日記目次に戻る


モンゴメリ日記

1913年

1913年2月7日(金曜日)
パンチは今日で生後7ヶ月になった。バスケットの中で椅子につかまりながら、自分の小さな足で立ち上がり、そして残念なことに倒れて床に頭を打ちつけてしまった。床に突っ伏してしまった。これは彼が昼間の住居としてバスケットを卒業したことを意味している。
古い「ジョリー・ロジャー」(赤ん坊を入れるカゴか)は、夜には海賊船としてしか使われなくなった。そして、この小さな冒険家のために(食卓で一緒に食事をする為に)背の高い椅子を買わなければならない。一週間ごとに彼に力と知識を与えている。
しかし、私にとっては母親としての小さな悲劇が今日も起こった。私は息子に初めてミルクを飲ませたとき苦い思いをした。私はそれを痛切に感じた。生まれてからずっと、私に頼り切っていたのだ。この子はその愛すべき小さな体が求めるすべての栄養を私から得ていたのだ。
完全に私のものだった。しかしこれからはそうではない。この子は自分の栄養を外部に依存するようになり、ますますそうしなければならない。
ある意味では、それは救いでもあるのだろう。確かに介護は迷惑な面もある。特に、この時代に生きていると看護は厄介なものだ。特に背中にホックのある服を着るようなファッションの時代に生きているとね。でもあきらめるのは嫌なのだ。授乳できることに感謝している。
授乳を拒否する母親の気が知れない(赤毛のアンの中にも「お前は牛乳で育てられたのだから」というセリフが出てくる)。そうそう、今日赤ちゃんにミルクを飲ませるとき、私は胸が痛くなった。

1913年2月22日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日はとても楽しくて、ちょっと珍しい日だった。この1週間はとても忙しかったので、二重の喜びだ。
私は「アン」の作者として参加することを約束していた。それで先週の月曜日の夜、練習のために車を走らせなければならなかったのだ。その日は霜の降りた月明かりの夜で、道もよく楽しくドライブができた。しかし翌朝は買い物でもう一度その上を通らなければならなかった。
そして水曜日は、午後にホームミッション協会、夕方にギルドが開かれた。木曜日は女性二人とお茶をし、昨夜はUxbridge(中堅の町)でコンサートがあった。素晴らしいコンサートだったが、私はChesterと出かけなければならず(赤ん坊と一緒に出掛けるのは大変だ)、悪路を通って家に着いたのは深夜2時だった。その結果、私の「静かな家での一日」は恩恵と祝福に満ちたものとなった(赤ん坊がむずかった事の皮肉かもしれない)。確かに私はゆっくり休みたい。しかし私の生活はとても忙しく、ほとんどそうだ。いつも何らかの義務があり、そしてしばしば予期せぬことが起きてその邪魔をされることが多いのだ。でも母であることがすべてを解決してくれるのだ。私は文句を言わない。
つまり家庭や大切な人との関わりの中で、やらなければならないことの全てに文句を言わないということである。
しかし私は藁をもすがる思いで、外部の人に時間を割かなければならないことを恨んでいる。

1913年4月26日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
最も美しい4月を迎えた。オンタリオの好きなところは春が早いところだ。(私の故郷プリンスエドワード島)より3週間も早く、穏やかで恨みっこなしだ。そしてまだ――しかし結局のところ島の春にはここにはない独特の甘さがあるのだ。それが何なのかはわからないが(島の方が都会から離れた鄙びた自然の感じがある)、私はそれを感じそれを恋しく思うのだ。東部の春はその厳しさにこそ魅力があるのかもしれない。
4月中は猛烈にハウスクリーニングをした。台所以外は終わったのだが、残念でならない。私は昔家の掃除をするのが好きだった。でも家具やインテリアがシンプルで質素な家の方がずっと楽だったのだ。素敵なものをたくさん持っている代償として掃除が大変だ。
もちろん、私は素敵な家具が大好きで、いつも憧れていたからこのことに異論はないもちろん、その代償を払うことは厭わないが、あえて言わせてもらうと、「掃除という行為」はその代償を払うことになる。
掃除は大変な作業で、終わってよかったと思う。大変なことではあるが、しかし昨年の春のステラの機嫌の悪さ、文句のつけ方、運転の仕方に比べれば簡単なものだった。
この春は、私が望んだとおりの都合と計画で、思い通りの掃除ができた。この違いは大きな違いだ。

1913年5月1日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日、家からメイフラワーの箱が届いた(親戚の人でも送ってくれたものか)。多少色あせてはいたが...。でもそれはメイフラワーだったのだ。私はその花に顔を埋めて目を閉じると、私はまたあの懐かしい草原に戻ったような気がした。
青い港が西に輝き春風が靡く、千マイルも離れたあの古い荒野に私は戻っていた。春風がモミの木々を揺らしている。あの花は苦痛なのか喜びなのかわからないが、しかし、その痛みさえもとても甘美なものだった。
リリーと私は台所に募集の紙を貼り、チェスターの世話をする若い女の子を雇ったので、私は途切れることなく仕事ができました...。(執筆の仕事)

1913年5月6日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日、ついにチェスターの乳離れをした。どんなに嫌だったことか!? 私たちの間の最も親密な絆が壊れてしまったようだ。彼は少し私のものではなくなった。そして匍匐前進の服を着て、大きな頑丈な男の子のように見える。I
去年の夏、私のそばに寄り添っていた小さな白いものに彼は本当になれるのだろうかと、私はと思ってしまう。私は彼の小さなベビーベッドのそばに立ち、眠っている彼を見下ろすとき最も幸福な瞬間が訪れる。
小さなリラックスした完璧な体、丸々とした手足、頭の横に突き出された小さなくぼみのある拳、バラ色の頬、閉じられた長いまつ毛の目。彼はハンサムな少年になると思う
。顔色もよく、星のような濃いブルーの瞳に、くぼみのある頬。髪は伸び始めていて金色の髪になりそうだ。私の愛しい息子よ! あなたは私にとってなんという幸せ者でしょう。これからもずっとそうであろうか。

1913年5月18日(日曜日)
牧師館
オンタリオ州リースクデール
家の片付けが終わってから、猛烈にガーデニングをしている。とても幸せです。チューリップと水仙がとてもきれいに咲いている。チューリップは本当に野蛮な花で春という繊細で魅惑的な季節には似つかわしくないように思ええる。しかしチューリップは芝生に鮮やかな色彩を与え、「道路からよく見える」。
でも、私が好きなのは水仙だ。特に「詩人水仙」と呼ばれる甘い水仙と、そして小さな星のようなジョンキルの花だ。私の庭は私にとってとても楽しい場所なのだ。私は何年も庭を持たないでいた。
長年、水仙のない生活を送っていたが、今再び水仙を手に入れた喜びに酔いしれている。

1913年5月21日(水曜日)
今日、新しい本「The Golden Road」(ストーリーガール第2弾)を書き上げた。書いていて楽しいとは思えなかった。あまりに急ぎすぎて時間が足りなかった。私は高圧的に書かなければならなかったし、常に神経質に中断を予期していた。
その(余計な用事の)割り込みは、十中八九確実にやってくる。このような状況では書くことの楽しみはほとんどない。慌てず、休まず」考えたり、書いたりしていた「故郷」の窓辺の静かな時間を懐かしく思うことがある。しかしそのような日々は過ぎ去り、
小柄なチェスターが小さなメークトラブル(厄介ごとの作り手)である限り、戻ることはないのです。戻ってきてほしいとは思わないが慌てず騒がず書く時間が欲しいのだ。とはいえ本はできあがり、もっと楽しく書かれた本と同じくらいいいものになるかもしれない。
私はまだ完成に近づいていないので判断できないし、ストレスと緊張の中で書いたので、他の本で感じたような、(人物が)生きているような親密な感覚はない。

1913年6月10日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
......私は7月にホームに行くんだ!(キャベンディッシュに里帰りする) 私はそれを信じることができない。あれからずいぶん経ったような気がする。あれからたくさんのことがあった。またCavendishに行けると思うと、楽しみで仕方ない。また恋人岬を歩けると思うと恋人の小径や海岸を歩くのが楽しみでならない。
喜びで胸が高鳴ります。でもまたキャベンディッシュを離れるのは寂しい気がします。とても悲しく辛いものです。それに冷静な理性によれば何週間も訪問するのは 疲れるだろうし。それからあまり気乗りしない人たちに何十人も会いに行かなくてはならない。もちろん楽しいけど......ああ! キャベンディッシュの森や海辺で 過ごせたら...のみである。そんなはずはない、たとえある種の人々が訪問する必要がなかったとしても、私はチェスターを離れることもできないので一人でぶらぶらすることもできない。
それでも私の旅にはきっと楽しみがあるはずで、私はそれを楽しみにしている。そして栄光あれ、私は5、6週間、宣教師協会や牧師の訪問の退屈から解放される。それだけで大満足だ。(日々の気世話な用事はウザくなると言ってるんですね)

1913年6月11日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
...私は今、ほとんど本を読む時間がない。しかし、私は他の多くの価値あるものを持っている。私の小さな子供は、どんな本よりもずっと面白い。先日も一人で立っていたが、でも四つん這いで駆け回るのが得意で歩くのは苦手なのだ。匍匐前進で小走りする姿は滑稽である。彼は小さな犬のように走る。

1913年6月29日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
今夜はとても疲れたので、俗語を使えば「全部入り」です。この一週間は100の「しなければならないこと」を追い越すために荒々しく奔走してきた。明日私たちは家に帰る。
月曜日にはお茶を飲みに行かなければならない。そう、逃れられないのだ。それは「牧歌的な義務」であり、絶望的な退屈さだった。火曜日は熱波がオンタリオ州を襲い、それ以来、昼も夜もうだるような暑さが続いている。
私はUxbridge(リースクデールの南にある中堅都市)に行き、たくさんの買い物をしてお茶を飲んだ。水曜日は6日に行われるHome Mission Sewing Beeに行かなければならなかった。木曜日は会社(出版社との打ち合わせ)があった。木曜日は来客がありお茶をした。しかしその夜には、私にとってとても素敵なことがあった。夕暮れ時私はチェスターと外でしばらく二人きりになった。私は散歩道で立っていた。
(赤ん坊は)ベランダを四つんばいになって行ったり来たりしていた。スタンドの上には大きなゼラニウムの鉢植えが、赤い花をたくさん咲かせていた。チェスターはその前で立ち止まり、緋色の花房に顔を近づけてにっこり微笑んだ。愛しい仲間に見せるような、小さな微笑み。これほど甘く自然な笑顔は見たことがない。
金曜日、私は家を出るための荷造りと整理で忙しかった。土曜日に出発するため、家の中を整理していた。土曜日にそれを終えてからまたお茶会に出かけた。ああ、貴重な時間を無駄にしなければならない。
貴重な時間を無駄にしてしまう。それは私を作る(本を読むことや執筆することが私の精神の向上になるのだ)。それを考えると胸が熱くなる。そしてもしそれを(信徒のところを訪問することを)楽しむことができたなら、こんなに恨んだりしないだろう。私はそうすれば少なくとも楽しみがある。しかし現状では、このような訪問は耐えられないと思う。
家族の写真を見せられると、無理しておしゃべりしたり、
微笑んだり、適当なコメントをしたりする。 でも全部嫌なのだ。 今日はほとんど休息がなかった。午前中はリースクデールの礼拝に行き、そして午後はゼファーの礼拝に行った。私は長い間そこで自分を見せなければならない。 そうしないと嫉妬深いゼファーの連中が、自分たちが注目されていないと思ってしまう。 今日の夕方たずねてきた人がいて遅くまでいた。私は非常に疲れており暑さが息苦しい。
旅はどうなるのだろう? それはしかし、会衆の中でお茶を飲みに行くより悪いことはないだろう。なぜ行くのか? 人々がそれを期待しているからだ。私が行かないとみんなに迷惑がかかるし、夫の仕事にも影響が出る。私が行くのは彼のためだけだ。そうでなければ私はあの人たちに、事実上「行ってしまえ!」と言うでしょう。と言うだろう。
私の貴重な時間を、牧師夫妻をお茶に誘うようなあなたのちっぽけな虚栄心のために費やすのはごめんだ。 牧師夫妻は隣の人を訪問するのと同じように自分の家もたくさん訪問しているのだと言いたいためにお茶に誘うような虚栄心のために時間を使いたくない。私には他にもっと重要な仕事があるのだ。あなたにはあなたの些細な軽い一般的な要求のために、私の大切な仕事を犠牲にしろというのは酷な話だ。私はそんなことはしない。私は私自身の人生を生き、そして悪魔よ、(邪魔な)お前たちを連れて行け!"
しかし、私はそれを言うことができないし言わない。もし真実が常に語られるようになったら、「ありのままの社会」はどうなってしまうのだろう(本音ばかり言うような社会では大変だ)。 面白い推測だ。 「汝は真理を知り、真理は汝を自由にする」。それは偉大な教師の言葉の中で最も偉大なものだ。もし私が牧師ならこの言葉について一度だけ説教をすることでしょう。それ以上説教することは許されないからだ! それは異端の臭いがするだろう。真理は私たちを自由にする。 しかしそれを受け入れる正直さと、それを語る勇気があるときにのみ、私たちは自由になれるのだ。
私は前者を持っていると思うが後者を持っていない。私は臆病者で見たままの真実を語る勇気がない。その結果私は自由ではなく、古い習慣や慣習、古い規則の奴隷になっているのだ。 しかしそれは真実のせいではない。 真実を語れば私は自由になれるのだ。しかし自由でさえも、少なくとも私たち弱いものにとってはあまりに高価な(得難い)ものかもしれない。 イエスは真理を語り、かつてないほど、また今までにないほど自由だった。 しかし彼の社会は彼を追い出し、彼の世界はそのために彼を十字架につけたのだ。世間は真実を語る者は常に十字架につけられてきた。それがこの地球上の自由のために払うべき代償なのだ。 この惑星における自由の代償なのだ。
ありがたいことに、私はこれから数週間自由の味を味わうことができる。(しかしこの自由は作家の身勝手と言うこともある)

1913年7月3日(木曜日)
ベルビュー、P.E.アイランド(ベルビューと言うのは夫マクドナルド師の出身地である)
この文章を書いている間、私はPE島の空気を吸い、PE島の青空が私の上に広がっている。島の緑が私の周りにある。それはまるで、"too good to be true."(これが本当の良い物だ) のようだ。
先週の月曜日の午後、猛暑の中Leaskdaleを出発し、トロントで一夜を過ごし火曜日の朝モントリオールに向かった。その火曜日は、純粋に外見的な不快感だけなら、これまでで最も不快な一日だったことは間違いない。信じられないほど暑くて下品なほど汚かった。黒い燃えかすの雲が窓から吹き込んできて(汽車の煙なのか)、私たちはあっという間にあまりの汚さに人前から姿を消したくなった。
モントリオールに着いた時の私の顔は、かつては見たことがないほどのものだった。チェスターの白いドレスと私の白いブラウスが。私たちの顔のように真っ黒だった。さらに悪いことにその日はドニ・オン・デイ(カナダ連邦発祥記念日)で、列車は混んでいた。 どの駅でも どの駅でも新しい人が乗り込んできて、そして私たちは30分ほど激しく憎みましたが、それは彼らが私たちと同じように汚れていたからだ。
モントリオールで私たちは見事なまでに涼しい波に乗り、翌日ポイント(島に渡る船着き場)に到着するころにはすっかり冷たい雨が降っていた。島に着く前に暗くなっていた。でも塩気の感触は最高だった。でも塩の空気はおいしいね。 オンタリオののんびりした空気とは違う。 私たちはすぐにCh'townに向かった。 土砂降りの雨の中11時に到着。 しかし翌朝は晴天に恵まれ爽快な気分だった。 ユアンは車を用意し、私たちは彼の古い家まで車で行った。 24マイルの距離だ。
また柔らかな赤い島の道路を走るのは楽しいものだった。 オンタリオ州では砂利道のガタゴト音に疲れさせられる。ティーヒルから初めて海が見えた。この丘にはとても有名な景色があるのだが、私は今まで一度も見たことがなかった。 確かに壮大だ。私はその時、突然襲ってきた感動の洪水への準備ができていなかった。
その海を見たとき、私は突然感動の洪水に襲われた。私は心の奥底から揺さぶられた。 私の存在の深部までかき乱された。目に涙を浮かべ震えた。一瞬もう二度とこの地を離れることはできないと熱く思った。私はここに属している。 他の土地では私を引き取ることはできないし満足を感じることができない。どういうわけか私はいつも奇妙な本能的な感覚を覚えている。 この島に帰ってきて暮らそうと。

1913年7月5日(土曜日)
ベルビュー、P.E.I.
今日の夕方、ユアンと私はドライブに出かけた。私の人生で最も楽しいドライブだった。いわゆる「郡境道路」に沿って行った。木々が頭上で出会い、シダの緑の絨毯が広がる美しいカエデの森の中を、3マイル以上も曲がりくねって行った。シダの緑のじゅうたんが、赤い道の端まで続いている。しかも、その晩は完璧だった。私はそのドライブと道の美しさを生涯忘れることはないだろう。
オンタリオ州にはこのような道路はない。美しい道も、美しい風景もある。しかし島の道や風景につきまとう、なんともいえない魅力に欠ける。私はしばしば、その違いを明確にしようと試みた。その違いを定義しようとしたがうまくいかなかった。あまりにとらえどころがなく微妙なのだ。それは島の風景に独特の美しさを与えている「渋さ」とは? その厳しさはどこから来るのだろう。モミやトウヒからなのか? それとも海からなのか?それとも、この土地の魂に由来するものなのだろうか。なぜなら土地には人間と同じように個性があるのだから。

パーク・コーナー、P.E.アイランド
1913年7月9日(水曜日)
再びパーク・コーナーで。昨日の夕方ケンジントンまで来て、車(たいてい馬車)でここまで来た。美しい夕方で私たちのドライブは楽しいものだった。それに私には、昔の風景がよみがえったような魅力があった。そしてアイリッシュタウンの丘を越えたとき青い湾が見え、遠くからの低いせせらぎが聞こえた時 私は、20年以上も前にその道を通って西部の流浪の旅から帰ってきたときのことを思い出した。
その時私の心を満たした歓喜と恍惚を思い起こした。 その同じ丘から同じように紫の夕暮れの海を垣間見たそのとき、私の心は歓喜と恍惚に満たされた。その同じ景色は、いつもあの時の感動がよみがえる。 そして角を曲がると、目の前には長い丘のような赤い道が続いている。 少し行くと池が見えてきた---"輝く水の湖" アンクル・ジョンの家を隔てる木々も見えた。そして私たちは 門のそばのトウヒの木を通り抜け、果樹園のそばの坂を上っていった。大きな白い家が目の前にあり、私はそれを最後に見たときのことを思い出した。
私たちの結婚式の日の夢のような午後に車でそこから離れたとき、私はそれを見た最後の時を思い出した。 もう2年も前のことになるのだろうか。そして今私は小さな青い目の男を膝に乗せて戻ってきた。私はよくこのことを夢見たものだ。 そして今その夢が現実のものとなった。私の夢のすべてが実現したわけではない。 しかしこの夢は実現したのだ。 楓のカーブを曲がったところでアニーおばさんとステラが走ってきて私たちを迎えに来た。 昔ながらの歓迎を受け、笑いと冗談とおしゃべりがあった。そして、ステラの有名な夕食に入り、私たち空腹な旅人はそれを十分に堪能した。 正当なものだった。ジョン・キャンベルおじさんの家ほど、「スプレッド」(薄く伸ばすの意味で、ゆっくり横になることか)に適した家があっただろうか。 アニーおばさんとその娘たちは皆、見事な料理人だった。 ジョン・C・アンクルは、モンゴメリの伝統である贅沢なもてなしを常に心がけていた。
今日の夜、ステラはユアンと私を連れて港の周りをドライブした。もちろんとても素敵なところだった。この古い場所に再び戻ってこられたことを嬉しく思う。しかしその喜びの中にも常に繰り返される悲しみがある。 これは人生の交響曲のほとんどで、黄金の道を後にしたときに鳴り響くものだろう。 音楽が短調でないことを知るのは、黄金の道だけだからだ。 短調はないのだから。 ジョン・Cおじさんは、悲しいことに失敗したようだ。そうなっても不思議はない――。 彼は80歳を過ぎているのだから。しかしジョン・キャンベル叔父さんが80歳とは思えないがその近辺にいるのだ。私の心は彼が四十歳か五十歳より年上であると考えることを頑なに拒んでいる。 私が初めて彼を知った時の年齢である40歳か50歳より年上であると考えることを私の心は頑なに拒む。80歳という年齢をこの先、私が誕生日で40歳になるのと同じように。 ジョンおじさんは心も体も衰えてしまった。 果樹園の中にある古い家からいなくなるのも、そう遠くはないだろうと思う。
もうひとつ私が心を痛めているのは次のことだ。キャベンディッシュの古い家にあったものだ(祖母が死んだときマクニール家からキャンベル家に移した家具たち)。そしてこれらのものがその一部と思われる古い環境から切り離されているのを見るのは私にとって苦痛だ。ダイニングルーム(食堂)には自宅の居間(リビングルーム)にあった古い楕円形のテーブルがあり、昔は多くの人がその周りに座っていた。ホールには、昔は食器を入れていたケイティ・モーリス"と "ルーシー・グレイ" が住んでいた(ガラスに写った私の姿)本棚(サイドボード)がある。
今は、もっとまっとうな本棚として使われている。2階のホールにあるのは馬毛のロッカー(小さい椅子)を置き、黒と赤のクッションと赤と白の毛糸の編みぐるみ。子供の頃、とても素敵だと思った。
私が寝ている部屋には、私が使っていた一階の寝室のベッド台がある。その上にある羽毛のベッドは、子供のころによく使っていたものだ。まさに私が最後まで寝たベッドだ。私はそれを最も快適なベッドだと思っていた。しかし本当に昨夜はそう思えなかった。スプリングマットレスに慣れてしまったので、残念なことに以前はとても柔らかくて心地よ
と思っていた古いベッドが、とても蒸し暑く感じられた。ということで慣れているかどうかによるのだね。

1913年7月10日(木曜日)
パーク・コーナー、P.E.I.
今朝ユアンとチェスターと私は、エミリー叔母さんに会いに、マルペグまで車で行ってきた。行きも帰りも快適なドライブだった。しかし奇妙で小さな失望があった。私の分までルーシー・リッチーが(彼女の)子供と一緒にいるのは知ってたし、ケネスに会うのが楽しみだった もう3年も前のことだ。3年前4歳だった彼はどこか変わってしまったのだろうと思ったが私には理解できなかった。
無意識のうちに、3年前にボストンで見た美しい子供と再会できると思っていたのだ。ケネスが現れたとき私はすっかり驚いてしまった。まるで見ず知らずの人のように感じた。髪は切りそろえられ骨まで切り落とされていた。型崩れしたスーツを着て、ズボンは足まである。いわば大人の小人のようだ。ただひとつわかったのは美しい茶色の瞳だけだった。そう、私はがっかりした。
しかし、もし私が長く滞在して、もう一度彼と知り合いになっていれば新しい姿の彼を愛おしく感じたことだろう。
でも今は、私が愛した小さな夢みる少年の姿を失ってしまった。今のケネス・リッチーは私には何でもないことのように思える。
パークコーナー、P.E.アイランド
今夜はちょっとした心理体験があった。何気ない一日が、年月を経て道標として記憶に残るようなちょっとした心理体験をした。私は今夜池の回りを散歩したのだが、これはずっと忘れないだろう。今日はにわか雨が降ったが夜は雨がやんだ。それは鈍い湿った陰鬱な夜だった。(プリンスエドワード島でも夏は暑い)
夜9時にチェスターが寝静まったので、私はそそくさと帰った。昔はよく遊んだものだが、今はほとんどない楽しみだ。この道を行くうちに私の魂は、神秘的で、不吉な、そして荘厳な雰囲気に浸されていった。夜の神秘的、不吉、不気味な魅力に浸った。それは、近くて影が濃く息もつかせぬ静寂、見捨てられた世界の夜のようだ。果樹園や林にゴブリンホタルのランタンが光っている。私は暗いトウヒの林の中を歩き池を渡ると、その下には静かな影のような、死のような静けさが横たわっていた。私は手すりのそばで長く留まった。
その奇妙で不可解な薄明かりの中を覗き込むと、「人間がこれまで夢見る勇気のない夢を見る」。その奇妙で不可解な薄明かりの中を覗きながら。そしてその時、空想は、古い時代の険しい深みから、私の過去の思い出を呼び起こし始めた。
その思い出の笑い声は、かつて笑っていた人たちの荒れ果てた隠れ家で、異質に響いているように思えた。
昔、あの橋の上を一緒に歩いた人たち。その橋の上を何年も前に一緒に歩いた人たちが、陽気な若い人たち(の思い出の霊だ)がやってきて彼らの姿は私の周りにあった。彼らの声は半ば嘲笑的に、半ば優しく、暗がりの中でささやかれた。彼らの見えない手は私を掴み、もう一度彼らの魅力的な輪の中に私を引き込んだ。
クララ、ステラ、フレデ、彼らの若い頃だ。レム、エド、ハウ、エブ、アーヴ、ジャック。あの楽しい冬のパーク・コーナーで、私たちの「セット」を形成していたすべての少年少女たちである。彼らは奇妙なほど身近に感じられた。
もし、あの厚い薄明のカーテンを引き剥がすことができれば、彼ら全員を肉眼で見ることができるような気がした。しかし引き裂くことはできず、やがて幽霊のような仲間は悲しげに私のもとを去り、私は一人家へと歩いて戻った。
一人で家に戻ったが、目の前を小走りに歩く黒い子猫がまるで魔女の化身のようだった。そして私が入ってくるのを見た人は、私が今あの奇妙な、過去と現在を隔てる境界線から来たことを知らない。過去から現在を分かつ夏の夜に闇が光と出会うとき、私たちはただ不思議に思うだけである。

1913年7月17日(木曜日)
パーク・コーナー、PE島
この素敵な日の夕食後、ステラと私は、雇い人に池から岸まで漕いでもらうことにしました。それはとても楽しいことだった。不思議なことにこれまでパーク・コーナーにいたとき、池をボートで下ったことは一度もない。池を漕ぎながら眺める景色はとても魅力的だ。水着は持っていったのだが入ろうとは思わなかった。水が冷たすぎると思ったからだ。
しかし砂浜に降り立ち、白い小さな波紋が広がっているのを見たとき、私は水への欲望が目覚め、それを拒むことができなくなった。私は入らなければならない。
たとえ水が氷のように冷たくても。最初は十分冷たかったが、しかしすぐにそれは解消され、私は見事なまでに水に浸かった。
そしてその日の楽しみは終わった。家に帰ってメアリー・カスバートおばさんを訪ねるために着替えなければならなかったのだ。おばさんの家に行くために服を着なければならなかった。私はメアリー叔母さんが好きで、いつもそこに行くのが好きだった。しかしメアリー叔母さんは親切の心とは裏腹にいつも気難しいのだ。初めはそうでもなかったのだが、しかし年月が経つにつれてそれは激しくなった。今日彼女は完全に私の訪問を台無しにした。
一瞬たりとも私のそばを離れようとしなかった。私はすきま風を感じていたのかと何度も聞かれた。窓が開いていることにさえ気づかなかったという私の必死の説得にもかかわらず、ついに彼女は窓を閉めた。ショールはいかがか、その椅子は座り心地がいいか、この椅子も試してみよう、そうしよう、などなど。お茶の時間には、さらにひどいことがあった。
ひどいものだった。彼女は私に食べるよう促し、懇願し食べるようせがみ嘆いた。彼女は私にうちには何もいいものはなく、私が食べたいと思うようなものもないことを告げた。(ホントになにもあげられるものがなくてね、さあもっと食べていってよ)
そして哀れな私は破裂しそうなほど食べねばならなかった。訪問が終わったとき私はとても感謝した。私の神経はほとんど擦り切れていて、家に帰ったとき私はひどく疲れていた。なぜ人は少しも分別がつかないのだろう。

7月21日(月)、私はパーク・コーナーを後にした――悲しく残念なことに。私はまた訪れることができるようになる頃には、悲しい変化が起きている可能性が高いと思ったからだ。また訪れることができるだろう。楽しい滞在だった。ステラはいつも私の滞在を楽しくするために何でもしてくれた。
チェスターはずっといい子で、アニーおばさんが彼の世話をよくしてくれたので、私は休養をとることができた。月曜の昼にジョージが私をキャベンディッシュに連れて行ってくれた。
私はチェスターを家に閉じこめていた。その夜8時半には彼は眠っていた。私はかなり疲れていた。外は湿っていて暗かったし、常識的に考えて私は自分も寝るべきだ。しかし常識よりも強い感情が私を引き寄せていた。私はそれに屈しなければならなかった。私は行かねばならなかった。過去の声が私を呼んでいたのだ。
私はその声に従った。私は夏の夜の闇に紛れ、失われた歳月を探しに出かけた。ある意味で、このような散策には不向きな夜だった。暗くて、湿っていて、霧がかかっていた。憂鬱な夜だった名もない不吉な予感と後悔で、最も陽気な心を重くするような悲しい夜だった。しかし別の意味で、それはまさに見捨てられた神殿や倒された祭壇を訪ねる巡礼の夕べだった。
記憶の揺らぎを損なうようなものは何もなかった。昔の夢とぶつかるようなものはない。その夜そのものに、私は何か憧れと痛みで心が折れそうになったが、しかしそれは私の気分と目的にかなっていた。その結果私は決して忘れることのできない一時間を過ごすことになった。
喜びよりも痛みが甘く、喜びよりも孤独が愛おしい時間だった。薄暗く、静かで不気味な薄明かりの中、私は丘を滑り降り、小川に架かる橋を渡り、トウヒの木の下の暗い道を登った。それは昔ながらの帰り道だった。
私はフェンスに小さな門を見つけ通り抜けた。その時私は驚いて立ち止まった。私の魂は悲しみと怒りで引き裂かれた。私はピアース・マクニールの丘陵地帯にいたのだ。私が覚えている限り、その畑の北西の角には、トウヒとカエデの木立があった。そこは私の大好きな場所だった。その突出した角のカエデは私の大切な木の友人の一人だった。その木立がなくなっているのを見たとき、私はどんな気持ちになったことだったろう。切り株が荒涼と残っているだけだった。あのピアース・マクニールが切り倒したのだ。おばあさんの墓にジャッカルが座りますように。
私はひどく傷ついた。野原を横切って大通りまで歩くと裂けた感じがした。そこに到着した私は折り返してレアードの丘を歩いた。昔夕方になると何度もその丘を登ったものだ。頂上で私は振り返った。そこから家を見下ろした。
そう、そこにあったのだ。薄れゆく灰色の光の中に影に覆われた古い灰色の家が見えた。私の古い部屋の小さな窓が見えた。その先にある果樹園の薄明かりが見えた。
私は長い間そこに立っていたが、これほど鋭い苦痛を感じたことなかった。憧れと喪失感でこれほど苦しくなったことはない。そして私はそこに立っていたとき、私は空っぽで見放された家ではなく、私が旅立つ前の数年間の家のことを考えた。ずっと昔のことだ。もし私が昔を思い起こせば、夏の日差しに照らされたその姿を見ることができるはずだ。 リンゴの木に囲まれ、笑い声と軽やかな足取り、そして夜には窓から明かりが灯り、楽しげな雰囲気に包まれる。
そうだすべてそこにあったのだ。ただあの残酷な影がそれを隠していたのだ。その影は暗闇の中で私を遮り、それを突き破って自分のものにすることはできない。 外を彷徨うしかない。 私は激しく泣いた。私の心は現実のものとなって壊れてしまったようだった。私にはどのような悲しみが起こっても慰めはない。ベルビューにいる夫のことや、森の中の家で眠っている息子のこと。しかしそれらは非現実的で遠くにいるように思えた。私は彼らを(今の状態を)知らない過去に迷い込んでしまったのだ。 古い友人や仲間の亡霊がいるだけだった。
それは恐ろしいことであり、心が痛むことであったが、同時にそこにはある種の贅沢さがあった。 私はその贅沢さに身を任せ、やがてその灰色の王国から自分を引き離さなければならないことを知った。 丘を下りながら私は少しばかり自分を喜ばせ苦しめた。 4年前のことだ。全ては昔のままだった。私は夕暮れ時に、いつものように一人でぶらぶらと歩いていた。今、私は家に帰ろうとしている。 再び 坂を下りて学校の坂を上る古い小道に入っていく。木々の間から台所の明かりが見える。木々の間から白樺の下を通り、桜の木の下を通りカーブを曲がる。
古い家が目の前にあり、ダッフィーが庭を駆けてきて私の前を通り過ぎる。 古い赤いドアまでやってくる。私は掛け金を持ち上げて少し疲れたけどまた家に帰れるのが嬉しかった。祖母はテーブルのそばの古いアームチェアに座り、灰色のショールを肩にかけて本を読んでいた。 それは私にとってとてもリアルな光景だった。私の鮮明な想像力は、いつも私を欺くことができる。
少しの間だけ学校の丘の上に着いたとき、私は土手に上がってもういちど古い小道を見上げようと思った。今は鉄格子の向こうに見える丘の上の門を見ようと思った。 そしてそこから家を見下ろしたのだ。 そうそこにあったのだ。薄れゆく灰色の光の中に、影に覆われた古い灰色の家が見えた。 私の部屋の小さな窓が見えた。 その先にある果樹園のその向こうにある。それ以上進むことは考えず、ただこの道を見上げながら気の向くままに糸を紡ぎ出す。
鉄棒に上って見渡した。しかし見たものの衝撃で気絶してしまった。馬車道がないのだ。そこは畑に植えられたジャガイモの列があるだけだった。 しかしそんなことは一度も考えたことがなかった。私は古い家に起こるかもしれないことをよく考えていた。取り壊されるのを想像したこともあった。そこに別の家が建てられることも想像していた。しかししかし、この古い路地が取り壊されるとは考えもしなかった。それは私にとって 丘や森と同じように風景の一部であると思った。確かに人によってはその古い家並みを壊すことにためらいを覚える人もいただろう。
子供の頃、遠くへ行ったり、家に帰ったりして歩いた古い家路だ。しかしもちろんジョンおじさんのようなタイプの男にはそのような感情は通用しない。特にその土で育つ数ブッシェルのジャガイモと天秤にかけたらなおさらだ(使わない小道など邪魔だ)。 私は背を向けた。もう家に帰るふりはしない。私にとってあの古い小道が消えたことはそれだけで象徴的だった。過去への道が閉ざされただけでなくまったくなくなってしまったのだ。
想像の翼に乗ってのみ、私はそれを再訪することができた。 私が愛した場所と私の間に横たわる時間の溝を越えることができる。 私は墓地まで歩いた。誰にも会わなかった。太陽がもう昇らない暗い世界で私は孤独に思えた。私は墓地へ入った。祖父と祖母、母とティリーの墓のそばで私は立っていた。そして嗚咽で息を詰まらせながら、古い教会の丘を下っていった。
涙が暗闇の中で涙が頬をつたった。キャベンディッシュに戻らなければよかった。 耐え難い痛みだった。このままでは私は1分も楽しめない。私はただ、あの忌まわしい記憶から遠く離れたいだけだった。 ただ逃げ出したかっただけなのだ。丘の上では苦痛の中に不思議な喜びがあった。 しかし今はもう苦痛でしかない。 その腕が私の首にしがみつくのを感じるまで私の心臓の痛みは止まらなかった。そしてその時でさえ。
それでも私は泣きながら寝ました。 しかし次の日すべてが魔法のように変わった。明るい日差しが降り注ぎ、夜が織り成す不気味で不快な魅力は闇とともに消え去った。 私はベイ・ビュー郵便局へ車を走らせた。私は急がなかった。 行きも帰りも急がなかった。 木々や丘の切れ目から、青い海がきらきらと輝いているのを見るのはとても楽しいことだった。 午後はまた恋人の小径を歩き、森を抜けて悪魔のパンチボウル」まで行き、そこからまた森の小道を抜けて再び野原へ。そしてマーガレットの陽気な訪問、
最後にカエデとリンゴの木立の中でベリー摘みをする至福の夕べ。 古い果樹園" は、完璧な一日の幕を閉じた。 私は野生のイチゴが食べたくて仕方なかったのだ。島を出てから、一度も見たことがなかったのだ。 そしてそこにいる間中私はイチゴを堪能していたのだ。その年はワイルドベリーの当たり年だった。道端はベリーで真っ赤になっていた。 ベリーを食べるよりもそれを摘む方がずっと楽しい。毎晩私はマートルが家にいるときは、私と子供たちを連れてオールド・オーチャードに行った。.

子供たちは私たちと同じように楽しんでいた。チェスターは転んだり、香りの良い草の間を歩いたりして笑い、鳴き、初めて野生のストロー・ベリーを摘んで食べた。 私たちの眼下には池と海が見えた。 輝く夏の 西の方角には夏の夕焼けが見える。初日から、マートルの家にいるのが当たり前のように思えた(マートルの家はグリンゲイブルス)。 最初の夜のような訪問はもうなかった。 私はキャベンディッシュにいた。それで十分だった。
水曜日の午後私は ティリー・マクニールとお茶をした。 ティリー・マクニールはもはやティリーではない。 彼女は翌週男やもめのベントレー氏と結婚し、ベントレー氏とともにカルガリーへ旅立った。キャベンディッシュは彼女の求婚にひどく興奮していた。本当にすべてが面白いものだった。
ティリーはいい子なんだけど結婚願望が強かった。 相手はどうでもよくて立派な人なら誰でもよかったのだ。ティリーは 2、3回浮気したが結局ダメだった。 48歳の今ついに結婚にこぎつけた。そうでなければ彼女は幸せになれないからだ。 でも本当にすべてが滑稽で、ティリーは自分と年老いた恋人を雁字搦めにした。 チェスターがいたずらしないように常に気を配っていたので大変だった、あの家は子供向きじゃなかったのだ。
ティリーには子供たちを楽しませる術がない。チェスターがクッキーを食べ散らかした時の彼女の苦悩は想像に難くない。しかしお茶の後は小康状態になり、私はチェスターを外に連れ出して、私は玄関に座り、チェスターを芝生の上で無害に転ばせた。この席は昔私のお気に入りの場所だった。夏の夜何度そこに座って 金色の光に照らされた同じ光景を何度見つめたことだろう。
それは今も同じで、枝分かれしたリンゴの木の間にある池だ。 ピアス・マクニールの家、赤い丘、白い石のある墓地、その向こうの木々が私の古い家を閉ざしている。私は幸せな30分間を過ごした。 しかしウェッブ氏の家に戻ったとき私はひどく疲れていた。チェスター坊やの世話をするのが大変なのでそれが私の休暇の欠点だった。でもティリーの家での午後で過ごした時ほどはひどくなかったが。ユアンが来てまた翌朝に帰った。寂しさを覚えた。

マートル・マクニールと夫のアーネスト・ウェッブと子供たち
モンゴメリは、このマートルがグリンゲイブルスに引き取られたことをヒントにして赤毛のアンの物語を書いた

私は彼を見送りにレアードヒルの頂上まで行き、手を振って見送った。そして丘の畑の門まで行って再び故郷を見下ろした。その時爽やかな朝の日差しの中にはっきりとそれが見えたのだ。しかし私はそれを悲しげに見つめたが、最初の晩に感じた奇妙な苦悩や荒廃は全く感じなかった。
それから私は野原を横切って恋人の小径に行き、その道を歩いて家に帰りました。長い年月の間何度も散歩してきたが早朝に恋人の小径に入ったことはなかった。私は前日の午後も、夕方も夜も、深夜も、恋人の小径に入ったことがある。しかしその日まで、私は最初の朝の太陽の下でそれを見たことがなかった。朝日を浴びたのを見たのは初めてだった。そしてそれはとても素敵なもので、私は今まで知らなかった森の秘密を発見した。
こずえから降り注ぐ太陽の光は小川の向こう側に、今まで見えなかった魅力的な森の丘の一角がを見せた。 その小川を挟んで、今まで見えなかった魅力的な森の小山が見えてきた。私は後でそこを探索し素敵な場所であることを発見した。そして、私はその場所を何度も通り過ぎ、その森をよく知っているつもりだったが。この光景があることは夢にも思わなかった。(夏のバカンス休暇jか何かで結構長く里帰りしていたんですね)
手帳にこう書いてある
 
†"牧師館" "キャベンディッシュ" "プリンスエドワード島
1913年8月3日(日)
...今晩、私は再び教会に行き、現在C(キャベンディッシュ)に滞在しているジャック・レアード(スナップ)夫妻に会った。 ジャックに再会できて嬉しかった。彼はあまり変わっていない――体格が良くなり、肩幅が広くなったことを除いては――そして髪にはかなりの白髪がある。そういえば私も白髪が多いね。 まだよく見ないとわからない程度だが。 私たちはみんな年をとっている。白髪があるなんてとても信じられないようなことだ。かつては白髪はとても遠い存在に思えた。
初めて白髪を発見したときの苦悩は、今でも鮮明に覚えている。10年前のことだ。ある春の日私は髪を洗つたあと、夕暮れの中部屋の窓辺に向かった。薄明かりの中部屋の窓際で頭皮を観察した。頭皮がきれいになっているかどうか私は櫛を髪に通し、途中で分けた。すると灰色の春の夜の厳しい光の中で、残酷なほどはっきりと雪のような白い髪があった。私は信じられないような目でそれを見つめた。そんなはずはない。しかしそれは あったのだ。震える指で自分の髪を探し2つ目の白いものを見つけた。さてその夜、私はついに青春に背を向けたようだった。
その夜私は泣きながら眠り、何日もその白髪のことが頭から離れなかった。 その白髪に悩まされた。そしてそれを受け入れて諦めた。気がつくと白髪があっても人生はほとんど変わらないことに気づいたのだ。白髪はそれ以来、徐々に増えてきたが、かつて私が恐れていたほど急激ではない。 それを受け入れてしまえば何も心配することはないということだ。私は他人の白髪を賞賛している。 とても素敵なことだと思う。
子供の頃私の髪はとても太くて長かった。 とてもきれいな金色の色合いをしていた。私が成長し始めると、それは暗くなり始め、だんだん黒ずんできてあまり美しいとはいえない焦げ茶色になった。それは決して巻き毛ではなかった。私はいつも自然にカールした髪を持つ人々をうらやましく思っている。
5歳か6歳のときに腸チフスにかかったとき、医者が私の髪を切ろうとした。祖母はそれを許さなかった。祖母は良かれと思って言ったのだが、私はずっと祖母が拒否しなければよかったと思っていた。もし切っていたら髪がカールしていたかもしれない。でもそれがどうした? そうであっても大きな違いはないだろう。
もしそうだったら髪を巻いたりウェーブをかけたりする時間と手間が省けただろうに。

†LMMのノートから引用しています。
(モンゴメリの1912年からの日記はあちこち抜けているので、その分は彼女が覚え書きノートに書いていたものを転載している)

†1913年8月6日(水曜日)
キャベンディッシュ、P.E.アイランド
今朝私は車で移動してアマンダと一日過ごした。彼女はとても素敵で何年か前に会ったときよりも昔の彼女のようになった。私はその日をとても楽しんだ。彼女は昔の学校生活や遊びのことをたくさん話してくれた。 私が家を出るまでの数年間は彼女は決してしなかったことだ。私はよく何か話すことがないかと必死になったものだ。
しかし彼女はいつもその話題を避けていた。私が彼女の人生から離れてから、彼女は自分が捨てた友情の価値を理解したのだろう。 それを取り戻したいと思っているのだろう。しかしそうはいかない。私が許せないからではなく彼女の変化が原因なのだ。
矮小化し発育不全に陥っているのだ。こんな夫と家庭ではアマンダは幸せになれない。しかし彼女の若いころは幸せが約束されていたのに、この愛すべき女っぷりはその賜物ね。子供がいないのが残念よ。そうすればすべて埋め合わせができたかもしれないのに。でも彼女やジョージ・ヘンリーを見ていると子供のために生まれてこなかったことを感謝せざるを得ない。(こんな夫婦の元に生まれては可哀そうか)

*キャベンディッシュを離れるのが 嫌になった。昔からの友人たちとまた旧友と一緒にいられるなんて。リースクデールに戻るのは嬉しいが、リースクデールに戻るのは少しも嬉しくない。ここに来るまでの旅の疲れを思えば、また旅に出るくらいならここにいることを心から喜べるのに、キャベンディッシュにいる限りはここを離れたくなかった。
私の心はキャベンディッシュにしがみつき、また離れると思うと胸が痛む。木曜日に荷造りをしてお別れの挨拶をした。金曜の朝、スターリング氏(キャベンディッシュの牧師)は私をハンターリバーまで送り、アレックは私のトランクを持って行った。美しい朝だった。
キャベンディッシュはとても美しく緑に覆われていた。 季節がまだ進んでなくて穀物がまだ熟していなかったからだ。オンタリオ州では収穫が始まっていて、帰ったら春から秋になるような気がするだろうと思った。ハンターリバーまでのドライブも楽しかった。そこからメアリー・ビートンに会いに行った。彼女とは9年ぶりの再会だ。彼女はかなり衰え、とても痩せていて幸せそうには見えなかった。私の名前をあやかってつけた2歳だったモードは11歳の少女に成長していた。で、かなりいい感じだ。

*1913年9月27日からの日記を続けます。

 O'Learyから土曜日にElmsdale(エルムスデール)に行き、日曜日はウィリアム・マクニール家に滞在した。メアリー叔母さんの最期について全部聞きたかったのだ。とても寂しかった。大おばさんは息子に会いたがっていたのに。でも残念なことに他の人も会いたかっただろうに。
特にティリーがね。かわいそうなティリー! 初めてラスティコに行った時彼女と過ごした楽しい時間を思い出した。それ以来私は一度も行かなかった。教会で会った日曜日にウィルが誘ってくれたがあまりに辛かったから。とにかく私は行くことができなかった
その日ウィルはとても張り切っていて、前の晩にウェッブで私に会おうとしたのだが、私は留守だった。私は彼に激怒していた。というのも私はいろいろと聞いていたからである。彼は私の結婚の話を聞いて狂気じみた行動に出たようだ。
私の結婚の話を聞くと彼は正気ではいられなくなったようで、馬鹿馬鹿しいほど乱暴にしゃべりまくった。ユアンを罵倒しまくったそうだ。彼は嫉妬に狂っていることを皆に告げ、そうでなければ決して疑われることのなかった事実に目を覚まさせた。
私が結婚した後、彼はパーク・コーナーに行きとんでもない騒ぎを起こした。アニーおばさんは彼が正気を失っているに違いないと思った。私はウィルとの友好関係を壊そうと決心した
ウィルとの友好関係は二度と保てないと決心した。彼はそれを不可能にしたのだ。それでも私は申し訳ないと思っている。私は昔はウィルが好きだった。おばあちゃんにすごく優しくしてくれたし、ティリーのためならウィルの愚かさを忘れ友達でいられたのに... でも今はそうはいかない。ティリーの死後彼は以前のレベルに戻ってしまったようだ。
ティリーのいとこのヒルダ・マッケンジーは、彼女(ティリー)の死の数年前に一緒に暮らしていた。 孤独な人生だったんだろうな。私はもし彼があんなに非道なことをしなければ彼に同情していただろう。

私が浮気でウィルの所に通っていたのがばれてしてしまったではないか

8月18日(月)、私はS'sideに下り、ボート(連絡船)で渡った。ステラも一緒にモンクトンまで来て、車の乗り換えの混乱の中、私を助けてくれた。MonctonからMontreal(モントリオール)まで、私は見事に乗りこなすことができた。チェスターが自由に動き回れる居間があったからだ。火曜日の朝、私の悩みは再び始まった。列車は1時間遅れでモントリオールに到着したのだ。
その結果、トロントからアクスブリッジにに行くはずの列車がなくなっていた。その夜私は家に帰ることができなかった。遅い電車で行かなければならなかった。チェスターは放浪癖があり、大変な苦労をした。私はトロントに9時に着いたときはもうくたくただった。出迎える人は誰もいなかった。
後で知ったことだが、ユアンは私が翌日まで来ないと思って家に帰っていたらしい。私はワーカーハウスに一晩中泊まって、翌朝ユアンが来た。家に着いたのはその夜の8時だった。私はここに来る直前まで、家に戻ることに納得がいかなかった。
アクスブリッジから家までの道のりが憂鬱だった。道路は埃っぽく、乾いていて白かった。両側の薄暗い坂道は不毛で作物は取り入れた後だ。空気は湾岸のさわやかな風を受けた後に感じる内陸の暑く鈍く気だるい空気。私の心には、戻ってくることへの反感があった。
しかし私たちの背後で家の門が閉じられるとそれは消えてしまった。私は突然、帰ってきたことを嬉しく思った。「帰ってきてよかった」庭が見違えるほど立派になり花も咲いている。花やダフィー、本や絵、快適な自分の部屋。私の家はとても素敵に見えた。久しぶりに帰って自分の家を他人のような目で見たとき、またはほかの場所に慣れても我が家の印象がぶれなかったときが好きなのだ!。そうです。自分の家の神々の間に戻ってくるのはいいことだ。

一日か二日、長い間他人の家の客人だった私が再び家政を執るのは奇妙に思えた。そしてまた、退屈な会衆訪問や宣教師会の重荷を再び背負わなければならないのは、楽しいことではなかった。
帰国後の金曜日の夜、フレデ・キャンベルからカード(はがきによる連絡)が届いた。その晩の7時の列車でアクスブリッジに着くと書いてあった。私は彼女がもう1年も西部に留まるつもりがないことを知っていたので、彼女を待っていた。ユアンは忙しかったので、私は車を(自分で馬車を)走らせて彼女を迎えに行った。そのとき私たちは興奮のあまり、雷雨が近づいてきて、すでに雨が降っていると私たちはぼんやりと思っていた。
雨はすでに降っていた。私たちの興奮は最初の2マイルほどは赤々と燃え続け、舌も激しく飛び交った。しかし突然、私たちはその窮状に気がついたのである。それは雨は降り続き、真っ黒でまばゆいばかりの稲妻が光っている。自分がどこにいるのかもわからず、顔の前には手も見えない。
私はもともと夜間の運転が苦手だ。そして今回私はこんな夜にアクスブリッジから家に帰らなければならないなんて......。まあ、悪魔が運転するのだから仕方がない。私たちは走り続けなければならなかった。このままでは門も曲がり角(街道から外れて家に向かっていく横道)もないどこかの家に行くはずだった。
道はまっすぐなので迷うことはない。だから仕方なく私たちは進み続けた。女王(クイーン、馬の名前のこと)は雨に打たれて歩けず、小走りになっても道を外れず、側溝の方に逸れていく。道から外れてしまうのだ。フレデも私もあの悪夢のような帰り道を忘れることはないだろう。私たちがいちばん恐れていたのはチーム(タクシーのように注文を受けて人を乗せる馬車屋)と遭遇して追い越さなければならないことだ。
私たちは、少なくとも前方に道があることを示すために雷光を歓迎した。もう家に帰れないんじゃないかと思うくらい。しかし、そのような状況でも、私たちは話し冗談を言い、家に着く頃には、私たちの魂は空っぽになっていた。この数カ月で溜め込んだものをすべて吐き出した。でもしかしこのようなドライブはもう二度とないかもしれない。
帰ってきてからというもの、保存食や缶詰、裁縫、訪問などで大忙しである。その終わりのない訪問はなんて貴重な時間を食ってしまうのだ。
9月1日、私は3冊目の「アン」の本に取り掛かりました。私はやりたくなかったのだ。反対してきたのだ。しかしペイジは私に安らぎを与えてくれず、毎週読者から「アンの本をもう一冊」と懇願する手紙が届くようになった。だから私は平和のために降参したのだ。それは男を追い払うために結婚するようなものだ。(かつての男たちがうるさく求婚したこと)
それで何か価値あることができるわけがない。アンは子供の頃のように 楽しませてはくれない 私の得意とするのはユーモアを書苦ことなのだ。ユーモラスに扱えるのは、幼年期と少年期の人間だけだ。
1冊にまとめた。青春と恋愛の花盛りの若い女性はユーモアから隔離されるべきなのだ。今は感傷の時代だが、私は感傷を描くのが苦手だ。情緒を描くのは苦手でうまくできない。しかしこの本には情緒がなければならない。私は東奔西走しなければならない、そうしなければ休息が与えられないからだ。そうなると絶望的でこの本にかける時間を無駄にしてしまうような気がする。もっと価値のあることができるかもしれないのに。

しかし、今のところ私はこの仕事に対して非常に冷めた見方をしている。「黄金の道」は9月1日に発売されたが、その外観は前の5作と同じだ。だんだん単調になってきた。ペイジには変化をつけてほしいものだ。私の6冊目の本だ。本当に6冊も出していいのだろうか。読者や評論家の中には "The Golden Road" がAnne以来のベストだと言う読者や批評家もいる。
私自身はむしろこの作品のほうが好きだ。 私自身は執筆中の混乱――その醸造の匂い――から十分に遠ざかった今、むしろ気に入っている。ストーリーガール」の続編であり、同シリーズの最後を飾る作品だ。 現実の生活」はあまり出てこない...。
10月にリリー(お手伝い)が17日間の休暇で不在だったため、私にはほとんど時間がなかった。 それでも一人でいるのはとてもいいものだった。その頃の私たちの家庭生活には、使用人が共有する場合にはありえない甘さがあった。特にその使用人を家族の一員として扱われなければならない場合にはそうである。 リリーは優秀なメイドで、私は彼女に満足している。それにしてもよそ者はよそ者だ。メイドがいなければいいのだがそれは無理な話だ。
少し前にメイ・マクニールから手紙が来て、キャベンディッシュの郵便局が閉鎖されたことを知らせてきた。 私は残念に思い少し憤慨した。あの歴史ある古い局を閉鎖するのは残念なことだ。もちろん、最近島全体に地方郵便が導入され、郵便局の必要性はなくなった。 もちろん、最近島全体に地方郵便が導入されたので、多くの小さな局(私設郵便局)は必要なくなった。
しかし、キャベンディッシュのような古い事務所を閉鎖すべきではなかった。島で最も古い事務所の一つであったに違いない。祖父と祖母が40年間守り続けてきた。これは私の時代にはなかったことなのでうれしい限りだ。14年ほど前までは、郵便が配達されることは週に3日しかなかったのだ。 火曜日、木曜日、土曜日だ。毎日届くようになったときはとても素晴らしいことだと思った。 しかしすぐに、いつも郵便が来ているのだろうと思うようになった。
そして今、古いキャベンディッシュ・オルティスは閉鎖された。Sic transit gloria mundi. (郵便局に栄光あれ)これもまた小さな変化が、大きな変化の総和を作るのだ。親愛なる皆様へ。キャベンディッシュのことを書くと懐かしくなりますね。
先週の月曜日フレデはモントリオールに行き、マクドナルド・カレッジで職に就いた。またしてもひどく寂しくなったが、彼女が比較的近くにいることに感謝している。 ありがたいことだ。

1913年10月18日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
前回の日記を書いてからというもの、私はずっと自分でもそう思うのだが、日々奔走している。家事、チェスターの世話、裁縫、小説、手紙、ギルドの執筆など、100のことをこなす時間で、1000のことをこなそうと日々奔走している。小説や手紙やギルドの論文や講義を書くこと、訪問したりされたり、宣教師協会に出席したり、伝道バンドを運営したり。 ほとんどの日が、ひどく疲れてむしろ不満に思って終わるのです。しかしこれは私の「キスメット」(エドワード・ノブロックが書いた戯曲)であり、従って私は従わなければならない。 今日シャーロットタウン・ガーディアン紙に、Leander(モンゴメリの一番上の伯父さん)の死が発表された。この10年間は彼にとって生死の境をさまよっていたのだから。 彼は解放を待ち望んでいた。私はリアンダー叔父さんが好きなのは特別な理由だったけれど、それでも私はその死を悲しく思った。

彼の死は悲しい。彼は昔の生活の大部分を占めていたので、彼の死によって何かが引き剥がされたような気がするのだ。しかしそれでも、私の人生の繊維に織り込まれていたもので、それを引き剥がすことは、痛みにつながる。一過性ではあるが痛みはある。
リアンダー叔父さんは、祖父と祖母の間に生まれた長男である。曾祖父マクニールは、「ヘレスポントを泳いだ人にちなんで」リアンダーと名づけた。彼はこのことで曾祖父に感謝しすぎることはなかったが、私はそれを不思議に思っている。彼は利発で野心的な少年で、何事も自分の思い通りにしようとする傾向があった。何事も自分のやり方で、自分の計画を実行に移していた。
彼はプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジに入学し、そこからエジンバラ大学へ進学した。卒業後は数学の教師になったようプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジでは、確か数学の教師をしていた。シャーロットタウンのジェニー・パーキンスと結婚した。ジェニーおばさんのことは全く覚えていない。
しかしとても優しい女性だったと聞いている。そしてL.G.叔父さんはおじさんは、教師が自分の天職でないことに気づいた。生徒たちにも厳しく接するので、多くの生徒がL.G.おじさんのところに行くのを嫌がった。毎日何人かの生徒を叩かなければ秩序が保てない。
生徒たちは皆、自分と同じくらいの年齢だったので、あまりに激しすぎたのだ。そこで彼は職を辞し、プリンストン大学に神学を学びに行った。
リアンダーおじさんには、聖職に就くという大声の「呼びかけ」(聖職に就けという天の啓示のような物)はなかったということだが、私は悲しむほど間違ったことはしていないと思う。「と言ってはいけない」。
彼は妻子を養わなければならなかったので、最初から生活の糧となるような職業を選ばなければならなかった。そこには確かにリアンダー叔父さんには「霊的」なものは何もなかった。彼は非常に利己的でその人生も理想も、「柔和で卑しいイエス」の教えとは似ても似つかぬものであった。
しかし私の2年間の牧師館での滞在と、それに伴う多くの牧師たちとの親しい付き合いのなかで、私はこのようなことはそれほど珍しいことではないとの結論に達した。彼は力強く聡明で、魅力的な社交的な態度を持っていた。彼は力強くて優秀で、社交的な態度が魅力的で、世俗的な観点から言えば私は成功したと思う。彼は裕福な都市の教会と、疑う余地のない地位があった。
最初の任地はニューサウスウェールズ州のメイトランドで、その後、ニューファウンドランド州のSt. John'sへ。ここでジェニー叔母さんが病死した。その後彼はメイトランドのアニー・プットマンと結婚した。
私の最初の記憶では、彼はニューファウンドランドにいた。毎年夏の休暇に帰国していた。Leander叔父さんは、いつも故郷(プリンスエドワード島)と自分の家と「家族」が大好きだった。彼はマクニール一族的なところがあった。
それとは違ってチェスター叔父さん(一番下の叔父さん)は、家を出た後、その家を大切にしているようには見えなかったが、リアンダー叔父さんは、決して家から離れようとしなかった。それは、この家が休暇を過ごしたり、夏休みに息子たちを送ったりするのに便利で経済的な場所だったからだけではない。彼は本当にこの地を愛していたのだ。
私はL.G.叔父さんがあまり好きではなかったが、社交界ではとても好意的だった。私生活では、威圧的で利己的な人で、みんなの気持ちを踏みにじった。アニーおばさん(キャンベル家に嫁いだアニー叔母さんではなく、リアンダー伯父さんの妻となったアニー伯母さん)はとても優しい女性で、私はいつもこの人が好きだった。

義理の息子たちの良き母であり、夫を慕い、何事にも夫に従うことで、夫のわがままを育てた。
やがてLeander叔父さんは、ニューファウンドランドのセントジョンに呼ばれた。
ここで、彼の唯一の娘(他の3人の娘は赤ん坊のうちに死亡)であるイーディスは、18歳のときに病死した。これは彼にとって悲しい出来事であった。
数年後、アニーおばさんが亡くなった。その3、4年後、彼は3番目の妻メアリー・ケネディと結婚した。これが彼の致命的なミスだった。彼はこのような行動によって、自分の信徒の支持を失った。彼女は非常に劣った無教養な人であった。労働者の妻にはふさわしいが、彼の地位にはまったくふさわしくない。彼の家族もまた、このことにひどく腹を立てていた。リアンダー叔父さんの衰えはその頃からである。彼は自分の教会が衰退していくのを見て心配した。
やがて "運動麻痺"の最初の症状が現れ、それから14、15年の間、彼はどんどん悪くなり、ついには絶望的なまでにボロボロになってしまった。輝かしい経歴の悲しい結末である。
私の幼年期から少女期にかけて、リアンダー叔父は私にほとんど関心を示さなかった。季節を問わず、私を叱り飛ばすだけであった。祖父と祖母はおじさんを尊敬していたが、おじさんをいさめようとはしなかった。
祖父も祖母も、彼を慕いながらも、それをいささかも止めようとはしなかった。もし私の両親が私を守ってくれていたら、彼は決して私を利用することはなかったでしょう。私を守ってくれていたのなら。ジョン叔父さんの子供たちや、アニー叔母さんの子供たちには決して干渉しなかった。
アニーおばさんにも手を出さなかった。私を守ってくれる人がいないので、私は時々自分を守るように仕向けられた。だからL叔父さんは、「生意気で不謹慎だ」と思った。L叔父さんの子供たちも、しばしば私と同じように「反撃」したが、それほど非難されることはなかった。
20年もの間、リアンダーおじさんとその家族の一部または全員が、キャベンディッシュにやってきて夏を過ごしていた。しかし彼は一度も私に(自分の家への)訪問を求めたことはなかった。もし冬に2、3週間でも一緒に過ごそうと言ってくれたら、私にとってそのメリットは計り知れない。特に社会的な観点からは。しかしそのような招待は一度もなかった。私は取るに足らない「田舎の従姉妹」でしかなく、その人生の使命は謙虚に待つことであった。
7月、8月の暑い時期にL叔父さんの家族を謙虚に待ち、自分を光栄に思うことが人生の使命だった。しかし私は当時苦々しく思っていた。
しかし、リアンダーおじさんには朝日を拝む気質がかなりあった。「アン」の成功から間もなくして、私に対する彼の態度が明らかに変わったことに気がついた。彼はもう鼻にかけたり、見下したりしなくなった。愛想を尽かすこともない。彼は私を対等に受け入れてくれたようで、まじめに会話してくれた。
しかし、それは少し遅すぎた。もし私が子供や若い苦労人の少女だったころ、彼が私に半分でも親切にしてくれていたら、私は彼を崇拝していただろう。しかし、彼はまだ昔の記憶を消し去ることができなかった。
しかし、リアンダー叔父さんとの思い出は、苦いものや不愉快なものばかりではない。彼は私に対してさえ、いつも不愉快だったわけではない。それどころかときどき親切で友好的な時もあったし、人との会話を聞くのは楽しいものだった。とても機知に富んでいて、洗練されていて鋭い。
ボストンから帰ってきて彼を訪ねたとき、彼はとても喜んでいた。これほど親切で、これほどもてなし上手な人はいない。

リアンダーおじさんには、多くの素晴らしい資質があった。もし支配的な性格でなかったらいつも楽しくて愛すべき人であっただろう。そして子供にも大人と同じように感情や権利があることを忘れていなければ、私の心の中にもっと優しい思い出を残してくれたでしょう。
しかし彼は、彼をあれほど崇拝し、彼を正当に評価した母親(ルーシー・ウールナー)から3年も経たないうちにこの世を去ってしまったのだ。母の死後、彼はアニーおばさんに手紙を書いた。
一家の長として、祖母のそばを最後まで守ってきた私の誠実さに感謝の気持ちを伝えなければならないと思ったと。それは公平で正しいことだった。
しかし、残念なことにその正義と公正は途中で撒き散らされなかった。餞別の花束としてだけでなく、途中にも散りばめられていなかったのが残念だ。(人生の途中でももう少し私に感謝をしてもらいたかった)
祖母が先に逝ってくれてよかった。伯父が祖母より先に逝っていたら祖母はとても辛かっただろう。祖母の彼への愛が、私のチェスターへの愛に照らし合わせて理解できるようになった。

(ここには因習の深さや細やかな感情があります。白人がみんなアメリカ人のような開拓者の豪放さをもった人ばかりだと思ったら間違いだと言うことがわかりますね)

1913年11月1日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール、セント・ポール牧師館
最後に書いてから私は狂ったように日々を駆け回っている。10月23日の木曜日、私はトロントに行った。昨年の春、トロントの女性カナダ人クラブから、この秋に開かれる会合でプリンスエドワード島を題材に講演してほしいと頼まれた。私は人前でスピーチをしたことがなかったし、したいとも思わなかったし、その考えは陰に沈んでいた。しかし私は承諾した。
なぜ承諾したのかわからない。まるで、そうせざるを得ないような心的衝動に駆られたように思えた。その結果、3年前にボストンに行ったときと同じような精神的衝動に駆られたような気がする。伝道の専門用語で言えば、「導かれた」のだ。とにかく私は行くことに同意した。
10月中、私は住所の準備をし、前述のように23日に街へ出た。私はマージョリー・マクマーチーの家に泊まり、とても楽しい時間を過ごした。私はトロントが好きだ。あそこに住みたいと思うくらいだ。私はいつも、田舎以外の場所に住みたいとは思わないと言ってきたし、そう信じてきた。
しかし今になって、私の言う「田舎」とは、「キャベンディッシュ」のことだったのではないかと思い始めている。私は、世界のどこよりもキャベンディッシュに住みたい。でもしかし、それとは別に、私はトロントのようなところに住みたいとも思っている。
トロントのようなところで、知的な交友関係を築き、良い音楽、演劇、芸術に接し、そしてちょっとした社会生活もできる。私には社会生活がない。
キャベンディッシュでは、少なくとも何人かの「友達」がいて、その人たちとの付き合いをとても楽しんでいた。しかしここでは私は何の楽しみもない。私にとっては。「牧師の妻」としてゴシップを口にする勇気はない。命取りになるからだ。しかしここの女性たちは、たとえどんなにいい人でも市場価格と農作物の話以外には何もないのだから、こういうときの会話はさびしいものだ。
砂漠のようなものだ。もちろん、「世間話」はできるのだが、心の中では時間の無駄を "罵倒 " している。本当の楽しみは決して時間の無駄にはならない。このような恐ろしい「牧歌的な訪問」は、悪魔の発明だと私は思う。

でも、トロントでの48時間は、何の心配も不安もなく過ごせた。自分の発言に気を配る必要もなく、自分や夫の信用を落とすような報道をされることもない。私はただ "話す" ことができたのだ。それにチェスター坊やを家に置いてきてしまったので、毎晩イタズラをしないように見張る必要もない。女の子らしさを取り戻しました。
トロントでの最初の晩は、マクマーチ家の娘たちが友人を連れてきて、夕食後私たちはある劇場に面白いミュージカル・コメディを観に行った。それは愚かで表面的なものだったが、音楽と衣装はきれいだった。
ゼファーの「ギルド」の退屈な「無意味」なものよりはずっと面白かった。
Zephyr "guild" (演劇団)の退屈な "inanities"(下世話な劇)よりも面白かった。
金曜日の午後、マクマーチーの女の子たちが私のためにアフタヌーン・ティーを催してくれた。楽しいひとときだった。土曜日の午後私はフォレスターズ・ホールで800人の女性たちを前に演説をした。
このクラブの会長であるディクソン夫人は、特筆すべき優秀で魅力的な女性である。魅力的な女性だ。これほど好感の持てる女性にはあまり会ったことがない。''トロントのジョージ・ディクソン夫人''は彼女自身の精神世界の中に生きている気質である。私は全く緊張しなかった。私の講演は1時間続いたが誰も退屈はしなかった。新聞報道から判断すると大成功だった。
ある新聞は、
「彼女の演説は1時間以上にわたって行われ、その間彼女は聴衆の関心を引きつけ、退屈する暇もなく、彼女の明瞭な発音は、その一言一句を会場の奥まで伝えた。
このような偉業は、よほどのことがない限り、女性スピーカー(講演者のことで機械のことではない)にはめったに達成できないことです。
またある新聞は私を次のように評している。
マクドナルド夫人の外見は小柄で、中肉中背で、髪と目は黒く(日本人から見れば髪は茶色である)、顔色は白い。髪をウェーブさせ、耳にかけている。その姿は、どこか物静かで、力強さがある。これほどまでに人に感銘を与える作家はいない。という確信を、これほどまでに人に与える作家はいない。彼女は立派な声の持ち主である。声質も素晴らしい。
クーリエ紙は次のように述べている
「この面白い作家が、エンターテイナーでもあるとわかってとても嬉しかった。L.M.モンゴメリは多彩な才能を持った女性だ。L.M.モンゴメリは、「赤毛のアン」の表紙を飾るだけには終わらない多彩な才能を持つ女性だ」と述べている。しかし私は講演の道に進むつもりはない。
私の講演の後、クラブはアフタヌーン・ティーを催し、私はそのほとんどすべての女性と握手をして、何か愛想のいいことを言わなければならなかった。だから7時発の列車に乗ったときは、とても疲れていた。ノックス大学のガンディエ牧師が一緒に来てくれた。彼は翌日説教をし、二日間私達と一緒に会衆を説得した。
リリーと私は今週、家の掃除をしようと思っているが、すべてが急がされている。

トロント女性カナダ人クラブ会長
ジョージ・ディクソン婦人

1913年11月5日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール
美しい無駄な一日だった。アクスブリッジで開催されるホーム・ミッショナリー・コンベンションに出席するため、この日を無駄に過ごした。
Uxbridgeで開催されたHome Missionary Conventionに出席するためだ。とても退屈な一日だった。私が得たのは"ヘイムウェ"(不明)の正しい発音を学べたことだけよ。貧血気味の女性が使っていればね。私はLidsayのHorne夫人を家に連れてきた。彼女は明日、私たちの補習校で講演をすることになっている。
そのあとアフタヌーン・ティーをする予定だ。ミセスHは絶望的に面白みがない。外国人宣教師とそれ以外には何も知らないと決心しているようだ。いい人であり、かつ面白い人であることはとても難しいことなのだと、残念に思う。私は良い人間ではないが、面白い人間である。

1913年11月27日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
この日は「黒い木曜日」なので、またしてもゼファーのみなさんに会いに行くことになった。私はゼファーが嫌いなのと同じくらい木曜日が嫌いだ。今日の午後も、とても惨めな気持ちになった。
もう何週間かは何も期待できないのでしょうね。チェスターの妹は......「未来の王国」から旅に出たようだ。それはとても嬉しいことだが、しかしこの事実は身体的な不快感を防ぐことはできない。そしてその不快感を隠して元気なふりをしなければならない。
この不快感は隠さなければならない。今日の午後は私にとって憎らしい時間だった。私たちはある無知で偏見に満ちた家族を訪ねていた。
偏見に満ちた家族を訪問していたのだ(信仰に固まっていて、自由な感情の発露を認めないという事だろうか)。私は「話をする」ことが惨めなほど難しいことに気がついた。そしてお茶には冷たいローストポークとフライドポテト。
普段、私は正直言って豚肉とフライドポテトがとても好きである。これはもしかしたら庶民的な味かもしれないが、間違いなく私の好みであり賞賛に値する。ゼファーでは、お茶をしに行くところならどこでも、必ずと言っていいほど豚の冷肉とフライドポテトを食べる。もしこれらが好きでなかったら、私の運命はどうなってしまうのだろうと思うとぞっとする。しかし最近私は好きなものの多くに反対している。
豚肉やフライドポテトを食べようと思うだけで吐き気を催す。しかし今夜の食卓には他に気になるものがほとんどなかった。私は惨めな食事を作り(行儀の悪い食べ方をした)、女主人は私を嫌な目で見ていた。きっと私が彼女の料理をもっと正当に扱わないことに腹を立てていたに違いない。
お茶の後、私たちは村まで車で行き、E(夫)が祈りの集いに行っている間、私は耳の不自由な二人の老婦人と話をして過ごした。帰り道は寒くてずっと気分が悪かった。
チェスターを抱えたまま、とても疲れた。これで、1ページ分の愚痴を書いた。愚痴のページが出来てしまった。でも安心した。

1913年12月16日(火曜日)
オンタリオ州、リースクデール牧師館
前回の日記を書いて以来、私はほとんど休むことなく、死にそうなほど体調が悪かった。「死にそうなほど」――そう、まさにこの言葉が私の気持ちを表している。私はこの10年間のうちでチェスターのときより10倍も悪い。この3週間は悪夢のように思えた。ほとんど吐き気が止まらない。
口の中にひどい味がして、食べ物のことを考えるのも嫌で、どんな食べ物も嫌で、頭痛がして、ずっと疲れている。そして何よりもつらいのは、何に対しても気力がわかないし興味もわかないことだ。
この3週間でやったことはすべて、自分自身を駆り立ててやったことなのだ。私はやらなければならないこと以外は何もしていない。それ以外の時間は丸太のように横になるしかなかった。
ついに今日、必死になってシャイア先生を呼び寄せた。もし早く良くならなければ、どうしたらいいか分からない。

1913年7月27日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
私は良くもなく悪くもなくといったところだ。本当にひどい状態だ。私は全く役に立たない。ありがたいことにクリスマスが終わった。大変でした。私は月曜日の朝、Uxbridgeにクリスマスの買い物に行くことになった。疲れた。
そして夕方にはお茶を飲みに行って、家族で洗礼を受けた。帰宅後は疲れ果て、翌日はずっと体調が悪かった。夕方には日曜学校コンサートに参加しなければならなかった。水曜日私はベッドで過ごした。
木曜日はクリスマスだった。今までで一番悲惨な日だった。リリーは家に帰ったので、だから私は夕食を作らなければならなかった。元気な時は料理をするのが好きなんだ。でも今は、食べ物の匂いも見た目も吐き気を催す。犬のように病みながら私はその夕食を作り、そしてそのうちのいくつかを喉に詰まらせた。ターキー、クランベリーソース、プディング......何が出てきたんだ?
何? 一人残らず虚栄心を抱いた。金曜日はまた一日中料理をしなければならなかった。夕方にここで開かれるギルドの役員会のために軽食を用意した。今日まで私は二重に惨めな思いをしている。昼も夜もずっと惨めな気分で言葉では言い表せない。このような事態になるとは思ってもみなかった。
このままでは、冬が来るのが恐ろしくて仕方がない。朝目が覚めると、"ああ、今日一日、どうやって過ごせばいいんだろう?" と思う。夜には "ああ、今日が終わってよかった" と思う。

1914年

1914年1月3日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
今週は、2日間にわたってゼファーの人たちが訪ねてきた。これまで私がここ(リースクデール)にいる間、彼らはほとんど来なかった。
私は宗教的に彼らを招待していたのだが、それを嘆いたわけではない。でももちろん私が病気になった今、来てくれるでしょう。元気なときにゼファーの人たちと話すのは、ある種の懺悔のようなものだ。今週ずっとそうであったように、私が病気のときは、殉教のようなものである。
ある家族は、3人の子供を連れてきた。テリブル"(ひどく不快)だ。母親は、「パンジー」の本を読んで、自分の考えや会話を作り上げたようだ。そのおとぎ話以外では聞いたことのないような言葉を話す。どうやら彼女は牧師の妻である私がそれを理解し、同じように反応することを期待していたようだ。しかし、残念なことに、私はパンジー語を話すことができない。私はさすがにそのことを隠していた。もし私がこんなにも惨めでなかったなら成功しなかっただろうし、悲惨な結果になっていたかもしれない。
彼女の夫は長老で、ゼファー教会で最も影響力のある人物である。だからユアンを不愉快にさせる力がある。だから私はスキュラとカリブディス(ギリシャ神話に出てくる怪物の名前、ゼファーの長老と夫であるユアンの間の仲を取り持とうとしたのであろう)の間で舵を取ろうとしたが、それなりに成功したと思う。

1914年1月10日(度曜日)
牧師館・リースクデール
この6週間は、それまでの2年間よりも多くの読書をした。私は他に何もすることがないので、やるべきことを終えるとベッドに横になり、読めるときに読んでいる。時には病気でそれさえもできない。よくても、元気なときほどは楽しめない。それでも時間が経つのは早いしかなりの数の本を読み終えた。
残りのうちで私が読んだのはグロート(イギリスの歴史家)の『ギリシア史』全12巻を読んだ。私はこれまでギリシャの連続した歴史を読んだことがなかった。グロートの学識は驚くべきものである。彼の仕事には多くの "紫の斑点" がある。しかしその多くは十分に乾いている(時たま感情的な部分があるが多くの部分は論理的だと)。
それでも、なんとか読めてよかったと思う。古代史の非常に重要な部分についての私の知識は大いに拡大された。
夢というのは不思議なものだ。私は昨夜この言葉を裏付けるような夢を見た。昔、私が10歳くらいのとき、祖母が『ゴディーズ・レディーズ・ブック』という月刊誌を購読していた。祖母はそれを数年間愛読していた。私はその雑誌を今更どうこう言うつもりはないが、当時はとても素晴らしい雑誌だと思った。
その月刊誌は、私にとって「人生のエポック」であり、とても素晴らしいものだった。もちろんファッション雑誌である。最初のページはファッションで埋め尽くされていた。
この日の皿のページは、私にとって他のどの部分よりも楽しいものだった。私は歓喜に包まれ私はその皿にうっとりと目をやり、どれを選ぶか迷い、何時間も時間をつぶして選ぶことができた。当時は前髪やバッスル、高い冠をかぶった帽子が流行した時代だった。前髪、バッスル、高い冠をかぶった帽子......そのすべてが不思議なほど美しいと思ったものだ。
ファッションのページを過ぎると短編小説や連載小説など、文学的なページもあった。あの頃は、至福の時だった。連載を読んでいた。今はもう読まない。しかし当時は何でも貪るように読んだ。その連載のひとつがヘレン・マザーズの "怪奇の旅" だった。タイトルの意味も、ストーリーの中にも説明するものは何もなかった。しかし、ストーリーは簡単に理解できたし、「婦人公論」のほとんどの作品よりも文学的に優れていたと思う。非常に楽しめた。何度も読み返したが、年月が経つにつれて忘れてしまった。
まるで、こんな物語は読んだことがないかのように。15歳のとき以来その話を考えたり思い出したりしたことはなかった。しかし昨夜、再び読んでいる夢を見た。すべての出来事、すべての名前が、まるで昨日読んだかのようにはっきりと私の記憶の中に戻ってきた。またその夜の幻影と一緒に消えてしまうこともなかった。目が覚めたとき、私は最初から最後まですべて思い出した。
私たちは、人生の中で何かを本当に忘れることがあるのだろうか。私はそうは思わない。その記録はいつも私たちの潜在意識の中にあって、何かのきっかけで突然思い出すのかもしれない。しかし、常にそこにあるのだ。
ある晩、私が10歳くらいのとき、不思議な、ちょっと恐ろしい夢を見た。すごい吹雪で学校まで歩いて行っている。学校へ行く途中、雪でできた低いトンネルを歩いていた。そのトンネルは何度もカーブしているのだが、ある時、鋭く曲がって私の行く手を阻むのは、トンネルを埋め尽くす巨大で醜い顔であった。
その顔の恐ろしさに目が覚めた。目が覚めたとき私は夢を思い出した。おそらく数日は覚えていただろう。そしてその夢は完全に記憶から消えてしまった。20年間一度も思い出すことはなかった。
ある日、私はウンディーネを読んでいた。主人公が "魔法の森" を馬で走っていると突然、醜い頭と顔で道を塞がれた。雷に打たれたように忘れていた夢がよみがえった。まるで昔のことのように、鮮明に。雪のトンネルの白い壁と、行く手を阻む巨大な顔。その巨大な顔が、私の行く手を阻む。最後の光でその過程が逆転し、夢が(怪奇の旅の)物語を思い出したのだ。

1914年1月27日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
前回書いてから、ずっと悲惨な状態が続いている。私は落胆しているように感じている。私は一瞬たりとも気分が良くなったことがなく、ほとんどの場合極端に惨めな気分になっている。
極端な話。しかしそれはテーマを拡大するためにブーツではない。しかしこのテーマを拡大することはできない。特許薬品の年鑑の1ページのように思われるからだ。
今日、私はキルトを編み始めた。私のような多忙な女には、とんでもない愚行に思えるが、しかし私の狂気にはよい方法なのだ。このところ神経が高ぶって、何もできず本も読めない日が続いていた。さて編み物にはいつも良い効果がある。緊張しているときに私はもともと編み物が好きだった。このような悪い日にも大いに役立っている。だから私はキルトを始めたのだ。
それは私がそれを完成しなくてもいいのだ。キルトの編み物、特にこの特別なパターンは、いつも私をマルペケのエミリー叔母さんと一緒に冬を過ごした時を思い出させる。
少女も女性もキルトを編んだり編んだり編むつもりでいたりしてした。中には何枚も編んでいる人もいて、たくさんのパターンを持っていて、ライバル意識も強かった。レース編みも人気があった。私もその熱にうかれキルトを編み始めた。3年は編んでいたと思う。とてもかわいかったのだが、もうとっくにボロボロで10年前に2枚目を編んで今も持っている。3枚目を編むのはいつになるのだろう?
3枚目を編むことができるだろうか? 今、私はとてもブルーで惨めな気分で、また何かを成し遂げられるとは思えない。

1914年1月30日(金曜日)
牧師館、オンタリオ州リースクデール
昨日私たちはゼファーに行った。雪解けが進んでいて道路はひどい状態だった。私たちはその奥にある小さなログハウスに住む粗野で無知な家族を訪ねた。(粗野でもなんでも訪ねなきゃならない)
夜、私たちはギルドに行った。帰りのことを考えると呆然と家路を思い浮かべた。道路はとても悪く、私はとても疲れていて気分が悪かった。どうしてこの7マイルに及ぶ裸の丘と湿地帯に耐えることができるだろうか?(馬車で10kmのスピードで行っても1時間ほどかかる)
しかしその帰り道は、私が経験したことのある独特の心理体験のひとつとなった。教会を出たとき何かが私の心に「湖の女」の一節を思い起こさせた。私は子供の頃から暗記していたこの詩を思い出し、思い出すだけでなくその詩を生きているような気がした。私はその詩を思い出しその詩の世界を歩き回った。そしてその詩の登場人物たちと語り合った。他の詩も思い出した。
私はまた、その詩を生きた。ドライブの肉体的な不快感はまったく気づかないほどだった。私は遠くへ連れ去られ、精神の中で(空想の中で)周囲を一切意識することなく、"1時間の輝かしい人生" を送った。
星が私の上に輝いていることを除けば、周囲の環境はすべて忘れ去られ、「輝かしい人生の混雑した一時間」を過ごした。その帰り道は私が恐れていた悪夢ではなく、奇妙で、きらめくような、鮮明な夢だった。不思議で、きらびやかで、鮮やかな、得体の知れない喜びの夢だった。
とはいえ、前述のような体の不調はしばらくは感じられなかったが存在した。そして今日私はその影響を感じた。私は一日中疲れ切って体調を崩していた。

1914年2月25日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
4日前からまたひどい風邪をひいている。この冬は風邪が治らないようだ。兄弟よりも近くにまとわりついてくる。しかし私の他の不快感は徐々に減ってきている。私は決して体調が良いとは思わないが、この3ヶ月間の耐え難い惨めさは過ぎ去ったようだ。どう感謝したらいいのかわからない。
今日、アンソニー・トロロープの独特の「バーセット」(牧師と主教の争いの話)シリーズの再読を終えた。6年前に故郷で読んだのが最後だ。この小説は素晴らしい。あのクローリー氏」が「プラウディ夫人」に向かって、「平和を、女よ!」と言う輝かしいシーンがある。ディケンズやサッカレーのどんな作品よりも素晴らしい。
私はまた仕事ができるようになったので今は読書の時間はほとんどない。寝てから30分後くらいまで読んでいるのだがそこまでだ、眠れるだけの睡眠が必要だからだ。しかし人間はパンだけでは生きていけない。そのためには本が必要だ。この30分間は、睡眠とは関係なくよく過ごすことができる。そして私は読むのが速いので、その30分間を有意義に過ごすことができた。

1914年2月27日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
今日、ある "盗品" の事件が私の知るところとなった。ある雑誌の中に "カムバック" という題の詩を見つけた。ニュージャージー州プレインフィールドのマーガレット・ギブソンの作とされる。この詩は6年前に私が書いたもので1909年の「ユース・コンパニオン」に「The Old Home Calls」という原題で掲載されたものである。
私はこの詩をいつか出版される詩集に収録するつもりなので、この問題に取り組まなければならない。他の作者の名前で出版されるのを許すわけにはいかない。
それは「マーガレット・ギブソン」の素っ頓狂な手口で、しかも不条理なものだった。彼女は自分がばれる危険を承知でやったのだろう。知っていたに違いない。"邪悪には耐えられるが、愚かには耐えられない"

1914年3月22日(日曜日)
オンタリオ州リースクデールの牧師館
今月はずっと調子がいいのだが、多くの場合とても疲れていて、役に立たない感じだ。今週
木曜日の朝トロントに行き、昨晩まで滞在した。
ヨセフを知る、陽気で素敵な人だ。私は日頃の心配事や責任から解放され、小旅行を楽しむことができたのは嬉しいことだった。
この冬は重荷になった。メアリーとノーマンと私は、木曜日の夜劇場へ行き、「Peg O' My Heart」を観た。今まで見た中で最も魅力的なコメディだった。とても楽しい作品だった。でもしかし、ある新聞記者が私を見て、金曜日のグローブ紙の社会欄にその記事を載せてしまったのだ。
"教区" の人たちはそれを見てどう思うだろう。ゼファーの連中はどう思うだろう。本当に私はまだ焼け跡から引き抜かれていない烙印を押されたようなものです。(牧師の妻は有名人の振りをしてるのかと思われる)
金曜日にメアリーがアフタヌーンティーを用意してくれた。小さいけれど本物のライオンを見せびらかすために(ライオンの模様のついた茶器を出したのか)招待したかったのだろう。アフタヌーンティーは無意味なものだ。心も魂も胃袋も満足させない。メアリーはいい買い物をした。
現状ではとても難しいことだ。しかし私は2晩中眠れなかった こんなことはめったにないことで、これからもしばらくはないだろう。"神々は私たちに借りを作ることを許さない" その通りだ!

1914年4月15日(水曜日)
オンタリオ州リースクデールの牧師館
本当にこの数日は私にとって飢えた魂に与えるマナのようなものだ。フレデがイースターのために金曜日にやって来て昨日まで滞在した。私たちはお互いに自分の魂を吐き出して洗浄した。またしばらくは続けられそうな気がする。いろいろなことをずっと溜め込んでいて爆発寸前の危険な状態だった。
ハウスクリーニングに突入して、今年は必死で大変だと思います。私は息切れがひどく、立ちっぱなしだと背中がひどく痛むのだ。私はただ毎日を引きずり、夜が来るといつもとてもありがたく思う。しかし人々は私がいつもと同じように訪問し、いつもと同じようにたくさんの会合に出席することを期待しているようです。
時々、私の魂は病んでいる。私は数年前に私が行った古い読書で、一つの文があったのを覚えている。「牧師の妻の生活は、洗練された奴隷のようなものだ」という一文があった。苦い真実だ。まあ私はいつもそれを知っていたし、期待していた。
しかし、私が元気でないとき、教区の枷に耐えるのは少し難しいということだ。
今晩、『ブックマン』誌で、「アルバムの中の告白」を扱った、なかなか面白い記事を読んだ。数年前に流行ったものだ。その時あなたは自分の好みや嫌いなものについての一連の質問に答えなければならない。その記事には往年の名士たちの答えが載っている。自分も答えようと思いながら楽しんでいた。
 その1.あなたの好きな花は? 
どの花も好きなので選ぶのは難しいね。でも、野の花では、内気で甘い野生の「ジューンベル」が一番好きです。プリンスエドワード島のトウヒの森に咲く「リンネ・ボレアリス」。
庭の花では、少女時代の「6月のユリ」である白いスイセンが好きです。私たちには
私たちにはありませんでしたが、古いキャベンディッシュの庭の草むらの隅に生えていました。
庭に生えていました。
 その2.「あなたの好きな木は? 
間違いなくマツである。キャベンディッシュにはモミが一番多く松はほとんどなく、森の奥に1本か2本あるのみだ。確かにこの島には松はあまりない。ここはトウヒとモミの生息地です。私が初めて松を知ったのはハリファックス公園だった。スコット・タウンシップには松がたくさんあるが、マンスの近くにはない。
トウヒはほとんどない。低木の杉はたくさんあるが、私は嫌いな木だ。薄明かりの中で見ると、トウヒの惨めな模造品のように見える。そして薄暗がりで色あせたり、引きずったりしている。美しいニレの木はたくさんある。
楡は私の大のお気に入りだ。楓もいいものがある。白樺もある。松やモミの次に好きなのだが、かなり少ない。
 その3.「自然の中で一番好きなものは?」 
曖昧な質問だね。多くの著名人が「海」と答えており、私も半分そう思っている。しかしあの青く孤独な存在を「自然の中の物体」と呼ぶのは違和感がある。やはり、私の答えは「プリンスエドワード島のモミとカエデの森」でなければならないと思う。
モミとカエデの森で、地面はシダのじゅうたんで覆われている」。具体的には、「Lover's Lane(恋人の小径)」がお気に入りだ。
 その4.「一日のうちで一番好きな時間帯は?
24時間という意味だろう。私は日没とその次の時間帯が好きだ。昔はその時間が一番好きだった。2つの世界の間を漂っているようなものだ。
この世界での苦労を忘れることができる。最近は夕暮れを楽しむ機会がめったにない。夕日がリースクさんの森に呑み込まれてしまうのだ。でもたまには、夕暮れ時に芝生に座って、残照を楽しむこともある。

 その5. 「一年で一番好きな季節は? 
春―spring-spring! オンタリオ州では5月の最後の2週間、ペンシルベニア州では6月の最初の2週間。誰が春より好きな季節はあるのか? という質問に対して何人かは「秋」と答えている。まあ秋も愛すべき季節ではある。しかし秋は衰えに向かう。春が豊かな生命を育むために飛翔するのに対して、朽ち果てるために進んでいく。
 その6."好きな香水は?"
フリージアの香りだ。
 その7."好きな宝石は?"
何と言ってもダイヤモンド。でも私はどんな宝石も好きだ。ターコイズ(トルコ石)以外はね。浅い宝石は嫌いだ。
魂がこもっていないつまらないもの、真珠の光沢、ダイヤモンドの凍てつくような輝き。ルビーの輝き、サファイアの優しさ、アメジストの溶けるような紫。アクアマリンの月光のきらめき、どれも大好きである。
 その8."好きな詩人は?"
バイロンとスコット
 その9."あなたの好きな詩人は?"
ジーン・インゲロウ
 その10."好きな散文家は?"
いやいや、たくさんありすぎる。スコット、ディケンズ、サッカレー、コリンズ、イトロロープ、他50人ほど。私は、ある気分のときと別の気分のときとで、同じように好きなのだ。15歳のとき、私は臆面もなく、「リットンが最初で最後、残りはどこにもない」と答えていたはずだ。今となっては、彼は私のリストには全く入っていない。Sic transit gloria mundi.(栄光から外れてしまった悲しさか)
 その11."どこに住みたい?"
プリンスエドワード島のキャベンディッシュ
 その12."好きな遊びは?"
読書と森の中を散歩することが私の絆だ。
 その13."あなたが最も尊敬する人物の特徴は何ですか?"
正義感だ。
 その14."好きな女性の特徴は?"
ユーモアのセンス。正義感のある女性にも憧れるわ
 その15."それぞれで最も嫌いなものは何ですか?"
欺瞞とお節介好き。
 その16. 「自分でなければ誰になりたいか?」
フン!「結局のところ私は知らない。私は今本当になりたい人を一人も思い浮かべることができない。というわけで、「自分でなくとも、誰でありたいか?
 その17.「あなたの幸せのイメージは?
良い小説とリンゴの皿!? まあそれは軽薄な定義だ。忠実に説明しようとすると何枚も必要だ。でも、まだまだ、小さな息子を抱くこと、彼のぽっちゃりした腕が私の首筋に触れること。
それが幸せなのだ。かつてなら私は、「ハーマン・レアードの腕の中にいること」と答えたかもしれない。今はそう答えないだろう。しかしそれを知っているのはやはり幸せなことだ。
女性にとっての本当の幸せは、それを素直に認めることだ。それは(恋人の腕に抱かれること)すべての女性の本当の幸せです。大切で小さな甘い幸せもある。しかしこれこそ唯一の完璧なものなのです。(おそらくハーマンレアードの顔が父の顔に似ていたからだろう)
 その18. "あなたの好きな夢は?"
未来に生き続ける本を書くこと。絶対無理だけど。でも夢は叶わなくてもいいのだ。
 その19.「最も恐れていることは何ですか?
癌で死ぬこと。
 その20.あなたのモットーは何ですか?
やる価値があることは、うまくやる価値がある。とはいえ楽な人生にはならない。サボることができるのは、本当に望ましいことだと思う。そう思っている。

1914年4月18日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール、マンズ
体調不良のおかげで、昨年9月からずっと、『アン III』(アン・オブ・アイランド)のための資料を集め章を区切っていた私は、本当にそれを書き始めた。物語の始まりというのは、私にとっていつも難しいものだ。本当に書き始めてしまえば半分終わったような気がする。そして自分の書き出しに満足したことがないのだ。
特に今日の書き出しはひどく平坦に思えた。ペンが引きずった。私は最近いろいろな仕事や邪魔が入るので書く気になれないのだ。急ぐあまりに仕事の喜びも台無しになってしまう。この3冊目のアンの本が良いものになるとは思えない。私はそれを信じていない。書こうとすることが後ろ向きな気がする。私はアンとアンにまつわるすべてのことが、ずっと前に置き去りにされてしまったような気がする。
グリーン・ゲイブルズの冒頭部分を書いた夜のことをよく覚えている。10年前の6月、しっとりとしたにわか雨の降る甘い香りのする夜だった。私は古い台所のテーブルの端に座り、足をソファに乗せていた。西側の窓のそばにいた。
私のポートフォリオ(それまで書いた短編小説の総仕上げのつもりで)に最後の日の光を当てたかったからだ。私は書き始めたばかりの本が、私に名声と成功をもたらすとは一瞬たりとも思っていなかった。だから私はそのため、冒頭の段落は特定の評判やスタイルに合わせて「書き上げなければならない」とも思わず、ごく簡単に書き上げた。リンド夫人とその家の説明を書き終えたとき、ユアンが入ってきた(キャベンディッシュの牧師をしていたころのユアン)。彼はスタンレーからキャベンディッシュに引っ越してきたばかりで、この日は引っ越し後初めての訪問だった。(やはり牧師なら信者の家庭を自然に訪問すると言うことがある)
その晩はほとんどおしゃべりしていたので、『グリーン・ゲイブルズ』の続きはその夜にはもう書かれなかった。あの黄昏の窓から、雨に濡れたリンゴの木々を眺めていた。そして今日私は7冊目の本を書き始めた。
今日、私が執筆した窓からは春には裸の裏庭がいくつも見える。チェスターがうろつかない部屋に閉じこもって書くことだ。しかし彼は世界中のすべての本に価値があるという。

1914年5月24日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
私たちは今、真夏の春を迎えており毎日がとても美しいだ。昨日リリーと私は彼女の2人の子供、アーチーとイーディス、ジェシーとキャメロン・リースク、そしてチェスターを連れてリースク夫人に会いに行った。
リースク夫人の森でピクニックをした。この春森に戻るのは初めてだった。緑に覆われ、涼しく人里離れた場所にある森は、とても素敵な場所だ。古い製粉所跡の木々の下を通る道はとてもきれいだ。私たちがランチを食べたオープン・グレイドは、大きなニレと白と薄紫のスミレの絨毯が美しい。私は現在体が不器用なので、しかし花の咲き乱れる芝生の上に座り、頭上の緑のアーチを見上げるのは美しかった。
赤い帽子と青いセーターを着て、小柄な男のようなチェスター坊やが私の横にいる。今は赤ん坊の面影はない。残念だ。赤ちゃんだったチェスターが今はただの大きな男の子です。ついにしゃべり始めた。でも早熟だったとは思えない。しかし彼の小さな心が発達し語彙を増やすにつれて広がっていくのを見るのはとても興味深いことだ。
今のところ、彼はひとつの単語だけを扱い、それらをつなげようとはしない。一つの単語を何役もこなす。"Door" とはドア、窓、引き出し、蓋、箱の蓋など、開くものなら何でも。発音は身につけた言葉を上手に分かりやすく教えてくれる。
あと2ヶ月くらいでうまくいけば妹か弟ができるだろう。私はそれが妹であってほしいと願っている。妹であってほしい。私は小さな娘が欲しいのだ。女の子でなかったら......とても残念です。
この歳になると、もう子供を産む自信がない。そう願ってはいるのだが。それでうまくいくのだろうか?
なんとなくだが、チェスターが生まれるときよりもこの2人目の出産を心待ちにしている。なぜならうまくいかないことが たくさんあるから。このまま順調にいくとは思えないし、チェスターが生まれたときと同じように楽だとは思えない そしてそれは寂しくなる。娘たちもいないし、新しい医者と看護婦が必要だ。早く終わればいいのに。
特に暑い季節には楽しい経験ではない。私は家の掃除と庭造りをすべてやり遂げたが、これは賞賛に値しする。この春私はどちらもとても大変だった。ユアンは明日短い休暇のためにPE島へ旅立つ。私なしで行くことを考えると寂しくなる。でも、この夏私は親愛なる古巣を訪ねることができない、残念だ。

1914年6月28日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール、聖ポール牧師館
今日は一度だけ本当の「休息日」となった。そしてこの2週間は本当に大変な毎日だった。6月9日にユアンが休暇から戻ると、その翌週から慌ただしい日々が始まった。昨年の秋、ユアンは念願のプロジェクトを実行に移し始めた。会衆が外国人宣教師を支援することである(外国の宣教師をこの教区に招くこと)。それは田舎の集会で行うには、かなり大掛かりなものであった。
私は、カナダでこのようなことを行っている田舎の会衆は他にないと思う。私はそれが賢明なことだとは思わなかったし、今もそう思っている。最初の熱意が薄れるとすぐに、私はそれが続けられる場合、彼のために余分な仕事と心配の重荷をかけることを恐れている。
もしそれが続けば、余計な仕事と心配が増えるし、失敗すれば屈辱を味わうことになる。しかしいずれにせよ彼はそれを達成し、5年間の給料を約束された。
6月15日、「我らが宣教師」がこの教区で一週間過ごすためにやってきた。彼の名はスチュワート・フォーブスといい、ノックス大学を卒業したばかりの若い男で、少年のような外見をしており、新入生のように「自分はすべてを知っている」という心地よい安心感をもっている。
しかし彼は親切であり、また人間の本質をよく知らない。しかし知り合いになるにつれてよくなる。私は彼が、私が知っている多くの外国人宣教師のタイプとは異なる好感の持てる変種であると感じた。私が知っているほとんどの外国人宣教師のタイプとは好対照である。彼は視野が狭く、海外宣教こそが必要なことであり、海外宣教師こそが世界で神の仕事をしている唯一の人たちであるとは考えていないようだ。

その反面人望も熱意もない。「特別宣教師」には向かない人物だと思う。彼はこのような場合(海外の教区に入って自分を目立たせる場合)、彼を支援する信徒に熱意と関心を持たせることは、非常に必要なことだということが分かっていないようだ。
ユアンと二人で訪問の大騒動に突入した。そして火曜日には聖職叙任式と任命式が行われた。月曜日のリリーと私は、一日中とても忙しかった。というのも火曜日には3、4人の牧師を夕食に招待することになっており、また礼拝の後、地下室で行われる夕食の準備も手伝わなければならなかったからだ。
月曜日と火曜日はずっと必要以上に立ちっぱなしだった。その結果水曜と木曜は魂も体も疲れ果ててしまった。しかし木曜日には会社の人(出版社の人)がお茶を飲みに来てくれた。そして金曜日にはS.S.ピクニックの準備をしなければならなかった。S.S.ピクニックは子供たちが楽しむために必要な悪だと思う。私も子供の頃よく楽しんだ。今は忌み嫌われている。
私は皆が行った後遅れて出発した。その日は涼しくて気持ちのいい日で1人きりでいた。このようなことは最近ではめったにないことでご褒美のようなものだ。私は楽しみを長持ちさせるためにできるだけゆっくり歩くことにした。きれいなミルレースの小道を通った。それがこの日の唯一の楽しみだった。
残念なことに私の期待は裏切られた。その時メアリーとリジーに会った。私はゆっくり歩いていた。彼女らは立ち止まって私を待っていた。私は2人と一緒に 校庭まで歩いた。私が「雨のようだ」と言うとリジー・オクストビーが笑った。"レース沿いの道はきれいだ" と言ったらリジー・オクストビーは笑った。私は蚊がまだたくさんいるようだと言ったらリジー・オクストビーは笑った。
もし私がリジー・オクストビーにこう言ったら? どうなったろう。
「父は首を吊り 夫は気が変になった」「子供たちは焼き殺され、私は不治の病に冒されている」。
それでもリジー・オクストビーは笑うだろう。でもとてもひどい話だ。
ピクニック・グラウンドに到着すると、私は柔らかい切り株を選んでそこに座った。今、私が動き回ること、立つことは物理的に不可能なのだ(身重なので)。
私の隣に座っていた女性はおそらく私より先に王国に行くのだろうが(あの世に行くのだろうが)、その女性は安易に会話をしてはいけないという恐ろしい見本のような人だ。彼女は1時間ずっとその3歳になる息子の言葉を私に詳しく話してくれたのだが、そしてその言葉はすべて、どれも罪深いほどありふれたものだった。
しかし彼女は私がそれを笑い飛ばすことを期待しているようだった。私はそんなことはできないし、しなかった。リジー・オクストビーに対抗する気など毛頭ないのだ。しかし私は心の中で唸っていた。風や木、雲と一緒にいられたら 家で本を読んだり横になって痛む背中や疲れた筋肉を和らげることができたならいいのに。
そして食事が始まった。私は地面に横向きに座りサンドイッチを何個か食べた。レモンパイとスグリを1つずつ。あとパイのメレンゲに絡まったコオロギも何匹か食べた。その後もう帰ろうかと思った。チェスター坊やと一緒に帰った。リジー・オクストビーが いなくてよかった。チェスター坊やは私のそばをトコトコ歩いた。日焼けした手で 私にしがみつきながら 「オーズ」「オーズ」としゃべった。「もし、ひどく疲れていなかったら、散歩を楽しんでいたかもしれない。だから今日、私の休息は飢えた魂に与えるマナのようなものだった。

1914年8月5日
オンタリオ州リースクデール、牧師館
イギリスがドイツに宣戦布告した! なんてこった、信じられない! 恐ろしい夢なのだろう。雷雲のように。
6月のある日、私はグローブ紙を手に取った。セルビア人がオーストリア大公と公爵夫人を狙撃したという記事を読んだ。オーストリア大公と公爵夫人が撃たれたと書いてあった。この大陸のほとんどの人がそうであるように、私にとってもそのニュースはほとんど興味がないものだった。この大陸のほとんどの人にとっても。この事件で何が起こるかわからないと思ったからだ。しかしあの銃声は世界中に響き渡った
何百万人もの死の悲鳴と、心を痛めた女性たちの慟哭が響き渡ったのだ。私たちに関する限り、この事件からは何も生まれないように思われた。少し前にオーストリアがセルビアにあることを要求したとの記事があった。セルビアは応じなかった。オーストリアはセルビアに宣戦布告した。ロシアはオーストリアにセルビアを攻撃することを許さないと言った。ここまでこの半球(新大陸の人々)の誰が気にする? バルカン半島では常にどこかで戦争が起きている。バルカン半島の国々ではそれが彼らの常態であるように思われる。
しかしドイツは、ロシアが動員されたらオーストリアを支援すると宣言した。このニュースが世界に流れると、世界は突然息を呑んで震え上がった。
どういうことだろう。それは、「フランスは、条約上の義務としてロシアに味方しなければならない」という意味である。イギリスも戦わなければならないかもしれない。この数日間、私たちはイギリスの外交官たちがこの危機を回避してくれることを必死に願ってきた。
ドイツの無謀で全く弁解の余地のないベルギーへの無謀な侵攻は、その望みを打ち砕いた。イングランドの名誉はベルギーとフランスに約束された(ベルギーとフランスに味方するのがイギリスの名誉である)。そしてフランスに誓った。そして昨日彼女は宣戦布告をした
グローブ紙が届いたのは、私たちが夕食に出かけたときだった。私は弱々しく無気力になりながら席に着いた。私は食べることができなかった。ただ呆然と座っているしかなかったのだ......それを理解しようとした......
帝国は戦争状態にあるのだと。そのような戦争が! 辺境の地でのつまらない争いではなく、ボーア紛争などという、当時はとても恐ろしいものだと思っていた程度のものでもない。死と隣り合わせの戦いなのだ。ドイツは征服するか死ぬかのどちらかを選ぶからだ。ドイツがこの戦争を引き起こしたのは、それを望み、その準備ができたからだ。この20年間、ドイツはこの戦争の準備をしてきた。その事実は公然のものであり、
4年前アールグレイ(カナダのイギリス総督、モンゴメリが総督に面会した時に話されたものであろう)は私に、イギリスとドイツの戦争は数年以内に必ず起こると言った。私は、「それは予想されていたことの一つだというのですか? 私は、「そんなことが起こるとは思えない。それはだいたいは別のこと、つまり予想とは別のことが起こるものだ」と言った。しかし彼は言った「いやこれは来るんだ。我々はそれに備えなければならない」と言った。
それは来たのだ。イギリスかドイツは滅亡しなければならない。しかしその死闘はかつてないほど悲惨なものになるだろう。ああ、もし私がすべてが夢であったと 気付くことができれば... この4日間が悪夢のように思えた
すでにカナダは燃えている。赤十字にボランティアが呼ばれ、愛国心に満ちた基金が設立されている。世界の市場の底が抜けてしまった。文明は襲い来る恐怖に愕然と立ち尽くす。愕然としている。
最悪なのはドイツが完全に準備していることだ。イギリスは軍備に関しては全く何の準備もしていない。ありがたいことに彼女の海軍は準備ができている。それはイギリスを救うのは我々全員かもしれない。もしドイツが勝てばカナダは間違いなくドイツの植民地になる。神よ我々をお救いください。
私はといえば、今頃は子供が生まれているだろうと期待していた。しかし私の時はまだ来ていない。私はとても惨めな気持ちで、毎日が長く試練に満ちている。長くつらい日々だ。看護婦のオービン夫人は7月17日からずっとここにいる。彼女が来た当初、私は彼女が好きではなかった。彼女はアイルランド人の女性で口が達者だった。遠慮というものを知らない、癇に障る癖がある。
言葉の最後に神経質に笑う癖がある。私はこのような女性を出産に立ち会わせることになるとは......。しかしそれは過去のことだ。私は彼女がとても好きになった。彼女はとても親切で、同情的で、今は彼女の短所がなくなって、彼女のおしゃべりが気にならなくなった。
彼女はファーガソンとは正反対の性格だ。このまま終わってしまえばいいのにとつくづく思う。予感に満ちている。この戦争がすべてを困難にしている。

1914年8月30日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
この3週間は恐怖の夢だったのだろうか? いいえ、それらは恐ろしい現実である。私の心は壊れてしまったようだ。8月13日、私のもとに愛しい息子が生まれた。
それは死んでしまった
ああ神様、もう少しで死ぬところでした。最初は生きていけないと思った。今まで耐え忍んできた苦悩や痛みを合わせても、赤ん坊が死んだと知った時の気持ちは 想像を絶するものだった
彼の死因は紐の結び目で(へその緒が絡んだのか)、予見も予防もできない事故だった。めったに起こらないことだが、起こるといつも致命的である。不思議なことに私は一度もこのことを考えたことがなかった。
チェスターの場合は考えたことがあったが、この場合は全く考えなかった。私はでもそれは自分のためで子供のためじゃなかった ああ...痛みは和らぐのか? 書いている間私の心はその苦しみで締め付けられている。
ああ、残酷だ、残酷だ、残酷だ! あの惨めな午後を 忘れることはできない。影の谷から出た後、愛しい人が死んでいるのを発見した。長い月日を費やし死に直面した報酬が奪われたのだ
私はそこに横たわっていた。私はそこに横たわり、弱り、体も心も壊れていた。そして私の横には、あの小さなチェスターの洗礼衣だった小さなドレスをまとった蝋人形が横たわっていた。最初の子のために夢と希望を託して作ったものが、まさかそれが聖なる衣になるとは......。
彼はとても可愛い赤ちゃんだった。ふっくらとして甘く、えくぼのある赤ちゃんだった。その瞳は、決して明るくなることはなかったが、スミレのような青い大きな瞳でとても輝いていた。彼の愛しい小さな足は決して私のところへ歩いてくることはなく、彼の小さな手は決して私へ手を伸ばそうとしない。しがみつくことはなかった。ああ残酷だ! あの夜の恐怖は忘れられない。その後に彼らは私の赤ん坊を連れ去り、応接間の小さな白い棺に寝かせたのだ。
私は一人だった。私は眠ることができなかった。泣くこともできなかった。私は思った。心臓が破裂しそうだった。
私の療養生活は悲惨なものだった。もし赤ちゃんが生きていたら私はとても幸せだっただろうなあと思う。しかし弱々しく横たわり、あらゆる不快な状態に耐えながら、何も回復するものがなく何一つ償うものがないのだ。日々はまるで鉛の足を持っているようだった。オーバン夫人は優秀な看護婦で、腕がよく、優しく、情に厚い。
ファーガソン女史がいないのはありがたいが、彼女は腕は立つが頑固だった。しかし私の致命的な傷を癒すものはなかった。日中は悲しみと闘ったが夜には裏切られた。夕暮れ時になると私はいつも泣き崩れ、疲れ果てて眠りにつくまで泣き続けた。
ああ、不公平だ、不公平だ! 子供たちは必要とされないところに生まれ生きている。チャンスもなく、放置されている。
私はこの子を愛し、優しく世話をして、あらゆるチャンスを与えようとしたはずだ。その子に良い機会を与えようとしたはずだ。しかし私はその子を持つことを許されなかった。私が無力で横たわっている間にも、戦争の悪い知らせが届き始めた。
イギリスのモンスでの敗北と、その結果もたらされた連合軍の長く退屈な退却のニュースである。ドイツ軍の数百万人の勝利の突進の前にまだ続いているのだ。すべてが暗く絶望的な感じだ。
体を起こせるようになったときは本当にありがたかった。しかし私は、日常生活に戻るのが嫌で嫌でたまらなかった。チェスターがいなければ、私はそれに直面することができなかっただろう。
チェスター。あの小さな生き物は、私にとって何と心強いことだろう。今日も2階から降りてきた オーバン夫人は突然旅立った。医師がチフスの治療で必要なので先生に呼ばれたのだ。とても寂しいわ。この孤独感はひどいものだ。

1914年 8月31日(月曜日)
牧師館、リースクデール
今日、私は再び人生を取り戻そうと、新しい本の執筆に取りかかった。それはしかし、仕事と義務は果たさなければならない。おそらく、それらによって忘れることができるかもしれない。今日、私はモスリンの裏地のついた小さなバスケットと、愛しい人のために用意した小さな服を片付けた。
彼の小さな肢体は、私が用意した巣の中で休むことはなかった。もっと狭くて冷たいベッドを見つけたのだ。"小さなヒュー"私たちは、彼をそう呼んでいる。もし彼が生きていたら、私たちは私の父にちなんでヒューと呼んだ。少なくとも名前は必要だ。私たちは彼の生まれる前にこの日記に書いたわ、女の子じゃなかったらがっかりするって。今となってはそんなことを書いたり考えたりするのは、間違っていると思う。
しかし私は失望していなかった。我が子が男の子だと知ったその瞬間、私は死んだことを知らなかったその一瞬に、私は何の失望も感じなかった。もう一人息子ができたという喜びだけだった。きっと何か私たち女性の本能には、何か深いものがあるのだろう。
ああ二人の息子を授かったら、私はどんなに誇らしく、幸せな母親になっていたことだろう。あまりにも誇らしく幸せすぎる。神々が嫉妬したのだ! そしてチェスターには弟がいたはずだ。今はもういないんだろうな。今はね。私がもっと若かったらそんなに悲観的にならなかったかも知れないけど、でももう子供は望めない。もし神様が哀れんでくれてもう一度母になる機会を くれたとしても......何か月も恐怖におびえなければならない
また同じことが起こるかもしれないと思うと怖くてたまらない。何ヶ月もの恐怖を味わうことになる。そんなリスクは冒したくないわ。それでも......希望を持たねば。

1914年9月3日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日ユアンは父親の重病を知らせる電報を受け取った。彼はすぐに島へ向かった。私はまだ体力がなく、一刻も早く父を助けなければと興奮と不安でいっぱいである。
私はまだ体力がなく、1時間後に出発する夫を手伝うという興奮と心配でかなり動揺している。今夜はとても寂しく緊張している――まるで彼が二度と戻ってこないかのように。これは愚かなことだ。でも体が弱いと臆病になるのよ。ああ私の愛しい子が生きていてくれたら。夜中に1人になるとあの子のことが頭を離れない。私の小さな小さな息子。私の心はあなたに夢中。君にはチャンスがなかった――戦うチャンスさえも。私やあなたの小さな命に。ああ、それは残酷だ、残酷だ!

1914年9月4日(金曜日)
あの恐ろしい「お悔やみの手紙」が、今日もまた来た。もう何通も来た。2通か3通は私を理解し、偉大な神秘について私と同じように考える友人たちによって書かれたもので役に立ったし、少なくとも心を癒してくれた。しかし残りのものは傷を新たに開き、私の持つすべての感性を揺さぶるだけだった。
作家たちは親切のつもりだった。しかし彼らは敵がするのと同じくらいに私を痛めつけた。慰めようとする彼らの不手際、陳腐な保証は私を傷つけるだけだった。平凡な言葉は死別の悲しみを覆い隠すことはできない。
最も一般的で、最も辛い言葉のひとつが、「赤ちゃんはもっと幸せになる」だった。私はそんなこと信じられない。死んだほうがいいのなら、なぜ生まれてこなければならないのだろう。愛して、愛されて、楽しみながら、苦しみながら、いい仕事をして、その子が永遠の世界で人格を形成するよりも、誕生と同時に死ぬ方がよいとは思わない。
そして、それが「(神)の意志」であったとも私は思わない。なぜすべての悲しみを神の意志のせいにするのだろうか。私はこの世に生を受けたすべての人間が、生きて仕事をすることが、神の意志であると信じている。
もしそうでなければ、それは神の意志ではなく、宇宙に顕在する不思議な悪の力による神の目的の横取りである。ということだ。私は私たちがそのような「イエスサイン」を求められているとは思っていない。
私は悪の力がその悪質な目的を達成するとき、私たちは悲しむ権利があると信じている。そして、「いつか」息子に会えると言われても、何の慰めにもならない。そう信じることはできないし、もし信じることができたとしても慰めにはならないだろう。
なぜならそれは私の小さな青い目の赤ん坊ではなく、私とは別に発達し成長した人格だからだ。私とはかけ離れた人格になり、私にとっては他人になってしまうからだ(死んだ子が別の人のところに生まれたとした場合であろう)。ああ、そうではない。アダム以来のすべての説教は/死を死以外のものにした」――また、これまでにもオンタリオ州リースクデール市マンズ
戦争のニュースは、着実に憂鬱にさせ続けている。毎日、ドイツ軍がパリに向かって着実に前進しているというニュースだ。ドイツ軍はパリまで30マイルしか離れていない。ドイツ軍は英仏軍を着実に追い詰めている。まるで無抵抗のままゴールへ向かっているようだ。ああそうですか。
到達するのだろうか 何か強力な腕が介入してこないか? 神の指は彼らに触れずにはいられないのだろうか? パリが陥落すればフランスは打ちのめされる これ以上争う気力もないだろう。

1914年9月14日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
ああ、神の指が彼らに触れた! ドイツ軍はパリの城門に迫っていたが阻止され後退した。
今朝は楽しい一日だった。リリーと私はアクスブリッジまでドライブした。それは病気になってから初めてのドライブで、私は子供のように楽しんだかもしれない。もう一度太陽の光と新鮮な空気の中に身を置くことができたのはとても嬉しいことだった。
しかしある時、私の胸は苦しくなった。そして「アクスブリッジに着いたら、戦争のことはどうなっているのだろう」という心配が常につきまとう。アクスブリッジに着いたら、戦争の知らせはどうなっているのだろう。ドイツ軍がパリに侵入したのだろうか? パリまで占領されたのだろうか?
ここから(リースクデールから)アクスブリッジまでの約半分の距離の第七通りを下ったところに、小さな田舎の墓地がある。
墓地は草ぼうぼうで、境界線にはニレの木が植わっている。その名もザイオンと呼ばれている。昔は近くにメソジスト教会があったが今はない。長老派の家族の多くはそこに埋葬している。長老派の墓地は近くに(リースクデールの近くにはか)ありません。
私はこの小さな墓地を何度も車で通り過ぎたが、何気なくそして無関心に通り過ぎた。それが私にとってこの世で最も悲しく、最も神聖な場所になるとは思いもよらなかった。この世で最も神聖な場所になろうとは。でも私たちの可愛い子は、楡の木の下の小さな緑の隅に横たわっているのだ。
今日車で通り過ぎるとき、私の心はどんなに痛んだことだろう。立ち止まることなく通り過ぎた。リトル・ヒューが墓から私に呼びかけているようだった。
"母さん僕のところに来ない? と" 返事をしないのは苦痛だった。しかし私はその小さな墓に初めてお参りすることができなかった。ユアン以外にはできない。だから私は涙で目を潤ませながらその道を進んだ。
町に着いてから私はオービン夫人に会いに行った。彼女はちょうど朝刊を開いたところだった。そこには「フランス軍、"敵に大敗北をもたらす"」という見出しがあった。この数週間の緊張と落胆を思うと とても信じられなかった。しかしそれは真実だ。ドイツ軍はマルヌ川から追い返されたのだ神に感謝します。ああ神を忘れていた。神を思い出させる必要があったのだ。
(この第一次世界大戦により多くの人が死に、特に貴族が大勢死に、ベルエポックの栄光というかそういう文化がなくなってしまったのです)

1914年9月10日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール
戦争のニュースは引き続き良いものだ。月曜日から毎日恐怖と震えで新聞を開いたが、毎日、ドイツ軍がまだ退却しているという喜ばしいニュースがもたらされた。パリが占領される心配はほとんどない
でも今夜はとても寂しくて...胸が張り裂けそうです。ユアンが帰ってくれば...彼は遠くにいるようだ。私は異星人の中で孤独だ。愛するチェスターを除いては。昨夜はとても素敵な体験をした。私の人生を変えるような短い喜びで、人生を変え母であることの意味を教えてくれる。
霜が降りそうな寒い夜だった。ベッドに入るときチェスターを一緒に連れて行こうと思ったが、自分の小さなベビーベッドでとても暖かく居心地がよさそうだったのでやめた。 しかし夜中に私は目を覚ました。チェスターは暗闇の中で悲しげに泣いていた。私は起き上がり彼の上に身をかがめた。哀れな赤ん坊は毛布を投げ捨て、ベッドの上で丸くなり、小さく丸く寒々としていた。私は彼を自分の暖かい巣の中に素早く入れ、彼の横に寄り添った。
寝てしまったのかと思ったが、突然暗闇の中で小さな頭が私の近くに動くのを感じた。そして次の瞬間、そして次の瞬間、彼の小さな唇が、私の頬に当てた手の甲にとても柔らかくて甘い小さなキスをしたのです。その小さなキスは、私の魂を甘美でゾクゾクさせた。私はこのキスを
いつまでも感じていたい。

1914年9月12日(土曜日)
オンタリオ州リースクデールの牧師館
ユアンが今夜帰ってきた。どんなに嬉しかったか!(安心したか)
戦況は依然として 好転している。ドイツ軍は退却している。でも最近新聞で見たのはベルギーで子供たちが手を切り落とされた話だ。本当なのだろうか? 
しかし私は子供たちを切り刻むという話が嘘であることを切に願います。彼らは私の魂を苦しめる。私はそのことで苦悩して床を歩き回る。泣きながら眠り、暗闇の中で目を覚ましその恐ろしさに身もだえする。もしそれがチェスターだったら!? ああ神様はどうしてこんなことを許してしまうのでしょうか。

1914年9月21日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール
先週の金曜日、アレックス・リースク夫人と私は彼女の友人を訪ねるためにウィツビーに行き、日曜日の夕方まで滞在した。私はまだ体力がないので、長時間の運転で疲れた。でも素敵な人たちに出会えてとても楽しかったです。今日ユアンと私はUxbridgeに行き、愛しい息子のお墓に一緒に行った。そのことは書けない。

1914年10月13日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
昨日アントワープ陥落の報が入った。一週間前から予想されていたことだ。
私たちは予想に反して期待していたが、このニュースはまるで悪いことのように思えた。思いがけず私はひとりぼっちだった。リリーは休暇で不在、ユアンは昨日トロントへ行った。郵便物を取りに行ったとき、私は家に帰るまであえてipei(新聞のことであろうか)を開けないようにした。そして、「アントワープが陥落した」という見出しを目にしたのだ。
私はバラバラになった。夕食を食べることができなかった。私は床を歩き回りながら悶々としていた。夜が来ても、朝近くまで眠れなかった。"アントワープ" という言葉が頭の中で何度も繰り返された。気が狂いそうだった。

1914年10月30日(金曜日)
トルコはドイツ側に立って戦争に突入した。これは結局のところ自殺行為としか言いようがない。しかしこれは戦争を長引かせ連合国を苦しめることになり、我々全員にとってますます長い緊張と不安を意味する。
ヨーロッパはトルコの擁護者である。彼女は恐ろしいトルコによるアルメニア人の虐殺を阻止するために介入することはなかった。
本当に、神々の歯車は、ゆっくりとではあるが小さく挽かれているのである。国家と個人の罪は長い目で見れば罰せられる。

1914年11月10日(火曜日)
暗い暗い夜で、初雪が降っている。このような夜、私はいつもキャベンディッシュの古い家、私がとても愛しているあのさびれた古い家を思い浮かべます。私は一晩中その家に取り憑いていました。灰色で暗いその家が白みがかった闇の中に。私はその空虚で活気のない部屋を歩き回り、湖が裸の窓に映る部屋を歩き回った その寂寥感と孤独が
孤独が私の魂に突き刺さった。取り壊してしまえばいいのに。そうすれば夢の国の中だけに存在することになり、そこに孤独はないからだ。かつては暖かく明るかった古い家も、今は11月。あなたの光に照らされることはないだろう。

オンタリオ州リースクデール(リースクさんが入植した谷と言う意味)牧師館
1914年11月19日
不安な1週間だった。しかし良い知らせが届いた ドイツ軍はディクスミュードを越えてイザーの向こう側に追いやられた。ドイツ軍はカレー侵攻は失敗した。しかしこの絶え間ない緊張は恐ろしいものだ。

1914年11月20日(金曜日)
今日、「アン・オブ・レドモンド」(題名は出版時にアン・オブ・アイランドに変えられた)を書き上げた。そしてこれ以上の緊張の中で本を書いたのは初めなので、とても嬉しい。
昨年の冬から春にかけては、肉体的にひどい状態だった。この秋はずっと戦争の心配にさいなまれ、自分の家族を失った悲しみにさいなまれていた。文学的な見地から言えば、私はあまり考えていない。(小説の材料にするような勉学はあまりしてないと言う事)
しかしその中にはかなり良い材料がある。しかし私は感傷的な女子大生の気持ちを書くことはできない。ともあれ完成した! 九つの神をほめたたえよう。

1914年11月30日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール
私の40歳の誕生日? 40歳を過ぎたら 全てが終わると思っていた。しかしそうではなかった。昨日まで39歳だったのが、今日は全然歳を感じません。あるいは一昨日の39歳のときより歳を感じさせないのがありがたい。人生は20歳のときより、今の方がずっと豊かで充実していて、幸せで、快適だ。私は、20年前に決意した成功を勝ち取ったのだ。それはしかし、私はそのような苦労をしながら20歳に戻りたいとは思わない。いや、四十歳でも十分満足だ。
無理な話だが。次の20年はもっと早く過ぎていくのだろう。そして生きていれば60歳になっているはずだ。おばあちゃんのような言い方だね。
今夜は苦い痛みが走った。過ぎ去った年月のせいではないがユアンと私はアクスブリッジからの帰り道、シオンに立ち寄って私たちのために置いてくれている "リトル・ヒュー" が眠る場所を示すために小さな石版を置いた。11月の薄暗い夕暮れ時、その小さな墓のそばに立ち、周囲には元気のない秋の風景が広がっていた。
私の心は痛む。どうして、どうしてなんだ? 私の可愛い青い瞳のダーリン。あの子は明るく面白くなり始めていたのに。

1914年12月7日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール
グローブ紙の見出しは "ドイツ軍がウッチを占領" この戦争は、少なくとも私の地理的な知識を広げてくれる。6ヶ月前、私はウッチという地名があることを知らなかった。もしそのことを耳にしたとしてもそのようなことは全く知らなかったし、気にも留めなかっただろう。今日ドイツ軍がウッチを占領したという
ドイツ軍がワルシャワへの第2次攻撃でウッチを占領したとの知らせを受け私の心はブーツ(底まで)に沈んだ。今ではその大きさも、地位も、軍事的な意義も、すべて知っている。他の多くの場所についても同様だ。
あの運命の8月4日以来、私の記憶に血の文字で刻まれた他の多くの地名も同様である――Mlawa,Bzura, Jarolsav, Tomaskoff, Yser, Lys, Aisne, Marne, Prysmysl. 最後に誰もこの発音の仕方を知らないようだ。あえて言えばオーストリア人はサスカチュワンやマスコドボイトの発音を知らないのと同じようなものだと思う。

オンタリオ州リースクデール、牧師館
1914年12月10日(木曜日)
今日の昼、ユアンが嬉しそうにやってきた。「いい知らせだ!」と彼は言った。私が新聞を手に取ると、フォークランド諸島沖でドイツ軍艦隊がイギリス軍艦隊に全滅させられたと書いてあった。私は、最近のロシアの一連の逆転劇の長い緊張の後だったので、むしろ頭がおかしくなりそうだった。
食卓の周りを踊りながら、新聞を振り回して叫んだ。しかしこの戦いで何百人もの男性が戦死し、何百人もの女性の胸が張り裂けそうだ。それは踊り狂う理由となるのだろうか? ああ、戦争は私たちをとても粗野で、利己的で、原始的にするのです。

1914年12月12日(土曜日)
今日の戦争のニュースは、ここしばらくの間で最も良いものだった。ドイツ軍のポーランド侵攻は確実に阻止されたようだ。2週間ほど前にドイツ軍のポーランド侵攻が始まって以来ずっと、
私は恐怖にさいなまれている。もしドイツがロシアを打ち負かし,その勝利の軍をフランスに投げ返したならば、そして英国に進軍!? 
その思いが、「敷居の住人」(勝つか負けるかの敷居に立っている人間)だった。午前中はなんとか仕事をこなし恐怖心を抑えていた。しかし12時にユアンが郵便物を取りに行くのを見ると、私の神経はいつも崩壊していた。
私は何もできない、やっても無駄だ。読書もできない。できるのはただ檻の中の虎のように床を歩き回り、最悪の事態に備えようと神経をすり減らすだけでした。そして彼が帰ってくると、私はグローブ紙をひっつかんで、必死に見出しに目を通したものだ。苦悩の日々であった。

12月19日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
今日、ヘルナンズ夫人の詩の再読を始めた。以前、一度だけ通読したことがある。子供の頃、彼女の甘く優しい歌詞の数々は、古いロイヤル・リーダーズに載っていて、私にとって大きな喜びの源だった。私は今でも好きなのは、それ自身のためでもあるし、その歌詞から連想される古い記憶のためでもある。
ヘルナンズ夫人のことは私たちのような急ぎ足で、熱っぽい、一攫千金を狙うような時代にはほとんど相手にされてこなかったと思う。確かに甘美で魅力的な情緒的な文学には、強さや壮大さだけでなく、情緒の甘さや魅力もあるのです。
菫は星ではないが愛しいものであり、シダの谷は「天国のキス」ではないが愉快である。
"天国のような丘" ではないけれど。ヘルナンズ夫人は、キプリングのある気分のときと同じように、私に喜びを与えてくれる。

1915年

1915年1月1日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
かつて新年がこんなにも恐ろしい可能性を持って明けたことがあっただろうか? 「新年はどんな年になるのだろう」と、これほどまでにその答えを恐れていたことがあっただろうか?
1914年は終わった。公平に昇ったその太陽は血の中に沈んでしまった。私の人生最大の苦悩をもたらした。1914年のことはもう二度と思い出すことができない。苦痛に震えることはないだろう。
今夜はとても寂しい。フレデは今日マクドナルド(大学)に戻るために出発した。彼女は12月22日に来たのだ。私は彼女が来る日を指折り数えていました...何ヶ月も楽しみに待っていたのだ。そして今それは終わった。しかし私たちはその日を最大限に活用した。
私は自分の魂を空っぽにして洗い清め、新たな勇気を手に入れた。特に戦争のニュースが毎日入ってくるので、それを一緒に話せる人がいたのはとてもよかった。これまで私には誰もいませんでしたから。ユアンは話そうとしません。戦争のことが気になって仕事が手につかないと言うのだ。
確かにその通りなのだが、他に相談できる人がいないので私にはかなり辛い。この辺りには、戦争を実感している人が全くいないのだ。私は彼らがそうしないのは良いことだと思っている。もしすべての人が私のように感じていたらこの国の仕事に支障をきたすだろう。しかし私はまるで誰も私の苦悩を語らない海岸に取り残されたような気分である。
フレデがここにいる間、私は安心した。彼女と一緒にすべてを洗い出すことができた。毎日カイザーを非難し、キッチナーが何をすべきかを話した。しかし私たち二人はK.of.K.に絶対の信頼を寄せており、それは彼にとって大きな慰めであることは間違いない。彼は永遠の評議会で現在の危機を予見していたようだ。連合軍の最終的な成功に対する私の最大の信条はキッチナーが指揮をとっていることだ。運命の女神は彼を敗戦国側で無駄にすることはないだろうと思う。
私たちは静かなロメオのクリスマスを過ごした。リリーは家に帰ったので、私たちの家には異邦人がいない。私たちはおいしい夕食を食べ、午後は世界最高の娯楽であるおしゃべりで満足した。
クリスマスの翌日、ケイトから手紙が届いた。異母弟のカールが第2次隊に参加することになった。ケイトはその事実をまるでコンサートに行くとでも言うようにあっけらかんと発表した。彼女は本当に手紙に書いてあるような冷酷で無感動な人なのだろうか。彼女の母親はそうかもしれないが、父親の娘としてはどうであろうか。カールについては、私は彼を見たこともない。でもケイトの無頓着な台詞を読んで、私の目は突然涙でいっぱいになった。父の息子は我が帝国のためにできることをしようとしている。"He goes to do what / had done /" (彼は行ったことをしに行く)。ダグラスの娘が彼の息子であったなら......。

私はすぐさま、心からの言葉を綴った手紙を彼に書いた。もし彼の中に父親のようなものがあればそれは彼の心に訴えるだろう。もし彼が動機だけでこの戦争に参加しようとしているのであれば、神には禁じられている(こういうことを言ってはいけないが)ことだが、彼にとっては何の意味もないだろう。
昔、私が少女だった頃、「北西部」でメティス(カナダの混血民族)の反乱が起きたのを覚えている。当時は「北西部」と呼ばれていたプリンス・アルバートはその戦闘地域にあり、数ヶ月の間外界との通信が遮断された。その間父からは何の連絡もなく生死も不明だった。私はまだ若かったので、この状況を十分に理解することができなかったのだが、ああ。父から手紙が来たときはどんなに嬉しかったことだろう。父は賊軍の目を逃れてP.A.に潜入していたのだが、再び潜入した時に、父から手紙が届いた。
手紙を送った。父はバトシュの戦いに義勇兵として参加した。戦列に加わってはいなかったが。このようなことは今夜まで何年も考えていなかったが、そして今、父の息子はリエルの反乱がヴェルサイユ宮殿に燃え移るような戦争に行こうとしている。リエルの反乱はベスビオ火山の噴火のようなものだ。
チェスターが戦地に赴く年齢でないことを神に感謝する。恥ずかしさに身を縮め、その言葉は唇の上で消えそうになる。なぜならそれは他の女の息子が私の息子の代わりに行くことを神に感謝するのと同じだからだ。
"血を流さなければ罪の赦しはない" 血を流すことなく何もないのだ。すべては犠牲によって 贖われなければならないのだ。民族は血によって苦難の歩みを続けてきた。そして今、血の奔流が流れ込んでいる。ステラは最近ある人にこう言われたと書いてきた。この戦争は十字架以来の最大の悲劇だ」と言ったそうだ。代償に見合うだけの偉大な祝福が、この戦争からもたらされるのだろうか。
世界が震え上がるような苦悩は、何か不思議な新時代の誕生の痛みなのだろうか。新しい時代の誕生なのか? それともすべては無益な「蟻の闘い/百万の太陽の輝きの中で」に過ぎないのだろうか。蟻塚とその住民の半分を滅ぼすような災難を私たちは軽んじるだろう。宇宙を動かす力は私たちをもっと重要視しているのだろうか。
そうでなければ私たちは生きていけないのだ。"私たちの誰にとっても、まったく同じものは二度とないのだ。" 先日、ロンドンの新聞で読んだことは。ああ、恐ろしいほど真実だ! 古い秩序は消え去り、永遠に8月の運命の日(開戦日)以前のような人生はもう二度と訪れない。
先週の水曜日、フレデと私は車でアクスブリッジに行き、ハーベイ・グールドの家でとても楽しい1日を過ごした。
大晦日の夜、私はフレデのためにちょっとした夕食を用意した。Frede―had Fraser and the McKays, Rev. John Mustard and Mr.Hugh.(フレデとフレッシャーとマッケイとリブとジョン・マスタードとMr.ヒューの人たち)。私たちは楽しい時間を過ごした。このようなちょっとしたもてなしは楽しいものだ。それは結婚するまでは、友人を家に招いて食事をすることなどあり得なかったのだから。
確かに私は気にせず招待しなければならない。これらは私ができるだけ優雅に実行するパイルランドの義務です。私は女性とは卵やバターの話しかできない。ほとんどの人(参加者)が話せるのは、ゴシップを除けば卵とバターの話だけだ。ゴシップは私は口出しする勇気がない。しかし、「犬には適度なノミがいるものだ」(世間の人は誰でも多少陰口をたたかれるところがある)。ということである。でもフレデは今朝は行かなくちゃいけないんだ。私は彼女が車(馬車)を走らせるのをぼんやりと眺めていた。次はどのような状況で再会するのだろうか?

リースクデール牧師館
1915年1月6日(水曜日)
今日の戦争のニュースはそれなりに良かった。ロシア軍はトリックスで大勝利を収めた。もしイギリスがこの戦争でロシアの同盟国でなかったら、この勝利のニュースは私にかすかな興味を抱かせただろう。
この勝利のニュースには、かすかな興味しかわかない。死と苦悩と恐怖は同じことだろう。ああ私たちはとても利己的です。あるところで900人のトルコ人連隊が凍死したという恐ろしい話もある。この冬、塹壕にいる兵士たちの苦しみは、どこもひどいものでしょう。この寒く暗い夜、外に出て惨めに彼らを思わないわけにはいかない。
私は自分が暖かな衣服と住居を備えていることを恥じている。快適なベッドに寝ると快適であることを恥ずかしく思う。それはまるで他の多くの人がそうであるなら私も惨めであるべきであるかのように。

牧師館、オンタリオ州リースクデール
1915年1月17日(日曜日)
今日は寂しい午後だった。ユアンが留守にしたためだ。夫がいれば論理的な話をしたんだがね
ビリー・サンデーが地獄の炎と煉瓦倉庫でわめき散らしているのを無限に好むに違いないのだ。リリーはチェスターを家に持って帰った。この「農場」への巡礼は、彼(チェスター)の小さな魂にとって喜びである。かわいそうにこの子は農家で育ててあげられないの。
農場で育って、緑の果樹園やクローバーの草原や、大きくてくすんだ甘い香りのする草原で、生まれながらの権利を得られないのは、かわいそうなことだ。甘い香りのする大きな納屋でのびのびと遊べないのが残念です。まあ私たちは他の方法で埋め合わせをしよう。チェスターには幸せな子供時代を送って欲しいと思っている。甘やかして育てているわけではありません。
しかし私は、精神的にも肉体的にも、その子の人生に適した子供時代を過ごしてほしいと思っている。楽しい思い出になるような子供時代にしてあげたいのだ。彼は今、急速に話すことを学んでいる。
文章をまとめ、面白いように勝ち誇ったような声で話す。その声には、1つの文の終わりに到達したときの、面白くて誇らしげな響きがある。今のところすべてが具体的である。抽象的な思考はまだ見られず、推論や考察の試みもない。彼は愛情深い小さな心を持っていて、とても親愛なる小さな道を持っている。私の膝に上がってきて、そのぽっちゃりした手で私の頬をやさしくなでて、最もソフトで甘い声で言う。
「親愛なるモア、かわいそうなモア、モアの愛する息子」と言うのです。私の魂を揺さぶる喜びは、母性の甘美さを示す最後の証しだ。自分の息子が自分を「お母さん」と呼ぶのを聞いたとき、女性は自分が女性であることを神に感謝する。
私は子供を愛しすぎているのでしょうか? 時々、特にあの忌まわしい8月13日以来、私は自分が罰せられてしまうのではないかと恐れている。"汝、私の前に他の神々を持ってはならない" ほとんど本能的な恐怖だ。私は異教徒(の文化)と親しいのだ。彼らは自分の子供を邪悪な名前で呼ぶ。霊に聞こえるようにするためだ。
病気にはならないようにするためだ。しかし私は神にさえも、チェスターを愛していないふりをすることができなかった。チェスターを愛している。寝ている彼を見ると、くぼみがあり、つやつやとしていて私の愛が感じられる。

チェスター

そのため、彼のために苦悩しているようなものだ。しかし彼のようにかわいくて大切な子供たちがベルギーでは無惨に殺されたり、育児放棄で死んだりしているのだ。ああ母性は恐ろしい、母性は恐ろしい!」。
最近、テニスンの「リズパ」を読み返した。よくもまあ男が書いたものだと思う。母性の苦しみと悲劇がすべてその中にある。私はかつてテニスンは私を傷つけないと言った。それは私が母親になる前のことだ。
今、リズパを読むと胸が苦しくなる。この間の夜、読んだ後、私は床を歩き回り激しく泣いた。まるで、赤ん坊の骨を拾い集めそばに埋めた母親のように。教会の壁際に埋めた。彼女の魂、彼女のその悲しみは私の中に入り込み、私に取り付き私を苦しめた。
私は、自分のテーマから遠ざかってしまった。私が寂しいと言い始めたのは、今日の午後、一人だったからだ。外界もくすんで灰色で、戦争の影が私を覆っていた。私は人生がすべて「灰色の岩と灰色の海」であるかのようにさびしく感じた。
ステラに手紙を書いた。ステラへの手紙は昔は楽しみだったが、今は苦痛な義務になってしまった。この2年間ステラから受け取った手紙のうち、開くのをためらったものはない。ステラは、不幸にも彼女と密接な関係にある私たちにとって、非常に深刻な問題になっていることは間違いない。
ステラは1912年から1913年の冬の大半をシャーロットタウンの病院で過ごし、何度か「手術」を受けた。医者や看護婦を狂喜乱舞させた。しかし家に帰っても病気は治らず、手紙のたびに、(病気のことが)「数え切れないほど」たくさん書いてある。私はこの言葉にうんざりしていた。
医者から聞いたところでは、彼女にはほとんど問題はないらしい。しかし奔放で不機嫌な性格が彼女の心を不安定にし、幻覚を見て本当に気が狂ってしまったようだ。
「彼女は本当に病気の幻覚で気が狂っているのです」。1年前、彼女は思い立ってカリフォルニアに行き、クララと一緒に冬を過ごそうと考えた。それ以来彼女はずっとそこにいる。かわいそうに、クララはほとんど野生化している。彼女はひどい目にあった。
ステラはまったく無法者だ。ロスアンジェルスに行ってからというもの、彼女は手紙に文句を書き連ねるのだ。彼女はロサンゼルスに着くやいなや、もう嫌だここにいたくない、そして冬が終わる前にLeaskdaleに来るだろうと書いてきたのだ。
私は彼女をここに置くことはできなかったし、置きたくもなかった。だから私は一度も、彼女に来いとは一言も書かなかった。彼女のほのめかしには 無頓着だった しかし、でも私は死ぬほどの恐怖を感じている。私がそれに応じないとわかったら彼女は招待状なしで来るかもしれない。もしそうなったら私はどうしたらいいのかわからない。ステラは、誰も彼女と一緒に暮らすことができないほどになってしまった。彼女は激しく不満を持っている。"どこもかしこも" そのうち正気を失うのではと心配だ。
クララは(ステラの)自殺を恐れているが、ステラの脅し文句はそれほど心配ではない。私はあまり心配していない。それは自分の思い通りにするための彼女の悪魔的な仕掛けの一つなのだ。しかし彼女は悪夢のように私たちを苦しめるのだ。それは哀れで恐ろしいことだ。

ステラおばさん
荒れた性格は旦那に恵まれなかったせいもあるのだろうか

オンタリオ州リースクデールの牧師館
1915年3月19日(金曜日)
このところ非常に忙しく、身体的には非常に惨めな状態です。しかし私はこの後者の事実に不満を持つことはない。いや、ある意味では喜んでいる。それは私がまた小さな赤ちゃんを産めるかもしれないのだから。また失くしてしまうのではないかという恐怖に駆られる。その恐怖は昼も夜も私を悩ませる。
しかし私は毎日のように起こる絶え間ない吐き気に、ありがたく耐えています。しかし、それが私の存在を困難にしていることは確かである。私は多くのことをしなければならない。自分の惨めさを裏切ることなく、すべてをこなさなければならない。
私は昨年の冬と同じように体調を崩しており、まだ何週間も続くと思う。私は自分の状態を疑う前にギルドのメンバー数人を訓練して、社交の夜のための小さな劇を作るという事業に着手していた。今となってはそれをやり遂げなければならない。しかし練習のたびに歯を食いしばらなければならない。
戦争は長引く。連合国は今、ダーダルネス海峡(黒海に入るところの海峡、その海峡の両岸のトルコが敵になっている)突破を強行しようとしている。私は彼らが成功するとは思えない。もし成功すれば素晴らしいことだ。西と東では、絶え間ない塹壕戦が続いている。春は何をもたらすのだろう。春を恐れるのは初めてだ。

1915年4月11日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
私の新しい本「島のアン」の中で、ペイジが私の意に反してそう呼んでいるのだが、私はこの表現を使っている。「彼女は人生の痛烈な甘さを味わった。人生の痛烈な甘さを味わった。これは私の今の状態を表している。私は今、恐ろしい恐怖が取り除かれた人生の甘さを、最もありがたく味わっている。
3月20日、土曜日の午後、私はベッドに横たわっていた。電話が鳴った。私は前日から風邪の発作に見舞われ、肉体的に最も悲惨な状態であった。さらに妊娠中の吐き気にも悩まされていた。私は起き上がり電話の前に進んだ。アクスブリッジのセントラルから電話があり、電報が来ていた。
ケンジントン、P.E.アイランド。ボート(島からの連絡船)が動かない(のでアニー叔母さんが行けないので)。すぐにフレデのいるモントリオールのジェネラル病院へ行け。アニーおばさん。
30分後、私はアクスブリッジに向かった。
フレデのためにあらゆる病気を想像しながら。ここ何週間か連絡はなかったが、フレデは黄疸のひどい発作から回復したところで彼女は手紙を書いた。アニー叔母さんがこのような緊急のメッセージを送るはずがない。
私は(アクスブリッジ)7時発のトロント行きのメイン列車に乗り。そしてトロントに到着してから11時発のモントリオール行きに乗った、私は一晩中惨めで眠れない夜を過ごし、肉体的な苦痛と精神的な苦痛を順番に克服していった。朝8時にモントリオールに着き、吹雪の中を車で病院へ行った。
吹雪の中を走って病院に行くと、そこにはフレデの看護婦がいた。彼女は、フレデが腸チフスに罹っていることを教えてくれた。フレデは腸チフスにかかり、2度出血し、回復の見込みはほとんどないとのことだった。
医者が来るまでフレデに会わせないというのだ。しかも彼女は、フレデは錯乱していて私をみてもわからないだろうと。私は後者の言葉を疑ったが何も言わなかった。部屋を確保して閉じこもり、フレーデのいない世界に直面しようとした。
私はそれを行うことができなかった。両手を握りしめて部屋の中を行ったり来たりしながら自分の苦しみと格闘した。フレデは私の従姉妹であり、最も身近で最も親密な女性だ。フレデが死ぬ? 私の心はそれを受け入れようとはしなかった。

フレデ

(そんなことがあるはずはないと)それを押し退け強烈にあざ笑うので私は冷静になり、表向きは平静を装って2時に博士に会った。
ゴードン医師は最も同情的で自信を持たせてくれた。しかし彼はフリードの件では首をかしげ「中に入って彼女に会ってもいいが、彼女が私を(モードを)知らなくても驚くな」と言った。彼女は入院して一週間で、最初は友達を会わせるのを拒んでいた。
しかし、金曜の夜最初の出血があったとき、ゴードン医師は彼女の両親に知らせなければならないと決心した。
私は廊下を横切ってフレデの部屋に入った。正月に彼女が荘園(牧師館の庭であろう)の門を出て行くのを見たとき、私は、次の出会いは幸せなものではないなと暗い予感がした。次に会うのはいつになるのだろう? どこでだろうと考えていた。その疑問は解けた。
フリーデはベッドに横たわっていた。その姿は決して忘れることができない。彼女の顔や目は黄疸で金のように黄色く、頬は熱の赤みで艶やかで紫色、口の周りは熱でただれていた。一瞬、私の意識は医師や看護婦の言葉を思い出した。「もうだめだ」。
その時フリーデが目を開けて、「モード!」と、まるで天から降ってきた天使を見るような口調で言った。そのあと彼女は病院に来てからはっきり見えたのは私の顔だけだったと言った。他のものは雲や霞のようで、これほど歓迎すべき天の訪問者はいなかったと。彼女は今、見知らぬ人たちの間で一人で死ぬことはないだろう。彼女は私がそばにいることを知っていた。
その夜、私はひざまずき、必死でフレデの回復を祈っていると、突然次のようなことが頭に浮かんだ。私の脳裏にはっきりと浮かんだのです。
「強さと名誉が彼女の衣服であり、来るべき日に彼女は喜ぶだろう」。その瞬間から、私はフリードが生きると信じた。そして彼女は生きた。ゴードン博士が後で私に言ったように、「不思議なことですマクドナルドさん。でもあなたがこの病院に来たときから、キャンベルさんは良くなり始めたんですよ。
"回復し始めた" それは偶然の一致かもしれない。あるいは私が来たことで、フレデが回復への道を歩み始めるのに必要な、ちょっとした刺激と衝動を与えたのかもしれない。いずれにせよ、彼女は再び影の谷から上ってきた。
しかし、それは非常にゆっくりとしたものだった。熱が下がるのは非常にゆっくりだった。何度も何度も私たちの希望は失われていった。看護婦が水桶を持ってくるのを、ハラハラドキドキしながら見守った。
看護婦がフレデを沐浴させるために 水盤を持ってくるのを。氷の音が聞こえたら...。その音は永遠に嫌いだ...。また熱が上がったのだ。私は聞こえなかったが、フレデは少なくとも悪くなってはいないと思った。
ようやく黄疸が治まり、紫色の紅潮が過ぎ去り、フレデは摩耗して蒼ざめた顔をしている。その日、医師が言った。「このままでは治らない」と言われる日が来た。私自身はといえばフレデのことが心配で自分のことを考えることが許されるなら、とても惨めな思いをしていた。昼も夜も吐き気がして、いつも疲れて眠い。
慢性的な飢餓状態であった。病院食は病人には十分な量であろう病院の食事も、この時はお腹が空いていたからだが貪欲な私には鳥の餌にしか見えない。もちろんフレデは流動食しか食べられなかった。このとき彼女は体力が回復したら、何時間もかけて古き良き東洋の料理を食べようと思っていた。

リースクデールから来たんだと、看護婦は私たちをひどい美食家だと思ったに違いない。フレデのマクドナルド大学の友人たちは、彼女の部屋を花の花壇にし次々と尋ねてきた。2週間後、医師から危険はないと宣告された。
そして私は見捨てられた家族のもとに帰らなければならないと決心した。先週の日曜日の夜私はモントリオールを出発し、翌日の夜、とても疲れたがとても感謝している女性として家に戻った。
もう一度、私の目には生命が愛おしく映った。友人は私に免じて今夜、私たちはチェスターの祈りを聞いて笑った。昨夜私は初めてチェスターに "いい子にしてね" で終わりだったのに、今夜は自分で言いたいと言い出し、最後に勝ち誇ったようにこう言った。「神様、廊下のクローゼットでいい子にしてください」。
ホールクローゼットとは、いたずらしたときにいい子にすると約束するまで閉じ込めておく場所である。彼は神様も同じ方法で自分を改心させてくれると思っているのだろう。

1915年4月26日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール、マンスリー寮
春になると戦争の知らせがあるかもしれないので恐いと言った。私の恐れは正当化された。土曜日にランゲマルクの戦いの恐ろしいニュースが飛び込んできた。
窒息性ガスの助けを借りたドイツ軍の進撃があった。ドイツ軍は窒息性ガスでカナダ兵を恐ろしく殺戮し、そしてひどい犠牲を払って状況を救ったカナダ兵の恐ろしい虐殺の助けを借りて前進した。今日の通信によると、ドイツ軍の攻撃は食い止められたが状況はまだ深刻である。

1915年5月6日(木曜日)
まさに「女に貢ぐ(女が不摂生の結果かかった医療費を使う)だ」。まあ最後にすべてがうまくいけば、私は支払いを恨むことはないだろう。しかし確かにこの2週間は大変なものだった。私は歯が2本潰瘍しているのが苦痛で仕方がない。この一週間は昼も夜も。そして膿瘍が破れ、体重は5ポンドも軽くなってしまった......。

1915年5月30日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
ある意味、5月は楽しい月だった。いつものような楽しい月ではなく、オンタリオの5月というより、島の5月のような、寒くて不本意なものだった。でも、フレデが来てくれて、私たちは楽しい交友関係を築いた一ヶ月だった。
5月7日の夜、私はFleedに会うためにトロントへ行った。この日は心に傷を負った多くの人々にとって、恐ろしいほど重要な日だと思われるだろう。その日はルシタニア号が沈没した日だからだ。ルシタニア号がドイツの潜水艦によって沈められ、全世界がその恐怖と怒りで悲鳴をあげた日だからである。
ドイツという国に、まだ生まれてもいない世代にまで消せない悪名を残すことになった。私がアクスブリッジ駅に着いたとき、夕刊でその知らせを見た。しかしその時点では、船内のほぼ全員が助かったと思われていた。恐ろしい事実が判明したのは、翌朝になってからだった。

翌朝、Yonge Streetを歩いているときの光景は忘れられない。いつものように混雑しており、そこにいるすべての男女が朝刊を手に取り、その新聞が伝えるニュース以外のことには無関心でぼんやりとそれを読んでいた。
私自身は、何人もの赤ん坊が殺されたことを知り、その愛すべき小さな死体が無情にも氷のように冷たい水の中に浮かんでいるのを想像するとひどい吐き気をもよおした。このようなことが起こりうる世界から抜け出し、この呪われた世界を振り払いたかった。私のソルから呪われた塵を振り払いたかった。
神は存在しうるか? この数週間、新聞はその詳細で埋め尽くされていた。私が読んだもののうち、いくつかは私の胸に消えない烙印を押した。ドイツのウィルヘルム殿が殺した赤ん坊の泣き声に悩まされながら深い地獄に落ちていきますように。その心を打ち砕いた女性たちの叫びに悩まされながら。
今月の戦争のニュースは西部戦線では不穏なものばかりだった。東部ではドイツ軍がロシア軍を追い詰めている。私はこの状況が好きではない。
明日私たちは島へ向けて出発し、フリードはマクドナルド大学へ帰る。なんとなくこの旅はあまり楽しいものではない。なぜかというと確信があるからだ。おそらく体の不調から来るものだろうが楽しめそうにない。そして家を出るのが嫌になる。今がとても美しいのだ。若葉の瑞々しさ、庭の美しさ、花や草の華麗さ。草花の輝き。このままここにいて楽しみたい。でもこの夏に帰らなければいつ帰れるかわからないし、早く帰らなければならない。海に飢えているからこそ、行くのだと思う。もう一度よく考えてみなければならない。

1915年6月7日(月曜日)
キンロス、P.E.アイランド
5月31日の夜、リースクデールからトロントに向かい、夜はウォーカーハウス(旅行者の宿)で過ごした。Leanderおじさんの息子Ericと会い話をした。17年ぶりの再会だ。最後に会ったとき彼はまだ小さかった。今はもう禿げかけている。彼はとてもいい人で、いつもレアンダー叔父さんの息子たちの中で一番いい子だった。彼は父親に似ていて、父親譲りの社交的な性格だ。
彼を見ていると、私はホームシックになりながら、昔彼を見た日のことを思い出した。Lおじさんとその家族がこの古い農場(マクニール農場)で休暇を過ごすためにやってきたとき、初めて彼を見たあの遠い日のことを。東の海辺の古い農家で休暇を過ごすためにやってきた時のことだ。エリックは丸顔で金色の髪をしていた。大きな茶色の目をしていた。
その古い集団のうち祖父と祖母、そしてリアンダー伯父さんとアニーおばさん(リアンダー伯父の妻であり、キャンベル家のアニー叔母さんではない)はもういない。そして当時子供だった私たちは今は男であり女であり、それぞれ苦悩と葛藤と悩みを抱えている。明日には我々の子供たちが我々の場所を埋めるだろう。そして我々は手を組むだろう。このような "スカナー"(嫌悪) が戦争が始まって以来、私は人生の "スカナー" になってしまった。
恐れるよりもむしろ望むようになった。私はこの恐ろしい意識に包まれている。毎日が新たな恐怖をもたらすと、その恐怖に苛まれる意識はどんどん大きくなっていく。拷問された意識は、とても疲れるのだ。
翌日の夕方、私たちはモントリオールに到着しそこでフリードと別れなければならなかった。私が汽車に急ぎながら振り返ってみると、彼女が混雑した駅構内で孤独な姿で立っていた。
私もとても寂しくなった。フレデと私がもっと頻繁に会えれば......他に何も望むことはないのだが。
私たち(私と主人)は水曜日の夕方に島に到着し、シャーロットタウンに一晩滞在した。私たちの旅には独特の特徴があった。私たちが家を出たとき、オンタリオ州は芝生のカエデは夏らしく青々としていて水仙の季節は終わっていた。しかしオンタリオの春は島の春より3週間も早く来るのだ
今年はオンタリオが早春で、P.E.島の春が異常に遅かったので、その差は6週間もあった。東に行くほど春は遠ざかっていくようだった。葉はまばらになり、やがて枯れてしまった。先週の水曜日に島に到着したとき、木々は真冬のように裸で、どこにも緑の気配はなく、勇敢なタンポポが1つか2つ顔をのぞかせているだけだった。
これほど遅い春は初めてだ。いつも遅くとも6月1日には花が落ちていた。このことが私に宇宙人のような感覚を与えたのだろうか。それとも単に変化と不在の影響なのだろうか?
木曜日、私たちはキンクロスのクリスティ叔母さんを訪ねた。金曜日の「ガーディアン」紙には
ドイツ軍とオーストリア軍がロシア軍からプリシュミスを奪還したという悪い知らせが 載っていた。 私はひどく神経質になり、落ち込んだ。もちろん私は、今の状態では心配事が異常につきまとっていて、それに抗うことができない。
土曜日の夜、私たちはアニーの家でお茶を飲んだ。寒い灰色の夜で、暗闇の中クリスティの家に戻るとき、ユアンと私は互いにリースクデールを懐かしく思ったのです。私たちの故郷、私たちの関心事がここにあるのだ。
この古い島で、私たちは巡礼者や寄留者になっていたのだ。それを認めるのはつらいことだった。愛してきたこの土地に不誠実であるように思えた。このことを認めるのは苦痛だった。もしこの島が本来持っているはずの美しさを失っていたなら、そう感じなかったかもしれない。今のままでは、私は孤独と追放を感じている。

1915年6月18日(金曜日)
木曜日にウィリアム・シンプソン夫人が埋葬され、葬儀が行われたとき私は墓地に行った。彼女は数年前までキャベンディッシュの人々の一人だった。息子や娘たちは私の学友だった。エラは私がいつも好きな女の子で、母親を家に連れてきていたので、私はティアと再会できて嬉しかった。
シンプソン夫人は内臓癌で亡くなられた。私はエラにお母さんはいつから病気だったのかと尋ねると、エラは母は3月のある週から体調が悪くなり医者に行ったという。その医者はエラとロッティに、この病気はかなり進行した癌で望みはないと言われた。そのとき初めてエラとロッティは、母の症状が深刻な病気であることを知った。
この話には単なる偶然というにはあまりに奇妙で重大な事実があるのだ。3月のその週のある日、正確にはその夜だが、私はその週のことをはっきりと覚えている。私は非常に鮮明な夢を見た。夢はトロントにあるイートンの店で、大勢の人が行き交うのを眺めている。
突然、ロッティとエラ・シンプソンが通りかかるのが見えたので、急いで近寄って声をかけた。二人は礼儀正しく応対したが、そのまま歩き続け私から逃げたがっているようだった。でも私は二人にくっついて歩き会話をしようとした。彼らは困っているようで、気が動転しているようで、やがてそのうちの一人が言った。「お母さんのことを話さないと、私たちを放っておかないよ」
と言った。(私たちがお母さんのことが心配で、さっさと行くのだということをモードに説明しないと、私たちを放っておいてくれないよという意味か)
その時私は目を覚ました。その夢はとても鮮明で私の頭から離れない。マートル(グリーンゲイブルスに引き取られた婦人)に手紙を書いたとき、シンプソン一家について最近何か聞いたかどうか尋ねた。彼女は返事を書き、ロッティから数週間前に手紙が来て、みんな元気にしているとのことだった。私はこの夢は意味がなかったと思い、それ以上考えなかった。
しかし、エラから母の病気の原因がわかったのは、3月のその週だとエラが言ったとき、私はその偶然の一致に驚いた。私はそれが偶然だとは思っていない。私はこれまでそう考えるには、あまりに多くの重要な夢を見てきたのだ。その夜、私はなぜかテレパシーを受け取ったのだ。
その夜、シンプソン家の少女たちが苦しみの中で発信したメッセージを受け取った。なぜ受信する必要があったのかそれはわからない。でもそうなった。しかしそれは起こった。そして私がそれを夢見た夜は、まさに彼女たちが(母が病気だということを知った)後の夜であったと確信している......。

1915年6月27日(日曜日)7日(月曜日)
プリンスエドワード、キャベンディッシュ、牧師館
...昨夜、私はとても親愛なる、とても悲しい、とても奇妙な予期せぬ体験をした。
私は以前島にいたとき、私は私の古い家の近くに行くことを考えると萎縮していた。今年も昨夜まで同じように感じていた。私は邸宅のベランダにいた。露が降っていた。南東に大きな朧げな月が昇っていた。
私の左側には、古い家を遮るように暗い木々が横たわっていた。突然私はもう一度あの家に行ってみたいという、抑えがたい思いに駆られた。月光に照らされたあの淡い魅惑の中で、魔法の抜け道を通って昔の時代に戻れるかもしれない。私はそれに耐えることができなかった。
私は教会の敷地に入り、昔よく通った柵の隙間を通り抜けた。教会へ行くのに使った草原の端にある、かつて歩道があった場所を歩いた。その先に古い家が見えてきた
銀色の影に包まれながら。私はちょっと脇道にそれて、古い井戸に向かった。井戸の下を覗き込んだ。いつも井戸の両側に並んでいるシダがすっかり伸びていた。私は古い勝手口まで進んだ。その横で毎年夏になるとバルサム・ポプラの新芽が伸びてきて、足で踏みつけられていた。
古い家を閉めた後、それは成長し、あまりに早く成長したため、台所と家の間の角度全体が、このようになった。厨房と炊事場の間の角は、すべてそれで(ポプラの新芽で)埋まっていた。その高さは台所の屋根と同じ高さだ。
私は家の端に回って、昔使っていた窓の下に立ってみた。月が谷の上に浮かんでいる。昔、月夜の晩に何度もその光景を見たことがある。私の心臓は痛みと喜びが入り混じった鼓動で
息が詰まりそうになる。その優しい輝きの中にあるものすべてが同じように思えた。しばらくの間、年月はそのページを戻した。その墓地で静かに眠っていた人たちが目を覚まし、元の場所に戻ってきた。おじいさんとおばあさんは、明るい台所で本を読んでいた。古い友人と同志が私と一緒に小道を歩いた。ダフィーは、キャラウェイを駆け回っていた。私の頭上には私の古い白いベッドが、夢の枕を押して待っていた。
ほとんどの窓は板で覆われていたが、応接間の南側の窓は覆われていなかった。その窓からはむき出しの古い部屋がはっきりと見えた。その部屋には私の子供のころの憧れだった黒いマントルピースがあった。私は回り込んで玄関の石段に立った。古い「表の果樹園」とその横の木立が昔に比べて、より低俗で荒涼とした印象になったような気がする。
リースクデールの芝生にある薄い木々のスクリーンに慣れてしまったからだ。すべてが美しく、孤独で、しかし非現実的だった。私は夢の中にいるようだった。
夢の中にいるようで、でもそれが唯一の目覚めのようで。月明かりの魔法が効いている限り、過去はもう一度私のものになる。ああ、愛すべき古巣よ、昨夜あなたと過ごしたあの30分間は遠くから来た甲斐があった。あなたはあなたを愛していた私が戻ってきたことを嬉しかったと思う。
今、生きているのは私一人。あなたを愛しているのは私一人なのだ。私がそこに立っていると、1つの存在を感じるようになった。私を包み込んでくれるような、見放され寂しくなっていたものを感じることができた。古くから住んでいる人たちは崩れて塵になるまでしがみつく魂があるのでは?
私はその場所からほとんど離れることができなかった。おそらくこの場所が私に与えた魅力は健全なものではなかったのだろう。
死んだ過去は、その死者を葬るべきなのかもしれない。幽霊に長く付き合うのはよくないかもしれない。
その冷たい、甘い、得体の知れない交友関係に密接に縛られてしまうからだ。確かに私の現実の生活のすべての喜びと快楽は青ざめ、無の中に消えていくようだった。その影のような逢瀬の奇妙な魅力の前に私の現実の生活は、淡く、無に消えていくように思えた。

パークコーナー、P.E.L.
1915年7月11日(日曜日)
....チェスターは素晴らしい時を過ごしている。彼はここの子供たちと見事に仲良くしているようだ。彼らは皆、「信仰の家系」だからだろう。彼はドリスとは特にうまくいかず、ウェッブ家の子供たちの間でさえ、同じ点がむしろどちらかというと異質な存在に見えた。でもエイミーとジムと一緒なら彼は自分の仲間だ。
クララやステラや私がかつて遊んだことのある古いブナの森で楽しそうに遊んでいる。昔、昔、昔。
戦争のニュースはまちまちで、公平な日もあれば悪い日もある。しかしロシア軍は徐々に進攻し、ワルシャワは二度救われたが、再び危険にさらされている。
私が恐れているのは、ドイツがロシアを粉砕し、その勝利の凱旋を成功に酔いしれたドイツ諸国に投げつけることだ。西側戦線に投げ出すのではないかと思っている。
昨日、フレデと私は池のほとりの干し草原で花やシダを集めて美しい昼間を過ごした。最も美しい花菖蒲が、今池のあちこちで咲いている。

(日曜日)7月18日1915年
明日、私はPark Cornerを発つ...今夜、Fradeと私は夕暮れ時に橋の上を一緒に散歩するつもりだった。最後のお別れの散歩だ。薄明かりの中、私たちは抜け出しその時間を過ごした。西の空は、奇妙な夕焼けの色彩に満ちていた。
目の前には古い池が影と銀の中に横たわっていた。その夜はとても静かでとても澄んでいた。その静寂の中、最も奇妙で最も悲しい音が聞こえてきた。自然の中で最も忘れがたい音、それは、使い果たされた嵐の、遠くの岸辺に絶え間なく打ち寄せる音だ。めったに聴くことのできない音だがいつまでも忘れられない音だ。夜の雨風よりも悲しげで、すべての創造物の心の傷がそこにある。
フレデと私は何度もこの橋を往復した。時には静かに時には心の奥底の苦しみを低く語りながら。私たちは夢見る水、曇ったもみの中の夕暮れ、遥か遠くまで続くモミの木、私たちは夜の一部であるかのようだった。
遥か彼方の星々や海のうめき声に包まれた。そしてそのとき薄明かりが突然夜となり、その古い家の上に曲がっている木のてっぺんの上で、輝く新月が揺れたとき、私たちはその魅力から離れ、夢の国に触れるような沈黙の中で歩き出した。夢と涙の国に触れるような静寂の中で。

オンタリオ州リースクデール、牧師館
1915年7月24日(土曜日)
再び我が家へ――その前に神々が讃えられている!.... あの夜、Fleedと私はパーク・コーナーの橋の上を歩いた夜、私は彼女にこう言った。
人生において完璧なものなどほとんどないのだから。刺すようなものがない快楽というのは、(痛みのこもらない快楽)ほとんどない。
些細な、不都合な状況、たとえば靴を密かにつまむというようなことで、まったく傷つけられない「楽しい時間」なんてほとんどないのではないか。というようなものです。
その通りなのだが、時折運命の女神の目をかいくぐってしまうことがあるのだ。その使命は、すべての飲み物に一滴の毒を蒸留(して加える)することです。その険しい神によって傷つけられない時間があるのだ。私の帰郷はその一つであった。完璧だった....

オンタリオ州リースクデール、牧師館
1915年7月26日(月曜日)
戦況は悪いままだ。ロシアは退却している。この長引く撤退戦は5月以来ずっと続いている。
家に帰ったら「Anne of The Island」がここにあった。私の7冊目の本だ。これはペイジの他の本と同様によくできている。実生活の描写は少ないが、キングスポートはハリファックスであり、多かれ少なかれそうである。
そこでの経験は私の経験を反映したものではない。私はハリファックスが好きではなかった――とはいえその公園と「旧セントポール」墓地は好きだった。
(アンの物語の中で、墓地にはクリミア戦争の戦没者を慰霊するライオン像が建てられたと言っているのでこれは『オールド・ダイイング・グラウンド』(古い埋葬地)の間違いであろう)
アンとプリシラがそこで過ごした午後は、私自身の古い散歩道からスケッチされたもので、ラスティ(ネコ)のクロロフォルミングは、フレデと私が闇討ちしたときのエコー(反映)だった。裏口に出没していた猫ちゃんを退治したときのことを思い出している。しかしこの話の残りの部分は、「単なる嘘で、他には何もない」のである。

その出版に伴い私とペイジの旧契約は終了した。最初の本であってもハードな契約であった。
私の本が著しい成功を収めたとき、それはますます不当な契約となった。ペイジは私の本で大儲けした。それをギャンブルにつぎ込んだと聞いている。確かに私は正当な報酬を受け取っていない。最近、私はペイジに対して不信感を抱くようなことをいろいろと耳にするようになった。私はそれを信じたくはない。
グリーン・ゲイブルズは、私がペイジ社に送るまでに5回も断られたが、それを受け入れてくれたのがペイジ社であり、私にチャンスを与えてくれたことを忘れることはできない。しかし私は自分の利益を犠牲にすることはできない。
私の利益、さらに言えば子供たちの利益を単なる感情で犠牲にすることはできない。次の本を渡す前に問題をクリアーにして解決しなければならない。きっと喧嘩になるだろうし、私はそれを恐れている。もしペイジが高潔でないなら、私は彼にかなわないからだ。
私が『アボンレア物語』の契約書にサインしたとき、ペイジが私の本を5年間、同じ条件で彼に渡すという条項を省かなければ私はサインしなかった。ペイジは非常に嫌がり、『Avonlea』の出版を継続しないぞという脅しをかけてきた。
私が署名しないなら、私の本を「押し売り」し続けることはしないと暗に脅したのです。私は粘り強く説得し、最終的に彼は非常に悪い潔癖さをもって降伏した。もし彼がもっと良い条件を提示していたら、
売れっ子作家に提示される普通の条件、つまり小売価格の15%という普通の条件を提示してくれたらサインしただろう。しかし彼はそのようなことをほのめかすことはなく、それを求めても無駄であった。彼は私にその貧弱な10%で永遠に自分を縛り続けることを望んだのだ。
卸値の10%という貧弱な値段で、いつまでも自分を縛っていろというのだ。これでは1冊あたりにつき19セントしか入らない。しかし、最悪の特徴は、ロイヤリティが「卸値」である場合、著者が出版社を「監視」する方法が全くないことである。(作者の人気により取次店に渡す卸値が値上がりすることもあるが、それを監視することができない)

オンタリオ州リースクデール、牧師館
1915年8月6日(金曜日)
今日、ワルシャワの失敗の知らせが来た。我々は1週間前からこのニュースを待っていた。しかしこの発表はまるで予期していなかったかのようだ。
それ以来、私はとても神経質になり、落ち込んでいる。天気も最悪でほとんど雨が降り続くし、とても暑い。

オンタリオ州リースクデール、牧師館
1915年8月13日
小さなヒューが死んで生まれてから、ちょうど今日で1年になる。ああ、あの忌まわしい日! あの苦しみを 忘れることができるだろうか? そして10月にも同じことが繰り返されるのだろうか?
この思いはいつも私の中にある。私は最近神経衰弱の発作に悩まされている。昨夜はほとんど耐えられなかった。私の体調、戦争のニュース、天気、すべてが合わさって私をとても惨めにさせる。時々チェスターのためでなければ、生きているのが惜しいと思うほど、ひどく落胆することがある。生きるのが嫌になるくらいだ。

1915年9月10日(金曜日)
私はどちらかというと、我慢の限界にいるような気がする。また歯の潰瘍でひどい目に遭っている。それにチェスターのことがとても心配だ。彼は前回の記事からずっと体調を崩している。今は少し良くなっているようだが、この子は顔色が悪くなりやせ細ったので心配だ。私自身はというと......不安で仕方がない。私は常に不快だ。また元気になれるのだろうか? 私には不可能に思える。

1915年9月24日(金曜日)
このような悲惨な日々であっても、私たちは時々笑うことができる。昨夜チェスターがお祈りに来たとき、リリーに対して非常に機嫌が悪かった。彼はいつもお祈りの最後に言っていたが、昨夜はリリーの名前を省略した。私はその省略を補ったのだ。
「リリー無しでいい子にしてください。アーメン」しかし私が笑っても良い夜にはならなかった。戦争が原因で眠れなかったのではなく、自分自身の不快感が原因だった。しかし眠れないからこそ私は戦争のことを考え続けた。
ギリシャが連合国側に動員されるというニュースには一抹の明るさがある。もし彼女(国のことを女性に例えている)がそうしてくれればセルビアはまだ救われるだろう。しかしこの戦争は起こってみなければ何もわからない。
ギリシャのコンスタンティヌス(皇帝か)にはドイツ人の妻がいる。ギリシャのコンスタンティンが どんな妻を持つか気にしなければならないとは。

1915年10月6日(水曜日)
オンタリオ州リースクデールの牧師館
今日は応接間を掃除したのでとても疲れた。机の前に座っていると、階段を上るのが怖くなる。その上、私はずっと戦争のニュースについてひどく心配している。今日ギリシャのコンスタンチンが、動員を担当したベニゼロス首相を解任したとの発表があった。これはギリシャが参戦しないことを意味する。つまりギリシャはドイツ側に付くと宣言したのだ。いやコンスタンティンの妻はドイツ人だ。この雷雨に終わりはあるのだろうか
雷を落とすようなものです。ギリシャが同盟に加わると確信していたのに。平和は訪れるのか? ああ、そうだ。だが平和は世界を1914年の古代世界に戻すことを意味しない
"1914年の古代世界"には戻れない。私たちは決してそこに戻ることはできない。何もかもが同じにはならないのだ。

1915年10月23日(土曜日)
リースクデールの牧師館
今日は一日中座っていられる。すべてがうまくいってもう一人親愛なる幼い息子がいる。彼は予定より10日早く10月7日の午後にやってきた。おそらくギリシャのコンスタンティンのせいだろう。そうではないかもしれない。すべてがうまくいったので、私はあと10日間の疲れ(妊娠期間が延びること)を免れたことを嬉しく思った。
しかし、呼べる看護婦が一人もいないことに驚いたが。シアー博士がアクスブリッジの看護婦を連れてきてくれた。
Ewan Stuart Macdonald(ユーアン・スチュワート・マクドナルド)もまた、10ポンドほどのふっくらとした小柄な男性だ。私はとても楽な生活を送り、赤ん坊の艶やかな泣き声を聞いたときは、どんなに嬉しかったことか。
私はこの子が女の子であることを望んでいたのだが、今では千人の女の子と交換することはできません。チェスターに兄弟ができるのも嬉しい。
ベビーキッズはチェスターに全く似ていない。私の家系(モンゴメリ家)に似ている。確かに目は父(ヒュー・ジョン)に似ている。赤ちゃんと同じで明るい色の目をしていた。生後1時間半を過ぎた頃、看護婦が抱き上げると、突然頭を持ち上げて部屋中を見回した。その時の目は忘れられない。その時の表情は忘れられない。
その小さな白い顔の中に、一見すると黒い瞳を持つ滑稽なダニの表情は忘れられない。
ユアンはこの子を、大学時代の知り合いのスチュアートにちなんでスチュアートと名付けた。私はその名前はあまり好きではなかった。シドニーと呼びたかった。でもユアンは私がチェスターを選んだのだから自分も選ぶべきだと考えたようだ。
それで私は譲った。ユアンを付けたのは息子の一人が父親の名を継ぐべきだと思ったからだ。
でも私はこの名前が好きではなかったし、ユアンもこの名前が好きではない。そう、私は感謝し幸せだった。しかし私の療養生活はどこか寂しいものだった。退屈な時間だった。戦争のニュースはどこもかしこもひどいものだった。セルビアは蹂躙され、毎日毎日、新聞は憂鬱な記事でいっぱいだった。
私は看護婦をあまり気にしていなかった。看護婦嫌いというわけではなかったが、ひどく退屈で、牛のような女だった。
私はほとんど孤独で胸が痛んだ。チェスターが生まれた後の、昨年の親愛なるヒューの出産時期とは違っていた。初めて心が痛みから解放された。でもこの赤ちゃんは誰かが言ったように、"小さなヒューの代わり" にはならない。誰もそれをすることはできない。彼はいつも彼自身の場所を持っている。
私にとっての赤ん坊であり、兄弟たちの幻の伴侶であり、見ることも聞くこともできない。ウィー・スチュアートは二重に貴重だ。彼の命は "小さなヒュー" の死によって買われたからだ。しかし彼は自分の居場所を持っている。

1915年11月29日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
冷たい風と暗い空」の一日。しかし11月はずっとこんな感じだ。戦争のニュースも悪い。セルビアの作戦はギリシャとルーマニアの態度は非常に怪しく、セルビアの作戦は連合軍に不利になった。日ごとに明らかになるのは、われわれがかつてあれほど期待したガリポリ作戦が大失敗であることが日に日に明らかになっている。このままではこれほど多くの失敗と逆転に直面して勇気を持ち続けるのは難しい。時々私の勇気はゼロ以下になってしまう。もし英国艦隊がいなかったら私は希望を捨てていただろう。
しかし、私はまだ嵐に翻弄された私の魂をそれに碇を下ろしているのだ。赤ちゃんはかなり元気だが、私が望むほどには着実に体重は増えない。彼はとてもいい子だ。私がいつも精神的に参っていることがこの子に悪いのだろう。
しかし私の体調は実によく、実に楽しい感覚である。このように動くのも楽だし食事もおいしいしよく眠れるし、きれいな服も着られるというのはあまりにもったいない話だ。

私は鏡で自分のスリムな体型を観察し、自分のものではないという奇妙な確信を得た。(子供を産んだ後でスリムになったのだろう)
今月は赤十字の支部を作った。私は社長です。(すごいな)しかし私は、教会の社会活動に加えてこのようなことをする時間も力もないと感じていたし、今もそう思っている。しかしそれは満たされなければならない要求であり、私は少しの犠牲も惜しんではならないのだ。ある種の女性の犠牲と比べたら、たいしたことはないだろう。しかし私はそれを恐れていない。ただそのために他の仕事をおろそかにしてはいけないし、正直なところすべての仕事をこなすだけの体力があるかどうかはわからない。
家事、文学、家族への関心、宣教師会、ギルド、赤十字、果てしない訪問、これらすべてが私に期待されているように思える。これらすべてが私の前に山積しているように思われる。毎晩、疲れきって、二階に上がるのもやっとの状態だ。
数日前、Guardian紙でToff Mckenzieの訃報を知った。キャベンディッシュはトフ抜きでは語れない。彼は、私が覚えている限り私たちの社会生活の中心的人物だった。陽気で人懐っこいトフ。彼は決して老け込むことはなかった。しかし彼は70歳だった。彼の母親は93歳。彼は彼女の長男だった。彼は彼女の最初の子供で、彼は人間に与えられた年を全うした。
先日、私は「校長の花嫁」という短編小説の執筆を再開した。再開した」と言ったのは、5年近く前祖母が亡くなる1、2ヶ月前に、私はこの短編小説を書き始めた。一応、書き上げたが、それ以上はできなかった。それ以来一度も取りかかることができなかった。しかしこの秋私は、できれば短編小説をいくつか書きたいと思っている。しかし執筆時間を確保するのは、まったくもって難しい。しかし何とかしなければならない。このままではしょうがない。

1916年

オンタリオ州リースクデール、牧師館
1916年1月3日(月曜日)
厳しい不安と心配の中で新年を迎えた。チェスターは12月中、風邪をひいたり胃が痛くなったりしてとてもつらかった。クリスマスの頃首筋が腫れたので、先週の金曜日に医者に診てもらった。医者は結核かもしれないと言った。私は信じられない。 この子は最近までとても丈夫で元気だったが心配でたまらない。 ユアンも私も金曜の夜は一睡もできなかった。 でも闘うしかないのだ。 この子の生命力が病気を退治するのだ。結核!? そのことを考えると私の魂は苦痛で身動きがとれなくなる。起きていても寝ても覚めてもそのことが頭から離れない。愛するチェスターは 生まれてからずっと私の心の支えだった。私の最初の子だ。
12月1日、3年間連れ添ったリリーが、ゼファーのロブ・シェアーと結婚するために旅立った。リリーはとてもいい子だったので、いなくなるのは残念だった。 すっきりしていて、有能で、いい娘だったからだ。しかし1年前に彼女が去っていたらと思うとそれほど残念でもなかった。シェアーとの婚約後、彼女は以前ほど喜ばせようとしなくなった。 シェアーとの婚約後、彼女は以前ほど我が家を喜ばせようとしなくなり、多くの点で満足のいくものではなくなった。そのため、私は彼女が去ることに納得した。
代わりにゼファーのエディス・メイヤーズを雇っている。私はリリーより彼女の方が好きな点が多い。彼女の、でも気立てがよくて親切で、私の時間を節約してくれる。それにリリーのような不機嫌な後者が患っていたメランコリックな呪縛も受けない。全体として私は確かに前には戻れない。 この1ヶ月間、戦争のニュースはずっと悪いものだった。特にバグダッドを占領しそうな勢いでのイギリスの撤退やセルビアの蹂躙など。 セルビアがチュートン軍に制圧されたことだ。同盟国の最終的な勝利を信じ続けるのは難しいと思われる。そして今、二度目の新年を迎えたが、戦争は昨年と同様、終結に近づいていないようだ。
フレデは12月23日にやってきて今日帰っていった。 この冬の唯一の明るい話題だ。金曜日の夜まで私は彼女との交際を心から喜び、何時間も昔ながらの魂の交わりをした。金曜日からはすべてが夢のようだ。彼女が今日逝ってしまっても私はほとんど後悔していない。一つの大きな感情、喜びや悲しみや不安といった感情が心を支配することはない。
(そういう心づもりでいたのでしょうが、このあとスペイン風邪でフレデが死んだときモンゴメリは大変な悲嘆にくれるのです)
昨日はWillとAllan Mustardが夕食に来た。彼らはまもなく大砲の訓練のために英国へ発つ。彼らは素晴らしい若者だ。また私の食卓に座ってくれるかしら

1916年2月4日(金曜日)
今日ユアンがやってきて、「悪い知らせだ。最悪の事態だ」と言った。私は恐怖で冷たくなった。怖くなった。ドイツ軍は西部戦線を突破したのだろうか? それともイングランドに侵攻したのか? 私はグローブ紙を手に取り震える手で開いた。見出しはオタワの国会議事堂が燃やされたことを報じていた。
おそらくドイツ軍の焼夷弾によってだ。これは悪いニュースだ。しかし私が恐れていたようなことはなかった。新しい国会議事堂を建てることはできるが、英国の戦線を突破されたらカナダに国会議事堂は必要なくなるかもしれない。ドイツ軍がそれを見届けてくれるだろう。

1916年2月7日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
土曜日、風邪の発作に見舞われた。しかし今日はヒパティア・クラブのために論文を読む約束をしていたので、猛烈な強風と漂流の中アクスブリッジまで車を走らせた。もちろん風邪で死ぬのは当然だしそうなったかもしれない。 今日私の印税報告書がページから届いたが、かなり期待はずれだった。「島のアン」は、私が期待したほどには売れず、わずか32,000部しか売れなかった。確かにどこかで何かが間違っている。書店員や小売業者はペイジにひどく文句を言っている。彼らは彼があまりに「堅物」(卸値を負けないなど頑固である)なので取引できないと言う、と言っている。何人かはもし大衆が要求している私の本を手に入れる必要がなければ、ペイジとは全く取引しないと言っている。 ペイジとはまったく取引しないと言う者もいる。

1916年2月9日(水曜日)
もう寝なければならないのにまるで眠れないような気分だ。疲れているし心配で神経質になっている。昨夜はほとんど眠れなかった。ユアンは咳が止まらない。気管支炎になったのではと心配です。今夜は声が枯れて ギルドに行けず...私が代わりに彼の新聞を読んでいた。寒くて、暗くて、雪が降っている中を一人でとぼとぼと歩いて帰った。私は「生きる気」を完全に失いそうになった。そこで私は昔のように日記に「呻吟」するようになった。「会衆」の前では仮面をかぶって、自分には到底無理な明るさを装わなければならない。

1916年2月16日(水曜日)
「汝らの飛翔が冬でないことを祈る」――ああ、本当だ。何事も冬はすべてが耐え難い。ユアンはまだ良くなっていない。咳は少し良くなったが嗄声がひどくなった。囁くようにしか話せないのだ。
会衆は皆、異なるレメディ(植物、動物組織、鉱物などを水で100倍希釈して振盪(しんとう)する作業を10数回から30回程度繰り返して作った水を、砂糖玉に浸み込ませたもの)を持っていて、それが確実な治療法である。
自分のレメディが試されないと、皆多少気分を害する。私たちはそのほとんどを実験したが目に見える効果はなかった。亜麻仁茶が定番のようだ。私は4リットルも作って、かわいそうなユアンは従順にそれを飲み込んでいる。
土曜日、私はとても惨めな気持ちになった。乳房のラミネーション(乳房の皮はがれか)と思われる発作でとても惨めな気分だった。それでも私は伝道庁に出向いて司会をしなければならなかった。
そして、日曜日にはノックス大学の学生を迎え入れる準備を手伝った。私は彼が入る予備の部屋が邪魔にならないようになるまで片付けた。
それから私はベッドに入ったが眠れなかった。氷のような寒さから燃えるような暑さまで、一晩を過ごした。そして汗をびっしょりかいた。朝になっても眠れず起き上がった。
その夜カスバート・マッキンタイアがやってきて火曜日の夜まで滞在した。彼は2年前からエドモントンにいてトロントを訪ねてきたのだ。
私はこの惨めな状態で、しかも(気管支炎で声が出ない)可哀そうなユアンとの会話もままならない中、私は彼に会えて心から嬉しかったが、私の惨めな状態と貧しいユアンとの会話で、私は彼の訪問あまり楽しめなかった。彼に会うとどんなに昔がよみがえることか...。

2月22日(火曜日)、1916年
牧師館、リースクデール、オンタリオ州
昨夜とても奇妙な夢を見た。私はその印象を拭い去ることができない。とても鮮明でとてもリアルで、奇妙に壊れたり再開したりした。 私は正午に自分の部屋にいて化粧台のそばに立っていた。外は太陽 夏の世界を照らしていた。突然、いや瞬時に空は漆黒の闇に覆われた。 雷が鳴り響き雷鳴がとどろいた。私は心配になりながらもしばらく立ち尽くしていた。
その時宇宙を揺るがすような衝撃と閃光が走った。私はこの家に落ちたと確信した。私は恐怖のあまり、叫びながら階下へ駆け下り廊下を走り抜けた。 ユワーンを呼びながら廊下を走った。 私たちはダイニングルームで出会い互いに抱き合って呆然とした。
私たちが広間を通り抜けると一人の男が歩道を走ってくるのが見えた。私はドアを開け、彼はカーキ色の服を着た兵士で雨の中を走ってきた。その時、赤ん坊の泣き声で私は目を覚ました。目が覚めたその瞬間、私の夢はこれから起こる戦争と関係があるのだと、不思議な確信にとらわれ、夢を見終えてその経緯を知る前に目覚めてしまったことを深く後悔した。私は起き上がり赤ん坊の世話をしベッドに戻った。
そして私は眠りに落ち、今まで一度もしたことのないことをした――壊れた夢を再開し、それを見た。 嵐はちょうど終わり太陽は輝き、雨粒が若草の上でキラキラと輝いていた。 若草の上でダイヤモンドのように光っている。世界全体が楽しげで春のようだった。私は教会の向こうの丘を歩いていた――いや、歩いてはいない。 私は白い花輪を髪につけて帰り道もずっと踊っていて、言葉にできないほど軽やかな気分だった。 歓喜に包まれ涙を流した。そして私は再び目覚めた。 不思議ですか? さて、夢が「実現」して嵐が去ったら、嵐が去った後私たちは幸せになるのだ。どんな慰めにもそのことを忘れてはならない。

1916年2月28日(月曜日)
あの奇妙な夢は本当に意味があったのだろうか? それは、とても不思議なことに実現した。夢を見てから2日後、ヴェルダンでのドイツの大攻勢のニュースが飛び込んできた。ベルダンでのドイツの大攻勢が報じられ、それ以来緊張はひどくなっている。先週の木曜日にフランス軍の戦線が崩壊し、それ以来、毎日次のような知らせが届いている。
フランス軍の必死の抵抗にもかかわらずドイツ軍の進撃が始まった。この状況は恐ろしく危機的である。もしドイツ軍がヴェルダンを占領すれば フランスの精神は崩壊しパリへの道が開かれるかもしれない。
戦争の悲惨なニュースは別として今週は恐ろしい一週間だった。先週の水曜日の夜、私はギルドの社交界から帰宅し気分よくベッドに入った。体調はかなり良かった。夜中にまた乳房の炎症の発作で目が覚めた。ひどい痛みと寒気と汗で、翌日はベッドで過ごさなければならなかった。
翌日には立つこともままならなくなった。というのも赤十字を支援するための「パイの会」が開かれるからだ。その夜ウェブスター・フォーンの家で赤十字のための「パイの会」が開かれることになっていて、私はそのプログラムの責任者だったので、そこに参加しなければならなかったのだ。
その夜は寒く荒れ模様の夜だった。私はアレック・リースクの大きなそりに乗って行った。そりには12人ほどが乗っていた。あとの乗り手は若い人たちで、陽気な笑い声が響いていた。その時の私の気分にはそぐわないものだった。私は言いようのない惨めさを感じていた。弱く、寒く、疲れ、落胆していた。ユアンの声もよくない。
ドイツ軍は進攻してきたし赤ん坊は3週間も育っていない。私は惨めなほど病んでいた。私は、夜風が吹きすさぶ中、荒れ狂う野原を眺めながら、このままではダメだと思った。私はこれまであの夜ほど心が痛んだことはない。
しかし誰もそれを知らない。もちろん寝不足で目がくぼみ、やせ細った姿の私はとても悲惨な姿をしていた。寝不足で痩せていて咳が止まらない。しかし私は微笑み、笑い、冗談を言いながらプログラムを進めた。
パイを買った人と一緒に3分の1ずつ食べたが、その人は不器用で何も言えなかった不器用な小学生だった。私たちは黙ってそのパイを食べた。私は一口食べるごとに窒息しそうな気がした。
私は1時に帰宅し、疲れと体調不良で眠れなかった。土曜日は悪夢のようだった。嵐のような天気でひどく寒い。ユアンの声も良くない。戦争の知らせは悪く赤ん坊は病気だ。最悪なのは、私の体調不良と食欲不振、そして睡眠不足だ。栄養が足りず、わずかな栄養も息子には合わなかった。私の最初の発作以来(乳の発作か)彼はずっと納得していない。この3週間彼はただ消え行くばかりだった。
この3週間は私の心は折れそうだった。彼は決して泣かず文句も言わず(二番目の子スチュワートは)、ただ小さな籠の中で横たわりながら誰かがかがむと、かわいそうなほど小さく微笑む。体重は2ヶ月前より減っている。何かしなければならない。こんなに早く離乳させるなんて、私自身がひどく落ち込んでいるのだから。このままでは私の子供が死んでしまう。赤ちゃんがここ数日具合が悪く、私はとてもブルーで神経質で憂鬱だった。とても憂鬱で、神経質で、落ち込んでいた。夜も眠れない。
ユアンが良くなってくれたら...。心配でたまらない。私は今いくつもの心配事の餌食になっているようだ。戦争やユアン、赤ん坊のことや 私自身のことで 悩んでいる。まさに夢の中で見た嵐だ。ああ、フリーデやバーティがいれば......どんな「気の合う仲間」がいても......少しは私を励ましてくれるし、笑ってくれる「同志」がいれば。

1916年3月2日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール
ユアンの声が心配だ。一向に改善されない――いや、むしろ悪化している。今週はほとんど眠れず、眠ると汗で目が覚めます。おそらく胸のトラブルのせいでしょうが非常に弱っている。私は幽霊のように見え精神異常者のように感じている。私にはベルダンでの恐ろしい闘争のサスペンスに耐えられないようだ。 無差別に殺戮を繰り返すヴェルダンの惨状に "ベルダン周辺の雪は はもはや白ではない" という、ひどく示唆に富んだ文章が、今日の新聞に載っていた。
私は運命の生き物のように日々を引きずっている。声をあげて叫びたいこともある。くすんだ灰色で寒い。チェスターは家の中を歩き回り "ポリー・ウォリー・ドゥードル" を歌い続けてる。現在の状況とあの歌の対比が異常な感じだ。この歌は彼のお気に入りだ。ありがたいことに彼は元気でバラ色である。赤ちゃんも今日は元気そうだ。月曜日に牛の乳を与え始めました。(もう自分の乳は与えられなくなった)それは彼によく合っている。 そしていくつかのことが良い方向に変化している。

1916年3月10日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール邸
今夜はちょっと不思議な体験をした。今日は大変だった。昨夜も汗をかいたがその後は眠れず、何もかもが暗い色に染まるのを防ぐことができなかった。憂鬱な色ですべてを思い浮かべるのを防ぐことができなかった。片方の胸がまた痛くなり、もうこの発作には耐えられないと思った。
今日も猛烈な吹雪で心を奮い立たせる郵便物も来ない。郵便を受け取るのは毎日が拷問だが、受け取らないのはもっとひどい拷問だ。ユアンの声もまた悪くなったし、赤ん坊もあまり元気がない。
何もかもが最悪だった。私は心配に耐える体力がなく暗くなると突然神経がボロボロになった。
昔、家で神経衰弱になったあの恐ろしい冬以来だ。私は心の苦しみと精神の苦しみの中で、ただ床を歩くことしかできなかった。この状態が2時間ほど続いた。私は眠れない恐怖の夜が来るのを楽しみにしていた。
私の不幸の中心は、「雪がもう白くなくなった」ベルダンだった。雪はもう白くない」。私は自分の魂の中に、フランスの苦悩と緊張をすべて受け入れているように思えた。一瞬たりともフランスの苦悩と緊張を引き離すことはできなかった。
突然苦悩が止まり、大きな静けさが私の上に降り注ぎ私を包み込んだ。
私は平穏だった。すべての動揺が私から去った。私は何か恐ろしい危機を脱したようだった。ベルダンは安全だと確信したドイツ軍は絶望的なフランスの厳しい壁を破ることはないのだと確信した。私は悪霊を追い払った女性のようだった。
それとも、昔の巫女が苦悩のどん底から奇妙な未来の予感を勝ち取ったように? まるで権力者を相手に闘い勝利したような気がする。それとも、限界まで苦しんだ神経の反応に過ぎないのだろうか?

1916年3月11日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
よく眠れたし今日はずっと気分がいい。そして奇妙な平穏が続いている。ベルダンの危機は去ったという奇妙な確信がある。ドイツ軍が再び勝利したという悪いニュースをもたらす郵便が来てもそれは乱れなかった。ドイツ軍が再びカラスの森を制したという悪い知らせが来ても。昨日はその知らせが私を苦しめただろうが、今日は全く影響がなかった。
ユアンの声は確かに少し良くなっていて明日は説教をするつもりだ。私は彼の聴衆をうらやましいとは思わないが、彼は4回の日曜日を失い(4回説教を抜かしてしまった。献金集めも)、もう二度と失いたくないと決心している。
こうして、私はこの巻を読み終えた。この本は6年間をカバーしている。暗い時期もありましたが、とても充実した幸せな6年間だった。私はこの古い日記が大好きで、私の人生の一部となった。私の本質的な欲求を満たしてくれる。それはまるで個人的な親友のようなもので、絶対的な信頼がおけるのだ。次の書き込みで第4巻を始めるつもりだ。
何年分の記録になるのだろう? 喜びや悲しみ、成功や失敗の記録はどのようになるのだろうか。

     「動く指は書く、そして書いたら進む。
     汝の敬虔さと機知を以ってしても
     半行を消すように誘い戻すことはできない。
     また、汝の涙は、その一語一句を洗い流すことはできない。

[リーガル版原書第3巻の終わり]

1916年3月21日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール邸
先週の月曜日私は1週間トロントに行った。ユアンの声はまだ完全には回復していないがかなり良くなっていた。
この4週間の緊張から、ちょっとした変化が必要だと感じた。私は買い物もしなければならなかったので、あまり気分が乗らないながらも出かけた。
月曜日の戦争のニュースは、フランスの戦線がまだ維持されているということで、まずまずでした。赤ちゃん(スチュワート)と私は午後の列車でトロントに行き、Norman Bealが私たちを迎えてくれた。私はこの1週間をビールス夫妻と過ごした。メアリーは親愛なる陽気な魂で、「ジョセフを知る人種の一人」だ。そしてNormanはとてもいい人だった。その一週間は楽しく過ごすはずだった。しかし身体の不調がすべてを台無しにしてしまった。
火曜日にはプレス・クラブ(記者クラブ)が私のためにアフタヌーン・ティーを催してくれた。マクレランド、グッドチャイルド、スチュワートのマクレランドとグッドチャイルド両氏が、私のカナダでの出版について話し合ってくれた。私は次の本をカナダで出版することを決定した。
カナダでの出版権を彼らに譲ることにした。これまで私はカナダの出版社を持たなかった。世界的な権利はペイジ社が持っているのだが、これは非常に不満足な取り決めだ。
私はマック氏に、アメリカの権利はペイジに譲るつもりだと伝えた。マックとG.は顔を見合わせた。二人はペイジに対して何も言わなかったが、しかし私はインタビューの間中、彼らにチャンスを与えれば、それなりのことを言うだろうという予感がしていた。しかし私はそのチャンスを与えなかった。
。ペイジがどうであろうと、(私の本を出す)出版社として不信感を抱かせるような、より大きな理由がない限り。私はライバルの出版社に彼を中傷する機会を与えないことにしている。
マックレランド社については、私が信頼する方面ではよく話されているので、彼らを信頼しても大丈夫だと思う。(本がヒットしてしまったことにより、最初に出した出版社を簡単には貶められないのであろう)
新しい本については明確な取り決めはなかったが、私は来年の秋に私の詩を出版する約束をした。私はいつもそうしたいと思っていた。特別に優れているというわけではなく、ただ私自身の満足のために。
ペイジは何年か前、私の詩を出すことを事実上拒否した。詩は金にならない。私の小説で稼いだ金額を考えると、たとえ「金にならない」としても、彼は私のために詩を出版したかもしれないと思った。だからこの取引で彼を考慮する必要はないと思った。
その週、私はまた乳房の炎症の発作に見舞われた。痛みや寒気や寝汗を繰り返し、私の訪問を台無しにした。痛み、悪寒、寝汗、落ち着きのなさ。私は午後のお茶会に駆けずり回り、微笑みながら話さなければならなかった。もちろん賢明なのは乳房を切り離すことだった。
しかし、事前に出席を約束した以上、自分が主賓であり、友人を招いてくれた女たちの期待を裏切るわけにはいかないと思った。名声も地位も、ある種の義務を課しているのだ!。しかし冬の間ずっと楽しみにしていた私の小さな訪問が完全に台無しにされたことに失望を覚えた。
赤ちゃんは私と一緒にいて、まったくいい子で可愛がっていた。あるお茶会で、私は自分の本のことで今まで言われたことのないようなとんでもない賛辞を受けた。あるご婦人が私のところにやってきてこう言ったのだ。
「マクドナルドさん、私の娘がどんなにアンが好きか教えてください」。先日、娘がグリーンゲイブルズを手にしているのを見つけ、私は「子供よ、その本何回読んだの? 娘は「お母さん、知らないわ。ただ聖書と一緒に持っていて毎日1章ずつ読んでるわ」と言った。
サラリーマン時代の私は、ブロンテやエリオットと肩を並べることを夢見たかもしれないが、私は聖書と張り合うなんて夢にも思っていなかった。しかし私は、子供の憧れの香は、今までで一番甘いと思った。
昨日帰宅して、今日一日物事を整理して過ごした。私は今夜はとても疲れていて、さらに疲れている以上に、胸の病気のせいで神経質で憂鬱だ。乳房の病気のせいだ。ユアンの声はだいぶ良くなっているがまだ普通ではない。
ドイツ軍のベルダンへの攻撃はまだ続いているが、今のところこれ以上の進展はない。"死者の丘" と "304番丘" が現在の戦いの中心だ。殺戮は凄まじいが、フランス人の合言葉は "奴らは通らない" です
先日、ある新聞で恐ろしい文章を読んだ。それが私の頭から離れない。夜も眠れないとき、私の魂を引き裂く。「ポーランドでは8歳以下の子供は生きていない、餓死か被爆で死んだ」。そしてこれはキリスト教の時代の1916年です。

1916年3月23日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール寮
私はひどい寝汗をかくことがあり、乳房の病気は慢性化しているようである。寝不足が続き、ひどく疲れている。
私の体重はたったの109ポンドだ。私の人生でこんなに体重が少ないことはない。この6週間で16ポンド痩せた。ユアンもあまり元気ではない。でも赤ちゃんは元気に育っている。

スチュワート
おとなしいいい子

1916年4月12日(水曜日)
今日ブリトン出版社のヌーナン氏が来て、私の新しい本を手に入れようとした。さて昔は出版社が私の本を手に入れるために、互いに急がない日があったのだ。ヌーナン氏はペイジ社の営業マンとして17年間活躍した。
私は彼に率直に、ペイジとその手法についての彼の意見を聞いてみた。とはいえ彼の口から語られたのは、むしろ最後のほうだった。おそらくあまり信じてはいけないのだろう。しかしヌーナンは書店員から高い評価を得ている。ペイジを辞めたのは、彼のやり方に耐え切れなくなったからだと と言っている。
ブリトン社が出したオファー(私の本を出版する条件)はいいものに思えた。 しかし私は途方に暮れている。私は出版業について十分な知識を持っておらず、自分の利益を守るには 誰を信用すればいいのか。ペイジが怖い。 昔フリーランスで雑誌(の小説)を書いていたことを半ば後悔することがある。 あのころは自分で舵を取ることができた。今となっては自分には無理なようだ。

1916年4月17日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
今夜は、ページからの電報のせいで心配な状態です。私は多くの問題を予見している。彼は「マクレルと非常に不満足な面接をした」と電報を打った。電報は土曜の夜に送られたもので、月曜に詳しく書くと書いてある。
土曜日の夜に送られた。私はこのインタビューが不満足なものであったのは、ペイジがすべてにおいて自分の思い通りにならなかったからだと信じて疑わない。彼はそういう男なのだ。さて戦いは明らかに始まっている、この詩の仕事は前哨戦のようなものである。小競り合いのようなものです。神よ、私を守りたまえ

1916年4月20日(木曜日)
昨日の戦時ニュースでは、ロシア軍によるトレビゾンド占領が発表された。 これは良いことだ、おそらく主要な作戦には影響しないだろうが。しかし、私たちは最近、喜ぶべきことがあまりないので、トレビゾンド陥落の旗を掲げた。今夜はひどく疲れていて心配だ。
今日マクレランド氏が来て、一日中いろいろなことを話し合った。彼とペイジは詩の問題でバトルロイヤルをした――それは彼らの問題だ。しかしその嵐のような会談の中で、ペイジが、もし私が新しい本を彼以外に渡したら、「裁判所が決めることだ」という脅しを口にしたことは、私にも大いに関係がある。 ペイジがマクレランドを脅すための「はったり」でないなら、私には何のことかわからない(私を裁判にかけてペイジからしか本を出せないようにすると言うのか。そんなことができるものかという自負)。
私の次の本の文学的な内容に関して、いくつかのやりとりがあったが、1つは確かなことだと思う。私の手紙には私を縛るものは何もない。コピーを取っておけばよかったと思う。いずれにせよ私はこの本をアメリカ市場に出す権利をマクレランドに与えた。もしペイジが私に未知の支配力をもっているのなら、私にはそれなりの後ろ盾があるはずだ。 そうでなければあのような脅しをしないように教えなければならないし、あのような無神経な契約で大儲けした後で、そうでないならあんな脅しはやめさせなければならない。
マクレランドは、自分の会社のことについては、ヌーナンが私に言ったことを確認した。私はマックについていくつか問い合わせをしてみた。 マック・ファーのことを調べてみたが非常に評判がいい。しかしペイジはむしろ皆を震撼させた。 今夜はあまり眠れそうにない。 明日から大掃除だ。これから1ヶ月間、戦争とペイジの心配をしながらね。明るい展望だね。

1916年4月26日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
毎週新しい驚くべき、予期せぬ戦争のニュースがあることを確信できる。今週はアイルランドのシン・フェインの反乱である。当局はそれを掌握していると主張しているが、状況は険悪である。
世界が固唾をのんで見守る中、ベルダンの戦いは止むことなく続いている。ペイジは約束したにもかかわらず、まだ一度も手紙を書いていない。その沈黙の理由はマクレランドがインタビューについて述べたことを彼が書いて、そうすればペイジは彼が望んでいたことをすべて否定する機会を得ることができるだろう。
しかし、もし彼が先に書けば彼が有罪になるようなことを言う可能性がある。私の目には彼を有罪にするようなことを言う可能性がある。まあ私は書かないことにする。もしペイジが二股をかけているのなら、十分な縄を与えれば自分で首を吊ることになる。
マクレランド氏は私にアメリカの作家同盟に参加するよう勧めている。彼は言う。これは資本的な組織で、作家にとって大きな助けになるそうだ。そこで私は会員になることを申請した。ペイジが作家同盟に健全な敬意を抱いていることは理解している。作家との取引で何度か直面したことがある。

1916年5月1日(月曜日)
クトエイ・アマラはついに降伏を余儀なくされた。我々は以前からそれを予期していたが、しかしだからといって、私たちはこの事態を非常に残念に思っている。これはドイツ軍を刺激し 英国の威信に傷をつけるものだ 今夜は何もする気になれない。
ペイジはまだ一度も手紙を書いていない。彼の沈黙は私の神経を逆なでしている。何か企んでいるとしか思えない。私は夜も眠れないほどだ。
病院かサナトリウムに行くことになりそうだ。私はペイジが他の作家を心配させて、ペイジは少し前に彼の作家の一人を精神病院に入れるよう心配したそうだが、彼女もまた彼のいとこでもある。私は最近バーティ・マッキンタイアに手紙を書いて、バンクーバーの書店でペイジの立場を調査するよう頼んだ。彼女はそれに答えて調査をした。書店員たちは一様にペイジのやり方を非難している。
そして一人は、彼が賭博の借金を返したかどうかはっきりしないという情報を付け加えた。ギャンブルの借金を帳消しにしたなど別の情報源から、私は最近知ったことだ。ミルドレッド・ペイジは彼の二番目の妻で、最初の妻は彼と離婚していること。
彼は不道徳で悪名高いということだ。何とも気持ちの悪い話である。私は彼とは完全に縁を切るしかないだろう。もし噂通りの男なら私のためにどんなトラブルでも起こすわ。

1916年5月19日(金曜日)
リースクデールの牧師館
この日は私たちの小さな村の歴史上大変な日であった。冬の間アクスブリッジで訓練を受けていた第116戦隊がこの村を通過し、この村の少年たちの多くが所属する第116戦隊はこの町を行進し、正午にここを通過した。
私たちは彼らのためにいくつかのアーチを立て、果物をご馳走し演説を読んであげました。かわいそうな人たち。何人が帰ってくるのでしょう。ベルダンの大虐殺はまだ続いている。ドイツ軍は砦に近づいたが、その損失は甚大である。フランスも同様だ "デッドマンズヒル"死者の丘" は血で染まったに違いない。それでもイギリスは攻撃しない!神よ、この緊張はいつ終わるのでしょうか?

1916年5月24日(水曜日)
リースクデールの牧師館
月曜日ペイジ氏から待望の手紙が届いた。非常に長い手紙だ。彼はその中で私が間違っていると思うことをいくつか述べている。そのほかにもほとんど間違いなく不満を述べている。彼は私に、彼のセールスマンであるミスター・ペイジに個人的なインタビューをするよう頼んだ。
彼の(ペイジの)セールスマンであるMr.Mullenはトロントにいた。そこで私は火曜日に行って相談した。まずマック(カナダのマックレランド社の社長)と相談した。彼らはMullen氏とはかなり親密な間柄だと言っていた。マレンはとても素晴らしい人物で、彼は(ペイジの)やり方には我慢がならないので、契約期間が終わり次第ペイジを去るつもりだという。私はキング・エドワードホテルでマレンに会い長い間話をした。
最初に聞かれたのは次のようなことだった。「あなたは作家同盟のメンバーですか」という質問だった。どうやらペイジに言われて調べたようだ。私はそうだと答え、「マックを代理人に任命したので、マックに申し込まなければならない」と言って新刊の話は断った。私たちはいろいろな話題について長い間話し合ったが、彼が何も良いことを言わないのは明白だった。
彼はペイジの悪口は言わなかったが、別れ際に彼は言った。「他にお聞きになりたいことはありませんかマクドナルドさん?」
"ペイジのセールスマンには聞けません" と答えると、すると彼は「はい、ペイジさんのセールスマンに聞くのはフェアじゃないですね」と言うと、「いつか質問してくれれば答えますよ」と言った。
この言葉はマックから聞いた、マレンの契約が終わり次第ペイジを去るという意思のためでなければ理解できなかった。ペイジは契約で縛らない限りセールスマンを引き留めることはできないようだ。
もちろん、ミスター・マレンは、彼の答えがペイジに好意的でないことを意味していた。そうでなければ彼がすぐに質問に答えない理由はないだろう。さて、賽は投げられた。問題は神々の膝の上にあるのだ。

1916年5月25日(木曜日)
リースクデールの牧師館
私はペイジ氏に手紙を書き、私がマクレランドを私の文芸代理人に任命したことを伝えた。私の新刊のために彼らと交渉しなければならない。私は彼(ペイジ)に最初の交渉の機会を与えることにした。私はこのことを強く主張したのだが、マックはあまりその気がなかった(ペイジはあまり交渉しない方がいい男であろうと)。しかしペイジがそうでないなら(仮にもペイジにも公平さがあるのなら機会は与えるべきだ)、私は公平であろう。
私は最近の事実を考えると、彼と完全に決別したいのだが、彼にはすべてチャンスがある。
"悪いニュースだ" ベルダンではフランス軍が再びドゥアモントを失い、イタリアではオーストリア軍が壊滅的な打撃を与え始めた。イタリア軍は壊滅的な打撃を受けた
この春は記録的な豪雨に見舞われている。4月1日以来ほとんど毎日雨が降っており、また非常に寒い。例年のような美しい春の陽気はまったくなく、このため心配事や緊張、サスペンスに耐えるのが難しくなっている。最後まで耐え忍ぶ者は救われる"。
しかし、最後まで耐えるだけの力がない人はどうするのだろう?

1916年6月10日(土曜日)
この8日間にあらゆることが詰め込まれたように思える。可能な限りの感情を経験したかのようだ。言葉では言い表せないほど恐ろしいものだった。この戦争は私をゆっくりと殺している。フランスがヴェルダンの戦場で血を流したように、私も血を流しながら死んでいくのだ。ヴェルダンの惨状を目の当たりにしているのだ。先週の土曜日、ユトランドの戦い(ユトランド沖でのドイツとイギリスの海戦)の第一報が届いた。ドイツの勝利と発表された。
信頼できる友人から顔面を殴られたような気がした。そしてその衝撃は、月曜日に最初の報道はドイツの嘘であり、代わりにイギリスの勝利であったというニュースが入った時まで続いた。その間の日曜日のことは決して忘れることはできない。もしイギリス海軍が失敗したのなら、私たちは何を信じればいいのだろう? 
月曜の朝私はウィニペグでの総会に向かうユアンを駅まで送り、朝刊を見て安心した。火曜日には、オクストビー夫人と私はサンダーランドに向かった。W.F.M.S.長老派の会合に出席するためである。私は元気で出かけた。
グローブ紙が東部戦線でロシアの大勝利を報じていたからだ。しかし私の高揚感は長くは続かなかった。午後になって、キッチナー卿がオークニー諸島で死亡したとの知らせが入ったのだ。この知らせが私に与えた影響は言葉では言い表せない。ボーア戦争以来キッチナーは神としか思えなかった。彼は大英帝国の最も偉大な人物であり大英帝国の最も劇的な人物であった。彼の死に私は個人的な喪失感で苦しくなる。それ以来私は悪い夢の中にいるような気がしている。
キッチナーの死は、戦いの神が要求する最後の生贄であり、これからは流れが変わるのかもしれない......。

1916年6月17日(土曜日)
この一週間は心配の連続だった。私はあまり食べず眠らなかった。火曜日にペイジから手紙が来て、もし私が彼以外の誰かにこの本を渡したら、訴訟を起こすと脅迫された。この手紙は、彼の悪党ぶりを明らかにし、私がこれまで聞いてきたことをすべて裏付けている。
私は私が書いたものが、彼に何の拘束力も与えるとは思っていない。しかし私は自分の手紙のコピーを持っていない。無邪気に使った不用意な表現が、彼に法的請求の根拠を与える可能性はある。
その一方で、彼は単に「はったり」をかけているだけかもしれない。いずれにせよ彼は私を脅かすことはないだろう。私は今、最後の一歩まで彼と戦うつもりだ。しかし私の決意では彼の脅しを防ぐことはできない。
この一週間、悪夢のような日々が続いている。戦況は良好で、ロシア軍は進撃を続け、膨大な数の捕虜を奪っている。
総会は教会統合(長老派とメソジスト派の統合)に投票した。私は彼らがそうすることを期待していた。しかし私はこの件に関して苦い思いを抱いている。私は教会統合に賛成していない。だがユアンは違う、ユアンは賛成した。しかし全世界が引き裂かれたとき何が問題なのか? 
引き裂かれ、私たちの古い世界は永遠に過ぎ去ったのだ。
そこで人生の半分を過ごした私たちは、新しい世界で完全にくつろぐことはできないだろう。最近、書くときに手に嫌な感じ、奇妙な感じ、痙攣するような感じがするんだ。私は本当にひどく疲れている。新年以来私は常に心配か病気か、あるいはその両方であった。このままではいけないと思った。
金曜日に新しい本、「アンの夢の家」を書き始めた。私は冬から春にかけて、そのための材料を整えてきた。私はペイジの脅迫が頭をもたげ、執筆の楽しみはあまりなさそうだ。ああ、胸が痛くなる。
スチュアートは元気で活躍している。地元では "泣かない赤ん坊" として知られています。

日曜日の午後
1916年7月30日
私はベランダに座って、涼しい空気を吸おうとしているのだが、むなしい。子供たちは私の横で眠っている。スチュアートはバスケットの中で、チェスターはハム・モックの中で、二人とも暑さに苦しんでいる。7月はひどい月だった。
特にこの18日間は、一滴の雨も降らず、猛烈な暑さが続いている。こんなことは人生で初めてだ。この暑さは6週間も続いている私の病気のせいである。そのため生きることが重荷になり負担となり、すべてを台無しにしている。昨日は悪夢のような苦しみだった。
暑さのせいもあって 今日私は主に暑さのために苦しんでいる。ユアンも今月はずっと腕と背中にリューマチか神経炎がある。幸いなことに子供たちは今のところ元気だ。スチュアートはとても可愛い。――大きな白いラムネみたいで、大きな青い瞳がとても愛らしい。チェスターは成長している。最近彼のお気に入りの場所はゲートの柱(庭の門)にとまって通り過ぎる車やチームを眺めるのがお気に入りだ。彼は時間単位で座っている。よくぞこのような不快と苦悩の中でやれるものだ。
戦況は良好である。去年の7月と同じように私たちはどうやって生きていけばいいのでしょう。イギリスとフランスはソンム渓谷でまだ匍匐前進している。まだ目を見張るようなことは何もなく、(勝利の)旗を掲げることもできない。しかし着実に前進しておりドイツ軍の反撃も及ばない。
ドイツのどんな反撃でも抑えることができない。ロシアは素晴らしい活躍をしており、その復活はまるで奇跡のようだ。ベルダンの危機は過ぎたことのように思えるが、これまでにも何度も過ぎたことのように思えたのだ。
7月12日、私はペイジから訴訟を起こすという脅迫を繰り返す非常に意地の悪い手紙を受け取った。私はそれに返事をしなかったがもちろん心配はしている。その翌日、私はトロントに行き、私の本の入札に来たアップルトン社のジュエット氏に会った。彼はペイジが結んだ契約と比較して、私をあっと言わせるようなオファーを出してきた。
にわか仕込みの契約と比較して、あきれるほどの額を提示してきた。マック社にはオファーが殺到している。フンフン。私がアンをあちこちに売り歩いていたころとは大違いだ。
ペイジ氏はある手紙の中でこのことに触れ、他の出版社が私の本を断わったとき、私の本を引き受けたことを思い出してくださいと言う。まあ、私はそのことを憶えていた。しかし彼は私に同情して、あるいは配慮して、この本を引き受けたのではない。単に成功すると思ったから引き受けたのだ。その成功の確信というのは、彼の優れた洞察力によってその良さが見出されたからではない。
私はアンがペイジ社に受け入れられることになった経緯が最近わかりました。ペイジ自身は、この作品を受け入れることに強く反対し、断ろうと待っていた。しかしその時、彼のスタッフには二人の人物がいた。一人は島サイド、RE. 島から来たアーバックルさんだ。彼女はこの本の情景に興味を持ち、普通の読者が無名の作家の原稿に与えるよりも注意深く読んでいた。他の読者にもこの本のことを話し、興味を持たせた。
その頃、スタッフの一人だった若い男性(ハードレスとかいう名前だった)がこの本を気に入り、出版すべきだと主張した。ルイス・ペイジは、彼らの意見に屈してその本を受け取った。
このことを私が知っていることをルイス・ペイジは知らないし、彼のセールスマンの一人から内密に聞かされたので、私はそれで彼に反論することはできないので、彼の恩知らずという非難は黙って受け入れるしかない。
私はジュエット氏が好きだったし、アップルートン社は良い会社だ。彼の申し出を受け入れると思うが、この問題はまだ確定していない。私は先週ストークス社のドミニク氏にも会ったが、彼もいいオファーをしてきた。しかし私はアップルトン社の方がいいと思う。私はこの先も再び出版社を変えなくていいようにジュエット氏が言うように、「生涯のパートナー」を築きたい。
最近、"Little Colonel" シリーズの著者であるAnnie Fellowes Johnstonから手紙をもらった。彼女は20年間ペイジ社から出版していたが、最近ペイジ社を辞めた。もう一人の人気作家、ポリアンナで有名なポーター夫人と同じように、最近ペイジのもとを去った。
私はミセスJに手紙を書いて、なぜペイジを辞めたのかなどを尋ねた。その返事はこうだった。彼は彼女に対してできる限りひどい態度をとり、これ以上の条件を出すことをきっぱりと拒否した。そして彼女が最後の本を他の出版社に渡したとき、侮辱的な言葉を浴びせた。侮辱的な電報や手紙、訴訟の脅しなどを浴びせた。
彼女はこの男の正気を疑うほど、彼は自分の利益に反することばかりしている。この人は正気なのだろうか? この手紙が来る前に私も同じことを考えていた。私の7冊の本が適切に扱われれば、それなりの見返りがあることを思えば、本当に慰めになる。
このような無節操で執念深い男の手にかかると絶望的だ。ボストンでのあの訪問で、ペイジ氏に対して感じていた奇妙でしつこい、はっきりしない不信感は正当なものとなった。
出版社を変えて唯一残念なことは、私の本が二度ときれいに整えることができないことだ。
アメリカでは最高のブックメーカー(いい本を作る)だ。誰もがそれを認めている。

1916年8月1日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
どうりで日曜日は暑いわけだ。日陰では(華氏)98度(摂氏36.6度)だった 昨日は涼しい波が届き、今日は楽しい日でした。しかし私はまだ惨めである。今夜も頭痛がする。昨日の夕方私はかなり気分が良くなり、ルパート・ブルックの詩を読んで、貴重な時間を過ごした。とても素晴らしい詩だ。
彼の「巡礼者の歌」は、私がこれまで読んだ中で最も素晴らしいものの一つだ。偉大な詩人がレムノス島で死んだことを実感する。ガリポリの致命的な失敗の犠牲者である。彼の血の一滴は、フン族の血の海のような価値があった。
もし彼が若いときにそのようなことができたなら、成熟したときに何かできないことがあっただろうか。しかしカイザーと6人の息子たちは元気で暮らしている。だから世界は荒廃していないのだ。

1916年8月2日(水曜日)
今朝は早く目が覚め、いつものように再び眠ることができなかった。私は新年以来ずっと惨めに眠っている。私の神経はチェスターの病気のショック、冬の緊張、ベルダンでの苦悩から神経が回復していない。
眠れないので、マクミラン氏の手紙の束に目を通そうと席を立った。目を通したいと思っていたマクミラン氏の手紙の束を読んだ。どれも楽しいが、過ぎ去った世界、過ぎ去った日のものであるかのようだ。私は一日中とても惨めな気分だっが、ラズベリーの実がなっていたので、ラズベリーとチェリーの缶詰を作らなければならなかったので、「続ける」必要があった。

1916年8月8日(火曜日)
...今日の夜、私はちょっと不思議な体験をした。ある連載小説の最終章を読んだ。他の章はすべて33年前に読んであるものだ。ウェル・ネルソンがキャヴェンディッシュにいた頃、叔母が「Wide Awake」という雑誌を送ってきた。
キャピタ・ジュブナイルの「ワイド・アウェイク」。その雑誌が届いた最後の年に、ハリエット・プレスコット・スポフォードの連載小説「少女と宝石」が掲載されていた。私はそれを楽しんでいた。しかし残念なことに、その雑誌がなくなる前にそれはまだ完結していなかった。そしてその雑誌は小説が最も刺激的で劇的な場面で止まったのだ(送られなくなった)。何が起こったのか
"ルチア"の正体も、何があったのかもわからないまま。そして30年以上経った今、私は最終章を読みその謎を解いた。最近、あるきっかけで旧ワイドアウェイクの製本版4巻(雑誌の連載小説を本にまとめた物)を購入する機会があり子供たちに買ってあげた。
再読の楽しさ、喜びは語りつくせない。この不思議で不気味な喜びは、まるで過去へ旅するような奇妙で不気味なものだった。それはその内容が私の成熟した好みにとってさえ、なお文学的な味わいを持っていたからというだけではない。読んでいるうちに、私がそれらを読んだ当時の環境に再び戻ってきたように思えた。
私はキャベンディッシュの古い家に戻っていた。祖父と祖母、そしてデイブとウェルがそこにいた。青い湾がきらきらと輝いていた。トウヒとカエデが古い家の周りに密集している。果樹園は妖精に取り憑かれたようだった。モミの木には小さな遊び場が待っていた。
私は丘の上にある白亜の学校に再び行った。夏の夜にはサクランボが熟していた。すっかりと過ぎ去った世界が再び私の宇宙となった。私は不思議なことに本を閉じて、この本に戻るたびに、不思議なホームシックと不思議な気持ちになった。

1916年8月13日(日曜日)
リースクデールの牧師館
今週は忙しい一週間だった。月曜日は赤十字の講演会、水曜日はアクスブリッジへの旅行と宣教師会、木曜日は赤十字の講演会と宣教師協会への旅行、昨日は宣教師バンドの演奏と、忙しい一週間だった。そして毎朝2時間、「アンの夢の家」を執筆。
しかし私は唸りません。なぜならこのところ涼しく、一度だけ美しい雨が降ったからだ。慈愛に満ちた私は元気である。膀胱炎が治ったのだ。私の膀胱炎は、その行き方を示すような突然の出来事で消え、私は見事に眠っている。チェスターが生まれてから 1年半ぶり、いや、それ以上だ。ああ、もし私が本当に元気になって、元気でいられたら!......私はよく、あの時のことを思い出す。
......よく思い出すのは、去年の冬、3月のひどい晩に経験した不思議なこと。何時間も苦しんだ後、突然大きな安らぎが訪れた。私は、あの夜、勝利の天才はゲルマニアを離れ、連合国の手に渡ったのだと私は信じているし、これからもそう信じている。それ以来中央帝国は永続的な成功を収めず、いくつかの深刻な敗北を喫している。しかしまだ終わりではない。

8月19日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
...私は火曜日、トロントでこの長引く契約書作成の仕事をした。アンの連続出版の可能性が出てきて、本のあらすじを準備しなければならなくなった。それ以来、毎晩のように熱中して書いている。
午前中は本そのものを書いている。執筆は応接間で行っている。というのもその応接間には、この家でチェスター少年が開けられない唯一のドアがあるからだ。それに、この部屋は気持ちのいい緑色の夏らしい部屋だし塀の中も静かだというのも、私にとっては嬉しい効果だった。水曜日と木曜日は、腸の病気の発作で悲惨な状態だった。当然ながらその日は来客が姿を見せた。
ロシア軍はタルナポール高地を占領し、英仏は最近頓挫していた攻勢を再開した。攻勢を強めている。私はひどく疲れている。今10時半だが、3時間もあらすじを書いている。

1916年8月21日(月曜日)
日陰で100℃’(摂氏で37.7度)の酷暑が2日間続いた。昨夜は暑くて眠れなかった。
今日のガーディアン紙を読んで、ベイフィールド・ウィリアムズ夫人(イーディス・イングランド)が溺死したという記事を見て、私は強いショックを受けた。彼女は数人の友人と一緒にエドモントン近郊の避暑地にある湖でボートに乗っていた。突然のスコールに見舞われ、ボートは沈没し乗員は全員死亡した。
イーディスと私は、彼女とベイフィールドが西に行った後、音信不通になっていた。しかし彼女の悲劇的な死の知らせを見たとき、私の心に少女時代の愛情がよみがえった。私の心の中では私はかつてイーディスが大好きだった。優しくて心優しい少女だった。初めて会ったのは22年前の夏の日、私がエラズリー駅に降り立つと、彼女とベイフィールドが出迎えてくれた。
イーディスと私はその年ずっと仲良しだった。彼女の美しい家で何度も夜を共にし、互いの耳に限りない秘密を注ぎ込んだ。
少女時代の昔からの習慣でそして今、一人は連れ去られ、もう一人は......まだ残っている。かわいそうなイーディス! 彼女の少女時代はとても明るく幸せだった。裕福な家庭の一人っ子でとても幸せだった 私は彼女が羨ましかった。しかし結婚後の彼女の人生はバラ色ではなかったと思う。
ベイフィールドは放蕩三昧で、何度も経済的に破綻しそうになった。彼女の母親が、ビデフォードの古い家で一人で暮らしているのはとても残念なことだ。夫も子供も亡くして。"どうして昨日は帰ってこないの?"と
チェスターが聞いたの "なぜ昨日が来ないの?" とね。最も悲しく答えのない質問だ。

1916年9月2日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
この1週間は私にとって利益のない引きずり回しの1週間だった。私は元気がないようだ。I私は食欲がなく、何事も「陳腐化」している。ユアンもまた腕の神経炎にひどく悩まされており、その結果彼も私も睡眠不足になっている。
木曜日 Jas.マスタードの家に、アランが背中を撃たれたという電報が届いた。彼は数日間だけ前線にいたのだ。重傷かどうかはわからないそうだ。かわいそうなアラン。彼とウィルは、クリスマスの週にフレデがここに来たとき、ここで食事をしたではないかと自問したものだ。私は疲れていて役に立たないので、今のところどうなってもいいと思っている。

1916年9月4日(月曜日)
リースクデールの牧師館
ロシア軍はドニスターで重要な勝利を収め、フランス軍はクレリーを、そして英国軍はギルモントを占領した。いいニュース? そのために夫や息子を殺された妻や母親がこれをとても良い知らせと呼ぶのだろうか。
ユアンと私はその晩、村の老夫婦を訪ねた。老婦人は羽毛のベッドのように しなやかだった。優雅な人だった。写真やクリスマスカードを見せながら私を楽しませてくれた。天のマークを救え。確かに退屈な夜だった。
それにしても、あのよちよち歩きの面白くもないオバサンが、2人の息子を前面に出している。だから私は彼女に脱帽した。彼女は弱々しいかもしれないが自分の役割を果たしたのだ......。

1916年9月9日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
...今週は特に忙しかった。ユアンの兄アンガス・マクドナルド博士が住んでいるワルシャワに行く準備で今週は特に忙しかった。子供たちを連れて行かなければとても楽しみなのだが。しかしこのままでは、ただ恐怖を感じ、すべてが終わって無事に家に帰れることを願うだけだ。もう疲れた。
幼い二人の子供の世話を10日間もしたらどうなってしまうのだろう。どうしたらいいのだろう? チェスターも今週は調子が悪く、お腹の調子が悪くて食欲がない。去年の2月以来体調を崩したのは初めてだ。
暑い日が続いているが、私はいつも彼が病気になるのを恐れている。アンガスのところに私は行きたくなかった。でもユアンは行きたがっていたし、一人では行かないと言った。だから私は彼のために行くことにした。
イーディスは休暇を取り、私たちは家の戸締りをする。ワーナー夫人はダフに餌をやり(家の外でだろう)、植物に水をやる。

オンタリオ州トロント、ウォーカーハウス
1916年9月12日(火曜日)
今日、私たちは1時に家を出た。隣の家のワーナーさんが駅まで送ってくれた。私たちは午後の列車でやって来てここで夕食をとった。私はホテルで時々夕食をとるのが好きです。食の変化もいい。
スチュアートは高い椅子に座り、星のような大きな青い目とバラのような頬で、近くにいるすべての人の注意を引き付けた。誰もが彼を一目で気に入ったようだ。
チェスターは難しい年頃で、食卓できちんとした振る舞いをさせるのは難しい。悪い子ではないのだが、軽率でいたずら好きで、自分の思い通りにしようとする。我が道を行くという感じだ。 今、私たちは部屋にいる。ユアンは本を読み、チェスターは眠り、スチュアートはベッドの上で大はしゃぎしている。

1916年9月15日(金曜日)
インディアナ州ワルシャワ
戦争をしていない国にいることがとても不思議に思えるよ。私はここに来るまでカナダがいかに深く戦争しているか、戦争がいかに普通の状態になっているか、ここに来るまで分からなかった。街頭や公共施設に出かけるのも、不思議な感じがする。カーキ色の軍服も、募集のポスターも、戦況報告の掲示板もない。
このような光景を目にすると、私は故郷に帰らなければならないのではとという気持ちになる。それに、トロントの新聞がないのも寂しいですね。アンガスが取っている新聞はシカゴの新聞です。公式発表が少しあるだけで他には何もない。
チェスターは今日も調子が悪い。父や叔父とドライブに出かけている間に風邪を引いたようだ。私は彼が行っていることを知らなかったし、コートを着ていなかった。一人で後部座席に座らされそして、男のように彼のことをすっかり忘れて "逝っちゃった" のだ。
とても厳しい風が吹いていた。二人が戻ってくると子供は寒さで泣いていた。というのもゲートルを巻いていなかったので、その子の足は真っ青になっていたからだ。私はユアンに対して、少しばかり挑発的だった。
ワルシャワに行くことを承諾したとき、彼はチェスターの世話をすると約束した。そしてこうして彼は実行に移したのだ。それ以来チェスターは機嫌が悪くて食べません。食卓で騒ぐのでアンガスとイーディスは子供に疎いので、この子はとても気難しいと思ったようだが、半分は病気なのだ。元気なときは元気なんですよ。スチュアートも今日歯を抜いたせいで、うるさかった。私は家で仕事をするよりも大変な一日だった。
アンガスはとてもいい人だ。いろいろな意味で素晴らしい人だ。私は彼のことが大好きです。でもイーディスとは気が合わない。彼女はとても親切だ。毎日車で連れ出してくれたり手の込んだ料理をしてくれる。しかし彼女は家政婦のようなものだ。(少しでも汚されるのはゆるせない)
ホコリひとつで真っ青になる。だからスチュアートが床の上でビスケットを食べるのは、彼女にとって苦痛でしかない。彼女は魅惑的な眼差しで彼を観察し、最後の一切れを口に入れる前にほうきとダストパンを取りに行く。その結果私はいつも子供たちがゴミを散らかさないように悲惨な思いをしている。
今日の午後私は一人微笑むしかなかった。チェスターが窓から電車を眺めていた。彼が背を向けたときイーディスは飛び起きて部屋を横切った。ほんの少し押さえたカーテンの角を拾って、細心の注意を払って合わせた。そして殉教者のような表情で再び腰を下ろした。というのも、子どもたちは網戸をすぐに閉めないので、ハエが1匹や2匹入ってくるからだ。でもそれが当たり前になっているのだろう。
そのため、彼女はそのことをほとんど意識していません。それがどんな気分か彼女にはわからない。私がどう感じているのか彼女は知らない。私はこの家にいる間決して快適ではなく、安楽でもないのだ。スチュアートはどこにでも忍び込んでいくので、私は彼を追いかけまわして、いたずらされないようについていく。

私だけのルーフツリー
日曜日の夕方。1916年9月24日
私はここにいて、心から感謝している......。

1916年10月5日(木曜日)
今日、「アンの夢の家」を書き上げた。これほど短時間で、これほど心身に負担をかけながら本を書いたことはない。しかし私はむしろ楽しんで書いた。書いていて楽しかったし、それほど悪い作品ではないと思う。しかし終わってよかったと思う。この作品から私は多くのことを学んだ。ラップ夫人が今日の午後に来て、私たちはタグデーのための箱を作った。

1916年10月17日(火曜日)
先週の金曜日、マクレランドからの手紙の中に驚くべき知らせがあった。ボストン新聞の切り抜きで、ミルドレッド・ペイジが残虐行為と扶養義務の欠如を理由に夫との離婚を訴えているとの記事だった。私は信じられなかった。
6年前、私が彼女の美しい家に行ったとき、彼女はとても幸せそうだった。この6年間でルイス・ペイジは急速に落ちぶれたと思う。もちろん彼は昔から悪人だったし、ミルドレッド自身も、私が最近知ったように天使ではなかった。アニー・フェローズ・ジョンストンとマーシャル・サンダースの二人の間でページ家の歴史が語られていた。

1916年11月2日(木曜日)
最近、ローマン人はあるところでかなり前進しており、あるところでは前進し、あるところでは後退している。もう危機は去ったのだと祈るばかりだ。
我々の赤十字は今日6番街で会合した。私は落ち込んで行った。フレデから手紙が来て、彼女はクリスマスには帰れないと。家に帰り父(ジョン・キャンベル)に会うべきだと。私はあえてわが家への訪問を促すことはしなかった。
しかし、私は言いようのない不快感を覚える。この大変な一年の間、私を助けてくれたのはクリスマスにフレディが来たときに「全部話してしまおう」と慰める希望だ。
今日彼女の手紙を読んだとき、私の中からある種の美徳が消え去ったように思えた(もうフレデと言えども許さない)。私は赤十字社に行き縫い物をし、計画を立て、自動詞のようにしゃべった。私の魂はどこか別の暗い拷問部屋にいるようだった。

1916年11月11日(土曜日)
オンタリオ州リースクデールの牧師館
今日、私の詩集「The Watchman」(夜警)がカナダの出版社から届いた。とてもきれいに仕上がっている。私はこの本について大したことは期待していない。
マッケンセンはドブルジャでまだ退却しており、ルーマニア人はうまくやっている。

1916年11月16日(木曜日)
今日、マケドニア戦線でのセルビア人の大勝利という良い知らせがあった。しかしルーマンの状況は非常に悪い。そのことを考えると夜も眠れない。この1ヶ月は昨年春のベルダンの苦しみの再来だ。
勿論それほどひどくはないがほとんどそうだ。私はまたもう二度と、平静な気持ちで郵便を待つことができるのだろうか。この2年間、私は郵便が来るのが怖くてたまらなかった。この二年余り、私は毎日新聞が届くのを恐れていた。日曜日が来ると私はいつもとてもありがたく思う。
あの悪夢から解放されるのだから。しかし月曜日の朝には、その気楽さの代償を払うことになる。そのため、土曜日から月曜日までの長い間に、多くのことが起こっているかもしれない。
今日、バーティ・マッキンタイアの古い手紙を読み返した。バーティに会ってから5年半。それは大変なことだ。私にとって数少ない大切な女性だ。こんなに遠くに住んでいてめったに会えないなんて。

1916年11月24日(金曜日)
強風と雪のスコールに見舞われた荒涼とした一日であった。私は夢の家」4冊の添削を終えた。戦況は乏しいが、ロシアの援軍がルーマニアに到着したとのことである。この戦争では不吉な予感がするものだ。
私たちは今夜、あの風の吹く中第六に車を走らせ、「私たちの家族」の一人(長老派の信徒)と一緒に夕食をとらなければならなかった。それは実に陰気なパフォーマンスだった。

1916年11月30日(木曜日)
午前中、仕事をしようとしたが、何も考えられなかった。郵便物が遅れて苦痛が長引いた。
ドイツ軍はブカレストに迫っている。私は火曜日の午後と夜のことを決して忘れることはないだろう。この数ヶ月の間これほど苦しいことはなかった。ベルダンでの戦いでさえもだ。私は働くことをあきらめた。私はやるべきことをやり、その間は応接間に閉じこもり歩いた。
私は支離滅裂な祈り――答えのない祈り――をつぶやきながら、不安げに床を歩く。ブカレストが陥落するような気がする。
就寝時に睡眠薬を服用し、数時間のぐったりした睡眠と物忘れを得た。5時に目が覚めたが、もう眠れないので、ランプを点けて本を読もうとした。水曜に結婚式に出席するため、郵便物が届く前に出発した。私は話し、笑い、適切な行動をとったが、恐怖と心配が私の魂を苦しめた。暗いずぶぬれの、雨の夜を10マイル運転して家に帰り、新聞を見ることを自分に強制した。
悪いニュースだ。ルーマニア政府はブカレストを去ったのだ。そして私は二人の子供に服を着せてギルドの社交場に連れて行った。心も体も疲れ果てて帰宅し疲れて眠った。
今日、E.がいないので私は郵便物のために泥をかき分けた。まだ悪い。ロシア軍はキルズババ峠で反撃に転じたが残念ながら敗れた。弾薬がないようだ。
新聞を読んだ後、私は赤十字の会合に参加するために6番街に車を走らせた。午後はずっと縫い物をしていて疲れて帰ってきた。

1916年12月3日(日曜日)
リースクデール、牧師館
戦争のニュースは相変わらず悪いものだ。金曜日の夜イーディスと私はゼファーまで車で行った。私は赤十字のコンサートで朗読しなければならなかったからだ。私は膀胱炎の発作で、夕方までとても悲惨だった。帰りは真っ暗で家に着いたのは1時だった。そして朝7時に起きて、一生懸命仕事をした。でも仕事ができるのはありがたいことで、心を落ち着けて考え、計画し、実行することができる。
しかし私はいつもの日曜日の休息を失った。いつもはそこから次の週を迎えるための十分な体力と気力を得ているのだが、今日はそれを失った。とある場所で午後を過ごし、お茶を飲むように言われたのだ。行った方がいいという事情があったので、しぶしぶ子供たちを連れて行った。
心配と頭痛と退屈で、惨めな午後を過ごした。非常に疲れて帰宅したところ、ゼファーのある立派な老婦人が 1週間滞在することになった。別の時なら他の時なら気にしなかっただろうが、今私はとても神経質で心配性なのだ。ナーバスで心配性の私には、まさに「最後の藁」のように思えたのだ。

1916年12月10日(日曜日)
リースクデールの牧師館
カレンダーによると先週の日曜日から1週間、つまり今日で7日目であるが。私の魂は7年だと叫んでいる――この一週間は、私の心も魂もこれほどまでに老け込むことはなかっただろう。
先週の月曜日、私はどうやって朝を乗り切ろうかと思いながら起き上がり、郵便物が届いたらレースをしていた。ユアンが出社するのを見るまで私は仕事をするのを我慢していた。それからいつものようにボロボロになり客間に逃げ込んだ。
床を歩いた。あの応接間の絨毯の隅から隅まで、戦争が始まって以来、私が歩き回った道が出来ているはずだ。ユアンはグローブ紙を持って戻ってきた。氷のような手、青ざめた唇、震える指。
私はその新聞を手に取り目を見張った。信じられないほど良い知らせだった。マッケンセンの軍隊はブカレストの南で追い返され大敗した。新聞は歓喜に沸いていた。ブカレストはパリと同じように11時に救われるはずだ、などと書いてあった。
私は、自分の部屋に逃げ込みひざまずいて神に感謝した。その日は比較的平穏に過ごせたが、火曜日の朝起きると気分は最悪だった。その日はとても退屈で、どんよりとした一日だった。郵便を待つ苦痛をまた味わわなければならなかった。(新聞を郵便で購読していたのであろう)前日のニュースが悪いものであった場合よりもさらに大きな苦痛であった。そのあとその短い拷問からの休息後、再び棚に張られることを恐れるのは耐え難いことだった。
しかし、"動く指" は書くのだ。人間の苦悩のために後戻りすることもためらうこともない。新聞が来てニュースは最悪だった――ドイツ軍は再びブカレストに迫っていた。ギリシャのコンスタンティンは連合軍を翻弄した。イギリスでは戦況の悪化により、ついに内閣の危機が訪れ、アスキス政権はその危機を回避するために崩壊してしまった。
私は恐ろしい午後と夕方を過ごした。そして私は自分の苦しみを表に出すこともできなかった。私はその兆候をすべて抑えて、ロッキー夫人(家に滞在していたゼファーの老婦人)を連れて布教活動に出かけなければならなかった。私はそこに座り女性たちが集会が始まる前に地元の噂話をしている間、私はそこに座っていた女たちは、まるで戦争など知らないかのように、集会が始まる前に地元の噂話をしていたが、私は何のサインも出さなかった。
私は次年度の役員が選出される間、「議長」を務め、冷静さと迅速さをもって議事を進めた。私は「ミッション・スタディ・ブック」の長大な論説を読んだが、自分が何を読んでいるのか一字も分からなかった。そしてその後、村の女性たちと一緒に家に帰り、無害なゴシップを話した。もちろん、牧師の妻に許されるような無害なゴシップである。
笑顔でお辞儀をしてその場をやりすごした。そして私の心の中では、私の魂は棚からぼた餅のようだった。私はお茶を飲み干すと、その晩は蓋をするため(平静を装うため)に腰を下ろした。私は座って編み物を編み、L夫人と話し、彼女の話に耳を傾けた。彼女は流暢な話し手で、たとえ偶然であっても言うに値する言葉、聞くに値する言葉を口にすることはない。私の知らない人たちのことを話してくれた。その人たちは誰と結婚し、どこで生まれ、何人子供がいるかとかである。
ユアンは採用会議で留守だったので彼女の話を聞いてくれる人は誰もいなかった。私は顔の筋肉で微笑み、舌で音を出すように強要した。頭を回転させながら、思考を苦しめる鋭い一点に突き刺さり逃れられなくなった。私はブカレストを救うために、奇跡も含めてあらゆる可能性を考えたが、何の希望も見出せなかった。そしてL(滞在しているゼファーのロッキー婦人)さんはこう言った。どうしたんですかと。この人には本当に驚かされた。
戦争のニュースは火星の王国の争いと同じように、彼女には何の影響もないようだった。彼女は「どうしたんですか」と聞くので戦争の状況を言うと「大変なことだ、悲しいことだ」と答え、それから瞑想にふけり伝記を読みふけった。
もしこのようなことが、私にはない幸運な心の強さの結果であったなら、私は彼女を賞賛しうらやんだことだろう。しかしそのようなことはない。ただ聞き取れないほどの無感覚と無関心だったのだ。そしてもし彼女が、私がその冷静さの下に隠している感情の揺らぎを察知していたら彼女は私が狂っていると思ったでしょう。なぜかというとブカレストは何千マイルも離れていたからだ。

蓋が飛ぶ前の私

何千マイルも離れている! ドイツ軍がそこで何をしているかなんて気にする必要はないだろう。しかし、とうとう寝る時間が来たので、私はありがたくもL夫人を予備室に預け自分の部屋に逃げ込んだ。その時蓋(表面的な気取りの顔)が飛んでしまった。私は神経衰弱になった。一日中自制していたせいだ。私は乱暴に泣いた。それが終わるとしかし、2時になると頭痛で目が覚めた。また眠れず、横になって強風が雨戸を叩き窓を鳴らす音を聞いていた。
水曜日はまたルーマニアから悪い知らせがあり、ギリシャからは何の知らせもない。私は一日中ひたすら働き、夕方には教会で行われた赤十字の講演会に出かけた。教会の赤十字の講演会である。私は真っ白な目で絵を見ていた。フン族がルーマン(ルーマニアはローマ人の国と言う意味でラテン系の種族である)の首都に迫っているのが見えるだけだった。(ドイツ軍をヨーロッパを荒しまわったフン族に例えている)
何人かの兵士が出席していて、講演の後、彼らは勧誘の演説をした。コックバーン大尉は少年のような顔をしていた。コックバーン大尉は、昨年の春に兄が「フランスのどこか」で殺され、演説をした。彼は戦況を非常に暗く描いていた。私の理性ではルーマンの逆鱗に触れたとはいえあまりに陰鬱な話である。
おそらく戦争に勝たなければならないと思いがちな、消極的な新兵を奮い立たせるためにわざとそうしているのだろう。しかし理性は、今の神経状態の私を助ける力は小さい。コックバーンの演説は私が耐えられる限度を超えているように感じられた。しかしその夜はよく眠れ、疲れ果てて積極的に訴えることもしなくなった。
そして木曜日にはブカレスト陥落の知らせが届いた。その日の午後、私は絶望の淵に立たされたような気分だった。最悪の事態の確信さえもサスペンスの恐怖(いいか悪いか迷っている状態)よりは耐えられる。
そしてロイド・ジョージはイングランドの首相――大英帝国の支配者だ。それを実現するためにルーマンの危機が必要だった。これ以上のことはない。ウェールズの法律家の足が、イングランドの貴族の首筋にかかることになったのだ。おそらくだからルーマンの災難は永遠の会議で定められたのだろう。
神々は間接的な手段でその目的を達成しなければならないようだ。私はロイド・ジョージは英国が生んだ偉大な人物の一人であると信じている。誰であろうと敗北の顎から勝利をもぎ取ることができると信じている。
さて、このような時代に生きることは、苦悩にもかかわらず、何か意味があるような気がする。木曜日の夜、私は何時間も眠ることができなかった。バルカンの情勢に翻弄され眠れなくなった。ギリシャのコンスタンティンを生きたまま皮を剥ぐことができればと思った。
私は目覚めた。早く起きてランプを灯しワーズワースを読んだ。古典的な静けさと安らぎと彼の詩の美しさは、宵の明星と同じように、この世界とは関係がないように思えた。
金曜日は、ほとんど何のニュースもなかった。エラ・キャンベル(Ella Campbell)から手紙が届いた。私にちなんで名付けられた新しい女の子の赤ん坊のことを教えてくれた。私の名前は今6人の名前がある。(6人に私にちなんだ名前が付けられた)
昨日はギリシャがゲルマン側に付くという心配な噂が流れた。しかし今は妙に落ち着いている。善かれ悪しかれ戦争のクライマックスが過ぎ去ったかのように。
(我が家に滞在していたゼファーの)ロッキー夫人は今日帰った。かわいそうに...。楽しい時間を過ごしたと言っていた。そうだろうな旧友にも会えたしね。
私の家での滞在を楽しんでもらおうとした。この一週間が私にとって最悪のものであったのは、彼女のせいではない。私の不安や心配を隠すことができてよかったと思う。でも、もしまたこのような一週間を過ごさなければならなくなったら、L夫人の前で体裁を繕わなくてすむように。私は祈るばかりです。(この様な緊張があるときに、すました顔をしているのは苦痛だ)

1916年12月13日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
今日の日付は大文字で書くべきだ。今日、Grmanyが和平を申し出てきたという知らせが来た。つまりルーマニア(との和平)ではあるが、ルーマニー作戦とはいえ、もう限界に近いと悟ったということだろう。ここまでは良いニュースだ。それ以外については何の意味もない。連合国は彼女がぶら下げた縄に頭を突っ込むほど愚かではないだろう。彼らはそれほど狂っていないと確信している。
しかしロシアには常に暗い可能性があり、だからこのニュースは私を動揺させた。このニュースには世界も動揺している。地球上のすべての株式市場はその衝撃で震え、揺れ動いた。
この衝撃でマッケンセンについては、彼はまだルーマニアで前進しているが、もっとゆっくりである。
ギリシャから恐ろしい噂が伝わってくる。コンスタンティンは動員している。しかし連合軍の封鎖は、彼の頭に勇気を叩き込むと思う。

1916年12月16日(土曜日)
今日、我々はいくつかの素晴らしいニュースに接し、いつもの悪い知らせを相殺した。最近の災難の食事に苦味を加える勝利の味だ。フランス軍はベルダンでまた大勝利を収め、敵を1万人捕らえた。
ドゥアモンとヴォーは再び彼らの手中にある。ああヴェルダンよ、きっと新しいあなたを歌うホメロスが現れるでしょう。トロイはあなたに比べれば何だったのか? イギリス軍はメソポタミアにも進出している。
昨春のクトエルアマラの災害以来、寂しい沈黙が続くだけだ。ギリシャは...同盟国(ドイツ側)の要求をすべてのむそうだ。しかしマッケンセンは ブゼウを占領した。ルーマニアには不吉な勝利だ
今日、マックレランド社から手紙が届いた。フレデリック・ストークス社が私の本を手に入れた。(マックレランド社はモンゴメリの本とそれを受ける出版社との仲介をしていた)これは最善と思われたが、アップルトンとの契約が決裂したことに少し落胆した。アップルトンのディッカーが決裂したのは少し残念だ。彼らはマックとの間でカナダ版については、マックとの間で条件が分かれた。私は彼らに本を渡すことを主張することはできないと思った。
マックがあれだけ気前よく契約(条件を出した)してくれたのに、本を渡せというのは無理だと思ったので、ストークスに渡してくれと言った。もちろんストークスの地位はアップルトンズと同等で彼らも同じ条件、定価の二十パーセントと前金印税五千ドルという同じ条件だった。(前金は第一次世界大戦当時の価値で2500万円に相当し、モンゴメリはかなりおごった作家になっていたと言える)
ロイヤリティの前払いだ。このような条件を出されるとかえって怖くなる。このまま書き続けてもいいのだろうか?このままでいいのだろうか。私はいつも、自分が「書き逃げ」される(あとで印税を払ってもらえないこと)のではないかという恐怖にとらわれている。マックは「アンの夢の家」について熱烈に書いている、とてもいい作品だと。記録的な売れ行きになるに違いないと言っている。(夢の家には悲劇が入っており、その様な話が読者に受けると思われたのだろう)

1916年12月18日(月曜日)
...Fradeが...キリストのためにやって来る。感謝していると言うだけでは不十分なようだ(ああよかった、フレデに不満をぶちまけられる)。彼女が来てくれないと、私は耐えられないような気がしていた。でも戦争の知らせの場合と同じように、そのときなら耐えられるとわかったのだろう。そうしなければならなかった(何があっても平静な顔をしていなければならない)。しかし慈悲深いことに、私は試練を免れることになる。彼女はやって来る。
数日前まで若さを失っていたとは思えない。それから、今夜ユアンが長老院から帰ってきて、夕刊を持ってきた。イギリス軍が再びクトに迫り、ルーマニア軍はセレス川の向こうの安全な場所にいるとのことだった。後者が確認されれば非常に良いニュースである。

1916年12月20日(水曜日)
起床して、まだとても疲れていたので、イーディスと私はUxbridgeに車を走らせました。ロイド・ジョージの首相としての最初の演説は、世界中が息を呑むほど待ち望んでいた。
今日新聞に載った。これほどまでに世界中の国民が待ち望んだ演説は、かつてなかったことだろう。演説はそれ自体満足のいくものだ。カイザーはきっと苦い顔をするだろう。その他に重要な戦争のニュースはなかった。

1916年12月21日(木曜日)
今日、すべての新聞が怒りの白煙を上げていたのは、あのとてつもない老いぼれ、ウッドロウ・ウィルソンが、あの大バカ者のウッドロウ・ウィルソンが戦争当事国に和平交渉を持ちかけたからだ。彼らは自分たちの犠牲を救えるかもしれないのだ。彼は藁の男で(軟派だという意味)注目する価値もない。連合国はいずれ彼を窮地に追い込むだろう
残念なことに、いまは本を読む時間がほとんどない。私は何年も前に、この本が最初に出たときに読んだ。しかし今回私はこの本を読んで魅力的だと思った。しかし戦前に書かれたものは、今見るとなんと不思議な遠さだろう。まるで『イーリアス』のような古代の古典を読んでいるような気がした。(平和で安穏としすぎているという意味か)

1916年12月24日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
金曜日は特に戦争のニュースはなかった。夜には恒例のクリスマス・コンサートがあった。子供たち2人を連れていったので、私が世話をする必要があった。
イーディス(うちのお手伝い)が出演者だったので(私の子の世話ができず)、大変な夜になると思っていた。しかしスチュアートもチェスターも(行儀が)よかった。彼は外出先でも、プログラムが進行している間は静かにしていないといけないと分別がつくようになりました。
だから、私はとてもうまくいった。昨日は戦争のニュースがあり、しかしロシア軍はまだDobrudjaで退却している。
しかし、この週の傑出した出来事は、昨日フリーデが到着したことだ。私たちは夜の2時まで話し込んで、まさに打ち明け話に花を咲かせた。もちろんだ。その結果今日はかなり腐った気分になってしまったが、こんな良い理由で後悔する人がいるだろうかってなもんです。フレデりーカ・キャンベルがここにいる間、私は本当の休暇を過ごすつもりだ。何もせず、ただ楽しく過ごす。私はルーマンの苦悩(ルーマニア戦線の危機)が、彼女が来る前に終わったことに感謝している。今だったら、私たちの訪問(再会)は台無しになっていただろう。

1916年12月25日(月曜日)
リースクデール、牧師館
天気に関しては、理想的なクリスマスの一日だった。私たちは家庭的な楽しい時間を過ごした。朝にはクリスマスツリーが飾られ、チェスターは大喜びだった。私たちはおいしい夕食を食べ、たくさんの楽しい話をした。

1916年12月31日(日曜日)
木曜日、フレデと私はゼファーに行き、リリー・シェアーと一日を過ごした。――土曜日はフレデとWickまでドライブして、牧師館で楽しく一日を過ごした。確かに女王のような天候に恵まれ、ルーマニアからの戦況は依然として悪いままだ。
こうして1916年は幕を閉じた。振り返ってみると、私の人生の中でこれほどまでに肉体的にハードな1年を過ごしたのは初めてである。これほど肉体的に、いや精神的にも最初から最後まで大変な一年だった。私がそのことに気づいたのはチェスターの病状を心配する苦悩の中で始まったからである。
1月2月にはユアンが6週間の気管支炎になった。3月になると、私は乳腺炎の恐ろしい発作、スチュアートへの不安、そしてベルダンでの最悪の苦しみがやってきた。そしてペイジへの不安と、トレンティーノでのオーストリアの攻勢への不安が続いた。ユトランドの戦いとキッチナーの死が報道された後、夏には膀胱炎に悩まされほとんど快復することがなかった。そして秋には、ルーマンの惨事が起こった。1916年は実に黒い年であった。
1917年はどうだろう。地獄が地上に現れてから今年で3年目になる。きっと――きっと、戦争の最後の新年になるのだろう。私はそれを恐ろしくて待ち望んでいる。確かに恐ろしいこともあるだろう。そしてその心配はまだ続いている。ページは6月に訴訟を起こすという手紙が来てから、クリスマスの直前まで何の連絡もなかったが、ある日突然手紙が来た。
私はそれを開くと、とても冷たくなった。しかし驚いたことに、それはジョージ・ペイジ(ルイス・ページの弟)の署名入りの非常に上品な手紙だった。ジョージ・ペイジの署名入りだが、内部証拠から分かるように、ルイスが口述筆記したものだった。ロイヤリティの前払い小切手を同封していると書いてあった。
印税の前払いを同封すると書いてあった。さて、その昔私がページ社と最も友好的な関係にあった頃、私が要求しない限り彼らは印税の前払いを送ってくることはなかった。私はこの作戦の背後にあるものをはっきりと知っている。
ペイジは、私の本がまだどの会社からも発表されていないので、彼の脅迫が私を遠ざけたのだと考えている。ペイジが私を脅したことで私が(別の社での)出版を思いとどまったか、あるいは出版社を見つけられなかったのだと考えている。
そこで彼は、もしこの素敵な「ピースノート」を送れば、私が彼に戻って新しい本を渡すかもしれないと考えたのだろう。
小切手を受け取った私の素っ気ない、ビジネスライクな態度は、彼をあまり勇気づけないだろう。――ということになる。しかし前述したように、彼の態度が気になる。それでも1916年の夜明けに比べれば、事態はずっとよくなっている。
チェスターはバラ色の太った頑丈な男で、健康を絵に描いたような男だ。スチュアートも歩けるようになったし、それを面白おかしく自慢している。夏と秋の間よりもずっと体調がいい。だから1917年は前年ほど神経質になることはないだろう。しかし、私は「新年おめでとう」と言われるのが嫌いだ。神様の誘惑のような気がして。

1917年

オンタリオ州リースクデール、牧師館
1917年1月5日(金曜日)
今日、『Every woman's World』の編集者から面白い手紙をもらった。少なくとも、私には面白かった。私は最近、彼らの依頼で「私の文学者としての経歴」の物語を書いたが、私はそれをそう呼ばなかった。「アルプスの道」と名づけたのだ。30年以上前にポートフォリオ(覚え書き帳の書きつけ)に書いた小さな詩をモットーにしたものだ。
その一節は、古いゴディーズ・レディーズ・ブックに掲載された短い詩 "The Fringed Gentian" の一節である。作者の名前を知っていたかどうか忘れてしまったが、この詩は決して忘れていない。文学としてはしかし、私自身の魂の中にある落ち着かない夢や欲望を表現したものとして、私には完璧に思えた。私は、この詩の最後の一節を、心の奥底まで響かせた。
 
     そして、汝の眠りの中で、花よ、囁け。
     どうしたら上へ上へと登れるだろう
     険しく険しいアルプスの道を
     崇高な高みへと続くアルプスの道を
     どうしたら、あの遥かなる目標に到達できるだろう
     真の名誉ある名声の
     その輝く巻物に
     "女性の謙虚な名"を
 
私が落胆して落ち込んだとき、その闘争の初期のころに、この詩を繰り返し読んだ。この詩の中に私を新たに奮い立たせ、「遥かなる目標」へと再び誘う何かがあったのだ。
 私の羊の話に戻ろう。
 "アルプスの山道" (ザ・アルパイン・パス)を送ったところ 編集者から手紙が来て 気に入ったようだが、私の恋愛に関することが書かれていないと。"私の恋の悩みは" 彼は私の恋愛に興味がある、私の苦悩と情熱を「憧れのカナダ人女性」に伝えるために、情熱のままにさらに1,000語を書かないだろうか。
なんてことだ!もし私がそうするとしたら!? 後編の当事者」が『Everywoman』を手にしたら、どう思うだろうかと想像すると、微笑ましくなる。
もし、「女の世界」を手に取り、私との「情事」を冷徹に語る記事を読んだら、「後編の当事者」はどう思うだろうかと想像すると微笑ましい。しかし彼らの妻たちがどう思うかを想像すると、私は微笑めない。

親愛なる国民は、この特殊な(色恋に関する)ネタなしでやっていかなければならない。私はその編集者をはっきりと拒絶した。その編集者に、私は神聖な屋城の扉を開いて群衆の視線を浴びさせるような人間ではない、とはっきりと告げたのだ。
しかし私は、自分の楽しみのために、私のすべての「恋愛関係」を、少なくとも可能な限り率直に書き記すつもりだ。もしかしたら私の孫や曾孫がそれを読んで、「そういえば、おばあちゃんは細くてしわくちゃだったね」と言うかもしれない。
(モンゴメリの)私のおばあちゃんは薄くてしわくちゃで、小さな白髪の体で、いつも暖かい隅っこに座っていて、ハグハグしてくれる人だった。
もし私がおばあちゃんになったら、本を読んでばかりいることだろう。(私は本を読むことと、かぎ針編みをすること以外は何もしないつもりです!)。きっとこんな恋の物語をして本当に生きていたはずがない。
そう、まだ生まれてもいない孫たちよ、私は生きていたのだ。私はいつも年老い、白髪で、ハグハグしていたわけではないのだから。私も昔は若くて茶色い髪でレースとジョーゼット・ドレスを着て、シルクのストッキングを履いていた。そして(女である)敵には浮気者と呼ばれ(女である)友には「モードらしい」と言われた。(やはり同じ意味)
さて。12歳か13歳か、どちらかはっきりしないが、初めて恋をしたのはその時だった。恋に落ちたのは。ある夜キャベンディッシュ・ホールで、盲学校を卒業した3人の音楽家によるコンサートがあった。ハリファックスの盲学校を卒業した3人の演奏家によるものだった。そのうちの一人がチショルムという背の高い細身の青年で、小さな金色のひげを生やしていた。
天使のような顔で、天使以上の歌声だった。彼は何曲か歌い、私は客席から彼を見上げて、すっかり心を奪われてしまった。そのとき、私は初めて、とても不思議な感覚を覚えた。ロマンティックな憧れ、未知のそしてほとんど恐ろしいほどの甘美さを。それは私のヒーローが盲目であることはまったく問題ではなかった。彼は完璧であり、それこそが愛だった。
家に帰ると、もう二度と会えないと思うととても耐えられない。世界が急に大きく寂しくなった。私は彼のことを一週間ほど考えて、それから忘れてしまった。
それから15年後、ハリファックスで私は彼の未亡人に会った。彼女の夫は最近亡くなったばかりで彼女は心を痛めていた。私の若い頃の空想が描いた通りの人だったようだ。私は微笑みながら、ご主人は私が初めて出会った男性だと言うと、彼女は悲しげに笑い、彼を知る人は皆、彼を愛していると言った。だから私は自分の処女の情熱を不当に捧げたわけではない。
その経験を「愛」と呼ぶのは馬鹿げているように思えるが、強さと持続性を除けば、あの晩に私が感じたものは、「愛」ではない。その晩、若い歌手の青白い霊的な顔を見つめ、彼のスリリングな歌声を聴きながら感じたことは、その強さと持続性を除けば何も変わらなかった。
その夜、若い歌手の青白い霊的な顔(横鬚があるにもかかわらず、本当に霊的だった)を見つめ、彼のスリリングな声に耳を傾けたときに感じたことは、後年の同様の感情と何も変わらなかった。
しかしその夜、私は人生の神殿の敷居をまたいだが、内陣には入りこまなかった。
私が15歳の時、15歳の少年が私に言った。「君を愛している」と。ネイサン・ロックハートと私は一年来の親友で、お互いに知的な共通点を見出し、その共通点を生かすことができた。キャベンディッシュの他のどこにもない知的な親和性をお互いに見出していた。
私はネイトが友達として好きで、彼が私の後をついてきて、ホールから「家まで見送る」のが好きだった。他の女の子たちが嫉妬に狂うほどであった。彼女たちがネイトを欲しがったからというわけではないが、彼女たちはバプテスト派で、私は長老派だった。
彼女たちのライバルの宗派である私が「バプテストの牧師の息子」にかまったということで激怒していた。

本当に楽しかった私はミンクス(男殺しの浮気ガキ)だった。残念だ。しかし私はネイトのことを、友人として以外はまったく気にしていなかった。私はロマンチックになりたかったし、そうしようとしたし、彼の熱烈な手紙に応えて、ラブレターも書きました。
彼は日曜日の午後、上品な牧師館で退屈な時間を過ごすために手紙を書いていた。しかし、彼は私にとって何の意味もなく、何の力もないことに変わりはない。感覚的にも心にも。彼の記憶は、個人的には私にとって何の意味もない。しかし彼は私に「愛している」と言った最初の男性だった。
女は最初にそう言った男のことを決して忘れない。男としての彼は彼女にとって何の意味もないかもしれない。男としてならともかく(初恋の)象徴としてなら他の誰よりも大きな意味を持つ。
1890年に西部に出たとき、私はどうしたらネイトとつながっているクモの巣のような絡み合いから解放されるのだろうと思い始めていた。彼は少年のように恥ずかしそうに、「大学卒業後のこと」を話していた。
そして私は彼の妻になるのだ。私は「イエス」とも「ノー」とも言わなかった。私は心の中ではノーだった。でもそれを言って彼の気持ちを傷つけるのは嫌だった。私がいなくなると、彼はとても嫌な気持ちになるとゴシップで言っていた。でも彼は大学へ行った。私たちはしばらく文通をしていたが、年月が経つにつれ手紙のやり取りは次第に冷え込んでいった。頻度も少なくなっていった。
私たちは忘れていたのだ。少なくともネイトは、私たちの間に芽生えた微妙な関係を再開しようとはしなかった。もし私がもっと冷静でわざとらしいほど友好的でなかったら、そうしていたかどうか私にはわからない。
どうでもいいことです。どういうわけか私はネイトとの情事を考えたくないのだ。なぜかというとよくわからないのだ。とても無邪気で無害なことだった。おそらくかすかな肉体的反発があり、(奴の体質はどこか気にいらない)それは肉体的であると同時に精神的なものであるように思われる。
二人きりになったとき、私はいつも多かれ少なかれ意識していたのだ。それが無意識のうちに私たちの友情の記憶を彩り、今に影響を与えているのだろう。そしてそれはたとえばアマンダという第三者が一緒にいるとき、私は完全にくつろぐことができた。
アマンダという第三者がいるときは、私はネイトにすっかりなじんで、一緒に笑ったり話したりするのがとても楽しかった。しかし二人きりになった途端たとえそれが田舎道をのんびりと歩いているだけであったとしても。気分が悪くなり、逃げ出したいような気持ちになった。それは恥ずかしがっているからではない。
ネイトには決して恥ずかしがったりはしなかった。それは単に2つの性質が不協和音を奏でているだけで、それを調和させる第三の存在が必要だったのだ。もし偶然にもネイトと私が結婚していたら悲惨なほど不幸になっていただろう。
ネイトはイケメンではなかった。背が高く、巻き毛で、顔色が悪く、緑がかった灰色の瞳がいたずらっぽく光っていた。しかしでもときどき、とくに私がよく覚えている帽子をかぶっているとき、彼ははっきりとした外見を持っていた。
他のC(キャベンディッシュ校)校の生徒で、他のハンサムな少年たちを、むしろ平凡で "田舎者" のように見せていた。彼はとても頭がよくて、歌声もよかった。魅力は全くない。(情熱的ではなく、冷たく細い頭脳派のような少年だったのか)
魅力がないのだ。しかし知的にはとても楽しい仲間だった。彼の手紙のほとんどは、私の古いトランクにリボンで結ばれたまま残っている。
時々取り出しては読んでいる。いつもあの頃が鮮やかによみがえる。ネイトの写真はない。残念だ。
Nateは西部の町、サスカッチワン州のEstevanで弁護士をしている。だと思う。彼の才能を考えるとそれほど出世しているようには見えない。彼はハリファックスのミス・サンダースと結婚した 彼女のことは名前以外聞いたことがない。

時々、ネイトが私の文学的成功にお祝いの手紙をくれたかもしれないと思うことがある。昔はよく彼と私の願望を話し合ったものだ。でも彼は一度もそうしてくれません(私はいつも、ネイトは、私が彼を私の人生から遠ざけてしまったことを少し恨んでいる)と感じていた。
彼の虚栄心は少し苦しんでいたように思う。そういえば彼は一度私に言ったことがある。私が「非常に優れた知性」を持っているので、もし大学で学ぶことができれば、文学の世界で成功できるかもしれない、と。
そして私はプリンス・アルバートへ出かけた。その冬、私は16歳で、まだミンクス(浮気性のガキ)だった。哀れなジョン・マスタードもそれを証言してくれた。プリンス・アルバートの笑いものにされた。それでも自分を利用する女に執着する男相手にはミンクス(男の気を引く浮気女)になる資格がないのだろうか? そうだろう? 私はそう思う。
私はマスタードがなぜそれに耐えたか理解できない。私は可愛い女の子だった。しかし私は、男が私の顔のために夢中になるような気が散るような美人ではなかった(華やかな顔ではなかった)。他に男を惹きつけようとしたこともなかった。
それでも彼は、きっぱりと断られるまでは狂ったように追いかけ続けた。しかしこの恋人にまつわる楽しい思い出は一度もない。私はいつもこの出来事を奇妙に恥ずかしく思っていた。マスタードは不器用で恥ずべき恋人のようなものだったからだ。
一方、私はウィリー・プリチャードと手をつないでいた。私はウィリーが好きだった。今まで付き合った人の中で一番好きだった。彼は決して知的ではなかったが気の合う仲間だった。私はいつも一緒にいると落ち着いたのだ。しかし私は彼に少しも恋をしていなかった、感情的にさえも。彼は18歳の少年が抱くような深い愛だった。私たちは6年間文通を続けたが、最初は熱烈だったが次第に冷淡になり、ついに彼の死の前年には、手紙はほとんど来なくなったが、とても親しかった。
ウィリーは私を友人としてしか思っていなかったのだろう。他の女の子と付き合ったという話は聞いたことがない。でも、PA時代、ウィルはずっと私の騎手だったけれど、私にはある傾向があった。
その年P.A.にいたバーウェルというイギリス人の青年に、感傷的なそして隠れたある傾向があった。私は彼に一度も会ったことはないが、多くのコンサートで彼の歌をよく聞いた。彼のまぶたには何か興味をそそられるものがあった。私が恋をしていたのは、間違いなくその瞼だった。私の片思いは少しも苦にならなかった。
ウィルと楽しい時間を過ごし、ジョン・マスタードを苦しめることを少しも妨げなかった。ジョン・マスタードを狂気寸前まで苦しめた。こうして私たちは作られたのである。
次の冬、私はパーク・コーナーにいた。レム・マクラウドとエドウィン・シンプソンは二人は文学クラブの会合から私と一緒に帰ることを切望していた。私はエドウィンが私を置き去りにしてレムと一緒に帰るまで、エドウィンをけなした。しかしその間ずっと私はアーヴィン・ハワットに恋していた。
ロマンチックな情熱を抱いていた。それは今までのどの恋愛よりも少し深かった。私はその冬、私はアーヴを中心にたくさんの白昼夢を見た。彼は私に恋をしていなかったので、私は少しも不幸ではなかった。私はあらゆる意味で陽気で楽しい時間を過ごした。
私がパーク・コーナーを出てから、私はすぐにアーヴのことをすっかり忘れてしまった。

しかし、何年か経つと、偶然に会う彼のことを少し退屈に感じるようになった。そして運命のいたずらが始まった。私が熱望していた "カラーボックス" (収納ケース)をくれたのだ。そしてスプールがなくなっていたのだ。アーヴ・ハワットは、私がダルハウジーにいた冬にダルハウジーにいた。彼は私に会うためにやってきて「フォート・マッセイから帰るのを見送った。彼はとても "ソフト" でした――そう、"ソフト" という言葉がぴったりだ。恐ろしいほどだ。
もし私が望めば、彼を私の足元に置いて、すぐにでも婚約することができただろう。私はそれを望まず、彼は私を退屈させ、10年前いったい何に惹かれたのか想像もつかない。私は彼をはっきりと拒絶した。私は彼を徹底的に拒絶し、彼はヒントを得てもう私に近づかないようにした。私はどんなに安心したことだろう。
レムについては、私は彼のことをまったく気にもかけず、ほどほどにしか好きではなかった。彼は私のことを誰よりも好きで、私と結婚したがってた。彼は人を愛することができなかったんだと思う。
エドウィン・シンプソンについては......私が多くを語る必要はないし、語りたいとも思わない。彼のことはあまり語る必要はないだろう。
アレック・マクニールは、キャベンディッシュでの休暇中、何年も私をドライブにさそってくた。彼が私を好きかどうかは わからないが、彼は私と結婚したかったのだろうが、彼は決してできないことを知っている十分な感覚を持っていたし、あまりにも抜け目ないのだった。
手に入れられない娘で自分を誤魔化すためにね。アレックはいつも私の友人と無害なプラトニックなファッションで私の非常に好きであるexcel entのファッションである。
プリンス・オブ・ウェールズにいた冬の間、私はレムと一緒に回ったが、その時一緒にいたのはジョン・サザーランドだった。私はジョン・サザーランドに恋していた。ジョンは私のいとこで、背の高い家庭的な男だった。でもどこか魅力的な人だった。私はジャックに好意を寄せていたがまだ傷つくほどではなかった。彼は私のことをかなり気に入っていた。でも傷つくほどでもない。
でも、もし私が「自分を解放」していたら、ジョンのことをかなり深く気にかけていたかもしれない。でもそれは長続きはしなかっただろうし、彼に飽きてしまっただろう。彼は私を抱くことはできなかった
ビデフォードでは、ルー・ディスタントにはとても大切にされていた。彼は善良な人だった。私には何の関係もない。
ベルモントではフルトンとアルフ・シンプソンが多少なりとも関わった。フルトンは大嫌いだがアルフには不思議と惹かれるものがあったアルフに数ヶ月の間、決して表には出さなかったが、自分でもそれを感じていた。それは感じても大丈夫だった手近にあり、いつでも押しとどめることができたからだ。アルフは家庭的で野暮ったいけど、でも、そこにあるんだ。
それがある。最後に、エドと結婚すると決めたとき、"アルフを終わらせなければならない"と言って終わらせた。それがすべてだった。
そして、ハーマンには魂と感覚と......心以外のすべてで。初めて経験した肉体的な情熱という、圧倒的な感覚の力を初めて経験した。それはこれまでを触れたことないことだった。私がハーマン・レアードに夢中になったのは間違いなく、これまで経験したことのない深い強い感情だった。それは、ただ精神的な征服が必要なだけで(こいつはダサい男だという軽蔑心を振り切らねばならない)、しかしそれが欠けていたので(軽蔑心は振り切れない)私は逃げ出した。しかし私は誘惑の灼熱の炉に何かを残し、何かを持ち出した。情熱は与え、奪う。

私が教師を辞め、おばあちゃんと暮らすようになってからも、 いろいろな男がいた。ある夏、狂気のイケメン・ジョー・スチュワートは私を車で連れまわし恋に狂っていたが、自分にチャンスがないことを知りひどく傷ついた。彼はそのことを私には言いわなかったが、よくクララ・キャンベルに自分の悩みを打ち明けていた。ヘンリー・マクルーアもそうだった。
この二人は私にとって何の意味もない。 友情さえも感じなかったし、生ぬるい寛容さしかなかった。 ウィル・ヒューストンについては......。確かに、私の「恋愛」の対象にはならなかった。 オリヴァー・マクニールに感じたのは、ある種の狂おしいまでの感覚的な熱狂であり、それ以外の何ものでもない。私は彼のために数週間を慌ただしく過ごしたが、その後彼のことはまったく忘れてしまった。 完全にね。
ユアンに恋したことはない―― 一度も恋したことはない。しかし私は彼のことがとても好きです。彼は私の人生の最も暗い時に現れた。孤独で 失望していた時だ。どんな展望もなく最初は、彼のようなタイプの男性には全く関心が持てないと思っていた。 しかし私は彼と結婚し、そのことを後悔したことはない。私は結婚に満足し母になることに大きな喜びを感じている。人生は、かつて私が夢見たようなものではなかったし、決してありえない。
しかし私は思うのだ。でもひとつひとつのことを考えれば、私はこの奇妙な国の大多数の人々と同じくらい幸せだと思う。そして多くの人々よりも幸せであると思う。 と思っている。 しかし私がこれらのことを書くのは、『Everywoman's』の編集者のためではない。私の孫たちは、私の伝記で好きなことを書くかもしれない。しかし私が生きている間はこれらのことは簡単には明かさないよ。
今夜はウドラで新人発掘コンサートがあった。 ユアンと私は強風と刺すような漂流の中、それぞれ演説と朗読をするために車を走らせた。帰宅したのは1時過ぎだった。このようなこと(ひけらかし)はやめなければならない。こんなことはやめよう。私は自分の役割を果たそうとは思っているが、健康を害してまで家族や国のために尽くすことはできない。

1917年1月10日(水曜日)
今日、ストークスから2,500ドルの小切手を受け取った。印税の前渡金の半分だ。今夜は新しい本の執筆に取りかかった。

1917年1月20日(土曜日)
もう一週間が終わった。というのも春に1週間近づいたからだ。
今週は、ハティ・スミスから手紙が届いた。彼女の一番下の弟はフランスで戦死し、息子はアメリカ軍でメキシコとの国境にいる。今日、痛まない心がこの世にあるのだろうか...。
今日、アマンダから手紙が来たのだ。読んでいて胸が痛くなるくらいである。彼女はメイフィールドに住んでいるようだ。自分の毒にまみれそれを吐き出しているようだ。(憎悪と不満の吐きだし)
彼女の言うこと、書くことの全てにその毒が吐き出されている。かつて公正を約束したはずの幼馴染が、なんという悲劇に見舞われたことだろう。なんという悲劇だろう。私はその哀れさを乗り越えることができない。(乗り越えてなお彼女に期待することはできない)

1917年1月21日(日曜日)
リースクデールの牧師館
本当に今日はひどい一日だった。一日中厳しい猛烈な北東の風が吹いていた。 この風はここで唯一影響を与えるもので、これが吹くと家は本当に住むのに適さない。一日中台所と食堂は、文字通り納屋のように寒かった。他の部屋はそれほどでもなかった。昼からユアンがゼファー教会から帰ってくる10時まで私一人だった。外は嵐、室内はどんよりとした寒さ。夕食後子供たちをベッドに寝かせて暖を取った。
しかし私はとても蒼く孤独で、本に思いを馳せることができなかった。今夜のような気分はめったにない。まるで幽閉された魂のようだった。ユアンが無事に帰ってきたとき私はとても感謝しました。 私は道路が封鎖されるのを恐れていたので、ユアンが無事に帰宅したことをとても感謝している。私はずっと災難の予感に取り憑かれているようだった。

リースクデールの牧師館
1917年1月22日(月曜日)
私の予感は的中した。今朝ゴールドウィン・ラップが戦線で死んだと電話で知らされた。その知らせに私は一日中泣いていた。泣かずにはいられなかった。ラップ家は私たちの特別な友人であり、ゴールドウィンはスコット家の少年として初めて戦地に赴いた。彼は1年4ヵ月間塹壕に入り、ソンムの攻防を無傷で切り抜けた。 かわいそうな少年だ。
今日の午後、私達はラップスの家に行った。とても寒くて道路はひどく荒れていた。心細い用事だった。しかしこのごろの人生は、心が折れそうなことばかりではないだろうか。宇宙の魂が苦悩しているような気がする。

オンタリオ州リースクデール、牧師館
1917年1月30日(火曜日)
今日は寒かったけどいい天気だった。ユアンと私は5日にある家族のところへお茶を飲みに行った。その家の婦人は、私が耳が聞こえないかのように怒鳴り、その家の老人は、私が何か言うたびに感情的に"You bet your boots" (間違いない)と言っていた。
だから、私たちの滞在は、決して理性的なものではなかったと思う。理性の饗宴ではなかったと思われる。しかし私たちはとても素晴らしい夕食をとった。
しかし、このような「牧歌的な」食事ができるのは、やはり、「理性」があるからだろう。しかし、ああ、この「牧歌的な訪問」!?

1917年2月3日(土曜日)
ユアンは、水曜日の朝から3日間、トロントで開催される社会主義者会議に出席するためトロントに行った。それ以来ひどい寒さが続いている。
零下である。木曜日にはドイツが無制限の潜水艦戦争にふけるという恐ろしいニュースが飛び込んできた。とても心配な話だ。しかしドイツはこれまで以上に悪いことができるのだろうか? 私は疑わしい。
今日ケネス・クルートの写真を手に入れた。彼は私が4年前から時々文通をしているイギリス人の男の子で、彼が最初に手紙をくれたのは14歳のときで、私の本を喜んで読んでいると書いてきた。昨年の夏彼は入隊したので制服姿の写真を送りたいという手紙が来た。
「僭越ながら」(先生の写真をくださらないか)と書いてあった。もちろん私はその返事を書き、喜んで送りますと伝えた。そして今日2枚の写真が送られてきた。私はそれを額に入れて飾る。彼はとても純粋で愛嬌のある少年のような顔をしている。これほど魅力的な表情は見たことがない。そしてこの少年は大砲の餌として(大砲の的になって戦死する)送り出されるのです。ああ不義理だ! ケネスさんの写真を見て私は泣いてしまった。
昨日は一日中家の中が寒くて不快だった。そのストークから手紙が届き、その手紙にはペイジが私の次の本の契約があると言って手紙を出したと言うのだ。もちろん私はペイジが私がストークスに本を渡したことを知ったらすぐにこうすると思っていた。しかし、それは私を惨めに動揺させた。
Mr.ドミニク氏はペイジと私との間のすべての書簡のコピーを要求してきた。私は午後からそれを書き写した......私が持っている限りでは、残念ながら私は自分の手紙の内容を書き留めたメモしか持っていない。私はとても疲れていた。その結果、疲れと心配で眠れぬ夜を過ごすことになった。
今日はとても荒れた天気だった。ユアンは午後に帰宅した。ユアンが到着して間もなくアクスブリッジから電話がかかってきた。アメリカはドイツと国交を断絶したそうだ。イーディス(今のお手伝い)と私は、この出来事を祝うためにお菓子を作った。

1917年2月6日(火曜日)
リースクデールのマンズ
まだとても寒い。ユアンの歯が常に痛むので、私たちは悲惨な思いをしている。それに今日は、はしかを発症してしまった。
戦争のニュースは少ないが、チグリス(イラク戦線)からの報告は良いものだ。しかし..,あの忌まわしいペイジが! どうなることだろう。? 私は人生を苦しく思っている。

1917年2月7日(水曜日)
今日、オフィスに行くと、ストークスとマクレランドからの2通の手紙を見つけたとき、私はとても動揺した。しかし私は平静を装わなければならず、クック夫人やゼラ・マスタードに話しかけた。
私は後者とともに家まで歩き、話をしようとしたが足が震えていた。夕食後まで手紙を開く勇気はなかった。それでも食べられなかった。スチュアートをベッドに寝かせ、応接間にこもって一人で向き合った。しかしそれ以上の悪い知らせはなく、私はひとまず安心した。
マックは、ペイジがこの問題を本当に裁判に持ち込むとは思っていない。しかしペイジは合理的な人間ではないので、何をするかわからない。

1917年2月10日(土曜日)
また寒くなった。郵便物と一緒にペイジからの手紙が来ていた。私はそれを蛇でも掴むように手に取った。ミッションバンドに行くまで開ける勇気がなかった。というのも、職務に支障をきたさないようにするためだ。家に帰ってきてからそれを開いた。
新刊のことではなかったのでほっとした。しかしそれは、1916年の印税のうち、私に支払われるべき1,000ドルをだまし取ろうとする、非常にあからさまな内容であった。
3年前の印税報告書に "誤り" を発見したという理由で1916年の印税から1000ドルをだまし取ろうとするものだった。
私はこの件についてマックに手紙を書き、この件に関して法的措置を取ることを勧めるかどうか尋ねた。ペイジは確かに徹底的な悪党だ。私はこのお金を失う可能性が高く、特に現在はそのような余裕はない。
今夜は『アンの夢の家』の校正刷りを読んでいた。本来なら楽しい仕事であるはずなのだが、現実には何の楽しみもないのである。

1917年2月18日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
厳しい、厳しい1週間だった。先週の日曜日は非常に寒かった。一日中、体がだるく元気がなかったが、午後には教会に行き、Goldwin L.A.の追悼式の飾り付けの監督をした。恐ろしい寒さにもかかわらず教会は混雑していた。礼拝は悲しく印象的だった。ああ神様、もう二度とこのようなことがありませんように。
月曜日はこの冬一番の冷え込みで、氷点下22度。足が凍るかと思うほどだった。厨房で作業していると、足が凍ってしまいそうだった。
ストークから足枷が届いた。恐る恐る開けてみたが特に心配するようなことはなかった。しかし、新たな警戒心を抱かせるような内容はなく逆に励みになった。
ペイジは(裁判を起こすなどと言っても)ハッタリしかできないと思っているようだ。とはいえその可能性はダモクレスの剣のように私の上にぶら下がっている。この一週間、私は彼らからの次の手紙に怯えながら生活していた。
ペイジが彼らの返事を受け取ったときに何が起こったのか。毎日郵便が来るのを恐れた。
昨日、手紙は来た。ペイジからの手紙が同封されており、あらゆる種類の脅迫を口にし、そして、この問題を弁護士の手に委ねたと書いてあった。
これが本当に裁判を起こすということなのかどうか、私にはわからない。数日間は分からない。このままでは私はほとんど気が狂いそうだ。眠れないし食べられない。自分の顔が怖くなる。ガラス越しに見る私の顔はとても青白く、やつれ、くぼんだ目をしているのです。ページは他の作家を精神病院に入れるような事をしたと心配し、私もそこに追いやられるのではと思う。
今のところ、私には考えを紛らわせるものが何もない。私は寒さと雪でここに閉じこもっている。
たとえ外に出られたとしても、リースクデールの社交界は私に何の魅力も与えてくれない。普段はどうってことないんだけどね。仕事も本もたくさんの興味と楽しみがある。しかし、このような心境では本を読んだり、必要な仕事以外のことをすることはできず、毎日を過ごすのがとてもつらい。
もし、私が闘わなければならないことが分かっていれば、正面から問題に取り組むだけの「気概」を奮い立たせることができると思う。しかし私は何も知らないし、100の推測と仮定で自分を苦しめている。
昨日の戦争のニュースも良くはなかった。ドイツ軍はシャンパーニュ地方で勝利を収めた。それ自体はさほど心配することではないが、これは別の恐ろしい攻撃の幕開けかもしれない。そう考えると恐ろしくなる。それはちょうど昨年の今頃、ヴェルダン攻勢を開始してからこの2年間、人生は恐怖と心配でいっぱいだった。私は今まで感じたことのない倦怠感を感じるようになった。そして来週がどんなに恐いことか。どんな知らせが来るのだろう? 今日の午後、私は子供たちと二人きりになった。私の心は "悠々自適" ではなく、心配と恐怖で一杯なのだ。

1917年2月25日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
今週はほとんど死ぬほど「訪問」されている。戦争のニュースは、月曜日にはアンコール川とチグリス川の両方から良い知らせがあった。Ux bridgeに行き、またもや歯学セミナーを受けた。Uxbr dgeに行き、吹雪の中、荒れた道を(馬車を)運転して家に帰った。
火曜日には若い花嫁と花婿をお茶に招待し、その準備に一日中忙しかった。その後11時まで座って彼らと話をしたのだが、その間私の魂はあくびをし、背中が痛くなり、心はページの問題でぐるぐると回っていた。
水曜日は、この冬には珍しく晴れた気持ちの良い日だった。マクレランドからの心強い手紙が私を元気づけ、心を和ませてくれた。夕方のドライブでお茶を飲むのが楽しくなった。しかしその楽しみはドライブで終わってしまった。
木曜日、私はJas.Mustardのところで赤十字に行き、Ewanが来たとき、私たちはその晩を過ごした。マスタード家はいい人たちで、通常私はその訪問を不快な義務とは思っていない。しかし木曜日の夜は疲れていて楽しむことができなかった。疲れていて家で寝ていたいと思うくらいだった。
金曜日はまた子供たちと一緒にお茶を飲みに行き、夜はギルドの社交界に出かけなければならなかった。
スチュアートはあまりのことに眠れなくなり、とても不機嫌になってしまった。怒りっぽくなった。イーディス(お手伝い)は留守だったので、二人を家に連れ帰って寝かせた時には、私は疲れ果ていて眠れなかった。昨日はまたお客さんが来てお茶を飲んだので、寝るのが遅くなった。
今日は日曜日で、私は祝福された休息をとっている。フレッド・リースクが降りてきて、午後はチェスターの面倒をみてくれた。だから私は親愛なるペピスが言うように、私は大満足で "読書" をしていた。私は今ペピスの日記を読んでいるところだ。ずっと聞いてはいたが、これまで読んだことはなかった。
最もユニークな本だ。イギリス人以外には誰も書けなかっただろう。ウィットの輝きもなく、意識的なユーモアの輝きもない本である。情熱も想像力も洞察力もない。この本はほとんど全面的に、ありふれた人々や事件を扱った本である。それなのにこの本は隅から隅まで面白さに満ちている。すべてのページが無意識のうちにユーモアで満たされている。
その大きな魅力は現実感である。ペピスが生きているころから200年以上経っているとは思えないほどだ。彼は昨日まで生きていたに違いない。彼が言及する人々――隣人、使用人、恋人――は生きている。
私たちは彼らを知っている。ペピス自身は最も素朴で魅力的な年老いた罪人であり、高級な服装や「おいしい食事」を好み、また人を愛し、「美女を捜して歩き回る」ことを好んだ。この本は楽しい。この本を読んだ後、私はいつも自分の世界に戻ってくる。本当に1660年代に戻ったかのような衝撃を受ける。

1917年3月4日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
この一週間、戦争のニュースは不思議なほど良いものだった。英国はソンム戦線とチグリス戦線で着実に前進している。後者ではクトを奪還し昨春の汚名を返上した。
子供たちはずっと風邪をひいている。スチュアートが風邪を引き、月曜の夜にはクループ(気管支炎)を発症し私はひどく怯えた。しかし彼は風邪をひいているにもかかわらず、風邪をぶり返すことはなかった。
この日記を読み返してみるとスチュアートのことをほとんど書いていない。チェスターのことを書いたのに比べて、スチュアートのことはほとんど書いていない。というのもスチュアートはそれほど目新しい存在ではないからだろう。この一行で私は「自分自身を書き出した」ようなものでスチュアートに夢中になっていると繰り返すしかなかったからだ。それは私が彼をあまり愛していないからではない。
私が彼をあまり愛していないとか、彼の成長に夢中になり、美味しくなくなったからではない。彼はチェスターとは全く違うのだ。性格も外見もそうだ。彼は攻撃的でなく静かな子だ。いわゆるいわゆる "甘えん坊" だ。大きな蝋人形のようで愛らしく、魅力的な姿をしている。
笑いと楽しさにあふれた、おいしい小鳥のさえずりが聞こえる、大きな、柔らかい空色の、澄んだ美しい目をしている。澄んでいて、活気に満ちていて、それでいて夢見るような深紅の頬、絹のような太い髪が、頭全体に愛しい輪を描いている。
オンタリオ州政府は女性に参政権を与えています。だから私は死ぬ前にあなた(スチュワート)に投票することができる。死ぬまでにはどうだろう。確かに私は党派を超えて投票することはない。しかし私はそれが来てうれしい。もうすぐすべての地方が一致団結してドミニオン(婦人)の参政権が得られるだろう。しかしそれが擁護派が期待するほど、あるいは反対派が懸念するほど、事態に大きな変化をもたらすかどうかは本当に疑問だ。

1917年3月13日(火曜日)
ストークは、8月に「夢の家」を発行する予定だった。しかしマック(マックレランド社)は、ペイジの脅迫の実態を確かめるために、6月に小さな試行版を出すつもりだと書いてきた。
これで、サスペンスの期間が短くなる。しかし私は6月を恐れている。この春は私の不安と心配で、ずっと憂鬱な気分で過ごすことになりそうだ。心配でたまらない。(モンゴメリはペイジ社との5年間の独占出版契約は済んでいたのだが、ペイジはその後も新しい本が売れそうだという噂を聞きつけてモンゴメリを脅してきたのだろう)

1917年3月16日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
私は、戦争のどんな展開も、もう私を驚かせることはできないと思っていた。しかし1つのことが起こった。 来たのです。今日、ロシアで革命が起こり、皇帝が退位するとの知らせがあった。 あまりの驚異的な出来事に私は呆然としている。
ロシアの内情は以前から不穏であったが、このような事態は全く予見されていなかった。この先どうなるかは神のみぞ知るである。ほとんどの通信は連合国にとって好都合であるとの見方を示している。親ドイツ派がはびこっているからだ。このままいけばいいことずくめだ。しかし、このような転覆から何が生まれるかは誰にもわからない。
反動主義者が闘わずしてあきらめるとは思えない。ロシアが内部分裂に気を取られると、同盟国を援助する力が弱まるだろう。しかしなぜ心配するのか。すべては大いなる計画の一部なのだ。
戦争が始まって以来、私は奇妙な夢を何度も見て運命論者になった。すべては永遠の会議で計画されたものだと信じている。 そう、昔の神学の言葉を借りれば、「運命づけられている」のだ。いつの日かこの日記にその夢を書き記すことにしよう。はっきり言って 少なくとも彼らは好奇心が強かった。

1917年3月18日(日曜日)
今日、私は「マルヌの丘の上」を読んだ。 しかし、「戦場の我が家」のような魅力はない。 まだ春の兆しはない。今日は厳しい冬のような日だった。この冬の日曜日はしかし、私が故郷を離れる前の数回の冬に、家で過ごしていたほどには寂しくはない。それほどでもないが、私が家を出る前の数回の冬はなんて恐ろしかったことだろう。
私はその時書いた日記のいくつかのページをちらちらと見ていた。人生は今とは全く違うものだった。私はよくとてもよく疲れ心配になる。しかしあの時のように、何日も何時間も神経をすり減らすような苦悩はない。今となっては奇妙な恐ろしい夢のように思える。しかし完璧なものなどないのだから、当時の私の人生には今は欠けているとても素敵なものがあった。とても甘いものがあった。
森や海辺を歩きながら、夢や空想の目に見えない仲間たちや友人や恋人たち。私はしばしば、その野性的でとらえどころのない味わいを切望する。 しかし私の二人の小さな息子は、人生と心と魂を満たしてくれる。チェスターが私の首に腕をまわして「親愛なる小さなお母さん」と言うとき、そしてスチュアートが が私の胸に抱きつくとき、私は何も見逃さず何も欠かさず、至福の時を過ごすことができる。 このような瞬間人生は完全で完璧である。でも恋人の小径を夕暮れ時に散歩したり薄明かりの中、昔の呪われた砂浜を歩いてみたいものだ。

1917年3月25日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
先週の月曜日、ユアンが郵便物を持って家に来て、いつものように緊張して待っている私に、「素晴らしい。今日はいい知らせがある」と言った まあそれは素晴らしいニュースだった。この1週間ずっと続いている。しかしそれが良い知らせかどうかはまだ確定していない。
そうなるまで喜んではいられない。しかしドイツ軍はドイツ軍は西部戦線で後退を始め、今も後退を続けている。連合軍は昨年戦ったソンムのすべての目標を獲得した。しかしなぜドイツ軍は退却しているのだろうか? 表面上はそう見えないがそうせざるを得ないようだ。ヒンデンブルグが何かたくらんでいるのだろうか?進攻してくる同盟軍を塹壕の避難所から誘い出すつもりなのか? 私はそれを恐れている。一方、彼は天候に恵まれている間だけやっているのかもしれない。
この一週間は、道路が寸断される前に仕事(信者宅訪問の仕事)を終わらせるために、必死で「訪問」している。まだ一晩しか帰っていないので死ぬほど疲れている。私にとっては、無駄な一週間だった。
昨日、Frede Campbellが10年前に書いた「10年分の手紙」を読んだ。フレデ・キャンベルが10年前に書いてくれたものだ。彼女は私の手紙も読んだのだろう。これはかなりぞっとするような仕事だ。
墓を開けるようなものだ。32歳の私には、まだこのような手紙を書く勇気があった。しかし四十二歳になると、もう書く勇気はない。あの手紙が書かれたときから何が変わったのだろう。その頃、フレデはスタンレーにいた。私は古い家にいて青春時代を過ぎた無名の無名の書き手だった。
今私は妻であり、幸せな母親であり、フレデが予言し私が当時夢見た「有名な本」を書いている。この10年間は、私たちに関係するほとんどすべてのことに、大きな変化をもたらした。そして、この手紙は戦争が始まる前に書かれたものだ。それだけで十分な変化である。
私にとっての変化はより良いものだったし、フリーデにとってもそうだったと思う。すべての変化は、たとえそれが良いものであったとしても、苦味の要素を含んでいる。苦味は、他のどんな味よりも先に、それ自身を感じさせるものだ。

1917年4月1日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
週明けに「お彼岸」がやってきて、今は春を迎えている。とはいえまだ薄暗い泥の中だ。西部戦線からのニュースはまだ公平であるがドイツ軍がリガに進攻するという噂が流れている。私たちはまだ道路が荒れているにもかかわらず、盛んに訪問している。
今週はバトラーの "Way of All Flesh" を読んだ。賢い本ではあるが、しかし一部の人が言うような偉大な小説では決してない。この本は真実と半分の真実で満ちている。
しかし、全体としては非常に虚偽の本である。私はこの本が自分自身の独善によって書かれたものであるように感じられる。高尚な情熱も、感動的な情熱も、まともで心地よい普通の感情さえも、先天的に感じることができない人間が書いたものだという印象を受ける。彼はしたがって、他の人がそれを感じることができると信じることを拒否し、偽善者や愚か者として主張する人を記録することを約束した。私はこの本を読むことではなく、ある種の刺激的な知的喜びを見つけたのだ。
昨夜は一人で、ネイト・ロックハートの古い手紙を読み返した。結婚して以来初めてだ。今の私にとっての手紙の魅力は、私を過去に連れ戻す力があることだ。...現在の悲劇とは無縁の世界へ...。
ネイトのことは彼がサスカッチワン州のエステバンに住んでいて、弁護士をしていて、2人の男の子がいるということ以外、ネイトのことを聞いたのはずいぶん前のことだ。私はいつもネイトが法律を職業に選んだことを少し不思議に思っていた。私は27年前の春のある晩を覚えている。
27年前、ネイトと私はどこかから帰ってきたような薄明かりの中でうろうろしていた。運命や理想について若者が喜ぶような高尚な会話を交わしていた。ネイトは自分が何になりたいかを語るとき、力強くこう言ったのを覚えている。「僕は弁護士には絶対ならない!」。
彼がそう言った道の正確な場所と、暗いモミの木の上に輝いていた星を思い出す。「弁護士にはならない!」。他人の争いで生計を立てるなんて汚い商売だと思うんだ。
フン!――フン! あの女たらし夫婦の家(ネイトの母を囲っていたネイトの義理の父のことか)で、あの頃の理想を捨てたり妥協したりせざるを得なくなったのはネイトだけではないのだ。私も多くのことを放棄してきた。
奇妙なことにこの8年間、私はネイトの叔父と非常に楽しい文通を続けてきた。ネイトの叔父で、ウィンターポートに住むA・J・ロックハート牧師と、この8年間とても楽しい文通を続けている。彼はエッセイや詩を書く人で、文学界では「フェリックス牧師」として知られている。数年前、ネイトがこの叔父を手に入れたことで、私の目にはネイトの魅力が引き出された。
本を書いて出版している叔父さんを持つ少年を実際に知っていることは、私にとって非常に素晴らしいことだった。
ネイトはその叔父の本を一冊持っていた。詩集「吟遊詩人の仮面」だ。『アン』が出版されたとき、「フェリックス牧師」がそのことについて私に手紙をくれた。もちろん彼は私の甥との恋について何も知らない。
彼はもう老人だ。彼の詩はかなり弱いが楽しい散文を書く。彼の手紙は、私が受け取る中で最も楽しいもののひとつだ。さてネイトの手紙は結び直され再び封印された。もう何年も思い出すことはないだろう。でも、決して忘れることはできない。
今週も、シャーロットタウン・ガーディアン紙に、"An Island Booze Booze" (アンの島の酒)という上品なキャプションの下に、こんな一節が掲載されているのを目にした。
エドウィン・シンプソン牧師は牧師職を辞し、ロードアイランド反酒類協会の指導者になったと書いてある。エドウィンは、自分が信じていない教義を説くのに嫌気がさしたのだろうか。
私が最後に彼と話した時、彼はもうイエスの神性を信じることはできないと言った。なぜと尋ねると、「人々を欺くことが、欺かれないことだと思ったから」と答えた。人を欺くということは、やがて飽きるということかもしれない。

1917年4月15日(日曜日)
オンタリオ州リースクデール
今のところ寒くて暗い春で、「4月の日差しの魅力」はまだない。この2週間も「良い」戦争のニュースがあった。大量の死傷者リストとともに。ブリティッシュとフランスは西部戦線でゆっくりと前進しており、母親たちが苦労して手に入れた命で(沢山の犠牲者を出して)、一日あたり小さな村を買っている(一日にやっと小さな村を一つ取り戻している)。
アメリカはついに正式に宣戦布告した。将来の歴史家は、ウィルソンを偉大な政治家として、あるいは藁人形のような男として賞賛するのだろうか。今それを決めるのは不可能に思える。
私は藁人形説に傾く。彼はあまりに見事なフレーズメーカーなので、それ以外の何者でもない。(宣伝文句を垂れる奴でしかないと)
私は3日にトロントに行き非常に楽しい一週間を過ごした。私は、自分がやっていることを新聞に書かないようにしていたので、「お茶」など(に誘われること)で退屈することはなかった。静かに回り、会いたかった人にたくさん会えた。また買い物もたくさんしましたが、物価の高さには驚かされました。(戦争のせいもあったろう)
私はほとんどの時間をMary Bealと過ごしたが、彼はとても気さくな人だった。最後の晩はサウス・ドライブに行き、マクマーチー夫妻と一緒に過ごした。彼らは相変わらず不可解で人間離れしている。私はいつも彼らと一緒にいるとき他の惑星の住民と一緒にいるような気がする。私は彼らのマナーが年を追うごとに強まり、今では非常に顕著になっていると思う。愉快でもなく不愉快でもない。
マック(マックレランド社)で「アンの夢の家」の表紙を見た。これはきれいで売れそうなものだ。もちろん、私が考えていた家や舞台とは似ても似つかぬものだが、この作品はしかし、「業界人」は皆、このデザインに魅了されているようだ。それが「ビッグセラー」になるための重要なポイントだ。
ペイジは、一生懸命に問題を起こそうとしている。しかしストーク社はペイジを操る術を心得ているようで、「仲裁に入ってやる」と言ってきた。しかし私は感謝して辞退した。私は彼の脅しは単なるハッタリだったのではと思い始めている。しかしこの本が出版されるまで、私は不安で仕方がない。彼はトロントの弁護士にこの事件のカナダ側での訴えを引き受けさせようとしたが、断られたことがわかった。アメリカの弁護士は、もっと几帳面ではないのだろう。

1917年4月19日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
またしても母性に目覚めたか? チェスターは昨夜、自分の部屋に引っ越した。いつも部屋の隅にあるベビーベッドで寝ていたのに。
毎晩、電気を消す前に、彼のぽっちゃりしたバラ色の顔を見ていた。暗闇の中で、私はいつも彼の存在を感じ愛していた。朝にはいつも、彼の悪戯っぽい微笑みが私を照らしていた。しかし昨夜も彼は自分の部屋で、小さなヒーローのように騒がずに眠っていた。
このことは私にはつらいことだが、この変化は必要なことだ。スチュアートは冬の間、ずっとイーディス(お手伝い)と寝ていたのだが。私はそれが嫌で、これからはベビーベッドを使わなければならない。彼はバラ色で愛らしいが私の小さな長男だ!(まちがいか)私からは一歩も離れない。(私の部屋に寝かせたいのか)
私たちは大掃除の最中なのだ。アーメン。

1917年4月29日(日曜日)
激務の一週間、図書館を掃除した。約1200冊の本の埃を払い、持ち帰る。
厨房を掃除した。金曜の夜は、疲れた犬のように疲れた。しかし骨身にしみたようにベッドに入る代わりに、私は服を着てオクストビー夫人と一緒に車でウドラ(リースクデールから6km程北にある開拓地)まで行かなければならなかった。
そこのメソジスト教会を援助するための「メイプル・シロップ・ソーシャル」で朗読をしなければならなかった。ベッドに入ったのは1時だった。

1917年5月7日今日(月曜日)
今日、私は作家同盟の弁護士に手紙を書き、私とページのタイ・ロイヤリティ(公正な著作権料)の件を彼の手に委ねた。結果はどうなるかわからないが、私はペイジが喜んで私をだますのを黙って見ているわけにはいかない。
ロシア情勢は引き続き不安定ですが、当面の危機は脱したと思われます。
過ぎているようである。

1917年5月9日(水曜日)
今日のニュースは、かなり憂鬱なものだった。ドイツ軍がフレズノワを奪還したのだ。多くのカナダ人の血を犠牲にして奪還した。これは単なる出来事なのだろうが、しかしこのような事件は十分に落胆させるものだ。
今夜はお茶を飲みに行ったのだが風邪をひいてしまったようだ。疲れがたまっていたのと風が強かったので。寒い日が続くね。私がオンタリオに来てからこんな春は初めてである。農作物の見通しは芳しくなく、これは深刻だ。
飢饉の脅威は全世界に及び、潜水艦の脅威も増大している。どうなるんだ? 今の価格はひどいものだ。ジャガイモは一袋4ドルもする。ジャガイモはもうすぐ手に入らなくなるかもしれない。我々は一日5個が限度だ。こんなことになるとは夢にも思わなかった。
ジャガイモは家では(キャベンディッシュにいた頃)1ブッシェル(35kg)10セント(1000円くらい)で売られていたのを覚えている。結婚する直前でも1ブッシェル20セントは高値だった。

1917年5月13日(日曜日)
まだ寒い。スチュアートは今週ずっと体調が悪く、私は木曜日から胃と腸の調子が悪くなった。戦争のニュースは少なく、毎日物価が上がっている。今週、庭の手入れを終えた。今年も一寸の隙もない。
月曜日にはユアンが島への小旅行に出発する。私はまだ今年は行けないので、考えてもいなかった。しかし彼が行くので、私はホームシックになり自分も行きたいと思うようになった。彼が帰ってきたら、私はマクドナルド・カレッジに行くつもりだ。マクドナルド・カレッジに行き、フレデと一週間過ごして、それから夏の間、落ち着いて働くつもりだ。

1917年5月14日(月曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
今朝ユアンを駅まで送り、彼が故郷へ旅立つのを見送った。そして家に帰るとバーティー・マッキンタイアから手紙が届いていた。それ以来彼女のニュースは想像を絶するもので、とても嬉しかった。というか喜びを予感させるものだった。彼女がトロントに来て住む可能性が高いというのだ。
ローラ夫妻はトロントに引っ越すそうで、バーティもトロントの教職に就ければ、彼女も来るだろうと考えている。フレデがマクドナルドにいて、バーティがトロントにいるのだから、もうこれ以上望むことはないだろう。でもそんなことはありえない。あまりに美しいことだ。失望という苦い味を味わわないためにも。(余計な期待をしてはいけない)

1917年5月24日(木曜日)
今日は暖かくて気持ちのいい「24日」だ。ハリケーンが吹き荒れ雪が降ったりして、とても寒かった。今週はずっと寒かった。フレデ・キャンベルからの手紙で、前の週の水曜日、出航予定日の2日前にキャメロン・マクファーレン中尉とモントリオールで結婚したことを知らされた。
私はロシアの皇帝が来訪したときもう二度と驚かないようにしようと決めた。だから私は驚かなかった。呆気にとられただけだ。ノックアウトされ言葉を失った。 このようなことを軽々しく書いているのは、私がこのことを深く感じているからなのだろうということなのだろう。
この出来事についての何かが私をひどく傷つけるようだ。 変化と疑いの要素がそのすべてに入り込んでいるのだと思う。私はマクファーレン中尉がフレデに求婚していることは知っていたが、でも彼女は何度も手紙をくれた。私は確信が持てず、戦争が終わる前に結婚するとは夢にも思っていなかった。彼女もまた式の6時間前まではそう思っていたようだ。そうでなかったことを思うと胸が痛む。
フレデの結婚式を見届けられなかったことを思うととても残念だ。もし彼女が結婚するならば、この古い邸宅でと決めていたのだが。ユアンが式を執り行う予定だった。しかし計画倒れになった。戦争で台無しになった。フレデリーカには幸せになってもらいたいわ。彼女は幸せとは無縁だったから。フレデは幸せになるべきでないという気がしていた。彼女の性質は悲劇的であり、彼女の人生は本質的に悲劇的であるに違いないと思っていた。笑いも陽気さもヨセフ族らしさもあったのに。戦争の最後の休暇に入った花婿と結婚するのはうまくいくか疑わしいものだ。
まあバーティがトロントに来てくれるかもしれない。フレデと二人で(来てほしいな)という思いがあった。でも、もし近い将来の出来事でフレデが神のみぞ知る場所に行くのであれば、私はバーティを持つことが許されるかもしれない。しかしバーティでさえも フレデの代わりにはならない。
今週はイタリア戦線から良い知らせがあった。ロシアは自力で何とかしようと必死である。分離和平の噂が絶えないが(ドイツはロシアと休戦して軍事力を西部戦線に振り向ける恐れがある)、しかし私はそのような危険はないと考えている。ロシア軍は非常に完全に混乱しており、最善の策を講じたとしても今夏の戦力にはならないだろう。昨日チェスターをゼファーのところに連れて行きリリー(もと居た家政婦)に預けた。私が戻るまでリリーと一緒だ。ユアンが今日戻ってきた。私は明日マクドナド大学に発ちますが、哀れなフレデは新婚旅行のつもりで仕事を続けている。

キャメロン・マクファーレン中尉

1917年5月26日(土曜日)
教師の住まい
ケベック州マクドナルド・カレッジ
昨日の朝ユアンは私をアクスブリッジまで送ってくれた。不思議なほど楽しい一日だった。この春は晴れの日がとても珍しいのだ。正午にトロントに到着し11時までそこにいた。Mary Bealと合流して楽しい時間を過ごした。
Balfourを街頭で見かけた。夜はストランドで映画を見てその後列車に乗った。汽車の中では、いつものように貧しい夜を過ごし、翌朝9時ごろにセント・アンズに着いた。Fredeが私を出迎えてくれて私たちは話を進めた!
私は先生の住居の中にいい部屋を持っている。Fredeは今日の午後、ハウスガールにちょっとしたお茶(の会)をプレゼントしてくれた。私はそれをとても楽しんだ。私たちは夜、私の部屋でいろいろと議論した。私はフレデが結婚した日に私宛に電報を打っていたことがわかったが、私は受け取っていなかった。
彼女の手紙を受け取ってからずっと感じていたちょっとした痛みが、これで少しは楽になった。彼女は結婚後3日もたってから私に知らせたのだと思い込んでいたのだ。私はフレデはそんなことしないと思っていたかもしれない。
でも、彼女の結婚をどう考えたらいいのか、私にはよくわからない。彼女はキャメロン・マクファーレンより8歳年上である。年の割りに老けていると言うのはもっともだ。戦場での2年間は老け込むものだ
男だ! そしてフリードは彼女にしては(年の割には)若い。とはいえ34歳と26歳はそれほどでもないのだが、50歳と42歳というのも怪しげだし、自然の論理はとても容赦がない。
繰り返すが、私はフリーデが本当の意味で彼を愛しているとは思っていない。二人は、でも、でも、でもしかし、すべては私が期待するよりも良く、1つの希望よりも少し悪くなるのかもしれない。
キャメロンはまだカナダを出ていない。連隊と一緒にニューブランズウィックにいる。徴兵制が導入された後、彼らの命令はすべて回収されたからだ(戦地に行く前に彼らの要求が通って余裕が出来た)。厄介なのはそうなることを知っていれば、リースクデールに来て結婚できたはずだ。哀れなフレデはゴシップの多いこのキャンパスで、友好的とは言い難い知人たちに囲まれながらも、私がいることで、助けられ慰められると思います。いわば家族のようなものだ。神は私たち全員に気力と忍耐力と消化力を授けたまえ。それが必要だ。
(ドイツは戦争でたくさんの死傷者を出しながらも、イギリスに替わって世界を制覇するという熱に浮かされていたのだろう。貴族主義の引き続きである)

土曜日の夜 1917年6月2日
ケベック州マクドナルド・カレッジ
この一週間は、私たちが詰め込んだものから判断すると、数週間分の長さのように思われる。私は楽しい時間を過ごしている。結婚して以来最も快適な「休暇」だ。
マクドナルド・カレッジは美しいところで、特に今は春の花が咲き始めている。建物も設備も素晴らしい。私はずっとここで過ごすことができなかったことを、半ば悔やんでいる。

そのような場所で少女時代を過ごしました。恨みっこなし。そのことを恨む意味はない。運命の人以外は誰も悪くない。しかし私は非常に楽しめたはずのもの、そして私にとって非常に有益であったであろうことを、だまされたように感じている(見つけられなかった)。
キャンパスの木の下で座っている女の子たちがうらやましかった。 そして彼女たちは私を羨み、女学生が感じるような臆病な畏怖と賞賛をもって私の前に立っていた。女学生が自分の好きな本の作家に会ったときに感じるような、おどおどした畏怖と感嘆の念を持って、私の前に立っていた。こうして世界は揺れ動く――まさに「狂った世界、私の主人たちよ」。
私は多くの愉快な人々に会ったが中には全く愉快でない人々もいる。 しかしフレデが彼らのことをよく話しているのを聞いていたので、どれも興味深かった。 日曜日の夕方フレデと私はセント・ジョージ教会に行った。私たちは一番上の席に座った。 メンデルスゾーンの結婚行進曲を演奏していた。そのとき何人かの顔に大きな笑みが浮かんだ。"チッピー"(怒り屋) がちょっとした復讐をしようとしていたのなら、彼は独特の方法を取ったと言わざるを得ない。あれはひどい手口だと思う。 忌まわしいトリックだと思う。 (独特の方法の内容不明)
フレデと私は月曜日、モントリオールで買い物をししゃべり続けた。帰りは「死にそう」だった。Tuesday(火曜)の午後、フレデの友人である私は主賓として参加した。ひどく退屈だった。夕方にはフィッシャー夫人が私とフレデのために夕食会を開いてくれた。 練習用ダイニングルームで教授陣の女性たちがゲストとして参加した。私はそれを楽しんだ。夕食そのものは、家庭科の女の子たちが料理して出してくれたもので、とてもおいしかった。しかしこのような原液の「雌鳥の会」は、むしろ不愉快なものである。特に形式的なものであればなおさらである。ああ、一羽の愛想のいい、社交的なにわとりが一羽いれば、
その後フリードと私は、夜中まで彼女の問題について議論した。 そのあとフレデと二人で この間、私たちは笑いすぎて問題の解決に大きな進展なかった。水曜日にはモントリオールに行き、ロイヤル・ビクトリア・カレッジでバルフォアの講演を聞いた。そしてついでに生々しい人間の本性を山ほど目にした。私はバルフォアの演説にいささか失望した。ありふれたものだった。 逡巡しているようにさえ見えた。田舎の「討論会」の新入生と同じように、手の内を明かすのに苦労しているようだった。
しかし彼の背後には英国の力があり、「英国紳士」と呼ぶにふさわしい何かがあった。その晩、私たちはレジデンスの階段に座っていた。ドイツ人は戦後、人口を増やすために何をやってもいいが、彼のような人物を手に入れることはできないだろうと言った。そんなところだ。 食事は大学の食堂でとるのだが、機関銃の肉は世界共通だ。健康的でとても美味しいです。今週は2回お茶を飲みに行き楽しんだ。
金曜日はアイラからの手紙で台無しにされた。カール(モンゴメリの異母弟)はヴィーミー・リッジで膝から下を吹き飛ばされ、今はイギリスの病院にいるとのこと。かわいそうに。 このまま一生を棒に振ることになるとは......。でもアイラが言うには、彼はとても明るく、気丈に振舞っているそうです。そのような代償を払っても、あの地獄から逃れられたことに感謝しているのだろう。

昨晩、Fleeと私は月明かりの中、川沿いの道をとても美しく散歩しました。過去、現在、未来の千の事柄について語り合った。月光は銀色の川で踊り、川岸は影の中で夢を見ていました。
そしてなぜか、フレデはお互いの精神に近づき、お互いの心の中を知った。言葉を交わさずとも互いの胸の内がわかる。
今週は戦争のニュースが少なく、ロシアの状況は悪化の一途をたどっているようだ。モントリオールの新聞は恐ろしく悲観的な見方をしている。ケベックに徴兵制を受け入れさせようとする意図があるのかもしれない。しかし私は楽観的な「Globe」紙の要約を待ち望んでいる。金曜の夜のモントリオール・スター紙の社説は、ほとんど私を押し殺してしまうようなものだった。

1917年6月6日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
私は先週の日曜日の夜11時半にセントアンズを出発した。寒く、風が強く、寂しい夜だった。
フレデと別れてひどく落ち込んだが、しかし楽しかったにもかかわらず、愛する息子たちのもとに帰れることが嬉しかった。なんと私は彼らを待ち望んでいたのだ。毎晩ベッドに入るとスチュアートの丸々とした腕を首筋に感じることができた。
翌朝、私はトロントに到着した。仕事の面では満足のいく一日を過ごし、そしてUxbridge行きの列車に乗った。非常に疲れたが、帰りはゆっくり休もう。マクレランド氏からもらった新しい本を読んでリフレッシュすることにしている。しかし私は休息が許される人間ではない(列車でウザい客に当たったことを皮肉っている)。汽車は混んでいて、年配の商業旅行者が私と同席した。その人はわざと私に話しかけるようで、私の疲れた耳に死ぬほどひっきりなしにとめどなく色々な事を流してくる。
彼は、政治、戦争、徴兵制、婦人参政権、そして彼と彼の妻が家族を養い、収入を分配する方法について絶え間なく話してくれた。もし私がブラックウォーター(アクスブリッジで乗り過ごして先の駅まで行ってしまった場合)に行っていたら、私は死んでいたかもしれない。しかし私はかすかな希望を胸に、アクスブリッジでよろよろと歩き出したのです。
そこからリースクデールの家までのユアンとの楽しいドライブは、春の薄明かりの中、私の中にまだかすかな生命の輝きを残してくれた。

1917年6月8日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール
疲れるほどの無為無策の後、今日は戦争のニュースがあった。イギリス軍はMessines Ridgeを占領した――これは特筆すべき成功だ。ロシアの状況は少し晴れたようだ。
ヒュー・マスタードが今日亡くなった。ユアンと私は彼の死を切実に感じている。彼は私たちの教会での右腕であっただけでなく、個人的にとても親しい友人だった。彼と結婚式の帰りにアクスブリッジに寄った時、奥様とお会いした。
彼の心のこもった握手をいつも覚えている。私は彼の死を、他の信徒たちの死とは違うものとして感じている。

1917年6月14日(木曜日)
オンタリオ州リースクデール
昨日、私は旗を掲げようと思った――旗を掲げる精神はほとんど失われてしまったが、つまり、連合国はついに彼とドイツ人の王妃をギリシャから袋詰めにして、ギリシャのコンスタンティンが「退位」したというニュースだ。ベニゼロスは今自分のものになり、彼の希望の残骸からできることを取り戻す機会を得るだろう。
昨夜イーディス(今のお手伝い)と私は赤十字の社交場で朗読する約束でゼファーに向かった。ものすごい雷雨が来て、私たちはそこに一晩滞在することになった。一晩中ひどい目にあったよ。
今朝は早く帰ってきて、急いで仕事を片付け、午後には6日の赤十字社に行った。ああ、ベッドがない!

1917年7月7日(度曜日)
オンタリオ州リースクデール
チェスターの誕生日です。あの小さかった子が信じがたいことだ。体格も良くなっている。バラ色に日焼けし健康そのものだ。ある意味扱いにくい子供だった。しかし、この時期もそろそろ終わりだ。彼は今理解力と自制心を備え始めているので。私の仕事も楽になるはずだ。
彼はとても忠実で、素直で、優しい心を持った小さな魂です。欺瞞や卑怯な狡猾さとは無縁のようだ。意地悪なところもない。
彼の誕生日を祝うために、私たちはピクニックを計画した。親友のキャメロン・リースクとダグラス・マディルを招待した。しかしピクニックの場所に着くやいなや雷雨に見舞われ、やむなく家に逃げ帰りベランダでピクニックをすることになった。
この一週間、戦争のニュースは良かった。ロシアは素晴らしい復活を遂げ、ブルジロイが攻勢を開始し、その前にあるものすべてを一掃しているようだ。
しかしそれは続くのだろうか? あるいは、私はロシアの努力の安定性をあまり信じていない。彼女が始めた攻勢はすべて頓挫している。(ヨーロッパでは国を女性に例える癖がある)
これは例外であることを期待している。しかし私は彼女の革命軍をほとんど信頼していない。

チェスター(下)と誕生日のピクニックに呼ばれたダグラス・マディル、キャメロン・リースク

1917年7月21日(土曜日)
オンタリオ州リースクデール
あなたがたに言うが、ロシア人を信用してはならない。1週間の素晴らしい成功の後彼らは急速に後退している。
退却のようだ。裏切り者の連隊が持ち場を離れている――おそらく、ドイツの金で買収されたのだろう。状況はこれ以上悪くなりようがないだろう。
今日、私は「アンの夢の家」の著者版(テスト印刷版か)を手に入れた。出版されるのは8月24日だが。ストークスは6月に試験的に出版することをあきらめた。私は最近、雑誌のことで悩むことはない。Iペイジは何もできないし、そんな馬鹿なことはしないと思うからだ。
『夢の家』は、きれいな表紙のデザインでうまく「作られて」いる。もちろん後者は非常に非論理的だ(絵がアンの姿と合わないというのだろう)。25歳のアンはまるで17歳の少女のように見える。しかしそれはすべて非常に可憐であり、"業界をキャッチ" するだろう(出版界で評判になるだろう)。私はこの本が成功することを願っている。もし失敗したら屈辱的だ。
なぜなら、ハットストークス社が、「大きな条件」を提示するように誘導されたと思うからです。
ストークスは、「商品」(売れる作品のこと)を提供できない作家に「大きな条件」を与えるように誘導されたと思われるからだ。(売れない作家のために沢山の印税を払わされたと)そうすればその出版の失敗によりページが喜ぶだろうと。
私自身はこの本は私が今まで書いた中で最高のものだと思っている。グリーン・ゲイブルズや、私の大好きな『"The Story Girl"』を除いては。しかし世間はそう思うだろうか? カナダの前売り注文は12,000部だ。ペイジは3,000部以上売ったことはなく、1部や2部以上売れることはめったにない。
この物語の舞台は、主にフォーウインズ港である。ニュー・ロンドン港を思い浮かべたが、私の要求に合うように地理を変えた。「キャプテン・ジム」は、私が創作したペットである。彼は数年前に"ジェシー船長の人生録" というタイトルで出版した短編小説で初めて登場した。彼が語る話のいくつかは、私が昔祖父から聞いた話だ。特にチニキー神父の話は、私が何年も前に祖父から聞いていた話だ。

1917年8月5日(日曜日)
なんだかひどく憂鬱な気分だ。今週は大変な一週間だった。最初のうちはうだるような暑さだった。月、火、水の夜はとても暑くて、家の中で寝ることができなかった。だから私たちは外で寝た。子どもたちはベランダのすだれの陰で、私は大きなリンゴの木の下でハンモックに揺られながら寝た。
私はこれまでずっと、「外泊したい」と密かに願ってきた。ずっとキャンプに行きたいと思っていた。その願いが叶った。その日はとてもよく晴れた夜で、南西の空に満月。風がそよぎ、花の香りが漂う。花々の香りが漂い、ホイルの言うとおりになった。しかし残念なことに蚊が何匹もいた。蚊はロマンスの本など知らない。私は2時まで我慢して図書館の床に引きこもりました。
戦況は芳しくない。ロシア軍は退却している。全軍が意気消沈している。ブルシロフは辞職か解任された。大将だっただけに残念だ。どこに行き着くのだろう?

1917年8月8日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール
月曜日の午後、私はトロントに行き、その夜ユニオン駅でバーティー・マッキンタイアに会った。彼女に最後に会ってから6年になる。 最初は少し不思議な感じがすると思っていた。その6年という月日がまるで霧のように見えると思っていた。しかしそのようなことは何もなかった。私たちは出会った瞬間から一体となっていた。その差はケンジントン駅での別れは昨日のことのように思えた。バートは相変わらずの親愛なる少女で、楽しさと哲学に満ち溢れている。私たちは昨日家に帰り、昨夜は朝方まで応接間で神学と倫理の問題を解決した。

1917年8月15日(水曜日)
今日、ワーナー氏の運転でシムコー湖に行き、ピクニックをした。楽しいボート遊びと、飛行機を見ることができた。飛行機が静かに飛んでいるのを見ながら私はバーティに、思いついた詩を引用した。

     "テーベの鷲が負うピニオンの威厳と
     テーベの鷲が持つ
     紺碧の大空を駆け抜ける
     紺碧の大空を駆け巡る"

とても素晴らしいことだ。しかし飛行機によって人類はより幸福になるのだろうか? 人間の幸福の総和は、たとえそれが変化しても、時代によってほとんど変わらないように思われる。
「多くの発明は、それを減少させることも増加させることもない」結局のところ、「天の王国はあなた方の中にある」のです。

1917年8月17日(金曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
今朝、ユアンと私はバーティーを駅まで送り彼女が出発するのを見送った。彼女は東部に留まるつもりはないようだ。私はそれがあまりにもひどいことだと知っていた。本当であってはならないことだ。彼女の滞在中はとても楽しい時間を過ごした。 でもそれが終わってしまうと人生は寂しいものになる。
バーティと私は、昨夕の日没時に北側の丘陵を最も印象的かつ華麗に散歩した。バーティと私は夕暮れ時に北の丘に登り、雲の中に絵を求めたのだが、 もし道沿いの家々から私たちを見ていたら、完全に精神異常者と判断されたに違いない。私たちは顔を空に向けたまま歩いていた。 突然立ち止まり興奮気味にお互いの腕を掴み雲を指差すのだ。
今日の午後、ジョーンズ家の牛が雷に打たれて死んだら、ジョーンズ夫人はきっと私たちの奇妙な呪文のせいだとと言うに違いない。でもバーティは帰ってしまった。今夜の家はとても空っぽだ。

1917年 8月31日(金曜日)
結局バーティーの最後の味はこれではなかった。運命の出会いがあった。
ボンボンの箱をくれたんだ。バーティがトロントに着いた時、バンクーバーからの電報で 一週間の休暇をもらったそうだ それで、先週の月曜日、私は水曜日の朝までLauraの家にいた。ローラとバーティと私は、夜の展覧会とグランドスタンドのショーを見てまるで昔のお祭り騒ぎのような楽しい時間を過ごした。
シャーロットタウンに行き、3人でオペラを見に行った時のような楽しい時間を過ごした。数日間、このような楽しい時間を過ごすことができた。宣教師の会合やバンド、ギルドといった永遠の呪縛から解き放たれて気ままに楽しむことができた。
アール・グレイは長い闘病生活の末に亡くなった。私はそれを聞いて残念に思った。そうですか。もうこれ以上名もないリゾート地の玄関の上がり段で、彼と腹を割って話すことはないだろう。もうこれ以上、彼と語り合い彼の伯爵夫人を嫉妬のどん底に突き落とすことはないだろう。
今週は西部戦線の戦況は良いが、ロシア戦線からのものは非常に気落ちするものだ。戦争は4年目に入った。人類はどこまで耐えられるのだろうか。そして戦争が始まったとき、「クリスマスまでには終わるだろう」と言った人たちがいた。ユアンもその一人だった。
私が「少なくとも3年は続くだろう」と言った時の彼の寛容な表情が今も目に焼き付いている。(ははは、まあそうとでも思えばいいさという)

1917年9月8日(土曜日)
リースクデールの牧師館
今週ロシアからの戦況は非常に悪い。ドイツ軍は"ドヴィーナ川を渡りリガに進軍中" "リガを占領する" 勢いだ。
もちろん裏切り行為がその根底にある。イタリア軍は健闘しており、いくつかの重要な成功を収め、最終的にはオーストリアの排除を意味するかもしれない。
火曜日の夕方、ゼファーでの退屈な「宣教師のお茶」から帰宅したとき、異母妹のケイトがビーバートンからいとこたちを連れて車でやって来ていた。翌朝ユアンと私は車でビーバートンに向かった。彼は私をマッケンジー家に残し、私はそこに3時間ほど滞在した。
この3時間は、今までで一番長い時間でした。
私はケイトに失望した――なぜ失望する必要があったのかはわからないが、6年前彼女がオクストビー家に来た時のことをよく覚えていたからだ。あんなに無気力で退屈で面白みのない娘だった。一生懸命話しかけようとしたが、個人的な話題も、非人間的な話題も、彼女にとっては少しも興味を引かないようだった。父(ヒュー)と目鼻立ちが似ているくらいで、父親の面影はない。また母親にも似ていない。母親はどんなに嫌な奴だと思っても、かなり強い性格の人だった。
ユアンがやっと現れたとき、私は深く感謝した。30分ほどおしゃべりして私たちは帰りました。「それであれが君の妹か」彼はそう言って立ち去った "何て非常識な人なんだ" "意味不明な" というのは、まさに形容詞である。
ケイトはウィニペグの病院で看護を勉強しており来春には卒業する。彼女は明らかに自分の仕事をあまり期待していないようだ。
というのも彼女は教師が嫌いで、自分が "どんどん" 成長し、地平線の霧の中から湧いてきた気持ちは、教えることが嫌になったからだと思う。ケイトは30歳前後である。ある点では
彼女は確かに母親の娘である。「楽しいひととき」や余計な興奮を求める落ち着きのなさ、そして「自分の人生」を嫌うところなど確かに母親の娘だ。
そして仕事への苦手意識。モンゴメリ夫人は、私がこれまで会った中で最も怠惰な女性だった。
要するに、私の心はケイトに少しも惹かれなかったのだ。私たちは生まれつきの偶然を除いては、「近親者」ではないのだ。

1917年9月27日(木曜日)
ユアンの神経炎は良くも悪くもない。何をやってもダメなのが不思議に思える。フェナセチンなどを投与すると一時的に楽になる人が多いのだが、彼には水を何杯も飲むほどの効果はない。唯一、一時的にでも緩和されるのはお湯をかけることだ。
今日、英国の前進という心強いニュースがあった。しかしその「前進」はあまり進まないようだ。そして、アマンダから恐ろしい手紙が届いた。不幸を嘆きながら 亭主を罵倒していた。ひどい内容だった。胸くそ悪い話だ。彼女はジョージ・ロバートソンを理解していたのに、愛もなく尊敬もせず結婚したんだもの。もし自分の気性を抑えれば彼女はいい人だった。(マリラの手本か)もし彼女がその気性を抑えられなければ、彼女の惨めな老父と同じようになるのよ。
父の死後、あの晩のアマンダの振る舞いが忘れられない。あの時のアマンダの態度は 悪魔憑きの伝説を信じるには十分だった。死ぬまであの絵が(あの光景)目に焼きついている
アマンダは怒りで顔を引きつらせていたが、台所を出て二階へ行くよう説得した時だ。悲嘆は感じなかった。
「この恥辱をもたらした」父親に対する激しい怒りと憤りだけだった。自分の気性のせいで、この老人を恐ろしい結末に追いやったのだ。そしてその気質が彼女を同じような結末に追いやるのではないかと、私はとても恐れている。昔はあんなにいい子だったのに......。なんということだろう。彼女の人生の悲劇は、すべて短気と嫉妬という双子の悪魔のせいだった。でもあの頃のことを思い出すと......散歩やおしゃべり、夜のお出かけ......。
あの頃のアマンダはまだどこかにいるはずで、この変わり果てた姿は、彼女ではないような気がするのです。

1917年9月28日(金)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
ユアンはまだ良くなっていない。私たちは月曜日に出発する準備をした。しかし1週間延期することにした。
今日は梨の缶詰を作り、夕方には教会に行って社交ギルドの司会をしてきた。ユアンがいないときはあまりやりたくないことだ。祈りが捧げられなければならないからだ。

1917年10月24日(水曜日)
10月は今のところ忙しい月です。1日にイーディスが休暇で出かけてしまい、私は人生で最も忙しい1週間を過ごした。
家事全般をこなし、私たち自身も出発の準備をし、缶詰や保存食をたくさん作った。ユアンの神経痛は徐々に良くなっていったが、しかし私たちの眠りは浅く、月曜日に旅に出たとき、私はとても疲れていた。
もう寝た方がましなくらい疲れた。私たちはその夜11時にトロントを出発し、水曜日の朝にボストンに到着した。その少し後、私たちはEast Braintreeにいた。そこには、フローラ(現在はイーグルス夫人)と彼女の夫がとても居心地の良い、便利な小さなバンガローを持っている。
前回ボストンを訪れたときとは全く違っていた。ひとつにはビーコンストリートにある(ペイジの)事務所を尋ねることがなかった。
私はこのことに少しため息をついた。あのときの(初めてペイジ社を訪れた時の)ボストンの旅はとても楽しく、ペイジさんはとても親切だった。
彼はよかったのにミルドレッド(ペイジの妻)は彼を離婚した。客として来た時には気づけなかったが最近になって分かった発見があった。ミルドレッドはルイスの3番目の妻だったようだ。最初の妻は結婚後すぐに死んだようだ。その後彼はボストンの女性と結婚したのだが、とても美しく、優秀で魅力的な女性だった。やがて彼女は彼の不貞を疑うようになった。
彼の事務所のスタッフに夫と離婚した女性がいたのだが、なぜかわからないが。ペイジ夫人は夫を影で監視し、疑惑が的中したことを知り離婚した。そして彼は新しい恋人ミルドレッドと結婚した。二人は私がいたころには結婚して6年目だった。もちろん私は何も知らなかった。
しかしこのことは、私がそこにいたときに少し疑問に思っていたいくつかの事柄を説明してくれるということだ。ミルドレッドは去年の春、残酷だ扶養に入れないという理由で彼を訴え、離婚を成立させた。
つまりそういうことだ。彼は元妻二人に毎年1万ドルずつ慰謝料を払わなければならないのだから、著者(である私)をだますのも無理はない。(1万ドルは明治初年なら1億円くらいの価値に相当し、この頃では2000万円くらいの価値であろう)

一週間の滞在で、子供たちのためにあまり外出しなかったのだが、とても楽しい時間を過ごせた。2人ともとてもいい子で、どこに行っても注目の的だった。特にスチュアートはその楽しい笑顔で皆を魅了した。私は午後はボストンでAlma Macneillと過ごし、楽しいひとときを過ごした。
帰りは午後10時にモントリオールに着き、Fedeと彼女の夫が出迎えてくれた。
Fredeと彼女の夫に会ってた。カム(フレデの夫)は数日後に戦線に出発する。しかし私たちは1時間ずっと、冗談を言ったり、笑ったり、くだらない話をしたりして過ごした。
ある低気圧のせいで私たちは別の音を出すことができなかった。カムはもう行ってしまった。私は彼が戻ってくることを望んでいる。
でも、あの地獄から無傷で帰ってくることを期待するのは無理がある。少なくとも一度でも彼に会えてよかったと思う。彼は今は本物だと思う。以前は神話のように思えた(フレデと結婚するのは間違いではないか)が、それはフレデの件では正しいとは思えなかった。
私が旅行するたびに......あの惨めなロシア人どもは......何かを企んでいる。台無しにする。私はこの方面でトラブルが起こることを確信していた。
出発前にまた不思議な「雪」の夢を見たからだ。案の定ドイツがリガ島を占領し、ペトログラードへの進攻が予告された。しかしこれは続いておらず、事件はほとんど解決したように思われる。
私が夢で見たのがそのことだと思えれば、危険は去ったと思えたからだ。しかし悪いことではあるが、私の夢を「正当化」するほど悪いこととは思えないし、もっと悪いことが起こるのではないかという不安な気持ちもある。ロシアにこれまで起こったことの中で最悪の事態がまだ来ていないような気がする。
イギリスとフランスは、最近、局地的な勝利を収めている。

1917年10月30日(火曜日)
リースクデール、聖ポール天主堂
毎年秋になると、戦争に関する何らかの大惨事が起こり、終わろうとしている日々を苛立たせている。
2年前はセルビア、昨年はルーマニア、今年はイタリアになりそうな気配だ。ああこの数日の苦しみは!? 青天の霹靂のような出来事だ。イタリアはこの夏も勝利を重ねトリエステへの道を一歩一歩進んでいた。
10月25日、ドイツ軍がイタリア軍に大攻勢をかけるという驚くべき噂が流れた。金曜日になると、ドイツ軍から悪い知らせが届いたが、それほど悲惨なことはなさそうだった。土曜日になると、ボルトが落ちた。その日はとてもいい天気で、私たちは芝生や庭を掃除して楽しんでいた。すると郵便が来て、ドイツ軍がイタリアの北の戦線を突破し、3万人を捕虜にしたという。
さらに悪いことに、イタリア全軍の過去3年間の成果を危険にさらしたという知らせが届いた。土曜日の午後、私は心配になった。夜イーディスがアクスブリッジに電話をかけた。夜間新聞社に戦争のニュースが届いているかを聞くためだ。私は彼女を止める勇気はなかったが、私はこれまで、土曜の夜に電話をして、日曜に大きな不安を抱かせるようなことはしたことがない。
しかし、私は彼女にそれをさせ、ニュースが良くなることを無責任に願った。だがそれは限りなくもっと悪かった。6万人が捕虜になり、多くの銃も奪われた。
私は恐ろしい一夜を過ごした。私は自暴自棄になってヴェロナルパウダー(睡眠薬)を飲んだが、しかしその短い眠りの中で、またしても奇妙な夢を見た。イタリアは完敗しないと門の角からやってきた。
日曜日は最も惨めな日であった。私は教会に行きイタリアの情勢に心を奪われ、まるで拷問の輪のようにその周りを回転させながら座っていた。午後には私は読書をすることができなかった。私は床を歩き支配者や権力者と格闘した。日曜の夜は疲れ果てて眠った。昨日の朝はユアンが出勤するまで せっせと働いた そしてもう何もできなかった。居間に閉じこもって床を歩き回り不安にかられた。
ゴーリッツが占領され、10万人のイタリア兵が捕虜となりイタリア全軍が撤退したというのだ。イタリア軍は完全に撤退していた。
私は気が動転してしまった。私ができることといえば注意力を必要としない平凡な縫い物だけだった。5時まで夢中で縫い、それからまた応接間に戻って2時間ほど床を歩き回った。床を歩き回り、黄昏時のような苦痛を味わった。夕方になると読書ができるようになったが、ほとんど意味はなかった。
悪夢が降り注いでいた。戦争が始まって以来嫌なことは何度もあったけれども、しかしそのすべてを合わせても、昨日のような事はほとんどないに等しい。
その中でも特に最悪だった。昨夜は眠りが浅く、秋の気配が漂う寒い昼下がりの間、午前中はほとんど何も考えずに、ただひたすら定型的な仕事をこなした。郵便が来たときは少しはましだった。初めてイタリア軍がまだ至難の業から逃れられるかもしれないという希望が見えたのだ。

1917年11月1日(木曜日)
昼はハウスクリーニング、午後は赤十字社へ、夜はギルドへ。
心配と不吉の迷路のようだ。Cadornaは部下を奮い立たせているようだ。しかし状況はまだ非常に危機的である。私は数週間にわたるサスペンスを予感している。
戦争の初期には、私たちはそれに耐える強さがあった。しかし勝利を願っていた4年目には、とても耐えられそうにない。そのイタリアが逆転したのは主にロシアの崩壊が原因だ。オーストリアは東部戦線から兵を引き抜いて、イタリアにぶつけることができた。

1917年11月7日(水曜日)
イタリア軍はピアヴェ川まで順当に退却している。これを聞いたとき、私は奇妙な静けさを覚えた。イタリアに関する限り、最悪の事態は去ったという霊的なメッセージを受け取ったかのように。
ピアヴェの戦線を維持することはできず、さらにアディジェ方面への後退を予測したのだ。しかしピアヴェ線を維持しなければ、ヴェネツィアはフン族に陥落する。(その昔ドイツは中央アジアの蛮族であるフン族と戦っていたのですが、この時代にはドイツがフン族だとみられるようになったのです。ドイツの好戦的な姿勢はフン族にも関係しているかもしれません)想像を絶する大惨事だ。彼らはそれを知ってはならない。うなだれるしかない。
私は自分のメッセージを信じ、お茶を飲みに行き、あの忌まわしい土曜の夜以来、初めて楽しい時を過ごした。
カナダ軍はパッシェンデールを制圧した。パッシェンデールで(カナダ軍)が勝利した。一晩前なら大々的に報じられただろうが、イタリアの惨事の陰で、今はほとんど注目されていない。

1917年11月9日(金曜日)
オント州リースクデール
私の「ロシアの夢」は、残念なものであった。今日ロシアから最悪の知らせが届いた。ケレンスキー政権が倒され、ボリシェヴィキ(共産党軍)がロシアに駐屯しているというのだ。親ドイツ派として悪名高い二人が権力を握っている。これはより悪いことが続くということを意味している。

1917年11月12日(月曜日)
郵便物が届くのが言いようもなく恐ろしかった。グローブ紙のニュースはかなり明るいものだった。メールとワールドは、アディジェへの撤退は避けられないと見ているようだ。
ベニスが...いや、私はそんなことは思わないし信じない。ベネチアは救われるだろう。ロシアからは荒唐無稽な噂が飛び交っている。ケレンスキーがペトログラードに進出するらしい。だが私はとっくにケレンスキーを信用していない。彼は優柔不断な奴だ。ロシアは神々に脅かされている。心配は無用だ
明日私はトロントへ行き、弟のカールに会う。彼は戦地から帰ってきて足の治療のためにトロントで冬を過ごす。正直なところケイトと会うことを考えると、私は彼に会いに行くのが怖い。

1917年11月14日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール、牧師館
昨日はとてもいい天気だった。ユアンが私をアクスブリッジまで送ってくれて、私は列車に乗った。車内のずっと下で(向こうの方で)、一人の男がグローブ紙を読んでいた。私はその見出しの一部を目にした
"イタリアで大決戦" という見出しが目に入った。私は惨めな恐怖とサスペンスの中に座っていた。もし大きな戦いがあったのなら、それはイタリア軍の勝利にはならないはずだ。そうでなければ別の見出しが付けられていただろう。イタリア軍は敗北し、ベニスは失われたのだ。頼むから、どうして列車員が新聞を持って来なかったんだ。
「新聞を持ってきて!!」。私が欲しがらなかったら、1ダース単位で通過していただろう。(私が新聞を欲しがらない時には新聞売り子がたくさん通るのに)そしてトロントまでの道のりの半分を私は惨めにもそこに座っていた。事を理解しようとし、呆然と座っていた。
車掌が私をちらっと見て、明らかに私が一人で(新聞を買いに)出かけたいのか。と訝しんだ様子だった。ようやくニュースボーイ(新聞売り子)がやってきて、私は夢中でグローブ紙を買いました。
買ってみると、私をあんなに苦しめた見出しは、「連合国、イタリアで大決戦の準備」だけであった。状況は非常に危機的である。その戦いの結果次第でベネチアを失うどころではない。ロシアからの噂は荒唐無稽だ。戦闘があり双方とも成功を収めていると言っている。
私は町からローズヒル・アベニューに向かったが、そこではカールが母親の従兄弟のところに滞在していた。カールは片足で玄関までやって来て私を出迎えた。私は彼を捕まえ彼にキスをしました。その出会いを恐れる必要はない。彼は父の息子であり、私の正真正銘の弟です。彼は父にとてもよく似ています。見た目もそっくりです。要するに彼はまさにダーリンです。それは私にとって大きな救いだった。もしカールを愛せなかったら私はひどく傷ついていたことだろう。
それはケイトの時よりもずっとひどい状態だったろう。私たちは楽しい午後を一緒に過ごした。彼は父譲りの笑いを誘う話術を持っていた。
父に似ている。彼はあまりにも父に似ていたので、私は彼が父であり、私が彼の娘であるという、とてもばかげた感覚を覚えた。
昨日の夜、家に帰った。今日も相変わらずの郵便物の恐怖があった。ユアンが郵便物を持って入ってきたらきっと死ぬわ。

戦争で片足を失ったカール。抱かれている子はスチュワート

1917年11月20日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
イタリア軍はまだもってているが、状況は危機的状況にあるようだ。私は絶え間ない不安を感じている。
今日は新しい本を2時間書いて、夕飯を食べに行き、夜を過ごした。夜は素敵なご家族とご一緒させていただき、私はそれなりに楽しめたが、しかし、常に不安はつきまとう。
私は笑ったり話したりしながら、もう片方の心でピアヴェの前線に取り残された。今、私はそれを直視することができないような気がしている。この一週間は戦争のニュースに立ち向かえないような気がする。この一週間がヴェネチアの命運を決することになるのだから。
しかしおそらく朝までには、私は井戸の眠りから、まどろみから少しは新しい力を得ると思っている。

1917年11月23日(金曜日)
今日は本当に素晴らしい一日だった。昨日は嵐に見舞われ郵便物が届かなかったので、今朝は私の恐怖は倍増した。しかしニュースは素晴らしいものだった。
西部戦線でイギリスがこの戦争最大の勝利を収めたというのだ。このような知らせはこの一ヶ月間、絶え間なく飲んできたヨモギの酒の後では、このような知らせはほとんど酔っぱらったような気持ちを与えたものだ。
そしてイタリアはまだ粘っている。今日の午後私は解放された囚人のような気分だった。私は元気よく支度をして、大雪と厳しい寒さの中ゼファーまで5マイルを夕食を食べに行った(信徒参り)。もしいい知らせでなかったら私は耐えられなかったと思う。しかし、私はにこりともせずそれを(その知らせ)飲み干し、その後、楽しそうにしていた。

1917年11月26日(月曜日)
今日の午後、ロバート・ボーデン卿とパウエル氏の講演を聞きに、アクスブリッジまで車で行った。私は今度の選挙に特に関心がある。この選挙がカナダで最も重要なものになるからである。
ケベック州の長い支配が終わったことを示すかどうかという理由だけでなく、私は弟のカールのおかげで、一票を持つことができたからだ(どこの夫人も親族を戦争に出している者は1票を持つことができるとロバート卿は演説した)。
すべてのカナダ人女性にもうすぐ投票権が与えられる。ロバート卿は確かに演説家ではないが、力強く率直な話し方で、彼の言ったことは記憶に残る。パウエルはもっと華やかで雄弁だ。強さには欠ける。もし私が彼の言葉をすべて信じていなかったら(言う内容を信じていなかったら)、彼の演説には説得されないと思う。

1917年12月1日(土曜日)
ラックの次の回転を前にして一息ついているところだ。昨日、昨日も今日も特別なニュースはなかった。今夜は静かで誰にも邪魔されず読書ができた。
読書のための静かな夜だ。レッキーの「合理主義の歴史」を読んでいるところだ。神々よ。どんな血の海を、どんな赤熱の鋤の上の苦悩を人類は乗り越えてきたのだろう。人類はその前進のために巻き返しを図った。それは必要なことだったのだろうか。全知全能ノ神は登攀の難易度をもう少し低くすることはできなかったのだろうか――おそらく困難ではあったが苦痛ではなかったのだろう。
ラックと杭と蝶ネジが唯一の方法だったのだろうか? これらの疑問はしかし、心はそれを問い続けるのだ。

1917年12月3日(月曜日)
トロント、ニナ・アヴェニュー2番地
今朝、Mary Bealのところで1週間過ごすために来たんだ。私は変化を必要とし楽しんでいる。でも、自分の家を離れ、子供たちと離れることは、私の心の琴線に触れるものである。離れるのは辛い。戦争のニュースはあまり心強いものではない。ドイツ軍ははカンブリーで勝利したイギリス軍の影響を覆すべく全力を尽くしている。部分的には成功するだろう。
今日の午後、私は「未来における女性の責任」というテーマで、赤十字の支部でちょっとした講演をした。私は人前で話すのが嫌いなのですが今日はやってみた。特に未来の子供たちの運命について。
聴衆の一人、ミス・ボラートからは、今夜もう一度スピーチをしてほしいと頼まれた。今夜、シャーボーン・ハウス・クラブの女の子たちに、このスピーチをもう一度してほしいと頼まれた。
メアリーと私はそのクラブで食事をし、その後で彼女たちに話をしました。その結果私は今夜は「オール・イン」であり、壇上のスピーカーになることに何の憧れもない。

1917年12月4日(火曜日)
2 Nina Ave., トロント
今朝、マック(出版社)の店に行ったら、他のものの中にこんな不思議な事実を発見した。L.C.ペイジは私への手紙と弁護士への手紙で、「どんなことがあっても」私の新しい本に関してマクレランズと「どんなことがあっても」取引しないと何度も宣言していたのに、この本が出版される3週間ほど前に彼の弁護士に手紙を出し、こっそり調べてくれるよう頼んだのだ。
それが彼の正確な言葉だったとは言わないが、そういう意味だったのだ。ペイジ氏が正気に戻ったのは遅きに失した。ストークス社との契約が成立し、同社が本の広告を出したことを知ったからだ。
仮に私がそのようなことを考えたとしたら、それは無理な話だ。マックにチャンスがあると思ったのか理解に苦しむ。(ペイジはまだマクレランズ社と取引できると思っていたのか)
私はマックとナショナルで昼食をとり、今晩はスチュワート氏のところで食事をした。カールもいた。彼はとてもいい子で、会うたびに好きになる。

1917年12月7日(金曜日)
トロント、ニーナアベニュー2番地
昨日の4時、私はイートンの華やかで騒がしい店から、冬の終わりの午後の鈍い灰色の光の中に出てきた。私は少し疲れて鈍い感じがした。
新聞配達員が新聞を振って通り過ぎたが、その新聞には大きな黒い見出しがあった。「ハリファックス市壊滅」とある。私はそれを何気なく見て嫌な予感がした。また捏造新聞か」と思った。
数週間前、戦勝国融資キャンペーンのストレスの中で、ある勧誘員が1921年に発行されたと称する偽の新聞を持ち出した。
この新聞は現在の戦争が引き分けに終わったと想定している。ドイツは立ち直り、4年後今度はイギリス一国に襲いかかった。英国艦隊は壊滅し、この論文はその後のドイツ軍のカナダへの進軍を扱った。ドイツ軍がカナダに上陸したことを報じた。見出しは「ドイツ軍、カナダに上陸。ハリファックスとセントジョンズは廃墟と化した」等と見出しをつけ、その詳細については「デスパッチ」が伝えている。
その内容はトロントの善良な人々の何人かを恐怖に陥れるところだった。トロントの善良な人々の何人かは、怖くて気が狂いそうになった。彼らはこれが本物だと思ったのだ。
しかし、私はこのようなことを繰り返すのは愚かだと思い、政府がもっと効果的な方法でカナダ人の目を覚まさせればいいのにと思った。私は、「ああ、そうだったのか」と肩をすくめながら、車のコーナーに下りていった。
ここで二人目の新聞配達員が通り過ぎたが、その新聞は偽物ではなく本物の "スター" 紙だった。しかし私は心配しなかった。ハリファックス・シティという汽船が難破したのだ。ルシタニア号の時代なら大騒ぎになっただろうが、今ではごく当たり前のことだ。しかし私は軽い好奇心から新聞を買ってきて、それを開いてみた。
20分後、私は山手の車の上で、どうやってそこに行ったのか全く思い出せないまま我に返った。幸いなことにその車両は、頭の中が混乱している間に自動的に乗り込んだ正しい車両だった。
ハリファックス港で軍需品を積んだ汽船が爆発し、街の半分が廃墟と化した。人命の損失は甚大であるという。気持ちの悪いことこの上ない。ドイツ軍が関与していないとは考えにくい。徴兵制の選挙を目前に控えたこの時期に、あまりにも衝撃的な出来事だった。しかし表面的に見える限りでは、爆発は2隻の船の偶発的な衝突の結果であった。
私がここに着いたのは、「名誉なことだ」と頼んできたジャーヴィス・セント・カレッジの女の子たちを迎えるのにちょうど間に合った。「インタビューさせてください」と言ってきた。私は一時間中、機械のように話し続けた。
私の意識はハリファックスの惨劇に 集中していた。あのかわいそうな女の子たちは、憧れの輪になって座り、理想に燃える少女時代の畏敬のまなざしで私を見つめていた。私はこのような面談の場で、こんなにばかげたことを感じてはいけないと思う。
しかし、私の本当の姿(事件に動揺しているおばさんの姿)とアンを崇拝する人たちが信じている姿との対比があまりにも滑稽なのだ。でも無邪気な若い人たちの賞賛はとても素敵なものである。私の本を批評的に言うのではなく羨みの目で見ている。
今日私は買い物を済ませた。ハリファックス事件は報道されるたびに悪化している。エディス・ラッセルとその家族がうまく逃げおおせたことを願うよ。多くの人が彼女の家があるダートマスで殺された。
今日の夕方、アイルズワース夫妻と夕食を共にした。陽気な夜だった。ローラは古い株の香りがするんだ。

ローラ

1917年12月10日(月曜日)
リースクデールの牧師館
土曜日に帰るつもりだったのですが、猛吹雪のため今夜までに帰宅することができなかった。 今晩はまた家に帰れるのはとてもうれしい。しかし私は トロントでは楽しい時間を過ごした。
今日の午後ダウンタウンの車に乗ったとき、反対側にあるスター誌に大きな黒い見出しがあった。"エルサレム、英国に降伏"。 思わず万歳をしたくなったが、内心で万歳をしなければならない。素晴らしいことだ。 十字架が再びエルサレムの空を飛ぶというのは素晴らしいことです。 三日月(トルコのこと)の支配が何世紀にもわたって続いていたのに。 きっともう二度とこの地を離れることはないだろう。結局のところ十字軍の目的が達成される時代に生きる価値がある。確かに十字軍の亡霊がエルサレムの城壁を埋め尽くし、エルサレムの城壁に群がっているはずである。 "クール・ド・ライオンを先頭に" "英国の征服者" たちを迎える。イタリア軍も勇敢に戦っているが、ロシアの混迷は明らかに悪化の一途をたどっている。

1917年12月11日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
今日フリーデからの手紙は、かすかな希望に一撃を与えた。 私の心から完全に消え去ることを拒んできた微かな希望に 一撃を与えた。彼女はクリスマスに来られない。ジョンおじさんの 具合が悪くて家に帰りたいそうだ。そうだね。でも寂しいクリスマスになりそう だな。そして今年はよりによって勇気だ! "最後まで耐え抜く者は救われるであろう" その通りだ。しかし途中で挫折した者はどうなる? 私たちは皆、生まれながらにして同じ忍耐力を持っているわけではない。耐えられるわけではない。西の戦線に嵐雲が立ち込めている。すべての予言者たちは口をそろえて、ドイツがロシア戦線から転戦した兵員と一緒にドイツが奮闘すると予言する。
私たちは皆、脅威の一撃から身を縮める生き物のように感じている。神よ右を守りたまえを守ってください。
また選挙をめぐる心配も絶え間なく、日を追うごとに強まっている。もし連邦政府が勝利しなければカナダは世界の前で不名誉な扱いを受けることになる。そして連邦政府が勝つかどうかは非常に不確かなのです。問題はあまりにも大きいのだ。過去の選挙結果からその結果を予測することはできない。このような選挙はカナダでは過去に例がない。最終的な結果の予測は絶望的なまでに異なる。私は私の予想も加えたい。シュアと私は誰にも予言する権利がないのか? 予言する権利があるだろう? オンタリオ州はケベック州と均衡し、BC州(ブリティッシュ・コロンビア州)とマリティーム州(大西洋沿岸諸州)は均衡する。そしてプレーリー地方(カナダ西部の平原)は連邦政府に有利になる。 神々の膝の上で。

1917年12月19日(水曜日)
オンタリオ州リースクデール牧師館
12月17日(月)、私は初めて投票しました。私はこれまで政治に特別な関心を抱いたことはなかった。おそらくそれは女性は理論的な興味しか持てないからだろう。しかし投票に行きたいと思ったことは一度もない。学問的な問題としては女性は投票すべきだと思っていた。例えば、教養のある知的な女性が選挙に行かないのは馬鹿げているように思えた。
ばかばかしいと思った。しかしそんなことはまったく気にならなかった。そして今女性が選挙権を持ち、あるいはまもなく持つことになっても、その結果新しいヒーバーや新しい大地が生まれるとはまったく思っていない。
新しい地球が生まれるとは思っていません。私はある種の改革が、女性の参政権によってかなり近づいてくることを期待し、信じている。しかし私が思うに、まだしばらくの間事態はほとんど同じように推移すると思う。そうでないとすれば戦争から生じる状況のせいであって、選挙権のせいではないだろう。と思っている。
自由主義者を自称してきた私が、最初の一票をウィルフリッド・ローリエに投じなければならないのは残念だ(そういう掟であったが投票はまだ)。一時は天使よりも低いと思っていた人物だ。それは私がそのように育てられたからにほかならない。昔は、そして今でもPE島では、人はグリット(自由党)かトーリー(保守党)に生まれ、そのままである。私の最も古い政治的記憶はマクニール爺さんが人間の形をした悪魔と見なしていた「ジョン・A卿」に浴びせられた憎悪だ。
ウィルフリッド・ローリエ(自由党党首)は祖父の政治的アイドルだった。一族に忠実な私は彼を崇拝していた。私たちの感覚は自由党の集会で語られるケベック州の古い住人の話のように滑稽なものだった。
ケベックの人たちはローリエに夢中ですね。と言った。「ああ、そうだ、彼は王様のように立派な男だ。"そうか、では君はローマ法王には及ばないと?" "ああ、そうだな"――もっと怪訝そうに、でも確信を持って。"ああ、そうだ、ローマ法王並みだ"。"そうか" "確かに″神と同じように良いとは思わないか? この老人は不安げに頭を掻いた。

「いやいや、もちろん神様ほどではありませんが......」と、彼は渋々認めた。 でも彼はまだ若いんです。ウィルフリッド・ローリエはもう老人だ。彼は栄光を失い国を裏切った。なぜか? 老衰か、迷信か、政治的狡猾さか? それは尋ねるのは無駄なことだ。おそらくローリエ自身さえも知らないだろう。
しかし月曜日に私は後悔の念と古い伝統への不忠実という奇妙な感情を抱きながらローリエの長年のライバルである保守党の長、ボーデンが率いる連邦政府に投票した。投票は牧師館に隣接する最もいかがわしい古い空き店舗で行われた。私の最初の投票所の記念に、その写真を添えておく。私が投票した候補者はサム・シャープ少佐で、彼はずっと「トーリー」派であった。もし対立候補のホッグが、同じように反徴兵主義者でなかったら私はもっと苦労しただろう(好戦派の議員に当選してほしくない)。投票が済むとあとは待つだけだ。
昼食後ユアンはアクスブリッジに行き、私は教会に行き、日曜学校のコンサートのための子供たちの練習に付き合った。 私は教会に行き、この仕事で私は10時になって家に帰ると、イーディスはこの曲を聴いていた。 イーディスが電話で聞いていて、こんな「ニュース」を持っていることに気づいた。サム・シャープが過半数を獲得し、オンタリオ州はほぼ固まった。 しかし西部では何もしていない(議席が決まっていない)。西側が不利になれば、すべての希望が失われるからだ。イーディス は寝た。私は仕事も読書もできず、じっとしていることもできなかった。そこで私は床を歩き始めた。11時半まで歩いたが足が棒になり座り込んだ。やはり女性には「政治」は無理があるようだ。
12時にユアンが帰ってきた。私は台所で彼に会い顔を見合わせましたが私は何も話さなかった。私はもう何も話せなかったし頭から足まで氷のように冷たかった。彼が、西部で何もしなかったのは(勝てなかったのは)ローリエだ。政府はすでに公平な多数派(保守党議員)を獲得しており、おそらく大規模なものになるだろうと言われた。その時私は座って泣くことができた。私は安堵して泣いていたかもしれない。この一週間、私は初めて3時の悪夢に悩まされることなく眠りについた。 喜ぶカイザーとケベック(好戦派)に支配されたカナダの幻影に悩まされることなく一週間ぶりに眠れたのだ。
昨日、完全な 昨日、選挙結果が発表され、連邦政府が45から50の票を獲得した。私の予測は通常予測されるのと同じくらい正しかったので、私は予言者のクラスCに数えられるかもしれに。にもかかわらずブリティッシュコロンビア州はユニオンがほぼ固まった。ローリエに軍配が上がった。他は予想通りで、オンタリオ州はケベック州と西部に匹敵し、西部は惜しげもなく規模を拡大した(西部で当選した議員が増えた)。 もう終わったことです。このような選挙がカナダで二度と行われないことを願っている。 このような選挙がカナダで再び行われることがないように願っている。
今日の午後、フレデから電報が届き、彼女の父親が今朝亡くなったという。ジョン叔父さんは長くは生きられないし、生きていてほしいとも思っていなかった。 この1年彼はとても惨めだったからです。彼の心は完全に失われていました。彼は ひどい妄想に悩まされ、まるで子供のように無力でした。かわいそうなおばさん アニーはほとんど消耗しており、あと数ヶ月(介護を)続ければ死んでいたかもしれない。

しかしその知らせは、古くから親しまれてきたこの場所を、見え方が変わってしまったということを実感した。ジョン・キャンベルおじさんは、私がいつも深く愛していた人だ。血のつながりがあろうとなかろうとこれほどの愛情を抱いた叔父は他にいない。
彼はとても親切でもてなしの心がある人だった。厳しい言葉を聞いたことがない。彼は84歳だった。私はそれを「感じる」ことができない。私が初めて彼を知ったときと同じように、私には彼はいつも40歳か50歳くらいに見えた。彼は知的な人間ではなかったので、そのため判断力が乏しく、「頭も仕事もできない」人だった。しかし彼は愛すべき資質をすべて持っていた。
しかし彼はもうこの世にいない。私の幼年期を「膝の上で踊ってくれた人たち」は、今ではほとんどいない。ジョンおじさんの場所が空いたと思うと体が冷えるように震える。もう二度とパーク・コーナーにいることはないと思うと、パーク・コーナーに行けば、彼の元気な握手と陽気な冗談に出会えるのだろうかと思うと体が震える。私が最後にパーク・コーナーに行ったとき、彼は悲しいことにボケになっていた。しかし彼はまだ応接間に腰を下ろし、話に加わっていた 「私は
ドイツの支配下で暮らすくらいなら、塹壕で死んだほうがましだ」と、彼は戦争の話をしながら何度も繰り返した。
お客がたくさんいるときほど、彼は幸せだった。特に太ったガチョウを切り分け、みんなに特別な食べ物をあげようと工夫しているときほど、彼は幸せだった。彼は自分の後を継ぐ息子を残していない。貧しいジョージは父親に似ている。商売の才能がないだけで、何もかもが父親に似ている。もしかしたら孫が現れてこの土地と伝統を復活させるかもしれない。
私はジョージ家の子供たちに期待している。でも昔のように娘たちが家にいて、ジョージがまだぽっちゃりした少年でジョンおじさんやアニーおばさんが 元気だった頃だ。今夜はとても寂しいわ。今夜はユアンもいないし、ダイニングルームにいるのは私だけ私の心は耐え難いほど痛むの。そして私の居場所は「外」にあるのでは......という、惨めで理不尽な思いを抱いている。
私は、目の前の壁に掛かっているパーク・コーナーの家の写真を見上げた。材木が安く、大家族が住めた時代に建てられた広々とした古い家だ。私はこの家の配置が昔から好きだった。
その配置は、これまで知っているどの家よりも気に入っている。私はただこのような家を持つことができればと思うだけです。このような家があれば私は満足だ。広々とした古いホール、立派な食料庫。暖炉や広い部屋もある。今こうして書いている間にも遠くの家は静まり返っていて部屋は暗くなっている
ジョン叔父さんは安らかに眠っていることだろう。やっと熟睡できるようになった。神様、彼に良い眠りを...そして幸せな目覚めを。

1917年12月25日(火曜日)
オンタリオ州リースクデール
クリスマスが終わってうれしい。フレドリーカがいなくなって寂しかったし、とても忙しかった。フレドリーカが家に帰ったので私は一人で仕事をしなければならなかったし、大きな夕食も作らなければならなかったので、すべてを終わらせるのに時間がかかってしまった。
私にとっては、クリスマスらしいことは何もなかった。でも子供たちは楽しく過ごした。息子たちは昨夜はストッキングを吊るして、おいしいものをたくさん詰め込んだ。
おはようございます。チェスターは今でもサンタクロースの存在を熱烈に信じており、今年はスチュアートがサンタクロースを実現させた(いると信じ始めた)。私はサンタクロースを信じていたかどうか、信じた記憶はほとんどない。物心ついたときから怪しいと思い始めていた。

1917年12月28日(金曜日)
リースクデール
筋肉と神経に負担のかかる、いろいろな意味で大変な一日だった。それは厳しい寒さだった。戦争のニュースは、フン族がイタリアに対して再び猛烈な攻撃をし、いくつかの重要なポイントを獲得していることからあまり良いものではない。(ドイツはフン族ではないが、昔中央アジアのフン族がドイツに押し寄せて戦争していたことから、ドイツ人はフン族と混ざってしまったと言いたいのだろう)
今朝、エド(お手伝いのイーディスのことか)が彼女は3月1日よりも長くはいられないと私に言った。結婚が決まったので3月1日まではいられないと。私はこんなに早く結婚するとは思っていなかったので驚いた。
彼女の妹のリリーを連れてこようと思うのだが、私は変化を好まない。そしてエドワードがいなくなるのは残念だ。彼女の欠点は片付けができないことと、意味不明な発言や場違いな発言をする迷惑な癖があることだ。しかし彼女はリリー・リードよりも気の合う同僚だった。
午後は赤十字の会合に出た。夕食後ここでギルド委員会を開き、それから教会でギルドをした。この時私はとても疲れていたのだが、あるギルドのメンバーが良かれと思って言った無粋な一言に突然腹が立ってきたのだ。帰宅して泣きました。いい子だ、吟遊詩人だ。明日は大丈夫だろう。疲労と緊張のせいだ。
[この項終わり]




日記目次に戻る