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モンゴメリ日記

1918年

1918年1月18日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール
このような一週間を過ごしたのは、昔、故郷で起こったあの恐ろしい冬以来だ。前回の書き込みの1週間後、荒れ模様で寒かった。いろいろなことがあった。赤十字の再燃をはじめ、いろいろと苛立たしかった。
赤十字の問題は、2年前に結成されて以来初めてのことで、一部のメンバーの些細な個人的悪意や恨みが原因である。私はその芽を摘み取ったつもりだ。私は彼らにはっきりと言った。もし問題が起きたら、私は辞めますとはっきり言いました。その結果彼らはより理性的になったようだ。というのも、彼らは誰も私に替わって会長としての面倒や責任を持つことを望んでいないからだ。
私たちの男子が前線で兵士たちが戦い死んでいるのに、女性たちが家で兵士たちのために働くことができないなんて嫌なものです。そしてこのような憤懣やるかたない思いをさせられている女性は息子を戦場で殺された女性だ。彼女に対する陰謀を組織した者のうち、誰一人(自分の息子が戦死した者は)いないのだ。神よそのような女性のために戦う価値があるのでしょうか? ってなもんでしょう。
しかし会議の様々な警報や小旅行が終わり、金曜日の夕方、私たちはゼファーに車を走らせある家族を訪ねた。穏やかな夜だった。私たちが行ったときは穏やかな夕方で、空はどんよりとしていて、道路は通行可能だった。そして11時にその家を出た時には、今までで一番ひどい嵐が始まったところだった。
雪は厚く、風は激しく、寒さは厳しくなっていた。9マイルを3時間かけて走った。一度は立ち往生し、クイーン(馬)を外してカッターを回し、別の道を探さなければならなかった。なんとか
やっとの思いで家にたどり着いたが、それはよかった。土曜日と日曜日はずっと嵐で時速60マイルの強風が吹き荒れ、水銀は零下36度だった。
この2日間、この家(我が家)より快適な納屋に何度も行った。私の植物は、真昼の応接間で、開け放たれたラジエーターの周りで凍りついた。スチュアートは寒さで泣いた。私はオーバーブーツを履き、毛皮のコートを着ていた。寒かったです。(暖房はなかったのか)
私たちは丸一週間、郵便物を受け取っていなかったが、今日いくつか届いた。
今日までUxbridgeまで列車が通らなかった。線路はどこもかしこも雪で塞がれている。私たちは木曜日にUxbridgeまで(馬車か橇かで)で行ったが、道路は考えられないような状態だった。

1918年2月10日(日曜日)
先週の月曜日と火曜日は、この冬これまでで最も寒い日だった。とはよく言ったものだ。確かに私たちは今寒さの頂点を超えている。しかし今週は毎日雪が降り、道路が大変なことになっている。この日は1通だけ郵便が来て、ヒンデンブルグが4月1日までにパリに到着するとの知らせが入った。
ヒンデンブルグは東部戦線で自慢の腕を振るった(共産主義革命で混乱するロシア軍と講和した)。西側でそれを実現できるのか? その答えの中に人類と文明の未来がかかっている。
私は夕方、疲れと病気と神経質になりながら、一人でこの本を読んだ。私はこの本を読んだとき恐怖を理性で抑えることができず床を歩いた。惨めな気持ちの中で私は必死になって聖書を手当たり次第に開いて、最初に目についた節を読むという古い迷信に頼った。
熱烈な祈りと共に私は本を開いた。エレミヤ書の第1章にあるこの節を読んだ。「彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはない」。主は言われる、「わたしはあなたとともにいる、あなたを救う」と"
偶然の一致か? その可能性は高い。そうかもしれない。私は西部戦線に偉大な戦いが訪れると信じている。この戦争で最も偉大な戦い世界が見たことのない偉大な戦い、ハルマゲドンの日、最後の偉大な戦いである。
その戦いは、どちらに転んでも戦争を終わらせるだろう。神よ私たちに力を与えてください。われわれは弱く、痛切に試されているのです。

1918年2月24日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
まだ一撃は下っていない。我々は身じろぎしながら待っている。時折私はもう耐えられないと思う瞬間がある。午前中忙しくしているとき追い詰められた犬のようにうなる。しかし日が暮れ影が濃くなると巣穴から出てきて、私を捕食するのだ。
ロシアからのニュースはロシアは戦争を放棄し、ドイツ軍は無防備な領土を掃討している。西側では不吉な沈黙が続いている。嵐の前の静けさ。ある通信によるとヒンデンブルグは100万人の命を犠牲にできるならパリに行くと言ったそうだ。そのような値段で彼はいくつかの成功を買わなければならない。
私たちはどうすればいいのでしょう。朝の3時などという時間はない方がいい。私はたいていヒンデンブルグがパリに到着し、ドイツが勝利する夢を見るからだ。あの時間以外では見たことがない。ヒンデンブルグが何をしようが、しかしその時私は文明が野蛮に飲み込まれるのを見る。
唯一の光明はパレスチナにおける英国の前進である。彼らはジェリコを手に入れた。ヒンデンブルグが西から攻めれば...!?
最近穏やかな天候が続き、雪解けも進んでいる。

1918年2月25日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日はあまり「新しい」戦争のニュースはなかった。ロシアは絶望的な状況にあるように見えるが、それ以外の新聞は暗い予測で埋め尽くされていた。
西側の攻勢を弱めるということで、戦時中の特派員たちがおそらく私たちの士気を下げることになる。我々の士気にも影響する
今日マクレランドから来た手紙によると、『夢の家』はカナダで15,341冊売れたそうです。これはかなり良いことだ。
今夜はマコーレーの『歴史』を読み直した。私の心はこの間、戦争でずいぶん心が痛んだが前回読んだときの状態に比べれば、冷静そのものだった。1910年の冬に読んだときの私の状態に比べれば。
その冬は2週間ほど死の苦味を味わった。そのせいで神経衰弱になった。その時の日記に書いてある。しかし私はその原因を説明しなかった。できなかった。その苦痛はあまりにひどく、何年もの間そのことを考えることさえできなかった。そのことを考えるのも嫌だった。
1910年1月のある金曜日の夜、私はキャベンディッシュの昔の自分の部屋で目を覚ましていた。眠くて眠くて今にも眠ってしまいそうだった。
その時、ふと左胸に手をやった。そのとき私は非常に恐ろしくなった。エンドウ豆くらいの大きさの "核" のようなものが入っていた。私はこれまでずっと癌を恐れていた。その理由はよくわからない。しかし、マクニール祖父は病的なまでにガンを恐れていた。自分は癌だと思い込んでいた。祖父の話は幼い私に忘れがたい印象を与えた。
そして私は、この病気に対する恐怖を深く心に刻みながら成長したのだ。最も恐ろしい死であることを確信した。そして今、私は自分の乳房に進行中のがんを発見したのである。私はそのことを全く疑っていなかった。また自分の恐怖を不思議に思うこともない。私はその夜、一睡もできなかった。寒さに耐えながら起き上がり、家中の「医者の本」を探し出し、このテーマについて書いてあるものを読んだ。
しかし私を励ますものは何もなかった。その後2週間ほど恐ろしい日々が続いた。恐怖と不安で気が狂いそうだった。誰にも何も言えず、何も言えないでいました。眠れない夜に眠れない夜が続き、苦しい日に苦しい日が続いた。仕事もできないし何にも集中できない。読もうとした。マコーレーの『歴史』を読み始めたところだった。
しかし私の目は一行一行、一ページ一ページを追ったのに、行に次ぐ行、ページに次ぐページを目で追っても、頭にはほとんど何も取り込むことができなかった。数分読んでは本を投げ捨て、床を歩き回り、落ち着かない惨めさを味わった。夜、ホップティー(ハーブティー)を飲んで少し眠った。一時的な忘却をもたらすような薬は持っていなかった。
ホップティーは、私のひどい不安感を少しでも和らげたり、拷問された神経を和らげたりするのに十分な強さではなかった。そして一番つらかったのは、教会や社交の場で、平静を装わなければならないことだ。誰にも疑われないようにすることだ。
顔面神経痛が原因だと考えた。私は将来のことを考えることができなかった。どうしたらいいのだろう。誰も助けてくれないし誰も味方になってくれない。こんなことでは、結婚など考えられない。私は決断した。婚約を解消することにした。世の中のすべてが遠くなり、私に無関心になった。私は影の間を移動した。

合唱の練習をしていたある晩のことだ。
私は苦悩に耐え、自分の失敗に直面するよりも何らかの方法で自殺しようと決心したのだ。もちろん心配で眠れなくなると、すぐに神経が衰弱し、あることが別のことに反応し、私はほとんど気が狂いそうになった。私は眠れず食べられず考えられず、働けなかった。1910年1月17日(月)。
カーネル(核のような物)を発見してから11日後の1910年1月17日(月)は、私の人生で最も恐ろしい日だった。私は一日中、床をたたきながらひどく落ち着かない。一日中眠れなかった。その日私の惨めさは頂点に達し、その晩には反動が起きた。突然私の落ち着きのなさは、まるで悪霊が私を引き裂いて去ったかのように、去っていった。
そしてすっかり平静を取り戻したが、身体はほとんど立っていられないほど弱っていた。その週の残りの間、私はもう落ち着かないことに悩まされることはなかったが、心が折れそうで、悲しくて、無力で、恐ろしいほどの精神の消耗を感じた。次の週、私は何度か落ち着かない状態に陥った。しかし、最初のように長くは続かなかった。一日苦しくなると落ち着くものだ。
私は近所の医者に相談しようとは思わなかった。彼は噂好きな奥さんを持っていて、何でも話してしまう。私の恐ろしい秘密はすぐに世界中に知れ渡ってしまう。そう思うと、とても耐えられない。町まで行って医者に診てもらうこともできない。
そこでカーネルを発見して間もなく、私はモントリオール紙の医学欄を担当する医師に手紙を書いた。このカーネルが癌である可能性はないのか、どうしたらいいのか手紙を書いた。
そして、どうしたらいいかと尋ねた。18日後返信が来た。私的な返信のための料金を送ったのだ。私はその時あえて手紙を開けなかった。昼間は知られてしまうからだ。その日の仕事が終わって、一人きりになれるまで持っていなければならない。一人きりになれる夜まで、最悪の事態に立ち向かわなければならない。それで就寝時に手紙を開いた。とても短いものだった。
私はその一行一行を覚えている。その手紙は死の門を閉ざし、そして人生の門を開けてくれました "親愛なるマダム" と書いてある
"あなたの乳房にある小さな粒は癌ではありません" "私のアドバイスは完全に放っておくことです″。私はまるで墓場から戻ってきたかのように感じた。もう一度生きることが可能になったのだ。
希望は排除されなかった。しかしその恐ろしい2週間の身体的影響は冬の間中続いた。私は何ヵ月も疲れ、落ち込み、眠れず、神経質になっていた。夏になって初めて私は自分自身のように感じるようになった。小さなカーネルは、2、3年はそのままで、チェスターの生まれた後、完全に消えてしまった。何が原因かはわからないが、たとえ本物の癌が発見されたとしてもこれほどまでに私を惨めな気持ちにさせるものは、もう二度とないだろう。
それ以来、私は最近までマコーレーを読んだことがなかった。読んでいるうちに、楽しくなってきた。読みながら、ときどきあの数週間の痛烈なメモが脳裏をよぎる。古い台所で身を寄せ合いながら、ぼんやりと数段落を読み、やがて手放す自分の姿が目に浮かぶ。そして本を投げ捨て、床を歩き、それを繰り返す。
その繰り返しで、冬の鈍い灰色の日が暮れて、古い家屋が闇に包まれ、1人2階に上がっていった。死が私のそばで微笑みながら、また恐ろしい夜明けまで眠れずにいた。
誰もこのことを知らなかったし、疑いもしなかった。神経痛に効くという「確実な」治療薬を12種類も手に入れ、その点では多くの同情を得た。しかし誰もこの2週間の間に、苦悩する魂が動いていたとは知るまい。

1918年3月1日(金曜日)
リースクデールの牧師館
イーディスは先週の水曜日にここで結婚し、リリー・マイヤーズが彼女の後任として君臨している。この変化が良いものか悪いものかを判断するのは早計だが、私は前者だと思う。
私は昨夜、不思議な夢を見た。私が新聞を手に持っていて、その新聞に大きな文字で "三十の厄日が来る" と書かれていた。そして目が覚めた。私はこれまで不思議な夢をたくさん見た。それらを信じている。そして三十厄日を過ぎたらどうなるのだろう。私の夢はそれを教えてはくれなかった。

リリー・メイヤーズ、3人目のお手伝いと思われる

1918年3月2日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
昨夜また夢を見た。私はフランスの平原に立っていた。夕暮れ時だった。 赤い光が平原を照らしていた。その平原で私はその腕の中にある男を抱いていた。 その男を不可解な方法で 抱きしめていた。彼は私に寄りかかり、その背中と頭を私の胸に当てた。彼の顔を見ることはできなかった。そして彼は死に、私の手から滑り落ち地面に倒れた。
私は彼の顔を見て、それがカイザーの父親の顔であることを認識した。私の少女時代からずっとドイツの皇太子として知られていた人である。長く悲劇的な病気であったため、その絵に描かれた顔は、私にとって非常になじみ深いものであった。
不思議ですね。この30日の間に、現在の皇太子に、あるいはあのホーエンツに何らかの災難が降りかかるのだろうか。あるいは死んだフリードリッヒが唯一の代表者であったホーエンツォレルン王朝に何か災難がもたらされるのだろうか? 次の3ヶ月がその答えになるだろう。 ドイツは軍団と銃を西部戦線に集結させ、世界はそれを見守る。世界はこの恐ろしく不吉な静寂の中で息を潜めている。

1918年3月22日(金曜日)
リースクデール、牧師館
ハルマゲドンが始まった! 昨日大攻勢が開始された。彼らはイギリス軍を攻撃した。ヘイグの報告では、敵は目標に到達できず、英軍の陣地に侵入し激しい戦闘が続いている。私はこの最後のフレーズの響きが好きではないが、私は冷静です。
少なくとも、恐ろしいサスペンスは終わり、短い時間で問題を決定しなければならない。しかしそれは非常に長く感じられるだろう。神は右を守る。
(ドイツ最後の大攻勢です)

1918年3月31日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
世界の歴史の中で、これほどまでに痛ましい苦悩が詰め込まれた週があっただろうか。これほどの苦悩が詰め込まれたことがあっただろうか。なかったと思う。そしてこの週には全人類が十字架に釘付けにされた日があったのです。その日、地球全体が普遍的な動揺に包まれたに違いない。 痙攣したに違いない。その日は先週の日曜日、1918年3月24日であった。
朝は晴れて寒かった。私は不安な気持ちで教会に向かったが、落ち着いていた。教会で座っていると次の日曜日はどんな気分だろう? それはイースター(復活祭)である。 しかしそれは死の前兆なのか、それとも生の前兆なのか。礼拝を終えて家に帰ると、リリーが不在だったため、夕食の準備に追われていた。夕食の準備をしていると、ユアンが「前線の最新情報を聞きたい?」と言っている声を聞いた。彼は礼拝の後、長老から手渡されたメモを読んでいたのだ。
その質問の仕方や口調に私は恐怖を覚えた。私はその手紙を手に取った。その前の晩にトロントから出てきたジャス・マスタードからのものだった。そこには最新の通信によると、イギリスの戦線は崩壊しドイツ軍の砲弾がパリに降り注いでいると、シンプルかつ大胆に書かれていた。「そんなはずはない。そんなはずはない」私は何度も何度もあえいだ。私はバラバラになってしまった。 ドイツ軍がパリを砲撃したのだ。
ドイツ軍がパリを砲撃しているのなら、パリ中のあちこちを壊して、まさにパリの門の前まで来ているに違いない。パリは失われた。パリは負けた、フランスは負けた、「戦争は負けたのだ!」。 どうにかこうにか残りの分の夕食を用意し終えたが、食べることはなかったし、食べようとも思わなかった。
ユアンはとても痰壺な気質で、私のようにボロボロになることはない。ユアンは落ち込んでいても冷静で、私を励まそうとしました。 しかしそれは彼のインドゴム的な楽観主義にとってさえ困難な仕事だった。私はといえば耐え難い苦しみに身悶えしていた。ああなんという午後を過ごしたことだろう。ユアンは留守でした。私は一人だった。世界を襲った大惨事を理解できる年齢ではない子供たちを除いては私は一人だった。
私はラベンダーを飲んだ。少しは自制心を取り戻したが、その日の午後はずっと 私は応接間の床を歩き、手を振り、祈った。「ああ神よ、神よ、神よ」。他には何も、他の言葉もなく、ただただ、あの古くからの懇願、あの古くからの呻き声しか発することができなかった。 この年季の入った苦痛の呻き声しか出なかった。この知らせが月曜日まで来なければと、私は情けなく思った。
そうすれば どこかに行って何かをすることもできたはずだ。そう思っていた。でも今となっては、あのとき学んでおいてよかったと思う。そして世界の大きな痛みに耐えてきたことに感謝している。その日人類はいたるところで最高の苦悩の中にあった。 その日、もし私が苦痛のない無知のうちに、本を読んだり、冷静に夢を見たりして過ごしていたとしたら、私は恥ずかしく思うだろう。それよりも、自分のような低俗な生き物の痛みを分かち合った方がよかったのです。
ユアンは5時にゼファーから帰ってきて、土曜の夜の「スター」(新聞)を持ってきた。私は、マスタード氏の手紙にあったような、それほどひどいニュースではないことに気づいた。戦線はサン・クエンティンの手前で一か所突破された。 英軍は順当に撤退しているようだ。まだパリを砲撃していた砲は70マイルも離れたところにあった。 これまで知られていなかった怪物で、十分に見ごたえがあるが、軍事的な観点からはむしろ無視できるものだ。しかし真実は十分に恐ろしいものだった。

その日の夕方、電話で最新情報を聞いたが、安心できる内容とはほど遠かった。激しい戦闘はまだ続いていた。ドイツ軍の損害は甚大だと言われていた。しかしこのような古い慰めは、戦況の逆転が起こったときに、私たちに何度も提供されたものである。今は何の役にも立っていない。どんなブーツを何人失えばいいんだ? その夜、私はベロナール錠(睡眠薬)を飲んだので丸太のように眠った。
翌日は熱中して働いた。 午前中いくつかのルーチンのタスクで熱狂的に働いたが必要ないことだった。郵便が来た。グローブ紙の見出しは、「打ちのめされたが、壊れてはいない」だった。イギリス軍はソンムに撤退し、50万人の犠牲を払って昨夏の作戦で獲得した領土を失っている。そのためカイザーのドイツ軍は3万人の捕虜を獲得した。 私は惨めなほど落ち込んだ。
ユアンと私はアクスブリッジに行き、ハーバート・ピアソンの店でお茶を飲んだ 素敵な場所、素敵な人々、でも彼らは私の痛みの迷路の中では影のようにしか見えなかった。痛みの迷路の中で リジーは、信じられないような話を教えてくれた。英国が10万人のドイツ軍を捕虜にしたという信じられないような話を聞いた。私はこれが真実であるはずがないと思った。このことが私の気もそぞろにさせた。気が散った。
しかしその夜私は疲れて眠った。そして夕方から朝にかけて私は疲れて眠った。翌朝は5日目だった。火曜日の朝、私は郵便物を待つために床を歩き回った。またしても悪い知らせだった。ドイツ軍の進撃は続き、イギリス軍の戦線は再び破られることはなかったが、押し戻される一方だった。 ドイツ軍の進撃は続き、イギリス軍の戦線は再び破られることはなかったが、押し戻されていった。このままでは取り返しのつかないことになる。ドイツ軍はアミアンまであと一歩のところまで来ていたのだ。アミアンを失うことは、フランス軍とイギリス軍の間に楔が打ち込まれたことを意味する。
その日の午後と夜のことは何もできずあまり覚えていない。苦悩の1日は、もう1日と同じになりつつあった。その夜もベロナールを飲んで少し慈悲深い忘却を手に入れた。午前中はずっと ルーティンワーク(型通りの仕事)をこなした。 これまで、知らせを恐れる理由があるときは、自分で郵便物を買いに行くことはなかった。悪い知らせを読むのに耐えられないといつも思っていたのだ。 田舎の店に出没する男たちが、箱やカウンターの上に座り込んで私を覗き込んでいるようで耐えられないと思ったものだ。もし悪い知らせなら家で読むことにしていた。
しかしこの日、この強い思いは、別の強い思いによってかき消された。ユアンが郵便物を取りに行く間、私はここで待つことができなかっ。 何度も経験したことでもう耐えられない。水滴は新しい場所に落ちなければならない。 新しい拷問に耐えられるように、私はユアンと一緒にオフィスへ行った。その日は退屈で、辛く、厳しい一日だった。雪はすべて消え、灰色の地面が固く凍りついていた。 生気のない灰色の地面は固く凍りついていた。冷たい風が吹いている。風景全体が醜く忌まわしい。それは私の魂に重くのしかかり、ドイツの地獄の猟犬が主人となる世界の典型のように思えた。
私は店に入り、「ああ、これで終わればいいのに......ニュースを見たばかりで、最悪の事態を知っていれば......」と感じた。クック夫人はカウンターに寄りかかり、グローブ紙を読んでいた。見出しはカウンターの上に垂れ下がり、大きくて黒い。私には逆さまに見えたが、普段はあまり気にせず、一目で読んだ。

文字が逆さまに読めるようにするとそれは "イギリスとフランスがドイツを阻止" だった。安堵感はほとんどひどいものでした。私は彼らが回転を止めたとき(撤退を止めたとき)、棚に置かれた囚人のような気分だった。しかしまだ棚から出たわけではない。
檻の中だ。いつ拷問が始まるかわからない。――危険はまだ恐ろしく大きく差し迫っていた。しかし少なくともドイツ軍の突進は食い止められた。私はその日の午後は仕事をし、夜は眠ることができた。翌日のニュースは、またしても安心させるものだった。
危険は去っていないのだ。金曜日のニュースはまたしても悪いものだった。モンディディエとロジエールは2つの重要な地点を占領された。もしフン族がこの先も進撃してきたらアミアンも陥落する。もしアミアンが陥落すればその両方を諦めなければならない。私は一日中、心配で気が動転していた。昨日私は再び郵便物を取りに行ったが、見出しは「ベルリンも攻勢の失敗を認める」であった。私は「ああ、よかった」と声に出して叫んだが、スコットランドのすべてのローファー(怠け者)に聞こえても気にしなかった。
そしてその通りになった。今日はイースターで、私は教会に行った。先週の日曜日に期待したほどにはドイツの攻勢が失敗したことを喜ぶ気持ちにはなれなかった。喜びを感じることはなかった。残念なことにそれはあまりにも大きな成功を収めたのだ。しかし少なくとも私は今のところ決定的な成功には至っていないことに感謝している。
ハルマゲドンは終わったのではない。始まったばかりなのだ。しかし先週の日曜日、私は神を疑ったけれども、今日私は神を疑わない。悪は勝てない。私の夢は実現する!」。
この大惨事から、1つの良いこと、つまりこの上なく良いことが生まれた。ついに連合軍の総司令官が誕生したのだ。その人物はフランスの偉大な指導者 フォッシュです。
フランスの偉大な指導者である。この大惨事は、連合軍に対する英国の頑なな反発を打破するために必要だった。この大惨事があったからこそ、イギリスは頑強な抵抗感を打ち破ったのです。私はもしフォッシュがとっくに総司令官になっていたら、戦争は終わっていたと信じている。手遅れになりませんように!
先週の夕方、本を読むことができたので、ローリンソン著の古代エジプト史を読み直したが、これまで読んだのと同様、その辛口の内容さえも、家からの手紙と同じように興味深いものであることがわかった。私はいつも本を読んでいるような気分になる。エジプトも同じような魔法をかけるのだろうか。『ベン・ハー』の中に、ある連句がある。
ベン・ハーには、いつも信じられないほどホームシックにさせるある連句がある。月明かりに照らされたナイル川が、メンフィスの岸辺でうめき声を上げることはもうない。
神よ! 胸が痛む! 月明かりの岸辺に椰子の木が見えてくる。憧れるなあ、また見たいなあと涙が出るほど。私は一度は見たことがあるに違いない。

1918年4月1日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
この日はヒンデンブルグがパリにいるはずの日だった。彼はまだそこにいない。しかし、もしフン族がパリを完全に破壊していたならば、彼はパリにいただろう。しかしそれは大きな "if "(もしかして)であり、まだ接続法を失うかもしれない。
今日は、霧と雨と泥が混ざったような悲惨な天気だった。ニュースは心強いものだった。敵はこれ以上前進していない。しかしほとんどの "批評家 " は、またとてつもない努力(攻勢)があるのだろうと思っている。これはそうかもしれない。私は3月1日にあの奇妙な夢を見た。三十禍福とは、夢から三十日間という意味なのだろうか。もしそうなら、昨日には出ていて、最悪の事態は終わっている。しかしどういうわけかそうとは思えない。攻勢が始まってから30日という意味だったのだろうと思う。もしそうなら、私たちの前にはまだ長い忍耐が待っていることになる。
今日届いたイギリスの週刊誌に、アンの『夢の家』について、私が非常に高く評価している評論家による、アンの「夢の家」のとても親切な批評が掲載されていた。

1918年4月20日(土曜日)
今週は浮き沈みの激しい地獄のような一週間であった。火曜日のニュースはまあまあだった。その英軍の戦線は維持されたが、重要なポイントであるヌーヴ・エグリーズは失われた。それでも、私は勇気づけられ、励まされ、良い心構えで仕事に取り組んだ。水曜日の朝、ユアンが郵便物を取りに家を出た直後に、電話のベルが鋭く鳴った。
私はその音には、何か不吉なものを感じた。それは、アレックス・リースク夫人の呼び出し音のようだった。彼らは郵便受けを持っているので、私たちより先に郵便物を受け取っているからだ。私は恐怖におののきながら、電話機に駆け寄った。「ああ、マクドナルドさん」。リースク夫人は興奮気味にこう言った「今日の新聞を見ましたか?「まだです」と言うと、「どうして? ひどいニュースがあるのよ、ひどいニュースが」
英国の戦線がついに崩壊したのだ。完全にそして絶望的に崩壊したのだ。"どうしたんだ?"
「ああ今にわかるわ、ひどい話よ、ひどい話」彼女はこのように話し続け、私は何が起こったのか、一言も理解することができなかった。そこで私は受話器を切りユアンを待った。すると、ユアンが来た。
すると、メシンズリッジが失われたという知らせだった。これは大変なことだった。防衛線が切れたのではなく、押し戻されただけだったのだ。リースク夫人のヒステリーの原因は前線の喪失という 明らかに悪い知らせではなく、「軍齢の若い男子は全員、3月31日に召集する」という政府の発表が原因だとわかった。
農民であろうとなかろうと、誰の子であろうとすぐに召集されるのだ。リースク夫人には2人の軍歴の長い怠け者がいる。だから彼女は動揺していた。
私は一日中心配でたまらなかった。夕方、車でアクスブリッジに行き、夕刊を手に入れた。またしても悪い知らせだ。イープルの岬から撤退したのだ。撤退が「成功した」というだけで、たいしたことではない。
というのはあまり嬉しくない。木曜日も悪いニュースが続いた。金曜日、私は事務所に行き、いつものようにハラハラドキドキしながら待っていた。新聞を開いて見出しを見ることもできないような状態だった。グローブ紙が私に配られるのが恐ろしかった。私はこれを免れた。郵便配達の人が来て、「今日は戦争のニュースがいいですね」と言った。だから、私はもっと落ち着いて新聞を開いた。それは良いことだった。
ドイツ軍はこれ以上前進せず、イギリス軍は激しい攻撃に耐えている。今日、星の批評家は、この攻撃の危機は去ったと考えている。昨日、攻勢開始からの30日間が終わった。

1918年5月7日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
前回の記事以来、戦争のニュースは中立であったが、別の攻撃が迫っていることは明らかである。英国はパレスチナで前進し、オーストリアがピアヴェに攻め込んでくるとの警告も出ている。私はこの一週間、一生懸命に家の掃除に精を出している。
今日は、ある意味「エポック」だった。アイボア・ローが私たちの自動車を運転して帰ってきた。本当に私はとても興奮しました。つい最近になって、思い始めたのはごく最近のことだ。7年前の私なら笑っていたことでしょう。
私が初めて自動車に乗ったときのことを覚えている。ステラと私がボストンに到着し、ナーネー氏がロサンゼルスに連れ出してくれた朝だ。ナーネーさんがタクシーでロサンゼルスに連れ出してくれた。(ボストンのペイジのところに)滞在中、何度か乗った。ユアンと私がイギリスに行ったときにも何度か乗った。私たちは非常に気に入った。
でも私がユアンに冗談で「私たちが自動車を設置したら、あなたの信徒は何と言うでしょう」と言ったら、ユアンは「そうだね。私の集会は私に辞職を求めるだろう」と答えました。
私がここに来たとき、自動車はまだ目新しかったので、私たちは自動車が通り過ぎるたびに、それをを見るために窓際に走り寄ったものだ。いまでは国民の半数が自動車を持ち、
日曜の朝、教会の前にはバギーと同じくらい多くの自動車がある。私たちの古いバギーは廃車寸前だったので、私たちは車を手に入れた。シボレーの5人乗りです。私は完全に満足しているわけではない。個人的には「クイーン」のような素敵な愛すべき馬のいるバギーが好きだ。でも、車の良さはわかっている。
時間や距離の節約にもなるしね。そして人は「行列(みんながやっている流行)について行かなければならない」のだ。
しかし、私は時折、昔のことを思い出しては後悔するのだろう。月夜の晩になるとライトのまぶしい車では魅力が半減してしまう。とにかく自動車が来る前に私の求婚の日々が終わってよかったと思う。自動車にはロマンスがない。男が片腕で運転するのは危険だ。ぶらぶら乗り回すのも無理だ。

私たちのニューカー

1918年5月29日(水曜日)
ドイツ軍がエスヌ川を掃討しているという悪いニュースだ。私たちは今日の午後、軍の葬儀を見るためにアクスブリッジに行った。昨年12月に私が投票したサム・シャープ大佐が埋葬された。彼はごく最近 戦地から帰ってきたが砲弾のショックで倒れ、モントリオールのロイヤルビクトリアの窓から飛び降りたそうだ。葬儀には何千人もの人々が参列した。

1918年6月1日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
私は、この暖かく風の強い日の午前中を、ルバーブ(ダイオウという草でパイを作るのに使う)の保存に費やし、自分の身体で、魂で戦争の知らせを待っていた。そしてそれは悪いニュースだった。ドイツ軍は再びマルヌ川に到達した。マルヌのシャトー・ティエリーを手に入れた。いわばパリの前哨基地である。その日の午後は私にとって呪われたような時間だった。
夕方には、ユアンはアクスブリッジまで車を走らせ夕刊を手に入れた。そのニュースはフランスがシャトー・ティエリー地区で反撃しているとのことだった。おそらく今夜は眠れるだろうし、眠れないかもしれない。

1918年6月8日(土曜日)
今週はずっと戦争のニュースは否定的に良いものだった。ドイツ軍はこれ以上の前進はない。彼らは静かだ......パリへの最後の跳躍の準備をしているのだろう。
私は火曜日にトロントに行き、昨晩まで滞在した。楽しい時間を過ごしたが、しかし常に恐怖の痛みを伴っていた。私は今までずっとそこにある恐怖から再び解放されるときが来るのだろうか。もう4年近くも私たちは恐怖とともに横になり、恐怖とともに立ち上がってきた。恐怖は歓迎されない存在であった。すべての食事に同席し(恐怖が付きまとった)、すべての集まりに招かれざる客としてやってきた。

1918年6月15日(土曜日)
オント州リースクデール
今週もまた、サスペンスとチンドンの戦いが繰り広げられた。今日のニュースではドイツ軍が再び「膠着状態に陥った」というニュースだった。ブイヘイはパリに少し近づいている。もう一回だけ春が来る! それからどうする?
6月も半分が過ぎた。6月と5月は悪夢のような月だった。世界は美しい。しかし春は私にとって何の意味もありません。私は1918年の5月と6月を決して忘れないだろう。私は「下郷」(里帰り)に行く準備をしている。あれから(前回行ったときから)3年だ。
私は行きたいとは思っていない。というのも前回の訪問で身体的に不快な思いをしたことが、私の潜在意識に強く印象づけられたからだ。
それから、家(今いる家)を出るのが嫌なんです。私は家がとても好きで、庭や家事にとても興味がある。昨夜は、今天文界が大騒ぎしている「新星」を見た。とても輝いている。一般的な説では、この星はベス女王(エリザベス1世のことか)の時代に起こった衝突の産物であるとか。この災害のニュースは光の翼で宇宙を越えて伝えられた。
ちょうど私たちのところに届いたところだ。その星を見て300年以上も前に起こったことを実感するのは、不思議なことだ。しかし、この出来事でさえも、ドイツ軍がパリからまた一足跳びにやってきたという事実を矮小化することはできない。
私は結婚の1、2年前に夢中になった天文学の勉強を再開する時間がなかった。そうしたかったがもう無理だろう。その記憶はとても魅力的です。天文学は私に奇妙で精神的な喜びを与えてくれた。
私は天文学者になりたかったのだが、友人に天文学者がいたことが残念でならない。友人たちの中で天の軍勢とゴシップを交わすなんて!? 私は不思議に思う。天文学者は他の人たちと同じように地上のことに興味を持つのだろうか。火星の運河を研究している人は、西部戦線で失われた数メートルの塹壕の重要性には気づかないだろう。私はエルネスト・レナンは、1870年の(普仏戦争)パリ包囲中に著書の一冊を書いたと、どこかで聞いたことがある。そして「それをとても楽しんだ」と書いている。彼は哲学者と呼べるかもしれない。
また死の直前には、唯一の心残りは、「あの極めて興味深い青年、ドイツ皇帝(第一次大戦当時の皇帝)が何をするのかを見る前に死ななければならなかった」ことだと語っているそうだ。
もし今、ルナンが歩いていて、「あの面白い青年」が、世界どころか、愛するフランスに何をしたかを見たら、彼の精神的な離脱(現実を離れて思索に籠ること)は、果たして1870年当時と同じように完全なものであっただろうか。

(1467) バーデンヴァイラー行進曲 - YouTube(を聞きながらこの場面を読むと一層味が出ます)

1918年6月19日(水曜日)
ニュースは良いものだ――イタリア人は見事に持ちこたえている。私は感謝している。もう災害の影で家を離れる必要がないことに感謝している。
私はすべて荷造りをして、1時間後に出発します(島へ里帰りする)。旅が終わればいいのだがが。子供二人を連れての旅はかなり大変なはず。そして私は本当に行きたくない。
しかし行ってしまえばアニーおばさんを誘えるかもしれないし、おばさんには変化と休息が必要だ。でも一人で出かけるなんて、とても無理なんです。

1918年6月22日 土曜 正午
ビクトリアホテル シャーロットタウン、PE島
( lovry be, here we are. (私たちは親愛なる島にいる)昨夜、私たちは3時間遅れでサックヴィルに到着した。私は ボートトレイン(連絡船に直結する汽車)が待っていてくれないかと心配していたのだが、ちゃんと待ってくれました。私たちは最も退屈な時間を過ごした。 暗闇の中、オルメンタインまで退屈な船旅を強いられた。
私はこのとき新しいカーフェリーのルートを通るのは初めてだった。慣れてくれば好きになるかもしれないが、しかし昨夜はひどいものだと思った。 重い荷物と疲れた子供二人を抱えて、爽快な気分にはなれなかった。 そして私の周りにいるすべての男性が、私のために荷物を担いでくれたり、子供を抱き上げてくれたりする人はいなかった。確かにカナダの男性の大半は、他の美徳は持っていても、騎士道精神は持ち合わせていないのだ。(ヨーロッパに比べて自由主義精神が発達しているのだろう)
ボート(連絡船)が(列車ごと)トーメンティンを出発したのは11時20分、幸運なことに、二人の若者(我が子)は列車に乗るとすぐに眠り、Ch'town(シャーロットタウン)までの道中ずっと眠っていた。 2時半に到着したCh'townまでずっと眠っていた。
ようやく ホテルで寝たのは3時過ぎだった。今日は天気がよくてはっきり言って涼しい。しかし私は今、Ch'townにいる他人のように感じている。この町は私の少女時代の町ではないようです。 私は「ザ・スクエア」(シャーロットタウンの中央にある公園)の周りを散歩して、「自分を取り戻そう」とした。 広場を散歩して、「自分を取り戻そう」としたができなかった。 戦争のニュースはいいものだと思うが、島の新聞ではとても惨めに混ざり合っていて不十分なものだ。少なくとも、カリアンはまだ持ちこたえたままだ。

1918年6月25日(火曜日)
キンロス、P.E.アイランド
土曜日の午後、私たちはBellevue(ユアンの出身地)に出かけ、この午後滞在した。
Rc(夫ユアンの兄弟か何か)と彼の新しい妻は、彼よりも年上の未亡人で3人の子供がいる。Ewanの母親は完全に記憶を失っており、このことを知らなかったし。私たちのことを全く知らないのだ。とてもかわいそうなことだ。私はこのようなケースをたくさん知っている。年を取るのが恐ろしくなる。
日曜日の大半は冷たい雨が降っていた。でも私はそれが好きだった。でも私はそれが好きだ "東部" らしくて(プリンスエドワード島には梅雨があるようですよ)。オンタリオ州では味わえない。オンタリオの雨には「噛みつき」がなく激しい雨も降らない。 夕方には突然、金色に晴れ上がった。
そこで牧師は、まるで人々を叱りつけるかのように説教をした。しかし私たちはその後、牧師館で夕食を取った。ある意味いい仲間だ。彼はスコッチマンで、その会話はちょっと......。 正確には、完全に精神的なものではない。月曜日の午後Rodは私をMontagueに送ってくれた。マッキンタイア博士の家に行くためだ。ドライブは楽しいものだった。これほど道中シダやモミの良い香りがしたのは初めてだった。昨日の嵐は(良い香りを引き出す)錬金術師のようだった。
先生のお母さんはパーク・コーナーのモンゴメリーで、「リトル・ドナルド」の娘の一人だった。私の母とは昔からの友人だ。彼女は私に親愛なる小話を聞かせてくれた。その話は他では聞くことのできない母の姿を私に見せてくれた。その話は他の何物にも代えがたいほど私に彼女を(母の様子を)明らかにし、私に彼女を現実のものとさせ、私との間にある溝をはっきりと理解させた。 母と二人の姉の間には、どんなに大きな隔たりがあったことだろう。そしてもし母が生きていたら母と私は仲良しだっただろう。分かり合えただろう、と。
「ある日、私がクリフトンにいた時、あなたのお母さんに会いに行ったの」 と老婦人は言った。 彼女は(母は)私の(老婦人)ために、"ああ、私はあなたに会ってとてもうれしい。″と言ってドアを開けてくれた。母は、私は一人ぼっちで誰かが来てくれないと耐えられないと思ったの。と叫んだ。 "そうか、今ここにいるから助けてあげよう"。と私は言った。"何かお困りか?" "ああクララが言った" "小さなルーシーモードは" "今日はとてもかわいくて" "ヒューは" いない。ジョンは留守だし、彼女を楽しませる人が誰もいない!"
この老婦人が、すぐに塵になってしまう記憶の奥底から、私のためにこの真珠(思い出話)を掘り出したとき、私は億万長者のような気分になった。この真珠は手に入れることができなかったかもしれない。まだ21歳の少女らしい母が、自分の赤ん坊の魅力に酔いしれた話は。私はそれを自分の赤ん坊の上に(私の母と同じ思い)を感じ、私がフレデを恋しがったことが何度もあったこと(母が一人でいて寂しかったように、私もフレデに来てほしいと願ったこと)も合わせて、ぽっちゃりしたチェスターと天使の目をしたスチュワートへの歓喜の気持ちしかなかった。
夕方、私たちは博士の大きな「オーバーランド」(大型のオフロードカー)に乗って出かけた。というのも自動車はついにこの島に到着したのだ。まだ火曜日と金曜日が、そして日曜日の複雑な規則がある(キリスト教の集会があるということを言っているのだろう)。 しかしこれもすぐになくなる。ある意味では私はむしろ喜んでいる。島が自動車に偏見を持っていることをバカにされるのは嫌だ。その一方でこの古代の平和の隠れ家で、自動車が存在することに憤りを感じる。古代の平和の昔の神々のために神聖にしておいてほしかった。
私はこの世界には車の警笛の音が響かない場所があるのだと思いたかった。車の警笛が香ばしい空気に響くことはないのだと思いたかった。しかし私は博士の車でのドライブを楽しんだ。というのも、ある不気味な老婦人が、私たちを通す(追い越させる)ために馬を手綱で引いてくれなかったからだ。他の(自動車に乗っている)連中は激怒していたよ。しかし私の心の中では、私はこの老女に同情した。
もし私が独身のおばさんだったら、邪魔な車にクラクションを鳴らされても指一本動かさないだろう。そうだ、私は彼女のように気難しく座り込んで、「溝を掘るか、悪魔になるかだと言うべきだった。見方次第なのだ。
今日はロッドに連れられてクリスティの家に行った。キャベンディッシュだ。

1918年6月26日(水曜日)
キャベンディッシュ、P.E.アイランド
この見出しを書くのは、これまでと同じように自然なことだと思う。昨日の朝私たちは街に出て、ファニー・ワイズと一緒に昼食をとった。そこで出会ったのはアイダ・マックイーンだ。24年前にシャーロットタウン駅で別れて以来一度も会っていない。しかし彼女は大きく変わってはいなかった――少し老けてはいたが、どこにいてもわかるだろう。
彼女はジョージ・サザーランド夫人で、Ch'townに住んでいる。 私たちは午後の列車でハンターリバーにやってきてそこから出発した。昔と同じようにマクギガンのチームで(貸し馬車屋か)、美しい夕暮れに出発した。メイフィールドの丘で私を知っているH.R.の人々のモーターオードに追い越され、彼らはキャベンディッシュまで送ってくれることになった。そこで私たちは這ってでも(馬車から)降りて、登って(自動車にか)乗り込んですぐにキャベンディッシュに着いた。
キャベンディッシュにはすぐに着いたが、キャベンディッシュは今でも自動車でやってくると大騒ぎになるところだ。 レアード・ヒル(Laird's Hill)の上で回転しながら(カーブしながら)下りてきたとき、私は顔を殴られたのだ(ショックを受けた)。3年前同じ丘に到着して、スプルース(松の木)の美しい生きた壁を発見して私はぞっとしたものだった。西側の美しいトウヒの生きた壁が切り倒されていたのだ。
この3年間、自然はその過ちを修復するために、親切にも最善を尽くしてくれた。その結果 あの森の斜面の素晴らしい美しさは変えられないがその醜悪さは治してくれた。見苦しい草木の山も、見苦しい切り株もシダや低木が生い茂り、その下には巣穴がある。この丘は再び美しい丘になった。
しかしこの打撃はもっとひどいものだった。学校林が切り倒されたのだ。かつては緑豊かで広々とした美しい丘が、切り株だらけの荒れ果てた姿になってしまったのだ。校舎はその頂上に、無造作に、卑猥に、裸で置かれていた。その光景は猥雑な光景であった。もし私に力があれば、この暴挙の張本人であるガーフィールド・スチュワートに唾を吐いていただろう。この暴挙の張本人であるスチュワートには、同情も後悔もなく、銃剣に唾を吐きつけていただろう。
その時だけでなく、その前を通るたびにひどく傷いた。何千本ものあそこの木が伐採されたことで、千の小さな哀れな亡霊たちが、住処や隠れ家を奪われたのだ。その木々の伐採によって 数多くの優しい思い出が暴力を受け追放されたのだ。あの場所は先輩の後をついて、恥ずかしげもなく入っていった最初の日以来、私がとても愛していたあの場所はその緑陰を汚されたのだ!
ああキャベンディッシュ、もう二度とあなたのもとには戻らない方がいいと思う。 しかし私はここにいてその古い魅力に半分酔っている。薄明かりの中の "恋人の小径" だ。明日行ってみよう。あそこには邪悪なものはないそうだ "あそこで" (切り倒す人間が)働いたことはないそうだ。それは良いことだ。

1918年6月29日(土曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
とても素敵な日々、とても気持ちの良い天気、旧友とのとても楽しい出会い。古い友人たちとの楽しい会合、美しい古い小道での筆舌に尽くしがたい散歩。私はとても幸せだ。ここにいてよかったと思う。戦争のニュースもいいものだった。イタリア軍はオーストリア軍を全滅させ、ピアヴェ川を越えて追い返した。しかし西側は(西部戦線では)まだ次の決定的な一撃を待っている。
私はグローブ(世界)を待ち望んでいる。だが私の飢えた魂は(この島の)神聖なマナで満たされ、他の憧れは麻痺している。私は若かりし頃この海がこんなに青くて、道がこんなに赤くて、森の片隅がこんなに野性的で緑豊かだったことを本当に覚えていない。杜の隅々は野生の緑に覆われ妖精に取り憑かれたようだった。そう、妖精はまだここに住んでいるのだ。自動車でさえ、彼らを追い払うことはできない。何人もの妖精がフェンスの向こうの古い果樹園に自生するコロンビアの白とピンクの鈴の中には 住んでいるのではありませんか?

1918年6月30日、日曜日の夕方
キャベンディッシュ、PE.I.
今日は暖かくて金色の曇り空で、愛すべき一日だった。マートル、チェスターと私は朝、バプティスト教会に行った。本当に、自動車よりも大きな奇跡について書かなければならない。
パイパー牧師は、どの教会のメンバーにも、聖餐式の席に他の人と一緒に座るように言ったのです。これはキャベンディッシュのハードシェルとともに奇跡的なことだ。本当に世界は動く! アーサー・シンプソン助祭も引きずり込まれた。
もし20年前に、アーサー・シンプソンと私が同じ聖餐台に座ることになると誰かが予言したら、私は無表情で笑っていただろう。アーサーは、その場でショックで心不全で死んでいたかもしれない(聖餐台に他人と一緒に座るなど考えられなかった)。しかし、それは実現したということになる。
しかし、もしアーサー助祭が、没頭していない「交わり」に何か疑問を感じたなら、その前に行われた説教で慰められたに違いない。この説教はパイパー氏ではなく、ウォレスという古いタイプの伝道師によってなされたものである。
彼はこの2週間、ここで「リバイバル」集会を開いている古いタイプの伝道者である。それは私がこれまで聴いた中で最も質の悪い「バプテスト」の講話であり、この場にまったくそぐわないものであった。――バプテスト教会にはふさわしくない。そうでなければ他の宗派の人たちに対する意図的な侮辱である。しかし私は少しばかり復讐できたと思う。
礼拝の後、私は外の人たちと話をしていた。アーサー夫人がウォレス師に引き合わされ、紹介された。哀れなアーサー・S夫人は私の母を憎んでいたように私も憎んでいた。私を憎み罵倒し続けた。しかし彼女でさえも、実在の作家から発せられる栄光の反射を浴びたいという誘惑には勝てなかった。
彼女(アーサー夫人)は私をウォレス牧師に「マクドナルド夫人」として紹介した。ウォレス師は退屈そうにうなずき、無関心な手を差し伸べてこう言った。どこのマクドナルド夫人でしたかな。
哀れなアーサー夫人は、自分の花火(モンゴメリをウォレス牧師に紹介したという興奮)がこうして平板になるのを見て、急いでこう付け加えた。慌てて「赤毛のアンの作者だよ」と言い添えた。

その男の顔には最も笑えない変化が訪れた。最初彼は驚きと喜びの表情を浮かべた。そのあと、あのひどい説教のことを思い出したのか、顔を真っ赤にした。彼の態度は、恥ずかしさと賞賛が入り混じった最も滑稽なものであった。彼は再び私の手を握りこう叫んだ。この日を迎えるまで生きられると思ったか」――彼は賛辞に賛辞を重ねた。
そのとき私は、彼が心の奥底で「ああ主よ、私はなんと愚かなことをしたのでしょう。どうしてあんなことを言ったのだろう? と思っているのが見えた。しかし私は彼を少しも憐れんでいない。彼は虚偽の供述をしたのです。嘘だとわかっていたはずなのに。しかし彼は、無批判の田舎の聴衆にそれを押し付けようと考えたのです。 批評家のいない田舎の聴衆にしたのですから自業自得です。このような混乱が彼の腎臓に降り注ぎますように!
夕食後スチュアートが眠っている間にアーネストはチェスター、マリオン、キース、私の3人で池に漕ぎ出した。 キースと私は池から岸辺に漕ぎ出して岸まで漕ぎ下ろし、楽しい午後を過ごした。チェスターは初めてパドリングを体験した。最初は怪訝そうに後ずさりしていたが楽しんでいた。牧師の息子だけでなく牧師の妻も漕ぎだした。奥さんも行った。アーネストが撮ったスナップ写真で私は足を隠したと思った。足を隠したつもりでしたが数奇です。誰が見てもわかるようにね。

左からチェスター、マリオン・ウエッブ(モンゴメリが赤毛のアンのモデルにしたマートルの娘)
モンゴメリ、キース・ウエッブ(マートルの息子)

1918年7月10日(水曜日)
プリンスエドワード、キャベンディッシュ
牧師館で楽しい滞在を過ごした。私はむしろ行くのを恐れていた。 というのも前回の訪問は、いくつかの理由からまったく楽しいものではなかったからだ。しかし今回は全く楽しいものだった。
私が行った晩は雨が降っていた。キャベンディッシュで初めてひどい雨に降られたが、しかしそんなことはお構いなしに、マーガレットと私は、魂を満足させるような楽しいゴシップに没頭した。次の日は晴れだった。旧友が何人か電話をかけてきた。夕方にはスチュアートと私で墓地を散歩した。この島独特の魅力をあらためて痛感した。
もう枯れてしまったと思っていたある種の空想の源泉が昔のようにみずみずしく湧き出し、再び詩人となった......。 疲れた二人の赤ん坊をベッドに寝かしつけたとき、私は自分自身に小さな密かな喜びを得た。黄昏時に一人で出かけた。私は家に帰るつもりだった "角まで歩いて行くと" "ニューロンドンの灯が見えた。霞のかかった空に、それから学校の道に沿って行き、フェンスに登った。かつて私たちが通っていた道に入る。私は目をつぶって、この道を歩いていた。
干し草の間からフェンスを覗き込む。昔と同じように古い小道があり、木々の間から故郷の光が差し込んでいると想像した。木漏れ日の中で、家の灯りが輝いている。でも気がつくと その「果樹園の前」にいるのだから、それ以上のことは想像もつかない。そこには月明かりは、前回行ったときのようには変化していなかった。タイグレーの薄明かりがすべてが荒れ果てた姿になっていた。
ジョン叔父さんは、木立の中でさらに多くの木を殺していた。古いカエデも愛すべき白樺も、すべて失われていた。かつての我が家の割れた窓ガラスから古びた白いブラインドの切れ端がひらひらと舞っていた。かわいそうな老木は、なんと悲しくなんと寂しく、なんと情けないことか。
私は裏側に回り、ドアがワイヤーで固定されているのを確認した。私はもう二度とすることがないと思っていたことをした。もう一度、古い敷居をまたいだ。私は古い台所に立っていた。それははっきりと見えた。朽ち果てたアスターの湿った臭いが重く空気中に漂っていた。私は居間と応接間を通り抜けた。それぞれの場所で目を閉じていると過去に戻ったような気がした。すべてが昔のままだった。絵も椅子もその場所にあった。私は暗闇の中で階段を上り、昔の部屋の敷居に立った。
私の昔の部屋、つまり私の昔の小さな無限の王国の敷居に立った。しかし、私は中に入らなかった。窓は板で覆われ、部屋は真夜中のように暗かった。どういうわけか私はそこに入ることができなかった。孤独で飢えた幽霊がいっぱいだった。彼らは私を彼らの中に引き込み、閉じ込めたことだろうう。そうして私は人間の世界から姿を消し、誰も私がどうなったか知ることはないだろう。私はそんな馬鹿げた考えに取り憑かれていた。
しかし私は「見張り台」と「北の部屋」を通り抜けた。そしてまた下りて家を出て、去った。影の国への巡礼は不気味なものである。 不思議な甘さがある。私はもうこれ以上はしません。 今夜はアレックの家に来た。

1918年7月13日(土曜日)
プリンスエドワード、キャベンディッシュ
私たちはとても楽しい時間を過ごしている。天気もいいし子供たちもいい。アレックとメイと私は遊びに行った。一番楽しい時間は夜の9時以降だ。家事を済ませるとベッドに入る。私たち3人はダイニングルーム(食堂だろう)に入り、テーブルを囲んで2?3時間、食べたり、話したり、笑ったり。メイは世界でも指折りの料理人だ。料理に昔の思い出、つまり過去の最高のエッセンスが保存されているのだ。
前回来たときは、誰のせいでもない貧しい訪問だった。内心では喜んでいた。しかし今回はとても残念なことになった。 今日は天気も良くのどかな一日だった。夕食後、私は子供たちを連れて海岸に行った。そこにいる間に私は砂の上に座り、小説を読んだり夢を見たりした。帰ってくると、スターリング夫妻(新しい牧師夫妻)が友人の自動車でやってきて、みんなで港まで一走りした。
今日の夜、アレックは私をリジー(スチュワート)・レアードの家に連れて行き、(自分の)用事がある間私をそこに置き去りにした。それはかなりぞっとするような経験だった.
リジーとは結婚以来疎遠だったんだ。昔は仲が良かったのに。でも6年前に正気を失い病院に入院して以来元には戻れないの。
見た目は老けていて物静かで変ね。私に会うと嬉しそうにしていたが話そうとしない、あるいは話せないのか。もしエヴェレットがいなかったらどうなっていたか。彼は4人分の話をした。私は彼のような会話はあまり好きではないが、私の悲惨な苦境を乗り切るために何でも感謝していた。(なんでも話して間をもたせてもらいたいのだ)
体の病気も大変だが心の病気はもっと悪い。まるで友達の死体が動いて、まるで死んだ友人のように動いたり話したりするのだ。あんなに楽しく過ごしたリジーはどこへ? いないんです。どこにいても、一度だけ帰り際に再び現れたことがある荒れ果てた家の窓から顔をのぞかせたわ 。
「相変わらずね、モード」彼女は昔の調子で言った。"あなたは全く変わっていない"。彼女はそれだけを、何も言わずに(感情がこもらない声で)言ったのだ。私は笑って答えた。 「白髪が増えたわね」と笑ったが、しかし、"リジー " は去ってしまった。彼女の色あせた体を簒奪した生き物は、その晩から(気がふれた晩から)ずっと使っていた妙にたどたどしい不自然な口調で答えた "ご立派でした" と。(このご立派でしたは、モンゴメリが成功したことを言っているのだろうが、彼女はもはや昔の親しさがなくなってしまったと言っている)私は悲しくなって帰ってきた。

モンゴメリと息子スチュワートとアレック・マクニール

1918年7月17日(水曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
私は震える指でガーディアン(新聞)を開いた。しかしそのニュースは心強いものだった。
ドライブはすでにチェックされているようだ。だから私は午後ハモンドの店へ元気に出かけた。とても楽しい時間を過ごすことができた。
2年前に亡くなったToffを懐かしく思った。でもマーガレット叔母さんは、まだそこにいる。95歳の奇跡のようなおばあさんだ。最も繊細で可憐な空想の仕事をすることができる。私には何の変化も感じられないが少しやせ細り、チェスターは彼女を興味津々で見ていた。好奇心旺盛なチェスターは、私たちが帰った後、私に言った。
"お母さん、95歳って言った?"「そうだよ」と私は答えた。「母さん、そんなはずはない」と彼は言った。" あのベッドは小さかったし、とても小さくて、もし彼女が95歳だったら入ることができないだろう " と言った。貧乏人は生きてる限り成長すると思ってたんだろう。95歳の人は巨人に違いないと思っていたのだろう。
夕方、アレックが迎えに来て、港に向かう「海岸道路」をドライブした。それは楽しいことでした。

1918年7月19日(金)の夜
パークコーナー
昨夜散歩から帰った後、メイに言った。「今夜はジェーンを呼んで楽しもう」 と。そこである物語、いや、もっと悪いことに説明が始まるのだ。それは私が初めて「テーブル・ラップ」(霊からの通信を受け取る遊び)を覚えてから28年になる。プリンス・アルバートでよくやった。
帰郷後キャベンディッシュの若い稚魚たちに紹介したところ、冬の流行りの娯楽になった。しかし飽きてやめてしまった。10年ほど前あることがきっかけで再び始まった。 ある冬、私たちはこの遊びで大いに盛り上がった。私はウィル・ヒューストンの家での素晴らしい夜を思い出す。
奇妙な答えがたくさん返ってきた。しかし私はすぐにこのような娯楽をやめた――少なくとも人前では。二つの理由からだ。第一に、「私はテーブルを押した」と言われるのが腹立たしいのだ。 もうひとつは無知なゴシップが氾濫し、わたしが悪魔と取引しているという奇妙な話を流したことだ。 私はいわゆる「スピリチュアリズム」というものを一度たりとも信じたことはない。今まで見たもの、読んだもので、死者との交信が可能であると確信したものは一度もない。
しかし私は次のことを信じている。私はこのような現象は私たち自身の中に存在する何か不思議な力によって生み出されたものであると信じている。 潜在意識と呼ばれる不思議な部分によって生み出されるのだと思う。 その法則は全く知られていない。しかしその力を支配する法則があり、その法則によって生み出される動作は至極当然である。その鍵さえ手に入れることができれば、完全に自然なものだと私は確信している。
私は5月に人前で(他人の前で)テーブルラップをするのをやめ、自分たちの楽しみのために内輪で続けていたが、私たちは午後のひとときを楽しく過ごした。私たち二人は宗教的に舌打ちをし、決して外に漏らすことはなかった。無知や悪意が私たちに舌を出す(他人に訝しがられないように)隙を与えないように。
私たちはメイの応接間にある小さな四角い「おしゃれな」テーブルを使い、便宜上、それを動かす力を "ジェーン" と呼んでいた。また面白半分に霊がいると仮定した。 霊が存在し、私たちとコミュニケーションを取りたがっていると考えたのだ。その結果その中には奇妙なものもあった。メッセージの中には奇妙なものもあった。
私たちは時間的、私たちは時間や空間を限定せず、"轟音アレック" の「精神」スチュワートは「ジェーン」を通して、エリザベス女王やセント・ポールと同じように自由に語りかけてきた。後者は常に聖書的な表現でメッセージを発していた。私はそれを理解したり説明したりするつもりはない。特にあるメッセージは説明することができず、奇妙な寒気を覚えたことがあった。
その夜私たちは輪になって食卓を囲んだ。"ジェーン" がアレックの父親の "ミスター・チャールズ" からのメッセージをラップしていた(媒介していた)。そのメッセージは、"See to our Pensie's" (我らのペンシーを見よ)と始まっていた。 この時メッセージを綴っていた私は、次の単語は「息子」か「子供」だと確信した。その場にいた他の人たちも皆そう思ったと後で教えてくれた。 同じように思ったと。しかし次の言葉は "grave"(墓)だった。他の客が帰った後、メイとアレックが話してくれた。ペンシーの夫が墓石を建てなかったことで、墓は灌木が生い茂り、どこにあるのかわからない。

アレックとメイ以外は誰もこのことを知らなかったが、彼らは墓などという答えがあったとは思いもよらなかった。とはいえその知識は彼らの潜在意識にはあったのだろうが......。 不思議なことにテーブルラップを見たことがない人が、その輪の中に一人でも二人でもいると、たとえ信じられなくとも、テーブル・ラップが始まるまでの時間が長い。
私はしばしばテーブルラップが動き出すまでに3、4時間も座っていたことがある。 「緑」の輪が動くまで、3、4時間も座っていたことがある。しかし一度動いたら、その後はずっとその同じ "円" (テーブルラップをしている一同)が座っていると、テーブルのラップは非常に速くなる。
昔の午後のひとときメイと私がテーブルに手を置くと、すぐに "ジェーン" が反応した。しかし昔それを試してからあまりに長い時間が経っていたので、ラップができるまでにもそれなりの時間がかかるだろうと考えていた(ラップ現象と言うのは物が霊によって動かされることだと言われていた)。ところが驚いたことに、私たちが両手をテーブルに置いた瞬間、テーブルはほとんど跳ね上がったのだ。
私たち、あるいは私たち双方に与えられた印象は、何かが私たちを見たことを驚くほど喜んでいて、その喜びで飛び出してきたというものだった。私たちは「ジェーン」を1時間楽しんだ。 コミカルな質問をして、"ジェーン" に昔の呆け顔をさせるだけで満足した。 「二足歩行で部屋の中を歩き回ったり、お辞儀をしたり、踊ったり、音楽に合わせて歩いたり。などなど。
それが終わると、アレックは横になっていたソファから立ち上がりこう言った。 "君には他の人にはない何かがあるね" と言ってベッドに入った。今朝スチュアートと私はアレックと一緒にパーク・コーナーに行き、ハム・マクニールがチェスターと私の荷物を運んでくれました。白樺の下に車を走らせると、フレデリックが井戸の前にいて、アザラシのように太っていて、まるで笑いの精霊のようだった。
それ以来、私たちは話し続け、まだ舌はすり減っていない。話すことはいくらでもある、いいかい......話すことが何か役に立つのならね。 話すことが良いことならね。この国の社会は悪いことばかりで複雑だ。私は出口が見えず、心底うんざりしています。でもとても疲れている。でも、それでも、またここに来られてよかった。アレックに言わせれば、「パーク・コーナーは他の場所にはない何かがある"...。 と。
(モンゴメリはテーブルラップをするとき、呼ばれてきた霊が机を動かしたのだと言いました。しかし他の人たちは、それはモンゴメリが机を蹴って動かしたに違いないと言っていました)

1918年7月22日(月曜日)
マルヌの奇跡は繰り返された。あまりにも素晴らしい夢のようだ。ドイツ軍はマルヌ川を越えて再び押し戻された。これは終わりの始まりなのだ。長い苦悩が終わったと確信している。フリーデはやや悲観的だが、私は突然、楽観主義のバラ色の波の頂上に舞い上がった。
昨日、Life lowatt がモーター(やはり自動車のこと)を持ってやってきて、私たちをプリンストタウンまで連れていってくれた。 ――「私たち」というのは、フレデ、アニーおばさん、私、エイミー、スチュアートだ。(6人乗ったと言う事で、座席が3列の車だろう)
アニーおばさんにとっては初めての自動車での旅だった。とても気持ちのいい日だった。海もきれいだった。エミリー叔母さんはあまり調子がよくない。深刻かもしれない。私たちは夕方まで楽しく過ごした。 私たちは徴兵制について、フレデと私がE(エミリー叔母さん)おばさんに対抗して、愚かな論争になった。 私たちは皆かなりエキサイトしてしまい、辛辣な言葉も飛び出した。
(アニー叔母さんとエミリー叔母さんは、姉妹なのに全く性格が違う事から別の魂が入ったのだと考えられる)

エミリーおばさんのようなタイプの女性と議論するのは、いつも愚かなことだ。彼女は以前の母親(モンゴメリのお婆さん)と同様、視野が狭く無慈悲なのだ。私たちはたとえ彼女がフレデに何度も嫌味を言ったとしても気にしてはいけないのだ。私たちは彼女の性格をよく考えた。家に帰るまでずっと悔やんでいた。
「モーディ」フレデが言った。もしエミリー叔母さんが今夜心臓麻痺で死んだら "私たちが殺したことだと思う?" "神のみぞ知る" だ。私はそう言って震えながら懺悔した。エミリーおばさんを苦しめた甲斐があったというものだ。しかし彼女はいつも、私が彼女と一緒になるたびに、私の歯を歯ぎしりさせ続けていた。歯がゆい思いをさせられた。
でも彼女は時々とても親切で、とても陽気のだ。ただ祖父は "掘る"(細かく詮索する)ことが好きで、祖父はそれを克服することができなかったし、彼女もできなかった。"ディグ"(相手の言葉に突っ込んで反論すること)の満足感は、愛情や友情の喪失と釣り合うのだろうか?。
エミリー叔母さんはいつもアニー叔母さんが与えてくれたような愛と信頼を、人々が自分に与えてくれないことに 憤りを感じていた。しかしその原因が自分自身にあるとは、思いもよらなかったようだ。
私が幼い頃、エミリー叔母さんに言われた言葉で忘れられないものがある。小さな毒矢のようなもので、それ以来歯がゆい思いをしている。でもおばさんはそんなこと言った覚えはないし、そのことを聞かされたら、きっと驚くでしょう。エミリーおばさんは徴兵制が嫌いなんでしょうね、だって怠け者の息子がいるんですもの。ジャック・モンゴメリーは入隊しようとせず、何とかして徴兵を逃れました。叔母はそれを感じているはずですが表に出すことはない。ジャックは惨めな人間だ。 母親の病気は彼のせいだと思う。低俗な付き合いを好み、野心もなさそうだ。
そうですね。フレデと私はエミリー叔母さんに厳しかったが、今夜夕暮れ時に北側のベランダに座って、私たちが言ったこと、彼女が言ったことのいくつかを思い出して、吠えたんです。私たちは彼女が昨夜死んだという話は今日聞いていない。 悔やんでも悔やみきれない。フレデと私はいつも笑っていられるのだ。それは私たちの間の絆の最も強い紐の一つだ。
どんなことにもジョークが潜んでいればフレデと私はいつでもそれを引きずり出し、決してずるずるとは隠さない。そしてもしジョークがなかったら冗談を言うことができる。アニーおばさんは時折、「ああ。"私くらいになると 笑えなくなるわよ"」という。そうですね。でも70歳になってもフリードと二人でお出かけすることは考えられない。70歳になっても笑えないなんて......あの狡猾に潜むユーモアに気づけないなんて。(私とフレデは人生に何があろうと楽観主義で生きようとしている仲間だということ)
私は四十三歳で、彼女は三十五歳。 彼女は三十五歳で(人生の)酔いがさめるには十分な年齢だった。そして神は知っている、私たち二人の人生には、酔い覚ましの経験(浮かれていられない悲惨な経験)がないわけではない。しかし私たちが一緒にいると、16歳の時のような自由奔放さで笑うことができる。

1918年7月28日(日曜日)
美しい日だ。今日の午後アニーおばさんとダンと私は、車でロングリバー教会に行った。帰ってきたらライフ・ハワットがやってきて、私たちをハワット氏の家まで車で連れて行ってくれた。
ハワット氏の家でお茶をした。私たちは島の人たちだけができる、あるいはできる、素晴らしい「スプレッド」を食べた。(ジャムのような物)
島の人たちだけが作れる、あるいは作ることができる、そして彼らは今でも作り続けている。食の安全が叫ばれているにもかかわらず。私の家ではケーキを食べたことがない。(我が家は自家製食品ばかりなので、買ったケーキの添加物など心配しないと言っている)
でも島に来てからたくさん見て、たくさん食べた。それは認めるよ。星空の下車を走らせ家に帰った。そしてフレデと私は寝る前に座って、すべてのことを話し合った。

1918年7月30日(火曜日)
マーガレット・スターリングが昨日の夕方にやってきて、彼女とフレデと私で、ちょっと楽しい夕飯を食べた。ゴシップや思い出話に花を咲かせた。 今日は奇妙なことがありました。私はテーブルに3人並んで座るのが好きではない。理性がそう言っているのだ。理性よりももっと原始的な何かが不安であると主張している。不安なのだ。
16年か17年前、ある晩のパーティーで、私は13人掛けのテーブルに座った。そこには私の学友の一人、ウィル・スチュワートがいたが、彼は6週間も経たないうちに死んでしまった。そのときから今日まで13人と同席したことはない。ここには大勢の人がいて、特に子供たちが多いのだが、私が来てからというもの全員が一度に食事に座ったことはない。アニーおばさんやフレデやエラがテーブルの上で待って、その後に食べるのだ。
ところが今日の夕食時、偶然にも私は興味本位でその人数を数え始めた。ジョージ、エラ、アニーおばさん、ジョン・コール(雇い人)、エラ。 コール(雇い主)、私、フレデ、ダン、エイミー、ジム、ジョージー、モーディ、チェスター、そしてスチュアート......13人だ。何よりも冗談のつもりで、私は「どうして私たちは13人なんだ。と言った。
次の瞬間、私は「病気か、なんて馬鹿なことを言ったんだ!」と思った。ここで エラは出産を控え、憂鬱で悲観的な状態です。もし彼女が13の迷信を信じたら、それが彼女の心を食い荒らし、悲惨な結果を招くかもしれない。エラの頭からそんな印象を消すために、私は笑ってフリーデに言った。「フレデ、君は13番目に座ったんだから、きっと君のための前兆だよ」。 しかしフレデは飛び上がって、テーブルには座らないと宣言したのだ。
私はまた笑って、「あら、座って食べ始めていたじゃない。今さら起き上がっても無駄だ、お前の運命は決まったようなものだ。座って食べればいいじゃない。と言った。しかしフレデはそうしないと誓って、ポーチに去っていった。
ジョージは迷信を知らなかったようで、私たちを見て大爆笑。私たちを笑い飛ばし、フレデと私を馬鹿者呼ばわりしました 確かに私たちはバカだった。しかしこの些細な出来事が、なぜか私の心に不愉快な印象を残している。エラだったらどうしよう......バカバカしい! そんなバカなことを考えるのは許しません。今夜はみんなを寝かしつけた後、私とフリーデはビーフハムを焼いて食べた。私たちはビーフハムを愛しているのだ。亡き人の魂はビーフハムを食べるのだろうか。

1918年8月4日(日曜日)
パーク・コーナー、PE島
パーク・コーナーにいられるのもあとわずかだ。明日出掛けよう。フレデとアニーおばさんと息子2人と私。残念としか言いようがない。ここで楽しく過ごせたからだ。冥王星の領域でも楽しめそうだ(たとえ遠くの星にいてもこの人たちとなら楽しめる)。
しかし別の意味で大変だった。10歳未満の子供が7人もいて一家団欒のようなものだ。チェスターとスチュアートが従兄弟たちと仲良くしていなかったわけではない。それどころか彼らはとてもよく気が合っていたのだ。しかし二人の意見が一致すればするほど、耳障りな騒動や、恐ろしくて聞き捨てならない擦り傷が増える。
外での揉め事は恐ろしく、聞き捨てならないものだった。ある日アニーおばさんが(子どもたちが)納屋の裏の大きな泥の水たまりを木の枝で激しく叩いているのを見つけた。彼らは頭から足まで泥まみれだった。彼らは「戦うドイツ人」だったのだ。水たまりを塹壕に見立てたのだ! 
実際、平和だったのはたまにケンカして、仲直りするまで1時間くらいすねてるときだけ。 チェスターとジムは特に仲が良かったが、それでも政治的なことで、夜寝静まった後に辛辣な議論を交わすこともあった。フレデと私たちは暗闇の中、ドアの前の階段に座って彼らの話を聞いていたものだ。その信じられないような演説に、笑いをこらえて二度見したものだ。
雇い人のジョン・コールは、風変わりな老人で、チェスターを非常に尊敬している。フレデは、チェスターを初めて見たときの彼のスピーチを引用して喜んでいる。 「こんな脚は見たことがない、こんな脚はピネットで強い船長を見たとき以来だ」と。私は彼が成長したときに、その道を横切るような男にはなりたくないと言っていた。フレデにチェスターを褒められると、いつもくすぐったい気持ちになる。彼は彼女のお気に入りだ。
多くの人はスチュアートのほうに心を奪われます。彼は陽気で小さな顔をしていて、そして魅力的な性格ですぐに愛されてしまう。来世での落とし穴になりそうだ。それに対してチェスターは、どちらかというと控えめで、よそよそしい小さな人間で、最初はそれほど良い印象を持たなかった。しかし彼はずっとフリーデの 二人とも「一人歩きする猫」で、他のトムやタビーがどうであろうと、ほとんど気にしない。しかし、私は遠くをさまよっていたので、自分のマトン(羊肉のことで、自分の家庭での仕事に戻らなければならないという事)に戻らなければならない。
私がパーク・コーナーを去ることをむしろ喜んでいる理由だが。本当の理由は、今ここで起きている本当に恐ろしい不幸な状況のためです。年々悪化の一途をたどり、とうとう耐え難いほどの高みにまで達してしまったからだ。この町に住む人々にとって、まったく耐え難いものと思われるからだ。私にはこれ以上、災いなくして、このままではいけないと思うのだ。神様もこの状況にうんざりしているに違いない。
私の子供時代と少女時代、パーク・コーナーは世界で最も幸せで陽気な場所のひとつだった。アニーおばさんがジョン・キャンベルおじさんと結婚したのは、おばさんが28歳の時で、おじさんは42歳だった。どちらの側にもロマンチックな愛があったとは思えない。アニーおばさんには愛はなかったろう。でも二人はとても幸せだった。パーク・コーナーにあったジョンおじさんの農場は、現在もP.E.島で最も素晴らしい農場の一つだ。200エーカーの肥沃な土地に、何エーカーもの素晴らしい畑があった。

林、岸辺の権利、池の泥水と釣りの権利、農場のすべての野原の水、果樹園、そして大きな美しい家。キャンベル家は古き良き家系であった。カナダに移住した初代キャンベルは、キャプテン・キャンベルと呼ばれ、ブライダルベイン伯爵家だった。
カナダに移住したキャンベル船長もブライダルベイン・キャンベル家の一員だった。古い言い伝えがある。ブライダルルベイン伯爵家の跡取りだったという言い伝えがある。しかし彼は祖国で不幸な結婚をし、やがて妻と別れてカナダに渡り、離婚しないままタウンゼント嬢と結婚した。 ――マクニール曾祖母のいとこである。この話が本当なら、彼女は確かに彼の正式な妻ではなかった。しかしその権利が疑われることはなかった。しかしPE島とスコットランドの間にほとんど通信がなかった当時、たとえそれが望まれても、彼女の権利が問われることはなかったろう。
この話には何の意味もなかったかもしれない。それはある日突然スコットランドから"ヴォルデモート" と名のった見知らぬ男がやってきて、キャンベル船長に会いたいと言ってきたことから始まったと思う。故郷の妻と家族の知らせを持ってきたと言ったからだ。キャンベル船長は彼を追い払い、その話を否定した。それでこうなった。
彼の息子、ジェームス・キャンベルは、パーク・コーナーの農場に定住した。彼の最初の妻はエリザベス・モンゴメリー、リトル・ドナルド・モンゴメリーの妹である。 2、3人の息子を産んだ後に亡くなった。その後彼は彼女のいとこと結婚した。私の祖父である「ビッグ・ドナルド」モンゴメリーの妹です。当時、モンゴメリー家は名前に不自由していたようだ)。同姓同名の妻が2人いるというのはかなり奇妙な感覚だろう。私には幽霊のように見えただろう。
彼らは大家族で17人の子供がいた。一人の女性が17人の子供を産むなんて、想像してみてください。でもエリザベスおばさんが70歳を過ぎたある日、アニーおばさんにこう言ったそうです。 「不思議な感じがする。それはきっと、あなたが言うところの疲れなんだわ」。エリザベスおばさんは、私たちがそう呼んでいたように、おばさんがパーク・コーナーに住んでいた頃、アニーもそこにいた。アニーがいた頃は、エリザベスおばさんがパーク・コーナーに住んでいたので、よく覚えている。
彼女は私が大きくなるまで生きていた。とても優しいおばさんで、目がとても大きくて深く澄んでいた。 若いころは絶世の美女だったが、人生には悲劇があった。あるとき、昔島でコレラが流行ったとき、彼女は子供を産んだ後、病床に伏していた。起き上がったとき、彼女は次のことを知った。一週間のうちに4人の子供がコレラで死んだのだ。その後二人の息子も若さゆえの溺死であった。最後に、彼女の夫が、50歳まで平均的な生活を送っていた夫が、突然訳のわからないことに酒に溺れ、墓場まで飲み歩いてしまった。
彼の息子たちの中には決して模範的とはいえない者もいたが、ジョン・キャンベル叔父さんは 親切で、寛大で、心が広く、道徳的で、禁欲的で、正直な、最高の男だった。私はいつも彼を愛し、彼の中に固い友を見出した。私は彼のことが大好きだった。もちろん彼にも欠点はあった。インテリゲンチャは彼の長所ではなかった(知識人ではない)。読書もしない。感情的に非常に不安定だった。しかし幸いなことに彼の気質は最高であった。
ジャッキーちゃん(ジョン叔父の孫のことか)の葬式で、あんなに悲しんでいた、ジョージとエラの間に生まれた長男のジャッキーが肺炎で亡くなったときの葬儀では、彼の悲嘆は見られたものではなかった。ジョン叔父さんは彼を偶像化していたので、葬儀屋が棺を閉じようとしたとき、フレデと私はほとんど力ずくで彼を棺から引き離さなければならなかった。その頃彼が50歳か55歳くらいのとき、感情的な伝道師キーリーが開いた集会(バプテスト派の集会か)によって「改宗」した。彼は少し頭がおかしくなっていたようだ。 (個人の日記なので説明不足のところがある)

その時彼は「宗教」のことしか話さず、2、3年の間、その家に通う人たちを退屈させていた。しかしその波は突然去り、アンクル・ジョンは元の姿に戻った。彼はいつも最後まで善人であった。しかしその宗教的な痙攣(のめり込み)は、新しく身につけた「恩寵」という耳障りなうめき声の習慣を除いては何も残っていなかった。ジョン叔父さんの父親は50歳にしてディプソマニアックになり、ジョン叔父さんの精神的な激変は宗教的な形をとった。それが大きな違いだった。
アンクル・ジョンは、世界一の働き者であったにもかかわらず、ビジネスの勘が全く働かなかった。商売っけがない。一銭も貯金することができなかった。お金は指の間を水のように流れていった。金持ちになるはずの財産を持ちながら、必要な生活をしていた。長い人生の中で貯蓄をすることもなく、わずかな借金を残してこの世を去った。 これはジョージ(ジョン叔父さんの息子か)のせいで彼のせいではない。
アニーおばさんはある意味で素晴らしい女性であった。働き者で最高の料理人であり、立派な家政婦だった。しかし彼女もまたその資質を持っていた(商売っ気がない)。それが結局は悲劇を生むことになった。彼女には「ビジョン」のようなものがなかった。彼女の家族の前には、最も物質的なものを除いて、何の理想も示されていなかった。援助、低次元では ジョンおじさんと同じように、彼女も倹約と商売の能力に欠けていた。彼女は毎年バターと卵と鶏肉(農場から上がる資材)で大金を稼いでいたが、そのうちの1セントも貯蓄したことがなかった。すべてもてなしのために惜しみなく使った。
これは自分たちの親族が関係している場合には、許されることだったかもしれない。しかし彼らは島全体に対して「オープンハウス」を続けていた。来客が絶えなかったのだが、彼らは自分たちのことなど気にも留めず、ただパーク・コーナーを便利な寄合場所に変えた。夏の一日、あるいは勝利の夕べ(祝い事)に「仲間」がいないことはめったにないことだった。アニーおばさんは、このことをとても誇りに思っていた(祝い事があるたびに他人にまで大盤振る舞いをした)。
ジョン叔父さんはホスト役を楽しんでいた。長いテーブルに座って肉やガチョウの大皿を切り分けているときほど幸せなことはなかった(お祭りのような家だった)。アンクル・ジョン・キャンベルは今どきめったに見られないようなやり方で切り分け、料理を提供することができたのです。彼は 複雑な年老いたゴブラー(オスの七面鳥)を解剖し、みんなに好きな部位を与えることができる。そして常に簡単な会話を続けることができたのだ。全盛期にはこのようなことはとてもよかったのだ。しかしジョン叔父さんとアニー叔母さんが年を取ると頼るべきお金がなかった。何もかもが贅沢になってしまったのだ(貯金もせず贅沢でお金が残らなくなった)。
二人の間には、クララ、ステラ、ジョージ、フレデの4人の子供がいた。フレデは彼らにとって唯一の慰めだった。一番上のクララはいい子でかなり美人だった。気立てがよくて楽しいことがいっぱいある。しかし彼女の知的能力は小さく野心もなく、ただ着飾り友人を豪華にもてなすだけだった。しかし彼女にはとても愛すべきところがあった。 私と彼女は少女時代とても仲が良かった。 クララが17歳のとき、彼女の両親は私が理解できないことをした。ボストンに行って、家政婦になることを許したのだ。フレンチ・リバーやパーク・コーナーの少女たちの多くはそうしていた。しかしクララにとっては、それは考えられないことだったし、やめるべきだった。クララは、結婚するまでそこにいた。彼女は低い階級の友人を持ち、その階級で結婚した。

ジョン叔父さんとアニー叔母さんは何を考えていたのか、私には想像もつかない。二人とも立派な家柄で伝統的な家柄である。その考え(クララが低い階級の友人と結婚したこと)には恐れおののいたことだろう。しかし逆に二人はそれを奨励した。
ステラは賢く有能で、陽気な人だった。最初は気性の激しさはそれほどでもなかった。そのあと、それほど頻繁には狂暴にもならなかった。しかし両親は決してそれを抑えようとはしなかった。ステラが激怒したのはアニーおばさんの嫌いなことだった。ステラの暴発を容認し、許していた。
ジョージ・キャンベルは、赤ん坊の頃から私には何の役にも立たない人だった。彼の母親や姉妹のために、私はいつも「彼のいいなり」になるように気を配ってきた。彼の虚栄心をあおり、欠点を無視する。その結果ジョージはいつも私のことが好きで、誰に対してもできる限りきちんと接し、彼の子供の一人を私の名前で呼び、私からお金を借りていた。私は彼にかなりの影響力を持っている。彼の母親と妻には全くない。
ジョージは両親の悪いところを受け継ぎ、良いところは全く受け継いでいない。父親のビジネス能力の欠如、父親の産業界の欠点、父親の感情のコントロールの欠点、父親の良識の欠点があり、父親の知性の趣味の欠如があり、父親の社交の好き嫌いがある。社交や会話を好まず知的なものを好まない。母親は自分の狭い経験の範囲外にあるものに対する寛容さがなく、その範囲にあるものだけに対する母親の優しさがある。
ジョージは他人の感情をまったく無視するくせに、その人の物質的な幸福にはまったく関心がない(他人に物質的な幸せは与えない)。
日常生活における家庭的な喜びがなく、理想がなく、人格を判断する能力がないのである。誰からの提案も受け入れないという、生来の嫌われ者だったということである。さらにジョージは、ずっと早くから酒に溺れ、やがて酩酊と不道徳に陥った。地道な努力は嫌いで、悪魔のような気性であった。
ジョージは生涯、酒に溺れた。二人の女の子の後に生まれた一人息子のジョージは、幼少の頃から撫でられ、甘やかされて育った。
姉たちは彼の世話をするのが当たり前で、父親は彼をコントロールすることはできなかった。彼は早くから大人になった。夜中に女の子を連れ回し、12、13歳にもならないのに「お座敷遊び」をしていた。そして、すぐに酒を飲むようになった。母親は何年もこのことを信じようとせず、この話をした人を決して許さなかった。それから彼女はそのことを学んだのだ。かわいそうに。
21歳の時、ジョージはエラ・ジョンストンと結婚した。この世の誰よりも彼女は彼が結婚すべき最後の人だった。この世の誰よりも彼女が選ぶべき最後の人だった。それは誰にも理解できない結婚だった。二人のどちらかが相手に惹かれたのか理由がわからないのだ。
エラはジョージより6、7歳年上で父親と3人の姉妹を病気で亡くし、ずっと綿毛の中で育った、かわいくて繊細な小さな人形だった。
もし、彼女が専門家やビジネスマンと結婚していたら、平凡な妻になったかもしれない。農家の妻として、特に大農夫のジョージ・キャンベルの妻として......。
キャンベルの妻としては......冗談みたいなものだった。彼女は、自分が結婚していることを十分承知していた。

酔っぱらいだった彼は(ジョージのこと)、役に立たない小さな人形(エラのこと)と結婚することになるよと、よく警告された。にもかかわらず、あるいはそれゆえに彼らは結婚した。
結婚式に出席している間「彼女のことをどう思う、モード? とジョン・キャンベルおじさんが私に聞いた
 「迷子の赤ん坊のようだと思う」と答えた。
 ジョン叔父さんは笑った。
 ちょうどいいところに来たね」と彼は言った。(お前が来たことでいい意見を聞けたよと)
 必然的にそうなった。6ヵ月後、ジョージは妻に飽きていた。そして1年後には妻を憎み妻はジョージを憎んだ。14年間彼らは一緒に暮らしてきた。
彼の母親は(アニー叔母さんのこと)失恋し、彼の健康は破壊された。36歳の彼は、赤鼻、禿げ、肥大した50歳のように見える。彼は
借金だらけで大家族を養わなければならないし、落胆しているし、気性も荒い。妻を邪険にする。ああ、まったく胸が悪くなる。
エラも弱虫だ。憐れみもするし助けようともするが何の役にも立たない。わずかな気力も 失望と出産で失われた。
そして出産。彼女は8人の子供を産んだが、そのうち3人は亡くなったが、もう一人産む予定です。かわいそうに......胸が締め付けられるよ。彼女は絶えず私に助言と同情と助けを求めている。しかし私はほとんど何もできない。
アニー叔母さんは 義理の娘として満足している。しかし言動はともかく言葉では厳しい。エラの気持ちも考えず、ジョージの悪い癖や欠点をすべてエラのせいにして、結婚前から酒を飲んでいた事実には頑なに目をつぶっている。(息子が可愛いからか)
その結果、一緒に暮らさなければならない二人の女性の間には、同情がないばかりか、お互いに対する薄っぺらい敵意と不公平が見え隠れしている。
アニー叔母さんは母(ルーシー・ウルナーお婆さんのこと)の性格に対する反感と不公平感が薄らいでいる(忘れかかっている)。エラに対して自分が失敗したとは全く思わないのである。でも、そうなのだ。なんと不幸な家庭なのでしょう
不満が渦巻いている。まるで火山のふちにいるような気分になるわ。私は最悪の事態を見たことはない。
私がここに来てからジョージは外見上はまともだ。機嫌がよくて、楽しい時もある。好意的である。ジョージ・キャンベルは、「善良で気さくな男」「自分自身の最大の敵」など、表面的な人気を集めている。
フレデと私が台所にいたとき、ジョージが入ってきた。彼はしばらく座っていて、笑ったり冗談を言ったり面白い話をしたりして、それからベッドに向かった。フレデが私に言った。
"モードさん、あなたがジョージに与える影響力をご存知かしら?" あなたがいると彼は別の生き物になるのよ。
私が家に来てから3週間、その間彼が笑うのを見たことも、冗談を言うのを聞いたこともないのだが。彼はただ自分を悪魔のような気性の激しさで変化させながら、黒い沈黙の中で過ごしている。(エラを憎むようになってからも暮らさねばならないという事だろう、子供は作りすぎてしまったから)
「私がここに来ると、ジョージは昔の雰囲気が蘇ってくると思うのだ。若くて陽気でのんびりした時代だったんだ。

もし、ジョージが姉のステラのような女性と結婚していたら、陽気で有能で、意志が強く、上品すぎず、自分の気質も持ち合わせていて......彼はそこそこまともな市民になったかもしれませんね。 しかし、現状はひどいものです。フリードと私は 顔面が黒くなるまで話し合ったが......何の役にも立たない。路地裏にいるようなものだ。私にはある種の大惨事が、ある種の破滅が迫っているように思える......。
そんな中で、唯一明るい話題はジョージの家族だ。彼らは聡明で、ハンサムで、気立てのいい子供たちだ。彼らは 父親にも母親にも似ていない。もしチャンスがあれば パーク・コーナーを元の状態に戻すだろうと思う。私は彼ら全員をとても気に入っているし、フレデもそうだ。むしろ、彼らの責任は私たちにあるような気がする。 肩の力を抜いて彼らが(ジョージの子供たちが)チャンスを得るのを見届けなければならないのだ。
彼らは私たちに好意的です。私たちのことを好きで、私たちの指導や説教に腹を立てているわけではない。今夜ベランダでしばし沈黙しながら、私は今晩ベランダでひと休みしながら、誰か良い妖精が現れて、私の願いを叶えてくれないかと思った。こう言っただろう。「昔のパークコーナーを1時間だけ返してくれ。ジョンおじさんを連れ戻してアニーおばさんを笑顔の絶好調に戻してください。クララとステラは10代の女の子で、ジョージはぽっちゃりした無邪気な男の子に戻してください。ほんの1時間でいい。あの頃の喜びと美しさを取り戻してくれもう一度。
しかし、良い妖精は現れませんでした。時計は戻らないのだ。あの1時間を過去から取り戻すことはできないのだ。今日のパーク・コーナーはまだ美しく、外見はほとんど変わらないが、20年前のパーク・コーナーとはひどく違っている。20年前のパーク・コーナーとは全く違う場所なのだ。だから、私は明日行くこと(家に帰ること)を残念とは思わない。

オンタリオ州リースクデール、牧師館
1918年8月8日(木曜日)
月曜日の朝、キャンベルハウスは非常に早い時間帯に精力的に活動した。皆、多かれ少なかれ興奮していた。アニー叔母さんが訪問のために外出するのは不思議なことだった。アニー叔母さんは決して目に見えて興奮することはない。そのことは素晴らしい資質であることは間違いないが、もしあなたが興奮しないならどんな楽しみを逃すか考えてみてほしい。楽しみを逃してしまうのだ。燃え盛る火のまわりで踊るほど素晴らしいことはない。それが灰色の灰で終わるなら、どうだろう? そして歩くことは確実で安全な移動手段だが、空を飛ぶことの爽快感は半端じゃない。たとえドスンという音をたてて落ちてきたとしても。
ベッドから起き上がったときはもうかなり暗くなっていた。ホールに出て大きなホールの窓を見ると ホールの大きな窓から、素晴らしい光景を目にした。東の方角、白樺と楓の上に銀色に輝く赤い空があり、その中に新月のようなものが浮かんでいた。新月のように見えたが、それは最後の時期の古い月だった。私はこれまで見たことがないその色彩はとても精巧で、私はフリーデを呼んで、絵が消えるまで二人で喜んで見ていた。その絵(情景)が私の脳裏に忘れられないように刻み込まれるまで一緒に喜んで見ていた。私はこの絵のことを考えるだけで、また見ることができるのだ。30分ほどその美しさは続いた。月が薄暗くなるにつれて幽鬼のようになりやがて消えていった。

ライフ・ハワットの運転で駅に向かった。私は突然泣き出し丘の上に着くまで泣き続けていた。なぜだろう? わからない。私はこれまでパーク・コーナーを去るときに泣いたことはなかった。 その朝よりもっと悲しい気持ちで、パーク・コーナーを後にしたことがある。私は唯一の大切な人たちを連れて家に帰れることが嬉しかった。それなのに私はもう二度とパーク・コーナーを見ることはないだろうと抑えきれないほど泣いた。
列車に乗るとガーディアン紙がソワソン攻略を報じていた。帰り道はどの駅でも勝利のニュースが流れていた。フランス軍はすべてを一掃したのだ。3年前ロシアの惨状を見ながら帰った時とは大違いだ。モントレールまではとても楽しい旅だった。モントレールではカーフェリーの汽船が修理のために休止していたので、私たちは旧来のサマーサイドとポワント・デュ・シュネーの船着き場から渡った。私はこのルートが好きだ。
フレデと私は、彼女の母の顔を見てよく笑いをこらえたものだ。アニーおばさんは、明らかに自分が地球を旅することに慣れていないことを、決して裏切らないという固い決意をもって出発したようだ。驚きも感心も疑問も好奇心も、裏切ることを許さなかった。その表情は、私が青臭いとか、田舎くさいとか、そんなことは思わないでください。私はあなたや他の人と同じように多くのことを知っているのですという感じだ。しかし彼女はゲーム好きな老婦人でとてもいい人で楽しんでいた。
私たちはトロント行きの列車に乗り遅れたので、Mon treal a J cayに滞在することにした。夜出発。フレデとアニーおばさんはセント・アンズで降りた(アニー叔母さんに休暇のバカンスを与えてあげたのだろう)。そこで1週間滞在することになっていたからだ。私と子供たちは水曜日の朝にトロントに到着し、EwanとFraser氏が出迎えてくれた。私たちは52マイルを走破し(自動車であろう)、正午にここに(我が家に)到着した。私のEwanがYonge St.で交渉しようとしたときは、心臓が口から飛び出しそうだった(自動車で80kmほど走破したのであろう)。帰ってきてからかなり暑かったので私はまだとても疲れている。

1918年8月14日(水曜日)
リースクデールの牧師館
昨日の朝、ユアンと私は4時に起床し、5時に出発してモントリオールの列車に乗るためにトロントへ向かった。Uxbridgeまで暗かったので、私たちは生き物を見なかった。Stouffvilieに着くまで、生き物を見ることはなかった。朝の涼しい空気の中を飛ぶのはとても楽しい。
トロント駅に着いたのは8時で、アニー叔母さんが来ていた。私たちはその日、彼女にイートンやシンプソンを見せて過ごした。私は映画館にも連れて行った。彼女はそれを悪魔の発明だと思っていた(スクリーンの光の中に世界が浮かび上がっているではないか)。その日はスネードの暑さ102度(摂氏38.8度)という記録的な暑さだった。(筒型のマフラーに包まれたような感じだ)
私たちは5時に家に向かって出発し、家から2マイルほど離れたところまではとても快適なドライブだった。突然雷と雨と風が竜巻のように襲ってきたのだ。一瞬にして私たちは暗闇に包まれた。パリッシュの窪地にある一本の木が道路を横切って倒れていた。ユアンはそれを避けようと道路から飛び出した。
車は横滑りし、私たちは溝に入ってしまった。私は悲鳴を上げながらその場に飛び込んだ(飛び降りたのか)。このままでは暗渠を越えてしまう(溝にはまってしまう)と思ったからだ。もしそうなら私たち全員が死んでいただろう。でも幸いなことに私たちは数メートル先で溝が浅くなっているところにいた。
私たちは郵便受けの柱に激突して止まった。土砂降りの雨の中、私たちは車はダメになったと思った。片方のホイールは地面に転がっていた。でも少なくとも私たちの命は助かった。激しい雨と真っ暗闇の中、パリッシュの丘の小道は荒々しい雷の閃光だけで照らされていた。
私たちは嵐がやむまでそこにいた。肌まで濡れたままそこにいた。着替えを用意してくれるおばさんがいなかったからです。私は、アニーおばさんが死ぬかもしれないと思った。嵐がやんだ後、私たちは車で家に帰った。
私たちはどちらも体調は悪くなく。車も大きな損傷はない。ワーナーさんがちゃんと直してくれた。しかし私の神経を逆なでしてしまった。私たちが "デイジー"(車の愛称であろう)に乗れるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

1918年 8月19日(月曜日)
マンス、リースクデール
今日、私は本の執筆を再開したが私が思うほどには進んでいない。それでも10月の終わりまでには完成させることができそうだ。私たちは楽しい時間を過ごしている。アニーおばさんも楽しんでいるようです。
戦況は良好だ。ヘイグ軍が前進している。1日で1年分以上の距離を前進しています
エラ(キャンベル家のジョージの妻)には娘がいて元気にしている。私は安心した。あの13の食卓以来漠然とした不安を感じていた。確かに私は愚かで不条理だった。しかし理性と感覚は全く別のものだ。(怪しげな感覚は受けたのだからと言っている)

1918年 8月22日(木曜日)
牧師館、リースクデール、オンタリオ州
今日、私たちは湖でピクニックをした。とても楽しかった。アニーおばさんもとても楽しんでいた 。家に帰るために出発したとき、私たちの車のハンドルが壊れた。事故の晩に割れたことが判明した。幸い平地でゆっくり走っていたので、大事には至らなかった。しかし修理が終わるまで2時間ほど道端に座っていなければならなかった。自動車運転の楽しさの一例である。

1918年9月5日(木曜日)
昨日アニーおばさんとトロント展を見に行ってから帰宅しました。展示会に行った後、帰宅しました。アニー叔母さんは人生で一番楽しい時間を過ごしたとそれを認めています。私たちは火曜日の朝汽車で行って 午後には "Hearts of The World" を観に行った。 「世界の心」(D.W.グリフィスが作った第一次世界大戦の映画)それは素晴らしいものだった。
私は特に見たかったんです。というのもカール(異母弟)が参加したある戦いが取り上げられていたからだ。コソレットの戦いだ。レンガの壁に丸い穴が開いているシーンがありました。だからアニーおばさんと私はその穴をずっと探していました。穴はいくつもあり、丸い穴もありましたが、しかし私たちの期待に応えてくれるものはありませんでした。 そして最後の方にその穴は......まぎれもなく......出て来た。そして、二人で「穴だ!」と大声叫んだら、前に並んでいた若い男たちが大喜びした。
そういえば、フレデさんが面白いことを言っていた。彼女はに見に行ったそうだ。あるシーンで、部屋に閉じこめられた少女が、自分のストッキングの中に隠し持っている。残忍なドイツ人が登場する。そのときフレデはそのリアルさに興奮し、突然立ち上がって大声で叫んだ。ストッキングの中よ!」。ナイフがストッキングの中に入っている!" と。その時彼女の頭にあったのは、その子はナイフがそこにあることを忘れているに違いないと思ったそうです。さらにFredeがそう叫んだ直後に、少女はナイフを取り出し、ドイツ人を刺してしまったのだ! 
夕方、ウォーカー・ハウス(旅行者の宿)で夕食をとった後、アニーおばさんと私は、またもや慌ただしい題名の映画、「ヴォルデモート」に行った。 "カイザーと地獄へ" という題名の映画を観に行った。名前ほど派手ではなかったが 「ハート・オブ・ザ・ワールド」ほどではないが実にいい映画だった。
昨日の朝、私たちは展覧会の会場に出かけた。もちろん車(路面電車か)はひどく混んでいてアニーおばさんの顔を見ると可笑しくなった。息も絶え絶えに走ってきて車に乗ろうとした後、客で詰まった車内の通路でつり革にぶら下がっている自分に気がついたときのアニーおばさんの顔は面白かった(機械に慣れない19世紀婦人の面白さだと)。その顔はまるで言葉のようにはっきりと、「世界はすべて狂ってしまったのか? 」という言葉のような顔だった。 しかし彼女はこの展覧会を十分に楽しんだと思う。
叔母さんにとって、パーク・コーナーの自分の果樹園のリンゴに勝るとも劣らないリンゴがあることを知ったのは彼女にとって大きな収穫だった。 そしてパーク・コーナーの自分の果樹園で採れるようなおいしいリンゴが果実店にはないと言った。でも今はリンゴの食べ頃だが、まだほとんど出回っていないからだ、ということを伝えて彼女の喜びを損なわなかった(まだ熟したリンゴが店に出ていないので叔母さんの果樹園のリンゴよりおいしくないだけよと)そんなことをしたら残酷なことになる。私はパーク・コーナーの果樹園がカナダ全域に勝てるのだと思わせたのだ。 そしてある意味で、それはできないのだろうか...。

アニー叔母さん(左)とわたし(右)
家の垣根の前で

1918年9月28日(土曜日)
リースクデールの牧師館
今日ブルガリアが和平条件を提示したというニュースが飛び込んできた。敵国の中で最初にスポンジを捨てたのだ。終わりは近いのだろう。この1週間はあらゆる方面から良い知らせがあった。この1週間は忙しく楽しい1週間だった。
火曜日にAlec Leask氏(アレック・リースク氏)と私たちはWhitbyに向かい、Anderson夫妻と楽しい一日を過ごした。アンダーソン夫妻と楽しい一日を過ごした。木曜日の夜、Ewanと私はUxbridge(リースクデール開拓地の南にある中都市)に行き、ウィリス夫妻とお茶をした後、メソジスト教会で行われたWCTUメダル・コンテストに行き、私は審査員の一人として参加した。
金曜日はほとんど教会で、前線にいるスコット少年たちのためにクリスマス・ボックス(慰問品)の荷造りを手伝った。今日はクック夫人の手伝いをして過ごした。私はすっかり疲れてしまいましたが、ブルガリアが和平条件を求めてきたのです。

1918年9月30日(月曜日)
オンタリオ州リースクデールの牧師館
ヒンデンブルグ線は数カ所で破壊され、西部戦線は勝利の炎に包まれた。勝利した。それが正午に郵便で届いたニュースだった。私たちは皆、夢を見ていたのだろうか。午後は赤十字の箱詰めをやって、それからみんなでEdithの家でお茶を飲んだ。
お茶の後電話が鳴りました...私たちの電話です。ユアンは電話に出た。ブルガリアが無条件降伏したとのことだった。マケドニア戦線は本日昼に終結した」というものだった。ユアンが電話から離れ、私たちにメッセージを伝えたとき何か劇的なものを感じました。
連合軍の最初の勝利は、1915年の秋に最も暗い敗北を目撃した戦線でもたらされた。私は、あの10月と11月の絶望と苦悩を、どれほど鮮明に思い出すことだろう。あの10月と11月、マッケンセンが中央の大軍を率いて絶望的なセルビアに侵攻したときの苦悩を絶望的なセルビアの上空で、そして今、セルビアは再び自由になった、あるいはごく近いうちにそうなるだろう。

1918年10月3日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール
火曜日にモーリー・シャイアーの死の知らせがあった 彼は私たちの教会の若い仲間で死んだという知らせがあった
セントクエンチンは昨日連れて行かれた。セントクエンチンというのは昨年の春の恐ろしい撤退劇で不吉な予兆があった名前だ
そして今日は10月3日私の夢の日です。何か意味があるのだろうか?
今日、グローブ紙は「大撤退が始まった」と言った。メール・アンド・エンパイア紙は "ヒンデンブルク線での戦いは" "連合軍に有利に終わったと言える。私の夢を正当化するのに十分でしょうか? ほとんどそう思うだろう。
3ヵ月前ならそう思っただろう。しかし、今はどうでしょう。いずれは見てみよう。

1918年10月6日(日曜日)
この日は大文字で書かれるべきで、金の文字で書かれている。しかし夜明けは憂鬱で一日中、外は霧雨が降っていた。午後は冴えない天気だった。
おばさんと私はどちらかというと孤独を感じていた――少なくとも私はそうだった。彼女は明日、故郷に帰る。
(モンゴメリはアニー叔母さんに2か月もバカンスをさせてあげた。モンゴメリにとって叔母さんのいたパークコーナーは第二の我が家のような物だった。ジョン・キャンベル叔父さんが死んで意気消沈していたアニー叔母さんに孝行してやったのだろう。一方のエミリー叔母さんの方はあまり好きではなかったのか)
とても寂しくなる。しかし彼女は本当に楽しい時間を過ごしたと思う。来たときよりもずっと元気そうだし、楽しい思い出を胸に家路につくことでしょう。10月末までいてくれたらよかったのだが、あまり遅くなると風邪をひいてしまうと思うので急がせてしまった。
私たちが応接間に座って本を読んでいると、電話が鳴りました。私は行ってみたが...。ハーウッド氏が電話をかけてきたというメッセージを聞いたとき、私は自分の耳を疑った。私は急いで応接間に駆け込んだ。"アニーおばさん" と叫んだわ。
ドイツとオーストリアが ウィルソン大統領の条件で和平を結ぼうとしてる。電話機に戻り村中の人に知らせた。この大ニュースを伝えるためだ。数分後には、この小さな村は全世界を騒がせている興奮に包まれた。電話がひっきりなしに鳴り響いた。
男たちは通りを縦横無尽に走り回った。私は旗を出しそれを掲げた。それから私は興奮のあまり応接間を行ったり来たりした。じっとしていることは不可能だった。
アニーおばさんが言った 「座りなさい」何事にも興奮しないアニーおばさんは、人生の中で膨大な数のトラブルや喜びを見逃してきた。

「おお、おばさん。私はこの4年間、絶望と不安の中で何時間もこの床を歩いてきました。今度は喜びで歩きたい」
リースク夫人が降りてきて話をした。ユアンがゼファーから戻り、雨の中出迎えた。"知らせを聞いた?" (ニュースを聞いたかと彼が聞いたので)私は泣いた。彼がまだ知らないことを子供のように望んだ。そうすれば私が「最初の一人」になれると思ったからです。彼は知らなかったので、私が最初に伝えるという楽しみを味わった。それから私たちは夕食をとり、陽気で幸せな輪になりました。
もちろんまだ戦争は終わっていないし、おそらくこれからも続くだろう。数週間は口論が続くだろうが、その間も戦闘は続けなければならない。しかしドイツは、世界征服に乗り出した傲慢な国が連合軍に謙虚に平和を訴えている。
つまり、ドイツはもうおしまいなのです。もし一筋の希望が残されていても、それを実行することはないでしょう。そう、偉大なる、壮大なる地獄のドラマは幕を閉じようとしている 最終幕の幕が上がったのだ。ついに、ついに、ついに! なんという犠牲を払ったことか
明日はスチュアートの3歳の誕生日だ。この3年間は世間は辛く苦しい3年間だったが彼はのんびりとしていて幸せだった。
スチュワートはチェスターの良き理解者だ。嬉しいことです。ひとつだけ残念なのはリースクデールにはいい子がいないことだ。仲のいい男の子はいるけど...いい子に分類できない。立派な家庭の子だが言葉遣いが悪く大人がいないところでは、お調子者の悪戯っ子なのではと疑ってしまう。
でもチェスターは彼らから引き離されるわけにはいかないのだ。私はスチュアートが(少年たちの)本当の仲間になる年頃になったら嬉しい。今はまだだが、毎年多少なりとも追いつくだろう。

1918年12月1日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
戦争は終わった! 多くのことが終わった。10月に書いた最後の文章からは「遠く過ぎた」ものだ。その中で何年も生きてきたような気がする。巨大なエポックメイキングな世界情勢が互いにせめぎ合ってきた。そして私自身の小さな世界では激動と悲しみと死の影があった。
あの素晴らしい日曜日の翌日、アニーおばさんと私はトロントに行った。私たちはローラの家で一晩を過ごし、とても楽しい時間を過ごした。翌朝私は哀れなおばさんをモントリオール行きの列車で見送った。それから孤独と悲しみを感じながら、アップタウンに行き、忙しく買い物をした。
トロントはその頃、恐ろしいスペイン風邪の発生でパニックになり始めていた。薬売り場は治療薬や安全策を求める人々で溢れかえっていた。
私は、そのことをあまり考えなかった。薬を飲むことに抵抗はなかった。水曜日の夕方からくしゃみが始まり、木曜日は一日中その状態が続いた。しかし体調はかなり良く、1リットルを飲んでいるとは思えないほどだった。
その夜ユアンが迎えに来てくれて、私たちは車で家に帰った。その晩はとても暖かく、明るくて秋の世界がとても美しかった。この日が暖かかったことが私の命を救ったのだろう。もしその日が寒くて体が冷えていたら、きっと立ち直れなかっただろう。というのもその夜、私はインフルエンザにかかり、国では何千人もの死者が出ている。
最初は、自分がインフルエンザにかかったとは思わなかった。金曜日の朝、私は風邪をひいていた。しかし病気ではありません。私はベッドで寝ていることにした。金曜日が過ぎ、金曜日の夜、土曜日の朝も同じだった。
半昏睡のような状態で一日を過ごした。私はただ静かに横になって「眠りたい」と思っていた。でも、本当に眠ることはなかった。意識はいつもぼんやりとある。でも、体調が悪いとか気分が悪いということはない。しかし夕暮れ時に突然このままではいけないと思った。2日間というのはあまりにも長い。
私はユアンに頼んでシャイアー医師を呼んでもらった。ドクターが来てくれた。彼は私がとんでもない熱と、ほとんど機能しない心臓を持っていることに気づいた。おそらく朝まで生きられなかっただろう。
彼は私に心臓の薬と、発汗を促す錠剤だと言ってくれ、帰って行った。後日彼が言うには、彼が診た75人のインフルエンザの患者のうち、私が一番ひどかったそうだ。一人を除いては最悪で、その一人は死んでしまったそうだ。
私が死ななかったのは、確かにシャイアー先生の功績とは思えない。私を置き去りにして去っていったのは本当に恐ろしいことだ。私は愚かで医師を呼ぶこともできなかった。私は愚かで訓練された看護婦を頼むことができなかった。看護婦を頼むように要請するべきだった。彼はそうしなかったので、私は一人取り残された。
私は積み重なった衣服の下に横たわり、やがて汗をかき始めた。むしろ!?この方がいいのでは。私の体から水が流れ落ちた。あっという間に寝間着もシーツまでびしょびしょになった。このままではいけないと思った。
このまま一晩中横になっているのは耐えられない。しかしこの頃になると熱も下がり、思考力も戻っていた。その冷え切った部屋で服を着替えたり、シーツを替えたりするのは非常に危険なことだと思った。
でも、やらなければならないのだ。ユアンは空き部屋で寝ていたが、私はリリーを起こしてオイルヒーターに火をつけてもらい、乾いたシーツと寝間着を暖めた。そして看護婦さんがやっていたのを思い出しながら、どうすればいいかを教えてあげた。
結局なんとかなった。しかし一度や二度は寒さに震え、インフルエンザのことも知っているだけに、肺炎にならずに済んだのが不思議なくらいだ。
私は10日間寝込んでいた。これほど体調が悪く、弱ったのは生まれて初めてだった。初めて下に降りたとき私は倒れてしまい、ユアンが私を担いで上がらなければならなかった。私はまだ
心臓のためにストリキニーネを飲んでいるのだが、神経がまだ良くないのだ。
起きてから一ヶ月は、ドアがバタンと閉まったり、髪を結っているときにヘアピンが見つからないと泣いてしまうんです。そしてまだ、最悪の症状の残りである憂鬱と気だるさを、私はまだ完全に拭い去ることができない。
病気の間アニーおばさんから手紙が来て、無事に家に着いたこと、そしてパークコーナーに到着した2日後にジョージがインフルエンザにかかったことを知らせる手紙が届いた。私はジョージ・キャンベルのことをよく知っていたので、不安な気持ちになった。
少し元気になったら、ベッドに寝かせておくわけにもいかないだろう。1週間後。私が1階から降りられるようになった頃、アニーおばさんから電報が届いた。
ジョージ(キャンベル家の今の主人)が肺炎で死んだというのだ。私はとても嫌な気持ちになった。ジョージが死んだからというわけではないのだが......。ジョージのことをどれだけ後悔していたかを(だらしない奴だと思うと哀れに思えないはずだが)考えると不思議な気がする。血のつながりや付き合いというのは不思議なものだ。
可哀想なアニーに同情したのだ。彼は彼女の一人息子で、遠く離れていたとはいえ息子の死は、彼女にとって大きな痛手となる。

そして、欠点だらけの彼が、一応の成功を収めたのだ。いったい70歳のアニーおばさんはどうする? かわいそうに無能なエラと11歳以下の6人の子供たち。私はそのことが心配で心配でたまらなかった。体も神経も心配になるような状態だったからだ。
私はステラに、彼女が家に帰るなら費用を払うと電報を打ったが、しかしステラは言い訳の手紙を返してきて、クララと夫に行かせようとしていると言った。この状況で彼らが何の役に立つのか私にはわからない。
アニーおばさんの手紙を受け取った翌日、フレデから電報が届いた。島へ行くという電報を受け取ってから11月2日まで何の連絡もなかった。この間にステラからのひどいヒステリックな手紙にもかかわらず、私は徐々に強くなっていったが、ステラのヒステリックな手紙は、まるで気が狂ったかのように絶叫し暴れまわるような書きぶりだ。
戦争の大きなニュースも入ってきた。トルコが無条件降伏し、オーストリア・ハンガリーがイタリア軍によって完全に破壊されたのだ。そしてパーク・コーナーからの連絡がなく、眠れずにいると、フリーデから手紙が来た。パーク・コーナーでは、アニーおばさんとエラがショックで、みんな病気になってしまった。
アニーとエラはショックで、子供たちはインフルエンザで、小さなジョージーは亡くなったた。
モーディとジムはとても元気がない。フレデはその家で一人ですべての仕事をこなし、病人を見ていた。
私は、フレデの体力がないことを知っていた。助けに行かなければならないと思った。彼女の手紙は正午に届いたが、私は荷物をまとめて夕方のトロント行きの夜行列車に乗った。
サックヴィルを出てからの乗り継ぎは最悪だった。火曜日の夕方、私はケンジントンに着き、リグ(馬ソリのこと)を雇い、黒く曇った夜を徹してパークコーナーまで連れて行ってもらった。
を通った。あのアイリッシュタウンの丘にあった石(墓のことか)を忘れることはできない。しかし9時半に私は古い家に着いた。フレデとアニーおばさんは、私に会うのをとても喜んでくれました。I
子供たちは快方に向かっていた。フレデと私は真夜中までダイニングルームのストーブの上に身を寄せ合い、この悲劇をすべて語り合った。私と同じように、フレデもジョージの死を無条件に悪いとは思っていなかった。誰がそう思う? 彼の母親と妻でさえ、彼が立派な死を遂げたことに感謝すると言っていたそうだ。
彼の母親や妻も、何度か起こりかけたことはあるが、彼が酔っ払って殺されるよりベッドで立派に死んでくれた方がありがたいと言っていたそうだ。身近な人がそう思うのだから恐ろしいことである。(素行の悪い男だったのか)
私とフリーデはお互いの問題を話し合うことで気持ちが楽になった。視野の裾野が広くなってすっきりした。中年の雇い人ができたので、見通しは悪くない。
フレデと私が肩入れしてアニーおばさんの相談に乗り、かわいそうなエラのために物事を決め、自分たちをかわいそうな子供たちの後見人、指導者に任命すればよいと。
ついに私たちはベッドに入り寝た。
パーク・コーナーに滞在していた時のノートの記載を追ってみよう。
(以下の部分で文章の先頭に†の記号がついている物はモンゴメリが日記帳ではなく、覚え書きノートに書き留めておいたものを抜き出したものである)

†1918年11月9日土曜日(日曜日)
パークコーナー
フレデ、アニーおばさんと私は今夜、ビジネスの降霊術を行い、ジョージの仕事上の問題を解決しようとした。彼らはひどい混乱に陥っているので私は恐ろしかった。ジョージは5年前に私から2300ドル(この時期でも2000万円くらいか)を借りた。彼はいつも利子を払ったが元金は払わない。
彼はその金を使い果たした――一部は価値のない狐の株で(キツネの毛皮の養殖事業に出資した)、一部は不明な株に、神のみぞ知る――記録はない。アニー叔母さんは農場に抵当権を設定するつもりだ。利子は取らない。ダニー(ジョージの息子)が大きくなったら農場の元金を払っても 痛くはないだろう。パーク・コーナーの希望はダンにある。彼は優秀な若者だ。勤勉で倹約家だ。
キャンベル家の新しい傾向だ。それは彼の母親がそうさせたのだ。一番の欠点は短気なところ。しかしすぐに克服するだろう。温厚で忠実な性格だ。ダンに期待してるんだ。母親が愚かな行為で彼を破滅に追い込まなければね。(母親は)自分の子供より大きな赤ん坊。でも母親は気の毒だ。フレデと私は一日中家の掃除と消毒に勤しんでいる。
アニーおばさんとエラが寝静まった頃、居心地のよい居間にこもって、お菓子を食べながら気ままに話したり笑ったりしている。天上と地上と地下の水にあるすべてのものを調べ上げる。おやつはというと、私たちはよく食料を調達する。フリーデと私は私たちふたりとも、「おいしい一口」(パットお嬢さんにもちょっと一口という記述が出てくる)の魅力に無関心だったことはない。
今、そんなことを告白するのはとても洒落にならないが。というのもドイツ人と呼ばれる危険がある。とはいえこれは事実であり、私たち二人は恥ずかしげもなく有罪を主張する。パーク・コーナーのチキンボーン(骨付きチキンの肉)やハムスライスは、昔ながらの味と香りと喜びを失ってはいない。"

1918年11月10日(日曜日)
パークコーナー、P.E.I.
今日は雨と風が強かった。しかし私はその中に魅力を感じた。11月に島にいたのは8年ぶりだが、私はそれを楽しんでいる。雨と風にもにも魅力があります。
この夜、私たちは皆居間に集まり、エラが演奏している間賛美歌を少し歌った。それはまるで昔のことを思い出しているようだった。フレデと私はそれを感じた。私たちがよく口にするように、この騒ぎには奇妙な平和があるのだ。
この部屋には、あの頃以来感じたことのない不思議な平和がある。落ち着きのない擾乱する存在が消え、呪いが解かれたような、悪意ある影響が去ったような感覚を覚える。今日一日、私は過去に思いを馳せていた。ソファに寝そべって音楽を聴いていると、20年前の自分になったような錯覚に陥る。
――20年前、私は17歳の少女だった(24歳だったはずだが)。私は17歳の少女で、パーク・コーナーにいた。ステラとクララがいた。私たちのボーイフレンドが幽霊のような馬に乗って外にやってきた。アル!(青年の名前)
1918年における今の絆は消え去った。チェスターとスチュアートの奇妙な雰囲気は私には何の意味もなくなった(忘れ去られた)。私はこの時は彼らを(我が子を)愛してもいなかった、いつもは彼らを愛している私が嫉妬深い神々を恐れるほどに。しかし(17歳の少女の気持ちに戻った私が)まだ二十年近くも生まれない子供を愛することはできないのだ。
その気持ちをフレデに伝えると、彼女も同じ気持ちだった。彼女もまた(過去の幻想に戻った)幽霊だったのだ。私たちは二人きりで夜中まで語り合った。不思議なほど完璧で不思議なほど幸せだった。明日の朝目が覚めたら中年女性で、夫がいて、果てしない責任を負っている自分に気づいて愕然とするだろう。
†の付いている文章―LMMは彼女のノートから引用しています。

† 1918年11月11日(日曜日)
パークコーナー、P.E.I.
今日、休戦協定調印の公式発表があった!? 大戦は終わった。第一次世界大戦は終わった。世界の苦しみは終わった。そして何が生まれるか! その答えは次の世代が教えてくれるかもしれない。私たちはそれを完全に知ることはできない。
今日、郵便物を待つ間道端のトウヒの木のガムを摘んで若い夢を見た。17歳のときに見た夢だ。それはパーク・コーナーにいるときだけ、そしてここにいるある気分のときだけ見ることができるものだ。昨夜の余韻がまだ残っている。今夜フレデと私は暗闇の中に出かけ、小道を歩き池を渡った。とても暗くて何も見えず、ただ足下にある板を感じ、下にある水の波紋を感じるだけだった。
私たちはこれまであの橋の上を二人で歩いたことは何度もあるが、11月の暗い夜に歩いたのは初めてだと思う。私たちは休戦のことを話したが喜びはなかった。フリーデは冴えない表情で、少し落ち込んでいるような気がた。 私はフリーデが妻として、自分の家で家庭生活を営んでいる姿を想像しようと試みたことはある。しかしいつも私の想像は空白の壁に突き当たるのだ。 壁がある。それはカム(婚約者)が戻ってくるかどうかわからないからだと思った。
でも平和が訪れ彼の帰還は確実なものになった。そうだ。だから私は今、二人の生活を思い描くことができるはずなのだが。できないのだ。想像力の麻痺はまだ続いている。フリーデは穏やかな家庭の喜びや家庭的な母親には向かないのでは、という奇妙な思いが消えない。私の考えでは彼女はまだ「野生の尻尾を振り、野生の一匹で歩いている」のだ、キップリングの猫のように。それはいつも彼女が自分自身を表現する方法だ。
その通りだ。フレデはいつも、自分の選んだ道を一人で歩いているような印象を与える。カム・マクファーレンの家政婦や靴下屋のようにではなく、一人で独立した道を歩いているという印象を与える。 しかし有能でよく訓練されたフレデは、靴下に糸を通し、家を立派に切り盛りすることができる。ただそれは彼女の本質ではない。
去年の夏のある日、彼女は私に言った――笑いながら、しかし真剣な表情も浮かべて。仕事」と「夫」の両方があればいいのに......と。それでも、でも彼女にとって「仕事」は「夫」よりも大切なものなのだと私は感じている。彼女は自分の仕事を愛しそれに専念してきた。私は彼女がそれを(仕事から)離れることを恐れていることを知っている。
私は彼女が自分の家を持っても、その家庭生活の目新しさが消え去った後、彼女が結婚生活に満足することはないだろうと恐れている。それが心配だ。しかし――おそらく母性は彼女の元にやってきてすべてを価値あるものにしてくれるだろう。フレディーちゃん、幸せになってね。あなたは幸せが足りなかったのよ。

† 1918年11月12日(火曜日)
パークコーナー、P.E.I.
フレデと僕は今朝、寒くて暗い中を這い出しサマーサイドに行った。そして弁護士とビジネスについて議論し疲れた一日を過ごした。日没に出発。駅のホームで列車をを待つ間、ホームを上り下りしていると、Summerside Harbor(港)にとても素晴らしい夕日が沈むのを見たのだ。 そして、ローワーベデックの薄暗い海岸を見渡した。
私は波止場の古い倉庫とその向こうのトウヒの木立が見えた。そこにはハーマン・リアードの家があり私はそこで地獄の苦しみを味わった。そして天国も。その家を見ていると死んだ記憶が蘇ってくる。その亡霊はもう何年も歩いたことがない。愛と苦悩のあの冬が今となっては夢のようだ――誰かが見た夢だ。私はこの一年、その束縛から解放された。もしハーマン・リアードが今生きていて彼に会っても私の心臓は少しも速く鼓動しないだろう。でも......。
紫色の港の向こうの、あの影のある岸辺に目をやると、古い記憶が不穏な動きを見せた。昔の記憶がよみがえった。フリードは私の沈黙と長い視線に気づかなかった。彼女は知っている。私がかつて愛したこと、そしてその愛が悲劇であったことを。しかしその相手が誰なのか、どこに住んでいるのか、彼女は知らない。フレデにさえその人の名前を言ったことはない......。
私たちはケンジントンから、寒くて凍てつくような月夜の中を車で帰った。そしてアイリッシュタウンの長い坂を上っているとき、私は突然奇妙で印象的な美しさに感動した。月光が道路沿いのトウヒの木々の間から降り注ぐ様子は、奇妙で印象的な美しさであった。影と銀(光線)が交互に現れる。この道はPE島特有の道だ。そんなことを思っていると、フレデが「モード、この道より美しいものを見たことがあるか? あの道より美しいものを見たことがあるかい? こんな道、他では見たことがない。 あんな道、他では見たことがない」。
私たちは疲れて冷え切って家に帰った。でもおばさんがおいしいお酒とおいしい夕食を用意してくれたので、そして私たちは結局のところ、「火星ではもっとうまくいく」(どこか別の星では問題があっても上手く収まるのだろう)という結論に達した(考えてもしょうがないという結論)。私たちはベッドに入り眠った。長い間死んでいたハーマン・レアードの夢にもうなされず、ただリースクデールにいるぽっちゃりした愛息子たちの夢だけだった。
(ここまでの記述は覚え書きノートからの転載)
*11月15日(金)に帰郷することにした。その前日は雨と風の荒々しい11月の嵐だった。フレデと私はその嵐を楽しんだ。私たちは波が荒々しく打ち寄せる海岸に向かって出発しようとした。 風邪をひいて寝込むのが怖くなければ行っていたかもしれない。その夜は古い家の中でも静かなものではなかった。私たちは皆疲れていてぐっすり眠りたいと願っていた。
しかし星には(星に現れた預言は)そうはいかないと告げていた。ジム(エラの子)は寝た後歯痛を起こし一晩中泣き叫んだ(わーん、痛いよー痛いよーと)。アニーおばさんもお母さん(エラ)も起きていてジムを看ていたので、フレデと私は起き上がっても良いことはないと判断した。そこで私たちは毛布の下にもぐりこみ、眠れないので時間をつぶすようになった。どちらがあわれなジムの奇妙な出来事について最も気の利いたことを言うことができるか見て、時間をつぶすようになった。
*LMMは、1918年12月1日に始まった日記の続きを書いています。

その音(ジムの鳴き声)は隣の部屋にいるジャック氏に影響を与える可能性がある。私たちは ベッドが揺れるまで笑い続けた。私たち二人は、このような苦境に立たされたことは一度もない。互いのジョークで退屈を紛らわせたり、憂さを晴らすことができなかったことはない。私たち二人はそのような状況下で、耐え難いほどおかしいと思われることを言うコツがあるようだ。
その時その状況下では、耐え難いほど可笑しいと思えることでも、それを書き留めたり、別の環境で繰り返したりすれば全く笑えないことになるのだ。少なくとも私たちは、本来なら長く退屈な夜であったであろうものを、完璧に楽しい乱痴気騒ぎに変えてしまった。
金曜日は晴れで、午後にダニーが私を駅まで送ってくれた。かわいそうなアニーおばさんは私に腕を組んで 泣いたわ 「来てくれてありがとう、モーディー」。アニーを奮い立たせることができなかった。でもフレデのことが気がかりで、フレデのことは簡単ではないんだ。彼女の心臓の調子が悪いんだ。腸チフスの後遺症が残っているのだ。私は彼女がカム(婚約者)が帰ってくるまで休んでいてほしいのだ。
私は悲しい気持ちで帰ってきたが、夏に帰ったときのような気持ちにはならなかった。 予言されていた陰の谷を越えたのだ。あの日、不吉な食卓を囲んだ13人のうち2人がいなくなった。迷信であろうとなかろうと、私はもう二度と、避けることができるなら13人のテーブルに座ることはないだろう。
私はサマーサイドに一晩中滞在し翌朝6時に出発した。帰りは何事もなく帰りました。火曜の夜、ユアンが車で出迎えてくれた。その日は雨で暗かった。私たちが庭に入ると、スチュアートとチェスターが飛び出してきた。車に飛び乗り私にキスをした。"私の可愛い母さん" "私の可愛い母さん" 再び彼らの愛に包まれた。そして家に帰れてよかった。でもフレデが恋しい... 今まで以上にね。フレデの中には感情的なものと精神的なものの両方がある。仲間を見つけることができた。一人の人間にそれが見いだせるのは非常に稀なことだ。フレデは別として バーティ・マッキンタイアは別格だ。私がこれまで最も愛した人たちは私の知的な仲間としての基準には達していない。
私はできるだけ早く本の執筆に取りかかった。新年までには完成させなければならない。私は、このような天下りのような日付(出版社に決められた締切日)が嫌いだ。執筆の楽しみを奪ってしまう。ステラの手紙によると、クララはインフルエンザ肺炎にかかり死にかけたが、今は回復しているとのこと。私は、「スペイン風邪」という名前を聞くたびに、体がすくむような気がしてきた。昔の「黒死病」よりもひどい状態になっているのだ。ユアンはこの1週間、またひどい神経炎に襲われたが、今は良くなっているようだ。
この秋は辛く寂しい季節だった。しかし戦争は終わった! それが何を意味するのか私たちはまだ理解していない(現代が始まってしまうのだ)。実感がわかないのだ。突然の戦争終結は、まるである惑星で眠り、別の惑星で目覚めたかのような不気味さがある。戦争が終わったことを(私のように)これほどまでに深く感謝する人はいないのではないだということが 母親と妻を除いては(戦争に行った息子や夫を心配する母や妻)、誰一人として感じることができなかったことがよりはっきりした。

しかし、今は何もかもが平板でつまらないものに見えてしまうというのが正直なところです。4年間、恐怖と恐怖、恐ろしい逆転劇、驚くべき勝利などを聞かされてきたのに、今はすべてのニュースが味気なく、面白くもないものに思えるのです。まるで地獄の中で何年も生きてきたのに、突然地平線の彼方まで平らに伸びる静かな緑の草原に横たわっているような気がする。
人はありがたくもあり退屈でもある。 毎日、郵便が来るのを怖がらないのは不思議であり、幸いであり、退屈である。 震えながら新聞を開き、震えるような視線の先にある見出しに貪欲に目を向けることもない。 見出しをを震えながら見てから、貪欲に「戦争批評」欄に目を向ける。
どういうわけか人生には空白がある。 しかしその空白は次第に埋まっていくのだろう。カイザーは退位してオランダに逃亡した。同様に息子ウィリーも。ドイツは共和制になった。4年前に世界征服を企てた男がなんという失脚だろう。ナポレオンが果たせなかったことを成し遂げようとした。
100年前にナポレオンについて書かれたバイロンのセリフが、今日、まるでウィリアム・ホーエンゾレルンについて書かれたかのように読める。特に次のような詩は、まるでホーエンゾレルンのために書かれたかのように読める。

もう終わったことだ。しかし、昨日は王であり、    勝利と虚栄であった。
そして、王と一緒に戦うために武装し、        争いの歓喜を......。
そして今、汝は名もなきもの、              勝利の地震の声。
とても卑しいが、生きている!              汝に生命の息吹を。
これが千の王座の男か                  剣と笏と覇気か
大地を敵対する骨で埋め尽くし             人はそれに従うしかないと思っていた   そして、このように生き残ることができるのか?   名声はどこで失われたのか?
モーニングスターと呼ばれるようになり         全部が鎮まった!闇の魂よ、
何が起こるかわからない                 汝の記憶の狂気!

かつてドイツのウィリアム(ウィルヘルム・フリードリヒ二世のこと)ほど嫌われた男がいただろうか? かつて世界の歴史の中でこれほど多くの苦悩と悲嘆と死の最終的な原因となった一人の男がいただろうか? さて、ある老婦人が言っていました。 "悪魔がそのような男を捕まえないなら" "悪魔を持つ意味がない" (この世界に悪魔がいる理由がない)

1918年12月8日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日は日曜日だったが、今回ばかりは落第点だった。出かけるには疲れすぎていたのだ。毎年恒例のクリスマスコンサートのために、S.S.の子供たちを訓練するという責任は今年は主に私に押し付けられた。無理な注文だ。私は、赤十字の会長であり、また私はミッション・バンドの会長であり、社会福祉協議会の会長でもある。
リースクデールとゼファーのギルドの会長、赤十字の会長、伝道バンドの会長、社会部の会長、W.W.M.ソサエティーの幹事も務めている。これだけでは十分ではない。だが、演奏会のための訓練という仕事も課せられなければならない。私は昨日の午後はずっと子供たちと教会に行っていて泣きそうになりながら帰ってきた。インフルエンザにかかってからというもの体力がなく、どんな無理や努力も無駄になってしまうようです。だから今日は家で休んでいた。そうすることで、神様に栄光を帰すことができると信じています。

1918年12月17日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
S.S.コンサートは中止された。近くでインフルエンザが流行したためだ。私はそれ(S.S.コンサート)を恐れていたのでうれしい。体力がないのだ。しかし私は恨んでいる。練習で無駄にした午後が悔やまれる。あの時休んでいればあの時休んでいれば! ああ休みたい! 
この7年間は本当に幸せで充実していたのですが、ずっと一生懸命、絶え間なく働き続けてきたのだ。頑張ってきた。4年間で3人の子供を産み、4年間は戦争という緊張の連続だった。そのため私は疲れ果ててしまいました。いつも疲れていて休んだ気がしません。私はできることならベッドに入り、2週間ほどそこにいたいものです。誰にも会わず誰とも話さず何もせず、ただ横になっているのです。
しかしこの小さな恩恵さえも、今すぐには手に入らない。それにもっと心配事がある。昨日ボストンの弁護士ロリンズから手紙が来て、ペイジ社に対する私の裁判が1月に行われることになったと書いてあった。私はそのために行かなければならない。この件は2年間も引きずっていたがやっと決着がつきそうだ。しかしたとえうまくいっても私はこのままでは挫折してしまう。たとえ成功しても、私はまた別の訴訟を起こさなければならない。
一生ページとの法廷闘争ばかりが予想される。それは実に楽しい展望だ。(皮肉のつもりか)
ボスニア・ヘルツェゴビナへの出張の手配をしなければならない(第一次世界大戦が起こるきっかけになった場所になぞらえて、これからペイジとの戦闘の始まりだと言っている)"牧師夫人" が出版社との訴訟に巻き込まれてると教区の人たちに知られてしまったらミッションバンドの運営に適さないと思われるからだ。本当に知られるとまずい。噂話に花が咲きそうだ。訴訟の当事者全員が同じ汚名を着せられるとは思わないけどゴシップになる。

1918年12月26日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール
クリスマスが終わってうれしい。とても残念な一日だった。秋の初めにはもう一度クリスマスにフリーデを迎えたいと思っていたのだが、ジョージの死によってそれは不可能になった。私にとっては残念な一日だった。私はずっとこの一週間、神経質で、憂鬱で、頭が痛かったのだが、この前の夜それが頂点に達して、目もくらむような昔ながらの病気の頭痛になった。
しかし子供たちは楽しい時間を過ごした。子供たちは幸せでその日を楽しむべきです。私たちは子どもたちのためにツリーを用意し、子どもたちは大喜びではしゃぐ小さな魂(かたまり)のようだった。クリスマスの前日9冊目の本「Rainbow Valley」(虹の谷)を書き上げた。終わったことにとても感謝している。インフルエンザに罹ってからというものすべてが長引いた。この本は、アンの夢の家」ほどの出来ではないけれど、でもこの種の作品としてはかなり良い出来だと思う。
しかし私はこの種の作品に飽きた。もう卒業したんだ。何か違うことをしたいんだ。しかし出版社が私をこの種のものに留め置くのは売れるからであり、私の作品に慣れた大衆は変化を許さないと主張するからだ。ということでこのようなものを書き続けている。それでも、もし私にもう少し余裕ができて体力と神経を少し回復させることができたら、私は自分の思うような作品を書いてみようと思っている。ルイス・ペイジは奇妙な人間だ。私が彼の事務所と別れる前、彼らはいつも Xmasに小包のような本を送ってくれた。しかしその後、彼らはもう送ってこなくなった。それでもう送ってこないと思っていた。しかし今日、「サンセットカナダ」という高価な旅行本と一緒に届いた。
L.P.(ルイス・ページ)の個人的な名刺が添えられていて、彼のきれいな字で「メリークリスマス、ハッピーニューイヤーL.C.P.」と書かれていた。
特に、私がマサチューセッツ州裁判所に訴えている男は、私を騙して詐取しているのだ。私の頭に火の粉を投げつけるつもりなのだろうか?
(旅行書を読んでボストンの裁判所に出掛けてこいと言う意味か、あるいはカナダの没落にひっかけた皮肉であるのか)

1919年

1919年1月3日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール、
今日我々の赤十字社は解散した。このような不謹慎な閉鎖の急ぎ方には、その背景に理由がある。本来なら少なくともひと冬は活動を続けるべきであった。しかしこの1年余り、その赤十字社にはトラブルが絶えなかった。私はいつ噴火するかわからない火山の縁を歩いているようなものだと感じていた。赤十字の騒ぎだけでなく、会衆の騒ぎを引き起こすかもしれない火山の縁を歩いているような気がしていた。
問題なのはここの会計係は、一部の人たちからかなり不当な疑いをかけられているのだが、私は確信している。 ――会のお金(赤十字への寄付金)を会計係が自分の財布に流用したのではという疑惑があるのだ。この問題は昨年の冬に始まったのだが、私はその時それを阻止し(事件を公にせず)以来ずっと蓋をしたままにしている。しかし私は年次総会で爆発が起こることを知っており、それをずっと恐れていたのだ。しかし(第一次大戦の)休戦協定が結ばれたとき私は自分の道が開けたと思い、小さな計画を立てた。その結果今日の解散に至ったのだ。
もし私たちが赤十字の会を維持しようとすれば、毒舌の言い争いが起こり、良い仕事はできないだろう。会計係は気分を害して去ってしまうし、彼女なしには何ができたかわからない。彼女はこの場所で唯一、経営能力のある女性だ。彼女は奴隷のように働き、計画を立てた。彼女を批判し中傷してきた女性たちは、誰一人として彼女の代わりを務めようともしませんでした。そのような中で私は、「このままではいけない」と。このようなことから、私はこの会を燻っているスキャンダルが破裂して燃え上がる前に、平和的に評判のよいままで解散させたほうがいいと思った。
だから私の望み通りになった。ラップ夫人のことを噂し、彼女が役員として留任していたら会を去るだろうと言っていた女性たちが、彼女の良い仕事に対して彼女の働きに感謝の票を投じたのである。アッラーの愛のために、人間の本性は何からできているのだろうか? そこに何か誠意があるのだろうか? 去年の夏のある日、フレデはマクドナルド(大学)の親しい友人が彼女を裏切ったことを私に話した後、熱くこう叫んだ。 「モード、誓って、あなた以外、仲良し三人組はいないわ。あなたしかいないの」。 "君だけは絶対に信用できる" とね。残念なことに、私たちが絶対的に信頼できる人というのはほとんどいないのである。若い頃、私たちは度重なる失望と裏切りに遭った後、私たちはより賢くなり、より皮肉になるのだ。

1919年1月4日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
今夜は家で読書をして楽しい夜を過ごしました。これは決して頻繁にあることではありません。
私たちのどちらか、あるいは両方が、しばしば "week " (平日)に留守でなければならないのです。(外出する用が多く、家にいられることが少ない)

夕方から来客があったり仕事があったりして、なかなか本を読む時間が取れない。だから私たちは落ち着いて読書ができる夜を心から楽しみたい。リンゴの皿やチョコレートがすぐ手の届くところにある。私たちはたいてい応接間で座る。家の中でいちばん気持ちのいい部屋だ。
フレデはいつもこの部屋を「夏の部屋」と呼んでいた。照明や緑のカーペット、淡い黄色の低い壁、ピンクの装飾が木の香りを漂わせているからだろう。庭のような印象を与えるからだと思っている。
我が家の大きな陶器製の犬は、本立ての両脇に重々しく座っている。ダッフィーもたいてい迷い込んできて、コヨーテの皮の上やロッキングチェアの上でおとなしく寝ている。ダフィーはこの4月で13歳になるが、目は曇らず尻尾のふくよかさも衰えていない。私が感じるダッフィーに見られる唯一の老いの兆候は、台所の窓辺にあるお気に入りのベンチに飛び乗る前に以前より11デシベル長く座って窓辺をを悲しげに見上げていることだ。
ダフ・オ・ディルは老いを「骨身にしみて」感じているのだろう。ああダフネたちよ、それはお前も私も同じだ。私にも13年前の春の夕暮れから、世界の橋の下には多くの水が流れている。(多くの時が流れた) 13年前の春の夜 アレック・マクニールの家からあなたを担いで帰った。小さなバスケットに入れたあなたは一歩一歩ごとに吠えていた。その道中で出会った人たちは皆、満面の笑みを浮かべていた。
ダフィーとfredeの老いたマギーは、私が知る限り最も長生きした猫だ。「マギーは10年ほど前、17歳のときに亡くなった。フレデは彼女を可愛がっていました。2匹は一緒に成長し一緒に育ちました。フレデと私は昔から猫が好きだった。どこで好きになったのかは謎だが私たちの父も母も、そして両家の祖父も祖母も、猫を嫌っていたからだ。パーク・コーナーには立派な猫種がいた。いつも大きくて、太っていて毛深い。マギーは灰色と白の猫で、頭脳も感情も性格も、人間の数倍はあった。彼女は生涯に膨大な数の子猫を産んだ。マギーは確かに地球上に子猫を補充し子猫たちもまた立派に育った。
マギーはついに ウサギの罠にかかり、ひどい怪我を負い殺処分された。私は彼女のために「In Memoriam(追悼)」の詩を書き、フレデはそれをマギーの写真入りのカードに印刷した。マギーが写っている。それは図書館に額に入れて飾ってある。フレデはマギーが死んだことを強く心に刻んだ。あのような形で亡くなるのは辛いことだが、でも私はいずれにせよ長生きはできなかったと思う。この間彼女はとても耳が遠くなり、ほとんど無に等しいほど小さくなってしまった。
色あせた毛皮の中に一握りの骨。彼女が死んだ冬の前のある秋の日、私はパーク・コーナーにいたのを覚えている。彼女が死んだ冬の前の秋の日。フレデは学校の先生で留守だった。マギーはよく食べさせられ、世話もされていたがあまり撫でられなかった。
アニーおばさんは、猫が本当に好きではなかったのだ。ふと見るとマギーは私の足元に座り、懇願するような目で見上げていた。私はすぐに彼女を膝の上に乗せた。抱きしめて撫で、話しかけ可愛がった。彼女は私の膝を大きく鳴らしながら、上目遣いに調子を合わせている。

彼女の目は実に不気味だった。その目は今日まで私を悩ませている。それは動物の目ではなく人間の目である。その目には私がときどき見る、ある貧しい老女の表情がそのまま表れていた。その表情は、ある貧しい老婆が無視され見落とされているようだ。若い女性が当たり前のように受けているような、ちょっとした気遣いを見せてくれた。本当にマギーがそうであったとは考えにくい。どうだろう? 
愛する仲間と長く親密に付き合うことで魂が芽生えるのかもしれない。 動物に魂が宿ることもあるのだろう。ひばりの谷の向こうでフレデと私は老いたマギーを見つけるだろう。ふっくらとした永遠の若さで。愛らしい子猫がいなかったら私たちは天国でくつろげないと思う。 もし黄金の通りから続く小さな草の路地を、愛らしい子猫たちが元気に歩き回っていなかったら、私たちは天国を完全にくつろげないと思う。窓辺でうたた寝している愛らしい子猫がいなかったら、私たちは天国を完全にくつろげないと思う。そうでないのであれば天国を完全にくつろげると思う。
でもダフが天国に行くとはとても思えない。彼はとても奇妙な生き物だ。いろんな意味で不気味な生き物で絶対的に極悪非道だ。彼は生き続けるかもしれない。しかし天国には行けない。しかし地獄に追放されることもない。灰色の幽霊猫が徘徊し、「独り歩き」できるような、素敵な影のあるリンボ(辺獄、洗礼を受けない者が仮に仮に行く地獄)があるに違いない。猫が嫌いだったおばあちゃんだが、ダッフィーが大好きになった。ダッフィーにとてもよくしていました。でもダッフィーが夜中に家にいるのは許せなかった。
冬の寒い嵐の夜だけは、ダフィーを地下室に寝かせてその場をしのぐこともあったが、大抵の夜は彼は外に出さなければならない。しかし夏の晴れた夜にはダフが彼女を出し抜きました 昔、ある月夜の晩、私は悪夢のような感覚に襲われ、目が覚めたのを覚えている。白い敷物に丸いしみができているのを見て、私は手を出すと息をしている体に触れた。ダフが私の腹の上で丸くなって眠っている。どうやら台所の屋根に登って北側の部屋の窓が開いているのを見つけて、そのまま私のところに来たようだ。
それ以来私は夜可能な限り北側の窓を開けておくようになった。そしてダフは一度も逢瀬を欠かさず、いつも小夜を過ごしていた。ダフが私の足元のベッドで丸くなるのはいつものことだった。玄関のドアは いつもしっかり閉まっていて誰も気づかなかった......。 ダフにはダフのやり方がある。
Fieは撫でるのが嫌いで、一度も撫でたことがない。彼は私にも嫌な顔をする。たまに私の膝に飛び乗って寝るのだが、ここ数年はもう少し頻繁にやっているようだ。お腹が空いているとき以外は決して鳴かない。だから彼はそれをすることができ、それは私は猫の鳴き声を聞くのが大好きなので、彼が鳴かないことは刺激的だ。それは自然界で最も満足度の高い、心地よい音だ。夕暮れ時はDaffの最も嫌いな時間帯である。そのとき私は彼を恐れている。というのも、それはそれで理由がある。そのとき彼は何の前触れもなく、虎のように飛びかかってきて私の足や腕に歯や爪を埋めようとし、私が彼の頭を強く叩くまで決して屈服しない。このような時、彼は憑りつかれたように見えた(おめえを食っちゃうと)。そしてまたその時、最も親切で友好的だった。

昔夜が更ける頃、寂しい帰り道でダフがフェンスから降りてきて、私の足元で小走りに道を歩いていくのだ。彼は私の身近な存在だった。黄昏時の散歩のお供だった。私たちは一緒にハレー彗星を狩ったことを覚えている。東の方角で私が彗星を狩ったのだ。ダフは野ネズミに興味があったのだろう。その証拠に、干草畑の大きな太いクローバーの「ボタン」に突然飛び込んできたのだ。
ダフが自分の尻尾を追いかけるのは世界一面白い光景だった。この習慣はダフが4、5歳になるまで続いた。その尻尾を追いかけるスピードは、まるで回転するボールのように速く、尻尾が逃げれば逃げるほど、どんどん狂っていった。ついに捕まえることに成功すると、猛烈に噛みついて痛みに悲鳴を上げるほど激しく噛みつき、さらに猛烈な勢いで追いかけ噛みつく。噛んで、鳴いて唸りながら、もう限界というところまで追いかける。
私たちがここに(リースクデールに)来た最初の冬と春は、ダフがいつも私たちのベッドの足元で寝ていた。しかしチェスターが生まれてからは決して部屋に近寄らなくなり今日に至っている。ダフは自分の鼻がおかしくなっていることを自覚していたし、ダフは自分の鼻がおかしくなったことを知っていて、誰かの後塵を拝するつもりはなかったのです。
DaffとFreedeはお互いにとても仲が良いのだが、DaffはFreedeの言うことに一切耳を貸さないのだ。 しかしダフもまたフレデのたわごとには耐えられない。ある日彼女がここにいた最後のクリスマスに彼女は台所に座っていた。台所に座って、足を組んで、投げ出してとても素敵な新しい絹のストッキングを見せた。彼女はどこかへ行くための服装だった。ダフは台所の窓枠に座っていてとても不機嫌そうだった。 スチュアートにからかわれたからだ。ダフは筋肉も縞模様もひげもすべて十字架のように見えることがある。フレデと私はダフをからかうと、ダフはそれを知って今まで以上に不機嫌になった。
最後にFleedeが言った、「ダフ、私はあなたがドイツのスパイであると確信しているわと言った。 ダフ――これは実際の事実である――はわざと窓から降りて、わざと床を歩いてわざと尻尾を巻いてフレデに近づき、そして彼女の上質なシルクのストッキングの上に、わざとシャワーを浴びせたのだ(おしっこでもしたのか)。マダム・フレデは二階に行って、服を着替えなければならなかった。私たちはただただ笑いながら悲鳴をあげていた。私もダフも他の猫もこんな芸当をするのを見たことがない。そして彼はそのような悪魔のような冷静さと悪意を持ってそれを行った。というような顔をしていた。

1919年1月7日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
昨夜は1時まで起きて、裁判の証拠としてボストンに持っていかなければならない書簡を整理していた。午後にはW.M.S.(ワールドミッションスクールか)に行き講演をした後お茶を飲みに行き、いつものように退屈な夜を過ごした。
明日は小旅行の準備をしなければならない。私はそれが首尾よく終わったとなることを願っている。しかし願いは成就しない。そのためこのような甚だしい事態が発生したのである。(願い通りに行かないために裁判と言う事態になってしまった)
私は、訴訟のためにボストンに行くことを教区に知らせていない。彼らは私たちの秘密を探っている。リジー・オクストビーは、ゴシップの中で新たな息吹(新鮮な興奮)を感じることでしょう。だから私は皆に惜しみなく私は「昔の本の契約に関連した仕事」で下界に行くのだと言った。これ以上はっきりした事実があるでしょうか? これほどはっきりとした人を驚かせるような方法はない。

1919年1月10日(金曜日)
私は今、ボストン行き急行列車で夜通し走っている。
昨日吹雪の中で家を出て夜10時にトロントに着いた。私は朝まで待つつもりだった。しかし雪で遅れた列車があるとの報告を受け、私はその日のうちにモントリオールまで行って、翌日の乗り継ぎ列車を失わないようにした方が良いのではと思った。だから私は夢中で走り回り、寝床(寝台車か)を確保し、11時の列車で出発した。
今朝、私たちはモントリオールに入った。フレデは夕方私に会うことになっていて、列車と列車の乗り継ぎの間の貴重な半日観光ができるはずだった。私はマクドナルド大学に電話したところ、ヒル女史がフレデは今日オタワに行ったが、夜には戻ってくるから一日付き合ってくれと言った。
私は(マクドナルド大学)に行って、彼女とミス・フェルプと楽しく過ごした。夕方私はモントリオールに戻った。Fredeの列車は私の列車の1時間前の予定だったが嵐で遅れたので彼女に会うことはなかった。数分前ラウスポイントで彼女からの遅延の原因を説明する電報を受け取りました。私は彼女に会えなかったことを残念に思っている。残念です。でも帰りに1日くらいは立ち寄ることができるかもしれない。

1919年1月12日(日曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
昨日の朝ボストンに到着し、一日中弁護士と一緒に過ごした。証拠調べなどをして過ごした。我々は2つの点で訴訟を起こしている。
(Ⅰ)ページ社はグリーン・ゲイブルズの復刻版について私に千ドルの借りがあること、そして
(Ⅱ)私の同意なしにグロセット&ダンラップ社に再版権を売却したのは、私の利益に対する詐欺であること。この点については私たちは勝てないだろうと思っている。
というのも、私は再版のための小切手を受け取ることで、実質的に再版を承認したようなものだからだ。
しかし、もし裁判官が公平であろうとするならば、ペイジに何か罰を与えることになるでしょう。
そして彼は、(Ⅰ)項を私に有利に解釈する可能性がより高くなるでしょう。
さらに、Avonlea(アンの青春)の訴訟が起こったときに、私たちの立ち位置がよくわかるようになる。
というのも、Avonleaの復刻版の場合、私は小切手を受け取っていないので、裏書をしていないからである。(裏書=再販してよいという承認)
第一点目。私はロリンズ氏(私の弁護士)が好きだ。彼はいい人だし抜け目のない冷静な人物のようだ。昨日の夜、私はブレーントリーに出てきて、エイモスとフローラの居心地の良い小さなバンガローにいる。このニューイングランドの丘の上にある小さな家には、何かとても魅力がある。彼らの「書斎」は特に居心地がいい。

1919年1月13日(月曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
今日、私は初めて法廷で経験を積んだ。とても興味深いものだった。裁判官ジェニーがこの事件を担当している。ページが法廷にいたが、私を大きく取り囲みました。私はルイスの姿にショックを受けた。
8年ぶりに会ったので8歳は老けていると思ったのだが、16歳も老けて見える。以前はハンサムな男だった。その美貌はほとんど失われてしまった。まあ人はいろいろだ。そしてその罰から逃れようとする。ジョージ・ペイジ(ルイスの弟の方)は私が見る限りまったく変わっていない。
ルイスは尋問を受け、少なくとも3つの意図的な嘘をついたと宣誓した。ペイジの弁護士はネーさんという人で年配でとても親切な人だった。
ページが退出した後、彼は近づいてきて愛想よく微笑んだ。「マクドナルド夫人、私の反対尋問は純粋にプロフェショナルなものであることをご理解ください(ペイジの弁護は仕事でやっているので、あなたに悪意は持っていません)あなたは素晴らしい本を書きました。
しかし、これで明日の朝、証人席で最高のスタイルで私を尋問するのを防ぐことはできないだろう。

1919年1月14日(火曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
とても大変な一日でした。ミスター・ロリンズと私は裁判所に行き、ルイス・ペイジが再び法廷にいた。さらに嘘をついた。彼はずっと神経質になっていた。唇を湿らせ、時計の鎖をいじっていた。彼の証言の後、私の番が来た。私は30分ほど証言台に立ち、ルイス・Pとは正反対のことを宣誓した。
裁判官が誰を信じるかは未知数だ。私は自分がありとあらゆる種類の馬鹿にされたような気がして証言台を後にした。しかしロリンズ氏は帰り際に私にこう言った。"君は立派な証人になったよ。"
裁判官もそう思ったのだろう。とにかく彼は、尋問が終わったあとの発言で、かなり明確に私に最初のポイントを与えるつもりであることを明言しました。
ページ側もそれを理解していたようで、私たちが法廷を出る前に、彼らの弁護士が妥協案を提示してきた。法廷を出る前に弁護士がやってきて、この訴訟を妥協して、私の本の権利をすべて買い取ると言ってきたのだ。
私はこのようなことはあり得ないと思っていた。私はこれは私の問題を解決する可能性があり良い方法だと考えていた。しかしまさかこのような申し出があるとは思ってもいなかった。確かに彼らは、もし彼らが私が彼らを法的に支配しており、ハッタリや恫喝には屈しないということにようやく気づかなかったら、そうすることはなかっただろう。
彼らは私に1万ドルを提示した。私はこれを見て微笑んだが、ロリンズ氏と話し合ってみることにした。私は少し考えてみた。
私は心の中で計算し、もしページ社が18,000ドルをくれるなら、私は彼らに売り渡すと決めた。
私の本の価値、あるいは別の会社で(得られそうな)価値とは比べものにならない(ほど多い)。しかしページ家のような一対の悪党には、手にした鳥(獲物)は、藪の中の半ダースの鳥の価値がある。この金を投資すれば年利は年間印税と同じぐらいになる。そこで私は18,000ドルと言った。すると弁護士がにっこり笑った。いやあ、そんなことはないでしょう。
13,000ドルにはなるかもしれない、それ以上は1セントも出せませんな。私は最後に微笑んで、その場を後にした。私は一歩も譲らない。でも譲らないというのは神経に負担がかかる。私は家に帰るときひどく疲れていた。緊張の反動が来て私はすっかりバラバラになってしまった。
しかし私はその断片を集め、明日には士気を回復してこのページに立ち向かおう。明日も頑張るぞアーメン。私は勝つだろう、私に負ける余地はないのだから。ページにはない。彼らは私を追い出したいようだ
奴らは良心も評判もない悪党だ。私が信用できない女だと分かったのです。ハッタリもイジメもおだてにも乗らない女だとわかったのです。私がこの訴訟に勝ったらすぐに次の訴訟を起こすことを彼らは知っています。もっと勝算のある別の訴訟を起こすことも知っている。
(ペイジは赤毛のアンの著作権を買い取った後もその映画化権を映画会社に売って儲けました)

1919年1月16日(木曜日)夜
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
私はまたしてもバラバラになってしまった(あー、もう何も考えられない、ダメーということ)が、それでも私は善戦し、勝利したのだ。
昨日の朝、ロリンズ氏と私は再びエクイティ・コートに連れて行かれた。Mr.ネイ氏(敵側の弁護士)は上品に現れ、ページが和解金として1万7000ドルを支払うと言った。私はもう一度微笑んで、「18000ドル」と言った。「それなら、この裁判は続けなければならない」と言うと、彼は "彼らはそれを与えることはない。"と言う。 私は「そうだろう」と言ったが、裁判は続行された。
弁護士は弁論を行い、裁判官は正式な決定ではなく、どのような決定を下すことになるかを発表した。その決定はどうなるのだろうか。私たちの予想通り裁判官は2点目をペイジに与えた。
私が小切手を受け取ってしまってGとDの取引を許可したという理由で。ペイジに2点目を与え(ペイジが赤毛のアンの出版を続けることは有効である)、1点目を私に与えた(印税の低さは不当であるので積み増しを要求できる)。
法律で決まっていることだ。係争中の1000ドルの積み増し金は私のものであり、他の数千ドルは契約のあの文言に左右される可能性があるものだ。
そして、将来的に契約書のこの文言に依存する可能性のある他のすべての数千も、私のものである。(アン・オブ・グリーンゲイブルズ以外の書籍の契約の不当性)
ネイが近づいてきてロリンズと脇で話をしました。私たちが法廷を出るとき、ロリンズはこう言った。「私たちは彼らをいいように操っています。ネイは17,000ドルの申し出はまだ有効だと言っていると言った。「18000ドル」と私が言うとロリンズ氏は笑った。"私はあなたがそれを取得すると思います" と彼は言った。(18000ドルの要求は勝ち取れるだろう)と言った。
私は彼と別れてアルマ・マクニールに会いに行った。中華料理屋で昼食をとった。それから映画を観に行った。私はアルマと一晩中過ごし、今朝はロリンズさんのオフィスに行った。彼はにこにこしていた。
"1万8千ドルになった "と言っていました。
ヴィシ!(やった、とでもいう意味か)
正式な契約書は明日作成されることになっている。私は映画を見に行き、それから家に帰りました。とても疲れました。もう一回ピースを拾い上げられるかどうかわからない。(モンゴメリはこの後も他の書籍の契約の不当性についてペイジを訴え続けました)

1919年1月19日、日曜日の夜
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
私は金曜日と昨日、ペイジと、いや、ジョージ(ルイス・ページの弟)と話し合った。ジョージは私に多くの直接的な嘘をつかなかったので、それほど恥ずかしい奴ではないだろう。しかしルイスは裏から手を回して私にできる限りの迷惑をかける。
私の短編集「Chronicles of Avonlea」(アヴォンリー年代記、日本題アンの友達)が出版されることになったとき、私はルイス・ペイジに私の最新の短編小説をすべて送った。彼はその中から『Chronicles』のために選りすぐりを選び残りを私に返した。しかし今、この件に関するネイの手紙から、どうやら彼は泥棒のように短編小説の原稿のコピーをとっていたらしい。
この古い「淘汰」(Chronicles of Avonleaで使われなかった短編の原稿)は、今、彼が(続Chronicles of Avonleaとして)出版しようと言っているのだが、残念なことに、彼は出版できる――出版するだろう――のだ。というのも、これらの作品のほとんどは、アメリカでは著作権で保護されていなかったからだ。
しかしその中に2つか3つ、それも最高の出来栄えのものがあり、これらは著作権で保護されているので、私の同意なしに使うことはできない。
その承諾を得るために、彼は自分自身を拘束することをいとわない。私が新しい巻を出す予定の年にはその本を出版しないよと。
もし私がこのように縛らなければ、彼はこの春にそれらの物語を出版することが十分に可能であり、私の新しい巻の市場を切り崩すことになる。(私の過去作の中に新作より出来の良いものがあり、ペイジはそれを出版することで私の新作の売れ行きの邪魔をできると言っている)
8月に出る私の新しいストークの本の市場を奪うことができる。彼(弁護士)はそれを阻止しなければならなと言った。私もそれを望んでいる。他の出版社には絶対に出版して欲しくないという事実があるからだ。
(つまり過去に書いた短編の原稿と言えどもバカには出来ないということ)

もし私が真実を知っていたら公表させなかったでしょうから。 と思っていた。しかし(続編の出版を)承諾してしまった以上、今更撤回するような恥知らずにはなれない。彼らは私に送り返したコピーを(再度)送ってほしいと言った。私はそれは無理だ破棄してしまったと言った。過去に短編として雑誌(に掲載された)原作を送ると言った。(私が送った原稿は アヴォンリアの雰囲気に合うように多少変えてある。)
彼らは、これならしかし、その日のうちに結果を出すことはできなかった。その日のうちに私はウェークフィールドに出かけていって、その夜、私はウェイクフィールドに出かけ、私の旧姓であり長年の文通相手であるルーシー・リンカーン・モンゴメリと一夜を過ごした。私はとても楽しい夜を過ごしたが、寝る直前にフローラから電話があった。私が手紙を書いたフレデから、こんな日にセント・アンズに寄るようにとの電報が来たと。その電報によると、彼女は「インフルエンザ」にかかったが、二人の優秀な看護婦に恵まれ、「とても快適」であるとのことだった。そしてその日がどんな日であれ、帰りに立ち寄ってほしいということだった。
私はこの知らせに少しも不安を感じなかった。私は、インフルエンザが本当に危険なのは、不注意や注意不足があった場合だけだという考えがあったからだ。その心配がないことは分かっていた。だから私はベッドに入った。この後、私は何日も熟睡することになる。私は長い間このような素晴らしい睡眠をとることはなかった。
しかし私は奇妙な夢を見た。私は家に着いたと思った。私の留守中に職人が私の家(リースクデールの家であろう)の中を全部壊して作り直しているようだった。家具も家財道具も何もかもが、私は二階の自分の部屋に駆け上がった。そこもまた半分の大きさになっていた。これは大変なことだと思った。私は失意のどん底にいた。私は心が折れそうになった。私の愛する家はすべて裸で、変わってしまっていた。自分の部屋は単なるクローゼットのように狭くなっていた。
そして私の大切なものはどこにあるのだろう?。私は、「何もかもなくなってしまった。また一から家具をそろえなければならない」と思い。そして、ペンキの塗られていない裸の部屋をぼんやりと眺めているうちに目が覚めた。
私はこの夢とフリーデを結びつけようとは思わなかった。その代わりに、もし何か意味があるのなら、ユアンがある集会への召集を受けるかどうか尋ねられたことを指しているのだと思った。もしかしたらその夢は、私たちが行くことで人生が変わることを意味していたのかもしれない。でも今はそれがフリードの死を意味するものだと知っている。そしてそれは実現しなかったのか? そうだろうか? 
私の人生の家は荒れ果て、私の心の奥底の神殿(夢の世界か)は狭くなったのではないか? すべてが私から失われたように思われないか? わたしには私の魂の住処を新たに用意することができるのだろうか。火曜日の朝、私は再び弁護士や友人ジョージと過ごし、物事を進めた。あとは正式に契約書を作成し署名するだけだ。 署名することになって、昼食後私はルーシー・(リンカーン)・モンゴメリとケンブリッジに向かった。文芸クラブの会合に出席し、私は「黄金の道」を朗読しとても楽しいひと時を過ごした。ダラス・シャープ教授に車で送ってもらい私はとても疲れていたが、とても幸せな気分でフローラの家に到着した。ページの問題は事実上解決した。翌日の夜私は帰国の途についた。

マクドナルド大学で1日か2日、療養中のフレデと一緒に過ごす。それから私の愛する息子たちの元へ、私は快適で心地よい夜を「書斎」で過ごし11時には寝る準備をした。突然電話が鳴った。フォラが出ると私への電話だった。悪い知らせに違いないと思った。メッセージは簡潔に、無慈悲に伝えられた。ミス・ヒルが送ったものだ。(フレデが)肺炎だそうですぐに来てほしいということだった。
それはまるで運命の鐘のように私の胸に迫ってきた。"彼女は死ぬだろう" "彼女は死ぬだろう" と呻いた。私は苦悩のあまり床を歩き回り、どうやって夜を明かそうかと自分の部屋に行った。モントリオール行きの早朝の列車に乗るためにボストンに早く着くことができなかったからだ。ああ、あの夜が!」。あの夜!まどろみと疲労の中に落ちていくのを感じたとき、私は猛烈な勢いで、「このままではいけない」と思った。
そして夢見るようになった。私は悪いことをしているのだ、未来に乱暴な手を加えているのだという奇妙な禁忌の観念があった。夢は門番からの贈り物や警告とは違う。しかし私の痛みはとても大きく、私はそれを実行し(フレデの様子を見ようとして瞑想でもしたのか)、私は夢を見た。夢の中で私はマクドナルド大学の寮のアパートの外側にたどり着いた。その部屋(フレデが寝ている部屋であろうか)へ行くには急な壁を鉄のスパイクで登るしかなかった。電信柱のスパイク(電柱に登るために突き出ている鉄棒)のようなものだ。私は必死の思いで登り始めた。が苦労して登っている途中、頭上で恐ろしい叫び声が聞こえた。私はさらに努力を重ねた。その時私は「フレデが死んだ」と思った。私はさらに努力を重ね、開口部のようなものにたどり着いて中を覗いてみた。中央の棺桶のようなものがあり、看護婦や医者が周りに立っていた。私は苦痛の叫びをあげ急いで彼女の上に飛び乗った。彼女は死んだんだ......目が覚めた。

その瞬間から、私はフリーデの回復を全く期待できなくなった。未来を隠すヴェールを引き剥がそうとした私への罰がこの幻影の拷問だったのだ。
(モンゴメリに透視の能力があったかどうかはわからないが、小説家らしく物語を作って書いているのかもしれない)
フローラと私は朝食後にボストンに行き、私はロリンズのオフィスに行き、彼と一緒にメイのオフィスに行った。メイと一緒に行って。 私はネイ(相手の弁護士)にもジョージ・ページにも私の苦しみを見せまいと決心していたので、外見上は平静を保った。
ネイの事務所でペイジを待っている間、ネイはキップリングのことを話し始め、彼の「ブラシウッドの少年」の詩のことを話した。それがいつも彼の心に強く訴えかけてくると言った。彼はノートを取り出してその詩を読んだ。私は唇を噛み締め、叫び声を出さないようにテーブルの下で手を握り締めた。それは「眠りの街」であり、私が初めてそれを聞いたのは、ある晩フレデが私にそれを朗読したときだった。
10年以上前、キャベンディッシュの古い部屋で、フレデが朗読してくれたのが最初だった。私は彼女が私のロッキングチェアに座っているのを見ることができた。彼女の声がその行の上で愛らしく余韻を残しているのが聞こえた。"警察官の日と一緒に眠りの町から帰ろう" ネイはその詩を最後まで読み、私は耳を傾け冷静さを保った。感覚を失わないようにね。
ジョージ・ペイジが来て契約書にサインをした。2万ドルの小切手(印税を含む)が私の手元にあった。フレデの命を買うことができるのなら喜んでそれを細かくちぎって風に散らそうと思った。プシュー!(ため息)フレデが死ぬわけがない。何人もの人が肺炎から回復しているのだ。マクドナルド大学のところへ行き、そして私の恐怖を笑い飛ばすだろう。腸チフスのときと同じように。 しかしその裏では......やっぱり......やっぱり! 私はロリンズ(私の弁護士)と一緒に戻り、落ち着いてさようならを言った。「君はいい客だった。いいクライアント(雇い主)だった」と彼は言った。
「あなたは自分の心を知っていたと言った。そう、私は自分の心を知っていたのだ。しかしその勝利は私の口の中で苦いものとなった。それがどうした。何が問題なんだ? ああ、あの2万ドルがあればマクドナルド・カレッジに即座に行くことができるのに。翌朝までどうやって生きていけばいいんだ!」。 私はフローラと再会し、約束通り友人を訪ねに行った。午後は耐え難いほど長引いた。しかし磔の拷問も殉教者には最後には終わる。ついに私はモントリオール行きの列車に乗ることになった。私は祈った "もう一度だけ" "フレデに会えますように" "彼女と話せますように。そうでなければ私も死んでいただろう。手遅れになる前に聖アンナ(病院)に着けば... ベロナールを飲んで、数時間重い薬漬けのような睡眠をとった。私はモントリオールに到着した。
モントリオールには、ちょうどセント・アンズの列車に間に合うように到着した。 駅に降りるとフレッドの助手カービーが出迎えてくれた私は無理に口にした。フレデは元気ですか?」そう話しながらも、「まだ生きているに違いない、でなければカービーさんは来ない」と思った。 ミス・カービーの笑顔はなかった 「彼女は快適な夜を過ごしたようで、今朝は少し良くなったようです」というのが彼女の返事だった。フレデはまだ生きていたのだ。気持ちの悪い恐怖の反動で、私は立っていられないほど震えた。私たちは通りを歩いて大きな建物に入った。

フリーデ

フレデが何度も入っていった入り口の門。私は急に希望に満ちて表向きは元気になった。結局、あの夢は意味があったのだろうか。あの夢を見たのはそのことで頭が一杯になっていたために見た夢ではなかったのか。
私はアパートでミス・ヒルと一緒に朝食をとったが、彼女は希望に満ちていた。彼女はずっとフレデの親しい友人でとても優しい女性だ。私はこの恐ろしい日々の中で、彼女の親切と思いやりを忘れることはできない。フェルプ嬢もいた。フレデが愛した、これまた素晴らしく優しくて賢い女性で以前にも何度か会ったことがある。
朝食後私は大学の医務室に行き、マスクとオーバーオールで覆われて病室に行った。
病棟に入りフレデの部屋に連れて行かれた。すると彼女はとても具合が悪そうで、またもや胸が悪くなった。これは腸チフスではない。人生の潮流がどんなに低くても(体調が悪くても)、突然の爽快感や喜びによって自然が別の刺激を与え、フリーデはいつも私が彼女の腸チフスを救ったと言っていた。おそらくそうだろう。ゴードン博士が言うには私が到着した瞬間から快方に向かったと。たぶんそれがきっかけでアップグレードに必要な弾みをつけたのだろう。しかし今の私にはそのような力はない。これはもっと恐ろしい敵だ
しかし彼女は私に会えてとても嬉しそうだった。彼女はもう孤独ではない。見知らぬ人たちの中にいたようなものだ。その勇敢で、親切で、賢い目が、もう一度、私と出会って、歓迎の光を放った。
過去に何百回となく経験したように、そしてもう二度とないことだ。彼女は肺炎とは知らずただの風邪だと思っていた。医者は彼女が完全に諦めてしまうことを恐れて、そのことを告げようとしなかった。
私はこれは間違いだと思う。しかしそうなってしまった。私は彼女のそばに座り、なだめ励まそうとした。彼女は一晩中錯乱していたが、その時は全く分別があった。私は彼女がひどく興奮していることに気づいた。ステラが書いた心ない手紙のことで悩んでいた。
心配でたまらなかった。その日の午後ステラに手紙を書いたとき、私ははっきりとこう言った。
フレデが死んだら二度と同じ気持ちにはなれないとね。でもフレデには軽口を叩いた 「心配しないで馬鹿なあなた。ステラがどんなものだ。「ステラは考え直す価値もない」。
彼女は多くのことを心配していた。母親のことやパーク・コーナーの状況、カムの将来などなど。私は彼女を落ち着かせ励まそうとした。昔と同じように、彼女は私にアドバイスと援助を求めた。彼女を失望させることはなかった。

ミス・ヒル

私は涙を流しながら再びペンを取った。私は......続けなければならないのだ。このままではいけない、乗り越えなければならない。書き出せばこの痛みに耐えられるかもしれない。私は彼女があまりしゃべらないようにという条件で、彼女のそばに座って話をすることを許された。私は彼女に自分のニュースをすべて話した。
私は彼女にちょっとしたジョークを言った。私が家にいた最後の晩、晩餐の席で笑い合った。私たちは スチュアートが食べていたパンケーキの端はフライパンで焼いたせいでパリパリになっていた。彼はスプーンでそれを切ろうとしたが無駄だった。"母さん" パンケーキの骨はどうやって切るの?" と悲しげに言った。フレデはそれを聞いて彼女特有の小さな笑いを浮かべた。それが最後だった。それがフレデの笑いを聞く最後となった。二度と、二度と! ああフレデ、天国は 笑いが必要だったに違いない、そうしてあなたは連れて行かれたのだ。
彼女は結婚指輪と婚約指輪を外し私にくれたのだ。「治るまで持っていてね。治るまで持っていて」と彼女は言った。彼女の指はとても細くなっていたので 指が細くなって落ちやしないかと心配になる。私はその朝マクドナルド大学に着いたとき、彼女が誇らしげに見せてくれた婚約指輪を思い出した。結婚の数時間前にカムが贈ったものだった。
午後はほとんど彼女と一緒に過ごした。夕食のためにアパートへ行きそして戻ってきた。私たちは「ステラの問題」について話し合ったが、いつものように何も得られなかった。どこにも行かない。Dr. Gordonがモントリオールから到着した。私が送ったのだ。彼は私に言った。彼女はとても具合が悪いと...とても心配していると... "チャンスはある" と。わずかな望みを託しただけだったが、私はそれを糧にしていた。今になって私は彼に正確な真実を話すように頼んだが、彼はそうではなかったと(気休めで言ったのではないと)知った。そうではなかったのだ。彼は自分の気持ちよりも希望を持って話していたのだ。
後で聞いた話だがヘルソ博士への別れの言葉は、運命の言葉だったそうです。"希望がある限り" だそうだ。私はフリーデにおやすみなさいと言いアパートに行った。看護婦は何か悪い変化があったら私を迎えに来ると約束した。私はとても疲れていた。二晩の疲れがどっと出てすぐに眠りについてしまった。それはほんの数分のようだった。2時頃だったが、ほんの数分のことだった。看護婦から電話があって来てくれと言われた。私は立ち上がって服を着た。もう希望は持てない。
ミス・ヒルと私はアパートを出た。延々と続く階段を下りる。 幽霊のように響く廊下を通り抜け、氷のように冷たい長い "屋根付き通路" を通り抜けた。その氷のような冷たさは、まるで死の波紋のように私の心を打ち、女子寮の長い廊下を通って医務室に行った。フリーデはモルヒネを注射され昏睡状態に陥っていた。彼女の息は荒くなり看護婦は、彼女がすでに死の前の昏睡状態に陥っているのではと心配した。
私はその晩ずっと地獄のような苦しみの中で、フリーデの部屋の外の廊下を行ったり来たりしていた。フリーデが死ぬなんて! 信じられなかったが、でもそうなんだと思った。人間はあの晩のような目に遭わされてどうやって生きていけるのか、正気を保てるのか。なぜあの晩のような目に遭わなければならないのか。

なぜ神は私たちに大きな愛の祝福を送り、そしてそれを離してしまうのだろうか。それは神なのか、それとも愛と幸福を憎む悪の力なのだろうか。 愛を憎み、それを破壊するほど強力な神なのだろかか? 無駄な質問だ! 私は尋ねなかった その夜、私はただ一つの質問をした。絶え間なく何度も何度も問いかけた "ああ神よ私はどうしたらいいのでしょう"。フリーデ無しで生きられるのか?  5時、彼女の呼吸が変わった。呼吸がまた悪くなった。
その夜の看護婦はパターソン嬢だった。私の嫌いな女性だった。しかし彼女は巧みで気配りのできる女性だった。昼の看護婦はミス・インスというバルバドス出身の女性で背が高く、雪のように白い髪をしている。しかし私は彼女が少女期を過ぎていたとは思えない。彼女の性格は とても魅力的で個性的であった。6時、フレデはモルヒネの眠りから覚め、錯乱してつぶやいた。
それから7時まで私たちは彼女が死ぬと思った。看護婦が彼女を呼び戻そうとするのを、私はベッドのそばに立って見ていた。まるで恐ろしい悪夢の中にいるような、あるいは狭い独房の中にいるようなそんな気分であった。悶々としている私の魂が、周囲の状況を眺めているような気がした。7時、フレデは起き上がった。意識が戻り、脈拍も良くなった。
しかし私はもう希望がないことを知った。時間の問題だった。私は引きずりながらアパートへ戻り、無理やり食べ物を飲み込んで診療所に戻った。そして医務室に戻った。フリーデは枕の上に静かに横たわっていた。私がどうしたんだ? と尋ねると、「元気です」と答えた。私は前日の愚痴を聞いたほうがましだった。それは自然がまだ戦っているという というのは、自然はまだ戦っているのだ。つまり彼女は闘いをあきらめたということだ。その日は長引いた。フレデは誰にも気づかれなかった。彼女はしきりに独り言を言っていた。しかし私が話しかけると、彼女はいつもはっきりと理性的に答えた。
夕暮れ時ベッドの横に座ると、その日彼女はただ一度だけ自分の体調を言い直した。「息がとても短くなってきた」と言った。しかし彼女はそのことに何の不安も感じていないようだった。私は看護婦さんたちが夜の支度をする間外に出た。部屋の中をそっと歩き回った 私は手を握りしめ絶望的に祈った。それから哀れなフレデは、もう一度最後に影の谷から戻ってきた。そして彼女は小さな冗談を言った......彼女の陽気な冗談の最後のものだ。ああ、フレデ!

"インフルエンザ" を搭載したステラを見てみたいものです。「比重(体重のことか)は90まで上がるでしょう」と言った。 「比重」......フレデと私は何日も前からそれを冗談にしていた。かわいそうに。ステラはいつも、ある「比重」(ステラは体重のことを間違えて書いたのか)が何度も上がった(また太ってしまった)と書いていた。フレデと私はこのフレーズをボールのように何度も投げ合っていた。そして今!」。私は自分自身を笑わせた。「確かにそうだ」と私は言った。涙が溢れてきた。その息苦しいマスクの下で私の顔から涙が流れ落ちていた。ああ、友よ、友よ。
ミス・ヒルと看護婦は、私にベロナールの錠剤を飲んで控室で横になるようにと言った。私は嫌だった。しかし本当に彼らが言ったように私は子供たちに義務を負っており、また呟きながら半昏睡状態に戻ってしまったフレデのために何もすることができなかった。私はそのことに気づき、連れて行かれるのを許した。パターソンさんは、わずかな変化でも起きたら私を起こすと言った。私はほとんど貪欲に錠剤を飲んだ。痛みから解放されるからだ。
5時、私は呼ばれた。私は飛び起き急いで中に入った。終わりが近づいていた。フレデの上にかがみ込んで彼女の気持ちを聞いた。「元気です」とはっきりした答えが返ってきた。しかし、勇敢な心はほとんど消耗していた――失敗――していた。彼女は横たわり、呟き、気付かなかったが私の声は最後まで彼女を呼び戻す力を持っていた。彼女は一瞬よみがえった。「フレデ」私は言った、「今日、あなたのお母さんに手紙を書こうと思う。何か送るものはある? 
「はい、私の身体の具合はどうなのか正確に教えてください」と彼女は言った。これはありふれたメッセージであった。これは意識的なものであった。次は違う。潜在意識の奥底から湧き上がってくるのだ。 「私もカムに手紙を出そうと思う」私は声を抑えてそう言った。 「何か伝えておきたいことはある?」 「いいえ、ただ彼に強い勇気を与えてあげたいだけです」と彼女は答えた。
私は何度か部屋を上り下りしてみた。しかし私はそれを、自分が死んでしまうということを突然悟って、彼女を驚かせたり、ショックを与えたりしないような言い方で言わなければならない。そんなことをしても 今さら何の役にも立たないし、彼女を心配させるかもしれない。しかし私はある約束の言葉を彼女に思い出させなければならない。その約束の意味は、今はまだわからないかもしれないが、自由で意識的で知的な精神が解放されることになる。 (霊があることを解明するのだという事だろう)
......私たちはかつて約束した。数年後あるいは何年後かに、私たちのどちらかが死んだら、そのどちらかは戻って来て、生き残った人の前に現れること。その時は私はこのことを彼女に思い出させなければならない。私は再び彼女の上に身をかがめた。"フリーデ" 私は真剣に言った「私に会いに来るという約束を忘れないでね」 "いいえ"(忘れてないと)彼女は言った 「必ず来てね。 来てくれるよね?" 私は主張した。"確かに、"彼女は言った、はっきりと大声で。それが彼女の最後の言葉だった。
しかし、ああフリーデ、あなたはまだ来ていないのだ。死者は戻れないのだ、さもなければあなたは来ているはずだ。私は......耐えられない。 私は彼女のそばに座った。私は苦痛で魂が病んでいた。ああ結局のところ、幸せとは古い迷信の中にある私たちを支配する運命という不死人たちが嫉妬する存在なのだろうか?

かわいそうに、フリーデはそのようなことには無頓着なようだった。しかし一度だけ、彼女はその貧しい細い手を差し出した。私の腕の上に置いたのだ。
無力な私に、私は彼女のために何もできなかった――何でもできたはずの私が何もできなかった。私は彼女の手を取り、彼女が落ち着きを失って再び手を離すまで、それを握っていた。
突然の落ち着きのなさ。
彼女の息はだんだん短くなっていった。7時に息が止まった。疲れた子供が眠りにつくように静かに息を引き取った。彼女は死んだ。そして私はそれを書くために生きている。
フリーデは死んだのだ 「人生の激しい熱病の後、彼女はよく眠る」 しかし私は目を覚ますと、彼女のいない退屈な歳月を 乗り越えなければならない。私は子供たちのためにできるだけ長く生きなければならない。
あの明るい友情も知的な交際も誠実で真剣な友情がなければならない。二度と私のもとには来ません。彼女が笑うのを聞くことはないだろう。
もう二度と、夏の薄明かりの中、パーク・コーナーの白樺の下を、古い橋の上を、彼女と一緒に歩くことはないのだ。どうしたら生き続けられるだろう。私の人生の半分が引き剥がされ、私は引き裂かれ血を流しているのだ。
心も魂もそして精神も。私には、ただ一人、絶対に信頼できる友人がいた。その人の前では、エマーソンの見事な定義にあるように、「声を出して考える」ことができた。
そして彼女は私の前から姿を消した。本当によく言われるように、このような芸術の世界では「死ぬのは生存者である」と言われている。そうだフリーデ、君は死の恐怖を味わうことはなかった。それは私だった......私が去っていたら、あなたは苦しんでいたことだろう。


彼女は、東の空が日の出で紅く染まるころに死んだ。彼女は「夜明けと共に出て行った」――「夢の家」のジム船長のように。彼女が死んだとわかると、私は立ち上がり、ミス・ヒルの腕が私を包むのを感じた。耳元で「朝日を見て」とささやかれた。それは親切心や感動を与えようと必死になって言う、ばかげた言葉だった。
その時、私は悲鳴をあげていた。私はそれを見て嘲笑の悲鳴を上げることができた。朝日は私には何のメッセージにもならなかった。私は耐え難い苦痛に襲われながら部屋を出た。涙が止まらない。涙は止まらず、その安堵感もなかった。もし私が一人だったら私の苦悩は、叫び声の中にはけ口を見つけ、そうして救われたことだろう。しかし私はでも、他の人たちのことを考えると叫んではいけない。私は叫びたい衝動を押し殺し別の部屋に入り、ベッドに腰を下ろした。ふと笑っている自分に気がついた。一瞬のうちに、私のヒステリックな笑い声がホール中に響き渡った。(私は生き残らねばならない人間なのだ。闇雲な悲観などしていてどうするかと)
私はこれまで一度もヒステリックになったことがない。ヒステリックになったことのある女性を少しばかり軽蔑していた。疲れた、私は彼らの許しを請う。私は笑い、ベッドが揺れるまで震えた。ミス・ヒルは両手で私を包み込み、看護婦は私が恐ろしい笑いを止めようとしているのを見て、「無理に興奮を抑えようとしないでください、マクドナルドさん」。それで私は笑い続けました。

一瞬、(フレデにか)会わないわけにはいかない、会わなければと思った。しかしそれはもはや不可能だった。苦悩の震えとともに私はそのことをあきらめた。結局のところミス・インスが言ったように それが最善だったのだろう。たぶんみんな私がまた倒れてしまうのではと心配したのだろう。そう心配する必要はなかった。
フリーデの死んだような顔、冷たく無反応で、青ざめた顔を思い出したくはない。あの悲しげな眉毛を思い出したくはなかった。しかし私はどんなに、その否定された最後の視線に、私はどれほど飢えたことだろう。フレデとわたしは、生涯一度もさようならを言うことはなかった 二人とも「さようなら」を言うのが嫌いで、そのように約束したのだ。さようならを言うのが嫌で、何年も前に絶対に言わないと決めたのだ。
笑い声をあげながら手を振って別れるのだ。11月のある日フレデはバギーの荷台に飛び乗った。私たちと一緒に道路に下りて行った。彼女は緑色の "家庭科" の制服を着ていた。彼女が降りたとき、私は「フレディ、次はいつ会える? また会える?「と言うと、彼女はそう言って、古い道を走って帰っていった。
さようならはなかったし、これからもないだろう。フレデは去っていき、そして私は残された。彼女の仕事は終わったが、私の仕事はまだ終わっていないようだった。
リビングルームの窓からは、キャンパスの向こう側にある大学のリンクが見えた。その土曜日の夕方、リンクは電飾で輝き、渦巻く人影で賑やかだった。私は少し不思議な気がした。学内に死があり、しかも教員に死があったのだから。スポーツは葬儀の後まで省略された方が適切だと思った。
ゲイのスケーターたちを見ながら、私は古い、愚かな利己的な質問をした。「あの暗い部屋でフレデが死んでいるのに......。と。古い古い疑問だ。どうして光があるのだろう? 「朝が去り夕暮れになることはないが、心が壊れることはある」しかし、世界の残りの部分は、そのために劣らず楽しいものだ。
私は幼稚な幻影と虚飾の中で、拷問から少しでも解放されるために、私は歩き、戦った。フレッデは死んでいない。こんにちわって入ってくるかもしれない。夢なんだ、ばかな間違いなんだ、目覚めたらどんなにいいか。
その失態を笑い飛ばし、私の悲劇的な苦しみを味わうのだ。目が覚めたら......。そうだ、そうだ! ブレーントリーのバンガローで再び目覚めて知るのだ。フレデが生きていて、一両日中にマクドナルド大学で会って、家族のこと、個人的なことをすべて話すことになっていたのだ。ああ、目覚めよ。
その夜は寝るのが怖かったが、寝るとすぐに眠れた。朝までぐっすり。それから私は起きると、また恐怖の一日を過ごした。私の痛みは、肉体的なものであると同時に精神的なものでもあるようだ。感情的でもある。私の身体は実際の痛みで締め付けられるようだった。大学の人が来て、去って、そして人々は同情的であった。

彼らは影――shadows――だったのだ。マクドナルド大学の教授の一人は、フリーデの死を聞いて、「ああ、天よ、この国になんという損失をもたらしたことか。と叫んだ。しかし私はその時、自分の損失のことだけを考えていた。
月曜日には別の形の殉教がもたらされた。フレデの死体はモントリオールの火葬場に運ばれることになった。フレデと私は何年も前に、天上のあらゆる話題について話すように、よく話し合ったものだった。
「魂が壊して捨てた、使い古した足かせ」(肉体)をどう処分するか、天上のあらゆる話題と同じように、フレデと私は何年も前によく話していた。
処分する方法を話し合った 私たちは適切で衛生的な方法は火葬であることに同意し、二人とも自分が死んだら火葬にすると宣言した。火葬を希望した。私にとっては、これは単なる学問的な意見に過ぎなかった。しかしフリードはこの問題について非常に深く感じているようだった。彼女は、生き埋めにされるのが恐ろしいと言った。
生きたまま埋葬されることに恐怖を感じ、墓の中でゆっくりと朽ちていくことに恐怖を感じていた。彼女はよく私に、もし自分が先に死んだら火葬にするよう命じた。私は軽い気持ちで約束した。
フレデが死んでから、ヒルさんに聞いたのだが、フレデが初めてインフルエンザにかかったと知ったとき、彼女はペンと紙を要求しその内容を書き出した。もし回復しなかったら火葬にするようにと書いたそうだ。ヒルさんによると、その時彼女は少し錯乱しており、本心ではないかもしれないと思っているようだった。しかし私は昔の約束を思い出して、かすかに書かれた文字を見て、本心だとわかった。
「もし私が死んだら、私の体は火葬に付される。フレデリカ・マクファーレン」――彼女が書いた最後の言葉だ。アニーおばさんとカムがどう思うかはわからないが、私はフレデの最後の願いを実行しようと決心し、そのための準備を命じた。私はそれを実行したことに満足している
。しかし、私自身は火葬が正しい方法だと信じているし、これからもそうするだろうと信じているが、自分の場合は火葬にすることはないだろう。それは生きている人間にとって、あまりにもつらいことだ。死者を土に還すよりはるかに難しい。そうすると死者はまだ多少なりとも自分のからだを所有しているように見える。しかし火葬にすると死者は全く何も残らない、その寂寥感は恐ろしい。
月曜日の朝、女子寮の応接室で簡単な葬儀が行われた。聖アンナ教会の牧師、ランカスター氏が執り行った。彼はフリードの個人的な友人であり、彼女は彼の教会に通っていた。
それから私たちは駅に行き、しばらく汽車を待った。棺は花で覆われていて私の赤いバラの束もその中にあった。
フレデが亡くなる前の晩、友人からフリージアの美しい鉢が送られてきた。フリージアの美しい鉢と、「好きな花」についてのジョークを記したメモが添えられていた。そのときふと思った。
好きな花は何ですかと聞いたことがない。そのとき私は彼女(フレデ)に尋ねた。彼女は奇妙な、明確な、断固としたやり方で答えた。"赤いバラ" と答えた それはいい選択だった。
私はそれを知っていたかもしれない。赤い薔薇はまさに、鮮烈で劇的で強烈なフリーデが最も好むものだった。だから棺に入れる赤いバラを注文した。ああ、フレデ!
私たちはモントリオールへ行き、車で山の上へ上へと登った。火葬場の門をくぐるとすぐ横の鐘楼で鐘が鳴り始めた。 私はその鐘の音が物理的な打撃のように私の脳を打つような気がした。

それとも彼女の魂は、あの黒い箱の中に閉じ込められているのだろうか? それとも彼女の魂は私のそばにいて私の苦悩を憐れんでいたのだろうか――手が届かず、慰められないことを苦々しく思っていたのか。
それとも……さまざまな思いが頭の中を駆け巡り、やがて一つの奇妙な妄想に集約された。フレデは箱の中で死んでいて、もし私が彼女にかがみ込んで冗談を言っても笑わないだろう。この現実は私を苦しめた。何度も何度も、「彼女は笑わないだろう」という思いが繰り返された。
そうだ、笑わないのなら、彼女は本当に死んでいるに違いない!」。これはばかげていると思うだろう。私の人生の中で最も激しい苦悩であった。
葬儀が終わり、棺に遺灰がまかれた。突然正面の厳かな黒い扉が開き、棺はその中に押し込まれ、そして閉まった。なんともやりきれない瞬間だ。この5日間の苦しみが繰り返され、そこに凝縮された。私たちの間でその扉が閉まるのを見るのは、墓の中で棺桶の上に土砂が落ちる音を聞くよりずっとつらかった。その扉は、私たちの間を永遠に閉ざしてしまったという真実を、とても恐ろしく象徴していた。私はここにいて、フレデはそこにいて、私たちの間には、開くことのない黒い空白の死の扉 。
私は聖アンナに戻った。フレデリカの遺灰を、ゲディ記念教会の古い区画に埋葬するためパーク・コーナーに送る手配をした。ジョージと彼の息子の横に 13人のテーブルに着いていた3人はいなくなった。この物語は実現したのだろうか?
火曜日、私はしなければならないとわかっていた仕事に直面した。身を縮める思いだった。どうすればいいのかわからなかったが、やらなければならなかった。同行したのはフレデリカの義理の妹、マーガレット・マクファーレンで、日曜の夕方に到着していた。
男子寮のフレデの部屋へ行った。その部屋はかつて私が彼女と一緒にいたころの教員寮にあった、灰色と古薔薇色のかわいらしい部屋とは違っていた。
彼女の結婚の時に一緒にいた教員寮の、グレーとオールドローズのかわいらしい部屋ではなかった。石炭不足のためフレデの部屋は男性用ビルに移さなければならなかった。
その部屋は消毒されていた。部屋は消毒され、空気が入れ替わっただけで、あとはフリーデが残したままだった。
私は苦しさをこらえながら、部屋を見回した。部屋の壁には、私やアニーおばさん、マーガレットおばさんのお気に入りの絵が飾られていた。そして私がプレゼントしたパーク・コーナーの古い家の写真を拡大して額に入れたもの。彼女のペンや本は机の上に、彼女の小さな洗面道具はタンスの上に、何もかもが私を刺すように置いてあった。
一番痛かったのは何だったのだろう。もうひとつばかげたことがある。屏風の向こうのテーブルの上に、かわいそうなフレデが作った夕飯の残りがあった。
空腹と疲労のため、田舎道から遅く帰ってきたとき、つまり、ウォータールーへの致命的な旅から帰ってきたまさに最後の晩のことだろう。彼女はそれを食べなかったが、小皿には哀れなほど小さな、冷たいベーコンの切れ端があった。
冷えたベーコン――そう、それが一番痛かったのだ。フレデと私は(かつて)その頃私は、寝る前の小さなお菓子を何度も食べていたのだ。

フレデの持ち物をどうするかという問題で、私はとても無力感を感じていた。だから彼女の文机の引き出しから、私とお母さん(アニー)とカム(フレデが結婚した相手)に宛てた手紙を見つけたときは、とてもほっとした。
その手紙はインフルエンザがマクドナルド大学に流行した10月に書いたものだった。書き出しは「親愛なるモードか母か夫へ」。カムが海外にいるからということで、もし死んだら私がその手紙を見つけるとわかっていたからか?
そうではないだろう。私の名前は彼女が愛していた母親の名前よりも、本能的に先に出てきたのだ。
その昔、愛したがためにひどい誤解を受けた母親の名前よりも。その昔、軍服の華やかさや制服と海外経験という華やかさで彼女の心をとらえた少年のような夫が、心理的・論理的な孤独の瞬間に彼女の人生に現れたのか。いや私の方が先だった。必要なときにいつも頼っていた旧友が、ある日突然彼女を襲ったのだ。
その手紙は、私たちの片付け仕事を簡単にしてくれた。私たちは一日中彼女の持ち物を調べて、彼女の希望に沿うように仕分けをした。カムの友人からカムの身内への結婚祝い、カムの本、カムの手紙、カムのプレゼント。残りは彼女の身内へ。私は目が見えなくなるほど働き、泣いた。
もらったり、買ってもらったりしたもの、結婚以来、私が彼女に送ってきたカード。私たち二人だけが理解できる、親密な冗談のようなメッセージの詰まったカード。私が彼女に送り、彼女が大切な宝物のように持っていた小さな切り抜き、小さなスナップ。ああフレデ。私があなたの持ち物を調べたときのような苦しみを味わいながら、私の持ち物を調べる人がいるだろうか。(のちに息子がそうした)そうであって欲しくはない---そう信じている――私の後には誰にも残さない。
あなたが私に与えてくれたものと同じものを、私の後に残す人はいないだろう。夫が私より長生きしても男性は女性のようにこれらのことを大事に感じないからだ。
水曜日、私たちは仕事を終え、すべてを箱やトランクに詰め込んだ。そのほとんどは、かわいそうなアニーおばさんのところへ持っていった。フレデは手紙の中で彼女の小さな宝物を私が「最初に選ぶ」ようにと書いていたが、私はほとんど取らなかった。私はフレデのものを使うのは、いつも私の魂を揺さぶるからだ。
フレデが結婚したとき、私は彼女に美しい銀製の紅茶とコーヒーのサービス(食器のセット)を贈った。彼女はそれをとても気に入っていたようで、今思うと嬉しいことだ。いつもアフタヌーンティーで自慢げに使っていた。いつかチェスターが生きていて結婚したときに「フレデ叔母さんのセット」を贈るかもしれない。それが彼女を一番喜ばせることだと思うからだ。
彼女はチェスターを愛していた。彼の赤ん坊の時からの「船長」だ。このセットを手にすることを望む人間は、他にはこの世にいないだろう。
私はまた、彼女の "良い妖精" を連れて帰った。5月の朝、私が先生の家に着いたとき、フレデは私を自分の部屋に連れていき「最初の結婚のプレゼント」である小さなブロンズ像を見せてくれた。
それはスタッフの二人が彼女にくれた「良い妖精」と呼ばれる小さなブロンズ像だった。初めての結婚祝いということで特別な意味があるようだ。彼女はいつもそれを箪笥の上に置いていた。私はそれをよく目にする場所に置きたいと思う。それはそのうちに、苦痛ではなく喜びを与えてくれることだろう。

ペリドットとパールのペンダント、ドロップイヤリングがあった。これは西部の熱烈な恋人、エド・ウィレッツが彼女にくれたものだ。彼女は彼をとても気に入っていて結婚も間近だった。しかし、どういうわけか彼女は結婚できないことがわかり結婚しなかった。私は ペンダントとイヤリングを持ち帰り荷造りした。
私はこれらの物がまだ最終的にどのような処分になるかはまだわらない。いつかパーク・コーナーの少女たちが手にすることになるのだろう。あるいはまだ生まれてもいないスチュアートの花嫁が身につけるかもしれない。彼女は私が見るような2年前のクリスマスディナーで見たフレデの幻影に悩まされることもないだろう。
2年前フレデはフレイザーと笑いあい、冗談を言い合い、頬は紅潮し、目は黒く輝いていた。ペンダントは胸元で輝き、イヤリングは頬を撫でていた。ミス・ヒルとミス・スチュアートは、彼女に小さなアフタヌーン・ティーのセットを贈った。古風なデザインのカップとソーサー(皿)だ。ミス・ヒルは「フレデが喜ぶと思う」と言うので、それも持って行った。残りのプレゼントはパーク・コーナーへ。
水曜日の夜アパートに戻ると私の 殉教は終わっていた。拷問(遺恨)の激しい炎はついに燃え尽き灰色の灰に覆われていた(むなしい疲労)。私は冷静であった。絶望していた。11時20分の列車で出発した。その列車は私を 暗闇の中に連れていった。後ろにはフレデはいなかった――世界のどこにもフレデはいなかった。あるのはほんの一握りの 1の灰だけだった。彼女はどこにいたのだろう? あの機知、あの強さ、あの鮮明で輝かしさのある人格は、灰になるはずもなく、まだどこかにあるはずだ。
しかし、私の手の届くところにはない。手の届くところ、見えるところ、感じられるところに感じることができない。だから私の世界に関する限り、私からは失われているのだ。朝、トロントに着いて、一日中必要な買い物をした。金曜日に帰宅して一週間家にいた。苦い1週間だった。昼間は何もできず、夜には泣きながら眠る。この家はフレデのことでいっぱいで、すべてがフレデに関係している。すべてが私を苦しめる。常に彼女のことを考える。私は今までにないほど、私たちの人生の糸がいかに密接に親密に編み込まれていたかを考える。
スチュアートが何か古風で面白いことを言ったか? フレデが聞いたらどんなに笑うだろう」と思っている自分がいる。彼女がいなくなったという新しい意識がそれを阻む前に。私は読書の中である一節を見つけた。これをFleeに送ろうFleeがどんなに喜ぶか。楽しんでくれるだろう」。私を最も痛めつけるものの中には不条理なものもある。人生には悲劇とグロテスクがつきものだからだ。今日もハムを干していたら泣き出してしまったんです。フレデが食べに来ないからだ。 "モード" はよく言ったものだ "愛してる" とね。

でも、たとえあなたが嫌いでも、あなたのビーフハムを食べるためなら会いに行くよ。今にして思えばフリーデと私は生涯を通じて親密で気の合う友人であったに違いない。私が苦い経験を積んだ28歳のときに出会ったなんて。 しかしそれが事実なのだ。1892年に私がパーク・コーナーで過ごした冬の日記にはFleedeの名前は出てこない。これはおそらく不思議なことではない。
当時私は17歳だった。――事実上若い女性で、恋人やパーティー、新進気鋭の美女たちの娯楽を楽しむことで頭がいっぱいだった。フレデは8歳の子供だった。当然ながら私たちの間に共通点はほとんどないはずだ。不思議なことに、私はその冬にフレデのことをほとんど覚えていないことだ。なぜかというと彼女はいつも彼女のあの生き生きとした魅力的な性格は、幼い頃から印象に残るほど現れていたはずなのに。子供のときからその鮮烈で魅力的な個性は、私の記憶に十分残っているはずなのに。と思うかもしれない。
しかしそうではなかった。フリーデのことはほとんど覚えていない。でもメル・ドナルドという、フレデが嫌っていた同い年のそばかすだらけの小さなウニ(友達のこと)をからかって彼女をひどく怒らせたことは覚えている。私がメル・ドナルドのことをからかうと、彼女はいつも赤ん坊のような顔をしていたのだが、私は意地悪なのでそれを喜んでやっていた。よくやっていた。彼女は私を嫌っていたに違いないと思う。実際彼女はそうだったと思う。でも私のことを認めてくれていた "憎んでいたのに... と笑って言ったことがある。
その冬、私が外出や接待のために着替えをしているときに、私の寝室に入るのが彼女のささやかな楽しみのひとつだったと笑いながら話してくれた。私が外出や接待のために着替えをしているときに寝室に入り、私が櫛でとかしたり、髪を巻いたり、フリルをつけたりしている間、ベッドの上に丸くなって座っている私を見るのが、あの冬の小さな存在(フレデ)の最大の楽しみだったと。
私はそのことは全く記憶はない。私は若さゆえのエゴイズムで頭がいっぱいで、彼女のことを考える余裕はなかった。この小さな、黒髪のサバサバした小人が、将来私にとってどんな意味を持つのか予見することはできなかった。 この「メル」ドナルド(そばかす一杯のガキ)は、私たちの二番目のいとこである。このメル・ドナルドは、その後頭脳明晰な好青年に成長しフレデの素晴らしい友人となった。二人はとても親密で和気あいあいとしていた。しかし二人の間に「恋人関係」が生まれることはなかった。フレデはメルに対しても私に対してもメルと私への憎しみを克服したのだ。
年月は流れた。フレデは成長し私は年をとって悲しくなり、そして願わくば少し少し賢くなった。もちろん、パーク・コーナーにいるときはいつでもフレデに会っていたにちがいない。私の日記に初めて彼女が登場するのは、1893年の冬のことである。 ある日アニーおばさんのところへ行く途中、彼女がパーク・コーナーの学校から飛び出してきて、私を迎えてくれたという話だ。
次に日記で言及するのは1898年12月になってからである。パーク・コーナーに行ったとき、変わっているのを発見したと話している。"ケイドとフレデはいない。ステラだけだ" これには私がフレデを逃したかのような記述がある。フレデともっと仲良くなったという意味だったのだろうが、もしそうなら私にはその記憶がない。この頃FleedはP.W.C.(プリンス・オブ・ウェールズカレッジ、赤毛のアンで言えばクイーン学園)にいた。
1899年、私は夏にPark Cornerを訪れた時のことを書いている。夏にパーク・コーナーを訪れ、「フレデとステラが二人とも家にいたので」楽しい時間を過ごしたと書いている。しかし1902年8月になってから、フレデと私はお互いを「発見」したのだ。1902年8月になってから私たちの友情は、一晩で満開になったようだ。(興味が似てることを発見した)それ以前は私たちは単なる知り合いに過ぎなかった。

私たちは、17年以上もの間、美しく、傷つくことなく、友情を育んできたのだ。理解し合うことになるのである。その夜のことを私ははっきりと覚えている。暑い夜だった。なぜか忘れてしまったが、私たちは3人でステラの部屋を占領した。ステラ自身は床で寝た。フリーデと私はベッドで寝ていた。私たちは内緒話を始めた。打ち明けることができた。ステラは、私たちのおしゃべりのせいで眠れないと怒った。私たちは毛布の下に頭を埋めて悩みを打ち明けあった。私は28歳の女、フリーデは19歳の少女。私たちの魂は同い年だったのだ。
彼女は自分の恋の悩みを打ち明け、私は私の悩みを打ち明けた。その頃、恋の悩みというのは私たちにとって悩むに値する唯一のことのように思えた。私たちは二人とも苦い心を痛めるような経験をしてきた。私たちは夜明けまで語り合った。それまで何度も後悔した。しかし私たちはその夜、互いに明らかにしたことを後悔したことはない。この時ほど一言も言い残すまいと思ったことはない。
あの夜から私たちは――ハワードが彼女の死を 聞かされて言ったように 「お互いの一部」ああ、フレデ、フレデ! フレデはいろいろな学校で教えていたが(田舎の小さな学校)、1905年にスタンレーにやってきた。彼女は当時、そのころは比較的私の近くにいたのでよく会った。それは私にとってあの辛く孤独な時代には何物にも代えがたい恩恵だった。フレデの同情と励ましがなかったら、私は耐えられなかっただろう。私が『グリーン・ゲイブルズ』をヒットさせ少しばかりのお金ができたとき、私の最初の決意はフレデを助けることだった。
彼女は疲れて落胆していた。 目の前にあるのはわずかなお金で田舎の学校を教える、終わりのない単調な年月だけ。疲れ果てて落胆していた。私は彼女がマクドナルド大学かマギル大学に行くべきだと主張し、彼女の学費を払うから、「彼女の小さな船が来るのを助けたい」と言った。彼女はマクドナルド大学と家政学を選んだ。彼女はそこで忙しく幸せな2年間を過ごし、卒業時にはクラスをリードした。
彼女はアルバータ州のレッド・ディア・カレッジで1年過ごした後、再びマクドナルドに戻り、ホームメーカーのデモンストレーター(家具の宣伝役)となった。ケベック州のホーム・メイカーズ・クラブのデモンストレーターとして、マクドナルドに戻った。彼女はそこで素晴らしい仕事をし カナダで最も賢い女性の一人であることが認められた。彼女はこのような仕事に特別に適していただけでなく、農場での実践的な教育を受けていたため、このような仕事には特に適していた。 都会育ちの女性には理解できない、農場生活のあらゆる問題を完全に理解することができたのだ。
彼女には温かい友人がたくさんいた。ある種の人々は彼女の真実と誠実さを嫌っていた。彼女の真実と誠意、そして偽善と偽善を見抜く明晰な目と妥協のなさがある種の人々に嫌われた。フリーデは私と同じように、どこか孤独で誤解された子供時代を送った。彼女は他の家族とは「違う」のだと。彼女はこう表現していた。"一人歩きする猫" だったのだ。姉たちは彼女よりずっと年上でジョージは仲間にはならない。彼女はよく私に、「お母さんは自分を愛してくれなかった」と言った。 アニー叔母さんがフレデに頼らなかったのは、年長の娘たちが家を出るまでで、それからフレデに頼らざるを得なくなった。フレデは母親ではなかったのでこの点については誤解していた。アニーおばさんは彼女を愛していたが、それは母性本能の愛にすぎなかったのだ。おばさんが彼女を理解していなかったのは確かだ。フレデは変わり者だった。

(左)ジェーン・フレッシャーと(右)フレデリカ・キャンベル
マクドナルド大学の温室にて

孤独で家庭的な小さな者、家庭的? ええ、特に子供の頃はフリーデは三人の娘の中で一番地味だった。敵は彼女を醜いと言ったが、彼女は決してそうではなかった。彼女の顔にはいつも、それにしてはあまりに多くの精神と個性があったのだ。彼女は美しい艶のある太い黒髪で、緑がかった灰色の目をしていて、私の目と同じように、瞳孔の拡張により夜間は黒く見えるというモンゴメリーのトリックを持っていた。(眼が黒く見えると意思が強く見えるということもある)
しかし彼女の顔立ちは不規則で、コンプレックスは浅黒く、そばかすだらけであることであった。しかし私はフレデが正真正銘のハンサムに見えるのを見たことがある。私の場合と同じように、彼女の外見は髪の整え方で大きく変わる。イブニングドレスを着て、頬を紅潮させあざやかな目をしているフレデは、ある種の美貌の持ち主で魅力的だった。私はこの写真に写っているような顔を見たことがある。 この写真は結婚のときに撮ったものだ。しかし通常下の写真はマクドナルドの温室で友人と撮った写真だ。
この写真が最も真実味のある写真だと思う(いかついと言えるような顔をしている)。地味な性格にもかかわらずフレデはどこに行っても称賛の的となり恋人となった。彼女の機知、快活さ、そして魅力的な性格がそうさせたのである。フレデは幼い頃から頭がよかった。わずか14歳でプリンス・オブ・ウェールズカレッジの一級ライセンスに合格した。もしそこで、あるいはその後すぐにマギルかダルハウジーに進学していれば大学で輝かしいキャリアを積んだことだろう。そうすべきだったはずだ。しかしすぐに使えるお金はなかった。ジョン・キャンベル叔父さんもアニー叔母さんも家族のためにお金を出すこと以上に自分たちで生活していけるだけの教育を与えることくらいしか考えていなかったようだ。
ジョージ(キャンベル家の1人息子)は、毎年馬や新しいバギーや馬車に浪費していたのに、フレデには師範学校課程を卒業させた。これはキャンベル家が比較的裕福な家庭だったのに娘にチャンスがなかったと考えると狂気を感じる。お金を貯めることができなかったのだ。当時の教師の惨めな給料(年俸180ドルか230ドル)(200万円くらいであろう)の中からでは大学へ行くのに十分な蓄えもできず、彼女は最初家の近くのシービューとアイリッシュタウンで教えていた。彼女はいつも教師として大成功を収めていた。のちにアンダーソン博士は、彼女がPE島で一番の教師だと言っている。彼女は驚くべきことに、生徒を引きつけ奮い立たせる力を持っていた。彼らは常に彼女を崇拝していた。

19歳のとき彼女は不幸な恋愛をした。彼女の人生の悲劇である。彼女は私のいとこ、ウィル・サザーランドに出会い熱烈に愛した。開業1年目の若い医者だった。理想的な結婚になったろう。二人は完璧にお似合いだった。成功者の妻としてウィルの妻として、フレデは本領を発揮したことだろう。彼女はウィルを理想的な 理想的な妻になっただろう。
しかしそれは全て無に帰した。ウィルがフリーデのことを気にかけていたとは思えない。フリーデのことを。時にはそう思っていたかもしれない! でも彼は医学生時代に出会った女性とすでに婚約していたのだ。彼女はカトリック教徒で看護婦の訓練を受けていた。彼は 1年か2年後に結婚したが母親は悲しんでいた。私は彼女に会ったことがある。彼女はどちらかというと好感のもてる普通の女の子に見えた。フレデと同列に語られるようなものではありません。しかしおそらくウィルは本当に彼女を愛し、彼女と幸せになっているのだろう。フレデと私にはわからなかったし、これからもわからないだろう。
フレデはやがてウィルへの不幸な愛を卒業した。しかしそのことが彼女に一生を刻むことになった。彼女はまったく同じにはなれなかった。再び いとこのジム・キャンベルは、数年間彼女と行動を共にした。フレデは ジムが好きだった。決して愛していたわけでないが、もし彼がいとこで無学でなければ結婚していたかもしれない。彼女(
フレデが西部にいた頃、エド・ウィレットは彼女に夢中で、結婚するまで彼女を手に入れる望みを捨てなかった。マクドナルド大学に戻った彼女は、またしてもウォーカー博士と深刻な関係になった。彼は賢い男だっが私の知る限りでは非常に信頼できない人物であった。彼もまた別の女性と婚約していたのだが、その女性には飽き飽きしていたフレデはもう彼女が結婚していたと考えていたようだ。しかしそれはどうだろう。二人はやがて喧嘩をした。その後彼(ウォーカー)は婚約を破棄し3人目の女性と結婚した。その時フリーデは大きな衝撃を受けたが、しかし後になって彼女は、自分は幸運にも逃げおおせたのだと気づいた。
ウィルの場合ほどには深く考えなかった。彼女はウォーカーへの恋心が不健全なものであり、決して幸福にはなり得なかったことを悟った。彼女はいつも彼がどのような人間であるかは、彼が一時的に彼女を魅了していたにもかかわらず、彼女の頭脳はいつもはっきりと見抜いていた。
さてこれですべてが終わった。17年間、稀に見る完璧な友情に包まれたことは、私の特権だった。 この世界では稀な、特に女性同士の完璧な友情に恵まれた。いつかそれを失ったとしても、持っていたことに感謝する日が来るかもしれない。ただ今はその苦しみがあまりにも大きな代償に思えるのだ。
フレデの物を整理していたら、彼女の机の中にペンとインクで描いた小さなスケッチがあった。それは私以外には何の価値もないものだった。 家に持って帰ってきた。私はそれら(のスケッチ)を私の日記に載せて安全に保管しようと思っている。 私にとってはそれらはフレデに満ちている。
これらのことをすべて書き出すのは恐ろしかった。すべてのページで、私は立ち止まらなければならなかった。心の底から泣いた。でも不思議と悲しい慰めがあった。フリーデのことをこうして書いているとフリーデに近づいていくような、死と墓が少しの間ごまかされるような、そんな奇妙で悲しい慰めがあった。 しばらくの間だまされたような気がするのだ。オー St. ポール、あなたは大切な人を失ったことはないでしょう。そうでなければ、「ああ、死よ、どこに汝の刺があるのか」と、あんなに堂々と叫ぶことはなかっただろう。ああ、墓よ、汝の勝利はどこにある?" 刺すのは仲間を失うことだ。死の勝利は墓の向こう側の彼らに二度と会えないということだ。
まあね、私は今終止符を打ち、彼女のいない人生に立ち向かわなければなりません。私は四十四歳だ。私は新しい友人を作ることはできない。たとえフレデがこの世にいたとしてもね 戦争前の遠いような年月の中で、私は一つの人生を生きてきたのだ。今、全く新しい世界で、決してくつろぐことのできない別の人生が待っているのだ。
私はいつも「あそこ」(過去の世界)に属しているような気がしている。フレデと笑いと平和な年月と一緒にね。

1919年2月9日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
昨晩フレデの恐ろしい夢を見た。彼女が死んでから初めてだ。私はマクドナルド・カレッジの大きな上の部屋にいた。そこに何人かの人がいた。フィルプ嬢、ゾルマン嬢、ヒル嬢、それに見知らぬ人たちがいた。フレデは長椅子に横たわり、生きてはいたが重病のようだった。私は遠い隅にいるフィルプ嬢のところへ行って、これはどういうことだ? フレデは死んだのではないのか? と聞いた。ミス・フィルプは恐ろしげな顔をしてフリードを指さした。
"あれは" あなたがいなくなってからずっとここにいたのよ。今あなたは私と同じくらい知っているはずです" 私はフリーデのところへ戻った。他の人が感じるような恐怖を私は感じなかった。何かひどい間違いがあったのだ。フレデはまだ生きていて世話をしなければならないのだ。
ミルクを飲ませ布団で暖めようとした。寝具で暖かく包んであげた。ふと気がつくと私が持っているのは掛け布団ではなく棺桶の蓋でそれを押し付けていることに気づいた。フレデはその下で弱々しくもがいている。私は恐怖で目が覚め、一日中そのことが頭から離れなかった。 (フレデは約束通り夢で現れてくれたじゃないかと、モードが色々書き連ねて私のことに決着を付けようとするので苦しいと)

1919年2月14日(金曜日)
この一週間はとても寂しく、心が痛んだ。たくさんの手紙が来て私の魂を締め付ける。そのうちのいくつかは私の友人からの同情で、ほとんどは昔ながらの決まり文句で。大西洋から太平洋にまたがるフレデの友人たちからのものもある。
彼女の死について手紙で伝えてほしいと懇願してくる。それぞれの人が彼女のような友人を知らなかったし、これからも知ることはないだろうということだ。
私は彼らに手紙を書かなければならないのだが、ああ、それは難しいことだ。

1919年2月15日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
フレデのことを誰も聞いたことがないようなところに住んでいたら、もっと楽なんだけどね。彼女はここではとても有名で、どこに行っても彼女の死について聞かれる。
ある者はその詳細に対する無情な好奇心を裏切り無粋な質問をしてくる人もいて、それはまるで私を刺すようなものだ。今日私はオクストビー家の老女と話し、リジーはフレデが火葬されたことを絶賛した(皮肉の一部)。「野蛮だわ」
私は素っ気なく、あれはフレデの希望で死ぬ間際に頼まれたことだと言った。無知で狭量な老女の厳しい意見に流されるのは愚かなことだと思った。でも、今となってはすべてが私を苦しめている。

1919年2月24日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール、マンズ
今夜は近所の家でお茶を飲むことになったので子供たちを連れて出かけた。私たちが外に出るとスチュアートが満天の星空を見上げて、「ああ、きれいな星が見える!」と叫んだ。
スチュアートは私の自然美への愛情を受け継いでいるのだと思う。チェスターはどうだろう? 少なくとも今のところその兆候はほとんどない。この点では彼は父親似だと思う。自然界の美しさはユアンには何の意味もない。ユアンは盲人と同じように、まったく意識していないようだ。
そういえばチェスターが4歳くらいのとき、車できれいな森の道を走っていると、こう言ったことがある。
"小さな小さな道を見て" と言ったことがある。でもそれ以来自然の風景を楽しむという言葉を聞いたことがない。私はそうであってほしいものです。それがない人は人生から多くを失う。私は二人がそれを持つことを切望している。幸せな贈り物だと思うからだ。
二人の少年は驚くほど似ている。チェスターはとても控えめな性格で、率直でオープンなスチュアートと比べると理解するのがずっと難しい。チェスターは頑固な印象を与えるが、それは常に変わらない。
スチュアートは美しくて魅力的な印象を与える。身体的にはとても愛らしい子だ。肌は透明でバラ色、大きな青い瞳は輝いている。彼は私を不思議な強さで崇拝している。これは虚栄心でも母性愛でも何でもなく、単純な事実を述べたに過ぎない。
チェスターは私をとても気に入っている。母親を愛している。しかし彼は父親にも同じように好意を抱いている。一方、スチュアートは私以外には興味がないようだ "私の愛するお母さん" と
"僕のことが好きかい?" と私に言い寄るのだ。彼は私たちの間に一瞬でも暗雲が立ち込めるのが耐えられないのだ。嫉妬深く、私がチェスターにキスされたり抱きしめられたりするのも嫌がる。
父親がいるじゃないか。この子は私の母よ" と。なぜ自分にも父親がいると感じないのか理解できない
ユアンはチェスターと同じくらいスチュアートを大切にしてきたのに。でも、スチュアートにとって「母さん」はこの世で ただ一人の(大切な)人間のようだ。彼は私にしか愛情を注いでいないが、美への愛だけでなく情熱的な激情も受け継いだ。情熱的な感情の強さとそれを少数の人に集中させる傾向がある。私にとって言いようのないほど大切ないくつかの物や人にすべてを集中させる傾向。

1919年2月28日(金曜日)
オンタリオ州リースクデールの牧師館
今日エラ(キャンベル家の嫁)から乱暴で気が散って支離滅裂な手紙が来た。私は本当に涙が出る。気が狂いそうだ。彼女はいつも自分の悩みを手紙に託して、私はいつも彼女に同情しできるだけ良識のある言葉で伝えようとしてきた。
というのも、私は彼女の苦悩と性格の弱さを痛切に感じていたからである。というか精神的な弱さによって、それに対処することができないのだ。
しかし彼女は本当に行き過ぎている。本当に困っているときは助けてあげたい。しかしこのように純粋に想像上の悩みを私にぶつけてくるのはいただけない。
私はかなり鋭い答えを書いたが、それは単に彼女には少し強壮剤が必要で、自力で立ち直ると思うからだ。
しかし、私は彼女にいくつかの明白な真実を伝えた。フレデと私は「エラの問題」を「ステラの問題」と同じように共有することができたが、今はそのような援助はない(相談できる相手が死んだということ)。
エラは私に手紙を「燃やす」よう懇願した。私は燃やさなかったし、これからも燃やさない。私は
万が一、その必要が生じたときに自分の正当性を証明するために保管しておく。過去の苦い経験から、この知恵を学んだ。

1919年3月1日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日は風雨が強く、ライオンのような生憎の天気だった。しかし我々は私たちは素晴らしい冬を過ごした。むしろ長い春のようなものだ。雪も降らず寒さもほとんどない。車もバギーも、この冬はずっと走っていた。
石炭が全く手に入らず、薪をくべなければならなかったので温暖でよかったと思う。薪を燃やすしかなかった。石炭炉には不向きでほとんど煙に巻かれている。燻製にされそうになったこともある。それでも燃料があるのはありがたいことだ。
今夜は今年の会計を整理していた。その結果、私は1896年の最初の素晴らしい3ドル以来、私のペンで約7万5千ドル(7億円くらい)を稼いだことになる。なんとこのような金額を所有することを考えると、24年前には私の目がチカチカしていたことだろう。
――このような大金を持っていると思うと、目も当てられなかった24年前に芸術課程に入りたいと強く願っていた私に、この2、3千ドルがあれば......。と思っていた。
しかし今となっては、そんなことはどうでもよいことだ。もし念願の学士号を取得できていたとしても、それ以上のことはできなかったと思う。
「私たちの目的を形作る神性がある」――そう、その通りだ。私たちは不思議な陶芸家(創造主)の手にかかる粘土にすぎず、その陶芸家は、私たちがなぜそうなったのか、苦悩の理由をその時に知るという残念な慰めさえ与えてはくれない。

1919年3月3日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
午前中に原稿を書き、それから非常な悪路をアクスブリッジまで運転した。ヒパティア・クラブで天文に関する論文を読んだ。Sharpe夫人とお茶を飲み、夕方には帰宅。9時過ぎから寝るまで読書。読書のための唯一の時間だ。私が読んだのは「ブルー・ジャーム」という小説で、結末は弱かったが、とても魅力的な物語だった。私は突然人間を不老不死にするような男は、むしろ物事を混乱させるだろうと思う。
特に、あらゆる習慣や法律が、死すべき運命という事実に基づいて作られている世界では。結局不老不死というのは、長い目で見ればむしろ退屈なことではないだろうか。
数百万年という長い年月の中で。魂といえども、「生きるという熱病」から解放され、疲弊し、休息しなければならないと思う。

1919年3月7日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール
一日中、フリードのことが頭から離れない。ある日はもっとこうだ。ある日突然にこの家は彼女のことでいっぱいだ。ケーキを作るのも一苦労だ。
私のレシピ本は、彼女がくれたマクドナルド・カレッジのレシピでいっぱいだからである。どの部屋でも彼女が好きな姿勢をしているのを見かける。鏡の向かいに座って、鏡の中を覗き込んでいる。
ユアンによくからかわれた習慣でフレデは鏡を覗き込んでいた。彼女はその習慣があった。虚栄心によるものではなかった。

1919年3月11日(火曜日)
今日もまた、フリーデにとって辛い孤独の一日だった。ああ、自分が世界のどこにもいないと思うととても耐えられない。スプリングブルックにある古いゲディ記念墓地でさえも。そこには一握りの灰色の灰があるだけだ。
それでも私は寂しくはない。今夜チェスターの服を脱がせたとき、突然 私の顔をのぞき込んで言ったのだ。"母さんなしでは いられない" と。こんな愛情表現は めったにないことだ。私はそれはそれは慰められた。誰かの幸せのために必要なものであれば生きられないことはない。
今日から10作目の小説に取り掛かった。それはまた別の「アン」の物語になる予定だ。戦争中の彼女の息子や娘たちを扱ったものである(リラオブイングルサイドであろう)。それでアンをきちんと終わらせるつもりです。彼女は戦前の緑豊かな牧草地や静かな水のある世界に属しているのだから(戦後の世界に似合う子ではないと)。

1919年3月12日(水曜日)
リースクデールの牧師館
今夜私たちはお茶をしに出かけた(各家庭回りも牧師の務め)。私は、「世間話」を続けながらも、明るく元気な姿を見せるのが、とても難しいことに気がついた。私は退屈で、憂鬱で、生気がなかった。
まるで「魂の若さ」と「肉体の若さ」を失ったかのようだった。このような牧歌的な訪問は、今の私にはむしろ恐ろしいことだ。
今日、ミス・フィルプからフリーデのスケッチが書かれた紙を受け取った。私がフレデの「死亡記事」を読むなんて想像できただろうか? 彼女はその言葉が嫌いだった。あの太くて不愉快な言葉だ 私は何年も前に一度だけ、自分が老いるまで生きられるとは思えない、とフレデに言ったのを覚えている。「中年になってからが本番のような気がする」、と言った。自分が年をとるのを見るのは無理だ」と言った。
「そうですね」とフレデは震えながら言った。「しわくちゃの老女になるのは目に見えている。老婆になっている自分が見える」。しかし彼女が見た年取ってからの自分の姿は、決して実現することはなかった。彼女は女盛りのうちに旅立った。しかし彼女は35年間で、普通の女性が90年間生きるよりも多くのことを生きてきたのだ。
私は老いるまで生きなければならないのだろうか。私は前述したように、そう思うことはない。しかしフレデはその「感じ方」が間違っていたのであって、私の「感じ方」も間違っているかもしれない。そんなことはどうでもよくて、もし私が息子たちが教育を受け、立派に人生を歩み始め、そして運命が優しいものであれば、自分の家庭(子どもたちの家庭)で幸せになるのを見るために、私は十分長く生きることができればいいのです。

1919年3月15日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日、エラから手紙が届いた。数週間前の乱暴な手紙を謝り、そのせいで「私の友情を失った」と怯えているようだ。その点については彼女を安心させるつもりだ。
しかし私はこの小さな警告が有益であることを証明したと思う。私の率直な発言は、少なくとも一時的には彼女を勇気づけたが、一時的なものに過ぎないのではと思う......。

1919年3月22日(土曜日)
リースクデール、牧師館
私は絶えず冴えず神経質になっている。昨日の出来事も私を助けてはくれない。私たちの小さな黒い雌馬「クイーン」が昨夜蹴られて、脚を骨折し、銃で撃たれなければならなかった。
ここに来てからずっと飼っている馬で、家族の一員のような存在だった。彼女はとても愛すべき小さな存在で、あらゆる面で優れていた。聡明で優しく信頼できる子でした。昨夕は胸が張り裂けそうだった。
私は農家で育ったけれど、馬とはあまり縁がなかったのだ。祖父は誰にも馬を持たせない人だった。祖父の死後、ジョン叔父さんは冷静に、馬を飼うことをやめた。
祖父の死後、ジョン叔父さんは冷静に祖母の2頭の馬を譲り受け、働きながら使っていた。しかし私に馬を運転させることは、とても嫌がったので2度ほど馬を持たせてもらった後は、もう2度と馬を欲しいと言ったことはない。歩いたり家にいたりしていた。「博士、アレック
と、ルー・ディスタントの可愛い雌馬「ミス・フロー」の2頭が、私のお気に入りだった。クイーンを飼うまで他の馬には興味がなかった。彼女のこの残酷な結末は私をひどく苦しめた。何を愛すべきものなのか? 苦しみが増えるだけだ。

1919年3月23日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日の午後、一人で私はフリードの古い手紙を全部読んだ。そうせざるを得ないと思ったからだ。最近私は、もう二度とフリーデから手紙を受け取ることができないと思い悩んでいる。
もうフレデから手紙をもらうのを楽しみにすることはできない。だから彼女の古い手紙を全部出してみた。それを読むのは苦痛ではなかった。それどころか、心地よく、奇妙で苦い喜びだった。
私が読んでいる間はフリーデは生きていて、存在していたのだ。世界のどこかにいたのだ。その手紙の奥にある鮮烈な個性を消し去ることはできなかった......。
もちろん、手紙の中には私を傷つけるものがたくさんあった。特に手紙の中に散りばめられている、彼女の私への思いやりが。
スチュアートが生まれる前の手紙で、彼女は私に、もっと気楽に、少しは自分に余裕を持つようにと、こう言った。あなたほど一生懸命働いて、休養をとらない女性はいないわ。宣教師の会合やギルド、ゼファーへの訪問はレクリエーションじゃない!」と。
また同じ調子で、「モード、あなたはユアンの妻であることを忘れないでほしい。あなたはユアンの妻であり、チェスターの母であり、私の親愛なる友人であることを忘れないでください(家のことにも気を配れをいうことか)。
「私たちは、あなたなしでは生きていけないの。私は多くの家に住んだことがありますが、夫を大切にする女性を見たことがありません」。「あなたほど夫の仕事を尊重する女性はいないわ」。
この中で私が痛切に感じたのは、このようなことを理解したり、注意したりする人がこの世に残っていないことだと思う。
ある冬、私が体調を崩しているときに書かれたスタージョン(地名か)からの手紙の中で、彼女はこう言っています。「あなたがいなかったら、私はどうなっていたか、考えるのも恐ろしいです」と書いてあった。
ああ、フリード、あなたはそれを学ぶ必要はなかった。それを見つけなければならないのは、私なのです。
エラは赤ん坊を「フレデリカ・マクファーレン」と名付けたと書いてきた。嬉しいわ。エラにはいろいろなことを教えてあげたい。私はそう思いたいのです
フレッド・キャンベルがもう一人、パーク・コーナーにいると思いたい。リトルモード(これもモードの名前を取って付けたエラの子)はまだそれほど年上ではないし、二人はフレッドのようにお互いの伴侶となることだろうと、私は以前からそうであったと思います。
フレッドには他に名前がない。彼女は自分の名前を嫌っていた...
"フレデリカ・エルマンスティン" 叔父のドイツ人妻(ジョン・キャンベルの兄弟の妻)にちなんで名付けられた。しかしどういうわけかその奇妙な名前は彼女の奇妙で印象的な性格に合っていた。フレデはリリアンやジェニーやメアリーにはなり得なかった。(理屈派で堅ぐるしい印象だった)(リリアンやジェニーやメアリーという名前には甘ったれた印象がある)
名前の由来といえば、私には6人いる。クリスティン・モード・アグニュー、アニタ・モード・ウェッブ、モード・ディングウェル、モードビートン......。モード・キャンベル、そして小さなMaud Quigley(クイグレイか)です。そしてこのリースクデールにいる小さなMaudです。フランス人の小さな名前もあった。
ドイロンというフランス人がいて、その子孫の一人を私にちなんで名づけた。しかしかわいそうに、この子は去年の冬に双球性咽頭炎の流行で死んでしまった。私はフレデが子供を残していたならば、彼女の人生が何かで続いているのだと思う。もしかしたらカム(フレデリカの夫)なら私に持たせてくれたかもしれない(私にフレデの子供の面倒をみさせてくれたかもしれない)。
二階には可愛い赤ちゃんの服がたくさんある。去年の春にそれらを見返したとき、「いつかフレデが子供を産むかもしれない。"これを送ろう " と思った。でもそれはフレデの子供が着ることはなかった
結婚後、マクドナルド大学で一緒になったとき、彼女はこう言った。"私もあなたみたいに幸運になりたいわ" とね。でも去年の秋にジャーク・コーナーで彼女は違った調子で話した。カムのためでなかったら子供ができなくてもかまわない、と。「リスクが大きすぎる」。"ジョージ"(キャンベル家の放蕩息子)みたいに変種が生まれるかもしれない"って。彼女は母になるには体力も気力もないと思っていたのだろう。彼女の激しい学究生活で、その両方を使い果たしてしまったのだ。

1919年3月27日(木曜日)
昨日、私はリンゼイで「長老派」の会合に行かなければならなかった。さらに悪いことに私は教区の太った馬鹿な老婦人を連れて行かなければならなかった。夜遅くにアクスブリッジに戻り、真っ暗な夜の中、この地方では数年来知られている最悪の道路を、真っ暗な夜道を運転して帰った。もしユアンの懐中電灯がなかったら家にたどり着けなかったと思う。ここに着いたのは9時半だった。それから私は寝ていられたと思う? いいえ、ドレスアップして結婚披露宴に行かなければならなかった。
披露宴に行くのだ。ユアンは疲れていて行けないと言ったし、私たちのどちらかが行かなかったらしょうがない。私は被害者よ。
クックと一緒に行ったが、夜中の3時までそこに座っていなければならなかった。70歳のJ.C.は、お祭り騒ぎの現場から自分を引き離すことができなかった(披露宴の場にいたがった)。
私は、部屋の周りに列をなして座っている何人もの女性たちと話をした。私は何の意志もなくただ話し続ける機械のような気がした。頭が痛くなった。
頭も痛い、背中も痛い、心も魂も痛い。鶏の話、卵の話、市場の話、物価の話、道路の話、その他、この辺りで流行っている「会話」のための魅惑的な話題をすべて話した。少なくとも「牧師夫人」がいるときは、このあたりでよくある「会話」のテーマだ。
そうでないときは、キザで悪意のある面白いゴシップを話してもっと楽しんでいるのではという気がする。噂話に花を咲かせているのではないだろうか。しかし残念なことに、牧師の妻はゴシップに口出しする勇気がない。困ったものだ。

1919年3月29日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
今夜、私は「良い読み物」という楽しみを味わった。私は「20番目の飛行機」を読んだ。トロントでセンセーションを巻き起こした本だ。私は大いに失望した。
まったくポッと出の本でまったく説得力がない。そして私は納得する準備ができていた。フレデが死んでからというもの、彼女がまだ存在しその存在を確信できるのであれば、私は何でもするつもりだった。占星術の板を使ってもいいのだ。しかし私の知性は、いわゆる "The Twentieth Plane" の "啓示" を全く信用しなかった。
主観的な心」の演出として、あるいは奇妙なオカルトパワーが原因であるとして、それはむしろ注目に値する。とはいえ死者の霊との交信が可能であることを証明するものでは全くない。しかしこの本には、ある種の楽しみがあった。というのもこの本が実に絶妙に面白いからである。
二十面相の「ピンクの黄昏」と「オレンジの太陽」には魅力を感じないし、亡者が食べる「お品書き」は茶番だ。合成牛肉茶」「米のとぎ汁」!!!。
神々よ、もし霊界で食事をするのなら、もっとおいしいものを食べたいものだ。食欲をそそるものがいい。フレデはさぞかし喜んだことだろう。この本を読んでいたらどんなに楽しかったことだろう。
この本全体の中で、ただひとつだけ、別の世界からの通信という仮説以外には、説明のつかないことがあった。この本を一緒に読んだら、どんなに楽しいだろう。でも、死者の霊がメッセージを書いてくれるなんて、信じられるようになるには、まだまだ長い道のりがありそうだ。
死者の霊が占い盤にメッセージを書き込んだり、合成樹脂で作られたと信じるには、まだまだ時間がかかる。しかし、ワトスン博士が幽霊の仲間を選んでいることは確かだ。彼の電話帳には、母親を除いて有名でない霊は一人もいないのだ。シェークスピア、プラトン、ワーズワース、リンカーンなどなど......。
占い盤で解説するチャンスを狙っている。そしてみんな同じ文体で、しかもとてもひどい文体で。ほんとには見えない。20番目の飛行機には、八百屋も肉屋も大工もないようだ。
しかし、人造牛を人造牛肉に変えて、人造牛肉茶を作るために、少なくとも数人の肉屋が必要だと思うのだが。
20番目の飛行機の住人はして "寝る" ことはない。必ず必ず "絹の寝台で休む" のです。私も寝ることにしよう

1919年4月1日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
昨日今日と厳しい寒さで、激しい強風が吹いている。
昨夜はユアンが留守だったので、二人の子供をベッドに連れて行った。自分のベッドでは寒いだろうと二人を私のベッドに連れて行った。私たちは心地よく寄り添った。真ん中が私、右がチェスター、左がスチュアートで、外の風の音を聞きながら。この子たちを一緒に寝かせるのが好きなのだ。
この子たちが大きくなりすぎる日が来るなんて考えたくもない。ふっくらと暖かく柔らかなベッドで、ささやくような会話と眠っているようなキスをしていた。

1919年4月13日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
先週の月曜日、私はトロントに行き1週間滞在した。私は買い物や仕事がたくさんあったし、強壮剤のようなものも欲しかった。前の週はずっと "たるみ" があって落ち込んでいたし、神経質になっていた。
ナーバスで、いつもフリーデのことを考え、1人でいるときはいつも彼女のことで泣いていた。このような状態が続くと、私の仕事や義務のための強さとエネルギーが失われる。
仕事と義務のための力とエネルギーを得るためにはこのままではいけない。だから私は街に出て、ずっと気分が良くなった。
ローラの家に泊まり、楽しい夜を過ごした。自分の家のような人はいない。私は滞在中に良いヴィクトローラに投資した。結婚して以来私の家には楽器がない。キャベンディッシュを去るとき、私は古いオルガンをそこの日曜学校に寄付した。
ピアノを買おうと思っていたのだが、結婚して最初の数年間は他に手に入れるものがたくさんあったため、ピアノを手に入れることはなかった。それから戦争が始まり、戦争が続いている間は不必要なものにお金を使うべきでないと思った。戦争が終わった今、私は何かを持たなければならないと思っていた。
しかし、しばらく前からピアノを弾く気になれなくなった。私には娘もいないし、音楽の才能がある者もいない。ピアノを弾ける人はめったにいない。
一方、ヴィクトローラのレコードは、世界中の最高の音楽を家に運んできてくれる。
子供たちにも喜ばれると思うし、来客をもてなす手段としても、誰も弾けないピアノよりずっと優れている。それでビクトローラを買った。その代理店は、いつものように宣伝が巧妙なタイプで、私にこの機械のいいところを全部知ってほしいと、とても心配していた。
横にある小さな仕掛けを取り出すと、彼は自信たっぷりにこう言った。ほら、日曜の晩にちょっとダンスミュージックを聴きたいとき、町中で聴かれたくないなら、これを引っ張り出せばいいんだよ"。
私は、ユアンがゼファーで会衆に説教をしている日曜日の夕方、リースクデール邸の応接間に座って、ソフトペダルを踏んで「ダンス・ミュージック」を聴いている自分がいた。エージェントを萎縮させることが可能かどうか確認するために、私は微笑みながら言った。
「私は牧師の妻ですから、日曜の夕方にダンスミュージックを聴く機会はあまりないでしょう」。
と微笑んだ。彼が少し顔を赤らめたかどうかは、私にはわからない。しかしそうでない可能性もある。
火曜日の夜は、マーシャル・サンダースと一緒に過ごし、ページの会社の話をし、そこは彼女が最初に(最初に採用された)出版社でもあり、同情も後悔もなく彼女を騙した。(相場はわからないだろうと)
後悔はしていない。この男は不正に執着しているのだろう。確かに(彼が)正直であれば、もっと儲かるはずだ。水曜日の夜私はマクマーチ家に会いに行った。マージョリーと楽しく語り合い楽しい夜を過ごした。
木曜日には、ナショナル・クラブで行われたマクレランド氏の昼食会に出席した。何人かの素敵で興味深い人々が出席していたが、しかし、マックの発表によると、新しい著作権法案が成立したとのことで会話は途絶えてしまった。

コモンズ(カナダ下院で庶民院といい、日本の衆議院のような物)を通過し上院の委員会に入っている、われわれ全員が最も素晴らしいと考えている法案だ。この法案がこのまま可決されれば、少なくともしばらくの間はカナダの作家を破滅させることになるだろう。というのも彼らはアメリカで著作権を確保することができなくなるからだ。(国ごとの著作権登録になるのか)そして昼食会の間中ずっとその話を続けていた。人生とは、本当にどう転ぶかという感じだ。
金曜日の夜、ローラとラルフと私は、占い盤を使ってとても面白い降霊術を行った。占星術のボードだ。トロントは、『20番目の飛行機』の出版をきっかけに占いブームが到来している。20番目の飛行機』の出版により、トロントにウイジャイズムの波が押し寄せた。占いボードの正直な販売者は小さな富を築いた。
降霊術でちょっと不思議なことが起きた。霊がいるかどうか尋ねると答えはいつも通り「イエス」であった。"フレデ" がいて "モード" と話したがっていたというのである。このような交霊会ではよくあることだが、このままではいけないと思った。続けてはいけないと思った。私はフリーデがそこにいるとは思っていなかったし、それでも彼女からの通信が欲しくてたまらなかった。という思いがあった。なぜやらないのか? 
だから私はある種の嫌悪感を押し殺して ウイジャ(降霊術で使う文字盤)に伝言を頼んだ。するとウイジャは素早く文字を書き始めた。ついでに言っておくと 不思議なことに私が降霊術に参加するときはいつも、ポインターを動かす力はいつも音声で綴るのです。このようなことは聞いたことがないのでその理由は私の中にあると結論づけなければならない。しかしなぜだろうか? 私は音声綴りというものが大嫌いで、これまでずっと猛烈に反対してきた。しかしなぜそうなるのか。
再開する:――Ouijaが出した文章――
 "彼女は2枚目の小切手を換金したのだろうか?"
私はかなり驚いた。確かにそれは私がフレデや、どんな権力者であっても、あるいはどんなものであっても、期待していたようなメッセージではなかった。 確かにそれはフレデから、あるいはフレデを真似ているどんな力、どんな人格からのメッセージであっても、私が期待していたようなものではなかった。「彼女」とは誰なのだろう? そして、「2枚目の小切手」が何を指しているのか、私にはさっぱりわからなかった。私はウイジャに「彼女とは誰ですか? と聞くと
 「B.A.ヒルさん」
という答えが返ってきた。さてミスヒル、その時は知らなかったが彼女のイニシャルのひとつが "A" であることは知っていた。ローラもラルフも、ミス・ヒルの存在は知らなかった。だからこの答えは私の主観から出たものか、あるいは外部の知性から出たものであろう。私はローラに言った、「ミス・ヒルに会ったら、どういう意味か聞いてみるよと言った。途端にウイジャは綴り始め、
 "Trust a clear appearance."(明快な外見を信頼せよ)
と綴った。それで、「ミス・ヒルに手紙を書こうか、それとも会うまで待とうか」と尋ねた。答えは
 "彼女に会う方がいい。彼女の話を聞けば私が正しいことが納得できるはずだ。F.C.叔父さんを信じなさい"
ローラとラルフは、この「おじさん」をナンセンスだと思い笑った。二人は知らなかったが私たち家族の間では、フレッド(フレデであろう)のことを「フレッドおじさん」と呼んでいて、彼女も自分のことを「フレッドおじさん」と呼んでいたことを二人は知らなかった。しかし彼女は F.C.おじさんとは呼ばなかったし呼ばれたこともない。次に私はヒルさんに会った時 "2つ目の小切手"の事を聞くべきか? 彼女がその話を切り出すまで待ったほうがいいのか、と聞いた。 答えは
 "彼女に話させればいい"
私は尋ねた" どこで会えばいいのですか?" 答えは
 "明日、アクスブリッジで。彼女は今、向かっているところだと。"

ウィジャ板とポインター
霊がポインターを突き動かすことになっているが、何人かで
ポインターを持って動かす為、利用者の意図が入る恐れがある

これまで私は、どちらかというと変に(占い板に)信憑性を感じていた。しかし今、私は知った。これは真実ではないのだ。ミス・ヒルが翌日にはアクスブリッジにいないことはよくわかっていた。しかし私は尋ねた。
"アクスブリッジのどこで彼女に会えますか?" 答えは
 "ウィリス薬局。おやすみなさい......親愛なるモードさん......"。
それでフレデの連絡は終わりだ。私はそれが彼女からだとは信じられなかったが、しかしまるで本当に彼女と話しているような奇妙な心地よさを感じた。ヒルさんがウィリス薬局にいないことは分かっていた。しかし金曜の夜にユアンを誘って、泥まみれの道をウィリスの店まで行った。
メモ用紙が欲しいからとユアンを誘い、泥まみれでウィリス薬局に行った。そこにはヒルさんの姿はなかった。
あのメッセージはどこから来たのか? なぜ一部ウソだったのか? そしてあの "2つ目の小切手" にはどんな意味があるのだろう? 私は知ることができるだろうか?
他にもおかしな通信があった。アイルズワースの占い師は、どうやらローラのことをとても嫌っているようで、いつも皮肉なことを言う。私たちが質問をやめると、すぐに勝手に始めてしまった。
 「さあ、ローラは踊りますよ。ティヒヒ!」。
本当に、無愛想な笑い声が聞こえてきそうだ。ローラはからかうように言った。
「でも、ウイジャ、私は音楽を持っていないの。音楽がないと踊れないわ」。「モードが口笛を吹いてくれるわと言い返すと、ウイジャは
 「口笛を吹くよ」
と言った。
私たちはもう一度、占い師に自分の悪いところを言ってもらった。ウイジャはすぐに、
 "ユアンは知っている"
ラルフとローラには言った。でも私は謎の言葉を聞いただけなの、ラルフの父親。アイルズワース博士は、占い師に秘められた力が悪魔の仕業だと考えている。彼は正しいかもしれない。でも悪魔の中には ユーモアのあるものもいるんだ。

1919年4月16日(水曜日)
リースクデール牧師館
この5日間、暗く、退屈で、雨が多く、寒く、邪悪な日々だった。私はまたもや憂鬱で胸が張り裂けそうだ。昨夜はフリードのことで一晩中泣き続けた。溺れているのをみて、助けようとする夢を見た。一日中、憂鬱な気分が続いている。
今日、ステラから手紙が届いた。彼女は4月11日にフランスから帰国したばかりのローリー・ケラーと結婚したそうだ。
私はそれを待ち望んでいたのです。彼のことは去年の秋に彼女から聞いていて、一週間前にケラーから手紙が来て、すぐにでも結婚してほしいと書いてあった。(ステラは)アーヴィン・ハワットとは15年近く婚約している。
二度ほど(ハワード)との結婚の準備が整ったのだが、彼はまだ余裕がないという理由で彼女に結婚を思いとどまらせた。確かに彼は不動産業を営んでいたが、大恐慌のあとの不動産不況で困っていた。でもステラにはとっくに飽きていたのだろう。
ステラと言えば彼女の不満やヒステリーには、どんな男でも疲れるものだ。しかし彼は死の床でフレデが言ったように、険悪に振る舞った。彼女が彼を捨てたのも当然だ
こうして "ステラの問題" は解決した。私は感謝している。1人では耐えられなかったと思う。
彼女の夫はこれから彼女の気まぐれと異常さの責任を負わされることになる。彼女の不満、痛み、苦悩に耐えなければならない。自殺すると脅し短気を起こす。彼は今、彼女に狂おしいほど恋をしている。
長続きすることを祈ろう。いずれにせよ、ステラ・キャンベルは今やステラ・ケラーである。老いた乙女心を捨て去り家となり支え合い仲間となることで...彼女の神経衰弱を変えるかもしれない。だが確かなことは人生には不満がつきものだ。そしてL.K.が彼女に対抗しようとするならば天罰が下るだろう。

1919年4月23日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール
先週の金曜日、キャメロン・マクファーレンがイースターの週末にやってきて昨日まで滞在していた。なぜフレデが連れ去られたのか、今になって理解できた気がする。私の悲しみが和らぐわけではないが私の反抗心も和らいだ。彼女は決して......決して......キャメロン・マクレーンと幸せになることはなかった。
彼女が彼と結婚した時、私は期待よりもずっと恐れていた。どうしてそうなったか理解したと思っている。カムは戦地から帰ってきて孤独と居場所のなさを感じていた。(フレデとは別の)婚約していた女性が、彼の入隊について非常に不服で、結局そのことを理由に婚約を解消してしまった。
彼はフリーデと頻繁に会いいつも友好的だった。彼は彼女が同情的で陽気な人だと感じ、彼女に恋をしているのだと想像していた。
フリーデもまた孤独で幻滅していた。彼女はその前の年のクリスマスに私に告白したように、彼女は若さをほとんど失った女性の苦悩を経験し始めていた。社会から見放され若い娘の群れの中で孤独を味わうのだ。
若い女性の群れの中での社会的無視、心の孤独。彼女もまた、カムの軍服と、「戦争」のロマンにいくらかは捕らえられていた。これらのことが相まって彼女はその気になった。そして花嫁になる興奮と喜びで自分は幸せだと錯覚した
カムに会う前、他の人がカムについて言っているのを聞いたことがあったし、フレデの無意識の裏切りによって、私はカムの中に知的な部分があまりないのではと疑っていた。あの夜モントリオールでカムに会ったとき私は彼のことを嫌いではなかったが、それと同じくらい彼の魅力に引きつけられることもなかった。
それ以来ときどき会っては話していた。ときどき手紙のやりとりをした。彼の手紙は、彼の人柄と同じくらい私に影響を与えなかった。手紙では彼のことを少しも知っているような気がしなかった。私はこのことを悔やんだ。
もし私がフリーデの夫を好きになれず、鰻のようにくつろげないとしたら悲劇だと思った。
さて、カムは5日間、私のゲストとして滞在している。彼は不可解な性格だ。彼は、痛いほど深いのか、痛いほど浅いのか判断がつかないが、私は後者だと思う。
彼はとても元気だった。一度か二度とても軽快にフリーデのことを言った。あるとき私たちはアニーおばさんの指の痛みの話をしていて、私は彼に、あの一家はみな血液中毒の傾向があると言ってこう付け加えた。
フレデは二年前に指に厄介なイボが出来て、それを硝酸で焼き切ったんだけど、それが原因で中毒になったんだ」と付け加えた。
カムは笑いながらリリーの目の前で言った。「焼き切ろうとするなんて、うぬぼれもいいところだね」。(そんなもの気にするタマかと)顔を殴られたような気がした。
このような事件があと2、3回あった。しかし月曜の晩の彼の振る舞いがなければ、彼の若さ、つまり私らとは別の世代に属する人間だからと、カムの言い訳を見つけたことだろう。
オクストビー家の二人の老女は、それなりにフリーデを気に入っていたようで、フリードが来日するといつも会いに行っていた。いつも親切にしてくれた。
当然二人は彼女の夫に会いたがった。月曜日の午後カムはユアンとドライブに出かけたのでメアリーさんは夕方、私にカムを連れてくるよう頼んだ。カムが帰ってきてから、私はカムに(オクストビー家に行くように)言った。 (老女との面会のような)退屈に耐えるのは得意ではないので、彼が行きたがるとは思っていなかった。
「もちろん行きますよ」と言ったときには私はとても驚いた。そして私が憤慨していた多くのことを彼に許したのです。(老女に会ってくれるとは殊勝な事だと)
私たちは(オクストビー家の)上へ行き、30分ほど滞在した後、私はこれほどまでに恥ずかしく屈辱的な気持ちになったことはなかった。カムは訪問中ずっと、まるで大馬鹿者のような振る舞いをしていた。
これ以上穏やかな言葉はない。もし彼が赤の他人だったら、「あの男はまともじゃない」と言っただろう。老人が質問したり、発言するたびに彼は軽率な、あるいは無関係な返事をして、彼らを侮辱した。彼は下劣な悪趣味なことを言った。たとえば、私がリリー・シャイアーのことをメアリーさんに話したとき、私はカムにこう言ったのだ。
私のメイドだったのよ。「この家のメイドを2人嫁に出したのよ」と言った。「よかった!」カムが言った。「よかったね」。
私に手を出したら(私を辱めるつもりでいたら)どんな幸運が待っているというのかしら" 3ヶ月前に花嫁を亡くした男が言うんだ。3ヶ月前に....?よ。(慎みがないとでも言いたいのか)
私は彼を追い払おうとしたができなかった。彼はあまりに楽しそうで、私がもう遅い(から帰ったらどうだ)とほのめかすと、彼は大笑いして、「ああ、そうだ。この若い女性たちはもう寝たいのだろう。それが独身の長所だ。好きなときに寝られるのが独身者の利点だ」と言った。60歳を過ぎた「若い女性」たちは、これが気に入ったのだろう。
やっとの思いで彼を起こすと、彼は突然、リジー・Oが座っている角まで急に跳ね回り、彼女の後ろに回り込み、彼女の上に屈み込んだ。私はてっきり(襲うのではないかと思った)リジーもそう思ったのだろう、ピクッと体を動かした。
しかし、カムは彼女に何かささやいただけだった。それが何なのか、彼女はまだ知らないだろう。というのも、彼女は彼の策略に動揺して、それを受け止めることができなかったからだ。そして、またゲラゲラ笑いながら言った。"正気と同じで幸せだ" とね。
私はその時彼を追い出した。カムは"ショックだっただろう?" と笑いながら歩道を下っていった。(年寄りはからかっておけばいいんだという気持ち)
私は怒りで文字通り[寒かった]。私は痛烈な皮肉で言いたかった。
ああそうだ、君は彼女らや私にショックを与えたんだ、それが何か自慢できることならね。あなたは奥さんの友人であった二人の老女を繰り返し侮辱した。あなたはフリーデの思い出を貶め屈辱を与えた。夫の教会の信者の前で私に恥をかかせ屈辱を与えた。忘れられないバカになった。苦笑い屋! 「その価値は十分にある」。
しかし、私はフリーデの夫と喧嘩するつもりはなかった。私は何も言わず彼の横で緊張して黙って歩いていた。しかし私は心に決めたのです。もうこの男は呼ぶまいと。

そして、死はフレデの味方であり、この粗野でうぬぼれ屋で育ちが悪く、「ヨセフの血筋」でもない、決してなれない少年との結婚の失敗を、死が取り除いてくれたのだと思った。フレデ、私の愛しい人よ、私はあなたが不幸になるくらいなら死んだほうがましです、たとえそれが私の生涯の孤独を意味するとしても。
カムは昨日帰ってしまった。もう二度と会いたくないと思った。なんとなくだがフレデにふさわしくない男だからだ。
フレデの死後、カムは私に手紙を書いた。(フレデがカムにか)「死ねばいいのに」と言ったそうだ。なぜかは知らないが彼女は彼に会ったら話すことになっていた。死の前日彼女は私にこう言った。"カムと結婚するんじゃなかった"って。
その時は錯乱状態だと思ったが、今は分からない。彼女は自分の間違いに気づき、これからの人生が怖くなったのだと思う。私の勇敢な少女は、花婿の上に座っている。

1919年5月9日(金曜日)
典型的な一日である。一日中図書質の本を運び出し、掃除の準備に勤しんだ。そして夕方、ひどく疲れて寝るべきところを、ゼファーに車を走らせてソーシャル・ギルドのためのプログラムをしなければならなかった。帰宅したのは1時近くになってからで、今は疲れすぎて眠れない。
今日は不思議なことに雨が降らなかった。この春はほとんど毎日雨が降り、寒さも厳しかった。
なかなか掃除が進まない。もう3週間格闘し、今ようやく図書室に取り掛かったところだ。私は、精神的、肉体的な強さを持っていないようだ。
この春は精神的にも体力的にも朝起きると、寝たときよりも疲れている。私の本当の願いはただ一つ。どこかに横たわって一ヶ月間眠り続けたい。そうすれば「追いつけるかもしれない」。
チェスターが学校に行き始めたのは月曜日。ある意味、私はそれが嫌だった。もうこの子はいないんだと。もう私のものではなくなったかのように。彼は横道沿いの学校に通っている。学校はとても離れているので、昼食を食べに家に帰るには遠すぎることを惜しんでいる。また学校はとても藍色で、これも難点である。先生はブレント先生という名の眠そうな人間である。彼は先生がとても気に入っているようだが。チェスターは父親と同じように誰にも何も話さない。

学校への道
リースクデール

1919年5月11日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
またしても雨の降る、陰気な、退屈な日曜日。今日は出かけるほど体調が良くなかったが、一日中ここにいるのは悪いことだ。私は神経質で憂鬱な気分だった。昨日の夜も恐ろしいことを聞いた。
チェスターが生まれた時に 診てもらった看護婦のファーガソンさんが、その後すぐにモントレートのジェンキンスと結婚した。
そのファーガソンさんが、"Cの学校"(チェスターの学校)に行っているの3人の小さな子供を残して昨年の冬にインフルエンザで亡くなった。一日中、このことが頭から離れない。彼女とリドはこの夏、ここでどんなに楽しい時間を過ごしたことだろう。そして今、二人とも死んでしまった。

1919年5月21日(水曜日)
リースクデールの牧師館
今日の午後、リリーと私は家の掃除に追われていたところへ、チェスターが突然学校から帰ってきた。
彼の姿を見て気を失いそうになった。彼は恐ろしい姿をしていた。彼の目の上の2つの切り傷から血が流れていた。肉は黒く腫れ上がり、目は閉じられていた。そして何よりも恐ろしいのは、血がにじみ出た。いったいその子の目の中はどうなっていたのだろう。
少年たちは昼休みに小川で遊んでいて、チェスターが棒で殴られたのだ。というか、古い、乾燥した、先の尖った棒で殴られたのだ。私はかわいそうに、その子をベッドに寝かせ、スポンジで血を拭き取った。しかしその雫はまだ続いていた。まぶたの間からにじみ出た。
私たちは医者を呼んだ。夕暮れ時に到着したシアー医師は、彼らしい心強い言葉をかけてくれた。「眼球が切れていなければいいのだが......」。

  

チェスターの学校と学校に行くチェスター

その時、彼はとても暗い意味合いで言ったので、私はもう十分に動揺し、神経質になっていた。眼球が傷ついたと思われるに違いないと思った。彼はチェスターを診察し、クロロホルムを少し飲ませないと開眼できないと言った。
チェスターはクロロホルムを飲んだことがないので、どのような影響があるのかわからなかった。理性では大丈夫だろうと思ったが、それでも私は不安でたまらなかった。私はユアンをシアー医師と一緒に二階に検査に行かせた。
私も以前なら行けたのだが......風邪をひいてから勇気が出ない。私は行くことができなかった。その代わり応接間に閉じこもって、絨毯の真ん中に座って歯と手を握りしめて待っていた。
"ああ、もしフレデが一緒だったら" 私は呻いた。そして、「もしかしたら、彼女は」。そうだ。もし人間の人格が死を免れるなら......フリーデはどんな危機でも私のところに来るだろう。しかし私はそれを知りたいのだ。
ダフがやってきてドアの向こうに重々しく座っていた。私はある本で読んだことを思い出した。動物たちは、人間には感じられない存在に気づいているのだと。もしかしたらその存在が動物に影響を与えることもあるのだろう。フレデがいればダフに自分の存在を証明するようなことをさせることができるのだろうか。
私はしばらく考えた。何かありえないことをお願いしよう。ダフィーが普段は決して考えつかないようなことを。
「フレデ」私は懇願するように囁いた。「もしあなたがここにいるなら、ダフを私のところに来させて私にキスさせてください。
ダフが愛撫をしたり、愛撫を求めたり、愛撫を楽しんだりすることはない。実際にそうなのだ。ダフが床を重々しく横切って歩いてきて、私の肩に前足を置き、私の頬に口をつけた。しかも二度も。
こうして書き出すとバカバカしくなってくる。なぜこのような体験はいつも、書かれたり、語られたりすると、ばかばかしいと思うのだろうか。おそらくそれは書かれたり語られたりしてはならないからだろう。
書かれたり語られたりするのではなく、ただ生きているからだろう。そのときはばかばかしいと思うようなことは何もなかった。そのかわり、フリーデが私と一緒にいて、古い毛皮の同志をメッセージの媒体にしているのだと確信した。その確信が慰めとなり、私に強さと冷静さをもたらした。
やがてシアー博士が降りてきて、チェスターがエーテルから抜け出した(覚めた)と言った。眼球の皮膚が切れているのがわかったが、それ以上のダメージはないだろうということだった。しかし、数日間は確信が持てないとのことだった。だから今夜は眠れそうにない。

1919年5月23日(金曜日)
リースクデール、牧師館
2日間にわたる激しい心配の末、チェスターの目に深刻な傷はなく、瞼の皮膚も傷や外見に影響なく治癒することが確認された。
回復することが確認された。今日家の掃除が終わり、とても感謝している。私たちは一ヶ月もかかったのだ......。

1919年5月24日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
24日の "女王の天気"。今日はとても楽しくて、明るくて戦争みたいだった(慌ただしかったということか)。リリーは休暇をとって町へ行ったが、私の休暇は一生懸命働くことだった。
朝から夕方まで、そして夕方からは、F.M.ミーティングが始まる前に家の中の掃除の残り物を片付けた。
なんとかやり遂げ、そしてハミルトンのドラモンド博士が今夜来て、明日説教をすることになっているので夕食の用意をした。彼はとても素敵で知的な人だが、私は疲れていて一緒にいて楽しいとは思えない。
おとぎ話のお姫様の100年の昼寝がうらやましい。この一週間が終わって、少しゆっくり休めるようになったらどんなに嬉しいことだろう。

1919年9月1日
オンタリオ州リースクデール、牧師館
「レジャーと休養の夏!」。それが5月24日に書いた私の願いであり、楽しみでもあった。5月24日に書いたとき、私はそれを期待し楽しみにしていた。5月24日に書いたこの言葉が、今となってはなんとも皮肉な響きをもっている。
私が経験した恐ろしい夏、私の人生の中で最も恐ろしい夏、その恐ろしいクライマックスを考えると、この言葉は今となってはとても皮肉に聞こえる。
病気と悲しみと心配に満ちた恐ろしい年の、恐ろしいクライマックスである。1919年は地獄のような1年だった。私は絶望的に疲れている――疲れすぎて二度と休むことができない。休息があまりにも遅れすぎていて、追いつくことができない。少なくとも今はそう感じている。
さて話は変わるが。前回のエントリーの翌日の日曜日は、すべてがうまくいった。私たちはドラモンド博士とゼファーまで行き、講演のサービス後に博士とユアンをアクスブリッジへ 。ユアンはすっかり元気になったようで、とても元気だった。前日の金曜日、彼は「頭痛と衰弱が戻ってきた」と話していた。
グラスゴーで過ごした冬の間、頭痛と不眠に悩まされ続けたことを指していたのだ。その頃、私はユアンの頭痛と不眠症のことは知っていたが "弱さ" のことは知らなかった。
春に島に帰郷したときはすっかり元気そうで、「慣れないせいだ」と言い切っていた。私はこのことを奇妙に思ったが、彼が再び元気になったので私はそれ(余計な心配)を止めた。
その日の金曜日、彼が頭痛がぶり返したと言ったとき、私は不安になった。しかしすぐに治まったようで、日曜日と月曜日はずっと元気そうだった。
月曜日の朝、彼はドラモンド医師を連れ出し、ユニオンビルのライ氏を連れ帰った。その夜の講演者であるユニオンヴィルのライ氏とソーニャのドッズ氏を連れ戻した。夕方、Rae氏(ライ氏)はここで講演をし、Ewan氏はDodds夫人(ドッズ夫人)をゼファーまで連れて行った。
彼らは10時半に帰ってきた。私は彼らにお茶を入れ、1時近くまで話し込んでしまった。ユアンが私たちのようにこんなに元気そうなのを見たことがない。彼は誰よりも陽気だった
その夜、ライ氏が空き部屋を使っていたので、私はドッズ夫人と一緒に寝た。ユアンはチェスターと一緒に寝たというか何というか。というのも彼は朝食の席で、まったく眠れないと言ったからだ。ユアンのことだからいつもはぐっすり眠っているのにどうして、と驚いた。さらに珍しいのは、もし私が(ユアンが眠れないという)その原因を知っていたら、もっと心配になっていただろう。夜中に起きて、服を着て北の道路を長いこと歩いていたのだ。(夢遊病者だ)
私はこの異常な行動に漠然とした不安を覚えたが、ユアンは一日中いつもと変わらず元気そうだった。とても陽気な人でした。夜にはライさんと一緒にゼファーに行きよく眠ったそうだ。しかし朝食の時は元気がなく、頭が痛いと言っていた。
それからの1週間は、私にとって恐ろしい悪夢のように思えた。このままではいけないと、私は不安な気持ちを隠して、計画を立てた。

ユアンは何事もなかったかのように、笑い、話す。水曜日の昼下がり私たちは車でアクスブリッジに向かった。ユアンは牧師館に行き、私は買い物をした。 暖かくて、私はとても疲れていた。私が修道院に行くと、ユアンがまた頭痛を訴えていた。それが何なのかは分からないが心配になった。
私たちはスミス師を呼び寄せた。講演者のスミス牧師とローレンス、そして生身の「ニクルビー夫人」であるコリンズ夫人も一緒に連れて帰った。この人は「ニクルビー夫人」と呼ばれる人だ。彼女はいつだって耐え難い存在だ。しかし疲れているとき、心配事があるときは彼女はよけい耐え難い。彼女は絶え間なく、とりとめもなく、最近亡くなった夫の病気と死に関するあらゆる事柄を私に話した。どんな下着を着せて寝かせたかまで詳しく話してくれた。
私は心の片隅で彼女と話をし、もう片隅で(夫の)恐怖と格闘した。夕食の時間ユアンはとても冴えなかった。スミス氏をゼファーのところに連れて行き、二人が戻ってくると彼は意気消沈して椅子に座り目の前をぼんやりと眺め、会話にまったく加わろうとしなかった。このころには私はひどく心配になっていた。ユアンはその夜も眠らず、また歩き出した。
スミスとローレンスが出かけて、ロードさん、息子のロード中尉、マッチさんが来た。ユアンは私たちと一緒に座り、沈黙と憂鬱の中で彼はマッチ氏をゼファーに送るために他の人を呼び寄せ(他の人に頼んだのか)家で寝転んでいた。ハンモックに横たわったままだった。彼は何も語ろうとしないし語れない。私が医者に診てもらうよう懇願しても無駄だった。
彼は無気力な状態と歩き回る状態を交互に繰り返した。落ち着きなく歩き回る。金曜日の夜ブライドン氏が私たちのゲストだった。朝ユアンが彼(ブライドン氏)をアクスブリッジに連れて行ったとき、私は彼をシャー医師のところに連れて行くよう(ブライドンに)強く頼んだ。医師はブライドンにユアンは "神経衰弱" だからどこかへ(保養に)行けと行ったが、ユアンは「そんなことはしない」と言った。
その夜マッケイ博士が来た。ユアンにベロナールの錠剤を飲ませた。これでユアンも眠れるようになって、翌日にはすっかり良くなっていた。夕方車でマッケイ博士をウィックに送り、そこで講演をすることになった。帰路は月明かりの美しい夜だった。私は疲れと心配で話す気にもなれず、隅に座って黙っていた。帰りがけにマッケイ博士が、「なんと心地よい安らかなドライブだったことか。 と言った。私は苦笑いをした。
マッケイ博士や他の研究者は、ユアンの病気は肉体的なものだと考えていた。少し休めば治るだろう」と。しかし私には信じられなかった。その週までユアンはまったく元気だったし、冬の間働き詰めだったわけでもない。ユアンはあまり無理をするタイプではない。のんびり構えているタイプだ。しかし私は何が問題なのかを突き止めることにした。私はユアンに話してくれるように懇願した。
そしてユアンはついに事実を告白した。彼は自分が永遠に失われるような恐ろしい恐怖にとりつかれていると言った。自分は永遠に失われた存在だ、来世には何の希望もない、と。この恐怖は昼も夜も彼を悩ませ、追い払うことができなかった(悲観神経症であろうか)。このことを知った時の絶望感は忘れられない。私はこのことを宗教的なメランコリアの症状の一つであることは知っていた。憂鬱で心を摩滅する。夫は気が狂いそうなのか? 気が狂ってしまったのだろうか。その症状は百科事典に載っているようなものだった。それは私もいつも起こしていた最も根深い神経症一つである。

今までの苦労が何だったのかと思えるほどだ。私はその後の日々をどう過ごしたかわからない。私は他の発見をした。ユアンが襲われたのはこれが初めてではない。ユアンが18歳でPWCに入学したときにも軽い発作に襲われたことがある。その6、7年後、ダルハウジー・カレッジで2年間発作に悩まされたことがある。 しかしそのときはこれよりずっと軽い症状であった。その冬グラスゴーでひどい再発に見舞われた。そして今回最悪の事態になった。
私は恐ろしくてたまらなかった。私は体質的なメランコリアが再発するような男と知らずに結婚してしまったのだ。その血を受け継ぐかもしれない子供を生んでしまった。そう思うとぞっとする。しかし以前の発作から回復したことで一筋の光が見えた。
翌朝マッケイ医師は帰って行ったので私は感謝した。客という悪夢が去り(客がいることが悪夢なのだからよほど神経質なのであろう)、私は自分の恐ろしい問題と格闘することができるようになった。私はどうしたらいいのか分からない。これほどひどい状態に陥ったことはなかった。
その日は恐ろしく暑い日だった。私はユアンのために庭の手入れをしようとしたのだが、ユアンは「働けない」と言いやろうとしなかった。その夜私は絶望に打ちひしがれていた。ユアンはハンモックに横たわっていた。彼の目は目の前を見つめていた。彼の心は恐ろしい不自然な考えに取り憑かれていた。思い悩んでいた。
私は夕暮れの中ベランダの隅に一人で座り、フリーデのことを思い出して泣いた。もし彼女が生きていたら!」と。私の悩みや恐れを打ち明けることができるのは彼女だけだった。私は、このことを誰にも知られないようにしようと決心していた。ユアン自身のためにも子供たちのためにも、彼の心が不安定だという印象を与えてはいけない。そうすると彼の将来が台無しになる。
頭痛や不眠症のことは周囲に話したが。しかし、もう一つの致命的なことが疑われないように、できる限り世間と距離を置いた。ユアンは3日のうち1日は自然に眠れた。残りの2晩はベロナールを飲まないと眠れなかった。私は涙ながらに懇願して、夜明け前の散歩をやめるように説得した。このように徘徊しているところを見られると疑われるからだ。私はといえばほとんど眠れなかった。私は暑さと蚊に悩まされた。
ユアンは何日かすると読書に少しは興味を持つようになった。しかしたいていの場合彼は陰鬱な沈黙のうちに座るか寝るかしていた。彼は自分とは全く違っていて、私には他人のように思えた。子供たちにも全く関心を持たず、ある意味では当然かもしれない。これは十分に合理的なことだった。
ユアンは自分が永遠に地獄の炎に包まれる運命にあると信じていたし、そう感じていたのなら、ユアンが普段から信じていたあの忌まわしい中世の迷信のようなもので、ユアンも普通に信じていたのだが他のことにはあまり興味を感じないだろう。長い夜、私は何時間も何時間も起き上がり、スチュアートと一緒に空き部屋で寝ていた。長い廊下をつま先立ちで歩き、私たちの部屋のドアへ。ユアンが眠っていないか息をひそめて耳をすませた。ユアンが眠っていたら、私は部屋に戻って少し居眠りしました。そうでなければ私は眠りませんでした。恐怖の夜だった。恐怖のあまり涙も出なかった。そして 夜が明けると、外では鳥が楽しげにさえずり、私は自分自身に問いかけた。二週間前と同じ世界なのか、と。 (何よりも教区の人たちの目を恐れたという事であろう)

この恐ろしいものが襲ってくる前、私たちはとても忙しく、熱心で、少なくともそれに比べれば幸せだった。恐ろしい夢だったのでは? ああ、もし私が目覚めることができたなら。この時期の記憶では、いくつかの日や夜が恐怖の中で際立っている。
ひとつは前進運動の集会が終わって最初の日曜日の夜だった。フェネロンフォールズのフレイザーさんが食事を提供してくれた。ユアンは午前中に少し良くなったようだった、 しかしユアンはフレイザー氏とゼファーに行こうとはしなかった。彼はフレイザー氏をアレックス・リースク(Alex Leask)に連れて行かせた。
夕食後今まで見たこともないようなひどい雷雨がやってきた。 私はほとんど恐怖を覚えた。ユアンは雷雨にも私にも目もくれず病的な思いにふけっていた。雨は完璧な川を作り丘を駆け下り、庭を一瞬にして流し去った。私が苦労して作った庭があっというまに消えてしまった。私はとても疲れていてもうダメだと思った。私は涙と嗚咽をこぼした。ユアンは情けない顔で「それだけなら泣くことはない」と言った。
私の試練はこのユアンの同情のなさにあった。私の苦しみなどどうでもよいのだ。彼の態度は、「あなたは私が呪われるとは思っていないし、あなたが呪われるとも思っていないのだから、心配する必要はないでしょう」。という態度だった。絶望しているのは私一人だった。今までの人生で、これほどまでに あの恐怖に苛まれながら、仕事をし、計画を立て、微笑んでいたあの頃ほど惨めで不幸なことはなかった。
ユアンはその夜9時に寝た。私は10時半までベランダに座り、フレイザー氏と話をした。銀色の月明かりが美しい夜だった。私の心の惨めさとは対照的だった。2週間経ってもユアンの容態は良くならず、私は何か手を打たなければと思った。トロントに行って専門医に診てもらうこともできず、どうにかしなければと思った。"医者じゃなくて牧師がいいんだ" と私が言うと、彼はいつもとんでもないことを言うのだ。
私がそう言うと彼はいつもこう言うのだ。私はよく考えて彼がどこかへ(保養に)行くべきと判断した。私は一緒に行くことができなかった。子供たちの面倒を見なければならないし、それにステラも数日後に島へ行くから離れるわけにはいかない。でもフローラの家に行けば面倒を見てもらえるし、彼女に手紙を書いて神経の専門家の意見を聞くこともできる。
ユアンは行きたがらなかった。自分は弱いから無理だと言っていた。弱いという妄想を抱いていてその結果だった。潜在意識は弱さの信念を作り出した。そのために彼は自分の心を醜いものから引き離さなければならなくなった。しかし私は毅然としていた。私はすべての手配をし、文字通り彼に行くことを強要した。彼が行く前の晩、私たちはアクスブリッジまで車で行き、日用品を買い求めた。
ユアンは少し元気になったようだった。用事が済んだらアイスクリームを食べようと言い出した。私たちはアイスクリーム屋に入った。そこはゲイの笑いを誘う人々で賑わっていた。私たちはテーブルに座った。ユアンは私たちがそこにいる間ずっと目の前を凝視していた。私はアイスクリームを飲み込むことができなかった。アイスクリームを飲み込むことができなかった。喉に詰まったのです。私は立ち上がりユアンを外に連れ出し家路についた。それは美しい花咲く春の薄明かりの中の恐ろしいドライブだった。ユアンは話すこともできなかった。

私は車の中でしゃがみこんでただひとつの願いだけを胸に抱いていた。車から飛び出し野原を駆け巡り、倒れるまで走り続けたい。どこでもいい、どこにでもいい、この運命から逃れられたら。そしてその運命から逃れることができたら。
家に帰ると私は2階に飛んで行き、自分の部屋に閉じこもり、ヒステリックなほど泣き出した。「耐えられない、耐えられない」私は何度も何度も呻いた。(教区での面目が失われることを何よりも気にしている)
そこへユアンが現れた。彼は私のことを少しは思ってくれているようだった。"ユアン" "ユアン" "ユアン" 私は泣き叫んだ" そうしよう、そうしよう" と彼は答えた。"泣かないで" "必ず帰ってくる" しかし10分後、彼は再び暗い夢想の中に沈み、外的な問題に対する認識を失っていた。(面目を気にするモンゴメリはちゃんと回りのことに気を配る夫であってほしいと思っていた)
翌朝私たちはトロントへ向かった。出発してからユアンは私が話しかけない限り、決して口をきかなかった。
大変な旅だった。ユニオン駅の待合室には、ロサンゼルスから到着したばかりのStella(ステラ)がいた。アニーおばさんを元気づけるために、カリフォルニアからロサンゼルスまでの往復の旅費は私が負担した。でもフレデがいなくなった今、それ(アニー叔母さんへの元気)を与えてくれる人は誰もいない。
ステラとはもう6年近く会っていない。ユアンが病気になる前、私は彼女の訪問を心待ちにしていた。今はもう遠くへいってほしい。離れてほしい。彼女はユアンを嫌っていることは知っていた。彼女にユアンの本当の症状を疑われてはいけないのだ。私はユアンの頭痛と不眠症の話を彼女の耳に流し込んだ。
しかし彼の精神状態については、故障のために元気がないこと以外何も言わなかった。ステラと私は午後の列車で帰途についた。ユアンは夜行列車でボストンに向かうことになっていた。別れを告げるとき彼は少し明るく見えたが、私はこれほど心が重くなったことはなかった。私はこの変化が彼の病気の進行を止め、正常な状態に戻してくれるかもしれないという希望にしがみついていた。
しかしその希望はかすかなもので、私は心が痛んだ。しかし、この10日間はそれまでの2週間に比べるといろいろな意味で楽だった。私はユアンの姿にいつも悩まされることはなかった。ユアンが暗い顔をして、何も聞かずに座っている姿に、いつも苦しめられることもなかった。ユアンのことが、まるでインキュバスのようにいつも彼のことが頭から離れなかった。そして夜は、不安とは裏腹に私はよく眠り、惨めに横たわることもなかった。
そして、不安な幽霊のように、部屋から部屋へと忍び足で移動するのを聞きながら、惨めに夜を過ごすこともなかった。それからステラを恬ることができた。
というのもステラは暑さと寒さのために頻繁に唸り声を上げ、確かにかなりひどかったし痛みや苦痛もあった。ステラのおかげで、暑さやノロウイルスに唸り声を上げることが多くなった。そのためこのようなことが起こるのである。そしてそれはまた、昔のこと、昔の友だちのこと、昔のことを話せる相手と再び一緒になれたことは、悲しみに満ちた喜びだった。
ステラの前途はどうだろう......少しばかり心配だ。彼女の夫はいい人だが愛情はないし――彼女は今のままでは到底満足できないのだ。彼女の気性、専制、利己主義、妄想などを考えるとこのままでは、二人の仲が悪くなるのは目に見えている。
私たちは最初の夜、ほとんど起きていて家庭内のさまざまな問題を解決し、この6年間に起こったすべてのことを話し合った。その後、かわいそうなステラは私に寄り添ってよく眠った。

次の日、私は一日中この牧師館で開かれるギルドの社交行事の準備で忙しかった。お客さんは月明かりの芝生に座り、私はビクトローラ(蓄音機)を玄関に移動して、ビクトローラのプログラムを紹介した。
私は服装も笑顔もおしゃべりも、まるで世界で一番軽い心を持っているかのように。もしユアンの病気が身体的なものであったなら、私は自分の不安を示すことができただろう。しかし今回はそれを隠さなければならない。レコードをかけると暗い台所に出て、帰る時間まで床を歩き回った。
ユアンが帰る時間まで必死に祈った。ユアンはどこにいてどんな様子なのか。彼は? ブレーントリーにいるはずなのに。彼はどうやって旅に耐えてきたのだろう? 最初の手紙にはどんなことが書かれているのだろう。そんな疑問が私を苦しめた。しかし私は勇敢に微笑んだ。――私の人生のほとんどは、そう微笑むことの良い訓練を受けていないのですか? キツネにかじられた。
その週の最悪の時間は郵便物を取りに事務所に行ったときだった。戦争の知らせを待っていたときよりもっとひどかった。ユアンから手紙が来るのと来ないのではどっちが怖いかわからない。土曜日にモントリオールからカードが届くかもしれないと期待していたのだが、何も来なかった。
このことから、モントリオールに到着したとき彼はさぞかし悲惨だっただろうと思った。私はベッドに入った後、ステラに疑われないようにと、夜通し微笑んでいたのだが......夫が正気を失っているとは思わせたくない。泣き崩れてしまったのです。
翌日(日曜日)はとても大変だった。その日は季節外れの酷暑。私は不機嫌で心も体もあまりよくなかった。月曜日にはユアンから手紙が来た。それはあまり満足のいくものではなかった。私の不安や恐怖を和らげてくれるものではなかった。簡単に言うと前日の夜、ブレーントリーに到着し、「かなり疲れて」いたが、その日の朝には少し元気になった、と。
その後、彼がフローラの家に着いたときにはほとんど倒れたような状態だったことがわかった。その原因はともかく、精神的な苦痛を伴う恐ろしい旅の末に、ほとんど倒れたような状態でフローラの家にたどり着いたことが、後になってわかった。
その原因がいかに不合理なものであったにせよ、それは大変なものであったに違いない。自分が永遠に苦悩する運命にあるという恐怖に取り憑かれることは、私たちが想像する以上にひどいことだろう。ユアンは平常心ではあの冒涜的な言葉「火と硫黄の地獄」なんていう古くからの冒涜的な考えを信じてはいない。
しかし彼は正常ではなく、幼いころに聞いた旧派の牧師たちの陰気な教えが、彼の思考を完全に支配していたのだ。私は彼がその昔、ある牧師が「地獄」について説教したときの印象を、何度も聞いたことがある。私はその説教が彼の妄想を引き起こしたのだと思う。そのような説教は多くの心と魂を苦しめる原因となっているのだ。(欧米でも近代以前は地獄と墓場が似合うような暗い時代があった)
水曜まで手紙は来なかったが、そのあとまた退屈な短いメモが来た。彼は専門医に診てもらったというだけで、他には何も書いていない。私は一日中心の苦しみと、身体の惨めな状態とで過ごした。体中が焼けつくような、ピリピリするような感覚に襲われた。神経を痛めつけているのだろう。
翌日、ユアンのメモによると少し気分がよくなり、前夜はよく眠れたという。その日はこれで助かった。また土曜日にも、「少し良くなった」と書いてあった。私はこの言葉が大嫌いになった。彼はいつも「少し良くなった」のだが、決して本当に良くなったわけではない。彼は少なくとも5週間は滞在しなければならないと言った。(また立派な牧師夫妻だと見られていたいモンゴメリの虚勢も問題であろう)

翌6月23日、私はステラと一緒にトロントに向かった。彼女はモントリオール行きの夜行列車で出発し、私は安堵感とともに彼女を見送った。私はカールスライトに行き、ユアンの悪い夢に悩まされながら眠れない夜を過ごした。そのうちのひとつはとてもひどいもので窓から私を見て泣いているのだ。その恐ろしさで目が覚めそれ以上眠れなかった。
8時の汽車で出て郵便配達人と一緒に上がってきた(家に戻ってきた)。するとユアンから2通の手紙が届いていた。前日に来たものを開けると、そこには良い知らせが書かれていた。いい知らせだった。ユアンは今までで一番気分がいいと書いていた。私は元気づけられもう一通を開いた。彼はとても惨めだと言っていた。専門医は役に立たない、整体師を試してみるつもりだ、と。
短いバラバラの手紙は、彼の混乱した心の暗さと動揺を映し出していた。私はベッドに体を投げ出し激しく泣いた。しかし涙の安堵に浸ることはできなかった。仕事をしなければならない。私は服を着替え、食事をしに階段を降りた。階段を降りたところで電話のベルが鳴った。私はメッセージを受け取ろうとした。私の心臓は、私宛の電報だと聞いたとき恐ろしい前兆を感じて立ちすくんだ。 私宛の電報が届いていたのだ。
フローラからのもので、「ユアンはもうだめだ。ユアンは良くならない。すぐに来てもらえますか? 私は受話器を取り上げた。冷静だった。私は素早くそして明確に考えた。私は行かなければならない。あのかわいそうな二人(我が子)をリリーに託して行かねばならない。リリーはいい子だ。私の子供たちを放っておくなんて! それでも他にすることがなかった。フローラは緊急の用件がない限り私を呼び寄せることはなかった。ユアンは完全に狂ってしまったのだ。しかしその時は考えなかった。後で考えなければならない。
最初の疑問はどのくらいでボストンに行けるかということだった。モントリオール行きの2本目の列車に乗ればいい。しかしその列車は、朝モントリオールを発つボストン行きの列車に乗り遅れることがよくあるのだ。そうなると一日中モントリオールで待たなければならない。木曜日の朝までブレーントリーにたどり着けないのだ。でももししかし、アクスブリッジから2時の列車に乗ればモントリオールの始発列車に乗り継ぐことができ、木曜日の朝までにボストンに着くことができる。
時刻は1時15分だ。その列車に乗れるか? 乗れるし、乗れた。私はお金がなかった。ドミニオン銀行の支店長に電話して100ドル用意するように言った。ワーナー氏にアクスブリッジまでの車を手配してもらった。1人で2階へ。15分で準備が整い、リリーは必需品をいくつか私のバッグに放り込んでいた。25時2分に出発し20分でアクスブリッジに到着した。その古いフォードで第七を猛スピードで走ったとき、私はあまり考えなかった。私の心はその列車に乗ることに集中していた。
私は列車に乗った。トロントまでの道中、私は落ち着いていてあまり苦にならなかった。感情が麻痺しているような、あるいは迅速な行動の必要性に縛られているような感じだった。トロントに4時に着いた。私は7時20分まで待たねばならなかった。混雑した駅構内で1人座っていた。通り過ぎる群衆の中に、私と同じような状況に直面した人がいるかどうか心配になった。私は、7時の食事から何も食べていなかった。私はランチルームに入りサンドイッチと紅茶を手に入れた。しかしサンドイッチは一粒も飲み込めなかった。のどにつかえるのだ。紅茶は飲み干した。これは黒ビールのようで、灼熱だが少し必要な刺激を与えてくれた。

そしてついに。何年も待ち続けたかのように、私はモントリオールの薄暗いユニオン駅から モントリオール行きの列車に乗り、ステラを見送ったわずか24時間後に薄汚れたユニオン・ステーションを飛び出した(発車した)。そのとき私は一時的に冷静さを失い泣き崩れてしまった。それで少し安心し、自制心を取り戻した私は、ポーターに私の寝床を用意してもらった。それは上段のもので、このような急な申し出では他に何も手に入らない。
上段の寝台で寝なければならなかったのは人生で二度目だった。最初は29年前、モンゴメリ爺さんと一緒に西部へ行ったときです。初めて汽車で寝たのは。その夜もほとんど眠れませんでした。2時間ほどうたた寝をして、日が暮れるまでそこに横たわっていた。
朝が来て私は汽車が1時間遅れているのを知り、ボストン行きの汽車に乗り遅れなければいいがと不安に駆られた。幸いなことに私はそうならなかった。モントリオールで一日中待つことは耐えられなかったからだ。切符を買って握力をチェックするのに15分しかなく、お茶を飲む時間さえなかった。それはどうでもいいことだった。 しかしボストンの列車が走り出したとき、私は食べ物がないために弱っていることに気づいた。前日のカールスライトでの朝食以来、私は何も食べていない。
その日は私の人生の中で最も長く、最も恐ろしい一日だった。汽車は這うように走る。私は考え計画を立てようとしたが不可能だった。頭が働かないのだ。もしユアンが気が狂ってしまったらユアンはどうなってしまうのか。私には他に誰もいない。父も母も、姉も弟も。もしこのような恐ろしいことが起こったのならユアンをどこか良い療養所に入れ、子供たちのところに帰ることだ。私たちの家庭は崩壊し、私たちはどこかへ行かなければならないのだろうか? 自問自答を繰り返したが答えられなかった。
100の病的な可能性に取りつかれ私の思考を混乱させた。私は本を読むことができなかった。雑誌を買ってきて、無理やり読もうとした。しかしその行は全く意味をなさない。12時に昼食に行き無理やり口に含んでみた。どういうわけか私の気が散った状態が身だしなみに反映されているような気がした。私は他の乗客の視線を気にしながら身だしなみを整えた。他の乗客の目を気にしていた。
ある駅で新婚の夫婦が乗ってきたのを覚えている。 新郎新婦は、帽子に米がついている。私の前に座った。彼女はとても若くとてもきれいだった。 二人とも呆れるほど幸せそうだった。私は8年前の自分の結婚式の日を思い出していた。駅に向かう車の中で起こったことだ。パーク・コーナーを出て間もなく霊柩車が側道から出てきてケンジントンに戻る葬儀のために私たちの前を走っていった。そのケンジントン駅に着くまで、その悪趣味な車が私たちの行列の先頭を走っていた。しかし私たちは決してその車の横を通り過ぎることができなかった。ユアンは迷信深くないので、私たちは皆、「悪い兆し」といっては笑った。 その "縁起の悪さ" を笑った。それが今になって思い出され、黒い鴉のように私の心を悩ませている。 ゲイ(若者とかいう意味)の新郎新婦に悪意はなく恨みもない。

しかし私はその光景を見るのが嫌いだった。私と彼らの感情の対比を強調するように思えたからだ。さて棚に張られたり杭に縛られたりしている人たちにも拷問に終止符が打たれた。8時にボストンの北駅に着き路面電車に乗り、ボストン駅に向かった。南駅に行くと、ブレーンツリー行きの列車はちょうど出発したところで、次の列車は9時15分まで待たなければならなかった。待合室に座ると、大勢の人とすれ違ったが、その中に知っている人は一人もいなかった。
私は 病み上がりで疲れ不安でいっぱいだった。しかしその時間も過ぎていった。10時にブレーンツリーに着き、タクシーを拾って丘の上の小さなバンガローに向かった。私は最悪の事態を想定したが、数分後にはすべてを知ることになる。車で玄関に近づくと その時ポーチに明かりが灯り、二人が座っているのが見えた。するとユアンが笑顔で階段を下りてくるのが見えた。あの電報を受け取って以来、ずっと苦しんできた恐ろしい恐怖の反動で、私は弱り切って震えて立っていられなくなった。私は彼にしがみついて震えながら尋ねた。「ユアン、元気?」「今日はこの4週間で一番調子がいい」と彼は答えた。
その時私はほとんど心が軽くなっていた。彼が正気であることがわかり安堵したのだ。その安堵感は何とも言いがたいものだったのでここでは割愛する。私は車に乗り込んだ。フローラとクリスティ・ヴァイルズに挨拶し、体を洗って埃を払い夕食の席についた。私はもうお腹が空いていたのでたらふく食べました。私たちはとても陽気で、ユアンは発作が起きてから、以前にも増して自分らしくなったように見えた。(旦那は頼りがいのある人であってほしいのだろう)
その後フローラの皿洗いを手伝っていると、彼女は月曜から火曜の間どんなにひどい目に遭ったか話してくれた。ユアンは絶え間なく床を歩き回り不安で荒れ狂い、もう希望はないと言い放った。そのためフローラも気が動転していた。火曜の朝彼は彼女に私を呼ぶように頼んだ。最悪の事態を知ることになる」と彼は言った。それでフローラは電報を打った。
そして火曜日の夜ユアンは好転した。ブレントリーに来てから初め自然に眠れ、一日中気分が良かった。クリスティは彼の病気は危機を脱したと信じていると言った。確かに彼はもう二度と もうあんなにひどいことはない。ベッドに入った後彼は自分の発作について話してくれた。自分自身と子供たちが地獄にいるビジョンを見たと言った。私はそれがそれが持続している間は、絶対的な狂気であることは分かっていた。
問題はそれがまた起こるのか、もっと続くのかということだった。それともそれが危機で、彼はついに比較的に正気に戻ったのだろうか? 彼は自分の悩みを話し出し、私はできる限り彼をなだめた後、彼は4時間眠った。私は全く眠れなかった。まず第一に疲れていて神経質になっていた。そのためこのようなことが起こるのだ。寝ている間に私が動くと彼が起きてしまうのではないかと寝るのが怖かった。寝なければならない。しかし彼の睡眠は確かに健全でも安らかでもなかった。彼の体は神経質でピクピクと動き回り、ため息をつき、うめき声をあげ、絶えず動いているという感じだった。
翌日彼は夕食の時間までかなり元気そうだった。それから私たちはボストンに行き、神経の専門家であるガリック博士に診てもらうことになった。ということでボストンに行った。

私たちは、去年の冬によく通った小さな森の小道を通って、イースト・ブレーンツリー駅まで歩いていった。途中で突然、ユアンの前に静寂が訪れた。
駅に着くと、彼は落ち着きなくホームを歩いた。駅に着くまで、彼はずっと昔の黒い夢想の中にいた。私は無駄な説得をした。彼の病気はその性質上彼は努力することができなかった――意志が麻痺していた。
南駅の騒音と人ごみが彼を悪化させた。地下鉄の轟音が彼を苦しめた。やっとの思いでコモンウェルス・アベニューに着いた時、ユアンは、「ああ、もうだめだ。ユアンはこれまで見たこともないほどひどい状態だった。私は不安と恐怖で気が遠くなりそうだった。私は何と戦っているのだろう? 自分の敵がわかっていれば!
時間にして30分もあったので病院の通路の座席に座った。ユアンは頭を胸に抱えた。彼は深い憂鬱の中にいた。私が何を言っても、何をしても少しも彼を奮い立たせることはできなかった。私は苦言を呈した。彼が本当に怒るようになれば、彼のためになると思ったからだ。しかし何の効果もなかった。
病気の間中彼はどんな挑発に乗っても、少しも怒ったり悩んだりすることはなかった。これは異常なことだった。ユアンは基本的にお人好しなのだが、でも時には怒ることもある。
ここへ乗ってきた電車の中では私たちの両側には、おしゃれな服を着た人たちが乗った高級車が延々と走っていた。その行列のすべてが幸せでのんきなものであったはずはない。その中には私と同じように不安や悩みを抱えている人も多いはずだ。でも、みんな幸せそうで豊かそうで、私は自分だけが不幸な世界にいるような気がした。不幸な世界で、絶望的で、無情になったような気がした。人生に向き合えなかったのだ。
私からそう遠くない席に一人の男が座っていた。彼もまた落ち込んでいるようだった。みすぼらしい服装で、不機嫌そうに前かがみになって座り、決して顔を上げない。その姿は憂鬱そのものだった。仕事もなくすっかり意気消沈している哀れな廃人だったのだろう。とにかく私たち3人は、見た目も中身もその男に似ていると感じた。
不思議なもので、私がひどく動揺し、心配し、神経質になっているとき、私はいつも汚く、不愉快に感じるのだ。ナーバスになっているとき、私はいつも汚く、だらしなく感じる。実際は私はそうではなく、きちんと丁寧に、そして静かに服を着ていたのだが、まるで最も無味乾燥で縮こまったような気がして通りすがりの人たちの視線から遠ざかっていた。
ついに診察の約束の時間が来て、私たちは中に入った。私はギャリック博士が好きだった。強くて、優しくて、有能な男だという印象を受けた。ユアンを診察した後、彼は私を連れて行き少し話をした。私はユアンが "許されざる罪" を犯してしまったと言っていることなど、まだ話していないことを知っていた。("許されざる罪" とはユアンがそう思っているだけか、あるいはまだ語られてないことがあるのか)
だから、私はこの事件の全容を話した。彼は率直に言ってユアンにつきまとっている将来の運命についての考えは、精神異常の特徴の一つであると。彼はユアンの病気が単なるメランコリア(悲観症)であると考えた。
「しかし、「躁鬱病の可能性もある」と言った。ユアンの「恐怖症」については、反論してはいけないと言われた。「ユアンと議論しないように」、そしてユアンから目を離さないようにと。その言葉に、私の心は鉛のように沈んだ。そして彼はこう言った。この病気には物理的な原因があり、それは腎臓の状態にあるかもしれない。

腎臓が正常に機能していないことが原因であることが分析から明らかになった(腎臓の不調が神経に作用して苦しめているのかもしれない)。半分以上の毒が体内に留まっていたのだ。これが原因であれ結果であれ、ユアンはできる限り水を飲まなければならない。そして私に眠りを誘うクロラール錠剤をくれた。
そして私たちは帰った。私はとても惨めな気持ちになった。ユアンは、ギャリック博士が何と言ったのか私に尋ねようともしませんでした。
彼は家に帰るまでずっと、ひどい精神的苦痛を感じていたのだ。まるで悪夢のようだった。でもやっとフローラの家に着いた。ユアンはずっと惨めな気持ちのままだった。
その晩も私は泣き崩れ、フローラもびっくりするほど絶望的になった。私は立ち上がり、もう一度戦おうと決心して、ユアン(ロシア語で言えばイワン)に酒とクロナールを飲ませ自分も寝た。
翌日から、日記のためのメモを書き始めた。
書き出すことで気持ちを落ち着かせるためである。これらのエントリ(記述)を以下にコピーする。この日記は、「静かで安らかな夏」を望んでいた私の夏を、それなりに正確に映し出している。

(以下はモンゴメリの覚え書きノートからの転載)

†1919年6月27日(金曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
ドブソン通り30番地
昨夜、私はベロナール錠を飲んだ。私はこの15年間ベロナールを手元に置いている。ジェンキンス博士が一度処方してくれた。私は薬物中毒になる危険性を十分に理解しているので、よほどの緊急事態を除いては、自分自身にそれを許したことはない。
というのも、最近睡眠不足で疲れ切っていたからだ。だから私は錠剤を飲んで、「書斎」のラウンジで寝た。ラウンジの低い長い窓のそばで。ユアンと一緒の部屋に入ろうと思っても無駄だった。自分が眠れなくなるし、彼の邪魔になる可能性が高いからだ。
今朝は早く目が覚めたが、少なくとも至福の忘却の一夜を過ごすことができた。ユアンは昨夜は1錠目のクロラールで3時間、2錠目でさらに3時間眠った。朝は10時までずっと調子が悪そうだった。それ以後は彼は良くなったようだ。
一度、彼は私を 'プッシー' と呼んだ。(嫌らしい言葉らしい)このニックネームは、彼が問題を起こし始めたときから一度も使ったことがないものだ。また今日の午後は、3時間ぶっ続けで本を読んでいた。
これも新しい良い兆候だ。私は彼に容赦なく水を飲ませ、1時間ごとにゴクゴクと飲み込ませている。ユアン自身は何も飲もうとしない。彼の言い分は、彼の悩みは『神から見捨てられたこと』であり、薬物では解決できない。だから私は彼に薬などを飲ませなければならない。私は彼のところにグラスを運び、彼がそれを飲むまで見守る。それも軽い試練ではない。
悲惨なものだ。フローラの家には氷がなく水はぬるい。しかも濾過されているため、薄くて味気ない。私はそれが嫌で前に住んでいたリースクデールのポンプで汲んだ冷たい水を飲みたいのだ。


†の付いている記述はLMMの覚え書きノートからの引用です。

† 1919年6月28日(土曜日)
ドブソン通り30番地
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
今日は涼しく、私たちがうだるような暑さの中にいる「熱波」とは全く違う美しい変化だった。昨夜もベロナールを服用しなければならなかった。しかし私はユアンのことを心強く感じている。
でもユアンは元気だ。昨夜は5時間も薬を飲まずに眠っていた。午後はずっと本を読んでいた。冗談を言ったり...新聞を読んだり...
私が受け取った手紙を取り寄せて読んだ。チェスターのことを話したり、彼に手紙を書いたりした。些細なことだが、この一ヶ月間、そういうことが全くなかったことに比べれば、とてつもなく大きな意味がある。
今日の夕方、私はどこかへ買い出しに行く必要があった。急いでまとめた荷物の中身を補うために、必需品を買いに行く必要があった。そこでクインシーに向かった。ユアンが元気になってきたにもかかわらず私は彼と別れるのが嫌だった。離れている間中、私は心配でたまらなかったしとても神経質になっていた。
車の中で静かに座っていることもできず、リード夫妻と落ち着いて話をすることもできなかった。クインシーに着くと私たちは離れ離れになり、私は一人で買い物をしたそれから教会の緑地を囲む低い石垣の上に腰を下ろし、買ってきた雑誌を読み始めた。その時警官がやってきて、あまり丁寧とは言えない態度で私に立ち去るように命じた。
教会の人たちは人が立ち入るのを禁止しているんだ。塀の上に人が座ってはいけないと言われたのだ。座ったからと言って壁が傷ついたとは思わない。
立ち上がっても花崗岩がへこんだりすることはなかった。もちろん、立ち上がりはした。警察官と論争することはない。しかしこの些細な出来事が、私に大げさな影響を与えた。他の時だったら、怒るか、面白がるか、どちらかだっただろう。愉快に思えただろう。
しかしこの些細な出来事も、疲れきっていた私には大げさに響いた。私は歩きながら、涙を流した。その涙を止めることはできなかった。私は土曜の夜、見知らぬ人たちに囲まれた。私はひどく疲れていて、立っていられないほど疲れていたのに、あの惨めな壁から追い出されたのは本当につらかった。会衆派教会を永遠に憎むことになる。
私は30分ほど上下に疲れて歩いたが、それは半年のことのように思えた。リード夫妻が来るまで家に帰るとユアンが街角に立って男たちと話をしていた。
ブレーントゥリーに来て以来、長い間していなかったことだ。彼は笑顔で私に会いに来てくれた。私は、帰ってきて彼がまた憂鬱な気分に浸っているのを見るのが怖かったのだ。耐えられないと思った。しかしそれはとても祝福されたものだった。
後日フローラから聞いたのだが、私が留守の間彼はとても明るく、昔の友人たちのことを話していて、とても自分らしく見えたそうだ。
ああ、これが続けばいいのに! 私は今久しぶりに気分が良くなって、一週間ぶりにお腹が空いた。

† 1919年6月29日(日曜日)
ドブソン・ロード30番地
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
...ドブソン夫妻が夕方尋ねてきた。彼らの娘であるマーストン夫人は、私が今まで聞いた中で最もひどい声の持ち主だ。高音で甲高い声だった。神経が緊張している状態で、実際に肉体的な苦痛を与えられてしまった。ようやく彼女が出て行くのを見たとき、私の安堵は大きかった。
ユアンは今日、私にエイモスのことを批判してくれました。たしかに彼はとても非難されるようなことをしているように見えた。それで彼は彼を批判したのです。エイモスにはその資格がある(批判されるだけの資格があるという皮肉か)。彼は耐え難いほど退屈な男だ。私が元気で楽な時は。
でも今、彼は生々しく耳障りなのだ。彼はいつも議論のための議論を始めようとする人たちの一人で、いつまでも議論のための議論を続けている。古代の異端を持ち出し、その異端を証明しようとする。
その異端というものは、彼が長老派と考えるような正統派の人々にとって、非常に衝撃的なものであるに違いないと明らかに考えているのだ。
長老派の牧師とその妻がそうであるべきだと考えているのは明らかだ。もし哀れなエイモス、彼の疑問がどれほど時代遅れのものであるかを知っていたら......。カインの妻や天地創造の問題などだ。冬には彼の機嫌をとるためにまるで彼の質問がすべて新しく、驚くべきものであるかのように厳粛に議論したものだ。
しかし今はそんな忍耐はなく、叫びたくなるし、頭に何か投げたくなる。今日の午後彼は「赦されざる罪」について話し始めた。ユアンの聴聞会では一番触れてほしくないテーマだ。なぜかというとユアンがまた自分の罪を思い出してしまうからだ。私は余計なことを言うなとエイモスの首を絞めた
それ以来、彼は何が起こったのか、なぜそうなったのかがわからず、呆然としたままだ。

† 「1919年6月30日(月曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
...今日、(メイドの)リリーから手紙が来た。非常に綴りが悪く、文法的でない手紙だが、私が最も熱望したものだ。
というのも、そこには私の愛する息子たちのこと、彼らが元気であることなどが書かれていたからである。このように離れてしまうのはとても恐ろしいことだ。こんなふうに離ればなれになるなんて......」。(モンゴメリは夫の病気治療のためにボストンの知り合いの家に来ていた)

† 1919年7月L日(火曜日)
マサチューセッツ州ブレインツリー
昨夜はユアンと一緒に寝ました。私が書斎で寝ていると、4時にエイモスが起きてうろつくので、いつも目が覚めてしまい、また眠れなくなるのだ。彼は6時に出発しなければならないのだが、用意がとても遅いので、着替えや食事に2時間もかかってしまうようだ。(フローラの夫か?)
フローラもまた、持病のために夜中に徘徊することがある。だから私はユアンと一緒に、ゆっくり休もうと思ったのですが、しかし、私はフライパンから火に飛び込んでしまったのです。ユアンは眠ッタ。
でも私は全然眠れなかった。ユアンを起こすのが怖くて身動きが取れず、しびれを切らした。睡眠は不可能だった。列車が発着する音が何百万と聞こえてきた。呻き声や喘ぎ声や悲鳴、自動車の煽り声やクラクションなど、何百万もの音が聞こえてくる。
どの音も、ユアンが起きてしまうのではという不安から、私の神経を逆なでしていた。音に神経をすり減らす。はっきり言って私には書斎しかないのだ。
今日はひどく暑かった。ステラから帰国の途につく途中の手紙が来た。モントリオールでカム(キャメロン大尉)に会ったそうで、カムがフレデのことを指して、「Well, we had ripping good time while you.」(さて、私たち(フレデとカム)はあなたが(モンゴメリが)いる間、とても楽しい時間を過ごしました)と言ったそうだ。そしてまた、「しばらくは余計な荷物、つまり二番目の妻を持つつもりはない」とも言った。――しばらくは――カムって普通なのかなと思うことがある。まともな人間とは思えない
今日の午後、私はボストンに行ったがものすごい暑さだった。ギャリック博士と話した。彼はユアンの異常な考えがすぐに消えたと聞いて喜んでいた。単なるメランコリア(うつ病)だと言っていた。
ユアンは最悪の事態を脱したのだろう。私は前回の訪問に比べ、見事に心が軽くなった。夫が躁鬱病だ(物理的な神経に問題がある)と言われるのを恐れていたのに、宗教的なメランコリア(悪い思い込み)だと言われるのはいい知らせだ。躁鬱病の狂気と聞くのを恐れていたのだから。この世界ではすべてが対比で測られるのだ。
ひどい暑さと蒸し暑さにもかかわらず、私は1時間の買い物をほとんど楽しんだ。もちろん家に帰ったらまたユアンが悪くなっているのではないかという不安はあったが。でも彼は大丈夫だった。
今夜はほとんど疲労に近い安らぎを感じている。5月28日以来、初めて気が抜けた感じだ。ユアンが激しく狂うことを恐れる理由はもうない。まるで地獄から引き上げられたような気分だ。今夜はポーチのソファに横たわり、心も体も完全にリラックスして、ぐったりと不活性になり、完全に休息した。この素晴らしい解放感は言葉では言い表せない。"耐えがたい拷問と恐怖からのすばらしい解放だ"

† 木曜日、1919年7月3日
E. マサチューセッツ州ブラインツリー
昨夜は暑さと喉の痛みと不審者のせいで惨めに眠った。ユアンはよく眠れたが、悪夢を訴えた。今日の暑さは私が経験したことのないようなものだった。温度計は101度(摂氏38.3度)で、湿度も高く蒸し暑い。フローラも一日中調子が悪く、とても神経質で泣き虫だった。(ボストンのフローラの家に滞在中である)
泣きわめくこともあった。彼女は本当に慢性神経衰弱なのだ。二人の間に私は自分がバラバラになるような気がしていた。私たちは "3人の不気味な人たち" である

† 1919年7月7日(月曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
金曜日は息もつけないような暑さの日で、私たちは座ってうだるような思いをしていた。土曜日はもっとひどかった。
正午にViles氏が、週末のために私たちをNewtonまで車で送ってくれた。美しいドライブで、暑さにもかかわらず不快感はなかった。暑さに耐えることができた。
ヴァイルズ家は築200年のとても古い家だ。埃っぽくてカビ臭くて、「古い」匂いがする。そこのクリスティは片付けられない家政婦だ。しかし彼女は少なくともモンゴメリー料理は作れるし、彼女の料理には何の問題もない。
私たちは2階の古い大部屋で寝た。暑さと蒸し暑さにもかかわらず、私はまともな睡眠をとることを望んでいた。その前の晩はよく眠れなかったからだ。しかしそうもいかなかった。この家は、ニュートンで最も交通量の多いコーナー(交差点の角)のひとつに建っていた。2時ごろまで、絶え間なく車が走っていた。
その角は危険なため、どの車もクラクションを鳴らし、悲鳴をあげ、ヨーデルを歌った。私は、パンデモニウム(悪魔が潜む殿堂の意味)の中で眠ろうとしたようなものだ。不思議なのはユアンが寝ていて、その騒々しさに目を覚まさないことだ。

ため息をつき、うめき声をあげ、左右に回転し続けたが。寝不足で疲れきっていた私は睡眠不足で疲れきっていた私は厄介な神経症に悩まされるようになった。灼熱の不安というやつで、不安は神経で、灼熱の感覚は物理的なものである。特に足が。これほど不快な夜を過ごしたことはない。
しかし夜明けに雷雨があり空気が冷え、昨日はずっと快適だった。しかし私は一日中、神経の不安を抑えながら悲惨な状態でした。 Braintreeに戻ったときは嬉しかった。ステラからの手紙を見て腹が立ってきた。ステラからの手紙には、「お母さんは、フレデのペリドットのネックレスは自分かクララが持つべきだと思っている」と書かれていた。ペリドットのネックレスをあなたへの感謝よ! 私があの家族のためにしてきたこと、ステラの旅費を払った後何百ドルも渡したのに...
私は胸が悪くなった。家に帰ったらすぐにそのネックレスを梱包して、アニーおばさんに送ろう。もし私が持っていても彼らは何もできない(彼らは何も文句を言えない)。フレデの私へのあの手紙は、自分で書いて署名したものだから。ケベック州では合法的な遺言として検認されているものだ。その中で彼女は私に全財産を「第一選択権」として残してくれた。しかし私はほとんど持っていかなかった。
彼女は私に140ドルの借金があり、私はその請求書の支払い(フレデがあちこちで使ったものの請求書)のために彼女に140ドル貸した。彼女は母親に、自分の生命保険からこれを支払うように指示した。でも私は叔母にフレデの保険金は全部アニーにあげると言った。そしてこのような事を言うのかという感じだ。もちろんステラが仕組んだことだ。ステラの貪欲さと利己主義は異常だ。しかし私は気分が悪くなった。私は泣き崩れた。その後だいぶ良くなった。涙を流すとなんと安心することだろう。
今日は涼しくて気持ちのいい日だった。今日はチェスターボーイの誕生日だ。今日で7歳だ。私たちが離れて暮らすようになって初めての誕生日だ。今日リリー(メイド)から手紙が届いた。二人の男の子は元気だ。でもときどきあの子たちのことを考えるとゾッとする。7歳と3歳の小さな子供たちが私からは1,000マイルも離れていて、召使の娘と親切な隣人以外は全く孤独なのだ。私が行く前に(我が家に戻る前に)病気になり死んでしまうかもしれない。 私が行く前に病気になり死んでしまうかもしれない、車に轢かれて死んでしまうかもしれない、でもそんなことを考えたりするのはよくない。私は断固としてその考えを捨てた。
でも疲れているときやナーバスになっているときには忍び込んでくるのだ。電話のベルを聞くとその時のことを思い出して怖くなる。去年の冬にフレデの病気の電報を受け取ったときのような恐ろしい気持ちになる。 もしそれが私を訪ねてきた人であったなら、私は気分が悪くなってしまうだろう。 リースクデールからの悪い知らせでないかと気分が悪くなる。ユアンは相変わらず頭がかなり痛いようでそれが心配だ。でも幸いなことに "彼の妄想は戻っていない"

† 1919年7月10日(木曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブラインツリー
このところ涼しくて過ごしやすい日が続いている。ユアンは良く眠れるし私よりもよく眠っている。昨夜はほとんど眠れず満月に大きな暗雲が立ち込める中、横になって見ていた。その効果はとても素晴らしいものだった。私はそれを見ながら多くのことを考えた。
過去の出来事、過ぎ去った友人たち、埋もれた希望や恐れ、愛や憎しみ。結局のところ私にとって人生というものは、おおむね厳しいものであった。幸せと苦しみを比べると苦しみの方がはるかに多いのだ。しかし私はいつも人生を面白く思ってきたし、そして一時的な拷問を除いては、生きるのをやめたいと思ったことは一度もない。次の曲がり角を曲がったところに何かが隠れていて、スパイスになるような誘惑が常にある。それは単なるトリックかもしれない――これまではいつもトリックのように思えたがしかし、それは役に立つ。
フローラと私は今日の午後ボストンに行って、大々的に宣伝されている映画「バビロンの崩壊」を見てきた。
学芸員の陳腐な卵のように、それは部分的には非常に良かった。バビロンの攻防は素晴らしかったしかし、ヒロインはいわゆる洗練されたコーラス・ガールにすぎず、一瞬たりとも幻想はなかった。一瞬たりともコーラスガールの踊り以外の映画ののようには見えなかった
私たちはとても疲れて帰宅したが、ユアンは読書をしていて、とても元気だった。でもハンカチを頭に巻いていた。私はいつもその旗を見るのが嫌なのだ。

† 1919年7月17日(木曜日)
マサチューセッツ州ブレーンツリー
猫の魔の手から少し逃れたところで再び襲われた哀れな子ネズミの気持ちがよくわかる。ユアンも私も寝不足だった。彼はとても早く起き服を着て出てきた。散歩に出かけると言い出したのだ。私はユアンが「もう行かない」と言うまで彼に懇願した。ギャリック博士が言ったことを考えると、彼を一人で外出させるわけにはいかなかったのだ。
午前中はずっと、昼からはずっと元気がなく、私は心配で胸が張り裂けそうだった。夕食後私たちは、ボストンに行って眼科医に診てもらわなければならない。ということになった。これまた大変な旅だった。ユアンは、「今までにないほど調子が悪い」と言い出した。車の故障のため、私たちは駅前からコモンウェルス通りまで歩かねばならず、通りの喧騒と人の往来にユアンはすっかり動揺してしまったようだ。
ユアンはすっかりご機嫌斜めになってしまったようだ。一時はこのまま倒れてしまうのではと思ったほどだ。どうしたらいいのかわからなかった。私は彼をドラッグストアに連れて行きアンモニアを買ってやったが、しかしそれは何の役にも立たなかった。彼の「弱さ」は本物ではなく、単なる妄想に過ぎないのだから薬でどうにかなるものでもない。
結局、彼は私の懇願に屈して、もう1度努力することを承諾した。彼は自分の運命について恐ろしい考えが戻ってきたことを認めた。これは私にとっては最悪の事態だった。何かが私を麻痺させるのだ。それは病的で理性的な世界とは かけ離れたものだ。私はその前に無力さを感じる。まるで顔の見えない敵に脅かされているようなそんな無力感を覚える。暗闇の中で忍び寄る 形のない敵に脅かされているようだ。恐ろしい眼科医の診察は終わった。
どうにかユアンを駅まで連れて行き列車に乗せた。ブレーンツリーまで行き、歩いて家に帰った。私はこの日までここまで頑張ったのに、でももう限界だった。ユアンの部屋へ行きベッドに身を投げ出して絶望的に泣いた 私の苦しみは無関心だったユアンにも突き刺さったようだった。彼は少し立ち直り、自分の病気の陰鬱な暗示と戦うこと誓ったのです。しかし私は完全に希望を捨てました。来週の月曜日私たちは帰国の途につくはずだった。私はそれをどんなに心待ちにしていたことだろう。もう行く気にもなれない "ああ、かわいそうに "かわいそうに" (モンゴメリにも神経症があるようだ)

† 「1919年7月18日(金曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
昨夜、ユアンに12時前に2回クロラールを与えたが何の効果もなかった。それからベロナールを与えたら彼は眠った。私もベロナールを飲んだけどほとんど効果がなかった。私はうとうとと眠っただけである。
今朝は起き上がれないような気がした。しかし私は起きることにした。日が経つにつれて 少しずつ落ち着いてきた。ユアンはまた元気になったようだ。彼は静かですが不機嫌ではない。この発作は、これまでほど長くは続かないかもしれない。 でもそうだといいのだが......。
私たちは午後の大半を、丘の上の森の樫の木の下に座っておしゃべりしていた。ユアンはめったに自分から話をしようとしない。私はいつも、彼がそうしようとするのを励ます。でも彼が悩んでいることを聞くととても恐ろしくなる。それらはとても不合理で不条理だ。
今日家から手紙が来た。チェスターが嘔吐したそうだが快方に向かった "心配でたまらない" ドブソンさんの運転でクインシーに行った。ユアンのためにクロラールを手に入れるためだ。もう使わなくて済むようにと と願っていた。

† 1919年7月22日(火曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
雨で蒸し暑い。ユアンが眼科医に再診するため、私とユアンはボストンに行った。私は前回と同じような経験をしないかと、半ば恐ろしくなっていた。不安でたまらなかったし負担も大きかった。しかし彼はそうせず、少なくとも家を出たときと同じ状態を保っていた。しかし私は、彼が「へたりこんで」しまうのではないかと刻々と思い、2回目の鞭打ち(ショックを受けること)を期待して、犬のようにガクガクブルブルしながら行った。
私たちはまず神経障害に関するいくつかの本の著者であるコリアット博士に会いに行った。コリアット医師は神経症の本を何冊も出している人である。彼の人柄は私にはなじまなかった。好きにはなれない。しかしユアンは秋までにはかなり良くなるだろうと言った。これには少し勇気をもらいました。その後ギャリック博士に会いに行った。
私は精神的にかなり楽になった。しかし肉体的には、帰路もほとんど同じだった。しかし、物理的には帰りはほとんど次のような言葉が似合う。それは「ラッシュアワー」だ。
地下鉄も駅も、汗だくの人たちでただただぎゅうぎゅう詰めになっていた。このままでは暑さと臭いで窒息しそうだった。ユアンへの影響も心配だった。でもユアンは私の半分も気にしていないようであった。私はほとんど疲れ切っていて、どこか寂しい荒れ地に逃げ込むことだけが私のためになるような気がしている。
どこか寂しい荒れ地で、30分間、声の限りを尽くして叫ぶことだ。

† 1919年7月23日(水曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
...ユアンの眼鏡が郵便で届いたが壊れていた。そのため私はボストンに行ってレンズを交換してもらわなければならない。ところで眼科医はユアンは両目とも乱視がひどく、ユアンは生まれてからずっと半分しか見えていないと言った。

† 1919年7月26日(土曜日)
E.B. マサチューセッツ州ドブソン通り、30番地
昨夜書斎の窓際のソファに横になった後、私はフリードのことを思い出して泣いた。彼女を失った痛みは、後の痛みがおさまるにつれて私の中に蘇ってきた。私は12時から3時までしか眠れなかった。
ユアンは元気そうだ。ボストンに行ってきた。メアリー・ピックフォードの「Daddy Long-Legs」(足長おじさん)を観た。とてもいい映画でユアンは大笑いしていた。あんなに笑ったのは5月以来だ。これはいい兆候だ。彼は本当に回復しているのだと思う。しかし彼はまだ正常にはほど遠いのだ。

† 1919年8月3日(日曜日)
......これがここでの最後の夜になるかもしれない。帰りの旅がひどく恐い。でもユアンは家に帰りたがっている。家に帰れば元気になると思う
そうでしょうね。仕事に戻りたがっているようだ。でももっと多くのことに 目を向けられるわ。そして、「家に帰れるのは本当にありがたい」。

(以下は日記帳記述の続き)

*8月4日(月)の夜、私たちはBraintreeを出発した。ユアンは朝から元気がなかったが午後には良くなり、私たちが出発するときにはかなり元気そうだった。
フローラは、私たちと一緒に北駅に行った。私は彼女との別れを本当に残念に思った。フローラは、愚かで教養がなく、面白みのない女性だが、金の心(カネではなく、黄金のように富んだ心)を持っている。この夏、彼女は私たちに親切そのものだった。
私たちの列車は7時15分に出発した。私は個室を取っていたので私たち専用だった。
少しのお金で生活が楽になることがある。この夏、もしユアンの給料だけが頼りだったらどうなっていただろう? もし私に経済的な心配があったら......もう、だめですね。藁にもすがる思いだっただろうね...。

1919年8月12日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
私は物事を整理するのに非常に忙しかった。多くの人がユアンを訪ねてくる。 私はうんざりしている。ユアンの状態はどうかと聞かれて何度も何度も「腎臓中毒」などという同じような説明をするのにはうんざりしている。ユアンは精神的にとても元気そうだ。でも昨夜は1時に目が覚めて、冷たい汗をかいていた。
この夏2、3度あったような汗をかいた。いやだなあと言っている。

1919年8月14日(木曜日)
私は寝るために予備室に頼らざるを得なくなった。自分の部屋にいるとユアンを起こすのが怖くて眠れないのだ。昨夜はぐっすり眠れた。ユアンもだ。
ユアンは2日前までクロラールを飲んでいた。あの茶色い瓶と白い錠剤が目に入った。ユアンは
2日前から調子が悪くて彼はまた冴えない。私はというと、新しい本の執筆に取りかかった。この本が始まりよりも、終わりを迎えることができることを願っている。でもそろそろ仕事を始めないとね。何もしていないのだから。


*LMMは1919年9月1日からまた日記帳に日記の続きを書いている。
†の部分はLMMがいつも持ち歩いていた覚え書きノートからの転載。

(モンゴメリの日記には生活の苦労は書かれていますが、創作に臨む姿勢とかキャラを作り出すヒントまでは書かれていません。赤毛のアンの時には自分の暮らしたキャベンディッシュでの経験からだいぶ取っているということですが、あるいはそれは覚え書きノートの方に書かれているのででしょうか)

† 1919年8月16日(土曜日)
リースクデールの牧師館
今日もユアンはハンカチを頭に巻いていた。私は胸が張り裂けそうだった。でも今晩はだいぶ良くなった。この調子で行ったり来たり。私はまだ猫の爪の中にいるネズミである。

† (日曜日)8月24日、1919年
ユアンは今週ずっとかなり元気そうだった。薬も飲まずに眠っているしとても元気だ。リリーが1週間の休暇を取ったので私はとても忙しくしている。McLeans Magazine(マクレーンマガジン)の副編集長であるMiss Chapmanが水曜日に私と私の「キャリア」についての記事のための材料を得るためにここに滞在した。そして私はユアンを目の端で見ていた。彼はどう感じているのだろう。それが今の私の存在だ。
「虹の谷」が発売された。表紙のデザインがとてもきれいだ。私の9作目の小説。でも全然おもしろくないのだ(ドラマチックではないというのか)。フレデは読まないだろうなぁ、彼女も知っているであろう物語が一つある。それはメアリー・ヴァンズの話だ。リラ・ブライスをタラで追いかけた話だ。 チェスターとエイミー・キャンベルが元ネタで、フレデはその話でマクドナルドの仲間たちと笑い合ったものだ。
この物語に登場する唯一の「現実」(からとった話)は、子供たちが堤防で見た幽霊の話だ。もちろんそれはウェルとデイブと私が見た古い幽霊のことだ。ネルソンと私が見た幽霊はテーブルクロスを掛けたおばあさんだったのだ。今日の午後、私は一人で、ひどく寂しかった。フリーデへの憧れを抱いた。彼女なしには生きていけないと思った。 "努力しても無駄だと思った"

† 1919年8月27日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
ユアンは今日展示会のためにトロントへ車で行った。彼が1人だと心配だ。気が休まらない。でも今回は一緒に行けなかった。
今日、私は偶然、私の本のレビューが載っている古いスクラップブックを手に取り、適当に開いた。1910年に書かれた切抜きが目にとまった。ある編集者が私に手紙を書いてきて、「カナダ文学」についての私の見解について質問してきた。
その返事の中に、次のような一節があったのを発見した。

(以下編集者の質問に対するモンゴメリの意見)

私たちの文学は、私たちの国民生活の全体的な表現であるとは思わない。というのは私たちはごく最近になって、それは国家が形成されていく過程で、ごく最近になって本当の意味での国民生活を手に入れたからだと思います。カナダは(国家としての)意識を見つけたばかりで、さまざまな要素を融合して調和のとれた全体像になったわけではありません。おそらく嵐とストレスという大きな危機(戦争とか内戦とか)によって融合されるまでは、融合されることはないだろう。(移民が入ってきて暮らしてからまだ日の浅い時だった)
そうなるかもしれない。そのときこそ真の国民文学が誕生するのである。私はカナダの偉大な小説や詩が書かれるのは、私たちが些細な表面的なものを一掃するためにある種の火の洗礼を受け、人間の原初的な情熱がむき出しになるまで、カナダの偉大な小説や詩が書かれることはないでしょう。'

(以上モンゴメリの意見)

この文章を書いたとき、私は第一次世界大戦を予感していなかった。しかし、もし知っていたなら、これほどうまく表現できるものはないだろう。多くの予言者の評判はそれほどのものではなかった。私の予言の残りが当たるかどうかは、まだわからない。
私はそうなると信じているが、しかし、それが実現するまでには、20〜40年かかるかもしれない。カナダの偉大な文学は、この紛争を戦い抜いた世代からではなく、この紛争から生まれた世代から生まれるだろう。と思っている。

† 1919年8月31日、日曜日
オンタリオ州リースクデール牧師館
ユアンは先週の木曜日の夜に帰ってきた。彼は疲れているようで、留守中に頭を悩ませていたことを認めた。金曜日になると、帰ってきて以来最も冴えない状態になった。昨夜もまた彼はとても冴えなかった。
ひどく青ざめていた。時々かすかな希望とうんざりするような絶望が交互にやってくるので、もう耐えられないと思うことがある。ユアンがすぐに回復しないなら彼は辞職しなければならない(牧師が恐怖に憑りつかれていてはやっていられない)。ユアンが療養所で治療を受けている間、私は子供たちのために家を用意しなければなりません。それ以外には考えられない。
解決策はない。とても気が滅入る。帰宅したときやその後1週間はとても元気そうに見えたのに。

*そう、これが私の夏だったのである。まあ子供のために我慢して生きてきた。

後日談である。
上記を書いた後図書室に行くと、肘掛け椅子に座り、目の前で憂鬱そうに眺めているユアンを見つけた。私は彼に、永遠の呪いに取り憑かれていることを告白させた。
私は2階の自分の部屋に行き、ドアを閉め惨めに泣いた。これが私の耐えられないことなのだ。私は頭痛や不眠症と闘うことはできても、このようなことはあまりにも自然なことなので恐怖と反感でいっぱいになり直視できないのだ。どうしようもないのだ。
まるでユアンが悪魔のような生き物に取り憑かれたかのようで、蛇から逃げ出すように彼から逃げ出すのだ。恐ろしいことだが、これが真実なのだ。

1919年9月2日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
ユアンは昨夜、薬を飲まずに眠った。私は予備の部屋に行ったのでよく眠れた。気分が良くなった。ユアンは今日、サットンを訪ねに出かけた。私は彼を見送るのが怖かった。でもほっとしました。私は彼が座っているのを見ると何の役にも立たないのです。


*1919年9月1日からの日記の続きです。

憂鬱と妄想の餌食になりながらのたうち回る。彼(旦那でしょう)に会わないときはどんなに心が重くても少なくとも仕事はできる。去年の冬、私は過去の自分の日記をすべて同じ大きさの一冊の本に書き写し始めた(これが現存するリーガル版日記)。
1890年の秋に始まった私の日記は、同じような様々な「白紙の本」に書かれてきた。私はそれを、前述のように複写することを決意した。これは大変な作業で長い時間がかかるだろう。一日に十五分しか時間がとれない。しかし出来上がれば満足することだろう。私はそれを正確にコピーするように注意しなければならないが、私はそれを「図解」するつもりだ。この本に登場する場面や人物の写真を使って説明するつもりだ。
子供時代や少女時代にこんな写真があったらよかったのにと思う。コダック(カメラ)を持ちたかった。しかし、もちろん当時はそんなものはなかった。古い日記を書き写していると、その時私は過去に戻り、自分が書いた出来事や感情を再び生きているような気がする。それはとても楽しく、少し悲しい。
今日私は、可愛そうなハーコート教授の授業で行った「ピーナッツ・パーティー」の記録を書き写していた。その時は良いフィーリングだと思った。しかしもし私が「思い出すのが恥ずかしいこと」というエッセイを書くとしたら、そのピーナッツ・パーティーがそのひとつになるだろう。ハーコートは無能で彼の授業は茶番だった。 私たちが授業に参加した時間はまったく無駄なものだった。私たちはしかし、このような姿勢でいること(教室でピーナッツの投げ合いをして授業の邪魔をしたこと)は正当化されない。
私は陰謀のリーダー的存在ではなく単に従っただけだ。しかし私はそれを楽しんだので私は非難される。私は小さな獣だった――私たちは皆小さな獣だったのだ。数年前インドで宣教師をしているハーコート教授の兄弟がここに訪ねてきたことがある。彼はとても立派な好青年で、はっきりした魅力的な性格の持ち主だった。ハーコート教授がいつも卑屈な印象を与えていたのとは対照的な、しっかりした魅力的な人柄だった。ハーコート教授がいつも卑劣な、それも弱い卑劣な人間だという印象を私に与えていたのとは大違いだ。しかしもし彼があのピーナッツ・パーティーをされるほど10倍卑劣な人間だったとしても、恥ずべきことであることに変わりはないのである。

1919年9月3日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール
一日中一生懸命働いて、夜はギルドに行って自分が書いた論文を読み上げた。そこには数人しか参加しておらず、私はこの論文に費やした時間と労力を無駄にしたと感じた。
今日、15分ほど古い雑誌を読んでいたら、「サム・ワイアンドの畑」という記述を見つけた。瞬時に空想が膨らみ、私は再び今は亡きあの風景が目に浮かぶ。
"サム・ワイアンズ・フィールド" は、今まで見た中で最も美しい場所の一つでありながら、最もロマンティックではない名前である。幼い頃、後に『恋人たちの木』に愛を捧げた場所である。サム・ワイアンドの野原は、私にとって長年この日も、失われた喜びの国のように記憶の中で輝いている......。
この文章を書きながら思い出を思い浮かべることで、私はひどくホームシックになってしまった。思い出が呼び起こされるのだ。あまりにリアルで、あの場所に行ってみたいという思いでいっぱいになった。
あの場所にもう一度行ってあの独特の風味を味わいたい。野生の果実の独特の風味を味わい、陽光に温められた草の中に横たわり、コマドリの口笛が聞こえるように。夏の朝、緑と香りに包まれた路地をつま先で歩きながら遥かな歳月が流れた。のどかな思い出から、現在の苦い現実を見るにつけ、私はその対比に胸が痛むのだ。

1919年9月4日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
楽しい一日だった。
やかん一杯のプラムを保存した。私はこの種の仕事が好きなのだ。こじんまりとした仕事でとても時間がかかるんだ。「政府はなぜ1日を36時間に延長してくれないんだ!」。
今夜、古い日記を書き写していたらノーマン・キャンベルのことが書いてあった。かわいそうなノーマン。彼の人生は悲劇に終わった。
P.W.C.で知り合ったときも、その後も、ノーマン・キャンベルは陽気でいいやつだった。私たちは「良い仲間」であり、ノーマンと私がいるところではいつでも笑いが3分の1を占めていた。数年間学校で教えた後ノーマンはシャーロットタウンに行き法律の勉強を始めた。彼はすぐに合格し弁護士として認められた。その頃ノーマンはペンションの寮母であるミス・ロスと婚約していた。
友人たちはこの婚約を奇妙に思っていた。彼女は少なくとも15歳は年上で文字どおり彼の母親に相当する年齢だったからだ。しかしノーマンは幸せそうだった。しかしノーマンは幸せそうだが二人の結婚生活は破綻寸前だった。ノーマンが突然「神経衰弱」で倒れた。少なくともそう言われていた。本当のところはどうだったのか。
本当のところは数年間は表に出なかったし、家族も知らなかったかもしれないけれど。梅毒に起因する恐ろしい精神異常の始まりだったのだ。かわいそうにノーマンは禁断の果実に手を出してしまったようだ。
その代償は大きかった。彼は「休養のため」に父親の家に帰ったが、彼の心が病んでいるのはずっと前から明らかだった。私がこの前メアリーのところに行ったとき、彼女は彼の状態を話してくれて、どんなにひどい目に遭わされたかを教えてくれた。
彼は何年か経ってから亡くなった。その生涯を閉じたのだ。思い出すと胸が痛む。人生には恐ろしい悲劇がある。若い頃には夢にも思わなかったことだ。
恐ろしい悲劇だ。私の知っているノーマンはマクミラン家で一緒に笑っていたノーマンだ。
ある暗い夜、ドナルド・Eの古いパンク(窪地のような物)でドライブしていたとき、ノーマンは奇妙な怪談で私の魂を脅かした。カエデの屋根のパビリオン(カエデの鮮やかな葉が展示館のように見えたという事)で一晩中ノーマンと一緒に(私の心もであろうか)踊っていた。
メアリーの結婚式の後、ノーマンは私を朝日を見に連れ出し、グラスに1、2杯のスコッチを飲んで出した勇気が残っていたので、無礼にも私にキスをした。ノーマンは結婚式でハイランド流のスコッチに勇気をもらっていたので、何にでも挑戦する準備ができていた。
その時ばかりは私たちの間に感情というものが存在しなかったからだ。そしていつものように彼の唇には冗談が、目には輝きがあった。
あのノーマンと、メアリーが言っていたノーマンがなぜか結びつかないのだ。メアリーが話してくれた末期のノーマンは、髭も剃らず家の中をそぞろ歩きしているような男だった。友人たちに唸り声をあげ、テーブルで食事をするのを拒み、変なところにある食べ物を引きちぎる。
反抗的で馬鹿で、心も体も、文明も失ってしまったのだ。"罪の報酬は死である" ノーマン・キャンベルの人生と死はその無慈悲な古文書の解説である。

1919年9月7日(日曜日)
...今夜は、まるで石の壁に手を打ちつけているような気分だ。ああなんということだろう。
このところ、ユアンに彼の暗い恐怖が不合理で根拠がないことを納得させようと、あらゆる方法、つまり論証、「提案」、懇願を試みてきた。
蔑み、共感。私は息を潜めていたほうがよかったかもしれない。何も効果がない理性は不健全な心の妄想には何の力も持たない。

1919年9月10日(水曜日)
リースクデール、牧師館
ユアンは一日中冴えなかったが、全体的には昨日より良くなっているようだった。暴言もなく、暴れることもなく、落ち着きがないように見えた。しかし彼は頭の痛みをよく訴えていた。
今晩私たちが図書室でバルマーを聞いていたら年取ったリジー・オクストビーが入ってきた。彼女の前ではいつも 不幸になりそうだ。
今夜の私の気分は、彼女の影響が想像できるかもしれない。私はバラバラになりそうだった 私は必死で話をした。ユアンの不機嫌で目立つ沈黙をカバーするために、必死でしゃべった。感謝したものだ。

1919年9月11日(木曜日)
ユアンは一日中とても冴えなかった。4日にジョン・ロッキーの家でお茶を飲む約束をしていて、5時ごろに出発した。着いたとたんユアンは席を外し 頭が痛いと言ってソファーに横になった。私は座って縫い物をし、ロッキー夫人と話をした。夕食のときユアンはとても憂鬱そうだった。口もきけないし食事が終わる前に、彼は席を立ちソファーに戻った。そこで彼は眠りにつき、周囲の話し声にもかかわらず熟睡してしまった。
ロッキー夫人には他にも何人か客がいたが、彼はぐっすりと眠り続けた。私はこれは新しいことだと思った。というのも、この夏彼は部屋以外の場所で眠ったことがなかったからだ。彼が目を覚ますと彼は立ち上がって冗談を言った。長い間聞いたことのないジョークだった。家に帰る途中彼は気分が良くなったと言っていた。わたしはもう一度希望を感じている。

1919年9月13日(土曜日)
私はまた希望を失いかけている。ユアンは今日、今まで見た中で一番調子が悪かった。昨夜はクロラールを2回飲まなければならなかった。昼まで起き上がれず、その後とても元気がなかった。
私が伝道庁の着替えをするために部屋に行くと、ベッドに横たわっていた。妄執にとりつかれたようであった。
私は耐えられないような気がした。このような妄想を払拭するために、私は何度も何度も彼に懇願した。 「あなたは二人の子供をこの世に送り出した責任を負っているのだから」と言った。
「そうだ、心の底から作らなければよかったと思っている」(子供のも憂鬱症が写ってしまったら)彼はそう叫んだ。
それは私が耐えられないほどのことだった。ナイフで心臓を刺されたような気がした。いつも息子たちを愛し誇りに思っていたそのユアンが、そんなことを言うなんて......。
もしそれを言ったのがユアンでないなら...(ユアンに憑りついている物が言ったのなら)それはもっと深い恐怖だった。
そして私はソファに身を投げ出しやみくもに泣いた。それは私の最も暗い時間だった。
ユアンは立ち上がり、「さて、スミスに会いに行かなくちゃね」と言って出て行った。「そうだな。あなたの考えでは、私が倒れるまで仕事を続けなければならないのでしょう」と言った。
この言葉は私を傷つけなかった。ユアンは普段の心境ではそんなことは言わない。でも子供たちのことを言ったのはいただけない。とても恐ろしい。それは彼の恐ろしい妄想が(何かわからない罪により)自分だけでなく子供たちも永遠に失ってしまう思い込んでいるからだ。
生まれてこなければよかったのにユアンが体質消耗性憂うつ症だと知っていたら、彼らは産まなかったことであろう。そんな子を産む権利はないと思っている。今は生まれてくることを望むことはできない。
彼が去った後、私は起き上がり、顔を洗って歯を立て、ミス・オン・バンドへ行った。子供たちと一緒に、病院のキルトに使うシェイカー・フランネル・パッチを1時間かけて縫った。それから私は家に戻って来て美しい黄金の午後の中を歩き回った。あたたかい黄金の午後の美しさの中を歩いた。
ユアンはまだ教会から戻っていない。彼は明日説教をするエドウィン・スミス船長(スミスはPEI時代の知り合いの牧師で、第一次大戦の時軍艦の艦長をしていたのでこう呼んだのだろう)に会いに行き、スミス氏は水曜までここにいるそうだ。恐ろしいことだ。スミス船長はPEIの古い知人だが今のユアンに会わせるのは嫌だ。精神状態を疑われ、ニュース放送(ゴシップ)を撒き散らされないようにしたい。
というわけで。私はユアンの精神的な問題を、ギャリック博士以外には秘密にしてきた。特に東部の知り合いに知られるのは耐えられない。ステラも来週にはやってくる。私はまるで檻に入れられた生き物のような気分だ。どこを向いても地下牢の鉄格子しかないのだ。

1919年9月21日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
私の早口言葉からまだ1週間しか経っていないのだろうか? しかしなんという違いだろう。奇跡のようなことが起こったのだ。ユアンはすっかり元気になった、あるいはなりそうだ。それはあまりにも素晴らしいことだ。この回復が長続きするかどうか心配でならない。でも発症は突然だっ。そして、彼はあの冬にグラスゴーで起こした発作からも突然に回復した。
先週の土曜日、駅にスミス船長を迎えに行ったとき彼はとても悲惨な状態だった。
とても惨めだった。その2時間後戻ってくると元気になっていた。それだけだ。スミス船長と一緒に帰ってきたとき、彼は静かに朗らかな様子で昔のことを簡単に話していた。スミス大尉とは、故郷のことをよく知っている仲なので昔のことを簡単に話した。
夕食の後、私たちは全員車を走らせてJas. マスタードの家に行き、1時間ほど滞在した。ユアンは昔のままの様子で、笑ったり冗談を言ったりしていました。私たちが家に帰ると彼はビクトローラを立ち上げた。
その夜、私は自分のベッドで寝たのだが、夜中じゅう起きていた。いつものように動くのが怖かったのだ。しかしユアンの寝顔に変化があった。ユアンは初めて、ため息をついたりうめき声をあげたりしなくなったのだ。
しかしユアンはよく動き、2度ほど目を覚ました。そして一日中元気にしていた。日曜日の夜、私はボックス型のソファで寝たがよく眠れた。
朝ユアンが起きてきて、「去年の5月以来、ゆっくり寝られたのは初めての夜だ」と言った。本当の睡眠をとり、目覚めたときに安らぎを感じた。その日私は長い間知らなかった心の軽さを感じた。
スミス船長は水曜日まで滞在し、私たちは彼の訪問を非常に楽しんだ。20年ほど前、エドウィン・スミスはケンジントンやロングリバーで牧師をしていた。私は彼に会ったことはないが、パーク・コーナーの人々が彼の会衆の中にいたので、私は彼らを通して彼のことをよく耳にした。私はいつもある種の異常な関心を抱いていた。というのも彼が記事を書く人であることが海外ではほのめかされていたからで、職業的に親近感を覚えたからだ。
彼はまだ若く、最近(1899年の頃)結婚したばかりでとてもハンサムで賢い男だった。私が初めて彼を見たのはキャベンディッシュの長老会議でのことだった。教会で騒動があった時だ ファン・ワイズと私はホールのポーチで壇上の牧師たちを眺めていた。その中にエドウィン・スミスもいた。
「あの人、牧師にしちゃイケメンすぎるわ」とファンはささやいた。その後彼は新しい教会(1902年頃にキャベンディッシュに新しく建てられた教会堂)で説教をし、ユアンがそこの牧師として入信した折にはその入信式での説教をした。
その後、彼はカーディガンに居を構え、次のように語っている。戦争が勃発したとき、彼はアベルタ・アードに出かけた。オンタリオ州ティルソンバーグに定住した。ヨットに乗るのが趣味で可能な限りヨットに乗っていた。航海術を学び船長としての資格も持っていた。
戦争が始まると、彼はイギリスの海軍に奉職を申し出受理された。彼は4年間イギリス海軍の将校として艦隊の指揮をとっていた。潜水艦を追跡する船団を指揮している。
彼は冒険の連続だった。そして、一般的に良い仕事をした。国王から直々に感謝され勲章を授与された。
戦争が終わり、彼は金色のストライプを脱いで(軍服を脱いでということ)、一般市民の生活に戻らなければならなかった。彼の神経は、どちらかというと動揺している(市民の生活には慣れない)。
現在、彼はオシャワにある帝国生命保険の代理店をしている。彼が説教壇に戻るかどうか、私は大いに疑問だ。説教壇に戻ることはないだろう。というのは彼はとても良い説教師なので、むしろ残念なことだ。
私は彼の変化を期待していたのだが彼はもう50歳だ。しかし彼は35歳くらいに見える。太い黒髪には一筋の白髪もなく、痩せたハンサムな顔には一本の線(皺)もない。痩せていて、ハンサムで少年のような顔をしている。

  

 エドウィン・スミス牧師  マクドナルド牧師とスミス氏

彼は冒険談で私たちを見事に楽しませてくれました。彼は確かに説教も話も文章も素晴らしく、ロンドンのR.A.S.のフェローであり、個人的な魅力と磁力に満ちている。イズムに満ちている。しかしその才能の割には、目的がしっかりしていないように思う。そのため精神的な能力でははるかに劣る人たちに、職業上のキャリアで追い越されてしまったのだと思う。
水曜、ユアンと私は彼をオシャワまで車で送った。その日は快晴だった。ユアンはとても元気で、私たちは楽しい時を過ごした。夕方には家に帰った。ユアンは昔と変わらず明るく陽気で私を "プッシー" や "モンキー" と呼んだわ。すっかり元気になったようで、そう言っていた。
私は自分のことがよくわからない。夏の間背負っていた重荷が突然肩から離れ肩の荷が降りたような気がして、頭が軽くなったような気がする。歩いているというより、むしろ飛んでいるような感じだ。この気持ちはうまく表現できない。喜びよりも痛みを書く方が簡単だ。誕生日の話から20年経ってしまったような気がする。
昨夜ステラがやってきた。私たちは車で迎えに行き、家に帰るまでずっとユアンは昔のように彼女をからかった。そして彼女と私は12時まで、彼女の夏の出来事や、パーク・コーナーでの解決不可能と思われる多くの問題について話した。ユアンは今日説教をしたが何の問題もなかった。ああこれが続けばいいのに! この夏をもう一度体験したいとは思わない。
私はかなりひょろひょろした生き物なのだろう。子供の頃、私は繊細だと思われていた。本当はそうではなかったと思う。私は母が病気で亡くなったので、体質が繊細なのだろうという印象を持たれていたようだ。
その印象はさらに強くなった。私は決して楽な人生を送ってきたわけではないが、幼少期を離れてからは大病をしたことがない。そして今この夏を経て、絶え間ない世話と心配と努力の末に、ある保険会社が私を「一級の危険人物」と判断した。心臓も肺も腎臓も血圧もすべて正常だ。悪くないな。
私は生命保険に2万ドル加入した。万が一私に何かあっても、子供たちの教育費になる。私に何かあったときのためにね。

1919年9月22日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール
午前中は、ブドウのゼリーを作って過ごした。夕食後ユアンとステラ、そして私はドッズ夫妻に別れを告げに、ソーニャに向かった。私はドッズ夫人が好きで、とても仲が良かったのですが、残念だ。
それから私たちはUxbridgeに行き、それからUxbridgeに行き、Ewanのイスラム教信者であるGeorge Millarに会った。今晩は我が家の芝生で盛大な降霊祭を行い芝生の上で花火をした。7月のチェスターの誕生日のために春に買っておいたものである。しかしその時私たちは留守にしていて(夫の療養のためにボストンに行った)、帰ってきてからというものようやくやった。花火はあまり好きではない。そこで今夜はその楽しみを味わうことにした。

1919年9月28日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
私たちはとても楽しい1週間を過ごした。どこへでも出かけた。昨夜はマクギルバリー大尉が来て 禁酒法に関する演説をした。彼は海外にいた若い牧師で、とても楽しくて、ステラと私は多くのことを学んだ。とても楽しくてステラと一緒にたくさん笑った。
ステラは明日から出張だが、私はとても残念に思っている。私たちはとても陽気な一週間を過ごした。この一週間は、まるで昔を思い出すようなとても陽気な一週間だった。こんなにたくさん、こんなに頻繁に、こんなに軽快に笑ったのは久しぶりだ。それはこの夏、私の性格の陽気な部分が完全に抑圧されていたからだと思う。
それが再び解放されたとき、バネのように跳ね上がり、人生の流れにとてつもない振動を与え、しばらくすればそれは通常のレベルに戻り、人生は再び冷静さを取り戻すだろう。しかし、この一週間はそれが完全に支配していた。
とにかく、ステラと私は、この一週間楽しくておいしいごちそうを食べた。この一週間は、ステラと二人で楽しい時間を過ごした。結局のところ彼女はヨセフを知る種族であり、フレデがいなくなった今、世界でただ一人、私と一緒にその遺産を受け継ぐことができる人だ(生活の雑事に沈み込むことなく世界を皮肉で笑い飛ばせるような人間だと)。
今回、彼女はとても元気で、私が今まで知っていた中で最も唸る回数が少なかった。ステラが機嫌がいいとき、これほど陽気な仲間はいない。楽しい仲間だ 遠くへ行ってしまうのは残念だ。しかしこのような人生を歩むことは私の運命のようなものだ。私はそれを最大限に利用しなければならない。

1919年10月2日(木曜日)
リースクデール、牧師館
ユアンは昨夜あまりよく眠れず、ため息をついたり、うめき声をあげたりしていた。そのせいで一日中不安な気分でいた。今朝は2時間書いて、午後にはグレープジュースを飲んだ。夕方にはZephyrに移動して、そこのGuildを再編成した。
もちろんこの夏、私たちはギルドの運営に携わることができなかった。大きな沼地の途中、どこでも2マイルほど離れたところでタイヤがパンクし、いつものようにジャッキが使えず、大変な思いをした。ジャッキが故障していたため、スペアを取り付けるのに大変な苦労をした。私はすっかり疲れ果ててしまった。

1919年10月4日(土曜日)
今日、ユアンが「食堂車での夕食の最終案内です」と叫びながらホールを通るのを聞いた。この古くて陳腐なジョークがまた聞けたのはよかったが、昔はよくその無駄な繰り返しに「いらいら」させられたものだ。ユアンが元気なのはこの春以来だ。
今日は一日中、トロントに行くための準備に追われていた。月曜日から1週間Mary Bealのところで過ごすことになっていて、とても楽しみにしているのだ。
数日間、食事も会議も計画しなくていいし、責任から解放されるのもいい。私は普段から家事をするのが好きで、計画的に家事をすることを楽しんでいる。フレデがよく言っていたように、計画的に家事をこなすのは楽しい。実行することを楽しんでいる。しかし私たちは皆、ちょっとした遊びも好きだし......。

1919年10月8日(水曜日)
トロント1区ニーナアベニュー2番地
これは「完璧な一日の終わり」だ。天気は見事なものだった。ミスター・マクレ・ランド・スチュワート夫妻と私は今日、ハミルトン・ハイウェイをオークヴィルまで走り、夜はMississauga Golf Club Houseで夕食をとった。
夕食の前にリンクスの一部を回り、私はゴルフの初ラウンドをした。もちろん恐ろしく失敗したが、このゲームの魅力を感じた。ゴルフを習い、練習する機会があれば、ぜひやってみたいと思っていた。でも今までもそしてこれからも、その機会はないだろう。
ミシサガ・リンクスの景観は魅力的だ。これほど美しい風景は見たことがない。クラブハウスの下の谷ほど美しい風景は見たことがない。

1919年10月9日(木曜日)
今日、メアリーが私のためにアフタヌーンティーを催してくれた。私の魂はアフタヌーンティーが大嫌いだ。このような娯楽を考案した人物と一緒に悪魔も飛び去りますように。でも、メアリーのために私は優雅にその場をやりすごした。
普段はあまり着る機会のない、ピンクとグリーンのタフタとホニトン・レースのフランス製ガウンを着て、「ジュール」を身につけた。
コサージュのブーケを身につけ笑顔を振りまく。午後はほとんど立っていた。私の本が好きだと言ってくれる女性たちに「嬉しいです」と握手をしていた。私の本が好きだと言ってくれた女性たち、そしておそらくもう二度と会うことはないだろう、会ってもわからないであろう女性たちに声をかけた。しかもこれは1919年という恵まれた年のことだ! 世界平和を学ぶのにどれだけの時間がかかるのだろうか?
しかし、メアリーは自分のお茶が大成功したことを喜んでいた。今夜は「ミッキー」(ミッキーマウスとは別)を観に行ったのだが、これがまた素晴らしい出来栄えで大盛況。本当に涙が出るほど退屈でした。この映画では、単純で、無邪気で、芸のない、「僻地」の少女が、「僻地」の少女に扮しているのだ。洗練された映画スターが演じる「裏山」の少女が、目を丸くしてブロードウェイ女優のような下品なパントマイムに興じている姿に涙した。本当に全く「イケてない」のだ。そのためこのようなことが起こるのだ。
私が日記を必要としたように、親愛なるこの子も誰も教えてくれなかった痛みや苦い経験のはけ口として日記を必要としないことを望む。

1919年10月15日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
いい天気だ。ユアンは昨日車でトロントに行き、今夜まで戻らなかった。だから昨夜は若者(使用人か)と私しかいなかった。ドアをロックするのを忘れた。しかし私たちはぐっすり眠り、誰も私たちを連れて逃げなかった。
今夜、古い日記をコピーしていたら、Mamie Simpsonのことが書いてあった。かわいそうにジェイミーは私の古いキャベンディッシュの学友の中でただ一人、死へと導く道を選んだ。メイミーとエマ・シンプソンは、チャーリー・シンプソンの最初の妻との間に生まれた娘だ。
"チャーリー" として生涯知られている男は、その事実によって分類される。チャーリー・Sは、宗教的には悪名高い偏屈者であった。"キャンベル派" と呼ばれる一派だった(福音派の一種か)。チャーリーの意見では浸礼しなければ呪われるし、カード遊びや踊っていたとしても呪われるのだ。チャーリーの娘たちは、そうしたことを忌み嫌うように育てられた。
しかし彼は、娘たちが道路に出たり、トムやディックやハリーと四六時中一緒にいることを気にしたことはなかった。メイミーは年上で、とてもかわいい女の子だと思われていた。彼女はゲイ(遊び人と言うような意味)だった。悪意がなく陽気で、みんなに好かれていた。田舎の言葉で言うと「彼女はいつも新しい恋人を連れていた」。
最初は無害で愚かな浮気、次に軽率な行動、そしてほのめかしのスキャンダル。燃え上がることはなかったが、数年後あわれなメイミーの評判は一気に落ちた。彼女はボストンに行ったが結局は転落を避けられない...
恥辱と堕落の連続だった。何人もの男の愛人になり、少年院や売春宿にいたこともある。彼女の名は一度も出てこない。故郷のキャベンディッシュにも戻らなかった "それは昔話だ" だが神の目には哀れな女ほどよく映るのだ。哀れで善良で誤った教育を受けた メイミー・シンプソンよりも。

1919年10月17日(金曜日)
リースクデールの牧師館
24年前、私は日記に「たくさんの本があればいいのに」と書いた。今日、私の書斎を見ると、その願いが叶ったと思うだろう。実はそうなのだ。置き場所に困るほど本がある。しかし残念なことに、私はそれらを読む時間がないのだ。
ではこの願いが叶ったことで私はより良くなったのだろうか? そして私の子供たちはこの100冊の本を読むことで、より多くのものを得ることができるのだろうか。
私が若かりし頃、何冊も噛んだ本(かみしめて読まねばならないということは、複雑な哲学的な本だったのだろう)から得たものより、もっと安らかで(栄養のある(平易で為になる)ものを得ることができるだろうか。

1919年10月25日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日、私はここ数週間、1年前にインフルエンザにかかったときよりも体調が良いことに気づいた。疲れや倦怠感、頭痛を感じることもなく、頭痛もしない。私は活力と! エネルギーに満ちている。よく眠れたし目覚めもすっきりしている。神々はそれが続くことを許可しています。
昨夜は昔の日記をたくさん書き写した。それはまるで過去をもう一度振り返っているようでいつも少し非現実的な感覚を覚えながら現在に帰ってくる。中にはその古い日記は私を苦しめる。たとえばペンシーの家を訪ねたときのことだ。「なんて親愛なる古い場所なんだ。いつも同じで楽しいひと時を過ごせそうだ」残念なことにそれがなくなってから何年も経つ。
"いつも" である。チャールズとチャレス夫人は亡くなった。ペンシーは数年前に亡くなった。あの陽気で用意周到な、しかし知性に欠ける笑いは永遠に静まったままだ。
女の子も男の子もラッセルを除いてはみんな死んじゃったけど、彼の妻マギー・ヒューストンは、奇妙で魅力のない人だった。今は昔のような華やかな雰囲気はなく茶番劇のようだ。
チェス・クラークはその当時の記録によく登場する。チェス・クラークと私は、いつも仲の良い友人だった。私たちは決して "恋人" ではなかったが時々車で送ってもらったり、歩いて一緒に帰ったりした。私たちは単に「仲間」だったのだ。
1897年にチェスはBC(ブリティッシュコロンビア州)に行き、それ以来一度も家に戻っていない。最初は "翌年" に帰るつもりだったが、しかし何年経っても帰って来なかった。そして今彼は去った。キャベンディッシュには二度と戻れないのだ。
チェスは数年前、向こうで知り合った女性と結婚した。彼らには家族はなく、彼女はチェスよりかなり年上だと思う。彼はいつも大人の友達や恋人が好きだった。私は彼より4、5歳年上で、彼が付き合う女の子もみんなそうだった。チェスに会って昔話をしたい。でも、もう二度と会うことはないだろう。"レム" も、プロポーズの言葉を書き写したところだ。まあ私の予想通りだ。
レムは愛のために死んだのではない。すぐに他の女と付き合っていた。なぜか彼女たちとの関係はすべて無に帰した。やがて彼はケンジントンを出てシャーロットタウンにある店に入った。そこで出会ったのはマギー・セラーズというとてもきれいな女の子で、二人は婚約し、レムは西部に出て自分で商売を始め、そのマギーと結婚した。
それ以来彼は私の知るところから遠ざかっている。彼は家族もなく特にビジネスで成功したわけでもないと聞いているが、それは単なる噂で事実ではないかもしれない。

1919年10月28日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
私はマーシャル・サンダースの最新作「ゴールデン・ディッキー」をチェスターに読み聞かせている。毎晩寝る前に1章ずつ読んでいる。彼はとても興味を示している。今夜は迷子になって飢えた犬の冒険を描いたちょっと哀れな章を読んでいた。突然、私は苦い泣き声に中断された。その時、私は子供の顔が痙攣しているのを見た。"ああ、お母さん、耐えられない" と泣いていた。
「大丈夫だよ、坊や。ビリーは死なないよ」。いいお家と優しい女王様がすぐに見つかるわ "ほんとうに? "はい" "そう書いてある部分をすぐに読んでね。この章を読み終える前にね"
これほどまでに苦しみに敏感な子供は見たことがありません。この子は私がかつてそうであったように......あまりに敏感すぎて......心配になるほどだ

1919年11月8日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
チェスターは奇妙な小言を言うのが得意だ。彼は毎朝 ジョージ・リースクの家へ牛乳を買いに行く。今朝はとても寒かったので、彼が戻ってくると、「お母さん、牛乳をもらってリースクさんの家を出るとき、地面にひざまずいて神様に暖かくしてくれるように頼んだんだけど、門を出たときは相変わらず寒かった」。
昨夜彼は急にセロリが好きになった。と言ったので、「今まで好きじゃなかったのに、どうして食べられるようになったんだ? と言ったら、「セロリを食べられるようになったのは、神が私に力を与えてくださったからだ」と。
私が子供の頃変な演説をたくさんしただろうか。もしやったとしても、2つだけ冗談で言ったのを聞いただけで、記録にも記憶にも残っていない。冗談で言われるのをよく聞いたが、私は全く好きではなかった。ある日私がとても小さかったとき、おばさんが海岸の畑から七面鳥を持ち帰ってきてくれないかと言った。私は「ばかにされるのが怖いんだ」と答えた。この言葉は覚えているのだが、それ以外の言葉については全く覚えていない。
アーチボルド夫妻ともう一人、「上流階級」の人々とお茶を飲んだ。アーチボルド夫妻と、そこを訪れていた別の牧師夫妻がいた。
私は遅れてやってきて、とても暑くて息苦しくて、だらしなくなっていた。私はケイティというジョンおじさんのフランス人召使の娘と一緒に、牛に水をやるために小川まで行っていたのだ。おばあちゃんにどうしてそんなに遅くなったのかと聞かれたので、私はあわてて、「ケイティと牛に水をやりに行ったら、あの血まみれの雌牛を30分近くも追いかけなければならなかったんだ」。と狼狽した。
もちろん私はケイティが使っていた言葉を繰り返しただけなのだが。それは当時のフランス人の「雇われ人」は悪態をつくのが常だった。それにしても私は "bloody"(血まみれの) が "cuss word" (下品な言葉)であることを知る由もない。また実際私は1年以上前に、この言葉が「罵倒語」であることを知るまでは、なぜそう思われるのか理解できなかった。
この言葉は形容詞ではなく、"By blood"(血まみれ)という誓いの言葉が転訛したものだと知ったのはほんの数年前のことだった。"我らが女に" "血塗られた" という古い誓いの言葉だそうだ。
先日、チェスターがスチュアートに "結婚" を説明しているのを聞いた。"男と女が牧師のところへ行き" "説教をされた後結婚するんだ"。

1919年11月14日(金曜日)
絶望感で半分病気になったような気分だ。木曜日の朝は寒く灰色だった。ユアンと私はスミス牧師一家を訪ねるため、30マイル離れたグレナームまで車を走らせた。ユアンが元気そうだったので私はドライブを楽しんだ。前夜の不安は杞憂に終わった。しかし夕食後、彼は頭痛を訴え、それ以来私は心配になった。ブライドン夫妻と一緒にウッドビルで夕食をとり、それから真っ黒な気色の悪い夜の中を車で帰宅した。
ユアンはまだ頭痛を訴えていたが十分元気そうだった。しかし昨夜は4時に目が覚め、そのまま眠れなくなってしまった。恐怖症が再発したのだ。これは私にとって恐ろしい知らせだった。
今日は、暗くて寒くて風の強いひどい一日だった。私はダイニングルームの掃除をしなければならなかった。冬は夏のようになるのだろうか。もしそうなら、私はここで一人で立ち向かうことはできない。

1919年11月15日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日もまた絶望に似た悲しい一日と夜がやってきた。ユアンはひどい夜だった。私はまたクロラールの瓶を取り出さなければならなかった......せっかく永久にしまったと思ったのに......。
でも、それでも眠れなかった。頭痛と憂鬱の日だった。私は一日中がむしゃらに働いた。一番大変だったのは、午後から教会に行ってS.S.のクリスマスコンサートの練習を手伝うことだった。いつでも嫌な仕事だが、今日ばかりはとてもその仕事に向き合えるとは思えなかった。
しかし私は歯を食いしばって教会に行った。しかし、私は歯を食いしばり、練習を重ね、朗読と台詞の選択と割り当てを行った。私はかゆいところに手が届くような恐怖心を心の奥底にしまい込んでいた。その恐怖は初秋の夕暮れ時に帰宅したときにも襲ってきた。
夕暮れ時、私は誰にも見られず、子供たちにも見つからないような暗い応接間に閉じこもり、嫌な30分間を過ごした。今晩は子供たちを寝かしつけた後、私はテーブルのそばに座り、本を読むこともできないほど絶望していた。ああ去年の夏のような冬を迎えることはできない。

1919年11月19日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール
昨夜、ユアンはクロラールを2回飲まなければならなかったが、今回はそれが効いたようだ。彼はぐっすり眠ることができた。私は風邪をひいて喉が痛いChesterと一緒に寝て、彼を暖かくして覆った。私はほとんど眠れなかった。
外は冷たい強風が吹き荒れ、雨戸がガタガタと音を立て続けていた。その上苦い思いが私を悩ませた。夜がどんなに長く感じられたことだろう。一日中、とても寒かった。ユアンは朝からずっとベッドで寝ていて、一日中とても退屈そうだった。私は臭化物療法を続け、公正な試験をしてみるつもりだ。私は一日中、台所の掃除に精を出した。
今日、「Canadian Bookman」が届き、そこには「Rainbow Valley」(虹の谷)の素晴らしい批評が載っていた。それが私を取り囲む心配の霧を突き破ってくれたら、とても嬉しいのだが。

1919年11月21日(金曜日)
リースクデールの牧師館
またしても励まされた気分だ。ユアンは10時から5時半までクロラールなしでぐっすり眠った。一日中、自分らしく過ごせたようだ。宣教師のフォーブスさんが日曜日に来てくれた。奥さんも一緒に来ると思っていたので恐る恐る出かけた。しかし幸いなことに彼女は来なかった。

1919年11月22日(土曜日)
今日もユアンはよく眠り一日中ずっと元気そうだった。私は今日の午後もS.S.の練習に行き、疲れて帰ってきて、子供たちを整列させようとしたので意気消沈してしまった。ユアンとフォーブス氏は留守だった。暗くて曇っていた。そして寒かった。私は仕事に行くことを自分に強制するのはとても難しいことだと思った。2階に上がって、ベッドに突っ伏してあきらめようと思った。でもそうせずに仕事に行った。
今日、Nora Lefurgey(エドモンド・キャンベル夫人)(モンゴメリがキャベンディッシュにいた1902年に知り合った人)から手紙を受け取った。彼女はBC州に住んでいて3人の子供がいる。彼女は陽気で幸せそうな手紙を書いた。そのような手紙は私にとっては少し苦いものだ。
ストークス(私のかかりつけの出版社)はまた、レインボーバレーがデンマークとスウェーデンに翻訳されることを書いてきた。

1919年11月25日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
冷たい雪が降っている。午後にはアラン・グレイズの家に行きお茶を飲んだ(牧師の親睦訪問であろうか)。
人生から美や色やリズムや輝きや勇気をすべて奪って、醜く、灰色に、平坦に、鈍く、臆病にするような人々がいる。そのグレイズとはそういう人たちのことである(地味でつまらない人か)。冬の寒い夜、車で家に帰るとき、私は憂鬱で臆病な気持ちになった。これからバギーに戻らなければならないので、帰りの運転は遅かった。
というわけで、帰路はゆっくり、寒く、寂しいドライブとなった。私はこの2週間の反動を感じているのだと思う。この2週間は、"ラック " に縛られていた反動があったのだろう。それともグレイ夫人の「スイート・ステッパー」(甘い物のもてなし)がジャムやパイや粗悪なケーキばかりで、憂鬱になるのも無理はない。そんなものばかり食べていたら、退屈で憂鬱になるのも無理はない(肉でも欲しいかな)。

1919年11月26日(水曜日)
リースクデールの牧師館
今朝ユアンとチェスターと私は、車でアクスブリッジに向かった。寒さが厳しく、スキミング(掬い取るの意味で雪かきのことであろう)の後車の中でぼんやりしてとても遅く感じた。しかし私たちはそれを受け入れベストを尽くすしかないのだ。他のことが我慢できるのなら、このことでうなったりはしない。
チェスターは下の前歯を2本抜かなければならなかった。2本目の歯が奥に入り込んでいたため、抜歯した。私は次のことを心がけている。

アクスブリッジ、東区画の通り

子供の歯はできるだけ定期的に2セット目(永久歯が生える幅)を確保するために、シャープなツメ(矯正具か)をつけるようにしている。最初の歯並びの数本を埋めています(歯と歯の間を埋めた物か)。歯茎が縮んで新しい歯が密集しないようにするためだ。これまでずっと私の歯は、少なくとも下の歯は醜く混み合って曲がっているように見える(前後にちぐはぐになっているのだろう)のでずっと嫌な思いをしてきた。
もし早い時期に治療を受けていれば、改善されたかもしれない。もちろん私は父から受け継いだ曲がった歯並びを矯正することができたかもしれない。私はいつも白いきれいな歯並びの人をうらやましく思っている。しかしそれはめったに見られないものだ。しかし私はまだ自分の歯がほとんど残っているのでそれはとてもありがたいことだ。自分の歯は、たとえ醜くてもきれいな差し歯よりずっといい。
夕食に間に合うように帰宅し、午後はずっと明日、ゼファー・ギルドに提出する原稿を書いたり、リースクデイルのスクラップブックを作ったりしていた。そして夕食後、私はギルドに向かった。そしてギルドを運営しました。今家に帰って、もう寝るところだ。

1919年11月27日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール
午前中はずっとBook10(本屋か)で仕事をしていた。そして夕食後、支度をしてゼファーに行きFrank Walkersでお茶を飲んだ。Gray'sに行ったときと同じくらい憂鬱な出来事だった。確かに彼らはグレイほど「グレイ」ではないけれど無知でつまらない。
ウォーカー夫人は、ユアンが「太りすぎ」で、咳が「ひどい」等と言っていた。彼は何年も前から太っていない。咳はひどい風邪のせいで一時的なものだ。しかし、こういうことを聞くことは落ち込んでいるときには憂鬱なものである。
とにかく、初めて行った時のことを覚えている。チェスターが生まれる前の冬だった。ウォーカー夫人は私の状態を知っていたのか、そのためか、出産で亡くなった3人の女性の話を明るく聞かせてくれた。でも私は心配していなかった。出産で亡くなる人はごくわずかであることも知っていた。
それにその頃はまだユーモアのセンスもあり、とても楽しめた。でも今は特に気分が乗らないときにこのようなホステスは、むしろ私の神経を逆なでする。教会までの暗い夜道や悪路も、彼女の会話と引き換えにしてくれた。そうしたら教会に着いたらギルド(の会合)がない。
昨日の貴重な2時間をもっと有意義に過ごせたかもしれないのに。あの長い荒涼とした丘陵の道を通って帰ってきた。
このゼファーからの帰りの夜のドライブは、私の悩みの種だった。骨まで冷え切って、疲れて、不満な気持ちでここに帰ってくる。でも温かい飲み物と、もうすぐ暖かい毛布のようなベッドで湯たんぽと一緒に寝られると思うと、少し元気が出てきた。

1919年11月30日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
私は今日で45歳になったが特に喜ばしい事実ではない。私は45歳には見えない。他人から見れば私の年齢は30歳に見えるだろう。私の髪はまだ全体的に黒く、顔色もよく、シワもない。毎晩のコールドクリームとマッサージのおかげだろう。そして自分で考案した表情筋のエクササイズを毎日定期的に行っているおかげだろう。それに45歳とは感じない。
少なくとも、かつて私が思っていたような四十五歳の女性という感じはしない。しかし私は四十五歳である。これから先人生は下降線をたどるに違いない。その事実を直視したほうがいい。
結局のところたいていの場合、自分が四十五歳であることを忘れてしまうものだ。四十五歳であろうと、何歳であろうと、そんなことはどうでもよくなる。そうすれば問題ない。
昨夜は、1896年以来オンタリオが経験した最悪のハリケーンがやってきた。風はすさまじかった。鍵穴から蒸気機関車の汽笛のような音を立てて吹き込んできた。この小さな渓谷はよく整備されているのでめったに風を感じることはない(渓谷と言っているがリースクデールはほとんどは平原で、少し低くなっているだけの場所だ)。
しかし昨夜は一杯で一年分くらいの風を受け雨が降った。私は一人でここに座り、本を読もうとしたのだが、私はとても寂しかったので、私の本は味気ないものに思えた。
今日の午後はくすんでいて、寒く、苦しかった。私の古い日記を少しばかり書き写した。ルー・ディスタントの名前が 目立つように書かれていた。かわいそうなルー! 私を愛したすべての人の中で 最も立ち直りが遅い男だった。私が結婚した2年後に彼は結婚した。いい女と結婚してエラズリーに住み、娘もいる。

ほげほげ

1919年12月5日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール
うっ!? あの子たちが今夜も練習に来たんだ。私の神経は擦り切れそうだ。普段は雑魚を訓練するのが好きなんだが、この子たちは確かに未熟だ。一人の男の子がロッキングチェアに座って、ずっと激しく揺らしていた。
ある者は椅子の上にうつ伏せになり、エネルギーを入れることも出すことも不可能に思えた。ある者は本当に感じるのか、跳ぶことができるのか、針を刺して確かめたくなった。ある者はペラペラで "スマートアレッキー" だった。全員がギラギラしていた。いい子や行儀のいい子は一人もいなかった。私は見事に忍耐を保ち、頭がくらくらするまで彼らにその台詞を聞かせ、そして1人で彼らを送り出した。
今9時半だ。生カブの味を抜くためにしばらくギブアップ(渋い本でも読んでいたのか)。今3巻目だ。以前通読して以来約12年ぶりのことである。
以前は一巻を読み終えると、元に戻るために最も軽薄な小説に飛び込む。彼はあまりに大きく、重厚で、自分の個性を吸い取ってしまうような存在だ。忘れ去られた英雄と忘れ去られた愚か者の堂々たる行列と一緒に行進していると、私は自分がこれほどまでに些細な存在なのだという不快な感覚に襲われる。
何世紀にもわたって「何百万もの先達を困惑させた」中の一粒の塵のようなものだと 自分が取るに足らない存在であることは分かっているが、それは忌まわしい感情であり許容できるものではない。なぜなら、それは人生を不可能にし、愚かなものにするからだ。

1919年12月7日(日曜日)
リースクデールの牧師館
12月の7日間が過ぎ去った。別に急いでいるわけではない。四十六歳の終わりを急ぐわけではないが、この冬は耐えなければならないものだ。今週はとても寒く灰色で、憂鬱な気候だった。我が家は石炭の質が悪く快適とは言えない。ユアンはかなり元気だがまだ昔のようにはいかない(旦那はモンゴメリに追い立てられるのがうっとおしくて狂っていたのかもしれない。
私は孤独だ。フレデが恋しい。この灰色の日々をひどく恋しく思っている。昨夜一人でここに座っていると、息苦しくなって泣きました。もし彼女が世界のどこかにいてくれたら......手紙が届いたら......しかし、そこには空白と沈黙があるだけだ。
 カムは彼女(フレデ)の墓石に私が選んだ墓碑銘を刻むつもりだ。

        "熱病の後、彼女はよく眠る"

私が死んだらこの言葉を刻みたい。私はよく眠れると信じている。夢も見ずに。休息には時間がかかりそうだからだ。

1919年12月8日(月曜日)
リースクデールの牧師館
アクスブリッジへの寒いドライブから帰宅すると、ステラからの手紙が届いていた。鶏の飼育を始めるために2500ドル(2000万円ほどだ)を貸してほしいというものだった。
あの娘は恥というものを全く知らないようだ。彼女は8年前に私から5%の利子を払うと約束して1000ドル借りたが、一度も払ったことがない。。それなのにまるで私が自由に引き出せる銀行であるかのように、また融資を申し込んでくる。
私は彼女とその仲間にお金を貸して、その利子さえももらえないことに憤慨する。私が貧しくて苦労していたとき、誰も私を助けるために一銭も貸してくれなかった。ステラが結婚したらもう金の無心から解放されると思っていた。
しかし私は決して彼女から解放されることはない。彼女は虚偽と傲慢の最も嫌な化合物であるようになった。もう我慢の限界だ。
この話はもう終わったので気分は晴れやかだ(前に貸した1000ドルはどうしたもう貸さないと)。ちょっと強く言い過ぎたかな。ステラも我々の仲間だ。私は彼女を助けなければならない。この後、彼女は立ち直りもっとうまくやるかもしれない。しかし彼女の無神経な、ずるいことを当たり前にする態度は私を苦しめる。まるで彼女を助けるためにお金を稼ぐこと以外に、私の人生の目的がないかのように。そして
去年の夏のフリーデのネックレスの件での彼女の態度が忘れられない。

あんたなんか私の財布になってりゃいいんだから
あんたの物なんか全部私がもらえばいいんだから

1919年12月12日(金曜日)
今夜はゼファーの図書館を支援するためのコンサートで朗読をするためにゼファーに行かなければならなかった。そこで朗読をしなければならない。私にとって興味深いのは何人かの学者が私の作品から引用した小さな劇を上演したことだ。私の著書『黄金の道』から抜粋したもので、「イライザ大伯母さんの話」を含む章である。彼らはとても上手に演じ私はとても楽しめた。
その演奏は、私にとって、印刷されたページにはない新鮮さを与えてくれた。 しかしユアンの頭が非常に気になり、空席を見つめ、陰鬱な考察に没頭していたため私の夜は台無しになった。プログラムを聴く代わりに空白を見つめ、陰鬱な思索に耽っていたため私の夜は台無しになった。

1919年12月13日(土曜日)
この日は終始くすんだ灰色の生気のない一日で、外にも中にも太陽の光は一向に差し込まなかった。バーティ(マッキンタイア)からの手紙のおかげで、私は彼女と話をしたいという気になり事態を好転させるどころかむしろ悪化させた。私は午前中に執筆し、第10巻(目の小説、リラオブイングルサイドであろう)の骨格を完成させた。
夕食後私は演奏会の練習に行ったが、生気のない引きずるような演奏で誰もが誰かが先に行くのを待っているような生気のないものだった。それが終わってから、私はある老婦人を訪ねた。私より先に天国に行くかもしれないのに、この世に悲しげに住んでいる老婦人を訪ねた。彼女は そして私はオレンジを絞ったような気分で家に帰った。(ショボイ気分か)
実のところ、私はちょっとした交友関係に飢えているのだ。私は8週間もここに閉じこもっているんだ。 ジョセフの血を引く者が一人もいないのだ。ユアンは静かで退屈な精神状態だ 仲間もいないよりマシだ。だから私は全く一人で、時々退屈で生気のない黄昏時に生気のない薄明かりが、生気のない灰色の世界を覆っているとき、私は絶望してあきらめる。絶望に打ちひしがれて 「もうダメだ」とつぶやくが、でもあきらめはそんなに長くは続かない。ちょっと面白い本を読んだりこの日記で告白したりすることで また立ち上がり最後まで頑張ろうと決心するのだ。
このちょっとした出来事で、私はかなりリフレッシュできた。しかし、ああもし私がフリーデに手紙を書くことができたら、あるいは彼女から手紙をもらうことができたら。そうすれば恙無く暮らせるのに。クリスマスを考えると恐ろしくなる。フリーデから挨拶も期待できない最初のクリスマスが。もう二度とフレデが私とクリスマスを過ごすことはないのだ。クリスマスは子供たちのために楽しくしなければならない日だが、終わってしまえば嬉しいだけなのである。

1919年12月17日(水曜日)
リースクデール、牧師館
この3日間のような寒さの中での生活は、生活ではなく単なる存在でしかない。月曜日と火曜日も十分ひどかったが今日はもっとひどかった。
今朝は氷点下で、家の中を暖めることができなかった。その日私たちは震えため息をついた。私は労働をするのは論外だった。というのも台所の床はとても冷たく、昼にキッチンの床が凍ってしまったからだ。って、そんなことより湯たんぽ持って暖かくして寝よう。

1919年12月18日(木曜日)
私は今夜少年たちの後ろで荘厳なドアを閉め、熱烈な感謝の言葉を述べた。これが彼らの最後の練習だった。もう二度とこんな連中を訓練することはないだろう。
今日はずっと穏やかで、家も暖かく人生も少しはましなものになったようだ。灰色が薄くなっているように見える。
クララから手紙が来て、ステラの近況について詳しく書いてあった。かわいそうにステラはクララにウソをついて、貧しいフリーデのわずかな財産をだまし取ったことを考えると、私は心が痛むのだ。魂が病んでしまいます。
クララは「赤毛のアン」をスクリーンで見てきたと書いている。ところでペイジは去年の夏、赤毛のアンの映画化権を売った。彼は私たちがパートナーシップを結んでいる限り決して売らなかっただろう。売った金を私と分け合うことになるからだ。私は彼が自由になればすぐにでも売るだろうと思った。彼は映画化権で4万ドル取って。私の取り分は2万ドルだっただろう。
アン役はメアリー・マイルズ・ミンターである。彼女は他の劇でも見たことがある。彼女はとても私の書いたような生意気なアンとは全く違う。クララはこの映画がまったく気に入らないと書いている。
この映画はまったく好きになれず、他のみんなもがっかりしたと書いている。その理由は彼らの「好きなキャラクター」がキャストに含まれていないことが原因のようだ。さてこのキャラクターたちは本の中ではほとんど何もしないのだが、しゃべるのだ。
スクリーンでは再現できない。何かをするキャラクターしか登場しないということだ。私はこの映画を好きになるとは思っていない。
読んだ本から再現された映画を見たことがないのだ。それでも私は見てみたいのだ。クララが言うには、ロサンゼルスは大盛況だったそうだ。クララはチケットを買うのにこれほど長い列に並んだのは初めてだと言っている。

1919年12月21日(日曜日)
昨夜はとても疲れていて涙が出た。昨日の朝も疲れて起きた。お客さんがお茶を飲みに来るのでケーキとサラダを作り100以上の仕事をした。午後はS.S.の練習に行き帰ってきて夕飯を食べた。リリーはコンサートの準備で忙しかったので、そして急いで教会に戻り、11時までリハーサルの手伝いをしていた。
子供たちは騒がしく、愚かで、大人の演奏者たちは練習よりも、コーナーの中に入って手をつないでいた。私は彼らの首を絞めたくなった。
私は彼女たちに微笑みかけながら、あれこれと提案した。それに彼女たちは若くはないのだ。20歳より30歳近い子もいるし、みんなそれなりに分別のある年頃だ。私が少女だった頃友人たちと楽しい時を過ごした。少しは浮気もしたけれど、でも人前で馬鹿騒ぎするようなことはしなかった。特に仕事中はね。8年前私がここに来たとき、当時の若者たちは、少なくともその大半は分別のある品行方正な少年少女であった。
しかし、彼らは結婚したりいなくなったりして、現在の権力者の世代は分別も野心も実行力もないようだ。その結果私は使い古された安っぽい、場違いな、衰退したような気分で帰宅した。そして、前述したように私は泣いた。今朝はとても疲れていて教会に出かけることができなかった。
一日中できる限り休んで、今夜はもっと勇気を出してこれからのことを考える決意をした。この惨めなことをやり遂げる勇気と決意が湧いてきた。
私の日記のもう1巻が完成した。他のどの日記よりも短い期間、4年弱をカバーするものだ。しかしその4年間には一生分の感情が詰まっている。この日記を書き始めてから戦争は終結した。私は新しい巻を始めるが、その巻の中には、私の思い出の中にしかフレデは存在しないという苦い確信がある。
彼女の生きた足跡は記録されず、私の家の敷居を跨ぐことも炉辺で笑うこともない。生と死の門は私たちの間で開いては閉じ、私はこちら側に彼女はあちら側にいる。宇宙の夜が終わったとき、彼女と私は再びお互いを見つけるだろう。そうかもしれない。だが私は今彼女が欲しいのだ。
(リーガル判原書第4巻終わり)

1919年12月22日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
時には...幸運にも...恐れることが、とても楽しいことになる。私は今夜のゼファーでのS.S.のコンサートを恐れていたんだ、特にバギーでの長い寒い往復をね。しかし寒くはなかった。今日はとても穏やかな日だった。
夕食後にユアンとチェスターと私が出発したとき、私たちは間違いなくこのドライブを楽しんだ。雪がちらついたため、夜は暗くならなかった。道路は良好で木々や野原、木立は心地よく、不気味で捉えどころがない。
まるで妖精のような秘密が隠されているようだった。チェスターは面白おかしくおしゃべりし、私はドライブを楽しんだ。コンサートとクリスマスツリーも素敵だった。チェスターが朗読し、ユアンが朗読と議長役を務めた。私は2回朗読をし、コッターの「土曜日の夜」も読んだ。
マクドナルド一家はその義務を果たし、木にぶら下がった立派なガチョウに相応しい(パーティーの具になったということか)。私たちがもらった最初の、そして唯一のガチョウだ。
そうです。帰りのドライブも行きと同じくらい快適だった。私は疲れていなかったというか、疲れが感情や想像力の高揚となって表れていたのだ。本当に疲れているときに、ときどき経験するような高揚感である。私の帰路のドライブは、空想の輝かしい冒険の7マイルフィルム(映画の情景のようだ)だった。

1919年12月23日(火曜日)
リースクデール、牧師館
S.S.のコンサートが終わった。素晴らしい夜で観客も多く、プログラムも満足のいくものだった。私にとっては2時間の悪夢のような時間だった。チェスターとスチュアートの世話のほかに、台詞をアレンジし、タブロー(演者にセリフを教える書付)を「走らせ」なければならなかったからだ。
舞台裏のカオスから秩序を生み出さなければならなかったからだ。そしてその裏では、ユアンが、いつもの通り今日一日より一層冴えない様子でいたので心配でたまらなかった。だから昨日の夜とは全く違う夜だった。
私はパーティーの道具を集め、息子たちを丸め(防寒の格好をさせて)、終わったことに深く感謝しながら厚く降り積もった雪の中を帰ってきた。

1919年12月24日(水曜日)
私はクリスマスの準備に一日中忙しかったが、ほとんど心は動かなかった。私はプディングとドーナッツを作り、ひたすらフリーデのことを考えた。今夜男の子たちのためにクリスマスツリーを飾っているとき、私は泣き崩れてしまった。チェスターが生まれてから初めてのクリスマスで「フレデおばさんから何ももらえなかった」耐え難いほどの孤独を感じた フレデどこにいるんだ!?
3年前の今夜私たちは一緒にいた。あなたは私の家にいた。最後の客として あなたが去ったとき、私は奇妙な寂しさを感じたのを覚えている。

1919年12月25日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール
最も悲しく最もつまらないクリスマスが終わった。私は感謝している。私は寒くて厳しい灰色の朝に起きて、リリーが家に帰ったので朝食をとった。息子たちがツリーを見て喜んでいる間に朝食をとった。それから私は夕食を作ったが、煙の出るコンロと熱くならないオーブンのためにとても苦労し、私の神経はボロボロになってしまった。夕食を食べたのは2時、そして食器を洗ったのは4時だった。この頃になる頭痛がひどくなってきた。
アスピリン錠を1錠飲んで、横にならなければならなかった。1時間後にはアスピリンが効いて痛みは消えたが心身ともに疲れ果ててしまった。一日中、家族以外には誰とも会っていないのだ。外界は灰色で寒々としていた。ユアンは元気がなく頭の痛みを訴えていた。
郵便物もなく、元気づけられたり、刺激されたり、励まされたりするようなことは何もなかった。でも、もう終わったのだ。フリードのいない初めてのクリスマスだ。子供たちは楽しく過ごした。それが今の私の一番の関心事だ。
この頭痛は、23年前から定期的に起こっている。21歳のときまでは、はしかや猩々緋熱のような病気にかかったときを除いては頭痛に悩まされることはなかった。
しかしベデックでの冬の後、定期的に頭痛に悩まされるようになった。頭痛の原因は神経性で、その原因はおそらく、あの冬に私が抱えた抑圧された情熱と苦悩にあるのだろう。私は薬や医者などあらゆるものを試したが効果はなかった。10年もの間私はこの病気に苦しみ、苦痛から解放されることはなかった。
何時間か経って、胆汁を吐くまで痛みが和らぐことはなかった。すると一日中疲れ果ててしまった。痛みよりもっとひどいのは憂鬱で、気だるく、神経が不安定になることであったが、これはいつもその前に起こることであった。
13年ほど前、私はアスピリンのことを知り試してみた。それはまるで魔法のように効いた。それ以来一錠ですぐに治るので、あまり苦にならなくなった。しかし痛みが出るまで飲んでも意味がない。左の眉間の痛みだ。その前の不快感はすべて我慢しなければならない。今、もし私の神経症が心配や孤独に耐える力を奪っていなければ、これほどつらいことはなかっただろう。

1919年12月26日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日は珍しく調子が良かった。頭痛の後はいつも、まるで痛みで押しつぶされたものが、倍増したエネルギーで跳ね返ってくるかのように。
M.フレイザーがお茶を飲みに来てくれて、ちょっとした知的な交友関係が私に必要な刺激を与えてくれた。私に必要な刺激であり、続ける勇気を与えてくれた。今夜は泣き寝入りしないぞ。

1919年12月28日(日曜日)
...今日、古い日記を書き写していたら、ベルモントでの最初の1カ月とその間の出来事を書いた部分に行き着いた。本当に彼らは不条理なペアであり、むしろフルトンは不条理だった。二羽のガチョウは私のことで喧嘩をし冬の間口をきかなかった。フルトンは私が彼を評価しないことを決して許さなかった。
彼は私に敵対し、私を愛するのと同じくらい辛く理不尽に私を憎んだ。数年後、彼は聖エレノア学院のテイラー嬢と結婚した。3人の娘を持ち、ベルモントの旧家に住んでいる。
アルフは結婚しなかったが、それは初恋を果たせなかったからではない。誰も彼を相手にしなかったからだ。彼の野暮ったい風貌が災いしたのだ。でも、私はずっとアルが好きだった。ベルモントで一緒に過ごしたあの冬、私はアルフにちょっとだけ惹かれたんだ。あまり深い関係にはならなかった。
私はその芽を摘み取り、誰も、特にアルフ自身はそれを疑わなかった。私は、アルフも私のことを悪く思っているのだろうと思っていた。でも数年前メアリー・ローソン(大)叔母さんが亡くなる直前、叔母さんに会いに行った。(アルフが叔母さんに)私のことを話しながら、「私ほど好きな人はいない」と言ったと。だから私のことを大切に思ってくれているのでしょう。
彼は母親と一緒にセント・エレノアに住んでいて、私が聞いた彼の最後の報告は、彼が興味を持ったのはお金の蓄えだけだったというものだった。それは嫉妬による批判かもしれない。あるいは真実かもしれない。大人の願望はすべて妨げられ餓えていたのかもしれない。
エドのことはあまり聞いていない。彼はよく放浪しているようだ。この前マートル・ウェッブ(グリンゲイブルズの主)が、"エドが成功しなかったのは" "うぬぼれが強かったから" "だと言っていた。彼はいい教会の職を簡単に手に入れることができたが、"長くは続かなかった" と。
彼の妻は利口でおしゃべりな女性で、人前で話すのがとても上手であった。二人には子供もいない。これはエドにとっては残念なことであったろう。しかし彼は決して誰と結婚しても、子どもはできなかったと思う。エドと婚約していた頃は、彼に何が欠けているのか、男をよく知らなかった。今となっては、何か欠けているものがあるのだと思う。だから、理解できないけれども、彼に不思議な嫌悪感を抱いたのだと思う。

1919年12月29日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール
今晩、ギボンの「衰亡」を読み終えた。読むのは3度目だが、結婚してからは初めてだ。もう読む時間を見つけることはできないだろう。記念碑的作品である。ギボンほど冷たく非人間的な歴史家を私は知らない。歴史を記録する機械のようだという感じがする。このことが適切な公平性をもたらしている。
それはまた、結局のところ彼の文体の単調さとでもいうべきものに大きな責任(原因)を負っている。というのも彼の文体は単調だからだ。彼の歴史の中で、つまり機械の背後にある知性を垣間見ることができるのは、彼の歴史の中でほとんど唯一の部分であり、キリスト教とそのようなものについての有名な章である。
キリスト教に関する有名な章と、このようなカップリング!――狡猾でスパイシーな汚らわしい物語が散りばめられている。当然ながらこれらの章は、つまりこの著作の最も興味深い部分である。
というのも何事も面白くするのは個性だけだからだ。とはいえ前述のスキャンダラスな逸話についてはピューリタン的な味付けはしていないが、でも、たまにはちょっときわどい味付けもいいものだ。しかしそれは調味料である。やり過ぎると吐き気を催す。ギボンはやりすぎはしないが、話を書くときの彼の微笑みは、むしろカルナンの円柱のまわりで突然、サテュロスが睨みをきかせているような効果を与える。
 

1920年

1月1日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
この1週間は最高で零度(摂氏-17.78度)、最低で20度(摂氏-28.89度)から22度(摂氏-30度)の厳しい寒さが続いた。これを上回る日は両手で数えるほどしかない。
今週ベッドの外に出て本当に暖かかったのは、両手で数えられるほどだ。我が家は惨憺たる寒さだ。
煙突の掃除が必要でひどい煙が出るからだ。11月にユアンに掃除をさせようとしたのだが、病み上がりで無気力になってしまい、なかなかやってもらえなかった。でも早くしないとこのままではいけないと思い、厚手のセーターを着て、石油ストーブを焚いて食卓のそばに座っているのだが、私の足は氷のようだ。こんなに寒さに悩まされたのは、ベルモントのフレイザーズで過ごした冬以来だ。
今週はユアンの調子がいいようだ。社交界に出るととても元気だ。でも家では退屈で、刺激的な友達にはなれない。(おそらくモンゴメリのせっつき方がウザいと思っていたのだろう。ユーアンのおじさんが一言話すたびにおばさんは矢継ぎ早に何言も話してしまうという証言もある)
春になれば、グラスゴーにいたときのように回復して元気になるのではないかと期待している。しかしときどき恐怖に襲われる。彼のメランコリアが定着してしまったような恐ろしさを感じ、こんな生活を何年も続けることができるだろうかと自問する。―― "(ユーアンは、モンゴメリのせっかちな性格について行けなくて「わしは呪われている」と言い出すようになったのかもしれない)
私たちは木曜日にアクスブリッジまでドライブし、それからジャス・マスタードの家でお茶をした。水曜と木曜の夜も外で過ごさなければならなかった。
冴えない人たちとの夜の楽しみは、寒いドライブとそれを補うほどのものではなかった。そのうえ、ユアンはたいていの場合、外では陽気だが、ときどき気難しくなり、曖昧な発言で、いかに会話に注意を払っていないかがわかる。(ここでもモンゴメリのせっかち症が現れている)
このため、私の神経はひどく疲弊し、家に帰ると身体はひどく疲れ、寝不足になっている。この1週間で本の執筆ができたのは2日だけだった。
金曜日の午前中は、ゼファーに一日滞在するために出発した。北から西から吹き付ける風は、まさに歯がゆかった。これほど寒い日は初めてだ。しかし私は寒くなかった。セーターやコート、毛皮を着込んで、形が崩れるほどになっていた。足元には熱々のレンガがあり、それが私を温めてくれていた。
だから私は鼻を襟に埋め、外界を忘れて、アインシュタインが発見した、光の性質に関する驚くべき新発見について考察していた。この驚くべき発見が、200年来の科学者の信念のほとんどを一変させることになるとは不思議なことだ。
この驚くべき発見が、私たちの旧世界を構成していた他のほとんどすべてが動揺し、革命化し、あるいは粉々に引き裂かれる。その結果は、おそらく最終的にはすべてのものが発展するすばらしい時代となる。
しかし、光が物質であれ振動であれ、この地球を、少なくとも私たちの住む地域を暖めるに足るだけの光は金曜日にはどこからともなくやってこなかった。8マイルのドライブを終えたとき、私は周りの物質世界から自分を切り離すことができない(空想にひたっていることができない)ほど、寒くなり始めていた。
夕食には、鴨のローストなどおいしいものを食べた。私はこれまで「おいしいものが好き」ということを、恥じるべきことだとは思っていない。正直なところ私はおいしい食卓がとても好きだ。自分でもテーブルを用意しているしそこに座るのも好きだ。モンゴメリーの古い伝統で、「何を食べてもいいんだ。と言う人がいたら、それはウソをついているか、貧弱な人間だと思い、世の中でほとんど役に立たず、魅力も力もないのだと結論づける。
そしてこの結論は、ほとんどの場合、事実によって裏付けられていることがわかったということだ。だからこんな日にゼファーに行くのは、そのためでも、夕食のためでもないのだが。それでも行かねばならなかったのだから、「おいしい肉」はちょっとした補償であり、その代償として私は心から歓迎した。
私たちは別の家で夕食をとった。それからユアンはギルドのビジネス・ミーティングに出かけたがしかし私はもう限界だった。無害で不燃性の話題で延々と世間話をしたり、オーバーシューズを脱いだり履いたりするのに疲れた。
オーバーシューズ、オーバーストッキング、帽子、ベール、ミューティア、余分なアンダースカートセーター、スーツコート、毛皮のコート、手袋2組、マフを着たり脱いだり。そして私はリリー・シャイアーの家に向かった。シャイアーの家に行き10時までソファに横たわって休んで、静かに過ごした。
10時、私たちは家に向かって出発した。風は背中にあたり、それはあらゆる違いを生んだ。月光が薄っすらと差し込む幻想的な妖精の世界をドライブした。月明かりが薄い雲を照らしていて、そこから細かい雪が浮いている。
ユアンが静かになったので、私はまた冒険と輝きに満ちた理想的な生活の中を歩き回ることになった。理想的な冒険と輝きに満ちた生活を送り、家路につくのが楽しくなった。
今日は出掛なかった。この一週間は大変だったが、これからもっと大変なことが待っている。だから、家で少し休もうと決心した。
今は1920年だ。1919年は私の人生の中で最も恐ろしい年であった。私の夫が体質性憂鬱症を繰り返していることを知った年である。再発する体質的なメランコリアであることがわかった年である。私はその夜明けを喜んで迎えた、敵の戦争が終わったので平和と喜びと煩わしい世話からの解放の年を待ち望んでいた。
楽しみだった。しかしこの年は、ほとんど最初から、なんと恐ろしい年だったことだろう。だから私は1920年から身を引いている。もう二度と新年を喜びや期待を持って迎えることはないだろうと思う。

1920年1月5日(月曜日)
リースクデールの牧師館
今朝は氷点下23度だった。午前中は、明日ここで行われるギルドの幹部会議のための食事を作った。明日の夜ここでギルドの幹部会議がある。
今晩、リリー(メイド)と私、そして男の子たちは、結婚するエイダ・マーキスのためにアレック・リースクの家で水曜に結婚するエイダ・マーキスのために開かれた「シャワー」に行った。ユアンはゼファーに行くことになった。
スチュアートは雪の中を歩いて帰れないので、私はみんなが帰るまで待たなければならなかった。12時をとっくに過ぎていたが、私は眠ってしまったチェスターとスチュアートをうらやましく思いながら涙が出るほど退屈していた。

そして起きて服を着せられ、ぐったりして不機嫌になるのであった。今家にいる。二人をベッドに寝かせ、私の日記のところに来て、ちょっと一緒に遊んでいる。
このままでは、リースクデールの女主人も、このボトルでお湯を沸かさないといけない。リースクデール邸の女主人は、この冬このボトル(湯たんぽの事か)なしでは硬く凍りついたまま何度も発見されたことだろう。
そういえば、この後もっといいことがあるといいんだけど。今日の午後絶望に打ちひしがれて、リリーと私は仕事に行き、台所のパイプを下ろして煙突を新聞紙と石炭油で焼き払った。これは長い作業で煙があらゆる隙間から流れ出て、家の中を暗澹たる気持ちでいっぱいにする初期の段階では、非常に下品な作業だった。(煤で詰まった煙突を掃除した)
しかし、最終的に私たちはその作業を完了させた。でも結局はうまくいった。そしてまだ悪臭を放ち、私が煤と汚れで神と人の前に姿を現している時、玄関のベルが鳴った。リリーはベッドとカーペットに煤が落ちた予備の部屋の問題と格闘していたから私が出た。訪問の主はリースクデールに滞在していた「おしゃれな」クリスマスの訪問者だった。
その時一番会いたくない人だった。しかし私は微笑みをたたえ、私は彼女を応接間に連れて行き、まるで他意がないかのように彼女に話しかけた。最後に彼女の背後でドアを閉めたとき、私は
"ざまあみろ" と呟いた。
しかし、リリーが再びストーブに火をつけると、その火は心躍るようなドラフトで華麗に燃え上がり、私たちは再び前進することになった。
チェスターは7歳にして初恋の痛手を負っている。数週間前、彼は私に大人になったら「結婚する女の子を選んだ」と言ったが、その女の子は「V・ハリソン」(フルネームは神聖すぎて口にするのもはばかられるからだろう)であることを極秘に告げた。
それ以来彼は、希望に満ちた気持ちと絶望の苛立ちを交互に繰り返すようになった。彼は、V・ハリソンがダグラス・マディルを好んでいるのではないかと、期待と絶望を交互に繰り返していた。ある日彼は目を輝かせて、彼女が彼を「私の愛する小さなチェスター」と呼んだと教えてくれた。
ある日彼はスチュアート(弟)に告白した。ヴェルマを見るとウィンクせずにはいられないと。でも今日は、「ダグラスに取られるのが怖い」とため息をついていた。 "早く言ってあげればよかった" と嘆いていた。
ヴェルマはというと、私の目には......私が黄疸が出ているのかもしれないが......粗い顔立ちでかなり大胆な少女である。10歳の少女で魅力も美しさもまったくなく見える。しかしキスは好意で行われ、明らかにチェスターは彼女を好ましく思っている。(10歳のヴェルマが7歳のチェスターに、あんた可愛いわねとお世辞でキスをしてあげたのだ)
チェスターとスチュアートはこのところ、クリスマスの本を読みふけることで頭がいっぱいだ。スチュアートはまだ絵だけだが、チェスターはこの年齢にしては驚くべき読書家である。確かに彼は読みすぎのような気がする。目を悪くしないか心配である。
ベッドでの読書は断固としてやめさせた。もし私が許可すれば、彼はある晩来客があって私が目を離したとき10時まで読んでいた。私は何時間も眠っているものと思っていたのに、10時になって発見してぞっとした。
ピーターラビットやボビー・クーン、オル・ミスタ・バザードの冒険に夢中になっていたのだ。この二人は私の記憶力を受け継いでいるようだ。これは嬉しいことだ。
ユアンは記憶力がとても悪いのでこのままでは「分身」してしまうのではないかと(子供にもそれが移ってしまうのではと)心配だった。彼の記憶力はとても悪いのだ。
普通ではありえないほど記憶力が悪いのだ。このことは、あらゆる場面で彼の重大な欠点となっている。(モンゴメリは旦那が自分のことをウザく思っていることを最後まで気づかなかったのではないか)
ユアンは特に自分の職業や社会との関係において(牧師の務めに関すること)読んだものはまったく記憶に残らないようで、知性や人生を豊かにすることに関しては読まないほうがよかったかもしれない。
しかし、チェスターとスチュアートは何でも簡単に長く覚えているようだ。

1920年1月7日(水曜日)
一日中、エイダ・マーキスとその夫のために夕食の準備に励んだ。今日の夕方5時に結婚するためにやってきたエイダ・マーキスとその夫のために一日中夕食の準備に励んだ。普段はもちろん結婚するために来たカップルのためにお茶を用意することはない。エイダは特別な友人だし 他の理由もある
見送りをしたかったのだ。だからサラダとケーキとビスケットを作り、きれいなテーブルを用意した。ピンクのキャンドルでテーブルを飾って、表面上はうまくいったのだ。でもユアンは一日中とても惨めで、特に今日の午後はそうだった。今日の午後は、落ち着きがなく憂鬱そうだった。こんなにひどい発作は久しぶりだそうだ。
今日の夕方リリーが食器を洗って片付けるのを手伝った後、私は泣き崩れてしまった。でも涙が私を癒してくれることはありません。ただただズキズキする頭痛がするだけだ。(病気にばかりなられていては私の面目が立たないではないかと)

1920年1月9日(金曜日)
...今夜、子供たちを寝かしつけると、チェスターが熱心にこう言った。
今夜は『ハイアワサ』の一章を読んでくれるの、お母さん? 彼が2歳のときから、私はいつもピーターラビットのシリーズなどを読んであげていた。でも最近は詩人の作品を読んでいる。私が子供の頃、「ハイアワサ」は素晴らしい詩だった。私はそれを楽しんで飽きることがなかった。
私はもう何年も読んでいないので、正直言って今となっては、かなり貧弱で薄っぺらい印象だ。でも、チェスターはこの本に魅力を感じているようで、素晴らしいことだと思う。

1920年1月13日(火曜日)
リースクデールの牧師館
今日の午後は宣教師の会合があり、ステラの手紙にはうめき声や苦情がたくさん書かれていて、今日は台無しになった。私は集会を開き、少しでも活気と感動を与えようとした。
でもあの固くて太った、面白味のないおばさんたちの輪を見たらもうだめだ。どんな小さな火も消えてしまいそうだった。私の魂から生気を吸い取ってしまったのだ。
でも今夜はタルキントンの「17歳」を読んで、久しぶりに笑った。この本はあまり繊細な本ではない。文学的な魅力はないし戯画に近い。しかしとても堪らなく面白く、その笑いは私に恩恵を与えてくれた。この本は私の無気力な魂をバラ色の光で満たし、その日一日の終わりを迎えるはずだった緊張の涙を、完全に断ち切ってくれた。その日は終わった。

1920年1月16日(金曜日)
2年前の今頃は3日間も厳しい寒さが続いた。その3日間を除けば、今日は私がこれまで耐えた中で私の人生において最も寒い日だった。
昨日はとても霜が降りていて家の中が快適ではなかった。しかし私は何とか2~3時間、Book10(図書室か何かの名前であろうか)で作業した。午後はゼファーに遊びに行った。まつ毛が凍るほど寒かったが天気は穏やかで明るかった。毛皮とレンガとたくさんの服のおかげで、車での移動はそれほど悪くなかった。オランダ人女性のような気分でドライブできた。
私たちが訪問した人々は、とても親切だった。暖かい家とおいしい夕食があった。ユアンは久しぶりに元気そうだった。夕食の後私たちはギルドに行った。夜が寒かったのと、リンクでカーニバルがあったのと、あとあえて言えば、村の一家が天然痘になったせいもあって、私たち以外に4人しかいなかった。
しかし私たちはギルドを楽しんでから帰途についた。私の足元に置いてある煉瓦が冷たくて、白と鉄の夜のドライブは気持ちのいいものではなかった。(雪と暗闇のたとえ)この8年間、Zephyrから家に帰るのに、このような惨めなドライブを何度したことだろう。
この8年間で、いったい何回ゼファーから家に帰ったことでしょう。この8年間ゼファーから家に帰るのに、あの情け容赦のない坂道は大嫌いだ。(雪道で登りにくいのか)しかし私たちはそれらを乗り越え、Quigley's Hillに来たとき私は少し寒いという程度で、それほど寒くはなかった。Quigley's Hillは、かつてCavendishにあった「David's Hill」のようなものだ。ちょっとやそっとのことでは埋まらない場所だ。
昨夜はヤスリがかかっていて道はとても横になっていた(斜めに坂がついていたのか)。一気に乗り越えて雪に埋もれてしまった。運良く馬が止まってくれたので起き上がったが、その後柔らかい雪に足を取られてしまいユアンが雪をかき分けて道路に出るまで、しばらくかかった。
車を道路まで連れていくのに時間がかかった。すべてが破壊されていなかったのは幸いだった。私たちが再び乗り込む頃には私は手足が冷たくなって、今にも泣き出しそうだった。ユアンは深い雪の中に飛び込んだせいで、心臓の調子が悪くなってしまった。私は不安でたまらなかったが、家に着くとユアンはすっかり元気になっていた。
家に入り、温かい飲み物と湯たんぽを用意してすぐにベッドに入った。ベッドで、快適に暖かく過ごした。しかし今朝は...主よ、私はどんなに外に出るのが嫌だったか。暗かったし、寒かったし、窮屈な運転で筋肉痛になった。しかし私は起き上がり、服を着て子供たちに服を着せて(2階からか)降りた。しかし私は暖かくなかった。暖炉の火にもかかわらず、この家は一日中、納屋のようだった。我が家のオイルヒーターが故障しているので、それで暖炉を補うことができないのだ。私の足が冷たくて凍傷になった。しもやけはロマンチックではない。小説のヒロインがなることはない。しかし、拷問には罵倒されるものである。
今夜の3時間、私はステラが好んで言うように「地獄の責め苦」を味わった。ステルが口癖のように言っていた しかし子供たちをベッドに寝かしつけ、そこでぐっすり眠りこんでいたよ。このままでは食べられそう。
ユアンと私は今応接間にいる。やっと快適になった。ダフはペットのロッカーで眠っている。私のしもやけも治った。外では "北東の雪嵐" が吹き荒れている。このままでは閉塞してしまうのではと心配にる。しかし私たちには屋根がある。
屋根があり、家は普通の納屋より寒くなく、食べ物もたくさんある。私たちはもっと悪いかもしれない。元気でニャールのメンソレータムを塗ろう。

1920年1月18日(日曜日)
リースクデール、マンズ
また0度(摂氏-17度)。スチュアートを連れ出すには寒すぎるし、リリーの番なので出掛けなかった。(外の仕事か何か)今日、日記の第一巻を書き写し終えた。私は面白い仕事だと思った。読むことよりも、書くことの方がずっと過去が鮮明に蘇る。一日一日書きながら、まるでそれを繰り返しているようだった。
次の巻はそれほど楽しいものではないだろう――少なくとも最初の部分は。エドウィン・シンプソンとの婚約を扱ったものだからだ。私はその「生き直し」を考えると心から嫌になる。

1920年1月31日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日はひどい一日だった。零下20度という厳しい寒さと鋭い東風が吹いている灰色の冬の世界、寒々とした家、心配事。ページ社と彼らが出しているこの昔話集(アヴォンリーの記録か)に関連したある問題について心配している。
そしてアスピリンを飲んでも治らない鈍い頭痛が続いた。頭痛のせいで他のすべてのことが耐え難くなり、いつもの癒しである空想の冒険ができないからだ。
この力のおかげで、私はこれまで何度も精神的な崩壊から救われたのだ。私は物事をとても鮮明に想像することができるので現実の冒険と同じような刺激的な身体的効果がある。
私は本当にゾクゾクし、輝き、喜び、興奮するのだ。二重生活によって「耐え難い現実」から逃避し、神経を節約してきた。この力に私は何度も深く感謝した。(想像の世界でも赤毛とかだけは無くしてしまえないんですって)
頭痛がしたり、あまりにしつこい心配をするとその力を失ってしまう。知的には想像できるし、物語を作ることもできるだろうが、それを実現することができない。そのため、私は頭痛や心配事のために良い効果を得ることができず、麻痺した灰色や単調な不快感に対する解毒剤も得られない。
2通の手紙が届いた。1通はステラから、もう1通は16歳の年端もいかない拝み屋(ファンのことだろうが、これはまた皮肉でいい表現だ)からだった。
「親愛なる不思議な人へ」と書いてある。ファンの手紙の方は少女のような熱意と英雄崇拝に満ちており、ステラのいつもの唸り声とエゴイズムの合成語に対する心地よい解毒剤だった。
今夜、1月が終わる。オンタリオでは1月としては記録的な寒さだった。水銀がゼロを超えた日は3日もなかったと思う。道路脇のアーサー・マスタード氏は "雪解けはまだ先だ" と 「雪解けのない1月を見たことがない。
「何百回と見たよ!」と彼は言った。しかし彼はついに雪解けのない1月を見たのだ。この憂鬱の中で、ひとつだけ明るい話題がある。ユアンはこの2週間はかなり良くなっている。時折、頭痛というか神経性の不快感の発作が起こる以外は、ほとんど元気そうだ。
頭痛......というより、頭の中の神経的な不快感を、その名で呼ぶのが便利なのだが......。近いうちに完全に快復する可能性がある。少なくとも私はそう願っている。
今日の夕方、私は古い白紙の本に目を通したが、そこにはかつて私が小さな引用やエピグラム(主張のある詩)を書き写したものがあった。その中には本当に素晴らしいものもある。例えば次のようなものだ。
"女性的な性格という奇妙な化合物は不愉快な味になる"(ヒステリーか嫉妬のことか)
男性的なものにも女性的なものと同じようにそれが言えると思う。私の知る限り優秀で善良で道徳的な人たちの中に、味に違和感を覚える人が何人かいる。

かなり邪悪な人たちの中には楽しい味を出す人もいる。祈るように混ぜるミスの責任は誰にあるのだろう。料理人がうなづいたのか......。
オリバー・ウェンデル・ホームズは賢明なことをたくさん言っている。"女は天使よりも男と話したい"
そうだろうな。なぜだ? 天使に何を言えばいいかわからないからだ。天国の噂話なんてできないし、天使が地上の噂話に興味を持つとは思えない。新しい発見や高揚の知らせでさえも。私自身は天使とは非常に気まずい関係にあると思う。
天使と一緒にいるのは気が引ける。しかし、私はまだ適切な種類の天使と話すことほど楽しいことはないと思っている。正しい人間と話すことほど楽しいことはない――ただし、これは書かない。私の子孫はショックを受けるかもしれない......。
「シャーロット・ブロンテ」は言う 「尊敬する友人や知人の間でさえも」近くにいてほしい人、見ていてほしい人、待ち望んでいる人、そんな人ばかりではない、と。
"患者に寄り添う看護婦のように"
いや、誰でもというわけではなくごく少数の相手にだけだ。どうりで昔の神々はいつも人間から姿を隠していた。そして人が物理的に、物理的に、物理的に近づいてくることは、なんという拷問であろうか。(嫌な奴の身体が近づいてくるのは耐えられないね)
物理的にも、精神的にも、社会的にも、私たちの信仰の範疇に属さない人々が私たちの近くに来るのは、なんという拷問だろう。(異教徒の野蛮さには耐えられない)
バリ(ジェームス・バリーか)にはいいことがたくさんある。その中で特に私の心を惹きつけてやまないものがある。
"彼女が感じている鋭さは" "必要不可欠なものであり、それを必要としない者は誇りに思う"
これほど真実味のある言葉はない。もし私たちが強く感じたら、私たちはその感情を視覚から遮断しなければならない。自分の感情を見えないように包まなければならない。血まみれの生々しい感情を裏切ることは卑猥である。感情を表に出せば世間から軽蔑され、出さなければ嫌われる。
「人の性質には、好悪の区別がある。ある者は個人的に敬遠する人もいる。理性では善人だと認めていてもだ。
欠点があってもまるでその空気が私たちに良い影響を与えているかのようにみせる人は "良いことだ"(雰囲気の問題ね)
またブロンテか。彼女は素晴らしい心理学者だった。しかし彼女は、私たちの誰もが発見し、気づいていること、そして誰も説明できないことを、はっきりとした言葉で表現したに過ぎない。"まるで空気が私たちに良い影響を与えているかのように" ああ、素晴らしい比喩だ!
実際、人はその場の空気に影響を与えるような個性の微妙な呼気を発しないのだろうかと思う。うちの教会にもそういう人がいるんだが何も言えません。誰も何も言えないのです。
しかし、私はその女の子がいる部屋は居心地が悪くできれば出てしまいたい。彼女はこの点では、これまで出会った誰よりも強い(不快な)影響力を持っている。
東方で出会った人の中で、このように因果応報のない、確かに不可解な反感を(この人は汚らわしいと)抱いた人は6人ほどいた......。
「人生というものは、同じ相手に二つの相反するものを与えることはない。王様の支配と農民の平和の両方を与えることはない。"アーメン!」。
世を忍ぶ者のような平穏と充足感とともに、想像力と翼の贈り物を持つことはできない。
(つまり神経質でも想像力があった方がいい。鈍感な凡人はウザイと言ってるのだろう)

しかし翼の贈り物は、結局のところ平穏や満足よりも優れているのである。オリーヴ・シュライナーの『アフリカン・ファーム』は、昔、私が愛読していた本の一つである。愛について忘れがたい素晴らしい一節がある。
「同じ名前の愛でもさまざまな種類がある。あるものは頭から始まり心臓に伝わり、ゆっくりと成長する愛がある。しかしそれは死ぬまで続き、与えるよりも要求することが少ない。もう一つの愛は、知恵を消し去り、生の甘さで甘く、死の苦さで苦い愛がある。死は一時間しか続かない。しかし、その一時間のために全生涯を生きてきた価値がある。
愛には花のように多くの種類がある。枯れることのない常盤木、風を待って命を吹き消すスピードウェル、血に染まる山百合。山百合は一日だけ甘美な香りを漂わせ、夜は塵に埋もれてしまう。 スピードウェルの清らかさ、エバーラスティングの美しさ。 山百合の暖かさ。友情も情熱も崇拝もすべて兼ね備えた愛はないのだろうか? 
そうですね、すべてを包含する愛はあるはずだ、しかしそれは青いダイヤモンドよりも希少だ。私たちの多くは、それよりはるかに少ないもので満足しなければならないのだ。これまで私はさまざまな人をさまざまな方法で愛したが、しかし情熱と友情と崇拝の念をこめて、私の本性のすべてを発揮して、一人の男を愛したことはない。そのような愛は、その歓喜と驚きと幸福にもかかわらず、女性を絶対的な奴隷にしてしまうからだ。
ご主人様が天使より少し下でなかったら......。(優れた人でなかったら)その結果は、いずれにせよその女性にとって悲惨なものとなるだろう。 しかしそれでも、そのような愛は災難に値するかもしれない。少なくともその記憶は思い出が残る。私のハーマン・レアードへの愛は不完全なものですが人生の残りのすべてが灰色に見える(魅力のない物にしてしまう)思い出だ。子供たちの命とフリードの帰りを除けば何物にも変えられない思い出だ。だからそこにいるんだ! 誰にわかる? 
ラスキンはこう言っている 「味覚は道徳の一部であり指標であるばかりでなく、唯一の道徳である。それは 生きとし生けるものへの最初で最後の、そして最も近い試練の質問は、「あなたは何が好きですか? 好きなものは? 『何が好きか教えてくれたら、あなたが何者か教えてあげよう』」。
さて見てみましょう。私は何が好きですか? 自分の子供も好きだし、シラミも、太っている赤ちゃんも、きれいな赤ちゃんも、どれでも好きだ。どんな本も好きだ。良くできた本ならね。宗教的なものでも哲学的なものでも、ユーモアや誇張、猥雑さなど。私が好きなのは自分で本を書くのも好きだ。猫や馬や犬も好きだ。カーリングも好きだ。森や山や星や木や花。きれいな家、家具付きの家。ヴィクトローラのレコードとヴァイオリンの音楽が好きだ。私はきれいな陶器やガラス、古い家、宝のようなものが好きだ。寝心地のいいベッドときっちりした湯たんぽ。私は良い男性にキスされるのが好きだ。宝石ときれいな服、派手な仕事も好きだし、料理も好きだし、他の人が作ったおいしいものを食べるのも好き。私は自動車とドライブが好きだ。

歩くこと、計画的な生活が好きで、たまに痕跡を残すようなこともする。好きなのは暖炉の火と月夜の晩。おしゃべりな手紙が好き。褒め言葉が好き。私は嫌いな人が嫌われるのを見るのが好きだ。自分の髪型が好きだ。自分の格好が好きだ。寝るときにおやつを食べるのが好きだ。私は外食するのが好きだ。私は他の人を助けるのも好きだし、自分自身を助けるのも好きだ。私は夕日と写真と海水浴が好きだ。日記を書くのが好きだ。古い手紙を読むのも好きだ。私はハウスクリーニングが好きだ。私はジョセフと言う人間を楽しませるのが好きだと思う。白昼夢を見るのが好きだ。私はコンサート、良い映画や演劇を見に行くのが好きだ。私はあるいは私が牧師に嫁ぐ前にはダンスとホイストをするのが好きだった。好きなこと聖書を読むこと――そのほとんどを。(創世記の民話や出エジプトのドラマも好きだし、豪華な調度品も好きだ。王たちの行い、そして 詩篇の良い悪態、ソロモンの歌の暖かいイメージなど。伝道者の書のシニカル、箴言の世俗的な知恵、ルツ記の牧歌、預言者たちの燃え盛る炎、そしてイエスの教えのすばらしさや黙示録の詩も。) 私は良い説教を聞くのが好きだ。私はガーデニングが好きだ。私はおいしいスプルースガム(松やに)が好きです。私は夫が好きだ(精神的にね)。私は人に好かれるのが好きだ。私は良いジョークが好きだ。私は雨の日が好きだ。古い家が好きだ。私は私の意見に同意する人が好きだ。チョコレートキャラメルと ブラジルナッツ。好きなものは...禁酒法時代には好きだったオクストビーさんのタンポポ・ワイン。香水が好き。厳選された人たちとのちょっとしたゴシップが好き。好きなもの イートンの店で買い物をすること さてさてラスキン、私が何者か教えてくれ......。

1920年2月3日(火曜日)
今夜古い日記を書き写していたら、次のような一節を見つけた。この文章は古い信念から遠ざかっていることを書いている。と書いている。その日以来私は信念を打ち立てた、というより信念は私の心の中でゆっくりと、そして確実に形作られているようだ。というのも経験や比較や考察によって、ある結論に到達せざるを得なくなったからだ。私は自分が信じていることをはっきりと知っている。しかしそれを白黒はっきりさせたことはない。
では今、それをやってみよう。私は善良で、美しく公正な、しかし全能ではない神を信じている。善であり全能である神を信じろというのは無茶な話だ。歴史と人生の条件を考えると、この二つは両立し得ないのだ。信じるということは、神は全能だが純粋に善ではない(神は身勝手ではないかと)と信じることは、多くの不可解な謎を解き明かすことになるだろう。とはいえ人間の魂が本能的に敬遠する信条である。それなら私は、善良ではあるが全能ではない神を信じる。
私はまた悪の原理も信じている。神の美しさに醜さを、神の善に悪を、神の正義に専制を対抗させる。神の光に闇を対抗させ、両者の間で無限の絶え間ない闘いが行われていると信じる。勝利は一方に傾き、他方はもう一方に傾く。今のところ私の信条は古くからのペルシャの信条である、アーリマネスとオルムズドの永遠の闘いである。しかし私はそれをペルシャ人から受け継いだのではない。私自身の心が合理的に一致する唯一の信条として、私の心がそうさせたのだ。
(この世は善と悪の力が闘争しているということだそうだ)

私は、もし私たちが善の側に身を置くなら、その結果は現世の私たち自身に利益をもたらすと信じている。そしてもし私たちの精神が肉体の死から生き延びることができれば、何らかの形で後世のすべての人生に利益をもたらすと思う。(後生が良くなる、すなわちカルマの法則)
その逆に、もし私たちが悪に屈服したり悪事を働いたりすれば、その結果は私たちに悲惨なものとなるだろう。そして私は、私たちの不法行為によって善の究極的な勝利がより早くもたらされる可能性を認める。(悪者が大勢現れるほど神の正しさが証明されるということか)
その勝利は、この宇宙の時代には来ないかもしれない。しかし破壊的である悪は、いずれは征服され長い年月の間、服従することになるのだ。その期間はおそらく永遠に続き。そしておそらくすべての悪のない永遠は、神にとってさえうんざりすることだろう。神もわれわれと同じように、達成よりも闘争に大きな喜びを見出しているかもしれないと思うかもしれない。おそらく光と闇が交互にやってくるのだろう。この小さな星系で夜と昼が互いに続くように、永遠という無数の時間を通して悪の満ち欠けが交互に繰り返されるのだろう。
これは私の信条であり、そうでなければ絶望的に私を当惑させるであろうすべてのことを説明してくれる。私を満足させ、慰めてくれる。
正統派キリスト教は、「私の天国への希望を取り除いてしまうのか」と非難している。天国への希望は地獄への恐怖とあまりにも釣り合いがとれておらず、私はどちらも信じないが、生命は神と共存しながら、転生に次ぐ転生で、生命は果てしなく続いていくのだと信じている。
善と悪が優勢になるにつれて、喜び、苦しみが生まれる。私にとってはそのような予感は、私たちに描かれている退屈な楽な存在よりも、はるかに魅力的なものだ。
安息と報酬の天国として描かれている味気ない存在より、はるかに魅力的だ。安息!? それはいいことだ。しかし人はその永遠を望んでいるわけではない。私たちが休息を求めるのは、新たな努力のための新たな力を得るためだ。褒美(ほうび) この人生においてさえ、一度味わった報酬はすぐにその味を失う。われわれの最高の報酬は、闘争の喜びである。

1920年2月14日(土曜日)
この一週間は、私の個人的な生活に関する限り、アーリマネスが昇天した週であった(悪魔が昇天するということは、悪魔の願いがかなったような悪い一週間であったという事か)。水曜日にユアンが古傷の神経炎にかかった。背中と肩の神経炎にかかり、それ以来ベッドに横たわったまま何もできないでいる。
一歩も動けず苦しんでいる。水曜と木曜はインフルエンザの軽い発作で、私自身とても惨めだった。昨日は本当にひどい一日だった。リリーとチェスターがインフルエンザでダウンした。私はほとんど動き回ることができなかった。仕事もできず、病人や無力な人々の世話をすることもできなかった。幸いなことに、ワーナーさんが馬や鶏に餌をやるなど、外の仕事をやってくれたので、私は外に出る必要がなかった。その日は雲が雪を吐き出すような、ひどく寒いくすんだ灰色の日だった。今日もそうだった。昨夜はChesterと一緒に寝られず、今夜はStuartが風邪をひいている。
私はペイジのことでいつも心配で、病気で疲れている。私は病気と疲れで4回も孤独な夜を過ごした。もしダッフィーがいなかったら、私は気が狂っていたかもしれない。
ダッフィーが私に寄り添って、"しっかりしなさい。私たちは "一緒に嵐を乗り越えてきたではないか" "今回も乗り切ろう" 本当にこの猫は私にとっての慰め以外の何物でもなかった。一人でもいいから看護婦を雇いたい。しかし、インフルエンザが蔓延しているため、そのような生き物は手に入らない。インフルエンザが蔓延している。会衆の半数が罹患している。

今日、ロリンズさん(ペイジとの裁判に当たっている弁護士)から手紙が来たんだけど、まだ開けていないんだ。明日までお預けだ。今夜は少し眠れそうです。そうすればどんなニュースや意見にも対応できるようになる。ということだ。
ペイジの件は、簡単に言えばこうだ。ジョージ・ペイジは1919年に私に、彼らは1912年版(1912年に私が渡した短編集の原稿)のコピーを持っていないと言った。昨年12月に彼は私に手紙を書き、私たちの合意に従って私に知らせてきて、彼らが1920年に出版するつもりであることを、私たちの合意に従って知らせてきた。
結局1912年版のコピーを見つけたので、それを使うというのだ。私は即座に騙されたのだと悟った。
彼らはずっと馬の話を持っていたのだが、今ではそれがよくわかる。というのも私が修正しなければ使わせないと知っていたからだ。しかし今彼らは契約によってこれらの物語を使う権利があると主張する。
私は、2つの理由から、これらの物語を使用して欲しくなかった。まず第一にアンの出る話が2つか3つあるが、これはストークスとの契約に違反することになる。(アンの出る物語を他社から出さないという契約に違反)
第二に、これらの原稿には、元の雑誌の話には出てこないものがかなりあった。ペイジがこれらのストーリーを私に送り返したとき、私はこの余分な材料を次の本に使った。今になって、このネタの繰り返しのような物語が出版されるのは、私にとってはばかばかしいことだ。
だから私はこの問題をロリンズ氏の手に委ねた。そして必要ならば、ページ社がその本を出版するのを阻止するために訴訟を起こすつもりである。
私が許可した原稿以外の原稿からその本を出版するのを阻止するために、必要なら訴訟を起こすつもりだ。彼らはなんという悪党なのだろう。(ペイジはアンの出る話でなければ人気が出ないからこの原稿「続アヴォンリーの記録」を出版しようと思ったのだろう)

1920年2月22日(日曜日)
先週の日曜日、スチュアートのために医者をよんだ。しかし彼は良くなってきている。リリーとチェスターは元気だ。ユアンの神経炎は良くなっているが、彼はとても冴えないし落ち込んでいる。
気候は非常に寒く、ロリンズ氏からの手紙によるとペイジは私の要求を拒否しているそうだ。つまり、本の出版を進めるということだ。
私はとても憂鬱な気分だが、この憂鬱な時間を過ごすためにプレスコットの "メキシコ征服" を読んだ。コルテスは驚異的な決断力で "度胸" で征服した。しかし何のために? 私はブルーになり、意気消沈している。
金曜日にトロントに入り、リージェント(通りの名前か)でアンをスクリーンで見た。それはよく撮れているきれいな小芝居だった。私の本からだと知らなかったら、決して気づかなかったと思う。風景もニューイングランドであって、決してP.E.アイランドではないのだ。メアリー・マイルズ・ミンターは私の生姜のようなアンとは全く違う、甘くて甘い(従順な)ヒロインだった。マシューは親愛なる人だった。
でも私の本のマシューとはまったく違う(かなりシャンとした老人だった)。マリラは平凡な女性で気難しく堅苦しい女性ではなく、"Ain't"(これは違うじゃないか)と言うようなありふれた女性だった。スカンクとアメリカの国旗が登場するが、どちらもPEアイランドでは同様に知られていない。後者には怒りの叫びをあげたくなった。
この劇(映画)は大成功を収めたが、私は一銭ももらってないぞ!」。そうか。まあページが喜ぶことを祈る。
昨日の朝、家に帰ったら(身体は)ほとんど凍っていた。ロリンズの手紙によると、この本(続アボンリーの記録)が本当に出版されるまで何も行動を起こすなということだ。私は一度に進めて、彼らの権利があるかないかの問題に決着をつけた方がいいと思うのだが。。

1920年2月27日(金曜日)
リースクデール、牧師館
朝早く起きて暖炉とレンジに火を入れた。夜中に全部消えてしまったからだ。この冬はリリーと私で炉を回している。というのも、ユアンはこの冬ずっと8時に寝て、翌朝11時か12時まで寝ていたからだ。家事に無関心なのもこの病気の症状のひとつだ。リリーは今日も元気そうだが(病気から快復せず)、まだ何もできない。私は第10巻(リラオブイングルサイドか)の1章を何とか書き上げかなり順調に進んでいる。
今日アメリカのある男性から手紙をもらったのだが、彼は自分が夢を見ていたことを私に伝えるのは当然のことだと思ったようだ。パトリック・グレイファーが生きている夢を見ていたそうだ。パトリック・グレイファー(灰色の毛並みということ)とは「ストーリーガール」に出てくる猫のことである。 ニューヨークの10歳の子からの手紙で、私の写真を送ってほしいと頼まれた。もし彼女が私の写真を持っていたいというのなら、古いドレスを着て今朝は暖炉と格闘し、灰やクリンカー(刷毛のような物)を「罵倒」している私の写真があったなら、そういう写真を送れればいいのにと心の中で叫んでいたが、それでは彼女は幻滅して死んでしまうだろう。
しかし、私は彼女に私が最後に撮った写真の復刻版を送ることにしよう。机の上でペンを手に、レースとシルクのガウンを着て、髪もそこそこに、インスピレーションに浸っているように見える。 レースとシルクのガウンを着て、髪はアーメン。埃っぽい灰のような女とは似ても似つかないごく普通の女だ。埃まみれ、灰まみれの暖炉のシンデレラとは似ても似つかない。

10歳の少女に送ったというのはおそらくこの写真であろう

1920年3月3日(水曜日)
風邪をひいている。ユアンが帰宅しだいぶ良くなったようだ。リリーも少しずつ良くなっている。どうにか乗り切ろう。でも、「やり過ごす」ということは生きていることではない。
私は電話が鳴るのが怖くて、毎日を過ごしています。"アボンレア異聞" (フューチャー・コロニクルオブ・アヴォンリーと言って、日本題アンを巡る人々)が 出版されるからだ。そしてもしそうなったら私はまた訴訟を起こすことになる。しかし、私はこのようなことを考えるのが嫌で、電話が鳴るたびに不安に駆られる...。
今夜、私は自分の日記のハーマン・レアードに関する部分を書き写し終えた。ほっとした。もうこれ以上白日のもとにさらされることはないだろう。これ以上苦しめられることもないだろう。

1920年3月12日(金曜日)
...古い日記に写していたところ、今夜ペンシー・マクニールのことを思い出した。かわいそうなペンシー! 私たちは幼い頃とても仲良しだった。あの頃は彼女が結婚してニュー・グラスゴーに移ってから彼女は私に奇妙な態度をとった。ニューグラスゴーに移ってから 会えなくなった。彼女は結婚から8年後に結核で亡くなった。
私は彼女が亡くなる前の夏、子供と孫が集まっている旧家で話をした。私は彼女があまりに痩せていることについて話し、もっと気楽に自分にチャンスを与えるようにと助言した。
「モード、私の人生は壊れてしまったのよ」と、彼女は悲しげに言った。私は、ある日彼女に会いに行った。その時彼女は回復しないことを知らなかったが、私は知っていた。その晩はとても悲惨な茶番劇となった。"友が次々と去っていく"

1920年3月14日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
あと2日、特に今日が大変だった。昨日は家の中がとても寒くて私は書くことができなかった。ロリンズ氏から手紙が来た。何か運命的な知らせがあると思い、そのため寝る前まで開封せず、仕事に支障が出ないようにした。暖炉で最後の「ラッセル」(灰をかいて残り火を強くする)をした後私はそれを読んだ。
その中にはペイジ社の弁護士ネイ氏からロリンズ氏にあてた手紙のコピーで、ペイジ社が1912年製を使うということが書いてあった。ペイジ社は1912年版を使いこの問題を解決するつもりだ。私はそれ以外には何も期待していなかったが、この事実は衝撃的であった(短編集の中にアンの出てくる話を入れるなと言う事か)
。一晩中眠れなかったし、今日も大変だった。ユアンはまた調子が悪いようで、説教を滅茶苦茶にしてしまった。私は悲観的で落胆しているが、今夜はよく泣いたので少し救われた。涙を流すと大抵の場合気持ちが落ち着く。心配で泣けないときが一番つらいのだ。まあ、まあ元気を出して。"これさえも過ぎ去る" 7号線は時々曲がるがしかしそれは実に長いものであった。

1920年3月15日(月曜日)
オンタリオ州リースクデールの牧師館
今日チェスターが私にしたいくつかの質問で、ある日のプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジでの授業で、筋肉が自発的に動くことによって耳を動かすことができるという問題が出た。教授が言うには、動物はみんなそれをもっている。持っているが人間は一般にそれを失っていると言った。そこで先生はクラスの全員に試させた。
大勢の教室の生徒の中で、たった二人だけが耳を振ることができた。私自身とアイルランドの血を引くトレーナーかケリーの息子だった(なんとモンゴメリは耳を動かせたのだ)。私は今でも簡単にできる。では私は「先天性障害」なのだろうか。自分の耳を自分の筋肉で動かすことができるのは、恥なのか、それとも才能なのか? いずれにせよそれは私にはあまり意味がないようだ。ペイジの弁護士を麻痺させられるとは思えない。裁判で耳を振ることはできないだろう。

1920年4月9日(金曜日)
もはや疑いも希望もない。ペイジは1912年の版(おそらく雑誌に載った物だろう)から本を出版した。私はロリンズに続行するよう電報を打った。私は自分が愚かだと感じている。勝つ見込みはあまりないと思っている。
私の相手をしている男たちの不謹慎な性格を考えると、勝つチャンスはあまりないと思う。彼らはどんな嘘も平気でつく。私は負けて大金をドブに捨てることになりそうだ。しかし私の中には自尊心があり、それを満足させるために私はこのような行動に出たのだ。
それにペイジ社は教訓を必要としている。彼らは何年も前から平均的な女性の訴訟への恐れと、訴訟をする女性の著者がほとんどいないという事実を、長年にわたって利用してきたのだ。特に、利益を得ることが期待できない場合、著者のほとんどは彼らと一緒に裁判をする余裕がない。
彼らは、救済を求める余裕のない貧しい作家に対してとんでもないことをしてきた。私は彼らに教訓を与えたいのだ。
自分の権利を手に入れられなくとも。でもそんなことを考えるのは嫌だ。幸いなことにそれは1日や2日では終わらないだろう、とロリンズさんは言う。だからこの苦しみは鋭くても短い。私にとってこの事件の最悪の側面は、ルイスとジョージ・ペイジの前に再び現れなければならないことだ。
私は彼らを軽蔑している。汚染された空気から逃れるように、彼らのことを考えるのは苦痛だ。ましてや同じ部屋にいるなんて。しかし私はきっと一日くらいは我慢できるだろう。

1920年4月10日(土曜日)
ペイジが今日、「アボンリアのさらなる年代記」という本を送ってくれた。この本はあらゆる点でアンの本に似せて作られていて、明らかにこの本を一般大衆にアンの本と同じに見せかけようとする試みだ。
アンの本として世間に売り出そうとしているのがわかる。アン本に見られるように、表紙には赤毛の少女が描かれている。これも契約違反だ。しかしすべてが非常に巧妙にできているので、違反とするのはとても無理だろう。(ペイジが出版する新しい本にはアンを連想させる名前を使うなと言う私の要求だが、難しいだろう)
また彼らはある物語では登場人物の一人に不条理で不可能なことをさせる。これは私の文才のなせる業だ。しかしこのような会社に他に何を期待できるというのだろう。私は彼らに物語を渡した愚か者だ。そもそも私は物語を彼らに出版するように義務づけるためにそうしたのであって、その結果がこれである。
(モンゴメリが過去にペイジに渡した短編集の原稿の内、ペイジが一部をアヴォンリーの記録として出版したが、使わなかった原稿についてもペイジが出版する権利を持っていた。ペイジは使わなかった原稿はモンゴメリに送り返したと言ったが秘密にコピーを取っていた)(モンゴメリは新しい本ではアンを連想させるキャラを出すなと言ったが、これは我儘のようで難しい要求だった)

1920年4月23日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
午前1時だw。チェスターの紙貼りに追われた後、夜通しでビジネスレターを書き続けている。チェスターの部屋に紙を貼るのに忙しい一日だった。ユアンは昨日までとても具合が悪かったのだがだいぶ良くなったようだ。おそらくこの発作の危機は去ったのだろう。しかし私は他の病気も続くのだろう。
今日キャベンディッシュから手紙が来て、ジョン叔父さんが古い家を取り壊すと書いてあった。嫌な予感がした。しかしそれは当然かもしれない。廃墟になりつつあるのだから。でもあの愛しい、古い大好きな場所、私の古い部屋......。無に帰してしまうのだ。それはどうしようもないことで、それを感じるのは愚かなことだがどこか痛いのだ。
魂はなくなっても愛する人の肉体が破壊されるのを見るのがつらいのと同じように。しかし人生とは、痛みに次ぐ痛みではないだろうか。

1920年5月2日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日は晴れて寒かったということ以外、何も言うことはない。教会に行ったこと、そして暖かくするために9時に寝ることだ。

1920年5月4日(火曜日)
今日は本の一章を書き、家の掃除をし、W.M.S.に出席した。英語学校の先生から、私の本についてとても嬉しい手紙をもらった。
今夜は私は1時間かけて古い日記を書き写した。その中にキャベンディッシュでの昔の郵便局の出来事を思い出すものがあった。今そこには郵便局はない。家の道端に郵便ポストがずらりと並んでいる。ずっと便利だ。間違いない。しかし親しみやすさの点で何かが失われているように思う。
少なくとも私は、郵便局があることをいつも嬉しく思っていた。それは私が秘密裡にMSS(メッセージ)を送ったり取り戻したりするのに役立ったということを別にしてもだ。うちで郵便局をやっていなければ、ほとんど誰も私の古い家に来ることはなかっただろう。
そのため、夕方、特に冬の夕方には近所の人たちが郵便物を取りにやってきて、おじいさんやおばあさんと政治やニュースについて語り合ったものだ。古い台所を囲んで、政治やニュースを語り合ったものだ。時には普段は絶対に来ないような男の子の友達も来てくれたりした。あえて1時間ほど長居をしておしゃべりをすることもあった。夏の夜にはペンシーとアマンダがやってきて、私が外出する口実を作ってくれた。
アマンダと一緒に「教会の丘」から「デイヴィッドの門」まで、あるいは「レアードの門」まで。ペンシーとは「レアードの門」。ウィルの家に下る道まで。

1920年5月5日(水曜日)
今日ステラから手紙が来て、彼女がもう何ヶ月も妊娠していることを教えてくれた。文句の多い手紙だ。
しかし、このような事態になったことを残念に思う。ステラは若くないので、なかなかうまくいかないかもしれない。そうかもしれない。でもステラがいなくなったら、私の人生にとって大きな空白になる。この夏は心配が尽きないね。まあ人生とは心配事以外の何物でもない。
心配事しかない人生なんて。20歳のときからずっと心配事から解放されたことはない。......そしてこれからも心配事から解放されることはないだろう。心配事が1つもないならそれは別のものだ。どういうことかというと、「続ける」ことと「ゲームをする」ことだけだと思う。

1920年5月9日(日曜日
オンタリオ州リースクデール
バイロンの「人生」を読んでいる。この人の文は彼の詩が好きなのと同じくらいには好きではない。バイロンの詩はとても好きだ。他の詩人にはできないような、私の中のある種のコードを刺激する。他の詩人にはできないことだ。バイロンは流行遅れだが、その分不滅である。
そのすべてにおいて。情熱は常に不滅であり、彼はそのすべての音符にあまりにも痛烈に触れている。忘れ去られることはないだろう。しかし彼の手紙は私に不愉快な印象を与える。非現実的でポーズをとっているように感じられるのだ。そして彼の人生は、なんという悲劇の連続であったことか。彼自身にとってもそれに巻き込まれた女性たちにとっても
彼は嵐を呼ぶ雲と稲妻のような存在で、美しく、破滅的で。はかない存在だった。

1920年5月14日(金曜日)
今日、ロリンズから電報が来た。この件は5月20日に持ち越されるそうだ。だから私はボストンに行かなければならない。幸いなことに、私は長く滞在する必要はないだろう。ロリンズは2、3日しかかからないそうだと言っているいる。長くはいられない。長い間家や息子たちと離れ離れになるのは嫌だ。

1920年5月20日(木曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
私は先週の月曜日に家を出て、火曜日の夜にブレーントリーに到着した。昨日、私はロリンズ氏と協議し、今日私たちのケース陳述(どの様な不利益な立場になったかを述べる)が開かれた。私は一日中、証人席で待機していた。ペイジの正規の弁護士であるネイ氏はこの事件を引き受けることができず、また引き受けようともしなかった。
この裁判を担当するのはフレンチという男で非常に有能な弁護士だ。「トリック」弁護士だ。このような事態を想定していたのだろうか、彼は私をそれほど扱いやすい相手だとは思っていなかったようだ。私はこの男が嫌いだ。彼は悪党だ。以前彼は私にとても叱るようなことを言った。でも彼は私に闘争本能をを奮い立たせるのだ。私は煽られるとうまく戦えるのである。
今日の様子からすると、この事件は思ったより何日かかかりそうだ。思ったより長くなりそうだ。しかし6月1日までに帰国すれば問題ないだろう。私は今夜は疲れている。神経性の疲れが私を休ませてくれないのだ。

1920年5月21日(金曜日)
この事件は、マスター(裁判長か)に引き継がれる。ロリンズ氏は今日、ジョージ・ペイジにドリルで穴を開けました。(ペイジの欺瞞を破った)
ジョージ・ペイジが私の要求で破棄されたと断言する私のある手紙を彼らは隠蔽していた。ジョージ・ペイジは私の要求で破棄されたと断言したが全くの嘘である。この指摘は彼らがどのようにカモフラージュしようとも何の役にも立たない。

1920年5月25日(火曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
裁判所で退屈な一日を過ごした。昨日ロリンズはジョージ・ペイジを一日中尋問していたが、フランス人がほとんど全ての質問に「異議あり」と言ったので、2人はマスターと口論になった。ジョージ・ペイジはさらにいくつかの嘘をついた。私は彼がルイスほどの嘘つきではないと思っていたが、それは間違いだった。
閉廷後私はコンコード・スクエアに出かけアルマ・マクニールと一夜を過ごした。楽しいひとときだったが、その一方で心配でたまらなかった。また不機嫌な歯が私を苦しめ始めていた。
私たちの事件は、マスターが何らかの理由で休みを取らなければならなかったので、今日まで続かなかった。というわけでその日はお休み。私は帰宅後風邪と歯と心配事の看病で一日を過ごした。

1920年5月28日(金曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
私は、「法律の気が狂いそうな遅れ」(裁判の進展が遅いこと)について聞いたことがある。今私はそれを体験している。昨日は4時に目が覚め6時までこの事件を熟考した。しかし私はそれをどうすることもできない。(つまりペイジが出す私の短編集の本には人気取りのためにアンのようなキャラを入れているが、ペイジはそんなものは入れてないと言いくるめている)
時折、重要な考えが浮かんでくるのだ。
昨日行ってみると、メレン氏(裁判長のことか)はまだ病気で、今週中に裁判が行われる見込みはないとのことだった。この遅れは私の神経を逆なでしている。食事も喉を通らずまったく食べられないし、眠れなくなってきた......。

1920年6月2日(水曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
遅くまで眠れず、早く目が覚めてしまった。とても暑く耐え難い一日だったが、歯は良くなっているので、潰瘍から逃れられると思い始めている。潰瘍のある歯と訴訟は非常に悪いブレンドだ。
ロリンズから電話があった。メレン氏はこの訴訟を続行することができないので、新しいマスターを見つけなければならない。これはつまりこのままでは、あと何年かかるかわからない。私はほとんど絶望的な気持ちになった。しかし私は読書と編み物を一日中交互にしていた。ドブソンさんからモーパッサンの作品集を手に入れた。彼の「永遠の三角形」には飽きたが、ある点では同じだ。彼の作風はとても素晴らしい。しかし彼はセックスに取り憑かれていて、他のことは書けない。
今晩はとても動揺して神経質になっている。私は子供じみた焦りを感じる。このような心配が続くと心配から解放されたいと思う。私は今夜はただの赤ん坊だ。それこそが私の正体だ。ただ遠吠えしたり、蹴ったり、内心でもぞもぞしている。表向きは笑顔でフローラと天気について話しアモスと将来の罰について話す。
アモスが好きそうな未来の罰について話した。将来の罰、確かに! 私は現在の罰に関心がある。私たちは皆、自分の悪行によって現世で十分に罰せられていることを、神は知っておられるのです。ただ罰せられるのは弱さであって邪悪さではないように思う。弱い者は強者に自由にされる。この事件ではページが悪党だ。
しかしこの件に関して心配することはない。学問的にしか考えていない。自分でも愚かだとわかっている。私も愚かだ。結局のところ訴訟がどうなろうと、その結末はとても恐ろしいものではないのだ。(裁判費がかかるだけだ)
しかしどうしようもない。いつ家に帰れるかわからないというのが最悪だ。それにこの仕事全体が私にとって不愉快で、フランス人は私にガラガラヘビのように反応するので、私は彼を憎み、恐れている。

1920年6月4日(金曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
いつものように家に入った。私は汽車に乗るのが嫌になり、East Braintree駅を見るのも嫌になった。今日も裁判所が開かれた。サンプソン氏は紳士的でいい人だけど、ちょっと狭量で文字通りの人な気がする。
ジョージ・ペイジは一日中座っていて、ロリンズはいくつかの重要な証言を引き出した。ここ数日、家(リースクデールの家)から何の連絡もない。子供たちのことが心配でたまらない。
その上、フランス人がまた私を批判し始めるのではないかと心配でたまらない。(このババアはぐちゃぐちゃと下らぬ言いがかりをつけていると)
心配する必要はない。私は真実しか話していないのだから(私はペイジが出す短編集にはアンのようなキャラを加えるなと言ったのだ)。しかしこの場合、多くのことが――実際にはすべてが――単なる記憶に依存しているのだ。1919年の長い交渉の中で、いつ、どのように起こったかを正確に思い出すのはとても難しいことだ。
私の人生の不幸の多くは、喜びの多くと同じように、私の生きづらさの原因であったすべてを前もって調べておこうとする私の習慣が原因だ。しかし本当にそのときが来たら、半分も悪くないし、半分も楽しくない。いざというとき、私はフランス人が私を侮辱するように睨みつけているのを見ても、私は全く気にならない。
私の精神は、彼の挑戦に閃光を放ち、私は精力的に突き、受け流すだろう。しかしこの知識は事前にあまり役に立たなかったようだ。私は来週を迎えられないような気がする。
(ペイジは短編集の中に加えた物がアンのイメージだと言い切れるのかと反論した。モンゴメリの要求は言いがかりとも言えた。それで少女の髪の色はチチアンの絵の少女の髪の色がどうのという応酬にもなった)
(確かにアンを巡る人々の中にはアンのイメージをあとから取って付けたような部分もある)

1920年6月7日(月曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
ここ数日、睡眠をとるためにベロナールを飲まなければならなかったが、しかし、そのような睡眠は非常に満足のいくものではなかった。午前中だけ法廷があった。
午後にマスターが欠席したためだ。ジョージ・ペイジは私のある重要な主張を認めた(やはりアンのイメージから採った部分があると)。それでも私は気分が滅入った。私たちは法廷を後にし、ロリンズはこう言って私を驚かせた。
私たちの訴訟ですが、私はペイジに認めさせることができないのではないかと思っていました。「私たちは勝ったと思う」
ロリンズは知っているはずだが、私たちはまだ裁判を成立させるにはほど遠いようだ。ペイジの弁護はこれからだし、ロリンズはまだ彼らの嘘をつく能力を私ほど知らない。それでも彼の意見に私は元気づけられ、より良い気分で帰宅し夕食を食べることができて、フローラを大いに喜ばせた。家を出てから3週間が経ったが、まるでまだここに来たてのようだ。

1920年6月8日(火曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブラインツリー
昨夜はよく眠れた。しかし今日は満足のいくものではなかった。ほとんどの時間はフレンチ(ページ側の弁護士)とロリンズがある質問の可否について議論していたため、時間が無駄になった。
しかし、今日は満足のいくものではなかった。ロリンズはまた落ち込んでいて、「マスター(裁判長)の心はロリンズの考えを理解していない」と考えている。今日も暇さえあれば、ある状態を集計し、証拠とするのに必死だった。(状況証拠しかないということ)
家(一時寄留先の家)に帰ると、リリーからカード(はがきのこと)が届いていた。ユアンはやはり去っていなかった(どこかに保養には行っていない)。私は心配になった。私はユアンの休暇を台無しにしてしまった。ユアンには休暇が必要なのに。このままではいけないと思った。私は自分の部屋に逃げ込み、大声で泣いたのです。

1920年6月10日(木曜日)
昨日、ジョージ・ペイジは恐ろしい嘘をついた。どうして?(そんなことが出来るのかと言いたい) 私は以前ルイスはウソつきの代表格と言ったが、ジョージも負けてはいない。
今日、私は証言台に立ち、ロリンズ氏が私を審査(証人尋問)した。ある意味私はロリンズ氏の審査を恐れている。彼は私の闘争本能を刺激しないので、私はフランス人よりも彼の検査を恐れている。
1912年と1919年の多くの思い出と、それらの惨めな物語の様々な改訂版やMSS.が混同されるという話になるのが怖い。しかしロリンズは、私は優秀な証人であり、裁判所に良い印象を与えると言っている。それはそうかもしれないが、しかし私はいつも、自分が信じられないほど馬鹿にされ、すべてを台無しにされたと感じて証言台を後にする。そして、その時私はダウドさん(記録係か)の報告書を読み返すと......とても信じられないようなことだが、あのような明確な供述は私が吐いたものであろうかと信じられないのだ。
だから私は家に帰り、疲れて、心配で、惨めで、食べることもできず、何も考えることができず、椅子に座って拷問を受けている自分のことだけを考えていた。フランス人(弁護士)に名誉を傷つけられ、恥をかかされ、拷問され、椅子に座らされている自分のことだけを考えていた。恥をかかされる......特に不条理なものばかりだ。私は知っている。
しかし、それでも、私は、ある種の不愉快さにとりつかれている。催眠術のような恐怖に襲われるのを感じている。
私は家に帰れるのだろうか? あの平和なブドウの木でできた邸宅と、緑に覆われたアーチの影になった芝生が、今は手に届かない天国のように思える。もう二度と見ることができない。実際、私は今普通とは程遠く、その結果私はあらゆるもの(希望や自尊心か)を失ってしまったのだ。
(これはモンゴメリとペイジとの確執から起こった、新刊にアンに似たキャラを載せるなと言って訴えた、いいがかりを付けてでもペイジをやっつけようという裁判で、勝つ見込みは薄かった)(モンゴメリとしてはこれ以上ペイジに自分の本を出させたくないという気持ちだったが、しかしモンゴメリは赤毛のアン他数編の著作権をペイジに売ってしまっていたので、どう使われようが文句は言えなかった)
私の感覚では、この事件はグロテスクに誇張されて私の前に立ちはだかり、他のすべてのものを視界から締め出している。わかっているのだが実感がわかない。その結果私は取り付かれているのだ。

1920年6月11日(金曜日)
昨夜もベロナールを飲まなければならなかった。服用するのは嫌だが、睡眠をとらずに一日の試練に立ち向かうことはできない。私は今日、Rollins氏の事務所で過ごした。フランス人(ペイジ側の弁護士)は怒り狂い無駄なことを口にしたが、私たちは証拠を手に入れた。
Mr. ロリンズ氏の執念と平常心には驚かされる。私は彼のような態度は見たことがない。何事にも動じない......わずかな焦りも苛立ちも見せない。青銅の仏像をも怒らせるほど苛立ちを見せない。長い論争の末、マスター(裁判長)が彼に不利な判断を下すと、 ロリンズ氏は、フレンチのように大広間を闊歩するのではなく、お辞儀をして、「よろしい。同じ質問を別の形でし続ける。とマスターは思ったようだ。
この人はどうにかして質問を入れるまで続けるだろうから、この質問を入れることで時間を節約したほうがいい」と思ったようだ。この点ではロリンズ氏は立派である。しかし他の点では彼はフレンチの仲間とは言い難いのではないかと思う。彼は1つのこと(癖か特有の態度)のために良いメモリ(見本)とすることはできない。相手の動きを予測し、それに対する準備をすることはできない。
フランス人の弁護士のやること、それは確かにすべての面で驚くほど面白いのだ――知恵のこの牛(やり手の弁護士)――に私は狭い下に潰されるヒキガエルのようにされていない場合、(私の弁護士を)支援し楽しむことができるだろう。しかし今のところ私は(尋問の)拷問にしか意識が向かない。拷問だ。
閉廷後、ロリンズ氏は「奴らは逃げ切ったと思う」と言った。しかし私は彼があまりにも悲観的であると感じている。今日の昼食は飲み込みやすいように牛乳を一杯飲んで食べた。南駅の暑さと混雑がひどく、汽車を長い間待たされた。私はこのような事態に耐えることができないほど、病気になった。

1920年6月14日(月曜日)
一晩寝てからボストンに行き、一日中フレンチの反対尋問を受けた。いつものようにかなり「逆境」に立たされたとき、私は緊張も恐怖もなく、うまく戦うことができた。疲れ果てて帰宅したが、それほど心配することもなく、夜は「Tat passant」を読んで過ごした。
夜は「タット・パッサン」を読んだ。彼はまともな女が一人でもいると信じていたのだろうか。まあ、彼は正気でないまま死んでしまったので、彼の人生観はあまり真剣に考えるべきではないだろう。

1920年6月16日(水曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
昨日は裁判所が開かれず、またもや遅刻。この湿った蒸し暑い朝をボストンで過ごし、いつものように、その魅力に応えることのできない愛すべき小さな森の小径を通って。フレンチ(ペイジの弁護士)と一戦を交える。
フレンチは一日中私を検査し、彼の痛みのために(私を追いつめる努力にもかかわらず)何も勝利を得られなかった。ミスター・ロリンズ氏は、私より優れた証人を見たことがないと言っている。しかし彼は青い顔をしている。
損害賠償の額は大したことはないだろうと。どうなろうと知ったこっちゃないが、その本の差し止め命令を出して、ペイジに正攻法のエッセンスを教えたい。しかし今週中に裁判が終わる見込みはない。ということで私はまだ家に帰れる見込みがないことにひどく落ち込んで帰ってきた。このままでは帰れないと思う。残りの人生、私は6時に起床し、森を抜けてEast Braintreeの駅まで小走りで移動しなければならない。ボストン裁判所へ行き審問を受けるんだ。少なくとも私はそう思っている。

1920年6月18日(金曜日)
昨日は祝日で裁判所はなかったが、私はボストンに行って重要な手紙を送らなければならなかった。ここの郵便局は閉まっていたので、重要な手紙を送るためにボストンに行かなければならなかった。帰ってきたらユアンから電報が来ていた。
すべて順調で心配ないなどという電報が来ていた。しかし私は非常に落ち着きがなく、完全に倒れそうだった。昨夜はほとんど眠れず、今朝は土砂降りの中ボストンに向かった。フランス人に一日中焼かれ(責められた)たが、審議はあまり進まなかった。
Roilinsは彼が戻ったと言う。あの3人の重鎮弁護士と私はアンの髪の色と "ティツィアーノレッド" の定義について(言い合いを繰り広げた)、いやはや面白かった。大きなテーブルの上には証明や反証のための文献や版画が雪だるまのように積まれていた。何年か前、私がキャベンディッシュの古い台所に座り、雨の降る春の夕べアンに赤い髪を着せた(かぶせた)とき、私はこのように法廷で争われる日が来るとは夢にも思わなかった。とても楽しいことですわ
野獣のような恐ろしさで。フレンチはティツィアーノが(描いた絵の)髪が私が暗赤色であることを知っていることを証明しようとした。私は知らなかった。私はいつもティツィアーノレッドは炎のような赤だと考えていた。
ロリンズは百科事典でティツィアーノの髪を「明るい金色の赤褐色」と定義しているのを探し出した。ティツィアーノの髪は焼けた銅のような色をしている。などなど。
この本の表紙の赤毛の女の子の絵が、すべての存在理由なのです。ロリンズさんと私は今夜リングリング大サーカスを見に行った。サーカスを見たことがなかったからだ。見る価値はあったよ 。でももう見たくないね。動物がよかった。立派なベンガルトラが落ち着きなく上下に動き回っていたかわいそうな虎の気持ちがよくわかるよ。

1920年6月22日(火曜日)
昨日から今日の午前中まで、私はずっと証言台に立っていた。その後私の拷問は一時中断され、マクレランド氏(私の著作権の新しい管理者)が椅子に座った。
損害賠償の問題で私のために証言するために降りてきた(法廷にやってきた)。ルイス・ペイジはマックが何を言うか聞くために、初めて法廷に来たのだろう。
私たちが裁判所を出たとき、ペイジの代理人が私にペイジの会社が私を訴えるという趣旨の文書を送達してきた。ページ社は9月に私を訴えるつもりだ。他に訴えられるようなことはないので、今度の訴訟は「虚偽の悪意ある訴訟」ということになるのだろう。(ペイジ社の出版に言いがかりをつけたという趣旨の訴訟を起こすと言ってきた)
ロリンズは彼らは何もできないと言うが、私は過去に彼らの空威張りについて多くの経験をしたことがあるのであまり心配はしていない。彼らは私を脅してできれば妥協させたいのだ。そんなことはさせない。私は彼らと徹底的に戦うつもりだ。
このような卑劣な行為には断固として反対する。ロリンズはフレンチのような「評判のいい弁護士が」そんなことをするのかと驚いているようだ。しかしそれは私の考えでは、フレンチが逃げ切れると思えばやらないことはほとんどないだろう。
それにしても、この事件は私の不快感を少しばかり増長させた。それはルイス・ペイジは、この世で最も執念深い男である。この上なく執念深いルイス・ペイジは、たとえ敗色濃厚とわかっていても、私に心配と苦痛を与えるためにどんな極端なことでもやってのける可能性がある。
私は一日中「ミルクシェイク」を飲んで生活していた。

1920年6月23日(水曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
昨夜はベロナールでも疲れ切って眠れなかった。私が部屋に入るとミスター・ロリンズは、「この問題をよく考えてみたんだが、深刻な問題は起こらないと約束できるだろう」と言った。
"とにかく" "ハッタリに負けて降伏させるようなことはしない" とロリンズは言った。「あんなに召集令状が来たのに」、今朝は何事もなかったかのように、ピンクでかわいらしい顔でやってきたって。あのね、私はRさんに眠れない夜や神経質な不安のことは言わないの。でも私は喧嘩が強くないのでそう感じることはないだろう。ハッタリがうまいだけだ(私は平気な顔をしているだけだ)。
私は法廷に乗り込み、フランス人に涼しい顔でお辞儀をし、マスターに「おはようございます」と陽気な笑みを浮かべ笑い飛ばした。ミス・ダウド(記録係か)と笑い合い冗談を言い合った。フレンチとページたちは、私が平身低頭している(もう嫌になっている)ことに気づかなかった。
今朝、マクレランドが反対尋問を受けたが、フレンチは彼を骨抜きにした。ロリンズはなぜ私を "立派な証人" と見なしたのだろうとマクレランドのようなしっかりした中年のビジネスマンが、反対尋問でボロボロになるのを見るまでは。不思議に思っていたが。彼は我々の目的に害を及ぼしたと思う。ロリンズの発案で彼を呼んだ。私は反対だったがでも引き受けた。そうしなかった方がよかったと思う。裁判所は今日の午後、法廷は開かれなかった。

1920年6月24日(木曜日)
昨夜はよく泣いてその結果よく眠れた。遠吠えは憂鬱な神経を鎮めてくれる。モロー氏は今日、ニューヨークからやってきて証言してくれた。フレンチは彼を怒らすことも眉をひそめることもできなかった。午後になると私は再び証言台に立った。
フレンチは2度にわたって私を罠にはめようとし、その質問の意味は恐ろしく分かりにくかった。しかし私は罠を見破りそれを避けた。あの男は悪魔だ。とはいえ彼は、ペイジの弁護士として勝ちたいのなら、彼は正しい弁護士だ。ロリンズが彼に勝てるとはとても思えない。ロリンズはそんな彼とは相容れない。
家に帰れないことだけが心配で、落ち込んでいる。裁判が負けるか勝つかなんて、もうどうでもよくなった。私の夏が台無しになった。8月は島で過ごす予定だったのだが、でも諦めなければならない。これだけ無駄にしたんだからここにいる時間はもう二度とないのだ。

1920年6月25日(金曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
私はまた一日中スタンド(原告側席)にいた。これまで私はフレンチの焼き討ちにもめげず、冷静さを保ってきたが、今日は侮辱的な発言をされ怒りを爆発させた。
「そんなことを言うのは許しませんよ、ミスター・フレンチ」。と言い放った。そしてフレンチさんは、自分がやりすぎたと思ったのだろう、「失敬」と。謝罪のようなことをつぶやいて、その場を立ち去った。ロリンズによると師匠(裁判長か)はこの一節の間、楽しげな静かな微笑みを彼に向けたという。フレンチは他の弁護士には人気がなく、むしろ彼の狼狽ぶりを楽しんでいるようだ。
ロリンズは今日、マスターの見解の変化を発見してパンチのように喜んでいた。私はその意味を理解するほど有能ではないので、興奮するほどのこととは思っていなかった。しかし私はすっかり疲れて帰ってきた。あの憎むべき混雑した通り、あの憎むべき南駅! このままでは私の士気はすっかり下がってしまう。もうすぐ、"ハッタリ" (平静な振りをしている事)も効かなくなる。私が耐えられないのは、いつまでここにいなければならないのかという惨めな不確実性だ。つまり「私はある日まで耐えなければならない」と言えるなら、耐えられるのだが。
(この裁判の要点はペイジが私に送り返したという原稿のコピーを取っており、それを出版しようとしたことだ。モンゴメリは、ペイジは出す本はアンの物語とは関係ないと言いながら、アンを思わせる装丁を各所に散りばめさせているという)

1920年6月29日(火曜日)
ブロマイド(気付け薬か何か)で今日を乗り切った。ヘイデン夫人とストーン夫人が来ていた。フローラの友人である。後者はクリスチャン・サイエンス系の細い女性で、3つのネックレスをつけていて、夢見心地で「精神的な問題に対処したことがありますか? と聞いてきた。
このキリスト教科学のメソッドは、フランス語にどんな影響を与えるのだろう? ヴァイル(邪悪な物)は存在しない――フランス語は邪悪である――だからフランス語は存在しない。これ以上はっきりさせる必要はないだろう。(モンゴメリにとってはフランス語が邪悪に聞こえたのだろう)
ストーン夫人が証人席で、フレンチの反対尋問を受ける姿を見るのもいいかもしれないね。いやそんなことを考えること自体、動物に対する残酷な行為だ。

1920年6月30日(水曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
ついに私の最も過酷な殉教が終わった。今日フレンチが反対尋問を終えロリンズは当分の間、私たちの事件を終わらせた(弁護側の証言を聞いた後で休廷にする)。弁護は明日から始まる。
私は帰りたいのだが、ロリンズは私が弁護側の証拠を聞くことが極めて重要だと考えている。だからもう2、3日滞在しなければならない。それなら家に帰れると思うのだが、信じられないね。

1920年7月1日(木曜日)
フレンチは今日3人の証人を立てて弁護を開始した。そのうちの1人が2つの真っ赤なウソをついた。しかし我々にはその嘘を証明する手段がなく、ロリンズはそれを反対尋問で論破できない限り、「危険な証言」であると青くなったように見えた。証人は私がその場にいる間に言われたと宣誓した。
1919年の交渉では、ペイジは1912年版のほとんどを発見したが全部は発見していない。これは全くの虚偽である。ジョージ・ペイジは私にはっきりと、彼らが持っているのは新聞のコピー(私の短編が掲載された当時の新聞からとったコピー)だけだと言った(私が預けた原稿からはコピーしていないので、私がペイジが短編の原稿からコピーを取ったのだと言ったのは言いがかりだということ)。私は当時はその意味を理解していなかったが、私も覚えている。その時彼は私以外の誰にも聞こえない場所で、そのような発言をした。
私は真っ青になって帰宅し夜通し心配した。私はとても調子が悪くて。家に帰りたいという気持ちが強いにもかかわらず、同時に家に帰るのが怖いという奇妙な気持ちもある。
(このまま帰ったら裁判に負けるかもと)

1920年7月2日(金曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
今朝、ロリンズは平静を装っていた。この件をこれ以上争うのは得策ではないと考え、妥協点を探るよう提案した。
私はこれをきっぱりと拒否した。私は裁判に勝とうが負けようがどうでもいいと言った。私は訴訟に負けても負けなくても構わないから、最後まで戦って、ペイジ社にへつらうくらいなら喜んで金を払えと言った。
そこでロリンズは承諾しわれわれは法廷に上がった。彼は証人に逆らい、その結果証人はバラバラになってしまった。何も思い出せなくなった。
1912年の話を聞かされていた可能性が高いという以上のことは言えなかった。だからロリンズは自分の証言はそれほど不利にはならないと言い、また大いに勇気づけられた。彼はまたもう一人の証人から重要な証拠を引き出した。ルイス・ペイジは午後の証言の席で、彼はいくつかの重要な点でジョージの証言と完全に矛盾するため、いくつかの嘘を言い過ぎた。
重要な点についてジョージに真っ向から反論したからだ。私は、彼でさえ私の前に座って、彼がした非道な嘘を言うことができるのか、私には理解できない。

1920年7月6日(火曜日)
正午に法廷が開かれ、ルイス・Pはさらにいくつかの偽証を繰り返した。ロリンズ氏は、私は裁判も一段落して金曜日に家に帰れると言っている。私はそれを信じていない。ここにずっといなければならない。

1920年7月7日(水曜日)
昨夜遅くまで眠れなかったが、ここに来て初めて私の思考は快適で正常だった。そしてそれはなんと楽しい感覚なのだろう。
私は起きる時間まで眠り、再び外界のことをかすかに楽しみながらボストンへ行った。また外的なこと(風景や町の様子)をかすかに楽しみながら、ボストンに向かった。ルイス・ペイジは今日もスタンド(被告席)にいた。
ロリンズは彼から重要なことを聞き出したと思っている。私にとってはあと1日だけだ。それを信じるのが怖いのだ。
それを阻むようなことがまた起こるかもしれない、そうなったら私はすべてバラバラになってしまう。私は "ラックも残さず消え去る" (私の自信の源が消え去る)のです。
チェスターの8歳の誕生日にまた留守にする。去年はユアンも私も留守にした。腕時計をプレゼントしたんだ。

1920年7月8日(木曜日)
マサチューセッツ州イースト・ブレーンツリー
私は今日が怖くて、法廷に行くときは文字通り恐怖で震えていた。ルイス・ペイジが証言台に立ち奇妙な暴言を吐いているのを見た。明らかに私だけが「神経質」なのではない。
ロリンズ氏が彼に質問しているとき、彼はルイスの近くに立っていた。そして、こう叫んだ。「ロリンズさん」......私からもっと離れてください。
あなたの人格は私にとって非常に不快であり、私はあなたが私の近くに立っていることに耐えられないと言った。その光景は異様であった。私はルイス・ペイジの精神が健全でないことを確信した。狂気だと聞いても驚かない。彼は確かに正常ではない。
アンの赤毛の件がまた出てきて、再論された。ロリンズは今日の進展に大いに勇気づけられた。しかし、私はもうこの訴訟は負けたと心に決めているので、これ以上考えるつもりはない(言いがかりで短編集の出版を差し止めることはできないだろうと)。「私は子供たちのいる家に帰りたいだけなのだ」。
4時になると、ルイス・ペイジとジョージ、そして大切なフランス人が出て行った。彼らの背中が見えなくなったとき、私は息を引き取った。その背中が見えなくなったとき、私はもう二度と彼らの顔を見ることがなくて済むようにと、切なる祈りを捧げた。
私は地獄から這い上がったような気分で、フローラの家に戻ってきた。地獄の臭いがまだ残っていた。
森を抜ける小さな道を登ってきた。森を抜けると、そこは甘く優しく魅力的だった。この日の夜は楽しく荷造りをして家に帰る準備をした。私は不思議な夢のような感覚を覚えた。
何年も前に住んでいた場所に戻っていくような、夢のような不思議な感覚に襲われる。もし帰ってからチェスターとスチュアートがすっかり大きくなっていたとしても、まったく不思議ではない。

スチュワートとチェスター

1920年7月24日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
今週の最初の数日は大変だった。私は相変わらず神経衰弱のようだった。ユアンはまた悲惨だった。でも急に元気になったのだ。それ以来ずっと元気だ。この件に関しては心配していないし、よく食べよく寝ている。
本の1章を書き上げたら、すっかり元気になった。そうしたらそのとき、他のすべての心配は隠れてしまい、私は自分自身の女に戻った。
木曜日の夜、ユアンと私がとても気分が悪くなっていたとき、スミス船長がやってきて、ちょっと寄って帰っていった。スミス船長がやってきたので、あっという間に二人とも元気になった。彼の人柄には何か伝染するような健康的なものがあるようだという疑問が湧いた。彼は一晩中滞在し、とても楽しい夜を過ごした。
彼とその家族は現在Whitbyに住んでいるので、30マイルしか離れていないのだ。

キャプテンエドウィン・スミス

1920年7月26日(月曜日)
リースクデールの牧師館
私は元気で過ごしている。そして私はボストンでの恐ろしいほどの緊張の後、私の家の平和と安らぎを深く感じている。まるで天国のようだ。ユアンは元気そうで何よりである。昨夜は久しぶりに気分がいいと言っていた。
ワシントンのオコネル嬢から手紙が届いた。彼女の父親は85歳で、退役したアメリカ陸軍将校だが、私の本をとても楽しんでいて、今、次の本を読めるまで長生きできないのではと心配しているそうだ。無愛想な人なら哀れな老紳士は老境に入ったと言うかもしれない。しかし私はそう思わない方がいい。そうでないと思いたいし、そのような賛辞に幸福を感じる。
アメリカの少女からまた手紙が来た。「アンは本当にいる女の子ですか」という古い古い質問だった。アンは本当の女の子ですか? グリーン・ゲイブルズが出版されて以来、私は文字通り何千回もその質問をされたに違いない。

1920年8月1日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
......ローラは今夜、あるゴシップを私に話した。怒りに任せて無駄口を叩いたが、それから私のユーモアのセンスが優位に立ち、私は代わりに笑った。彼女とバーティはバンクーバーの社交界でハティおばさんに会ったことがある。
ハティおばさんは、私は自分からアンの着想を得たのだと大げさに教えてくれたそうだ。
これはひどく面白い。ハティおばさん、私がずっと憎んできた、あの冷たく、浅はかで、幼稚で、わがままで、どうしようもなく面白みのない女。幼少期から少女期にかけてキャベンディッシュを何度か訪れ私を嫌ったり無視したりした。
アンの "霊感" だ! これほどまでにあらゆる面で対照的な存在もない(アンとはまるで反対の性格じゃないかと)。かわいそうなハティおばさん。彼女の虚栄心はどうだろう。でもまさか自分がアンだと言うとは思ってもみなかった
ユアンはこの3日間、とても悲惨な目に遭っている。

1920年8月16日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
ローラ一家は、とても楽しい訪問を終えて今日旅立った。ローラと私は楽しいひと時を過ごした。
マックは親愛なる小さな仲間で、チェスターとスチュアートに愛されていた。しかし、ミス・パットは恐ろしいほど(いたずらに)熱心で、私の手は、不確かなスパンキングで彼女を叩くことを切望していた(この少女はいきなり仕置きで叩いてやりたくなる)。私は彼女の最後を見ることができ(彼女が行ってくれたので)本当に感謝した。癇癪を起こした。
この2週間は、訪問したり、されたり、ピクニックに行ったりと、非常に精力的に活動してきた。納屋に行ったり、葬式に行ったり、布教の会合に行ったりと、非常に忙しい2週間だった。ピクニック、納骨式、葬儀、布教のための会合とギルドに明け暮れた。今、私は静寂と平穏に落ち着きたいと願っている。。
静寂と平穏に身を任せ、本の執筆に励みたいと思う。今、第28章まで来た。あと10章ほどで完成させたいと願っている。このように時間に逆らって書くのは嫌なものだ。
最近、私の人生は、ただ単に仕事を追い越すために猛烈に急いでいるだけのように思える。仕事を追い越し、決して「追いつく」ことができない。息苦しさと挫折感が残る。憂鬱だ。私は料理をし、繕い物をし、子供のしつけをし、小説を書き、延々と手紙を書き、3つの協会を運営し、数え切れないほどの教区を訪問し、庭の手入れをし、アドバイスをして、ベリーの缶詰を作り、ユアンを励まし、数え切れないほどの訪問者をもてなし、買い物や献立を考えたり、写真を撮ったり。――といった具合に、かなりごちゃごちゃしている。
数え切れないほどの中断をはさみながら心配事の種は尽きない。いくつものことが常に進行している。時には私はかなり絶望的な気分で、7時に起床し夜12時まで働く。
そして、E(ユアン)が不機嫌になったり、子供たちのちょっとした用事で眠れなくなる。何かを変えなければならない、さもなくば壊れてしまうと思うのだ。さて私の本が完成したら少し休むことにしよう。

1920年8月22日(日曜日)
牧師館、リースクデール、オンタリオ州
先週の土曜日の朝、私が応接間で書き物をしていると、リリーがやってきて、ダフィーがミセスのところに行ったと言った。
ダッフィーがリースク夫人のところで死んでいると言った。私は夢中で大麦畑に向かった。大麦畑に行くと、愛しいペットが無精ひげで横たわっていて胸が張り裂けそうだった。もう死んでいるのかと思ったが、その冷え切った体を抱き上げると、目を開けてかすかに鳴いたのだ。毒を盛られたのかと思ったが家に連れて帰ってから、偶然にもハリネズミ狩りの人に撃たれたことがわかった。
この辺りには、故意に撃つような人はいないからだ。子供たちと私は涙を流して苦しみながら見守った。そして彼は死んだ。これほどまでに彼ほど心から悼まれる存在もいないだろう。私にとっては昔の生活との最後のつながりがなくなってしまったのだから。ダフィーは人間であり、人間10人のうち7人よりも個性があった。猫の年齢制限である14歳になった。しかしジャンプが少し遅いだけで、もう死ぬような兆候は全くなかった。このような死に方をしなければ、まだ何年かは生きていたと思う。

彼は、私の人生の中で最も重要な時期、つまり私が文学者として「登場」した時期、結婚した時期、子供が生まれた年など、私の人生の中で最も重要な時期を共に過ごした。
私は彼にとても会いたい。彼は季節ごとにお気に入りの場所をたくさん持っていた。この場所は、どこを見ても彼が取り憑いているような気がする。
この間ゼファーから帰ってきたら、ダフがいつもしていたように裏のプラットフォームで私を待ち、私の前を軽快に駆け抜けていく猫の姿はなかった。私は涙をこらえきれずに、一人で家に入った。長い間飼っていたので、死んだという実感が湧かない。私たちは彼をアスパラガス畑の裏手に埋葬した。
昔、昼も夜も一緒に過ごした仲間。この2年間、孤独な夜を過ごした私の忠実な毛皮の仲間だ。私は寂寞とした孤独を感じている。ユアンは「別の猫を飼いなさい」と言った。私はもう猫を飼いたくない。ダフがそうであったように、私にとって猫がそうであることは二度とないのだから。
ある日、ローラが来たとき、ファーガソンさんとダフが一緒に写っている写真を見せると、「今生きているのはダフだけだ」と言った。今はもういないんだ、8年前の幸せな夏の日にここにいた3人は。
8年前の幸せな夏の日。フレデはダフをとても愛していた。"彼は猫だった" "我々は二度と彼のようなものを見ることはないだろう"さようならダフィー、旧友よ。
最近、私は猛烈に本を書いていて、かなりうまくいっている。今日スチュアートがやってきて、「詩を作った」と言い出した。私が「それは何?」と聞くと、彼はこう答えた。
「誰がやったんだ?」"オクストビーの猫だ" と
まあ、とにかく韻を踏んでいる。スチュアートはバー・リブレを始めていない(自由詩の構造になっていない)。このままでは終わらせることができない。Vers libreは私の表現力を超えて私を怒らせる。
     私は感じる
     とても
     その
     その不浄な犯人を
     髪の毛で
     その頭の
     (髪があれば)
     引きずり回したり
     庭を
     何度か
     そして、それらを切り刻み
     小さく、不規則な断片に
     青い海の底に
     青い海の底に
     それらは形もなく
     空虚である。
     少なくとも
     彼らが生み出すものは
     中途半端だ
     彼らはあまりにも怠惰で
     韻を踏むのが面倒くさい
     そしてそれが
     それがすべて
     それが彼らの問題なんだ。

1920年8月24日(火曜日)
今日、"Rilla of Ingleside" の最終章を書いた。題名が気に入らない。この題名は出版社の意向だ。"リラ・マイ・リラ" か "リラ・ブライス" に したかったのに
この本はかなりいい。アン・シリーズの最後だ。私はもうアンとは永遠におさらばだ。私は今、新しいヒロインを作りたいのだ。――彼女は私の心の中ですでに胎動している。何年も前から命名している。彼女の名はエミリー。黒い髪に紫がかった灰色の目をしている。彼女のことをみんなに伝えたい。
そして、私は...ああ、私は書きたい...今まで書いたものとは全く違うものを。まだ書いたことのないものを。私は「若い人向けの作家」として分類されるようになりつつある。それだけだ。私は大人の生き物を扱った本を書きたいのだ。(しかしエミリーも子供っぽい)
一人の人間の人生を心理学的に研究する。そのプロットは、すでに私の頭の中で熟成されている。題名は "池の司祭" だ。もし私にそのための時間と暇があればいいのだが。今はまだない。子供たちが小さすぎるし、しつこい仕事もある 稼ぎ頭の "連載" を手放すわけにはいかない。私の「本当の」小説が「ベストセラー」になることはないだろうから。

1920年10月18日(月曜日)
一ヶ月がこんなに早く過ぎてしまうなんて......9月にロリンズさんから手紙をもらったんだ。ロリンズ氏からの手紙には、フランス(フランス人の弁護士)が「悪意ある訴訟」のために宣誓書を提出したと書いてあった。しかし、「そんなことはないだろう」それはまだわからない。私はルイス・ペイジの執念深さを知っているからだ。
秋というより夏のような素晴らしい秋がやってきた。暖かい黄金の日、夏のような夜、こんなことは記憶にない。

1920年12月2日(木曜日)
リースクデールの牧師館
私は11月3日火曜日に家を出て、PE島へ向かった。可哀そうなアニーおばさんに会いに行くためだ。ブレダルベーンに着いたのは、金曜日の夜だった。その夜、私はスターリング夫妻と一緒に過ごした。マーガレットと私は一晩中起きて話していた。
昔と同じようにとても楽しい時間を過ごした。翌日私は車を走らせ、パーク・コーナーに向かった。
パーク・コーナーへ。それはある意味とてもつらい経験だった。そこにはフレデもステラもいないこと、フレデがもう二度とそこにいないことを知ったこと。まるで幽霊になったような気分だった。
かつて住んだことのある世界を、仲間のいない幽霊のように感じた。アニーおばさんを除いて昔の生活は何も残っていなかった。この家は若者であふれていて、私を「モードおばさん」と呼び、私のダイヤの指輪を見ては、私が昔キャベンディッシュの家に遊びに来た都会のおばさんたちの絹やレースを見ていたように彼女たち(ジョン・キャンベルの息子ジョージーの子供たち)にとって、私はパーク・コーナーの住人ではない未知の世界から来た魅力的で謎めいた世界からのアウトサイダーなのだ。
家に帰ると、チェスターもスチュアートも百日咳と水疱瘡で倒れていた。幸いなことに、二人ともそれほどひどくはない。

モンゴメリとローラ
ゴージャスなおばさん

1920年12月11日(土曜日)
リースクデールの牧師館
今、チャタムから戻った。水曜日に私の本の朗読会をするためにチャタムに行っていた。チャタム市の女性カナダ人クラブで私の本の朗読会を行った。とても楽しい時間を過ごすことができた。
とても素敵な人たちに出会った。私が朗読を始めるために壇上の席から立ち上がると大勢の聴衆が立ち上がってくれた。その賛辞は私を興奮させたが、しかしそれはこのようなデモンストレーションがいつもそうであるように、非現実的なものに思えた。(私がこんな賞賛を受ける身分になったのかしらと)という感じだった。私はまだ数年前の鼻持ちならない少女のままだ。
私はかつて小さな世界の住人(田舎の住人)である大人たちから、自分は何の価値もないのだといつも感じさせられていた。自分がどんな生物にとっても重要でないことを感じさせられた。その時の印象は決して消えない。
"劣等感" は消えない。かつてのあの少女は自分を讃えるデモの現実を決して信じることができない。まあそれはそれでいいのかもしれない。この方法は、私が(周囲から)腫れ物に触るような状態に(つけあがった作家のような状態に)なるのを防ぐのに非常に効果的なのだ。頭が腫れる(いい気になる)のを防いでくれているのだから。
(しかし、赤毛のアンの思わぬ成功はモンゴメリをカナダでは一番の、世界でも受け入れられる作家にしたことは間違いなく、多くの名士と言える人たちからも羨望の視線を浴びる存在となっていた)

1920年12月13日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール
2ヶ月の休暇の後、今日からまた書き始めた。私は、「エミリー」の本のための資料を集め始めている。それから詩を書きたいと思っている。詩は私の文学における初恋であり、最も深いものだった。私は詩を書くことが何よりも楽しいのだ。
今日、私はアスキス夫人の自伝を読み終えた。この本が英国社会の耳目を集めたのも無理はない。よくもまあここまでと思う。しかしこの本は本物だ。非常に興味をそそられるしおもしろい。しかし肝心なところは何もない。私はこの本が非難したり裏切ったりする世代が過ぎ去っても生き続けるかどうかは疑問だ。
アスキス夫人の自分についての分析は、批評家たちから多くのコメントが寄せられている。ある人はそれを高く評価し、またある人はそれが主張するほど率直で徹底したものではないと言っている。私は後者に賛成である。私はどんな人間でも、自分自身を徹底的に分析することはできないと思っている。
できるとしても、自分自身について徹底的に率直に分析することはできないと思う。たとえそれができるほど十分な距離を置くことができたとしても......。私たちには、誰もが進んで認める欠点がある。素直な人はそれを認めるだろうし、誰も認めないような欠点もある。
しかし、千人に一人の人は、自分の外に出て(自分の主観にとらわれず)、他の人と同じように自分を見ることができる力を持っている。自分の弱さと強さを知っている。
私自身そのような力を持っていると思う。しかし私以外の誰も見ることのないこの日記の中でさえも自分自身の中に見出したものを率直に書き記すことはできない。しかし私はできる限りアスキス夫人が言われたことを実行するよう努力しようと思う。私の人となりを記述し分析することにしてみよう。きっと面白いものになるだろう。

まず私の身体について説明する。私は中くらいの身長で、約165センチだ。しかしどういうわけか普通人は私のことを小さいと感じるものだ。
それは私が華奢な体つきで、最近までとても小柄だったからだ。私の足は「完璧な形をしている」と言われ甲高で足首もしっかりしている。
私の体型は一般に「すっきりしている」と言われる。私はこの言葉が嫌いなのだが、本当だと思う。最近お腹が膨らんできてふっくらとしてきた。
私の手は
非常に小さい。5の手袋をしているが、5、1/2でもいいくらいだ。もし私の手がふっくらとしていたらとてもきれいなのだが、美しさを追求するには細すぎる。特に寒いときは、本当にガリガリになる。快適に過ごしているときは白くて柔らかいと褒められることもある。でも決してきれいな手ではない。
私はこの手を会話によく使い、自分の身振りは生き生きとして優雅だと信じている。私の手首はきれいでよく曲がっていて手首は繊細にできているが、腕と肘は細すぎる。
私の髪は、子供のころは金色の茶色だったが、大人になってから非常に濃い茶色になってしまった。今は白髪がかなり生えているが、まだ黒髪の効果を崩すほどではない。昔から膝まである長い髪で太かった。
近年はインフルエンザや出産で多少薄くなったが。しかしその光沢には定評がある。この髪をきちんと整えると私の頭は非常に整った形に見える。
私の顔色はいつも良いが、時にはかなり青白いこともある。興奮すると顔が赤くなり、時には紅潮する。私の肌はとても柔らかくてきめ細かい。幼いころは鼻にそばかすがあった。
私の額は高すぎるが眉毛はきれいなアーチ型。私の目の色は美しくない。しかし睫毛は長く、表情も良い。人工的な光で瞳孔はいつも開いていて、会う人会う人、「私は黒目だ」と言う。私は黒い目をしている。これは家系的な特徴だ。バーティとローラ・マッキンタイアもそうだ。瞼を下げるときれいなので、私はいつも本当はきれいな目をしていないのに、きれいな目をしていると思われてきた。瞼を下げ過ぎと言われることもあるが、意識してそうしているわけではない。
私の鼻は、正面から見るとまっすぐで悪くないのだが、横から見ると曲がっていて悪い。頬骨が高く頬が少しこけている。
私の歯はとても貧弱で、混み合っていて、曲がっていて、かなり黄ばんでいる。私は笑うとき以外はあまり歯を見せない。歯を見せると、とても不格好になる。私の口はとても小さく、今まで見た人の中で一番小さい。赤くて、きれいで、「甘い」のだが、私はそれが好きではない。もっと大きい方がよかった。
私のあごは小さくて尖っている。後退はしていないのだが、しかしどちらかといえば弱いあごだ。耳はかなり良い。
これらの特徴の一般的な効果はどうだろうか? それは実にさまざまだ。髪を格好よくまとめて、額を低く隠してしているとき。頬を赤らめ、目を暗くするほど何かに興奮しているとき、私は率直に言って自分はとてもきれいな女性だと思うし何度もそう言われたことがある。一方、髪を梳かし、額から離したときは私はとてもきれいな女性だと思う。さて本当はどちらか。

美人とはどんな時でも可愛く見える人のことだ。だから私は本当は可愛くないんだ。私はちゃんと "仕上げた" 時だけ可愛く見えるのだ。オールドローズとサーモン、ピンク、クリーム、イエローが私の色になる。黒、茶、ネイビーが似合う色だ。
敵は私を「服が好き」と非難する。その通りだ。私はきれいなドレスや帽子、宝石がとても好きで、おしゃれをしていないと楽しめない。服装が整っていないと楽しめなくなってしまう。一人でいるときも、きれいな格好をしていないと楽しい気分になれない。レース、パール、ダイヤモンドが特に好きだ。私は機嫌が悪くなく怒ることもない。
自分の理想に見合わない人や物事には焦る。すぐに反省し、反省し、反省し。友人に傷つけられやすく、また自分の周りの人が私のことをどう思うか、どう言うかに、自分が望むほどには無関心ではない。私は簡単に怒らないが、怒った時は決して許さない。私は冷たい威厳をもって身を引き、その人を軽蔑して避ける。私は決して私を傷つけた人に復讐しようとは思わないが、運命がそうさせる時は、私は(罪を)償わない。
私は偽りから完全に自由であり、何かを偽ることは私を傷つける。私は破滅と妨害が嫌いで、そのようなことを避けるために、あまりに遠くまで行きあまりに多く降伏する。
そのようなことを避けるために私は故意に友人の気持ちを傷つけるようなことは決してしない。私は本当の愛と友情にとても忠実で、とても激しく情熱的である。私はすべての感情において極端すぎるのだ。感覚的な快楽が好きだ。
しかし、私はいつも私の中のある種の潔癖さと、私にとって魅力的な男性は千人に一人しかいないという事実によっていつも抑制されている。私は強い意志と強い決意をもっている。私は強い意志と、断固とした野心を持っている。私はとても忍耐強い。私は生来正直者だと思う。
しかし、余計なことに口出しされると平気で嘘をつく。人間不信で、相手の出方をうかがうところがある。外見的な印象が強すぎる。私は嫉妬深い。嫉妬深く、自分の愛する人が自分より優れた人を愛していることに耐えられない。
しかし他のことに関しては嫉妬しない。私は思考において人を傷つけることがなければ、行動もそうであろう。
私はエネルギッシュで計画的である。私は特定の事柄について心配しすぎる傾向がある。私はあらゆる形の美に敏感である。醜いものには苦痛を感じる。私はユーモアのセンスがあり、特定の人たちとの会話はかなり上手である。他の人とは間が抜けている。私は世間に対して控えめであるが、本当の親しい人にはとても率直でオープン。私は自分の本当の考え、感情、意見を上手に隠すことができる。私に対するさまざまな意見が飛び交っているのはそのためかもしれない。私は男性に褒められたい。
私は贅沢と余暇が好きだ、しかし私の野心はいつも私を厳しい労働と絶え間ない活動へと駆り立てる。たゆまぬ努力を続けてきた。私は変化を嫌い非常に保守的である。しかし私は慣習にとらわれない。私は肉体的には大の臆病者だが、知性的には全く恐れを知らない。
道徳的には半分と半分くらい。私はある意味では小心者であり、ある意味では大らかで寛大である。私はどんなコントロールにも非常にせっかちである。「私は自分の本性が導くままに歩む」。他の道しるべを選ぶことは、私を悩ませる。

私は見栄っ張りでもなければうぬぼれでもないのですが、とてもプライドが高いのだ。私は衝動的に行動することが多く、重要でないことを重要視しすぎる。
私は自分に対しても他人に対しても正義感が強い。私は自分はフェアにやりたいが他人にもフェアであってほしい。そして勝負に勝ちたい。
私は自分に自信がなく、いつもそれが大きな障害になっているということだ。私は身体も心もとても健康だ。私は想像力がとても豊かでそれは大きな恵みであると同時に、大きな呪いでもある。私は肉体的な苦痛を恐れているが、痛みが来ても耐えられるようだ。私は人のことをはっきりと見ることができる、あるいははっきりと感じることができる、なぜなら彼らに対する私の理解は頭で考えるよりも直感に近いからだ。私の感情は、他人の苦痛や苦しみに非常に容易に触れることができる。
他人に苦痛を与えるのは嫌いだが、しかし自分が強く迷惑を受けたとき、苛立ちが強いと、とても残酷なことを言うことがある。私は支配すること、つまり「ボス」になることが好きだ。しかしそのために争うほどでもない。私は驚くべき記憶力を持っているが、推理力についてはわからない。私は幾何学では間抜けだったが、代数学では星、算数ではかなり優秀だった。
私は裁縫が上手で料理も得意だ。私は何事もうまくやりたいし、うまくやるか、まったくやらないかだ。私は平静と節制に欠けている。私は喜び、悲しみ、心配など、何かしらの感情が渦巻いていて、何事も極端になりがちだが、成熟してくるとこの傾向はやや抑えられるようになって来た。
ロリンズさんは、私は商売上手な女だと言ったがそうではない。つまり私は理論的にはそうなのだが、私にははっきりわかるのだ、私にはスタミナというか、気骨というか、そういうものが欠けているのだということだ。それは私の「劣等感」が原因だと思う。その背景には、「自分の商品なんて大したことないんだから」人からもらったものでいいんだという考えだ。
子供の頃は宗教心が強かったのだが今はあまり感じないようだ。私は普通の意味での精神的なものを持っていないのだ。私は、病気の時に知的で忍耐強い良い看護婦である。ただし胃の調子が悪いときは役に立たない。しかし私は看護が好きではない。
私は、欺瞞、意図的な残酷さ、行儀の悪さ以外はほとんど何でも嫌いである。私は家にいるときより会社(各種団体)にいるときの方がマナーがいいのだ。
今思いつくのはこれくらいだが、自分でもよく分かっていることがいくつかある。この分析が私を長年知っている偏見のない人が書く分析に比べたらどうだろう。しかしこのような比較は決して行われることはないだろう。

1920年12月27日(月曜日)
今朝、ローリー・ケラーから電話があり、ステラにクリスマスの前日に息子が生まれたと言った。心配でたまらなかったのでほっとした。この子が彼女の人生観に変化をもたらしてくれることを期待している。彼女の巨大なエゴイズムを別の方向に向かわせることができればと思う。彼女の束縛はこの1年はひどかった
赤ちゃんはユアン・キャンベルと名付けた。去年の秋にステラがここに来たとき、彼女とユアンは「最初の男の子はユアンにちなんで名づける」というとんでもない約束をしていた。
ステラはそのとき、自分が子供を持つことになるとは思っていなかったが、思いがけないことが起こり、彼女はその「最初の男の子」につける名前の約束は守った。

1921年

1921年1月16日(日曜日)
リースクデール、牧師館
忙しい典型的な平均的な一週間だった。私は自分の楽しみのために、この一週間を振り返っての詳細な記録を詳細にメモしておいたので、ここにコピーしておこう。私の子孫は興味深く読むだろうし、私の曾孫もまたそれを読むだろう。私の曾孫は、田舎の牧師の妻が一世紀前の古い時代に何をしていたかについて、同情的な意見を述べるための釘として使うかもしれない。
先週の月曜日の朝、私は7時半に起床し、ランプの明かりの下で服を着た。いつも嫌なことだ。昼前に起きるのはいつも何か嫌な感じがする。幸いなことに、日が長くなるにつれてもうすぐ夜が明けるだろう。そして幸運なことに、この家は暖かかった。私たちは良い石炭を手に入れた。まだ本格的な冬は来ていない。だから心強い違い。
私の冬の中で最も恐ろしい冬であった、早い冬とは違うのだ。着替えを済ませチェスを起き上がらせその子の着替えを済ませた。
私は階下で食事の準備をし、朝食を済ませると彼は学校へ行った。彼は学校でうまくやっていけると思うし、この年頃の私よりも学校を気に入っている。歩く距離はかなり長い。学校は小さく先生はごく普通の女の子です。しかし彼の年齢では(優秀な先生でなくても)これはそれほど大きな問題ではない。
彼は熱心な読書家で、私が8歳のときよりもずっと多くの自然書を読んでいる。そして私が18歳のときに持っていた本よりも多くの本を持っている。本棚いっぱいだ。私は彼にたくさんの本を贈った。マクレランド氏は気前よく新しい本をたくさん送ってくれる。スチュアートと彼は一緒に本を読み、気に入った詩を覚えては、そして四六時中、うんざりするほど詩を披露する。今はドラモンドの「ビートルバティーズ」に夢中で、方言にもめげずとても上手に言っている。私は一日に千もの質問に答えなければならない。
チェスターが行った後、私はいつものように朝食の食器を洗った。それからスチュアートに作文のレッスンをした。彼はとてもよく読みほとんど自分で覚えたようなものだ。もう読書のレッスンはしていない。それから家中を片付けた。
チェスターの本棚の本を並べ、破れたクッションを直して家中を片付けた。今作っているアンダースカートを30分ほど縫った。これは「ペニー・ワイズ・パウンド・フール」(1円玉の節約)のようなものだ。これは「小銭稼ぎ」のようなものだ。
その時間を執筆にあてたほうがよほど経済的だ。しかし私の中には生まれつきのもの、そして長年にわたる必要かつ慎重な経済活動によって確認されたものがある。そのひとつは、何事も無駄にしたくないという強い願望だ。私には刺繍が施されたシャンタンシルクの古風なスカートがあった。そしてスカートは着られなくなったのだが、素材がよくて、どうしても活用したくなった。

そして夕食の野菜の下ごしらえをし、着替えを済ませて訪問した。夕食後私たちはUxbridgeに移動し、J(ユアン)はたくさんの買い物をした。ヒパティア・クラブに30分ほど行き楽しんだ。私はそのクラブのメンバーなのだが、めったに会合に出ることができない。Uxbridgeを出た後、私たちはJoin Taylor'sでお茶をし、私はアフガン用の帯をかぎ針で編んで、退屈な夜を過ごした。
このような牧歌的な牧師の訪問の間に、私はかなり派手な仕事をするようになった。家では決してやらない作業だ。私はいつも通り空想の仕事がとても好きで、それがこうして過ごす多くの死ぬほど退屈な夜を和らげてくれるのだ。とはいえ、「恨めしい」。このような訪問の時間を読書やちょっとしたレクリエーションに使えたら最高なんだけどね。それは無駄だからだ。誰も得をしないのだ。訪問した家族の虚栄心が一族の虚栄心が満たされるのだ。見過ごすことはない。それだけだ。
ではなぜ行くのか、私はなぜ行くのか? それは... 理由はこうだ。もし私が行かなかったら、彼らはむしろ「痛い」(牧師の妻は無責任だと怒る)だろうし、私だけではなくユアンを責めるでしょうし ユアンのことを悪く言い始めるでしょう。結局彼はここで不幸になるか、去らざるを得なくなるでしょう。さてユアンは、この教会に見合うような新しい集会を簡単に見つけられるような牧師ではない。彼はいったん落ち着くと、牧師としてはいつもうまくいくのだが、落ち着くまでが大変なのだ。
しかし定住するのは別の問題だ。長老派教会の不条理で忌まわしい制度に感謝する。どうして 彼がここで不満に思ったり、私たちが嫌がるような場所に行かなければならないのかと思うととても嫌だ。行くのは嫌だ。だからそれを防ぐために、できる限り このようなことがないように、私はできるだけ訪問して彼らの機嫌を取り、荘園の奴隷を喜ばせるようにしている。
10時半にテーラーズから帰宅したとき、私はあることで30分ほど反抗していた。その後自制心を取り戻し11時にベッドに入った。火曜日――いつものように早起きして、チェスターの昼食を用意した。それからハムを漬け物樽から取り出して、新しいハムを入れる。ロマンティックでも悲劇的でもない作業だった。でも私はハムが好きだ、悲劇とロマンスだけでは生きていけないから、誰かがトライをしなければならない。
それから私は前日の買い物を片付け、応接間にこもって2時間ほど書き物をした。それから家の中を整頓し着替えをした。夕食後、私は丘を登ってJas. ブランチャード夫人宅へ。 そこでW.M.S.の会合があった。それが終わると私は家に戻り、30分ほど繕いものをし、少し書き物をした。チェスターの宿題を手伝い、スチュアートにギルドのための暗唱を教えレッスンをした。
夕食後、私はギルドのために「楽しいことを言う義務」について論文を書いた。クララとバーティに手紙を書き、9時まで古い日誌を複写。それから寝るまでGroteの「History of Greece」を読んだ。
水曜日の朝。7時30分に起床。チェスターのランチを用意し家の片づけをした。それから牛の舌を漬けるための塩水を樽一杯分作り、2時間執筆した。その後1時間縫い物をし、日記を書き写し、手紙を書き服を着た。

朝食の時には家庭内の笑いがあった。リリーはスチュアートと喧嘩をしていて、彼女は「私は子供の扱いが下手ね」と言いながら、最後に小馬鹿にしたように「じゃあ、私はお母さんに任せるわ」と言った。そしてチェスターは、スチュアートがリリーに反論するときはいつもスチュアートの味方をする。 「私の行儀は少し曲がっているようだ」と言った。
夕食後子供たちを寝かしつけ、いつものように本を読み聞かせ、それからギルドに行き新聞を読んだ。私の論文を読んだ。ギルドでの仕事は、私たちがここに来た最初の頃ほど楽しいものではない。あの頃は20代の若い人たちがかなり優秀だった。彼らはかなりの自発性を持っていて、私たちをよく助けてくれた。その人たちは結婚したり、いなくなったりしている。今のギルドは10代の若者で構成され、異常に目まぐるしく、向上心が全くないように見える。
私は若い人たちが楽しい時間を過ごしたいということを非難するつもりはない。しかし彼らを否定はしないが、それ以外のこと(今楽しいこと以外)は何も考えていないようで、今あるものの中に他のものの芽を見出すことができないのだ(向上心がないと言っている)。そして社会全体を活気づけるような2、3人の優秀な人物は見当たらない。彼らは皆死んだようなレベルで、退屈でむなしいのだ。
私は9時半に帰宅して、多かれ少なかれ落胆していた。翌日の缶詰の準備のために、リリーが殺して服を着せた(袋にでも詰めたのか)たくさんの古い鶏を、塩と水の入った桶に入れた。そして、30分ほどブラウニング夫人の詩を読み、しばらくの間私自身の特別な焼印の苦悩を味わった。 これもまた私の特有な苦悩だった。
木曜日: - 7.30に起床。いつものようにチェスターの昼食と家事。その後、リリーと私は午前中、前述の古い鶏を切り刻み、そのかけらをガラス製の密封容器に詰めた。グラスシーラーに詰める。その後リネン庫の整理をし、いくつかのものを繕い、鍋料理を作り、鍋一杯のクランベリーソースを作り、鶏の肉片をきれいにした。鶏の死骸から肉片を取り除き、夕飯にはこの肉片を使ったとてもおいしい「鶏肉のゼリー寄せ」を作った。午後は天婦羅の缶詰作りに専念した。この鶏肉を缶詰にして、「鶏の缶詰」に変身させた。大きなフルーツケーキに必要な材料はすべて用意した。
枕カバーの裾上げ、スチュアートのレッスン、古い日記のコピー、MSSをタイプしてもらうために送ること。そして9時から10時半までウォートン夫人の『歓楽の館』を読んだ。"そしてベッドへ"
金曜日:-起床、起床の準備、C'sランチ、ハムを干す、家の片付け。フルーツケーキをこねて作り、午後に焼き上げ大成功。その後私はたくさんの雑用をこなし、W.M.S.の議事録を書き上げ、30分ほど縫い物をした。スチュアート・レッスン、手紙、日誌のコピー、30分読書、息子たちの寝かしつけ、読み聞かせた後、皆の邪魔がなくなったので、図書室のドアをペンキで塗った。私は8時半に終わり、労働の疲れを癒し、寝るまで本を読んでいた。
土曜日は、10時から8時まで至福の眠りにつくことができ、小さな男の子の昼食の準備もなかった。私はフルーツケーキを片付け、ハムやトングを作り、2つのツアーを書き、E. ユアンのお弁当を用意し、刺繍の入ったドイリー(食器の敷物)を洗い着替えた。夕食後ミッションバンドに行った。帰宅してから茹でておいたタン(舌)の皮を剥き、ドイリーにアイロンをかけ、2階のトランクを整理し、訪問者の相手をし、子供たちを寝かしつけた。靴を黒くし、手紙を書き、日記を書き、残りの時間は読書。 夕方残り少ない「休息」。

今朝は8時半まで寝ていた。リリーは留守で、嵐で、チェスターは頭痛がしていた。だから私は一日中家にいることで、世論に立ち向かうことができると思った。そうして手紙を書き、本を読み、食事をした。そんなこんなで1週間が終わった。
私は、冬の夜はいつもそうだがユアンはめったに家にいない。病気になってから、以前のように読書をする気もないようで、たいてい村の誰かを訪ねて出かけている。家にいても、もう寝てしまう。だから私は一人、ダフィー老人を相手にすることもなく一人で本と夢を見ている。夢はまだ1つある......死ぬか、過去に戻るかだ。運命がもっと優しかったら生きていたかもしれないのに。私は今未来を夢見ることはできない。あえてできないのだ......。

1921年1月17日(月曜日)
リースクデールの牧師館
大変な一日だった。まず昨夜はあまり眠れなかった。とてつもない風で、一晩中シャッターや窓がバタバタと音を立てていたせいもある。あまり眠れず、また体の不調のせいもあり、疲れと緊張を感じながら起床した。
この冬初めての本格的な寒さで、暖炉の火が十分あるにもかかわらず邸宅は不快であった。私たちはみな震え鳥肌が立っていた。というのもチェスターは昨日あまり調子がよくなかったので、今日は学校に行かせない方がいいと思った。今日は学校へ行かせなかった。彼とスチュアートが外出するには寒すぎるのだ。いつもは仲良しなんだけど、今日は......寒さに神経をとがらせてしまったみたい。年長者のように神経を尖らせ、からかったり、喧嘩したり、口げんかしたり。
ルース・クックがいたので、事態は複雑になった。ルース・クックという子がいて、彼女の家に新しい赤ん坊が生まれたので、彼女も今日の午後ここに送られてきたのだ。三人の子供たちは、仲が良くても、ひどく騒いだりある種の不和を起こしたりした。次から次へといたずらをして、頭が痛くなるほどだった。
ついにチェスターにお仕置きをすることになった。私はいつものように、しつけのすべてを自分でやらなければならなかった。ユアンは子供たちが生まれてから一度も教えようともせず、しつけようともしなかった。
宗教の真理さえも。道徳から礼儀作法まで、すべて私に任されたのだ。私の子供たちの教育やしつけの責任は、すべて私にあるという事実を受け入れざるを得なかったのは、私の人生において苦い出来事だった。私はこの状況を受け入れ最善を尽くす。
しかし賢明で分別のある父親が与えることのできる訓練を与えることができないのは、男の子の教育にとって大きな損失であり、どんな母親でも完全に補うことはできない。ユアンは子供たちが大好きだが、気が向いたときに子供たちと遊ぶことしか考えていないようだ。しかしそれさえもほとんどしていない。チェスターとスチュアートが赤ちゃんだった頃、私は母性に歓喜と甘さを感じていた時期があった。
もっと子供が欲しいと切に願っていたのに、そうならなかったことに深く失望したものだ。でもこの2年間は、もう子供がいないことに納得している。別の状況であれば、私は少なくとも6人の子供を望んでいただろう。しかし現実はそうではない。
そしてこの日は年に一度の集会の日であった。ユアンは青く落胆して帰ってきた。リースクデールはこの点では他の地方都市よりも劣っているのかもしれない。しかし私は知っている。私がここに来てから、明るく、楽観的で、励みになるような総会は一度もなかった。毎年この日(年に一度の集会)が来るのが怖いのだ。特にユアンは退屈で、それが今すっかり忘れてしまって(説教をか)、少し悲観的になり始めている。
悲観的になることはない。我が家はおおむね快適だし、ユアンは子供たちに厳しく接しないし 息子たちは元気で健康だ。ひどい欠点はありませんよ。
我らの会衆の中で、人々と牧師や牧師夫人の間に摩擦が生じたことは一度もない。だから事態はもっと悪いかもしれない。しかし私は今夜は湯たんぽを持って寝ます。

1921年1月20日(木曜日)
リースクデールの牧師館
今日は何も書くことがない。普通の仕事だった。しかし今夜はとても寂しく、心が病んでいるように感じるので、昔何度もそうであったように、私の古い日記に慰めを求めに来た。他に頼れる人はいない。近くに私を助けてくれる友人もいない。そしてもしいたとしても、私は夫が憂鬱症の発作に見舞われているのだ。
憂鬱症が再発したのだ。一日中、家の中で寝そべって、茫然と宙を見つめているのだ。荒れ狂ったような目で、髪を逆立てて、顔かたちを変えて、顔かたちはまるで他人のように変わり、讃美歌を歌い出す。
jgjrsgr.(ジンジャーズグルー)と叫びたくなるような、子供じみた無駄な行為で、私にはとても耐えられない。というのは、それが彼の精神状態を現しているからである。こんなことは誰にも言えない。誰にも。
ユアンと子供たちのためにも、私のためにも誰にも知られてはならないのだ。私が秘密を守れる限り、彼の悩みは誰にも知られてはならないのだ ...

1921年1月23日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
昨夜、ローラ・プリチャードの古い手紙の束を読み返した。私は笑うしかなかった。ローラが私への愛情を綴ったものだ。私はそのうちの1通の最初の4ページをユアンに読み聞かせ、ユアンは「こんな手紙を書く奴がいるのか?」と戸惑い、半ば嫉妬のような質問をした。確かにそれはまるで、ひどく恋心を抱いた恋人の吐露のように読めた。
その手紙を読んだ見知らぬ人は、ローラの性格や人柄について、非常に不当な考えを抱くことは間違いないだろう。その人は、ローラのことを、服装や恋人のことばかり考えている、奔放で感傷的な女の子だと思うに違いない。そんなことはありえない。
真実から遠く離れたものではない。ローラは本当に陽気で、分別があり、勤勉で、無欲な女の子だった。ローラは本当に陽気で常識的、勤勉で利己的な女の子だった。
数週間から数ヶ月の間、社交界で何気なく出会った若者たちと、悪口を言い合いながら散歩したり、ドライブしたり、踊ったりする程度だった。
ローラはやがて浮気をやめ、アンドリュー・アグニューと結婚した。二人はとても幸せな生活を送っている。ローラとは1917年以来音信不通である。その後、彼女は3人の男の子と2人の女の子の5人の子供を産んだ。彼女の長男はフランスにいる。私がチャタムに行ったとき、彼女の古い家である婦人に会った。アグニュー家の人々はビジネスがうまくいかなくなり、サスカトゥーンに住んでいるとのことだった。それを聞いて私はとても残念に思った。ローラにとってはせっかく建てた素敵な新居と、ずっと住んでいた町を離れるのはとても辛いことだったに違いない。
でもそれまでは、女性にはめったにない幸せな人生だったのだが。ということは誰にでも許されることではない。私たちは何らかの形で代償を払わなければならない。
私はローラにもう一度会いたい。10代の頃一番大好きだった友人だ。でも、今私たちがかつてそうであったように、互いにそうなれるかどうかは疑問だ。
かつてそうであったように。ローラは、手紙を見る限り、あまり変わっていないように見える。私は計り知れないほど変わってしまった。かつてのように自分の気持ちを誰にも打ち明けることができないほど、控えめになってしまったのだ。誰に対しても。いや、ローラは私の友情に対する要求を満たしてくれないと思う。フレデリックを知った後では。
30年間悲しみと苦痛に魂を焼き尽くされ、ローラは幸せな少女時代と妻時代の生け垣のある(分離された)道だけを歩んできた。
彼女は私の言葉を知らないだろうし、私は彼女の言葉を忘れているはずだ。

1921年1月25日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
2年前の今日、フレデは死んだ。2年前! 明るく勇敢な魂よ、朝日を浴びてからどこに行ったのですか?  また会うことができるのか? それともまた新たな肉体の化身として、再び「生きるという熱」を起こすのだろうか。この考えが何よりも強く私に訴えかけるときがある。そしてまた別の気分の時には、私は恐れを抱くのだ。

1921年1月30日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
古い日記を書き直していたら、最近「オリバー・マクニール」の項を書き写したのだが、残念ながら、私はそれを見て、あるいは必死なオリバーの記憶を見て少し笑ってしまった。彼はダコタに戻ったが、私にもキャンピーにも会えなかった。その冬、私たちは時々文通をしました。彼が自分で作った「詩」を「たくさん」送ってくれた。
私に宛てたもので、非常に感傷的なものだった。それは「自由詩」ではなかった――それだけは好意的に言うことができるだろう。オリバーは、それが非常に適切なものであろうとなかろうと、ほとんど韻を踏んでいないのだ。彼はまたクリスマスに詩集(彼自身のものではない)を送ってくれた。"To Thee Alone" という題で、感傷的な臭いのする詩がたくさんある。

翌年の夏オリバーは再び島を訪れた。また少しばかり必死な シーンを過ごした。特に覚えているのは、恋人岬の近くの森で、オリバーが倒れた木の幹に腰を下ろしてこう叫んだのだ。抱いてよいのだと。 "女が男を抱く" なんて信じられなかった。 しかし私はかつて彼が私にかけた肉体的な恋心からすっかり回復していたので彼が再び魔法をかけることはできなかった。だから私は笑って いとこのルーシー・マクルーアと結婚するよう勧めた。喜んで 私はその結婚に最善を尽くしたが、それは私がマッチメイキングを試した唯一の時であり私はほとんど成功した。
ルーシーの髪がもっと多ければ成功しただろう。彼女の乏しい毛髪はオリバーの感性をひどく刺激した。 結局彼は彼女を捨てて、サマーサイドのメイベル・レアと結婚した。ベルモントの教え子だ。彼の叔母のアラン・フレーザー夫人がその縁談を進め、オリバーはメイベルと結婚することにした。 私に似ていると言われたからだそうだ。結婚後私はオリバーのことを聞いたことがない。
この日記の大部分は、神経衰弱の発作に悩まされながら書いたものだ。冬になると神経衰弱の発作に悩まされる。孤独と心配と寂しさのあの恐ろしい月日を思い出すと不思議でならない。どうすれば理性を保てるのか分からない。
人生というものは今でも十分に苛酷で、多くの不可解で困惑させられる問題があるが、少なくとも このような神経的な苦痛と格闘する必要はないのだ。私の人生の最良の年であったはずの年月が、このようにぞっとするような長く続く孤独と苦悩の年であった。

1921年2月10日(木曜日)
...昨夜、私は座ってハリファックスで初めて小切手をもらった25年前のあの日から、私のペンが稼いだ金の数を計算した。その結果合計で約10万ドルである。最初はペンとコツコツとした機材で始めたことを思えばそれほど悪い総額ではない。もしページが悪党でなかったら、少なくともあと五万ドルはあっただろう。でもそんなに悪くはない。残念なのは、それが幸福を意味しないことだ。
しかしおそらく私の子供たちは、私が手に入れることのできない幸福を、そこから得ることができるだろうが、おそらく私のように奔走して苦労した方がより良い人生を送れるだろうし、より野心的で成功するだろう。この狂った世界では、しばしばそうなるようだ。

1921年2月12日(土曜日)
リースクデールの牧師館
私は苛立った午後を過ごしていた――ステルからの冷静な手紙の結果だ。
もっと金を出せというのだ。去年の春、綿花牧場を買うために彼女に2700ドルを貸した。彼女は綿花で大儲けするつもりだった。(事業に熱心なおばさんだ)とても輝かしい報告を受けていた。夫とその兄の連名による手形を担保にするつもりだった。
その兄弟は裕福な男だった。秋には利息も付けて返してくれるそうだ。私は彼らの成功をほとんど信じていなかったが、かわいそうなアニーおばさんのために彼女にお金を貸した。彼女は自分と夫の署名入りのメモを送ってきたが、それは紙一重の価値しかなかった。
借用書を書いても、それ以上は二人とも一銭も持っていないのだから。私はこのような仕掛けに激怒した。 しかし私は何も言わなかった。綿花はそこそこ収穫できたが相場は底をついた。彼らは綿花を売ることも、私に利子を支払うこともできなかった。それでも私は何も言わなかった。
3週間前ステラから無愛想な電報が届き、彼女の病院代として350ドルを送金するよう命じられた。私はアニーおばさんのために「もう一回だけ」と言い、何も文句を言わなかった。今日、数千ドル貸してくれという手紙が来た。石油ブームで土地の価値が上がるまで持ちこたえられるよう、さらに数千ドルを貸せというのだ。ステラは正気じゃないんだ。
私はといえばついに限界に達した。もう彼女にお金を使うのはやめよう。彼女と夫は、働いて自分たちでお金を稼げばいいんだ。ステラに貸したお金を数えると......彼女に貸した金は数百回にのぼる。数百ドルを貸したのは言うまでもないが、彼女の友人であるハワット夫妻にも貸した。8年間一銭の利子もつかず、元金すら戻ってくる見込みはほとんどない。というのも担保がよくないし裏付けもないからだ。私の無駄遣いの限界は1万ドルだ。ステラには正気に戻すような手紙を書いた。彼女は怒り狂うだろうが、しかし私はもう気にしない。これ以上あの横柄な恩知らずの浪費家に金を使う前に止めなきゃ。

ステラ

1921年2月14日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日ユアンが図書室で私のところに来て、腕を組んで私にこう言った。私は彼の人生に大きな喜びをもたらし、私は「世界で一番愛しい小さな妻」だと言いった。"世界一の妻" だと。かわいそうなユアン。病魔に侵された彼の人生は暗いものだ。でも私は彼を幸せにできてうれしいわ。少なくとも私は落胆している時ほど、すべてを失敗したわけではないと思いがちだが。
今日短編小説を書き上げた。「白い貴婦人の密会」だ。空想的な小品だ。

1921年2月23日(水曜日)
リースクデールの牧師館
この1週間はとても忙しかった。でもいつが忙しくないんだろう? 忙しくないときなどない。私は忙しくできることに感謝している。家のことを計画したり、物事を追い越したり(前もって進めたり)することができるのだ。ただ夜だけはちょっと疲れすぎた。最近古い日記を書き写していたら、バーティ・マッキンタイアが言っていた「灰色の時間」に行き着いた。
アール・グレイ(カナダ総督)と私がマクフェイル発電所の階段で行った降霊術を思い出し、また笑った。その話には続きがあってそれはそれで面白かったのだが、私はその話を聞いたことがない。この日記には書かなかったと思う。3年後私は島でジャネッタ・マクフェイルと一緒にジッグ駅から上がってきた。あの夜、彼女はその話をするために、ずっと私に会いたがっていたそうだ。そこで彼女は次のような話をした。

その夜、私とアールグレイが姿を消した後、マクフェイル夫人がジャネッタのもとを訪れた。
伯爵夫人が動転しているのではと心配してジャネッタのところへ行った。
夫人はベランダを行ったり来たりして落ち着きがなく、敷地内の見物人にも加わろうとしないので、何かあったのではないかと心配していた。ジャネッタを、"侍女" と呼んでいた。
ジャネッタは心配しないでお母さん。レディ・グレイは退屈しているに違いありません。ここは娯楽が少ないから。夕食の前に少し横にならないか聞いてきます。
ジャネッタは伯爵夫人が激しく歩き回るベランダに行き丁寧にこう言った。横になられてはいかがでしょう。
「閣下夫人」はジャネッタの問いかけにはまったく耳を貸さなかった。しかし彼女はジャネッタの前で立ち止まり、彼女の腕を野蛮なまでに掴み、激しい口調でこう聞いたのだ。
モンゴメリさんは何歳の女性だと思いますか?
当然ながら、ジャネッタはまったく予想だにしなかった問いにはっとした。しかも彼女は私の年齢を知らなかったが、しかし私がP.W.C.(師範学校)に行ったのは彼女の兄弟の一人が行った直後だったことを思い出して、彼女はそれ(私の年齢)を推測した。「35歳くらいじゃないかしら」と口ごもった。
伯爵夫人は悲劇的な調子で言った、「私は彼女が少なくとも40歳ぐらいの人だろうと思っていました」と言った。そして、ジャネッタの腕を振りほどき、ベランダで動揺した足取りで歩き始めた。
ジャネッタはどうしたらいいのかわからなかった。しかし彼女の強い安堵感から、伯爵と伯爵夫人も私たちを見つけて、階段を下り果樹園を抜けて飛んできた。その間にジャネッタはありがたいことに、この件から手を引いてくれた。
私は伯爵夫人が果樹園で私たちを出迎えた後、伯爵は私に目もくれずさっさと帰ってしまった。私はそれを奇妙に思いとても失礼だと思った。
しかし、それは私が英国貴族の慣習を知らないからだろうと結論づけた。妃殿下が私に嫉妬しているとは思いもしなかった。私の良心は晴れやかだった。確かに伯爵を "吸血鬼" (のような気持ちにさせようとは)にはしていなかった。ハゲ頭とリスの歯並びのグレイ伯爵に媚びようと思えばできたはずだ。彼は私に媚びようとはしなかった。
とにかく私はジャネッタの話を聞いて、レディ・グレイは確かに伯爵より年上で美人でもない。レディ・グレイは、金持ちの嫉妬に狂った被害者に違いないと結論づけた。というのも、夫が他の女に少しでも興味を持つと、病的な嫉妬にさいなまれるからだ。後日マクドナルド大学で聞いた話がそれを裏付けている。
ある人が、グレイ伯爵がどこかの礎石を据えるという話をしていてこう言った。"伯爵夫人" は一緒ではなかったと言った。別の婦人は、「伯爵夫人があんなに長く目を離したのは不思議だと言っていた。つまりエルシーはいつも夫を監視してたのね。
中年の女性作家を桜並木の奥の不思議な家の階段に誘い込むことを認めていなかったのだ。

1921年3月5日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
先週の大半は、「イングリッシュサイド」の校正を読むのに忙しかった。また、"Myrtle Station"(マートル・ステーション)と呼ばれる地方から手紙が来て、イースター・サンデーの夜、彼ら(メソジスト教徒)の教会で宣教師の演説をするようにとの手紙を受け取った。私は断った。
月曜日はトロントに行き木曜日まで春の買い物をした。木曜日の夜に帰宅し、凍った泥のひどい道をドライブして帰宅した。こんなドライブをしなければならないのなら駅の近くに住むことができないのだろうかと思う。
Ewanは、Stokesから「イングルサイド」が「陰鬱すぎる」と文句を言われ、「イングルサイド」の一部(リラオブイングルサイドの一部)を省略し、トーンダウンして欲しいという手紙が来たという。また、戦争に関して私が米国に十分な「タフネス」をしていない(米国の戦争への関与に重点を置いていない)ことを微妙に示唆していた。
この点については、彼らは露骨にそう言いたくはなかったようだが。しかし私はそうしなかったし、今後もそうするつもりはない。私は戦争中のカナダについて書いたのであって、アメリカについて書いたのではない。(カナダ人であるという誇りも生まれていたのであろう)
しかし私はこの件に不安を感じていた。私は出版社が私の本に不満を持っているとは思いたくないのだ。マックはこの本を気に入ったようで、いい話だし売れるだろうと言っていた。この点については(売れそうかということ)ストークスが疑っているようで私も疑っている。
しかし、エスティ夫人から素敵な手紙が届いた。最近セントジョンで講演したアカディア大学のローガン博士が、カナダは「一人の天才的な女性」を生んだと言ったそうだ。L.M.モンゴメリは、著名な批評家の意見では、"子供の生活や性格の描写はディケンズと同等かそれ以上だ" と言っていたそうだ。
ふむふむ、私は天才ではないが、ローガン先生ありがとうございました。
ウィリス夫人は私に講演を 依頼してきたそうだ。"エルサレムの過去 現在、未来" について―― 私はウィリス夫人に過去も現在もエルサレムのことは話せないと言った。エルサレムの過去と現在については、語るに足るほどのことは知りませんし、自分を預言者だとも思っていません、とウィリス夫人に言った。

1921年3月12日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
昨夜、ユアンと私はアクスブリッジにあるハイパティア・クラブに行きました。途中の道では私の勇気はほとんど失われてしまった。しかし私は行きたかったのだ。というのも、ユアンはずっと元気がなかったのだ。
この1週間、彼はとても退屈していたし、私は12月初めにチャタムを訪れて以来、まともな社交の場を持っていなかったので行きたいと思った。
12月初旬にチャタムを訪れて以来、まともな社交の場がなかったので、「行事」に飢えていたのだ。だから私はあまり使っていないイブニングドレスを取り出して出かけた。そして私たちは非常に楽しい時間を過ごした。道路を補うのに十分なほどだった。(悪い道で苦労した分を補えるほど)
今日、ステラから手紙が届いたが、かなりぎこちないものだった。私はむしろ楽しませてもらった。
彼女は文字通り怒りで沸騰していた。しかし彼女は私に多くの借りがあるため、あえて侮辱したり喧嘩をしたりできない。だからそのため、彼女は怒りに負けてしまい死にそうになるのだ。
クララからの手紙によると、ステラは自分の赤ちゃんにも愛情がないようだという。私も彼女の手紙からそう思っていた。赤ちゃんに文句を言うだけだ。ステラには本当に誰に対しても愛情がない。精神的に不安定な人は皆そうだが彼女は完全に自己中心的なんだ。かわいそうに子供が出来れば神経衰弱を治し正常な状態に戻るだろうと。しかし明らかにそうなっていない。おそらく手遅れになったのだろう。(おそらくステラは"私はすごいんだ"となりたくて焦っていたようだ)
わからない。彼女と結婚した哀れな人はひどい人生を送っているとクララは言っている。クララはそう言っているが、私はそれを信じることができる。彼は結婚したときは、彼女の表面的な陽気さに完全に騙され、乱暴に恋をしていた。しかしそれ以来彼は無礼に目覚めてしまった。ステラは私たちにとって悪夢のような存在だ。彼女は最も恐ろしい例である。

1921年3月13日(日曜日)
今日、キャベンディッシュ時代の日記を写し終えて、私の人生における「現代史」になったようだ。このように書き写すことで、私はその古い年月を生き返らせた。読むよりももっと鮮明に、強烈に追体験することができた。もう読み終えてしまったのが少し残念だ。
私の人生の最初の13年間は確かに幸せな年月ではなかったし、その一部は激しく不幸だった。しかしその中にも多くの幸せな時間と甘美な時間があった。その身にまとった愛すべき仕事と成功の幸せ。海や野や木とのすばらしい交わりを味わった。この幸福を、私はその数年間書くことで再び味わった。
いろいろな幸せがある。それらを一度に味わうことはできない。なぜならそれは完璧な幸せだからであり、一度に味わうことは神々が人間に許さないものだからだ。私たちは人生のある時期にはあるものを持ち、別の時期に味わうものある。完璧な幸福を感じたことはありませんし、ないだろう。でも結局のところ私の人生には、多くの素晴らしい極上の時間があった。
[この項終わり]

モンゴメリ(1918年)




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