためにチャーターした。その際、帰国後湾内で猛烈な嵐に巻き込まれ、水漏れが発生し、すぐに水浸しになったので、船長(クリスティアナのブル氏)が乗組員と積荷を守るため船を岸まで走らせた。
その日、1883年7月25日は、ここがひどい風雨に見舞われた。私たちは風の音に混じって、突然「ガシャーン」という音がした。その時男の子たちは、森の中で木が吹き倒されたのだと言った。しかし私にはその音が遥か彼方で起きたことであり、倒れ木などありえないかのようなある種の距離感を持っているように聞こえた。倒れた木の音は私たちの耳には届かない。一方、私たちの知らないところですでに多くの人が集まってきていた。砂浜に集まって、私がいつも見ることになる壮大な光景を眺めていた。見られればよかったと後悔しているのは、大きな船がまっすぐ前に進んでくる姿だ。北風が吹き荒れ、キャンバスが一糸乱れずセットされている(帆が畳まれている)。彼女はキャンバスを一針も縫わずに岸に打ち付けると、乗組員が艤装を切り、巨大なマスト(そのうちの1本)は私たちが1マイル離れた学校の教室で聞いたような音で倒れた。
翌朝、20人の乗組員が陸に上がった。乗組員たちはこの静かな集落は、典型的なタール族によって、輝くような色に塗られてしまった。夏の間緋色が続く(おそらく難破した船の乗組員の日焼けした色を風刺した物であろう)。この夏の間緋色に染まるのは彼らの特別な楽しみだった。トラック・ワゴンを走らせ、道路を颯爽と駆け上がり大声で叫んた。国籍は様々で、ノルウェー人、スウェーデン人、オランダ人、ゲルマン人などだ。マン(マン島人)、アイルランド人、イギリス人、スコットランド人、スペイン人、そして最も不思議な毛深い頭、厚い唇、金のイヤリングが印象的なタヒチ人2名。
私や当時ここにいたネルソン家の少年たちの喜びは尽きなかった。
 ブル船長はここ(モードの家)に寄留した。彼はノルウェー人で、愉快で、紳士的な年寄りだった。乗組員から慕われていた。彼は英語が上手だったが、よく間違えるので前置詞がごちゃごちゃで、「ご親切にありがとうございました」と言うのと同じような感じだった。「に対して」であり、「彼に対して」である。3人の仲間は、「アンクル・ジミー」のとこに泊まったり出たりした。
船長がここ(マクニール家)にいたおかげで、乗組員もこの場所に出没した。私は覚えている。その晩はその人たちが草の上に座っているのを見た。ビスケットを与え、名前を聞こうとしようとした。彼の名前は「イップ」「シップ」「シュニップ」。そして、デイブ(祖父は孤児になったウェルとデイブの2人の少年をマクニール家で預かっていた)と私はその目で見た。応接間の丸いマホガニーのテーブルが、文字通り金塊で埋め尽くされているのを見た。船長が彼らに払い下げたソブリン(金貨)。私たちはこんなことがあるなんて、想像もしていなかった。世界にはこれだけの富があるのだ。この夏は、私にとって一連の「絵」のようなものだった。そして、膨大な量の「お役所仕事」の末に、ようやくこの取引は成立した。
船と積荷はセント・ジョンの会社に売られ、ブル船長とその雑多な乗組員は出発した。
荷を運び出すために、男たちが雇われた。この辺に住んでいる人たちだ。18隻のスクーナー積みの板が船から運び出された。板は雨に濡れて膨張していたので、切り開く必要があることがわかった。梁から取り出すことができた。その結果船は半分を残してただの砲弾(胴体だけ)となった。積荷はまだ残っている。
一方、私は楽しい時間を過ごしていた。太いケーブルは納屋に巻きつけて、とても楽しい遊び場を作った。想像を絶するものだった。そして我が家の納屋で行われた大きなオークションがやってきた。それはそれは私たち雑魚には、とてつもない一日だった。一番はっきり覚えているのは納屋の地面に大きな帆が広げられ、「ハードタック」が積まれていた。そして、誰もが自由に使えるようにした。それはまるで薪のように簡単に噛めるものだった。しかし、うまくかじることができれば夜にはすべてなくなってしまった。デイブと私は一日中、硬い鋲を噛んでいた。
 ある晴れた日の夜、難破船は一晩中海上にとどめて解体を進めることにした。夜明けにはまた激しい嵐がやってきて、海岸はあっという間に愕然とするような群衆が立ち並んだ。その時、「デイブと私」がいたのは確かだ忘れられない光景である。
その場にいたほとんどの人が、友人や親類が船に乗っていたのだが何もできなかった。船はすぐにでも解体されなければならないことがわかった。船に乗っていた3人の男が恐怖で狂ったようにボートに乗り込んだが、そのボートは(砂浜にか?) "食い込んだ"状態だった。
そして岸に上がろうとした。もちろん、船は一瞬で流された。2人はなんとか難破船に戻れた。3人目は目の前で溺死した。
突然、船が船首で二つに割れて沈んでいった。しかし風車と船首の小さな破片がまだ残っていて、錨に支えられていた。男たちはこれにしがみついた。
一方、浜辺は、何マイルにもわたって取引用の板が積み上げられ、見るも無残な姿になっていた。夕方には嵐はいくらかおさまり、救助隊が苦労しながらも、船首にある桟橋にたどり着いた。
そして、難破船にたどり着き、疲れ果てた人々を陸に運んた。その後再び強風が吹き荒れ、この船は姿を消した(沈んだ)。潜水士が1万ドルもする銅製の船底を引き上げようと、船員たちが集まってきた。彼らはそれはまだそこにあり、漂う砂で見えないように覆われている。海がその死をあきらめるまで、おそらくこのままだろう。
キャベンディッシュの周辺には、今日までたくさんのマルコポーロの遺物がある。ジョージ・Rが持っているのは納屋の一つに名札があるので"マルコポーロ・ジョージ"とよく呼ばれるようになった。
また、不朽の名作であるピッチパイン(松の木)の門柱も数多く残っている。そのうちの2本が、今も我が家の納屋にある。
今夜、私はこの不思議な岬に点滅する光を眺めながら古く、忘れ去られ、遠く離れたもの」が、「かつてない光」に照らされて輝いている。

1909年6月4日(金曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
昨夜は月食があった。私は1時間、それを見て純粋に楽しんだ。私はいつも月食に素晴らしい魅力を感じている。どんなに何度見ても、新しいものには、初めて見るのと同じように興味が湧く。明るさの上に忍び寄る奇妙な暗い影を見ること。ゆっくりと、着実に、執拗に、ディスク(月の丸さをディスク『円盤』と呼んでいる)全体が覆われ、赤く輝くまで、まるで燃え尽きた世界の燃え盛る炎のように。そして、その光景は退却し、打ち負かされ、「寝たきり乙女」は晴れやかに、暗闇の試練から穏やかに出てくる。ああ、エマーソンが言うように、人は自分が光と世界の創造に立ち会う。
私はずっと月が好きだった。誰もがそうだと思う。私たちは月よりはるかに多くのものを実際、すべての実用的かつ本質的な目的のために、我々は全く月が無くても大丈夫だが、太陽が無くなれば私たちの生命そのものが消滅してしまうのである。しかし誰も太陽に特別な愛情を感じてはいない。私たちが愛しているのは月である。その冷たく銀色に輝く光は、古いロマンのページを照らしている。その絶え間ない変化には、美しい女性が持つ多様な魅力がある。
夕焼けの中の若い月ほど、宇宙で最も美しい光景はない。私は暗い丘の上に沈む新月を何度か見たことがあるが、それは記憶に残るだろう。永遠のホールで、月光の白き織りなす魅惑......ああ、私たちは皆、今も昔も月光に酔いしれ、月の美しさと月の柔らかな歩みとともに、フェアリーの世界に身を置いてきた。

1909年6月5日(土曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今日の午後はラッセル・マクニールの家で過ごした。こういうことをする必要があるのだ。そして私はそれがとても嫌いなのだ。私は、昔から嫌いなのだが、どこかに行って「午後を過ごす」という田舎の習慣は退屈以外の何物でもない。
ラッセルのところは退屈どころかもっとひどい。ラッセルは典型的な "ポンコツ"である。彼の妻はバカで小心な女。私には何の取り柄もない人たちである。しかし私は時々彼らを訪ねなければならない、さもなければ彼らは気分を害するだろう(どうしてモードはうちに寄らないのかね、顔が見たいのにと)。そうするとおばあさんはラッセルに石炭を運んでもらったりして、ジョン叔父さんが拒否した様々なことをやってくれる。だから彼女のために(お婆さんのために)私はこのような人たちとも友好的な関係を保たなければならないのだ。ゴシップしか話さない人たちなのだ。そのことを面白がってもくれない。ゴシップはそれが巧みなものであれば、時に面白いものだ。
しかし、それが誤解や嫉妬に満ちたものである場合、主よ私たちをお救いください。という場所を訪れるのは恐ろしいことだ。
声に出す前にその言葉が正しいかどうか、自分自身で確認する必要がある。他で報告されても害がなく、災難に巻き込まれることもないかどうかを。

1909年6月25日(土曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今夜は合唱団の練習に行かなければならない。私はこれまで6年間も合唱団の練習をしていて、あなたにも誰にも文句を言ったことはないと思う。でも今夜はこの6年間を忘れるために(日記に書く)。6年前前任のオルガニストがいなくなったので、その代わりをしなければならなかったのだ。というのはその時、教会には他にオルガンを弾ける人が全くいなかったのだ。
私はオルガン奏者になることを強く拒んでいたのだが、ある日突然牧師と聖歌隊が、私が承諾せざるを得なくなるまで叱咤激励した。
私はずっとこの地位が嫌いだった。私には音楽の才能がない。「丸い穴に四角い釘」。それでも、日曜日に簡単な讃美歌や詩篇の曲を演奏することは特別な才能を必要としないので、それほど嫌ではない。合唱の練習が嫌いなのだ。聖歌隊のメンバーには、友人でもないのにいつも軽蔑されたり、怒られたりするのだ。私はいつもその雰囲気が嫌だと感じている。冬になると私は一人で長い距離を歩いて練習に行く。そう、すべてが嫌なのだ。練習の夜が嫌でたまらない。何かと不愉快なことが多いのだ。トールライトは特にそうだった。ジョンおじさんの娘 "トット"は生意気で、合唱団員全員に嫌われている育ちの悪い女の子は、いつものように邪魔な存在で、みんなを困らせた。

1909年7月11日
キャベンディッシュ、P.E.l.
今日、キーツの詩を読み終えた。この本を手に入れたのは3月で、それ以来1日に何ページも読んでいる。全体として私はキーツが好きではない。もし、子供の頃に彼を知っていたら、私は彼と一緒に成長していたかもしれない。彼の詩を、私が生きてきた人生の色彩で染めながら、彼を愛して来ればよかったのだ。しかし私はそうしなかった。
そして、彼は私のところに来るのが遅すぎた。彼の詩が私に無関心でいるのは、彼の詩が美しさに欠けているからではない。ホントです。実際、美しさに満ちあふれている。薔薇の花に息苦しさを感じ、薔薇の花を待ち望む。霜のような空気や、星空にそびえる山頂の厳しさ。
キーツの詩には、甘美な美しさ以外のものはほとんどない。読者を酔わせる。少なくとも、私にはそう感じられた。

1909年8月1日
キャベンディッシュ、P.E.l.
今晩は恋人の小径で過ごした。緑に覆われ、魅惑的でなんと美しいことだろう。手招きしているようだ。私はこの場所に行くまで、疲れ、落胆し、心を病んでいた。
それは私を休ませ、元気づけ、心の傷を取り去った。安らぎと新しさ。私はこの親愛なる車線(道筋)に多くを負っています。そのお返しに私は愛と名声を与えた。その結果、この人里離れた小さな森の小径の名前は、私の本に書かれて、世界中に知られている。キャベンディッシュを訪れる人々は、その場所を尋ね、探し求めるようになった。その風景の写真は雑誌に掲載された。古い小道は有名だ。

1909年9月1日
キャベンディッシュ、P.E.I.
私の新しい本 "Anne of Avonlea"が今日届いた。私たちはすぐに慣れてしまうものだ。最初の本が届いたとき、私はとても興奮し半分酔っぱらっていた。新しい本にはほんの少ししか興味がわかなかった。私はその「格好」が気に入りそして、森に散歩に出かけた。それ以上は考えなかった。
この本は、私の古い先生であるオルドン女史に捧げた。昔は励まされたものだ。彼女がこれを見るかどうかはわからない。というのも、私は彼女と連絡が取れなくなってしまったからだ。もう3年以上も音信不通でそして、彼女の現在の住処を探す努力も無駄になってしまった。

1909年9月4日
キャベンディッシュ、P.E.I.
今日もテニスンを読んでいる。私はテニスンが好きだが、彼がそうだとは思えないのは、最高に偉大な詩人であるという所。彼には何か欠けているものがある。彼はとても美しい――。
キーツのように美しすぎず、非常に優美で、要するに完璧な芸術家だ。しかし彼は。私たちは常に芸術を意識し、芸術家であることを忘れることはない。山ほどの素晴らしい感情の奔流に押し流される。彼は違う。整然とした土手と入念に作られたプリーザオンスの間で、穏やかに。そしてそれがいい。しかし、時折、野生の自然があれば、より良いとどまりどころだ。
いくら庭が好きでも、その中にずっと閉じこもっていたいとは思わない。たまには荒れ地まで遠足に行きたいものだ。
テニスンのアーサーは嫌いだ。もし私がグィネヴィアだったら浮気していただろう。彼もまた。しかし、ランスロットは別だ。彼は別の意味で同じくらい耐え難い。ではジェレンは、もし私がイーニッドだったら、彼を噛んでいただろう。"忍耐強いグリセルダ "だ女ってのは、そうなって当然なんだ。
以前、友人とテニスンについて話したとき、「私がテニスンを好きなのは、彼が与えてくれるからだ」と言った。私は喜びしか感じない。私は彼を愛することができない。 彼が私に与えるものは喜びだけだからなのだ
快楽"、友人はこのエピグラム(機智に富んだ短い詩)を理解しなかった。しかし、それは真実であった。私が一番好きな詩人は私を傷つける人、鋭い棘のある思考のバラを私に差し出す人。骨と髄に突き刺さる。詩を読んでいて、私は私の胸に突き刺さるような一行や連句に出くわした。その時、私の魂はその詩人の魂と永遠に結ばれるのだ。ブラウニングは、私は今まで読んだどの詩人よりもひどいので、彼を最も愛している。言葉さえも「彼の好きな五月の夕方のように柔らかい」価値がある。
私はその苦しみに泣き出しそうなほど、生命力が強く、痛烈なものを愛している。彼のたわごとが多いにもかかわらず、彼もまた。
しかし、私はこの後、テニスンを愛するようになると思う。イン・メモリアムの一節は、これまで注意深く読んだことがないような気がする。突然の自己顕示欲の炎が私を焦がし、その炎が私に迫ってくる。私たちが自分の本性の深淵を覗き込むような、恐ろしい瞬間の一つである。そこに見える悪の姿に恐怖を覚える。
この詩は、花輪の上にうっかり結びついた蛇の汚い巣をのぞいてしまったようだ。
          "我々は死者を本当に望むのか?
           まだ私たちのそばにいるべきなのでしょうか?
           私たちが隠したい卑しさはないのだろうか。
          "内なる悪を恐れない"
私は立ち止まり、自分自身への質問を繰り返し、それに答えることを余儀なくされた。私は本当に死が私のそばにいて、私の考えをすべて知っていてほしい。私の言葉をすべて聞き、私の行いをすべて見ているのだろうか。いや、いや、いや! 千の急なノー!そして、その告白は恥ずかしさと現実の縮小であった。私は毎日毎日、自分にとって好ましくないことをしたり、考えたりしているのだよ

1909年9月21日(火曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
その夜、オリバー・マクニールと私は、恋人の小径を、その小径の下を歩いていた。囁くようなカエデの枝とバルサムの息吹くモミの木。空気は暖かく月光が木々の間から銀色の閃光を放ちながら降り注ぐ。それはとてもきれいだった。でも今夜はもうオリバー・マクニールと恋人の家を歩かないといけないと思った。
彼は私の2番目のいとこで、ダコタから遊びに来ている。彼は1日に来て今月に入ってからずいぶん会った。しかし彼は楽しい人だった。仲間思いで、ある意味面白い。そんなことは思いもよらなかった。私たちの友情に危険はなかった。彼が最近、奥さんと離婚したことは知っていた。妻を捜しているとゴシップに書かれていた。
おそらく、もっと満足のいく相手が見つかると思ったのだろう。私たちの素朴で汚れのないP.E.I.の女の子たち。そして私たちは最初の1週間で彼は、彼女を見つけたいという紛れもないサインを示していた。私にです。しかし、私は彼の誘いをすべて断り、それ以来彼は特に注意を払っているのでキャンプシー・クラーク(不明、人の名か)に注目するのは当然である。このような楽しい交際を受け入れ楽しむことはできない。
私の孤独な人生の中の時間。しかし今夜私は再び火遊びをしていることに気がついた。オリバー・マクニールは、私に彼は私を愛し、妻になることを求めた。今、私はオリバー・マクニールと結婚するつもりはない。私はどんな誘惑があろうとも、そんなことは微塵も思っていない。彼と結婚する誘惑がある。だから私たちの交際は止めなければならない。衝動的で情熱的な男性は、何事にも極端に突っ走るので、これ以上私たちの交際に甘んじることは、彼の人生に真の苦しみをもたらすかもしれない。私はこんなことはしたくない。彼の愛は数週間のうちに突然湧き上がったもので、まだそのようなことはできない。彼は私のことをすぐに忘れてしまう。
もう一つ、屈辱的な理由がある。それは、なぜ私が私たちに終止符を打たなければならないかということだ。今夜私はオリバー・マクニールが、そのような人であることをはっきりと理解した。
私がこれまでに何人か出会った男性の中で、そのような男性に心を動かされることなく私の中に、真の愛や憧れの火花を散らしておきながら、その火花は感覚を破壊するような炎を、私はこのような感情を抱くことを恐れているのです。結婚できない男、恥ずかしく、品位を落とし、危険なことのように思える。
そうなのだ。今夜、私はオリバーの愛撫するような音色に、頭から足までゾクゾクした。(情熱的で品位を落とすような男に引かれてしまってはまずいということ)

オリバー・マクニール

その声は、私たちがあの陰の小道を歩いているとき、私のすぐそばにいたのだ。彼はそのことを知らないし、疑いもしない。私はそれを隠すことに成功した。しかしこのような抑圧があると、まさにその感情はより激しく燃え上がる。私はそれを恥じたが、しかし同時にそこにあるのは毒と刺し傷"甘すぎるもの"
それは甘美だった。感覚的な快楽の致命的な甘さと月明かりと囁く影の精神的な魅力。オリバーは私の答えをほとんど受け止めず、情熱的に訴えた。というのは、彼に関する限り、永続的な害はあまりないのです。彼は、堕落する男だと思う。簡単に素早く恋をして、当分は激しく愛して、同じように乗り越えていく。簡単に、すぐに。
彼は心理学的に不思議な化合物であり、最も相反するものが奇妙に混在している。そして、同じことが私のタチにも言えるのではないだろうか? 私の場合、両極端に分かれているのという性質もあるのだろうか? 昨夜海岸に立ち、自分を感じた女性は、もしかして純粋な、言いようのない歓喜の中で魂は第七の天まで引き上げられた。憧れと得体の知れない喜びがこもっているのが、恋人の小径を歩く同じ女性である。
今夜、私を焦がすような感覚の荒々しい炎で燃えたのだろうか? どうしてそんなということなのでしょうか?それは木が星に向かって高く伸びれば伸びるほど、より深くその根は地球の土に打ち込まなければならないのだろうか? おそらく、そういうことなのだろう。
(モンゴメリは高い精神性を持っているが、邪魔な愛の情熱も持っていると言うことですね)

1909年10月13日
キャベンディッシュ、P.E.I.
今日、オリバー・マクニールがダコタに戻るために出発した。この3週間は、私にとって悪夢のようなものだった。もうオリバーを避けようとしても無駄で、彼はどこでも私を探し出し、ほとんど毎晩のようにここに来た。私が彼と散歩に出かけなければ、彼は騒ぎ出すだろう。たまたま居合わせた人の前で 彼は嫌とは言わせなかった。
こんな無鉄砲で必死な男は見たことがない。彼はありとあらゆることを試みたと思う。彼の財産で私を買収してまで、私を結婚させようとした。彼は相当な株を持っているようだ。彼はあらゆる種類の不条理な提案をしてきた。彼と結婚して、1年のうち3ヶ月一緒に暮らせば、あとは私はどこにでも行ける。好きな場所に住み、残りの時間は自分の好きなように過ごす。もし私が1年間彼の妻になるなら1年後に彼は私の人生から手を引くだろうなど。
しかし、とうとう私は、彼が無駄口をたたいていることを納得させた。彼はもういない......。私の人生を突然襲った情熱の旋風は、すぐに収まるだろう。死に絶える。私はそれを知っているし嬉しくもある。でも、今この瞬間も、何かが私の中で、恐ろしいほどの欲望と切望が彼を求めて叫ばれているのだ。私の高次の自己は
しかし、私の低次の自己(表面的な世間体の考えと言うことでしょうか)は、彼がいなくなったことに感謝し、もし今この瞬間にオリバーが私の前に現れたら、激しい喜びとともに苦悩に悶え、跳び上がるだろう。

甘いのよ

1909年10月20日
キャベンディッシュ、P.E.l.
神よよかった、また自分の女に戻れた! そして自分でも不思議だ。まるで邪悪な悪魔を追い払ったようなものだ。この1週間、私は感情を押し殺したような苦悶の表情で。そしてまるで熱病が去ったかのように、一度に穢れた霊を追い出したかのように。この日、私は膝を折ってもう二度とこのようなことがないようにと、朝から祈った。それはあまりにもコストがかかる。
それを克服するのは大変なことだ。このような強力な衝動を押しつぶすことは、暴力行為になる。自然はその復讐に余念がない。"もう1度このような勝利をしたら 私はおしまいだ"(誘惑を追い払うための努力)

1909年11月7日
キャベンディッシュ、P.E.l.
今晩、私は恋人の小径を歩き、オリバー・マクニールが去っていって以来、初めてそれを楽しんた。彼が去ってからしばらくの間、私はそこに行くことができなかった。ある時夕方、私は試してみた。ウェッブさんの畑のそばのフェンスまで行ったのだが、引き返さざるを得なかった。
一週間後、私は再び挑戦した。今度は無理矢理にでも、車道まで行ってみたのだ。それがこの場所(恋人たちの小道)を台無しにしている記憶を祓う唯一の方法だと知っていたからだ。
私は 黄昏の中、端から端まで通り抜けた。一歩一歩が苦痛だった。憧れと孤独が私を取り囲んだ。しかし次の時間(次に行ったとき)は容易であった。私の思考や感情の中に、私と森の魂の間に入り込むものは何も無かった。

1909年12月5日(日曜日)
キャベンディッシュ、P.E.l.
...私はこの秋、以前よりずっと体調が良くなった。私は悩みを持つことで、精神的に酷使され心配された。仕事しかすることがなく、時にはとても孤独だった。しかし今シーズンは今のところ一度も憂鬱で落ち着かないという恐ろしい発作が起こらない。10月、私は町にいってジェンキンス博士に相談した。それ以来、彼の薬を飲んでいるのだが、おそらくはそのために体調が良くなったのだと思う。昨年の11月を思い出すとぞっとする。なんという私にとっては最悪の月だったことか。今年がそうでなかったことに本当に感謝している。そのような経験の繰り返しである。
しかし、私は表現できないほど冬を恐れている。祖母はリューマチでとても苦しんでいる。私たちの立場を考えると、とても孤独で無力な気がする。まあ、一日一日を大切に生きるしかないのだろうという事だ。生き抜くことができないのは「明日」なのだ! 体力さえあればいい。神経をすり減らすことなく、他のことはあまり気にしないことにしよう。

1909年12月23日(木曜日)
キャベンディッシュ、P.E.l.
今週は大変な一週間だった。今夜はちょっと唸るような文章を書かなければならない。(日記に)書けば気持ちの整理がつく。この冬もまたナーバスになりそうだということだ。
このところ、働きすぎの状態が続いている。ページ社から本が出版される予定だ。去年の冬に雑誌に連載していた私の連載。その名も「ウナ・オブ・ザ・ガーデン」だ。しかし長さが足りず、書き直さなければならなかったのだ。私はこの仕事がとても嫌いなのだ。11月中旬に書き始めたが正月までに出版社の手に渡らなければならなかったので、急がなければならなかった。2週間前にこのままでは終わらないということで、忙しいペースで進めている。それ以来、暇さえあれば、気が遠くなるほど書き続けている。
疲れた。しかし私はそれを時間通りに完成させるつもりだ。名前は「キルメニー・オブ・ザ・イヤー」に変更する予定だ(こういう計画もあったんですね)。果樹園」。この作品は心理学的な興味を持ったラブストーリーで、他の作品とは全く異なっている。私の他の本にはないかなり疑わしい実験だ。作家には一定のスタイルがあり、それ以外のものを提供されるのはむしろ嫌なのだ。
 月曜日は一日中雪が降っていた。朝から寝るまで書き続けた。火曜日は雪が降った。一日中雪が降って、朝から暗くなるまで書いていた。その後、服を着て、アレックとメイのマクニールと一緒に行った。ラスティコの友人と夜を過ごした。私はとても疲れていた。いつも通り一人で家にいるおばあちゃんのことが心配で、帰りは不快なドライブで、雪で湿って肌寒くなった。私は寝ても寝ても眠れず、昨日の朝は痛みで起きてしまった。のどが痛い。一日中雪が降っていたので、一日中書き物をしていた。喉の調子が悪くなり、暗くなるとペンを捨ててソファーに横にならざるを得なかった。頭が痛く、熱もある。そして、私がよく知っている恐怖と倦怠感が再び襲ってきた。私の心は寝るということが嫌になった。眠れないとわかっていたし、暗闇の中に横たわり、自分のように感じていると思うと、耐えられないような気がした。そしてついに私は、とにかく暗闇に耐えるのではなく、ランプをずっと灯したままにしておくことを決意した。一晩中。というのもおばあさんは夜が明けると、よく家の中を徘徊するからだ。夜中に不思議な音を聞いたり、聞いたと思ったりして、その原因を探ったりする。もし私の火が点いているのを発見したら、とんでもない余計なお世話だと思うだろう。何をするのか。それとも私が不法なことを企んでいると考えるのか。
もう安心して眠れない。しかし昨夜は危険を冒すことを決意した。それはよかったと思う。圧迫感のある夢を見てぐっすり眠り、目が覚めるとひどい状態になっていた。精神的、肉体的苦痛。そんな時、自分の部屋を見ていると、とても安心する。壁には私の絵が、本棚には私の本がある、愛しい部屋。風邪の熱で少しふらふらしていた私には、そのように思えたのだ。その見慣れたものを見るだけで、何か恐ろしいものに落ち込まずにすんだ。
 今日は一日中雪が降った。雪が大量に降っている。郵便物は来なかった。私は朝の9時から夜の8時まで書いていた。喉が痛い。まだ痛むが、頭痛は良くなったので今夜は眠れそうだ。しかし、私は非常に疲れて、疲れて、心が病んでいる。毎朝、歯を食いしばって一日を耐え忍んでいる。毎晩、明日をどう迎えればいいのかと考える。私はとても病的で神経質になっている。運動不足と仕事のしすぎが主な原因であることは分かっている。しかしどうしたらいいんだろう? 4フィートの深さの柔らかい雪の中を歩くことは不可能だ。そして、もし私が働かなければ、時間をつぶすことはできない。働けることは本当にありがたいことだ。願わくばそれを奪われることのないよう、祈っている。
私はいくらかの花の球根を持っているが。それは私にとって大きな慰めであり、甘美なものだ。

1909年クリスマス・イブ
キャベンディッシュ、P.E.I.
クリスマス・イブ! その名前自体が、私には嘲笑のように思える。善意の時そして平和と喜びを感じている。寝る前に「書き出す」必要がある。そうでなければ、今夜は眠れないだろう。このままでは明日のクリスマスはどうなってしまうのか?
奮い立たせることができないので一日中書いていた。喉は良くなったが疲れている。気力がない。無理して働いたのは、働くことの辛さは書くことより1段階少ないからだ。働かないよりはよい。もちろんオリジナルな仕事はできないが、幸運なことに、私はそのような仕事をすることができた。
キルメニーの原稿がコピーできる状態になっていたので(タイプで打ったのか)、原稿を書きながら手がこわばって疲れ、それ以上書けなくなった。
暗くなると郵便が来た。重いクリスマスの郵便だ。それはクリスマスの箱でいっぱいだった。その喜びと興奮は、私自身を奮い立たせてくれたかもしれない。
その中にフリーデ・キャンベルからの手紙がなかったら、私は憂鬱な気分から抜け出せなかっただろう。父親の重病を伝えるものであった。アニー叔母さんは、昨年より良くなったとはいえ、まだあまり良くない。まるで彼女とジョン・キャンベル叔父さんがこの世界で、私が頼れるのはこの人たちだけだと言う気がする。
おばあちゃんを今晩見ている私の様子は、とても恨めしく執念深く感じる。(祖母がリュウマチでうめいているので恨めしいと言う事であろう)私は泣くこともできない。泣けたら救われる。これは病的な気分で、本来の姿ではない。しかしそのために私の心を掴んでいるのだ。捕らわれた生き物のような気分で、拷問されながら今にも噛みつきそうな勢いである。
昔、私は運命に幸福と喜びを求めた。今、私が求めるのは心の安らぎだけだ。心配事から解放されたい。それは私の生命を圧迫している。
さらに悪いことに、それは私を苦い女にしている。今夜、私は自分自身を全く顧みない、硬い、全く利己的な人間であったと爆撃された。他人の感情や義務感、痛みを与えることへのためらいがない。その願いはこの黒い気分が過ぎればその恐ろしさを感じるだろう。しかし、今、私の魂の中にそれが湧き上がってきて、他のすべてをかき消しているのだ。
私は完全に反抗的な気分だ。今夜はまるで神が残酷な暴君であるかのような気分だ。カルヴァンの神学は、(神は)被造物(人間のこと)を何の落ち度もないのに気まぐれに拷問して喜ぶ者である。私は反抗的に主に向かって叫びたい気分だ。「なぜ、私を創ったのですか? なぜこのように苦しむのですか? なぜすべての願いと本能と感性を邪魔したのですか?
なぜ私に(この環境を)植え付けられたのでしょうか? 私はあなたに尊敬や愛を与えることはありません。獄門にかけられた者は、(同じように)拷問を受けた者を愛し敬うだろう。
バイロンのカインのように、私はこう言いたいのです。
  "あえて"見る
  全能の暴君の顔を見て、彼に言う。
  "彼の悪は善ではない"(神のすることでも悪は悪さと)
近い将来、私はこの記録(日記)を恐る恐る読み返すだろう。しかしこの記録は残るだろう。私はいつもこの日記を読んで、軽率な行動に対する私の判断をより優しく直すことにしている。
他の人たちが闇の中で育まれた汚れた雛たち。自分の魂に押し寄せた恐怖の念を思い出すと、私の常識では、これは主に一週間の監禁の結果である。
この家にいること、そしてその家の中の悲惨な状況。その通りだ。もしこれが体調を崩した原因なら私の常識では同じように原因がわかるはずだ。本当に。しかしそれで病気が治るわけでも、痛みが和らぐわけでも、回復が促されるわけでもない。

土曜日の夜 1909年12月25日
クリスマスが終わった。嬉しい。昨夜は期待したほど眠れなかった。泣きっぱなしでベッドに入った後、それから一晩中、発作的な服用で惨めな気分で過ごした。悪い夢とひどい身体的圧迫感によって。今朝、私は目が覚めると、起き上がれなくなるような気がした。しかし、私は起き上がった。
昼過ぎに突然、恐怖と "黒さ"の感覚から解放されたということだ(神経症が起こると言うことですね)。その後一日中快調に過ごせた。午後私はウィリアム・レアードの家に行った。お茶に招待されたのだ。行く気にはなれなかったが無理して行った。その方がいいと思ったからだ。
私はとても悪い道のりを、死んだような動きのない白い世界の中を歩いて行った。冷たい灰色の空の下で。楽しかったとは言えない。私の心には冷たく硬く苦いものがそれを阻んでいた。そして話して笑ったり冗談を言ったりするのは、それを強制されるのは楽しいことではない。しかしそれでも私は行ってよかったと思った。私の心にはびこる黒い思いの塊は笑いと仲間に照らされると、ネズミが逃げ出すように視界から消え去る。光から隠れる。まるで悪の手から解き放たれたような気分だった。

1909年12月26日(日曜日)
P.E.I.、キャベンディッシュ
私たちはひどい冬の嵐に襲われている。恐らくはこのままでは朝、私は非常に厳しい寒さに悩まされている。呼吸もままならず、頭も、咳が止まらない。もしそうなら、それはとても不思議なことではない。私は神経質で憂鬱なのか、そうではない。確かにあまり明るい気分ではないが。しかし今夜は「ブラックムード」ではないのだ。
一日中、本を読んだり手紙を書いたりして過ごした。「私は寒さと雪から逃れるために、避難所を探した。
昔の(思い出の)光と暖かさの中で "学生時代の日記″を読み返したりした。これが悪い影響を与える日もある。しかし今日はそんなことはなかった。
その昔幸せだったこと、一緒にいた人たちのより良いところ、より愛すべきところが載っている。私は一時的に現在の状況を明るくする力を失った。未来に期待することである。なぜか今はそれができない。もしまだ何か良いことがあるのなら、それは、そのようなことを経験することでしか得られない。
痛みや心配、別れの苦悩など、現在の神経質な私の状態では私は耐え難いほど弱くなっている。"前が見えなくても未来を推測して恐れる" だから過去の晴れ舞台を振り返る方が楽なのだ。とはいえ体調不良のせいで長い一日になってしまった。この夕方、薄明かりの中、床を歩きながらリューマチでうめいているかわいそうなおばあちゃんの声を聞いていると私は不機嫌に微笑んだ。
私は有名な女性で2冊の本を書いた。世間はそう思っているに違いない。本は大成功を収めた、それなりにお金も稼いだ。しかし(贅沢はできない)その一因はジョンおじさんの行動(私を見ている妬ましい目つき)や、祖母の偏見もあって、私のお金では祖母がもっと楽に、もっと明るく暮らせるようなことは何もできない。(祖母は、私が死んだらお前はこの家を出ていかなければならないのだから、家を直すためにお金をかけることはないと言った)
そして私自身はできることがたくさんある。快適に過ごす、便利な家具を揃える、使用人を雇う、少し旅をする、友人たちをもてなす。しかし、今の私は鎖につながれた囚人のように無力だ。
ここに書かれた文章1つにつき、1回は咳をしたと思う。

1910年

1910年1月6日(木曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
....先週、MS oI Kilmeny(果樹園のキルメニー)を完成させ(出版社に)送った。私はそれが恋しい。集中力を必要とする仕事には没頭できるがキルメニーはそうではなかった。私は既存の考えをコピーし増幅するだけである(普通の勧善懲悪物のような考えか)。私は非常に悪い進歩を遂げてしまっている。ストーリーガールで創造的な仕事(自由な夢を膨らませると言うことであろう)をする気分でいられる時間はめったにない。そして自分の構想を実現できないまま作業をしてそれを台無しにしたくない。正義のために
今夜は人生があまりにも過酷で、これ以上耐えられないと感じている。という思い出をすべて書き出した。

1910年1月7日(金曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
今日、私は必要な仕事をしていない間ずっとソファで過ごしていた。私は疲れて頭が上がらない。横になって、考えて、考えて。私は今日、私の過去の人生のすべてを、私の最も古い記憶から振り返ってみた。私は古い記憶に取り付かれ、苦しめられている。どれが一番痛いのかわからない。
楽しいことなのか、不幸なことなのか。私は前者だと思う。私の気分はとても病的である。何かいいことがあるのだろうか
今日、私の頭の中には、まるで絵と感覚の連続のように、様々なものが押し寄せてきた。夢を見るしかなく、感じるしかない。それに出版社や編集者から、いつも(私の経歴について)「情報」を求められている。
私の幼少期やキャリアについて、コピーにまとめておくような感じですべて準備しておくと便利だろう。私は昔から記憶力が抜群に良いのだが、この長所はコピーするのと同じように何事も陰がある。私は自分が20歳にも満たない頃を覚えている。
生後数ヶ月。以前にもこの日記で書いたが、私は棺桶の中の母を見たことを覚えている。彼女は1876年9月14日、私が生後22ヶ月の時に亡くなった。しかしその夏の7月、リアンダーおじさん一家が来ていた。そのうちの一人いとこのキャッシーは、私より少し年上の子供だった。私は、そのとき部屋のソファで、白い刺繍のドレスを着たキャシーが(3歳ぐらいではないか)、部屋から出て行くのを見た。
ホール(玄関広間)のドア、他にも3つの記憶があるのだが、それはこれより前のものだと思う。しかしその時自分が何歳であったかを知る術はない。しかしその性質上、それらは最初の意識の夜明けに属するものであるに違いない。私がしゃべれるようになる前の出来事だと思う。ある時、私は父の腕の中で、居間を運ばれて見ていたのを覚えている。絵や装飾品だ。暖炉の上には、縁取りのあるガラスの花瓶があった。
深いホタテの貝殻。この帆立貝の上に、どこか人間に似ているマークがあった。父が私を抱きかかえてこれを見たとき、私には、その顔のひとつであるホタテの貝柱が、私に向かって醜い笑みを浮かべた。私は我慢できないほどの恐怖を感じた。私は叫んだが、父はなだめようとしない。その恐怖を覚えているし感じている。今この瞬間も鮮明に覚えている。
2つ目の記憶も似たようなものである。私たちはお客さんとお茶をした。エミリー叔母さんが私を応接間に連れて行き、1人で応接間に閉じ込めてしまったのだ。スラットブラインドを下ろしていたのでとても薄暗かった。私はその中に立っていた。恐怖と恥ずかしさで泣きじゃくった。その時、突然大きな毛布のロッキングチェアを筆頭に、部屋の中のすべての椅子が、冷ややかで恐ろしい人間に思えた。中央のテーブルの周りを踊りながら、私に向かって顔を出していました。私の前を通り過ぎた。ああ、恐ろしかった! 私は狂喜乱舞して叫んだ。誰かが来て、私を連れ出した。
3つ目の記憶は、父に連れられて街へ出て写真を撮られたことです。その時、写真家が大きな毛皮のローブを持ち出してきて、椅子の上に羽織る。またしても、私は恐怖を感じた。私は泣き叫んだが、私をなだめるために毛皮を取り去ることさえしなかった。だから、その日、私の写真は撮られなかった。きっとその時、私は何も話せなかったのだろう。この思い出の時間。見たこと、感じたことを一言もしゃべった記憶がない。
人生の最初の6年間は、とてもぼんやりしている。私には何の記憶のつながりもないようだ。記憶のあちこちに、絵のような光景が色鮮やかに浮かび上がっている。その多くは、モンゴメリ爺さんの家に行ったときのものだ。
パークコーナー 当時、彼らは「古い家」に住んでいた。私の記憶では、そのような場所だ。特に思い出すのはある長い「裏ホール」だ。片側には食器棚、もう片側には窓がある。その奥に、モンゴメリおばあさんの小さな居間へ上がる短い階段がある。エリーのものだ。そこからさらに階段を下りていくと、祖母の寝室があった。
「祖母」モンゴメリは父(ヒュー・ジョン)の継母だった。実の母親は数年前に亡くなっていた。私が5歳か6歳の頃、そこで私は腸チフスになった。とてもはっきりと覚えている。発病の前夜、私は外に出ていた。
台所で使用人たちと一緒に私は古いウォータールー型のストーブの前に座っていた。料理人は、そのために使う長い鉄の棒で、火を「なでる」ようにしていた。そのためだ。彼女はそれを囲炉裏の上に置き、私はすぐにそれを手に取った。自分でも「なぜなぜ」をするのだが、私はこの作業がとても好きで、黒い灰の上に赤い炎が降ってくるその光り輝く様子を見るのが大好きだった。
しかし、火かき棒の持ち方を間違えてしまった。その結果、私の手はひどい目に遭った。やけどを負った。少なくとも私が初めて経験した肉体的な痛みだったのを覚えている。私はひどく苦しみ、激しく泣いたが、しかし、私はそれを大切に思っていた。当分の間、私は自分の起こした騒動に満足することができる。
これで私は立派に、納得のいくまで大切にされる。祖父は、かわいそうに気が動転しているコックを叱った。父は私のために何とかしてくれと懇願し、熱狂的な人々が駆けずり回って提案した事を数え切れないほど試してみたした。そのうちのひとつが、火傷したところを灯油の入った受け皿に手を突っ込むということで、さらに悪化させた。結局私は泣く泣く手と手首を冷水の入ったバケツにつっこんで寝たんだ、それが唯一の救いだったと言う事である。
朝、私は頭痛で目を覚ました。父は私に服を着せ、私を担いで朝食のテーブルに出した。私は食べることができず、泣き出してしまった。二人は私を居間の脇の小さな寝室ニ連れて行き、私を寝かせた。それ以上のことは何も覚えていない。私の手 私はずっとそうだった。私は腸チフスにかかった。いつからそうなったのかわからないが、私は非常に衰弱しており、何度か医者からもう治らないかもしれないと言われたと思った。マクニールおばあさんが上がってきた。私は彼女に会えて大喜びで、その興奮で熱が上がった。父が私をなだめようと思って、彼女が出かけた後、「もう帰ってしまったよ」と言った。家に帰る。彼は良かれと思って言ったのだが、不幸な発言だった。私はそれを無邪気に信じてしまった。あまりにも暗黙の了解で。祖母が再び入ってきたとき、私はそれが祖母だとは信じられなかった。彼女(祖母)だった。いや、彼女は家に帰ったのだ。ということはベッドのそばにいる背の高い痩せた女性は祖父の家でよく働いていたマーフィー夫人に違いない。
私が嫌いな人。その点については何も納得がいかなかった。それ以来私は、病気の間中、祖母が私に近づくことも、何かをしてくれることも嫌だった。いや、彼女はマーフィー婦人であり、私は彼女を近づけることはできない。
これは錯乱のせいだと言われたが私にはそう思えない。私はかなり他のことはすべて意識していた。それはむしろ私の心に固定された印象であった。
父から聞いた話で、弱っている私に。祖母は家に帰ったのだと、私は推論した。だから彼女に似ている女性は別人に違いない。この妄想を乗り越えたのは、体を起こせるようになってからだった。ある晩、私は本当におばあちゃんだったんだ、と。私は嬉しくてたまらなくなった。その腕から離れることができない。私は彼女の顔をずっと撫でながら、こう言ったのを覚えている。
驚きと喜びで、「やっぱりマーフィー婦人じゃないんだ。おばあちゃん」
私が回復したとき、みんなとても嬉しそうでした。あの時死んでいたほうがよっぽどよかった。その方がみんながどれほどの苦しみを味わうことになったか
腸チフス患者は、当時、療養中にそれほど厳しい食事制限を受けていなかった。当時は今と同じようにまだ起き上がれるようになる前のある日のことだ。夕食のメニューは、ソーセージのフライだった。私は空腹を感じ、夢中で食べた。もちろん、ゲームのルール(病み上がりに暴食した結果)に従えば、そのソーセージは私を殺すはずだった。しかしそうはならなかった。こういうのは運命なのだ。私はあのソーセージから私を救ってくれたのは、運命としか言いようがない。

翌年の夏、私はひどい恐怖を味わったことを覚えている。それは、ある新聞で発表された。シャーロットタウンの新聞に、預言者を自称するある男が予言したそうだ。今度の日曜日は審判の日だと。私はこれを信じた、あるいはほとんどそれを信じた私の心の苦しみは凄まじかった。というのも、私は「大人たち」に笑われるのと同じくらい怖かったからだ。
審判の日のしかし、運命の日曜日の前の土曜日はずっと、私はおばさんを困らせた。エミリーには、次の日の午後日曜学校に行くかどうか、何度も聞いて気を紛らわせた。
「もちろんそうだよ」という彼女のせっかちな保証は大きな励みとなった。私にとっての慰めだ。もし彼女が本当に日曜学校があることを期待していたのなら、それはありえないことだ。まさか、翌日がこの世の終わりということはないだろう。それでも次の日、夜から日曜日にかけては、私にとって激しい憂鬱の期間となった。睡眠は全く問題外であった。今にも「最後の切り札」が聞こえてこないだろうか。
私は今なら笑い話にできる。誰でも笑うだろう。しかし信心深い人にとっては、精神的苦痛と同じように本当の拷問だったのだ。
日曜日は、普段の日曜日よりも、さらに長く続いた。しかし、それはその「低く沈む太陽が湾岸の紫色のスカイラインを染め上げると、ついに終わりを告げた。
私は安堵の息を長くついた。花と緑に彩られた美しい世界。日差しは、まだ燃え尽きてはいなかった。もうしばらくは続きそうだった。しかし、私はあの日曜の苦しみは忘れられない。
翌年の夏、私は学校に行くようになった。読み書きを習ってから当時流行っていたロイヤル・リーダーというシリーズの「2冊目」を読んでいた。
私は家で(すでに)「入門書」を学んでいて、その後、2冊目のリーダーに入っていた。ファーストリーダーをスキップして学校に行って、「ファースト・リーダー」があることを知った。私は「ファースト・リーダー」を一度も学んだことがないと思い、非常に悔しい思いをした。
少なくとも私自身の評価では、何かを見逃しているような気がする。そのため、今日に至るまで奇妙なある種の喪失感を味わうことになる。他の子供たちがみんな読書をしているときに、自分はその最初の読書を逃したという不条理な後悔が私の魂にある。しかし、私は第2朗読会に参加し、少し興奮したことを覚えている。この日、先生が私の読書を褒めてくれたのだが、これが最初の褒め言葉を受けたという記憶がある。私たちは横の通路で立っていた。レッスンは不朽の童謡「小さな忙しい蜂はいかにして」だった。私たちは皆順番に読んでいき、「師匠」が私について、「この子は私より読むのが上手だ」と言った。
彼女は年下で学校にも行ったことがないのだが、あなた方の誰よりも上手だと。なんと胸が熱くなったことか。本当にこの歌の古くて陳腐な言葉は、他の多くの歌と同じように真実だ。優しい言葉は決して死なない」。
学校に初めて行った日のことは、特に覚えていない。エミリー叔母さんに連れられて門を出てすぐのところにある校舎に下りて行って、私はその日、一緒に座っていた「大きな女の子」たちの担当生徒だった。次の日の朝私は遅刻した。とても恥ずかしそうに、私は学校の教室に滑り込み、一人の生徒の横に座った。「ペンシー・マクニール」だったと思う。すぐに笑いの波が押し寄せてきた。(教室中の生徒に笑われたと言う事だろう)
    学校に
    帽子をかぶって入ってきたのだ。
この文章を書いていると、あの時の恐怖の羞恥心と屈辱が蘇ってくる。自分が宇宙から嘲笑の的になっているような気がした。決してこのような大失態を犯してしまっては、生きていけないと思った。私はは忍び足で脱いだ。帽子は、人間性のつぶさになった。
 大きな女の子たち――彼らは10歳だったが、私にはすっかり大人に見えた――は、すぐに私の目新しさに飽き、同年代に引き下がった。その最初の夏、私はモード・ウッドサイドと一緒に前の座席に座った。ミニエ(ジェミマ・ケズリーの略)は、というのも、少しの間私たちは一緒に座っていたのだ。私たちは、「計算をし、掛け算を覚え、字を書き、コピーを取り、教訓を読み、スペルを繰り返した。休み時間にはほとんどの場合、"ブッシュ"(茂み)で遊んだ。私はいつも、自分の学校が木立の近くにあり、曲がりくねった道とシダの宝庫であるスプルースの木立があった。コケやスミレ。それは私の人生にとって、教育的な影響力を持つものだった。
学校では机に向かっての授業。そしてその中には小川もあった。バケツで水を汲みに行ったものだ。バケツで水を汲んできていいというのはとても嬉しいことだった。茂みの中には、2、3人の女の子で1つを共有する遊び場があった。
そして、割れた食器をめぐって、さまざまな店(遊びのグループ)がライバル心をむき出しにしたのだ。苔むした食器棚や石の椅子。ガムも拾ったが(松ヤニのこと)、これは私たちが噛んでいるのを見ると、先生に容赦なく没収された。私の最初の先生は、ケイ・ロスのクラスだ。私が通い始めたのは退任間際だったので、(彼の授業では)数日しか通わなかったが。その後、ジョージ・シンプソンが新年まで教壇に立った。彼のことは全く覚えていないし、後任の男についてもほとんど覚えていないが、ラモントという名前の人で、髪が赤く、ひげも赤くて、奥さんがいた。10代の髭のない青年に慣れていた私たちにとって、学校というものは(教師に)鬚があることと妻がいることは、2つの不気味で不自然なことのように思われる。
キャベンディッシュの教育係。ラモント氏のことは、赤い横ひげを生やしていたこと以外は、ほとんど覚えていない。
7歳の私に、長い複雑な文章を丸暗記させようとしたこと。算数でいうところの数式だ。私には全く理解できないものだった。ギリシャ語を暗記させるのと同じようなものだ。しかし当時はそう思っていた。
7歳児の、大人の知恵に対する哀れな信仰心で、彼には、私にそれを学ばせようとしたことはまったく正しいことだったのだろうと。しかし今、私は憤りと子供に無理難題を押し付けて、しかも無駄なことをさせる人間を軽蔑している。彼の動機は何だったのか想像もつかない。他のどの教師もそんなことは考えなかった。そのようなことは ラモント自身も、他の子供たちにそんなことを頼んだことはない。
7歳の誕生日の翌年の冬、エミリー叔母さんは結婚して出て行った。彼女の結婚式はとても大きな出来事で、何週間にもわたる謎めいたものだったのを覚えている。ケーキを焼いたり、霜をつけたり、いろいろな準備をした。エミリー叔母さんは当時まだ少女でしたが、私の目には他の人と同じくらい大人に映っていた。当時は年齢という概念がなかった。大人であるか、それとも子供か。それがすべてだった。
結婚式は古き良き時代のもので、大きな "コネ"(決まり事)がすべてあった。7時に式、すぐに夕食。その後小夜中までダンスやゲームをして、1時にまた盛大な晩餐会。エミリー叔母さんは茶色のシルクの服を着ていた。シルクのドレスは、当時はとても珍しいものだった。当時は一生のうちに何度も手にすることはないと言われていた。鮮やかなグリーンのシルクだった。私の目にはとても醜く映ったのだが、当時はそう思われて(珍しく豪華だと)いたのでしょう。当時はとてもハンサム(カッコいいと言う事)だった。緑のサテンと緑の帯で縁取られていた。フリンジ スカートはとてもボリューミーだった。それから8年後のエミリー叔母さんのものはプリーツとフラウンスとオーバースカートで装飾されている。そしてトレーン(長く伸ばして引きずるような裾)がついていて、そのトレーンには白いフチがぐるりと縫い付けられている。もちろん、ボンネットはかぶっていた。若い人はいつも(日本が近代化する前に着物を着ていたような物であろう)当時の少女は、結婚するとまだ10代なのにすぐにボンネットをかぶった。このファッションが廃れたのは、それから5年後のことだった。
ボンネットをかぶった最後の花嫁がキャベンディッシュで「現れた」のは、12歳くらいのときだった。教会で行う。茶色のシルクにドレープのリボンをつけ、長いサテンの紐をつけたボンネットだった。
エミリー叔母さんのボンネットは、黒い漆黒に白い羽根がついたものだった。ばかげているとしか思えない。
しかし、そのようなドレッシーな小さなボンネットは、新鮮な若い顔にとてもよく似合っていた。それが習慣であれば、何もバカバカしいことはない
介添え人はグレース・マクニールで、やはり茶色のシルクを身にまとっていた。ジョンおじさん。(エミリー叔母さんと結婚したジョン・モンゴメリ)は私の大のお気に入りだった。彼は親切で、寛大で、心の広い人だった。
エミリー叔母さんの結婚式は、この古い家での最後の祝宴となった。彼女とともにここにあった祖父と祖母のすべての社交的な生活。私はその中で成長することになった。

翌年の夏、ラモント氏は去り、ウィリアム・マッケイ氏がやってきた。私は彼がここで教えた年のことは、学校に関する限りほとんど覚えていない。最初の6ヶ月はここに(私の家に)寄宿していたにもかかわらず、私はほとんど何も覚えていない。彼の人柄(によるもの)だろう。しかし私は彼を嫌いになることはできなかったし、覚えているはずもない。
また、彼にあまり魅力を感じることもなかった。私たち「雑魚」は、あまり出番がなかった。そのころは、先生からあまり注目されていなかったので、あまり印象に残っていない。彼は、真っ黒な髪に太い眉毛の男で、通称「ビル」と呼ばれていた。クリフトンに住んでいた父親が "Buffer "(緩衝材)と呼ばれていたことから、"Buffer"と呼ばれるようになった。マッケイというのは、こにいる他の多くのマッケイと区別するためである。
少し話がそれるが、このマッケイの話はユーモラスなものだった。父がクリフトンで店番をしていた頃、26人の店員がいたと聞いた覚えがある。ウィリアム・マッケイの帳簿、同姓同名が多いので区別するためにあだ名がつけられたが、その中には滑稽なものもあった。「ジョーディー・ベイン」「ジョーディ・スクワイヤーズ」「ジョーディ・ブッシュ」「ジョーディ・クリーク」は、すべて正式な名。ジョージ・マッケイ、サンディ・ロング・ジムやサンディ・ビッグ・トムもそうだった。彼らはそれ以外の言い方で語られることはない。クリフトンのある牧師は、次のように記録している。
アレクサンダー・ビッグ・ジム」に祈りを捧げるよう、厳粛に呼びかけたことがあります。そしてアレクサンダー・ビッグ・ジムも重々しくそれに従った。誰も微笑みさえしなかった。
マトンの話に戻るが、つまりマッケイ氏がここで教鞭をとった年のことだ。時間はキャベンディッシュでは、当時、古代ローマ帝国が執政官を置いたように教育者として君臨していた人の年で計算する。
それは、マルコポーロ号が上陸し、ネルソン一家がやってきた夏であった。ここに乗船する(私の家に引き取られた)。私にとっては、とても幸せな夏だった。いろいろなことがありすぎたので、私はほとんど放っておかれ、からかわれたりすることはなかった。初めて遊び友達ができたのも、貴重な幸運だった。
ネルソン家の少年たちとの生活については、この日記の別のところに書いた。ここで繰り返す必要はないだろう。しかし、彼らが滞在していたこの3年間はキャベンディッシュは、私の子供時代の最も輝かしく幸せな思い出である。その3年間は一度も喧嘩をしたことがなく、曇りのない思い出でだ。
遊び場がたくさんあって、シンプルで健康的な楽しみがあった。ブランコ、美しい夏の夕暮れ時のゲーム、楽しげに走り回った。野原や果樹園を通り抜け、冬の長い夜には暖炉のそばで。
マッケイ氏が去ってから、フレイザー氏がやってきた。彼は少年のような若者で、ここに(やはり私の家に)下宿していた。彼は大柄な生徒をコントロールすることができず、教師としては成功しなかった。
当時通っていた(教師である)自分と同じくらいの年齢の乱暴な少年たち。小市民は彼を愛した。というのも彼はとてもいい人で、私たちに親切だったからだ。彼が来てすぐ、彼は賞品を出して大反響。みんな大喜びだったね。私は、私のクラスで、「最もよく頭を下げた人」に贈られる賞品を獲得することを心に決めていた。そして、それは今も手元にある。それは楽しいおとぎ話の本で今でも持っており、楽しく読むことができる。
9歳の誕生日を迎えた冬の初め、私はひどい風邪をひいた。肺に沈着した。冬の間、私は惨めで学校にも行かなかった。私は玄関の外に出てはいけないと言われた。肺の病気の治療法は、今のやり方とは少し違う。
その冬、父は家にいて、ここで多くの時間を過ごした。父の訪問は私にとって曇りのない喜びの時間だった。彼は西部から久しぶりに帰ってきたのだ。3年ぶりに帰ってきて、3月まで家にいたが、また西に行った。
彼は知らなかったが、生まれ故郷の島を永遠に去ることになる。

父以外では、人形と本が一番の楽しみだった。人形は私は家族と一緒に遊ぶのが大好きだった。陶器製のものを2つ持っていた。 そして蝋人形が3つ。陶器のものは頭が半分に折れ、蝋のものも3つあった。 もう一人は腕がない。しかし私はその不幸な彼らをどんなに愛したことだろう。一人の蝋人形は、6回目のクリスマスに私のストッキングの中に入っていた小さな人形だった。もうひとつは、ネルソン夫妻の叔母にあたるカニンガム夫人が作って送ってくれたのだ、かなり大きなものだ。 私はその子がとても美しく着飾ったので、とても誇らしく思った。 レースで縁取られた赤いカシミアで、しかし私は彼女に私のように多くの愛を与えたことはありません。 割れた陶器のもの。3つ目は、赤ちゃんのように大きな人形で、これもまた カニンガム夫人 私はこの人形を、その大きさゆえに誇りに思っていたのだが、自分ではそう思わない。 愛してやまない。私の人形にはすべて、とても洒落た名前がついていたのだが、すべて忘れてしまった。 一番大きいのはローゼル・ヘラルディンという名前だったが。私は父からもらった小さな人形の寝台に、シーツ、枕を一式そろえて と毛布を作り、裁縫を習い、人形のためにパッチワークのキルトを作っていました。 それから小さな陶器のティーセットと、小さなフライパンと、小さな金庫があった。 アイロンも、私にとって大きな楽しみの一つだった。 しかし私はいつも読書が何よりも好きだった。それほど多くの本があったわけではない。 家にはたくさんの本があったが、郵便局を営んでいたのでたいてい 新聞も雑誌もたくさんある。そしてどんな本でも、よく、よく読んだ。 赤い表紙の「世界の歴史」が2冊あった。 色とりどりの絵は、私にとって何年たっても楽しいものだった。歴史書としてはどうか。しかし絵本としてはとても面白いものだった。この本は エデンから始まり、「ギリシャの栄光と壮大さ」を経てヴィクトリアの時代まで。それから、「リトル・ケイティ」という本がある。 それと「陽気なジム」は、私の好みにぴったりで、宣教師の本を扱ったものだ。 太平洋の島々。この本に載っている人食い族の酋長の絵は、人並み外れたものであった。 ピルグリムプログレス(天路歴程)は 何度読んでも飽きない。何度も何度もクリスチャンとクリスティアナと一緒に狭い道を歩いたが、私はクリスティアナの話が好きではなかった。 クリスチャンの冒険の半分くらいです。というのも クリスティアの魅力は、あのクリスチャンの孤独で勇敢な姿の半分もない。 暗い谷の影とアポリオンとの出会いに、たった一人で立ち向かったのです。 私は『巡礼の旅』が好きだと自負しているが、(続編の)『巡礼の旅』が好きでないことは、あまり誇りに思っていない。 タルメージの説教を読むのも、同じように楽しい。それはタルメージの パルミー・デイズ 旅回りの港湾労働者は皆、彼の本を携え、新しい巻のタルメージ(ジェームズ・E・タルメージ著)の説教は、当時、現在の「ベストセラー」と同じような意味を持っていた。それは宗教に惹かれたのではない――当時はそれも好きだったが――。 しかし、彼の鮮やかな言葉使いとドラマチックなクライマックスには驚かされた。彼の説教は小説のように面白い。今となっては辛抱強く読むこともできず、タルメージは死んでしまったがと不信感を抱いた。しかし私は彼にとても感謝している。 生々しさを渇望する子供たち。 小説はあまりない時代だったので顰蹙を買った。ピックウィック・ペーパーズ、ザノーニ、ロブ・ロイが、ほとんど唯一の家にある小説だった、ほとんど暗記するほど読み漁った。 ザノーニの全章を暗記している。祖母が持っていった雑誌に 「Godey's Lady's Book"は毎月のように登場し、大きなイベントだった。私の記憶ではバッスルやオーバースカートの(骨積みで膨らませた、また腰のところにパッドをつけたスカート)とんでもないファッション・プレート(挿絵であろう)は、私がとてもいいと思った。 素晴らしく、美しい。それを着ている自分を想像して、じっくりと眺めたものだ。 そして大人になったら、これと同じものを手に入れようと固く決意した(何しろ日本で言えば和服時代の人だ)。 カニンガム夫人は、ウェリントン(モンゴメリの家に引き取られていた少年)に "Wide Awake" という月刊誌を送ってくれた。 素晴らしい物語が収録されている。それは独特の文学性を持っていて私の子供時代に最も良い影響を与えたものの一つだ。この雑誌に掲載された、最高の作家による連載は当時の作家は、いつも楽しませてくれたし挿絵も同じように楽しませてくれた。 ウェリントンは、ハンス・アンデルセンの物語を懸賞で獲得しており、それはの空想のためになる珍しい読み物だった。 私は「子供の本」をいくつか持っていたのだが、そこにはたくさんの良いことが書かれていた。 子供向けの読み物だ。幸いなことに、私は好きなものを何度も何度も読むことができた。 その都度、新鮮な面白さと甘さを引き出してくれる。長い間 冬の夕方、居間に火が灯されると、私は座ってじっくりと考えた。 祖父が新聞を読み、祖母が編み物をしている間に男の子は台所でろうそくの明かりを頼りに勉強していた。 とても楽しい夜で私の中で美しい輝きを放っていると記憶している。しかしそのことを考えると、このような悲しい気分の時には、耐え難いほど傷つくのだ。 (今とは)こんなにも違う夜があるのだ。8時になると私は居間の脇の寝室でベッドに入るように言われた。 私はそこに横たわり居間の明かりを心地よく眺めていた。 天井で目覚めた夢を見る。私はすでにあの奇妙な 私の外側の生活と常に隣り合わせに存在している空想の内側の生活。 私は、退屈な現実や辛い現実から、しばしば空想の世界に逃避していたのだ。それは今一番辛いのは、神経痛や悲しみに打ちひしがれる気分の時には私は、たとえ一時的にでもそうやって空想に逃げることができない。痛みで遊びができないのだ。 想像力の虜になって夢の中をさまようような生活から遠ざかってしまう。 おとぎの国、素晴らしい冒険をし、どんな雲や影にも邪魔されない奇妙で甘い幸福を味わった。ああそうだ、私はかつて多くの幸せな時間を過ごしたのだ、(今)横になって薄暗い部屋の中で枕を並べて思い出すと、私の目に苦くてしみるような涙が浮かぶ。この文章を書きながら今の気分でそんなことを思い出すのはよくない。 孤独と魂の痛み 「悲しみの王冠」(非常に詩的な表現で、悲しみの極致にある気持ち)はかつての幸せなことを思い出すことだ。 その冬、私は初めて日記をつけ、便せんに作品を書いた(9歳のころか) 特許薬品会社から送られてきた小さな黄色いノートに。 正確にはバッファローで有名な ピアス博士には本当に感謝している。私はその当時は閉じ込める(日記を隠す)場所がなく、またとても嫌だったので2枚の板でできた小さな棚に隠していた。 部屋のソファーの端の下側に釘で打ち付けてあったものだ(ソファーの横に取り付けられているラックのような物)。私は愛情を込めてこの棚の存在を知っているのは自分だけだと信じていた。その棚はすぐにMSS(日記帳)でいっぱいになった。今その原稿があればと切に願う。今なら私にとってかけがえのないものになるはずだ。しかし、毎年、それらを読み返していると、いくつかは 私の成熟した知性には、取っておくにはあまりに愚かなことに思えたのだ。私はそれらを恥じた14歳のときノートブックを全部燃やした。それから私はずっと後悔している。それらは私の記憶では、古風で素朴で痛々しい小さな文書だ。 自分のことを書いても、他人のことを書いても、真実で誠実なのだ。かわいそうなほど小さな日記、ずっと昔の灰、あなたは子供の人生の何ページだったのだろう、

小さな単純なひとつの人生。夢と幼稚な喜びの子供時代ほど幸せではなかった、しかし今、私の後ろ向きな気持ち(過去を懐かしむ気持ち)にはとても輝いて見える。 現在の退屈な生活に慣れきっている目がちらちらと見えるのだ。 その冬私は「良心の呵責」にずいぶん苦しめられた(くだらない小説などを読んでいてはいけないということか)。以前にも紹介したことがあるが、その時私は聖書とタルメージの本以外、すべての本を捨てた。 説教と、「アンゾネッタピータースの回想録」というタイトルの薄い小冊子がある。 私はその本を決して忘れることはないだろう。その本は今はもう消えてしまったタイプのものだった。 幸いなことにその当時はとても流行っていたのだ。この本はある子供の伝記である。 5歳で「改宗」し、その後すぐに重い病気になり、驚異の人生を歩んだ。 数年間は辛抱強く聖人君子のような生活を送り、大きな苦しみの末に12歳で亡くなった。 その本は一度だけなら、何十回も読んだに違いない。その本が私に良い影響を与えた。ひとつには、それが私をひどく落胆させたからだ。 完璧すぎて真似しても無駄だと思った。でもやってみたのだ。彼女は子供の頃の普通の言葉を使うことはまずないようだ。彼女は どんな発言にも、それが「今日はどうしたの」であったとしても必ず返事をする。 讃美歌や聖句を引用して、「アンゾネッタ? アンゾネッタは完璧な讃美歌の図書館。彼女は賛美歌の中で亡くなり、最後にかすかに囁くようにこう言った。 "
  聞け、彼らがささやく! 天使が言う。
   "修道女の魂よ 去れ"
現在の会話で詩や讃美歌を使う試みはあえてしなかった。 笑われるに決まっているし、ましてや理解されない。しかし私は最善を尽くし、当時の小さな "日記" を埋め尽くした。 アンゾネッタが讃美歌を全部書き上げたのに対し2節を超えることはめったにない。その頃の私のお気に入りの讃美歌は天国を描写したもので、リフレイン(ハーレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレールヤということではないだろうか)がある。 「でも、そこに行くにはどうしたらいいんだろう?」 私はこの讃美歌の下で、日記にこう書いたのを覚えている、母やジョージ・ホワイトフィールドやアンゾネッタ・B・ピータースと一緒に「天国に行けたらいいのに。 しかし私は本当にそれを望んでいたわけではない。そう考えること自体が嫌だったのだ。しかし私はそうすべきであると信じていた。 そしてそうなるように努力した。 春になると体調が良くなり、春休み明けから学校に復帰した。 その後、春と秋にそれぞれ3週間ずつ休暇があった。真夏には 7月初めの1週間を除いては休みはない。フレイザー先生が来られる前は、毎週土曜日が休みだった。フレイザーさんの任期中、多くの人が大胆で危険だと考えることを決定した。 毎週土曜日を休日とすることを決定したのだ。 その夏私の記憶の中で、学校での生活がより鮮明で興味深いものになり始めた。 この年の大きなイベントは、半年に一度の「試験」だった。 クリスマスと6月末に1回ずつ。そして管理委員会と牧師がやってきた。 学校は(教師の指導がうまくされているか)検査される。フレイザー先生は私が初めて筆記試験を受けた先生だ。 私たちはこれを深刻で恐ろしいことだと考えていた。残念ながらお互いに質問しあうなど、少しズルをすることもあった。 私たちはいつも別々の席に座らされ、教科書はすべて自分で用意した。 師匠。でも、ノートというものがあったのだ。そんなこと(カンニング)は思いもよらなかったと思う。 それが不名誉なことだということは私たちは言われたこともない。それはごく当たり前のことのように思えた。その時は筆記試験という無駄な専制政治を回避することができたのだ。

私は学校に「裸足で行く」ことを許されず、他の子供たちが皆裸足で行くので、このことが、自分との屈辱的な違いだと痛感していた。
私は他の人たちと同じように "なりたい" と思っていた。そうすればもっと賢くなれたと思う。
私をを「裸足で」学校に。――私の懇願もむなしく 家では素足が許されたが、しかし学校では必ず「ボタン付きブーツ」を履かなければならない。少し前にある同級生の女の子が、私のその姿がいつも羨ましかった。ボタン付きのブーツが欲しくてたまらなかったと告白してくれた。「ボタンのついた素敵なブーツ」。人間の性なのだろう、常に何かを欲しがるのだ。仲間たちのように裸足になりたいと願う私がいた。
もうひとつ、私がウジウジ悩んでいたのは他の人が昼食(原文ではディナー、夕食となっている。これはモンゴメリの家では昼食が一番豪華な食事だったからだろう)をとっている間、毎日家に帰って昼食をとらなければならない。これは馬鹿なことをしたものだ。近くにいる方が(学校の席でとったほうが)、あらゆる面でずっといいし、素敵なのだ。
家に帰れば暖かい昼食を食べることができる。しかしそれは半端なことではない。学校にお弁当を持って行って食べたり、遊び場に集団で座って食べたりするのは面白い。小川の水を飲んだり、木の下でミルクを飲んだりした。冬の嵐の日、"持ち帰る" (嵐の日に昼食で家に帰れなかったとき)ことになったとき、私はとても喜んだ。
私の昼食も その頃の私は「群衆の一人」であり、孤独な存在として特別視されていたわけではない。
優れた利点(モンゴメリが家に帰って豪華な昼食をとれること)の区別。
大多数の大人は、このようなことを全く理解していないと思う。敏感な子供たちは自分たちと(大人との考えの違い)の著しい違いに苦しんでいる。
狭い世界の住人たち。ある冬私は新しいスタイルのエプロンをつけて登校した。ひどいものだと思った。それは袖のある長い袋状の衣服であった。その袖が、というのもこの上ない屈辱だったからだ。学校では誰も袖のあるエプロンをしたことがなかったのだ。私が学校に行ったとき、一人の女の子が、
「これって「ベビーエプロン」?。
これがすべての始まりだった。着るに忍びないのだが、でも擦り切れるまで着てしまった。そうしなければならなかったのだ。しかし、その屈辱は最後まで決して小さくはならなかった。
一度も幸運(着なくて済むようになること)を手にすることなく、恐ろしいほどよく着ている。その「赤ちゃん」エプロンは、私にとって人間の我慢の極限を示すものだった。
服装に関しては、他に文句を言うことはなかった。私はいつも、私の服は一般的にきれいで、似合っていた。祖母の順応性のなさから、少し古めかしいと感じることもあったが。物質的には私はよく世話をされた。精神的には、私はある程度は自給自足(精神の糧は自分で見つける)。精神的、社会的な面では飢えと制限を受けた。
田舎の集落では、子供の生活は必然的に質素で静かなものになる。しかしそれはあるべき姿である。キャベンディッシュでの生活は、明らかにそうであった。
デイ・スクールとサンデー・スクール(日曜学校)が子供の生活を構成していた。私が書いている当時は日曜学校は、私たちにとって宗教的なものと同じくらい社会的な機能だった。私たちは残念なことに、自分の良い服を見せることと同じくらいに授業と同じように、友人と会うこともできた。しかし後者もおろそかにしていた。私たちは、「黄金のテキスト」、カテキズム(キリスト教の教理をわかりやすく説明した要約)を学ぶように厳しく言われた。そして「パラフレーズ」(ある言語を他の言語に置き換えること、ここではラテン語の聖書の原文を英語に置き換えることであろう)は自宅で。いつも思い出すと戸惑ったことがある。「大」(大きい子のクラス)クラスで使われていた「短」(短くまとめられている)カテキズムは私たちが「小さな」(小さい子のクラス)クラスで使っていたものの5倍の長さだ。カテキズムの使用は、現在の日曜学校ではほとんどなくなった。
現在では このことは、ある方面では嘆かれているが、私は良いことだと思っている。というのはそのような乾いた公式を暗記することが本当に誰かのためになったかどうか。確かに私は全く役に立たなかった。私は学んだことの半分も意味を理解していなかったし、それは説明されたことがない。さらに、『短編カテキズム』では、以下のようなことを教えている。
もう信じていない、信じてはいけない。考えてみれば子供たちに「選択」や「選択」(人の峻別)という教義を教えるのは、考えてみれば恐ろしいことだった。"宿命" (人間の運命は生まれつき決まっているということ)だ。子供の心に植え付けるとは、なんという神観念だろうか。幸いなことに、しかしそれは私たちの心にはあまり定着していなかったように思う。私たちはその恐ろしい答えの本当の意味を、私たちは軽々しく暗唱していたのだ。"カテキズム"とは学ばなければならないものでありながら、その教義は氷の上の小石のように私たちの心の上を滑るかのようにほとんど印象に残らなかった。
私は日曜学校の先生にも恵まれなかった。三人の老女が続けてやっていて、彼女らの性格は、子供にとって愛すべきものでも、役に立つものでもなかった。一人は数年後、正気を失い溺死したと記憶している。しかし、彼女は(溺死した人)親切で優しい女性で、私は3人の中で一番好きだった。そのうちの一人は私が今まで見た中で最も家庭的な女性で、顔にはほくろがあり、下膨れになっている。どの人も生徒のクリスチャンを美しく魅力的にすることはできなかった。実際、彼女らはむしろ私に偏見を抱かせた。"クリスチャン″であることは、醜くなることだと考えていた。
その宗教的に)「良い」女性たちは愚かで、まあロマンチックでないのだ。彼女たちは。
この感覚は、今でも私の中にしっかりと残っていると思う。宗教と美は対立するものであり限りなく遠い存在である。私はこのようなことをしても、「己の欲望を抑えられない」のだ。セックスのことは必要なものだが醜いものであり、本当に恥ずかしくて、自分にとっては必要ないものである。
「天国」については、私はそれについて議論された記憶はないが、私はそれは(天国は)かなり退屈なものだと思っていた。ただ立って歌うだけの豪華な場所ではないか。(教会での儀式になぞらえたのか)
私の大好きな「What must it be to be there」(そこにあるべきものはなんなのか)は、この印象を打ち消すことができなかった。そしてキリストの人格と教えについては、私はその本当の意味をほとんど理解していなかった。私が時折「5セント玉」を捧げたり(教会に献金する)「5セント玉」を取りに行ったりした若い異教徒と同様に「ミッションカード」を持って集金に回った。
しかし、私は日曜学校に行くのが好きで、一日でも欠席するのが惜しいと思っていた。私の最も素晴らしい思い出は、古い教会で一緒に過ごしたあの時間だ。小さな仲間たちと一緒に手袋をはめた手で「遺言書」と「レッスンシート」を大切に持って。
それは「ネコヤナギとカトキン」(二匹の猫の名前)の夏だった。私は昔から猫がとても好きだった。どうしてそのような趣味になったのかはわからない。
父は猫嫌い、母は猫嫌い、祖父も祖母も猫嫌いだった。私が猫を撫でるのを見るのは好きではなかったが、実際に禁止されたわけではなかった。それ以前にも何度か飼っていたのだが、あまり覚えていない。我が家の猫たちは、その生涯を不安定に過ごしていた。我が家にはジップという犬がいた。いい老犬だが、ひとつだけ非常に悪い欠点があった。この犬も猫が大嫌いで、死ぬまで猫をとことん追いかけていた。
彼は私のために何匹もの子猫を殺した。この夏2匹の子猫を飼ったときのこと。グレーのかわいい子と白地に黒の斑点のある子を飼うことにしたのだ。自分たちを守れるほど大きくなるまで、穀物庫に閉じこめていたのだ。私はその子を「ワイドアウェイク」の「手紙箱」で見つけた名前で呼んでみた。とても美しく、ふさわしいと思った。
私のかわいそうなペットたちは、穀物庫でどちらかというと退屈な生活を送っていたのではないかと思う。よく食べさせたし、しかし急成長することはなかった。しかし彼らは私にとって大きな喜びであり、私は彼らを愛していた。特にグレーのプッシーウィロー(ねこやなぎという名前の猫)は、二匹とも私の情熱の限りを尽くして愛した、私の運命は、気になるものを何でも激しく愛してしまうことだ。
喜びと同じくらい痛みもあるのだ。カトキンはちょっとおとなしめだった。しかしプッシーウィローは、見たこともない縞模様の毛皮の中でも最もかわいいものだった。秋になると彼らは納屋を自由に使うことができるようになった。しかしある厳しい朝、プッシーウィローが毒ネズミを食べて死んでいるのを発見した。私の小さなペットは、私の手の中で死んだ。この時の痛みは忘れられない。初めて死を実感した。本当に愛していたものがいなくなったのは、永遠にその時種族の呪いが私に降りかかったのだ。
そして私は、あらゆるものがあった子供時代のエデンに背を向けたのだ。永遠に続くと思われていたものが死という炎の剣によって、私は永遠にそこから締め出されたのだ。
あの忘れられない、忘れられない痛み。そうだ。書いている今もその痛みを感じている。
小さなペットの哀れな姿を見て、魂が揺さぶられ苦しくなった。その小さな前足は硬く冷たくなっている。あれから25年。その日の傷は今も私の魂に残っている。私はこの小さな灰色の遊び仲間を、普通の人間よりも長く、そして辛く悼んだ。
悼まれる。よく夢で見たのは、この子が戻ってくることでした。そしてその目覚めはいつも苦いものだった。カトキンは冬まで生きて、そして姿を消した。私は彼女を失ったことを残念に思ったが、私はプッシーウィローのように彼女を愛したことはなかった。まだ生きている、戻ってくるという希望が残っている。ジップ(犬)が生きている限り、「猫を飼う」ことは無駄なことだと思った。
ジップは私が12歳くらいまで生きていた。その後彼は亡くなったが、私はそのことも悲しんでいた。ジップが大好きだった。でも次の春私は灰色と白の子猫を手に入れた。「ワイド・アウェイク」に出てくる猫にちなんでトプシーと名付けた。。彼女は美しく成長し、賢い猫で、7、8年生きたが、ある日ついに姿を消した。
私がBidefordで教えていた冬。彼女が最初に産んだ子猫のうちの1匹はとてもかわいらしい子だった。ハンサムなグレーで前足と胸が白い。私はその子を飼い、マックスと名付けた。しかしその子は、2歳くらいになるとどこかへ行ってしまい、それっきりだった。
多くの放浪するトマースの運命だ。それ以来、私は4匹のペットを飼っている。本物の猫はグレーの猫だけだと思うようになったのだ。
最初の子は「ココ」という可愛いライトグレイで、「ボブス」という名前に変えた。ボーア戦争時の英雄崇拝。二代目はダフィー、ダークグレー。そして2代目のダフィーはシルバーグレーで、今までで最も愛らしく、ハンサムな猫だった。これらはすべて毒で死んだ。2代目ダッフィーが死んだとき、私はまるで昔プッシーウィローが死んだときと同じような気持ちだった。今3代目ダッフィーがいる。アレック・マクニールのところから子猫のときにもらった子猫だ。4歳になる彼はとても大きくて、とてもいい子だ。
ハンサムで家にいることが多いので、その日暮らしが長くなっている。彼がいなかったらどうなっていたかわからない。恥ずかしくて言えない。
私がどれだけその猫を愛しているか。そして、彼は私を全く愛していないのだ。私の方は一片の曇りもない愛情がある。しかし彼はとてもハンサムなので彼自身の言い訳になるし、彼は人並み以上に知っているが、人並み以上に合法である。
猫はロッキングチェアとクッションが好きで、至って幸せな人生を送っている。猫の立場から見ると。祖母は私と同じように彼を撫でている。以前祖母は私のペットが嫌いで、私がペットに愛情を注ぐことに腹を立てているようだった。しかし子供たちに見放されたこの寂しい晩年になって、祖母ダッフィーが好きになり、ほとんど甘やかすようになったと言っているいる。まあ柔らかくて、無口で、毛深い、猫の仲間より悪い友人はたくさんいる。
私は犬も好きで飼いたいだが、今の状況では無理という状況だ。不可能でないことの方が少ないのだ。

9歳の誕生日を迎えた夏、フレイザーさんがいなくなり、ジェームス・マクラウドが代わりに君臨した。彼は3年間ここで教鞭を取った。私たちは少なくとも彼を好きではなかった。
彼がここにいる間 彼は私たちを容赦なく鞭打ったものだ。何事も洒落にならない。手のひらを硬い木製のポインター(黒板を指す俸)で「カット」(ピシャっと打つ)したりするのだ。しかし彼は決して皮肉ることはなく、肉体的な痛みはすぐに忘れ去られた。許してくれる。そのことで私の魂の中に彼に対する恨みを見いだすことはできない。彼はある面ではかなり良い先生だった。しかし私はまだ勉強を愛することに目覚めていなかった。それ自体のために。私は必要だから勉強したのだ。向上心があり、記憶力の良い私にとって、これは決して大きな仕事ではなかった。
特別な楽しみはない。しかし私の野心は常に目を覚ましていた。授業で「頭角を現す」ことは望ましいことであり、「落ち込む」ことは大変な恥辱である。学校が大きかったので、「ジム」――私たちは彼のことを陰でそう呼んでいた――は(全てに目を配ることが)できなかったのだ。授業はいつも追い越される。そのため年長の生徒を何人か廊下に送って、授業に参加させる(年長の生徒に廊下で授業の手伝いをさせたのか)ことがよくあった。私たちはそれを「聞きに」行った。これは私たちにとって大きな喜びであった。しかし「ジム」は、私たちが授業を聞きたい(廊下に出たい)と思ったとしても、私たちはすぐに怠けているのかと聞かれることがある。初めは部屋の中を見渡して、怠けている生徒を見つけたらその生徒を授業に参加させるのだ。しかしこれがあまりにひどいと、彼は気づいた。(廊下に出て年長生徒の授業を聞きたい生徒が多い)
罰として彼は戦術を変えた。私自身はというとある方法を考え出した。タイムマジックのような仕組みだ。ジム」が教室を呼び出したとき、私は手を止めて空席を見つめた。そして彼の目に留まると、私は自分の手に鉛筆を持つと、猛然と「暗号」に没頭した。(怠けていたという様子を見せた)"ジム"が罠にはまることはめったにない。
この生徒の中には、自分が聴講生になることを恐れているような(フリをした)生徒がいた。その結果そのプーピー(文句のうなり声)は送られなければならないし送られた。逆ギレして渋い顔をしながらも、内心では歓喜の声を上げながら、通路に出て行って授業を「聞く」。
ジムの厳しさとは裏腹に、彼はどこにでもいるわけにも、どこにでも目を通すわけにもいかなかった。私たちは、彼の陰で非合法な遊びをたくさんした。とてもファッショナブルな当時の遊びといえば、ジャックナイフで遊ぶ「ナイフ遊び」だ。アマンダと私は学校の時間に、膝の上や、座席の柔らかい木の上にも大きなピンを置いて、よく遊んだものだ。
休み時間にはたくさんの遊びがあった。春と秋は "ボール"(三角ベースボール)が定番だったが、夏場は暑くて大変だった。それから、「ナイフ」「ジャックストーン」などをやった。「キング、キング、カム・オン」「バロン」「ステップストーン」「リトル・サリー・ウォーター」「Oh! Love it is a dangerous game」(おー、愛は危険なゲームだ)、「Drop the handerchief」(ハンカチを落とす遊びか)。大きな学校にはいつもたくさんの子供たちがいて、本当に楽しかった。冬になると私たちは学校のポーチで「ブラインドマンズバフ」(盲人葡萄酒)をしたり、惰性で走ったり。昔はよく学校の丘」、ピアース・マクニールの畑、そして私たちの「大きな丘」で輝かしい遊びをしたフィールド」だ。逆転劇が楽しみを増やした。あの頃の夕食(昼食)の時間は、なんと短く感じられたことだろう。

その年の冬ネルソン家の子供たちがいなくなり私はとても寂しくなった。翌年の夏リアンダーおじさんの息子、フレッドとマーレーが初めてやって来た。私は彼らが来るのを楽しみに待っていた。デイブがまた来た。しかし私はがっかりした。フレッドには全くそうではなかった。私はむしろ彼が好きだった。その夏もそれ以降の夏も、私たちはかなり良い友人だった。喧嘩もたくさんしたし。フレッドにはとても些細な意見の違うこともあったが、基本的には全体としては同意見だった。私はマーレーが好きではなかった。自分勝手な少年で、とても自分の重要性を誇張して考えている。
マレー・マクニール。女の子が彼にひれ伏して頭を下げない限り、(あたしを)崇拝(しなさいよ)というような女には用はない。マレーは不思議な存在で惜しげもなくお世辞を言うので、彼は私のことを気にも留めなかった。私は、私がウェルに感じていた率直な仲間意識は、これにはあまりに自立ちすぎている。私とデイブに提供できるのはこれだけだったのだが彼は喜ばなかった。だから私たちは数年の間に、私はマレイ(の本性をであろう)を発見した。
様々な卑劣な行為や言動から、私は彼を心から憎むようになった。そしてできる限り彼とは関わりを持たなくなった。
私たちは叔父や叔母たちが頻繁に訪れてくれなければ。祖父、祖母の二人はめったに出かけないし、人が来ることもほとんどない。
私はペンシーの家とアマンダの家以外、どこにも行くことは許されなかった。もし私たちの家が郵便局でなければ、近所の人はほとんど家に来なかっただろう。しかし当時は普通、家族の訪問はかなり頻繁だった。ジョン・キャンベル伯父さんとアニー・キャンベル伯母さん、エミリー叔母さんとジョン・モンゴメリー叔父さんはよく来てくれた。前者は私のお気に入りでした。私はいつも彼らに会うのが嬉しかったし、クララやステラ(いとこであろうか)も来た。エミリー叔母さんはあまり歓迎されなかった。
訪問中に私の欠点をすべて見つけて改めるのが義務のようだった。そして彼女は不運な人だった。癇癪のようなものを引き起こして、他人を改善するよりもむしろ悪化させる人だ。焦って反感を買う。でも私はジョン・モンゴメリおじさんが大好きだった。
チェスター叔父さんは当時、シャーロットタウンで弁護士をしていて、ハティ叔母さんと一緒に年に3回、2、3週間ほど遊びに来ていた。私はチェスターおじさんのことはかなり好きだったが、彼の奥さんのことは嫌いだった。ハティは冷たくてわがままな女で、面白がられるためだけに生きていた。リアンダー叔父さんとその家族は、夏になるといつもニューブランズウィック州のセントジョンからやってきた。彼の2番目の妻。
アニーおばさんは、とても優しい女性だった。リアンダーおじさんは、たいてい小説をたくさん持っていたので、彼が来た後はよく華麗な読書三昧をしたものだ。私はアニーおばさんの家族以外とは、決して「家庭的」になれるとは言えなかった。それでも彼らの来訪は、明るさと興奮を意味するものとして、いつも歓迎されていた。
 12歳の夏は、初めてある種の真夏になった夏だったと思う。夏の真ん中のバカンス。私は夏屋外で過ごすことが多かった。私たちネルソン兄弟と私、そして後にフレッドと私は、森の中の小川を遡る冒険がとても好きだった。ある夏の夕方、ウェルとデイブと一緒に、そのような探検に出かけたのだ。初めて恋人の小径を歩いた。私はその美しさを存分に楽しんだ。それが後年、自分にとってどれほどの意味を持つことになるのか夢にも思わなかった。その間にある二つの橋は格好の偵察場所だった。そしてもう一つ、同じように良い場所があった。
白樺のプールは、白樺の群落の根元にある。森の中の一角である。私たちはミミズを餌にして、釣り針と釣り糸で釣りをした。時々、私はなんとか自分で「ワーム(虫)をつける」ことはできたのだが、恐ろしく多くの時間を費やしてしまった。なんて嫌だったんだろう。

 

暖かいアニー伯母さんと冷たいエミリー叔母さん

ネルソン家の子供たちはいつも(私と一緒に)いたが、L叔父さんの子供はあまりいい顔をしない。私は、私の性別を揶揄されながら(魚釣りに文句を言われる)より、自分で苦悩するほうがいい。しかし私は鱒釣りが好きで、よく釣果をあげた。でも、トラウト(小川ノ脇の道ををさかのぼること)は大好きでよく釣った。ある日、池でかなり大きなマスを釣ったときのことだ。フレッド・マクニールが一緒だったので、彼の中で私の評価は10%アップしたような気がした。それ以来彼は私をより尊敬するようになった。マスを釣ることができる女の子はという感じだった。
トラウトの次に楽しかったのはベリー摘みで、サムの家のベリーを摘んだ。ワイアンドの畑は最高の喜びだった。この畑は、"奥まった"ところにあり「ジミー・レアードの森」。そこはまさに「ビューティ・スポット」で、ほぼ周囲を森に囲まれていた。楓の木が茂り、植物が絨毯のように茂っている。私たちはそこに向かって6月のイルカが香る、日差しと影が織りなす森の小径を抜けて。緑のコケに覆われているキツネやウサギの生息地にも行った。そして私は夕暮れ時のコマドリの口笛ほど甘美なものはない。
その畑の周りのカエデの森。ああ、あの頃の甘美な時間、私がそのことを書きながら自然が身近にあったことがよみがえり、胸が熱くなる。ホームシックになる。
"サム・ワイアンドの畑" それ自体は美しい名前でもロマンチックな名前でもないが、私の記憶の中にある絶妙な美しさを表している。その名前だけで古いものがすべて呼び起こされ、私は孤独な魂のすみずみにまで、その愛らしさを求めているのだ。
甘く素朴な喜びは、過去の痛みや暗さによって損なわれることはなかった。未来の影を恐れる。子供にとって、神にとって、すべては現在なのだ。そこには過去も未来も。私が12歳の夏、祖父はイギリスへ行った。そこで開催された大きな展覧会(モンゴメリが12歳の時、1886年、イギリスでは植民地インド博覧会が開かれている)へ。チェスターおじさん(チェスター叔父さんはモンゴメリの一番下の叔父さんだった)も一緒に行き、ハッティーおばさんは二人が留守の間、彼女の赤ちゃんは私たちのところに滞在した。私はその時の喜びを覚えている。
祖父と叔父が帰ってきたとき、プレゼントや写真、そして、そして、素晴らしい物語を聞かせてくれた。そしてそのころの祖父は、それほど癇癪持ちでもなく、理不尽でもなかった。数年後、老齢の子供っぽさが出てきた。そこにはマクニール祖父には素晴らしいところがたくさんある。豊かで詩的な心、鋭敏な感覚を持ち合わせた人だった。知性と洗練された知覚。会話も上手で、愛妻家でもあった。
もちまえの欠点は、気性が荒いこと、虚栄心が強いことで、そのためにあるときは少しばかばかしく、またある時は想像上の軽蔑に苛立ち、そして最悪なのは他人の気持ちを全く無視する、いや、むしろ無視しない。
相手がどんな感情を抱いているかは分からない。彼はどんなものにも我慢ができなかった。また自分の理想(を押し付けること)がいかに過酷で残酷なものであるか全く理解していないようだ。特に子供たちに対して言ったことがある。あることでは彼はとても理不尽で偏見に満ちている。彼は本当にすべての人を愛し、誇りに思っていた。
しかし、彼はその好意と誇りを、とても'賢明ではない方法で示したのだ。例えば彼は私に親切な言葉や励ましの言葉をかけたことは一度もなく、たくさんの嘲笑的で不親切なもので(モードはまたくだらない駄文を書いとるのかとか)、常に私を他の人たち(従兄弟たち)の模範となるように持ち上げていた(お前は一族の模範にならなければダメだぞとか)。その結果私は何年も、彼の孫の中で私だけだと信じていました。(私が一番目をかけられていると思っていた)
祖父は他の子供たちを嫌っていた。後年私は彼が子供たち(モンゴメリの叔父さん叔母さんたち)にも同じように接していたことを知った。厳しいことや皮肉なことを言いながら私を躾けるというやりかただ。当然ながら嫉妬を買い嫌われる傾向があった。もし彼がその逆で、せめて優しいことを言う程度にしておいたならよかったのに。私たちの面前では私たちの欠点について口をつぐんでいたならば。もっともっと愛すべき男になり、私たちに良い影響を与え、もっともっと強い影響力を発揮したことだろう。
 私が12歳の冬、父はもうすぐ結婚すると手紙をくれた(再婚)。オンタリオのメアリー・マクレーという女性である。私はこの知らせに大喜びした。私は本当の母親を愛し、愛されることを信じていた。多くの物語にある残酷な継母」の話を読んでも、私の心にはまったく響かなかった。私が知っているのはリアンダー叔父さんの2番目の奥さんだ。どんな母親も(継母も)夫の最初の息子たちに対しては、これ以上ないほど優しく、愛情深い人だった。
彼女(アニー叔母さん)は私の継母のイメージにぴったりで、私の継母もそのようなものだろうと思った。父の結婚の後、私は彼女に愛情のこもった手紙を書いた。幼い魂を注ぎ込み、お気に入りの押し花を贈った。(ところがモンゴメリは継母から嫉妬を受けてしまった)
その後、彼女がどのような女性であるかを知ったとき、自分の空想の産物に惜しみない情を注いだ自分を私は微笑ましくおもった。そんな私の貧弱なフェムやジュンベルの貢ぎ物など、何とも思っていないのだろう。しかし私はこのことをまだ知らない。森を探し回るのがこの上ない喜びだった。そして彼女に提供するのに十分なほど完璧なものを見つけるまで、私は愛情を込めて、私が送ったときと同じような喜びを、彼女が受け取ってくれるように。
その翌年の夏、ジェームズ・マクラウドは旅立ってしまった。私たち女の子は皆半泣きで彼の旅立ちに目を奪われていた。私たちは一度に発見した、またはそう思った。彼を深く愛していた。そして本当に3年の絆だ、つまり3年は長いのだ。
子供の頃の時間は、痛みなしには壊せないものなのだ。しかし私には、彼の印象的な"別れの時が来た "で始まる送別の言葉も大いに関係がある。私たちの贅沢な涙のために。アニー・スチュワートが最初に泣き始めて、それがどんどん広がっていった。そしてまるで伝染病のように、全員が嵐のように泣くことになったのだ。しかし私たちは子供の涙は、すぐに乾くものである。
そこで評議員会は、「女教師」を雇うことにした。それまで「女教師」はいなかったのだが、実験で女教師がキャベンディッシュ校に君臨することになり、賢者たちは疑心暗鬼に陥った。選ばれたのは "イジー"・ロビンソン。もう一人の候補者との間で悩んだ時期があったが、私はとても嬉しかったのを覚えている。
ロビンソン嬢が選ばれたとき 私は彼女のことを何も知らなかったが、彼女の兄がかつてラスティコで教えていて、書類にサインをもらうために1、2度ここに来たことがある。ある時彼はJP(私設郵便局)の祖父の前で私の手伝いをしてくれた。地理の授業がとても上手で、私は彼を「素敵な人」だと思った。私は彼の妹はきっと同じように素敵な人なのだろうと思った。(ところが)私は失望する運命にあった。ミス・ロビンソンがここに来て......文字通り無理やり連れてきたのだ!。
祖母は彼女を連れて来たくなかったのだがミス・ロビンソンの懇願に応じた。残念なことに祖父はミスロビンソンに向かってとても子供っぽい不用心な振る舞いをした。しかし彼(祖父)の側にも言うべきことがあった。(これは教師には向いてない人間ではないかと考えた)お嬢さんのロビンソンは非常に劣った人間で、自分のことを非常に誇張して(優れていると)考えていた。彼女は冗談が全く通じず、冗談を言ったことを侮辱されたと憤慨していた。威厳のある祖父は人をからかうのがあまりに好きだった。彼女のことを"バー"(棒)と呼んでいた。もしロビンソンさんが別のタイプだったら......たとえば。後任のゴードンさんのような人だったら、このことを素直に受け止めたかもしれない(皮肉は大目に見たかもしれない)。しかし彼女は自分の小心さでそうしなかった。そして祖父は彼女を嫌いになった。彼がそうしたことを責めることはできないということだ。

しかし、その見せ方(言い方)については確かに非難されるべきものだった(失礼だろうと)。彼の "棒"(と言う皮肉)は辛辣で侮辱的なものになった。彼と彼女はいつも口げんかをしていた。Rさん(ロビンソン先生)は特に学校では、私と接するすべての場面で祖父への嫌悪感をあらわにした。彼女は機会を見つけては私に皮肉を浴びせ、しばしばまったくもって仲間を前にして勿体ないことをした。彼女は私がこれまで嫌いだった唯一の教師であり、そして私は本当に嫌いなのだ。彼女は最も下らない行為や言動に身を落とすのだ。例を挙げればきりがないがひとつだけ。それは私に対する彼女の態度全体を特徴づけるものだった。
私たちはクラスで、ある詩を「分析」していた。クレミー・マクニールは彼女の詩を分析する。次は私の番で、私は自分の詩を分析することに専念していた。そして何事も考え込むのが私の習慣であった。
目の前のものを何も見ずに目の前の宇宙を見つめていた。そうこうしているうちにその時はまったく意識していなかったので、私は後から聞いたのだが、クレミーは自分の詩の中のある単語の解析をめぐって、嘆き悲しんだ。そのためR嬢は彼女(クレミー)のために解析してくれていた。そのとき彼女はたまたま私が、ある節がどうなっているのか、不思議に思いながら副詞的なのか形容詞的なのか考えていると、突然周囲の感覚を思い起こさせられた。
イジー・ロビンソンにしかできない口調で言われた。「副詞を使用します。"そうだろう?" "そうだろう?" "そうだろう"? と言っているようね、その顔は」「あなたはとても表情豊かな顔をしているわね」。彼女の最後の言葉の毒々しい嘲笑を紙に書き写すことはできない。
私はこの下品な女を唖然としたように見つめた、自分がどんな犯罪を犯しているのか全く知らずに嘲笑したのである。くすくす笑いがクラス中にまき散らされた。私の魂はその残酷さと彼女の攻撃は不当で、今書いている間にも痛んでいる。私は今日、その女性に、こんなことを言ったことについて、私がどう思っているか、はっきり言ってやりたい。
何もしていない、何も言っていない子供に対しての言葉だ。このような侮辱は数多くあるが、しかしこれはそのうちのひとつに過ぎなかった。
3月、私はマルペケ(マルピーギともいう町)のエミリー叔母さんを長い間訪ねた。とても楽しいひとときだった。寂しかったりホームシックになったりした記憶はない。マルペケの人たちは社交的なことで知られており、いつもたくさんの人がいた。ジョン・モンゴメリ(叔父さん)はとても親切で陽気な人で、マギー・アボットという孤児の女の子はそこで育った私の仲間だった。マギーは18歳で、私たちは「仲良し」だった。マギーは18歳、不道徳な年代である。しかしマギー自身は気立てがよく、純粋で、感性豊かな人だった。アクティブな女の子だ。その冬から春にかけて私たちは「とても楽しい」時間を過ごした。
5月、家に帰ると前述したミス・ロビンソンがいなくなっていた。そして私は学校に行くことを許されなかった。これは賢明でない品位のない行動だった。祖父母の行動。祖父母の行為は多くの無用な苦痛を与えた。(祖父母がロビンソン先生を家から追い払った)
私はR先生のことが好きではなかったし、R先生もきっと私のことを嫌ったろう。しかし私は学校に行きたいと思った。勉強に興味があった。私は孤独で仲間との交際を望んでいた。私は多くのことを経験した。いつも難しい質問をされ悔しい思いをした。その夏は私にとって非常に不幸な夏だった。
ジョンおじさんとおじいさんの喧嘩は秋まで続き、その時二人は和解した。ジョン叔父さんは、この事件で全面的に非難され、正に最初から最後までその振る舞いは変わらない。しかし祖父の機転の利かなさが災いして喧嘩になった。そのせいで私たちはひどく不幸になった。
その年の夏から、私は音楽を習い始めた。我が家にはオルガンがなかったので、よく道路を隔てたところにある「ジミーおじさん」のところで練習するのだ。私の音楽の先生はスノーウィーというとても若い女の子だったのだが、教えるのは得意ではなかったが、天性の才能はあったのだろう。その後私は父と祖母からオルガンをもらいスパー夫人に習った。私はそのレッスンが好きだった。
レッスンはもちろん練習も嫌いではなかった。でも今となってはむしろ無駄なことだったと思っている。私には音楽の才能がなかったからだ。そして確かに私はこの時、多くの迷惑をかけずに済んだと思う。後年、少し弾けるという理由で強制されたり、不愉快で厄介な場所へ演奏に引っ張られたりしたことがある。
6月の学年末に、R嬢はもう1年残ることを約束した。私は絶望した。12歳のとき1年は永遠のように感じられた。それはもう1年も孤独と排除に耐えられないと思った。仲間との世界。しかし秋になって朗報がもたらされた。Rさんが新年で退職することになったのだ。私の人生は再び希望に満ち溢れた。新しい先生の降臨の初日には私はアマンダと同じ席に座り、とても幸せだった。それは私の単調な痛みと孤独の厳しい日々の中で、今思い出すと胸が痛くなる。その昔私はどんなに幸せだったか、そしてよくそうしていたことか。当時の私はそれを想像することはできなかった。今どんな状況でもそう感じることができる。
ハッティー・ゴードンは、イジーとはまったく違うタイプの女性であり、教師だった。彼女は欠点がないわけではなかったがが、ミス・R(ロビンソン先生)にはないレディだった。他の人にはない刺激的な個性を持っていた。
ゴードン先生。彼女は勉強すること自体が好きにさせる力を持っていた。学校生活という枯れた日常を、興味深く生き生きとしたものにする。彼女はなんという働き者だったのだろう。当時はそう思っていたが、今になってそのことに気がついた。
当たり前なのだが。私は彼女に共感し、励ましてもらったことに大きな恩義を感じる。ゴードン先生は、私たちの先生の中で初めて作文を書かせた先生だった。上級クラスの私たちは、毎週与えられたテーマについて、家で1つ書かなければならなかった。
あるときは自分で、あるときは先生が選んだテーマで。私はそれを楽しんでいた。しかし当然のことながら、ほとんどの生徒がこれを嫌がった。最も優秀な作品を書くという栄誉は作文はだいたいネイト・ロックハートと私の間で入れ替わっていた。私たちは金曜日の午後にはいつも暗唱があり、これもほとんどの人が恐れていたことだ。
しかし、私にとっては大きな喜びだった。私の柔軟な記憶力をもってすれば詩の一節を「暗記」して、それを朗読するのは劇的な喜びだった。ミスゴードンは通常の朗読に加え、台詞や歌のバリエーションを加えた。金曜日の夕方には、ちょっとしたコンサートを開くこともあり、とても楽しい時間を過ごした。台詞を準備する。これもいい訓練になった。毎年春に「メイフラワー・ピクニック」を開催していたのも、ゴードンさんだった。楽しいお祭りだった。学校は40人から50人の生徒がいる大規模なものだった。そのため、陽気で知的な刺激もあった。
キャベンディッシュ校は、今日私はこの施設をとても寂しく思っている。その数少ない子供たちがかわいそうである。

 

(左)ロビンソン先生は気位が高かったのか。また(右)ゴードン先生は実際的だったのか

この地区には10数校しかなく、その半分はフランス人だ。彼らは学校の子供たちが持つ、本当の、良い、健全な「楽しみ」を全く持っていないようだ。ゲームもしないし数も少ない。彼らは決してボール遊びをしたり、おままごとをしたりしない。そして彼らは以下のように上手に、あるいはたくさん学ぶことはない。私たちの時のようにに競争相手がいないからだ。
私がついに15歳になったとき、私は自分が15歳になったのだと思った。少なくともその前の数カ月は、おおむね幸せな日々だった。確かに私は社会生活はほとんどない。私はアマンダの家以外、どこにも行くことを許されなかった。
ペンシーのところ。それは文芸協会の華やかな冬の一つであったが、私はめったに会議に出席することを許されなかった。時々抗議して行かせてもらった。
そしていつも大いに楽しんでいた。ゴードンさんはこの文学会に積極的な関心を持ってした。その会合で、生徒たちに朗読するよう勧めていた。ついに私は朗読した。私は、もし今、ヨーロッパの王冠をかぶった人々の前で朗読するように頼まれたらどうだろう、と思った。しかし私はとても緊張していた。怖くてたまらない。私はどんなに心配しながらも、鏡の前で自分の選んだ「殉教者の子供」を練習した。コンサートの夜が来たとき、私はどれほど興奮していたことだろう。私はその夜のことはすべて覚えている。私はどんなに震えながら、私の名前が呼ばれたとき、壇上で私の声がどんなにかすれ、遠くまで聞こえたか。自分の耳で(確かめようとしたか)、しかし私の忠実なリハーサルのおかげで、他の人の耳にはそれはすべて正しく聞こえるようだった。
その夜ゴードン先生の他の教え子たちも何人か朗読した。私たちは彼女のトレーニングの信用を損ねたとは思わない。彼女は私たち全員を誇りに思っていたし。というのも彼女は自分のことを褒めることをためらわなかったからだ。私はまだ彼女が微笑んでいるのを(想像で)見ることができる。
その冬に着ていた茶色のベルベットのコートとスマートな小さなトーク(ニット帽子)に身を包んだ私たち。彼女はとても "ドレッシー"だと思われていた。私たちはその頃いつも先生がどんな服を着て、どんな髪型をしているか。ゴードン先生はきれいな人だった。色白でウェーブのかかった髪。彼女の顔は決して美人ではないが印象的であった。独特の面白い笑みを浮かべている。彼女はとても気性が荒く、ちょっとしたことですぐにカッとなる。
些細なことだが、しかし彼女は滅多に声を出さない。と不吉な沈黙が続く。しかしそれはすぐに過ぎ去った。彼女は決して嫌味や怨嗟の声を上げことなく。誰にでもあるような失敗もあったが、それを、「恨まれるようなことはない。
その冬、私はプリンス・アルバートに出かけるのを楽しみにしていた。モンゴメリおじいさん(ドナルド・モンゴメリ)私は当然ながら、大いに楽しみ喜んだ。私は汽車にも乗ったことがない。父にまた会えるということで、私の心はときめいた。その時、数回の(小)旅行で感じた印象でいっぱいだった。長町に住んだら、きっと天国だろうと思った。
8月に行った。往路は文句なしの喜びだった。私はその一瞬一瞬を楽しんだ。しかしプリンス・アルバートに着くと、その華やかさは消え去った。最初の数週間はホームシックに悩まされた。今思い出してもゾッとする。継母がどんな人かを知れば当然ながら郷愁を増やした。しかしいずれにせよ、私はおそらく痛烈に苦しむはずだった。
長く住んだ場所を深く熱く愛するのが私の性分だ。そこから離れると強い苦痛を感じるのだ。でもプリンス・アルバートが嫌いだったわけではない。最初のノスタルジアの鋭いエッジが消えた後、私はこの場所が充分好きになった。
私は高校があまり好きではなかった。マスタード先生はとても悪い先生だった。女子3人、男子6人という変則的なメンバーである。勉強する体制が整った。私はほとんどの科目で他の生徒よりはるかに進んでいた。しかし2つか3つ(の科目)は勉強したことがない。例えばあの学校では、何一つ価値のあることを学ばなかったと思う。しかし私は定期的に通っていれば、春までに教員免許を取得できたかもしれない。しかしブルース(継母の子)が生まれてから後、私は全く行けなくなった。
私はマスタード氏を仕事上も個人的にも嫌っていた。軽蔑の念を抱いたというのが正しい。いつも嫌な気分にさせる。彼は私に恋をして結婚を申し込んできたことを思い出す。私はそれが褒め言葉だとは全く思っていない。彼は私たち女子が率直に言うように「私は、彼の不器用な態度に、自分よりもずっと恨みを抱いていた。嫌われたことに腹を立てたのだろう。
継母の家では私はあまり社交を好まなかったし、喜びも見いだすことができなかった。継母の母親であるマクタガート夫人は、親愛なる年老いた魂の持ち主だったが、それ以外の人たちだ。イーディス・スケルトンは陽気な仲間で、彼女が去った後、プリチャード家は私の友人となった。私が大切に思っている唯一の人たちだ。ローラの友情は私にとってとても大切なものだった。その年ウィルもそうだった。私たちは幸せで楽しい時間をたくさん過ごした。青春の淡い喜びに包まれて。ローラと二人で過ごした数日間。農場は私の西部滞在の中で最も輝かしいものだった。
(翌年のであろう)9月、私はプリンス・アルバートからオタワまで、一人旅をして帰ってきた。16歳の女の子! どうしてそんなことをしたのか自分でもよくわからない。でも私は少しも(まずいと)感じなかった。出発するとき、私は前途に失望し警戒した。そして私はうまくやることができた。私にはその時は気合と度胸で、楽しく帰路についた。
ゴードンさんはまだC(キャベンディッシュ)校で教えていた。他の元生徒たちも(先生を)手伝ってコンサートは成功した。とても楽しいひとときだった。
その年の冬、祖母は1週間パークコーナーに行った。彼女は一日以上家を空けることはなかった。彼女がいない間私は家を守っていた。というのも祖父の振る舞いは、ある面では楽しいものではなかったからだ。不条理としか言いようがない。いつもイライラして理不尽なことばかりしていたが、祖母が不在の時は、いつも以上に有能だった(理不尽な態度が増したという事)。祖母がいないと彼は寂しかったのだ。それは当然のことだが、彼の気性の激しさや焦りに対する言い訳にはならない。
私が何をやっても彼は喜ばなかった。がんばっている人たち(使用人)が経験不足でちょっとした失敗をすると、まるで私が失敗したかのように、怒鳴り、嘲笑した。本当に恐ろしい許しがたいことをしたのだ。私は彼の口調、表情が忘れられない。
もっと楽しい時の彼を思い出そうとしても、このようにより深く刻まれた印象は、他のすべてを消し去ってしまうかのようだ。彼の最も深くランク付けされるのは(一番いやなところは)不公平感だ。私が本当に悪いことをしたなら、そのためにどんなに厳しくされても、その時は嫌な苦い思いをするかもしれないけれど後には何も残らない。しかし、些細なミスに嘲笑を浴びせかけられると、その些細なミスが原因で(後まで厭な記憶が残る)。
例えば、ハムの切れ端を火にくぐらせてしまったとか。古くなった鉄棒を回すと、苦い思い出が残る。それがいまだに消えない。祖母が帰ってきたとき、私は本当に嬉しかった。
それから私はパーク・コーナーに行って、クララ、ステラ、ジョージの3人に音楽を教えた。彼女たちのレッスンは嫌いではなかったが、私は何もできなかった。ジョージは甘ったれで、強情で、機嫌の悪い子で、そのような性質があるためか、「お姉さん」と呼ばれていた。これは両親の無分別な甘やかしによって、さらに激化していた。
週に一度は嫌な時間があり、それ以外はみんな私たちの時間を心から楽しんでいた。今となっては粗雑で軽薄な遊びのように思えるが、それで満足していた。
私は17歳になった。クララ、ステラ、私の3人は、ちょうど異性に興味を持つ年頃だった。後にも先にもないものだった。私たちにはそれぞれ2人か3人の「恋人」がいた。会合から「家まで」見送ったり、ドライブに連れて行ってもらったり、愛想のないわけでもない。私たちの好意をめぐって、互いにライバル心を燃やしたのだ。私たちはそれを喜んでいたのではないかと、とても残念に思う。このようなことで、私たちがどれだけその少年たちのことを話し、「彼は言った」「彼はやった」が私たちの会話の中で大きな割合を占めていた。私たちも、そのことでからかわれた。それはすべて非常に愚かで無害だった。愚かなものが本当無害なのか、私は疑問に思う。もっと賢明な訓練と環境が違えば、この愚かな時代から救われたかもしれないがそうではないかもしれない。
私はその後、両方の利点を持つ少女たちに、同じように強く現れるのを見た。(賢明な訓練と環境を持っている子にも恋遊びが現れてしまう)それは自然な発達の一種であり、そこから逃れられる女の子はほとんどいないようだ。いずれにせよその冬、私たちはその真っ只中にいたのだ。
6月の初めに帰ってきて、1週間は寂しかったがまた元の生活に戻った。もう一度楽しい夏を過ごしたが、悩んだこともあった。
勉強の時間だ。9月、ようやく祖母の承諾を得ることができた。P.W.C.(プリンス・オブ・ウェールズカレッジ、師範学校)に行き、教員免許を取得するために勉強することにした。
その年、セレナ・ロビンソンがここで教鞭をとった。彼女は個人的にはなかなかいい子で私たちは仲良しでした。しかし彼女はとても下手な教師だった。もし私がその年、家にいて独学でやっていれば、それなりにうまくいっただろう。私は学校に行くのがあまり好きではなかった。学校。私にはキャベンディッシュ・スクールらしくないように思えた。昔の仲間はほとんどいなかった。しかし学校の外では、楽しい冬を過ごした。星のような希望の輝きで嫌なことは見えなくなり、小さな友人と義務の輪ができた。その時、私を満足させたのは 文芸協会と祈祷会だけが唯一の「社交行事」であり、荒天の場合は大きな失望とみなされた。夜間はどちらか一方に限定されていた。だから私は二重生活を送っていたのだ。多くの人がそうであるように、勉強や仕事といった外向きの生活と社会的な交流、そして夢や願望といった内面的なものだ。
7月、私はPWCの入試を受けるために街に出た。不安な時期であった。自分の将来がすべてそこにかかっていると確信していたからだ。そして受験が終わると3週間も結果を待つのは、もっと不安な時間だった
私は合格するはずはないのだ。算数で失敗したのではと...。と確信するまでになった。算数は「重要」な科目の一つだった。この科目で失敗すると他の点数がどうであれ、「不合格」なのだ。
そしてある日、長い苦悩に終止符が打たれた。合格者リストと一緒に(合格者リストの載っている)新聞が出たのだ。私は見事に合格していたのだ。なんという安堵感だったろう。そしてその夜、なんと幸せな少女が海岸まで踊りに行ったことだろう。私は、このようなことは今はどんな状況であれ、あの時のような気持ちになることはできないだろう。若さだけがそう感じることができるのだ。
9月、私はP.W.C.に行った。それは私の人生で最も幸せな年だったと思う。とはいえ晴れやかなことばかりでもない。下宿ではとても貧乏だった。私の部屋は食事のときはとても寒く、食卓は想像以上に貧弱だった。

(下宿屋)のマクミラン一家は最も下品で育ちが悪い人々で、その大多数の下宿人は自分たちの階級に属しており(下層階級)、そのためこのような弊害が生じるのだ。その場所全体の雰囲気は人生の形成期にある若い娘にとって、可能な限り最悪の事態であった。
しかしこれらの欠点は、私のP.W.C.時代をそれほど暗く曇らせるものではなかった。私はまだこのような環境での生活がどのようなものであるかを理解するには、あまりにも若く未熟であったという意味であり、物質的な困難は我慢して耐えていた。
一時的なものだと思うかどうかで、こんなにも違うものかと思う。一時的なものだと信じることができれば、どんなことでも耐えられる。メアリー・キャンベルと私は艱難辛苦の中から限りない楽しみを見出したのである。ある日メアリーがよろめきながら部屋を横切り気絶したふりをした。枕元にきれいなスリップが落ちているなんて、めったにないことだよ。
しかし、私の大学生活には何の問題もなかった。すべてが楽しくて、私は旧制大学で過ごした全ての時間が幸せだった。幾何学的な授業。勉強は楽しかったし、よく勉強した。しかし、残念なことに一年が終わると、当時は試験に関して非常に野蛮な習慣があったのだ。今でこそ同じだが、しかし当時は大学受験と「免許」試験は全く別のものだった。年末には2週間の大学受験があり、大変だった。そして疲れきって、疲労困憊しているところに、またもや全範囲をカバーするために1週間の息つく暇もない「免許試験」。
この年の免許試験はとても難しく、多くのキャンディから合格率はとんでもなく低い。あの不安は一生忘れないだろう。
追い込まれた1週間だった。どんなに楽しくてどんなに不可能に思えたか。しかしついにそれは終わり自由になり。私は家に帰ったが、なんだか不幸で不安な夏を過ごした。それはとても学校を確保するのは難しい。田舎には教師がうじゃうじゃいて、特に多くの受験生が失敗し、「三流」(1回の教員試験で受からなかった人たちか)と呼ばれる人たちが放逐された。
というのも、「補填」(何らかのボーナスか)なしでも(三流教師が)喜んで学校を受けるからだ。直接応募しない限り、個人では学校を得るチャンスはほとんどない。これは私には到底無理な話だ。祖父は学校を確保するための援助は一切してくれなかった。馬を使ってその地区まで行く援助。私は願書を書くしかなかった。何十通も送っては、何度も何度も苦汁をなめたものだ。
ようやくビデフォード校(での仕事)を手に入れたのは7月末だった。なんという安堵感だろう。私にとっては 仕事が楽しみで楽しみで! それは素晴らしいことだ。その時の私にとって、それは実際よりもずっと大きなものだった。胸がいっぱいになって、勇気と野心を胸に、私はトランクに荷物を詰め込み、ビデフォードに向かった。
最初の1週間は惨めなものだった。私は苦しく、ホームシックになり、私は下宿を探すのが大変で、落ち着かない。私の学校は整理整頓されて運営されていた。私は恐ろしい疑惑に襲われた。せっかく教師になったのに、教師が嫌いになりそうだ。
私は毎晩学校から帰ると、とても疲れていて、がっかりしたものだ。心の病で涙が出るほどだった。しかしそれも過ぎ去り、その(最初の)1週間を除いて私のビデフォードでの1年間は幸せで、希望に満ちた楽しいものだった。学校では一生懸命に働いた。私は熱狂的で、多くの「理想」を持っていた――それは、(生徒との)接触によってかなり苦しんだ。
しかし、私は彼らに対して、また彼らは私に対して、決して完全に偽りの存在ではなかった。私は大きないや、大きすぎる学校を持っていた。特に夏には。初等科には21人の生徒がいた。(当時としては大きい)1クラスだけだ。しかし生徒の大半は親切で愛すべき人たちだった。彼らは私を好んでくれて、そして私が「スクールマーム」として成功したことを知るサティス派(サドカイ派のことか)もいた。
下宿先にも恵まれた。そこは快適な部屋おいしい料理を提供し、洗練された交友関係を築いた。エスティ夫人は親愛なる人だった。彼女は16歳にもかかわらず年上の私たちは「仲良し」だった。私はエスティ氏が好きではなかった。そしてはっきり言って本当は奥さんにも嫌われていたと思う。しかし彼はあまりに頻繁に、そして長く不在だったので巡回訪問ではほとんど意味をなさないように思えた。彼はEさん(エスティ夫人)との間には、あらゆる点で愛情も仲間意識もないように思えた。
二人は彼らはお互いを "ミスター"、"ミセス"と呼び合っていた。二人きりの時もエスティと呼び、ミセスエスティーの前では、自分らしく振舞うことができず、好感も尊敬も抱かなかった。彼は利己的で、教養がなく、気性が荒い男で、過去にも、そして現在も、彼はほとんどすべての回路でトラブルを抱えている。しかし私が言ったように彼が不在の間、M.S.E.(エスティ夫人)と私はとても幸せだった。
この冬の最悪の欠点はいつも通学路が悪いことだった。その冬は大量の雪が降った。移動は全て雪道なので、道路が通れることはなかった。川の氷を利用したものだった。特に冬になると散歩ができなくなる。春になると雪が解け、腰まで濡れて学校に着いたこともあった。
社交界では楽しい時間を過ごすことができた。Lou.Dとは楽しいドライブと外出をした。しかし私はいつも彼と一緒に行ったことを後悔している。彼は結婚していない。去年の秋に街で会ったときはほとんど何も感じなかった。彼はとても老けていて疲れているように見えた。彼は私と一緒にバーティーの家まで歩いて行ったが、門の前で別れるとき彼はコートの襟をめくってその下にあるものを見せてくれた。小さな「ボタンピン」には、私が渡した写真からコピーした自分の(モードのであろう)写真が貼ってあった。
そこを去るとき私は彼に、彼がこのようなことをするのは反対だと言う勇気がなかった。見えないところで身につけている。でも確かにその発想は好きではなかった。しかしたとえそれが見られても、もう誰もわからないだろうからどうでもいいんだろうけど。しかし私を通して彼の人生が不幸になったことは問題だ。
しかしビデフォードの時代には、こんなことは予想できなかった。私はただの不注意な若者で楽しいことや戯れることが好きな少女のようなものだ。女の子と女の子は田舎では親密な関係だった。仲良くドライブしていたのだが、その時は意味がなかった。何もない。今となっては良い習慣とは思わないが、当時は単純に受け入れていた。
そう、あのビデフォードの一年は、学校に関しても私に関しても、楽しい一年だったのだ。社会生活。それは自分では気づかないうちに、私の人生最後の幸せな年になっていた。
ビデフォードからハリファックスに行き、ダルハウジー・カレッジで1年間学んだ。本来なら芸術課程の全課程を履修することを切に望んだ。しかしそれは問題外だった。私にそんな余裕はない。だから1年間の特別コースで満足するしかなかった。熟練した経験からくる洞察力で自分の人生を振り返ってみると、私はダルハウジーに行ったのは間違いだった、時間とお金の無駄だったと思う。
その1年間は、教育的価値という点では何ら良いものは得られなかったと思う。しかしその時はそうとは思わなかった。私がダルハウジーに行きたいと思った理由は2つある。その中で、おそらく2番目の理由が、より強力なものであったと思う。そもそも英語、語学などの専門コースがあると思った。作家を目指す私にとって英語、語学などの専門課程はよりよいものを得るために役立つと思ったからだ。
そしてもうひとつは、何とかしてハリファックスにいる間にこの国のジャーナリズムの世界に入り、「新聞社に就職する」とかそのようなものだ。この希望は裏切られた。そのようなチャンスは訪れなかった。そして大学での授業に関して、私はそこから何か良いものを得たとは思えない。(成功する前のモンゴメリはあれこれ迷っていたんですね)
その孤独の中で、どこかの田舎の学区で本とペンで得た金で(大学に行っても)、安く知識を得ることができなかっただろう。もしそのお金でイングランドとスコットランドを安く小走りした方が(旅行して知識を得たほうが)はるかに価値があっただろう。私にとってはその方がより価値のあるものだった。しかし私の故郷の人々は皆、私を狂人だと思ったことだろう。そんなことをしたら、自分が自分でなくなってしまう(ではないか)と思っただろう。
私はレディース・カレッジの寄宿舎があまり好きではなかった。それまで慣れ親しんでいたこの2年間(教師時代)は個人の自由度が高かったので、その制約を煩わしく感じていた。女性的な雰囲気で息苦しくなった。その中で私の身近な人たちはそこそこ好きだっが、その中で本当に和気あいあいとした仲間はミス・クラークで(大学に行っても)、私にとって唯一の真の友人だった。私は本当にくつろぐことができ、本当の満足感を得ることができた。しかし私はその年多くのことがあった。楽しめなかったからその年を残念に思っているわけではない。
無駄な一年だった。それは単に私を何ら進歩させなかったと思うからだ(新しい知識は得られなかった)。しかし私には楽しい思い出がたくさんあり、それはやはり一生の財産になる。
帰郷後、私はまたもや憂鬱な夏を過ごし、むなしく就職活動をした。学校。ダルハウジーでの1年間が何らかの助けになることを期待していた(箔がついたとでもいうのか)。
この点については しかし、そのようなことは多くの先生方の前では(多くの志望者がいる中では)何の役にもたなかった。
個人で申請する。ベルモント(の学校の職)を手に入れたのは、秋になってからだった。その年は、エドウィン・シンプソンとの不幸な婚約を別にしても、私がこれまで生きてきた中で最も困難なこだった。1年というのはあらゆる面で大変なものだった。私は私の学校は好きではない。生徒の大半は粗野で育ちが悪く、無知な小心者だった。教えることが楽しくもなんともない生き物だった。もちろんいくつかの例外(見込みのある生徒)はあったが、実際にはごくわずかだった。学校は大きく仕事も大変だった。私の生徒の中に、1年目から通わせなければならない生徒がいた。(通学させるように指導しなければならない生徒か)これは私にとって多くの労力と心配を意味する余分な仕事だった。もちろん、一銭の追加報酬もなく、その後にわかるように、感謝の気持ちもない。
私は、ほとんど社会生活(社交)を営んでいなかった。シンプソン、キャンベル、アラン・フレイザーの各家族は、というのも、私が付き合うと楽しいと感じるのは、それくらいしかなかったからだ。それ以外の人たちはベルモントの人々は、非常にカーストの低い(氏族のような名家ではない)人々だった。私は貧しい下宿で、寒い貧しい食卓を、粗野で無教養な人たちに提供した。健康状態もよくなかった。毎日が徒労の日々であった。しかし私の精神は衰えることがなかった。この先にはもっといいものがあるはずだと、きっとあるに違いないと信じてそれに向かってもがいた。
春になると、婚約間違いの苦しみがやってきてあらゆるものを飲み込んでしまった。それは、ブヨに刺されたときのような恐ろしい痛みが、他の病気を消してしまうようなものだ。(私にはエドウィン・シンプソンの体質は耐えられない)丸一年間、私はこのような心の苦しみの中で生活した。もう二度と、この数年間のその記憶は、全く鋭さを失っていない。
ベデックでの一年!(モンゴメリがベルモントの次に赴任した学校)奇妙な年だった。狂おしい情熱の年だった。そして私はどんなに苦しんだことか "見知らぬ人を愛する" それはまさに拷問だ。それでも私はその愛が私にもたらした苦しみにもかかわらず、私はその愛を後悔していない。私は申し訳ない。その苦しみには、野性的で強烈な甘さがあり、それはいつしか思い出すと、私の他のすべての平凡な幸せよりも、もっと大きな意味がある。
(これにて私の)人生をまとめた。むなしい恋は苦いものだ。しかし愛のない退屈な人生はそれは最悪の事態である。

1910年2月7日(月曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
もしそれが可能なら......何か私に提供できることはないだろうか? この一ヶ月をもう一度生きてみたいという気持ちにさせる。おそらく2つのうちの1つがある。それが十分な力を発揮してくれるかもしれない。しかしたとえ私が最も強烈なものを提供されたとしても、生活を耐えるための報酬として、私の最も大胆な夢のような完璧な幸福を得ることができる。というのも、実際のところ、私はこのようなリスクを冒すことをためらうからだ。
  発狂せずに生き抜くことができた。
  「私が恐れていたこと」が私に降りかかってきたのだ。(不安神経症の発作が起きたのか)
身体も魂も精神も完全に崩壊してしまったのだ。恐ろしいほどの苦しみ特に最初の2週間は、思い出すだけでも恐ろしいほどだ。血の気が引く思いだ。私は神様に感謝しする。狂気の傾向がある。もしそうだったら私の心は折れていただろうと思う。絶望的だ。(神経の疲労と思われる)
前回のエントリーの後、それはとても突然にやってきた。新しい、恐ろしい心配事が、一週間か二週間、私を苦しめたことがこの危機を招いたのだろう。いずれにせよ、私は完全に壊れた。
眠れなくなったのだ。1週間はほとんど眠れなかった。あのときのあの眠れない夜と、そのあとの日々の苦しみ。それから2週間、私はというのも、この間睡魔に襲われたからだ。しかしこの一週間は、またかなりよく眠れるようになった。
昼は夜より一段とひどかった。私は食べることができなかった。一口一口、無理に飲み込まなければならない。仕事もできないし、考えることも、読むことも、話すこともできない。私は手足が疲弊して動かなくなるまで部屋を歩くことでしか耐えられない。これまで私は、同じような神経発作があっても、自分の状態を祖母から隠すことができた。
しかし今回はそれが不可能であることがわかり、結果的に心配し、この老人の警戒心は私にとってさらなる惨めなものだった。私は家に人が来るのを見るのが恐ろしくなった。人が来ても私はじっと我慢しなければならなかった。死んだほうが楽だったかもしれない。それはただ意志の力によって、私は自分の心を十分に集中させ、理解することができた。そして彼らが去った後、私はかつてないほど悪化していた。
ある日は、少し気分が良くなって、自分自身を強制的に動かすことができるようになった。やらなければならないことがある。他の日は憑かれたように床を歩くだけだった。
誰もが私の悪魔のような惨めな姿に気づいたが、その原因は顔面神経痛は、確かにひどく苦しんでいたが、それは神経の苦しみに比べれば、とても些細な病気に思えた。
私は死んでしまいたい、人生から逃れたいと思っていた。生きていかなければならないという思いは私が耐えられないくらいに。私は将来に対する病的な恐怖に取り付かれているようだった。どんな状況で自分を描いても(想像しても)苦しんでいる自分しか見えない。耐え難いほど。地獄とは「希望が排除された世界」と定義されていると聞いたことがある。
そして私はその3週間地獄にいたのだ。私には希望がなかった。希望もなく苦しみから逃れることができず。その苦悩の中にいなければならないように思えたのだ。永遠に。
これは神経衰弱のごく一般的な症状で、最も厄介なものだと思う。最も耐えがたいことだ。どんな痛みでも、「そのうち治る」と思えば、耐えられるものだ。しかしそれが決して過ぎ去ることはないと確信したとき、それは耐え難いものだ。あのひどい時期の私の苦しみは、100ページでも書ききれない。
私は自殺に追い込まれる人がいるのも今ならわかる。私はシンプソン博士のところに行き、不眠症と神経症に悩まされていることを告げた。
mes。この薬はすでにかなり役に立っている。この発作の引き金となった心配事も一部取り除かれたので、気分は上々だ。回復しつつある。また仕事ができるようになった。しかし私はまだ、そして何日かはとても惨めな日々を過ごしている。ああ、もしフリーデに少しでも会うことができたら数時間彼女と "話し合い" をするんだ。でも彼女はケープ・トラバースにいるのだ。この冬は会えない。
私はこの日記最後のページに来て、まるでこの本を読んでいるような奇妙な後悔を感じている。本当の旧友や親友と別れること。この日記は友人であった。私はこの日記がなかったらつぶれていたかもしれないと、本当に思う。これはかなり悲劇的なことだ。
(リーガル日記の第二巻)、この日記では(表)表紙から(裏)表紙まで不幸の記録である。始まりは私がエドウィン・シンプソンと間違って婚約してしまったところだ。最近聞いたところによると現在も(エドは)神経衰弱に悩まされているそうだ。
この日記の巻を書き始めたのはほぼ13年前である。今それは終わった。ほとんどの点でつらい13年間であった。しかし、私は文学(者であること)を獲得した。成功や名声を得ることができ、また困難であった分有益であった。多くの点で。周回遅れの教訓は他の方法では得られないものであった。
もし私がもっと幸福であったなら、苦痛という刺激を受けずに、これほど高いところに登ることはできなかったかもしれない。しかし気分転換に小さな幸せが欲しい。それが私のものになるかどうか私にはわからない。今、私はあまりに[落胆して]その望みを持てない。さようなら古い日記。あなたはこの長く厳しい、孤独な13年間ずっとほとんど唯一の慰めであり避難所であった。
[この項終わり]


備考
1889年
9月22日 a simpson ... a macneill. ルーシー・モード・モンゴメリーの家族の誕生木は、結婚についてキャベンディッシュの証拠を示しています:彼女の母親は、マクニールは曽祖父のジョン・マクニール(曽祖父の一人)が、シンプソンの娘と結婚し、キャベンディッシュに住み着いた最初の3人です。シンプソン(3人の初期入植者のうちの1人)、また一連の流れでシンプソンとマクニールのいとこ同士の婚姻。ルーシー・モード・モンゴメリー(Lucy Maud Montgomery)は母方の祖父母であるアレクサンダー・マクニールとルーシー・ウールナーと共に暮らした。
10月22日 ミス・ゴードン、L.M.モンゴメリが捧げた「Anne of Avonlea」(1909年)、New-erthのHattie Gordon Smith(キャベンディッシュの教師)。 1888年から1892年まで。
10月24日 UNDINE(ウンディーネ)(1811年)。バロン・ド・ラ・モットによるロマンスFouqueは、質素な家庭に不思議な形で持ち込まれた妖精の子を描いた作品です。ネイトは、ノバスコシア州の教育者であり詩人でもあったA.J.ロックハート博士の甥にあたります。祈祷会とは長老派の週半ばの礼拝で、讃美歌と聖書の朗読がある。
11月13日 CARRUTHERS. James Carruthers牧師は、24マイル離れたシャーロットタウンのSt.James Kirkの牧師であった。James Kirk, Charlottetown, 24 miles away, 。 the hall. Cavendish Hall(キャベンディッシュ公会堂)には以下のようなものが入っていました。貸出図書室、文芸協会(1886年設立)、コミュニティコンサートの開催などと公開講座のご案内などです。
11月23日......子供の殉教者、このリサイタル作品はメイ・アンダーソン著「父の隠れ家を守るスコットランドの子どもたち」。を守るために死んでしまう。この詩はシューメーカーズ・ベスト・セレクションズに掲載されている。 (Philadelphia:Penn,1884)の演奏曲集。ほとんどの雑誌に掲載された朗読は、本書または同等のアンソロジーに掲載されています。 本土やプリンスエドワード島の学校で使用されている教科書に、例えばロイヤル リーダーシリーズ(London: Nelson, 1876)。
11月27日 COURT. モックトライアル、で正式な証言は、ミス・ゴードンの教育学上の工夫であった。プリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ

1890年
2月17日の迷信。この求愛の儀式は暗黙の了解で、プリンスエドワード島では少年少女が握手するというのはイギリスでは認められない。1890年代のアメリカではそれは「天使と聖職者」である。女性が握手するのは良い習慣ではありません。 "恩寵が私たちを守ってくれる!" ハムレット、I,iv,39.
2月19日 MRS.spurr. 洗礼者、牧師の妻、ネイト・ロックハートは先妻との間の息子である。モントリオールWITNESSです。
学校のエッセイコンテストは、モントリオール・ウィットネスとカナディアンで毎年開催されていました。
ホームステッド(1845~1938)は福音主義者、親テンパランス、反カトリックのJohn Redpath Dougallが1890年に編集した週刊誌。
ケープ・ルフォールスにては、1909年6月3日のエントリーを参照。ヤンキー・ストーム、1851年10月に嵐がキャベンディッシュ付近で70隻以上のアメリカのスクーナー船を破壊した。を参照。1909年6月3日の項目。モンゴメリは『黄金の道』(1913年)でこの物語を再話した。ザ・マルコポロ、1883年7月25日に難破した、当時最速の帆船。 LMMのエッセイは、1年後の3月11日付の『シャーロットタウン・パトリオット』に掲載された、1891年、「マルコ・ポーロの難破船」として、カナダ賞受賞作に収録。「モントリオールの目撃者」。の日記で長々と語り継がれています。
1909年6月3日 2月27日 EIGHT-HAND REEL(エイトハンドリール)。スコットランドの伝統的なカントリーダンス。キャベンディッシュのバプテストのコミュニティは、パーティーでこのようなことを容認していなかっただろう。
ジューズ・ハープ(JEW'S HARP)。竪琴型の小さな楽器を口元に持っていき トワリングサウンド4月10日サンドショア。白い海のビーチのためのローカリズム。
4月18日 レシプロ(reciprocity)。カナダとの間の輸入関税の減免措置とアメリカとの対立は、燃えるような政治問題であった。1891年の選挙では、保守派 (ジョン・A・マクドナルドの時代)は、自由党(ウィルフリッド・ローリエの時代)を攻撃することになる。アメリカがカナダを併合することになると考え、相互協定を要求していた。4月22日 モンゴメリーおじいちゃん、本名ドナルド モンゴメリ(1808-93)はプリンスエドワード島の政治的権力者であり:メンバーであった。州議会(1838-62)の議長に就任し、初期の議論に参加した。コンフェデレーション(各州を統合して連邦政府を作る会議)について。オタワでカナダ上院議員になる。コンフェデレーション後5月13日「メイフラワーピクニック」。を集めての社交場。 trailing arbutus or ground laurel:「Dictionary of Canadianisms」に掲載されている。
"マリテーム、オブス" ジョリー 1 the SWEDISH wedding march. という名声が定着した。「スウェーデンのナイチンゲール」ジェニー・リンドがスウェーデン音楽を広めた時代である。スウェーデンの結婚式では、ルター派の牧師が威厳ある行進曲とフォークダンスを先導した。
"火のついた船" チャールズ・マッケイのこの詩は、『ベルズ・スタンダード』に掲載されている。 Elocutionist (London: Hodder and Stoughton, 1885)を「Recita tion for junior」として出版しました。「pupils」です。エキサイティングなストーリーは、大部分が台詞で表現されています。
7月26日 HUNTER RIVER PEOPLE(ハンターリバーピープル)。最寄りの鉄道の町から、内陸へ17マイル。CAWNPORE。A キャベンディッシュ・ビーチの一部で、漁師小屋があったところから名づけられた。
1857年、インド反乱での戦い。7月31日 Devereux. ゴシック小説(1829年) Edward Bulwer-Lyttonによる、ルネサンス期のイングランドにおける若い愛と政治についての作品。
8月8日 acadia college. ノバスコシア州ウォルフビルにあるバプティスト大学。ネイサン ロックハートは、33人の新入生の中で唯一のPEIからの留学生でした。
8月9日公園の角にある。クリフトン、キャベンディッシュから西へ13マイルの村。ルーシー・モード・モンゴメリの生家は現在ニューロンドンの一部になっている。これはPEI100周年記念事業として復元されました。
スピリット・オブ・ザ・デパテッドの物語 モンゴメリの『アボンリアのアン』(1909年)、『ザ・ストーリーガール』(1909年)には、「呪い」が登場する。少女』(1911年)、そして多くの短編小説に登場する。
8月11日 ケンジントン の パークコーナーの最寄りの鉄道駅。島は鉄道に恵まれすぎていた; 鉄道の負債により、PEIは1873年に連邦制に移行することになりました。島の鉄道は、政治家や企業の幹部が使用する優雅な列車を整備していました。
SIR JOHN. サー・ジョン・A・マクドナルド(1815-1891) 1867-73年首相、1878-91年、1854年から保守党の党首を務める。保守党の一人。
サマーサイドからトーメンティン岬までのフェリー。に列車車両を積み込みました。ノーサンバーランド海峡を渡るフェリー、
サルベーションアーミーバラック 陸軍は1885年にマリタイムズに「侵攻」し、シャーロットタウンの両方に軍団を設立したと1886年のSummersideを紹介。
8月12日 ST. JOHN。ニューブランズウィック州の分岐点、タイ・カナディアン・パシフィック鉄道のハリファックス線とモントリオール線にある "YANKEE" です。

ロングフェローの作品に興味を持ったアメリカ人観光客がマリタイムズを訪れました。エヴァンジェリン(1847年)。モンゴメリの小説では、アメリカ人女性はホワイトサンズホテルコンサートの出演者として優雅に登場します。
8月13日 ST.ローレンスホールメジャー、このホテルは、モントリオールにある新しい豪華なウィンザーに負けそうになっています。 1890年、電気 1885年にシャーロットタウンで電灯が使用されるようになりましたが、1891年当時、島の他の地域には電気がなく、一部の農村部にはまだ電気がなかった。第二次世界大戦後まで電気を弾かなかった。
8月14日 STREET CAR。路面電車の路線は 1875年までにモントリオールのダウンタウンの道路に敷設された。
8月15日レディースパーラー 優雅な内装の鉄道車両で、乱暴な言葉遣いで喫煙や唾を吐かないようにするために設けられたと、
ハイ・チャーチ、英国国教会ではまだ次のように考えられていました。 カナダでは「エスタブリッシュド」教会と呼ばれています: 長老派は以下のような違いがありました。アングリカン、特にハイチャーチ・アングリカン(高教会派)とは教義と儀式の点で対立していた。1890年のPEIでは、長老派が約3万人、英国国教会が5千人だった。
"blow soft o'er ceylon's isle"(セイロンの島をやさしく吹いて)。From Greenland's Icy Mountains "の一節、 レジナルド・ヘバー司教(1783-1826)の賛美歌。"ザ・クロックメーカー" です。T.C.ハリバートンの 風刺小説『時計屋』、あるいは『サム・スリックの言行録』。
スリックヴィル―1836年にハリファックスで最初に出版され、多くの英米人が参加した。ヤンキーとカナダ人海兵隊員のモックに続く編。
8月17日 ウィニペグ、マニトバ州の州都で、1890年の人口は25,000人。
8月18日 レジャイナ、1890年当時の人口は約9,000人で、レジャイナはそれまで1885年以来、ノースウエスト準州の政府である。(サスカチュワン州は1905年まで準州であった)
父である。ヒュー・ジョン・モンゴメリは、それまで家屋調査士、競売人、不動産販売人、権利購入者
1881年からバトルフォードとプリンス・アルバートで、レジャイナ―プリンス・アルバート鉄道のために。
8月20日ダックレイクへのアクセスを可能にする、レジーナの北にあるスパーラインの終点。北西のエドモントンに向かって、この町はルイスの集結地であった。
1885年の反乱でリエルとガブリエル・デュモンが。MR. MC TAGGART(エムシー・タガート)。元々オンタリオ州キャニントン出身、ジョン・マクタガートはLMMの継母の継父である。
プリンス・アルバート、1866年に長老派の伝道所として設立され、ハドソンズの1890年の国勢調査では、人口1,090人で、ベイカンパニーの要塞は含まれていない。
西のインディアン居留地 BATTLEFORD、別の終点にある小さな町 レジーナからの支線、LMMの父親が一時的に赴任していた。
プリンスアルバート出身 8月23日高等学校。1885年、長老派は、無宗派の共学高校を開校し、その校舎は1890年春に火災で焼失、町役場に仮住まい。メアリー・アン・マクレー(継娘 ジョン・マクタガートの継娘)はLMMとその同級生に仕えた。HISの妻である メアリー・アン・マクレー。
9月1日 MR.マスタード ジョン・アレクサンダー・マスタード、から オンタリオ州スコット・タウンシップは、LMMの継母の元同級生で、卒業後LMMに入社した。1889年トロント大学卒業(B.A.)。教員免許を取得。とともにプリンスアルバート領内には普通の学校はなく、教員免許を得たら直接教員になることができた。
9月3日 ウィリアム・マック・ケンジー(1849-1923)。の鉄道王。カナダ北方鉄道の社長である。彼の一家がトロントにやってきていた。
1890年9月2日、アルバート公は、ヴェルサイユ宮殿の開館記念式典に出席した。
レジーナからの旅客サービス。彼はLMMの継母の叔父である。1891年 一家は名前の綴りを「Mackenzie」に変更した。
ニッチー(NITCHIE)。アン オジブワ語の "anishinabe" のようなアルゴンキアのインディアン用語で、友人という意味。

インディアンの蔑称で、「ニッチー・ジョー」という登場人物の名前はモンゴメリ小説に出てくるインデアンの名前として唯一無二の存在です。草原を舞台にしたモンゴメリの物語:「平原のタニス」1902年執筆
1914年、カナダの雑誌に掲載された。メッツの家族を紹介したものである。デュモンという名のインディアンの血。憎むべき」混血児への言及で明らかになる 残る偏見
1884年、ルイ・リエルはプリンス・アルバートに招かれやってきたが、バトシュでの小競り合いの後、彼の軍に合流することはなかった。
9月19日 BERTIE JARDINE. 長老派のロバート・ジャーディン博士(M.A.、D.D.)の息子。牧師。
フリーメイソンの部屋、オンタリオ州のオレンジ・ロッジと同様にフリーメイソンの秘密結社は、反カトリック感情と結びついていた。LMMの の父はキニスティン・メーソン・ロッジに所属していた。
10月6日 DOUGLAS maveety. プリンス・アルバート・タイムズの創刊以来発行しているJ.D. Maveetyの息子。
1882年、彼は「カナダ」の提唱者であるチャールズ・メアによって、プリンス・アルバートに引き寄せられた。「ファースト」(最初の入植者)です。
10月20日 EDIEが行った。エディス・スケルトンは、バトルフォードに戻り、モンゴメリー家の家事手伝いなし
11月16日 EVANGELINE。ロングフェローの詩に追放されたフランス語圏のアカディア人を題材にした物語詩。 1755年、グラン・プレ(ノバスコシア州)。
この時、LMMはケープ・ルフォース号を書きました。 story:12月7日のエントリーをご覧ください。
11月19日 エロキューショニスト トラベリング 朗読劇の演者は、複雑な修辞芸術を実践していたのである。
1890年代のフォルム 12月1日 水牛のコート 模造水牛のローブ 水牛の皮で作られたコートよりも、模造水牛の皮で作られたコートの方が一般的でした。
1890年までに大草原から 12月5日 WILLIE PRITCHARD(ウィリー・プリチャード)。「アンの夢の家」(1917年)はウィラードの妹ローラ・プリチャード・アグニューに捧げられたものである。
12月7日 シャーロットタウンの愛国者。1859年、ニューから来たレアードによって設立される。
グラスゴー、キャベンディッシュから3マイル。驚くべきスピードで出版されたことに注目し 配信:投稿、受理、編集、印刷、サスカチュワン州での受信のすべてでの3週間です。
12月10日「希望を捨てよ」。ダンテ ''インフェルノ, カント IU、の9行目です。"私たちの行く順番に立ちなさい"。『マクベス』HI,ii,119. 12月14日 "PANSY "の本。"パンジー" ことG.R.オルダー夫人が出版した連作集 1876年から、子供の生活の ロスロップ社発行のパンジーブックス31冊が継承された パンジーシリーズ73冊(アルダー夫人他著、ワード、ロック社刊)にて; 宣教、節制、祈りなどを説いたものである。

1891年
1月26日父......評議会にて。ヒュー・ジョン・モンゴメリーは T.アグニュー、F.C.ベーカーと対立し、議長に就任。議会を設立した。1891年、議会が新庁舎を建てる。2月 13 ON THE LIBERAL ticket . 1891年の選挙は互恵主義で呼ばれました。ヒュー ジョン・モンゴメリが自由党に所属していたのは、彼のことを考えると意外でした。父と保守党、ジョン・A・マクドナルドとの政治的関係
2月23日BARRACKS(バラック)。プリンス・アルバートは、北西騎馬民族の地区センターであった。 警察です。シュート(CHUTE)。
トボガンニ・イグ用の木製の構造物で、雪を詰め込み マウント・ロイヤルで普及したスタイルで装飾されたものと思われる、スピード重視のアイシング。
集会をモントリオールで、オタワのリドー・ホールで開催。3月7日 ELECTION ウィルフリッド・ローリエ は、今回の選挙でプリンス・アルバートの「粗暴な政治」を引き合いに出した。
3月10 テンパランスコンサート に法人化されたカナダ・テンペランス・リーグ。1890年、「世界の禁酒、純潔、平和」を求めて精力的なキャンペーンを展開した。

peace」「the christening」。E.J.コルベットによるコミック作品:若い母親、そのためサイラスおじさんは、自分の息子を「オーガスタス・パーシバル・ガイ」と呼ぼうとします。 "Jeehosophat!" 牧師が赤ちゃんに命名する方法です。
3月30日 MR.ストーベル サイラス・R・ストーベルは、メアリー・マッケンジーと結婚した歯科外科医です、マクタガート夫人(LMMの継母の母)とウィリアムの異母姉。 マッケンジー
4月6日 PREDESTINATION。長老派は以下のように考えていた。人間の罪深い性質は、正義の神には決して赦されず救われることはないが、慈悲深い神は、その単なる意志と喜びによって、少数の人を救いに選ぶことができます; したがってすべての人は救われるか、あるいは(より一般的には)天罰を受けるように運命づけられている。
4月20日 修道院付属の学校 聖アンナ修道院は、1884年にオープンしたプリンス・アルバートで最初の高等学校である。
4月23日 JUDGE MC guire。長く愛される力 1913年、まだ影響力のあったプリンス・アルバートで
5月14日......ボランティア での 1885年、プリンスアルバートから95人のボランティアとマウントのパーティが行進してきた。ダック・レイクでリエルとデュモンと戦い12人が死亡、11人が負傷する。
5月25日 JOHNSON 市長。1年間のみ市長。
5月31日 国会閉会 ジョン・A・マクドナルド卿が脳卒中で倒れたため、議会がいつ閉会するかは誰にもわからなかった。マクドナルドは1891年6月6日に死去した。"JUNE" である。4行のスタンザが10曲、 1891年6月17日にPatriot誌に掲載された、韻を踏んだきれいな文章です。Jwae 6 knox coi t .egf.
トロント大学内にある長老派の神学大学。論文が出版されたのを、1891年6月17日のプリンスアルバートタイムズで「A Western Eden(西のエデン)」として紹介しました。サスカチュワン川の描写、絶滅に直面するインディアンのモデム......。 と大草原の希望に満ちた未来。
ジサイス 16 a table rap. 実験中 心霊現象」をテーマに、テーブルの上に指を置き、集中力を高める。 持ち上げて動かそうとする意思を持つことで
ジュネ18「tis pleasant, sure」ロードバイロン、 "English Bards and Scotch Reviewers" (1809), lines 51-2. 7月1日礎石。 1872年に建てられた120人収容の最初の長老派教会は、トム・ダウンで
1891年、ドミニオンデー。7月1日、カナダ人は4つの連邦を祝います。
1867年、川を下るエクスカーション。ハドソンズ・ベイ・カンパニーの は、1872年にサスカチュワン川に蒸気船を設立していました。
7月5日 MR. AGNEW。アンドリュー・アグニューは、T.J.アグニューの息子で、彼の牛車ラインは、1872年まで続いていた。プリンス・アルバーへの主要な輸送手段としての鉄道。7月24日 TRAMS。 電気鉄道がプリンス・アルバートからメイデン・レイクまでの4マイルを走りました。
8月 27 EDDIE JARDINE(エディ・ジャーディン)。バーティとアーサーの弟、彼は学校へ行く途中で トロント
8月29日 FORT william. 現在はオンタリオ州サンダーベイの一部、乗客数 を通過するため、ここでカナディアン・パシフィック社の蒸気船に乗船した。 Ste. MarieからOwen Soundへ、そこで再び乗船した。8月31日「SOO」号。
スー・セント・マリー。9月2日 RICHARD Cartwright (i835-1912) 氏。1891年 カートライトは自由党野党(ローリエ率いる)の首席財務評論家であった。 9月3日 THE intercolonial. オタワからモントリオールまでの鉄道路線、現在の カナダ太平洋鉄道の一部 9月4日ビクトリア橋。この 1860年、プリンス・オブ・ウェールズによってモントリオールの橋が開通しました。
11月7日 様々な印刷物。これらの初期の作品は、スクラップブックに収められています。現在、シャーロットタウンのコンフェデレーションセンターで開催されている。
11月19日 ネイトのクラス写真 アカディア大学での1年目に、ネイトは 全科目で「A」、アメフト部でも活躍。
12月4日「ザ・カウンティ SCHOOL」。H.ベイトマンによるコミカルな方言の元気なミニドラマ;にあります。



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