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モンゴメリ日記

1935年

1935年1月1日(金曜日)
神様、今年はどんな年になるのでしょうか? きっと去年のようにひどいことにはならないだろう...。
今日はクリスマスよりずっと楽しい一日だった。ユアンは元気になり、もうすぐ家に帰れるだろう。チェスターとルエラとプッシーが夕食に来ていた。七面鳥を食べたよ。スチュアートがくじ引きで当てたんだ! 地元の肉屋ロビンソンが七面鳥のくじ引きをした。スチュアートは1枚買い、彼の番号が当選番号だった。
チェスターは夕方トロントに戻り、私はM夫妻と過ごした。私たちはテーブルラップ(飾り付け)を作るのがちょっと楽しかった。でもとても疲れていたので、家に帰ったらベッドと猫ちゃんがいた。私はとても体力がないようだ。
今日、ローラ・カルテンから手紙をもらった。彼女はそれ以来ずっと『エコー』誌に在籍している。若者向け部門の編集者をしている。彼女はこう書いている。ローラ・カーテンらしいわね。私はそれを見て冷笑した。さすがハリファックス! 確かに エコー紙のスタッフとして過ごしたあの1年の孤独は忘れられない。ハリファックスはよそ者にとって世界で一番寒いところだと思った。ベッドで1ヶ月過ごしたい気分だ!

1935年1月2日(水曜日)
......パットIIをタイプし終えてから、新年とユアンの帰郷に備えて家の大掃除を始めた。もし最悪の事態が本当に終わったのなら、また優雅で秩序ある生活に戻りたい。長い間、何もかもが努力と強制の連続だった。 私はジョージ・ブラウンのところへ行き、モーガセンの練習に付き合った。そのとき驚いたことに、土曜日まで彼が来るとは思っていなかったからだ。彼はジョージタウン駅にいるから、誰か代わりに行ってくれないかと! 私たちの車はトロントにあったので、(チェスターは土曜日に父親に会って彼を連れてくることになっていた)、私はどうしたらいいかわからなかったが、ジョージ・ブラウンが彼のために行ってくれると言った。私も行った。
ユアンは風邪気味だったけど、本当に元気そうだった。島で大嵐があったから、列車が止まる前に一刻も早く離れた方がいいと思っていたんだ。家に着くなり、エセルに夕食を用意するように言った。私は急いで練習に行かなければならなかった。帰宅したのは11時45分だった。ユアンはベッドでぐっすり眠っていた。見た目は元気そうだが顔中シミだらけだ。ユアンは発作の時によくこうなる。体内に毒があるのだろう。 しかしそれが原因なのか結果なのかはわからない。

1935年1月3日(木曜日)
私はよく眠れなかったが、ユアンはよく眠れた。この点では、とてもいい変化だと思う。彼はとても陽気で、本を読んだり話したりする。自然に話をし、日曜の礼拝には当たり前のように出席すると話していた。
バラクロー夫妻から夕食の招待の電話があった。その日の午後は嵐で寒かったが、運転手のアルバート・ノースが来てくれた。私たちは素敵な七面鳥の夕食を食べ、夜はユーカーを楽しんだ。ユアンに精神的な症状が出ないか見守る必要がないのは本当にありがたいことだった。彼は元気そうだし、邪念もない。私はまた笑ったり、人生のささやかなことに喜びを見出したりできることに気づいて嬉しかった。

1935年1月4日(金曜日)
牧師館、ノーヴァル
二人ともよく眠れた。ユアンは一日中本に熱中していた。まだ頭痛はあるが恐怖症はない。いつもそうだった。頭痛は恐怖症が消えても何週間か続いた。今日はひどく冷え込んだ。薄暗い雪の中を郵便物を取りに行くとき、私は本当に寒さに苦しんだ。手紙が届くことに恐怖を感じないのはいいことだ。パットIIのタイプスクリプトの添削を始めた。とても気分が変わってきた。私は食欲もあるし、ユアンは食事中も元気だ。

1935年1月5日(土曜日)
ユアンはよく眠った。今日は少し頭が痛かったがとても元気そうだ。午後、彼は明日教会で読まれる檄文(再び説教を行う覚悟の文章であろう)を書いた。「あなたの牧師は 来週の日曜日に礼拝を執り行います」。私はとてもリラックスし、幸せな気分になった。しかしその日は心配事なしに過ぎ去ることはなかった。私はチェスターが帰ってくると思っていたのに彼は来なかった。車は凍結した道路でトラックと接触し、車庫(修理工場)にあるとのことだった。これでは 一刻を争う出費である。しかしユアンさえ元気でいてくれれば、こんなことは些細なことだ。

1935年1月6日(日曜日)
...ロチェスター医師が礼拝に訪れ、ユアンはごく普通に彼と話をした。今日の礼拝は午後からだった。11月以来初めて、安心して楽しむことができた。ユアンが説教壇に立つなんて本当にあり得るのだろうか? 次の日曜日、ユアンはまた説教壇に立つのだろうか? 私のひどい日曜日は終わったのだろうか? それを見るまでは信じられない。しかしユアンが話しているのを聞くのは......笑って......。冗談を言うのを聞くなんて! 信じられない。地獄の後の天国。でもひとつ気づいたことがある。彼が次の日曜日に戻ってくることを喜んだ。私はそのことにひどく傷ついた。ロチェスター博士によると、ユニオンの人々は大喜びだという。

1935年1月7日(月曜日)
オンタリオの霧は嫌いだ。島の霧が好きだったことを思い出す。薄暗い灰色の霧が森や野原を覆っていた。ここでは霧は淀んでいて、重く湿った灰色の毛布のようだ。ユアンは色白だ。息は短いようだが頭は昨日よりいい。パット・セカンドのMS.の推敲を終え書き上げた。最終的に「シルバー・ブッシュのシャトレーヌ」と呼ぶことに決めた。
今夜はヒューソン夫人のところで芝居の練習があった。ガーフィールドが、その晩は約束があるから総会には出ないと言っているのを聞いた。私はこのことが非常に気に食わない。ガーフィールドは取締役会の会長である。彼は何が気に障ったのだろう。彼は何か腹を立てているに違いない。ユアンが本当に元気になったら、何が問題なのかを突き止め、それを正さなければならない。彼は今、プラクティスで私にも親切にしてくれる。でも私はガーフィールドには不信感を抱いている。

1935年1月8日(火曜日)
......年次総会は今晩開催される予定だったが土砂降りのため延期された。私はそれを恐れていた。私はずっと恐れていた。そしてもうひとつ心配事が出てきた。クリスマス・コンサートの夜、S.S.の監督であり、プログラムの委員長を務めていたロバート・リードがジョン・イズモンドを侮辱した。リード氏はそのような意味で言ったのではないと思うが、しかし彼は非常に無粋な男であり、ジョン・イズモンドはいつも軽蔑の目を光らせている。今、一家は教会を出てジョージタウンに行くと聞いている。ジョージタウンではこのような教会内の爆発がなくなることはないのだろうか。私たちには何の責任もないのに、その結果が私たちに降りかかってくる。


(覚え書き)ノートの記録には2日間の空白がある。 その拷問のような時間に、私は一行も書くことができなかった。しかしその一瞬一瞬が 私の記憶に刻まれている。何年もの間、私の人生はこうだった。もうこんなことはないだろうというかすかな希望を抱く勇気があったとき、必ず何か恐ろしいことが起こった。 ノートに1月8日のエントリーを書いたとき、私は自分にこう思わせていた。希望を抱いていた。そして、私を苦しめる悪性腫瘍が再び襲ってきた。
翌日、1月9日(水)はかなりハードな一日だった。前夜は眠れなかった。午後はW.M.S.の会合がマンスリーであった。シャーロット・マクファーソンもやってきて、ジョン・イズモンドの去就について騒ぎ立てた。夕食の頃にはとても疲れていた。郵便物を取りに行き、それから寝ようと思った。暗い霧の夜だった。私は意気消沈して事務所に向かった。アーネスト・ボガードの社名が書かれたユアン宛の手紙が隅にあった! なんとなく秋から冬にかけて、私はチェスターのことが漠然と気になっていた。しかし私は何も知ることができなかった。
ただ、また頭痛に悩まされているようだった。だから私は、自分が愚かで過去の影に取り憑かれて疲れきっているから心配しているだけなのだと自分に言い聞かせようとした。手紙を見た瞬間、悪い知らせが書かれていると確信した。急いで家に帰り 図書室で手紙を開いた。ユアンに迷惑をかけまいと思った。そこにはボガードからの手紙と、彼がチェスターに送った手紙のコピーがあった。
ボガードの手紙には、チェスターがクリスマス以来オフィスに来ていないこと、何をしているのかわからないこと、そしてチェスターに手紙を送ったこと、そのコピーが同封されていた。その手紙のコピーには、ボガード氏はチェスターとの関係を断ち切ったこと、ボガード氏とはこれ以上付き合いたくないのですぐに記事をボガード氏に返却するように、と書かれていた。チェスターはボガード氏との関係を断ち切り、記事をすぐにB氏に返却するようにと告げた。私がどんな気持ちになったかは説明するまでもない。私はその手紙を貧しいユアンのところへ持って行った。ユアンに知らせなければならなかった。私たちは 夜行バスですぐにトロントに行きチェスターに会おうと決めた。ユアンは起きて服を着、私たちは出発した。

ああ、あの悪夢のようなドライブ! チェスターが帰ってくること、またもやひどい失敗をしたこと、それを隠す術がないこと、すべての道が閉ざされていること、妻子を抱えたチェスターの姿が......。私はそれに直面することができなかった......。 特にこの1年の恐怖の後ではあまりにひどかった。チェスターの家に着いたとき、彼はボガードの手紙はまだ見ていなかった。彼はクリスマス以来、胃の調子が悪く、頭痛が絶えないと言った。(B氏の事務所をシェアしている弁護士)には病気のことを伝え、B氏に知らせるように頼んだと言った。翌日には戻るつもりだった。
翌日、B氏はユアンに、あんなに長い間頭痛に悩まされている人は死んでしまうよ、と軽蔑したように言った。愚かなことを言ったものだ。しかし私たちはその後、B氏について当時は知らなかったことをいくつか発見した。チェスターの発作については少年時代に何度もあった。彼はよく一度に6週間も発作が続き、流動食しか口にできなかった。チェスターは扁桃腺を摘出してからはそれほど頻繁には発症しなくなったが、時々発症するようになった。彼は食事がいろいろな場所でとれなくなり、何かが胃を荒らしたのだろう。
このような発作について私がいつも心配していたのは、彼の仕事に対する好奇心のなさだった。ユアンが攻撃を受けるときの無関心とまったく同じだ。私はCがやがて父親のようになるのではないかと心配していた。今のところ恐怖症とは無縁だが。
私はもう一晩眠らずにいる勇気はなかったので、睡眠薬を飲まなければならなかった。明日は試練が待っている。眠りにつきながら私はぼんやりと考えた。もし試練が終わることをいつも願っていなくていいのなら、人生はどんなものになるだろうと。かつてそうだったことを忘れていた。
木曜日の朝、皆でボガートのオフィスに行った。私は中に入らなかった。ミスター・Bには会ったことがなかったし、チェスターも入らないほうがいいと思ったからだ。ユアンとチェスターは中に入った。私は恐ろしく苦しく、サスペンスの中で廊下を歩いた。やがて彼らは出てきた。彼が "教訓を学んだかどうか" を見るためだ。これで少し安心した。私は少し買い物をして早めに帰宅した。我が家! 私の家だ! 私は苦々しく思った。愛しい猫の楽しい鳴き声でさえ私の心の痛みを癒すことはできなかった。人生がこれほど暗く、絶望的に見えたことはなかった。しかし、人生は続けなければならない。そしてすべては世間から隠さなければならない。それが私の多くの不幸を苦しめた。それは公然と認められ、私を正当化できるようなものではなかった。苦しみを乗り越えようと努力する間、少しでも休息をとり、外の仕事から解放されるために上京することを(トロントに行って遊ぶこと)正当化できるようなものではなかった。外の仕事から解放され、私はそれを隠し、偽りの笑顔と強引な平静さを保ちながら生き続けなければならなかった。

1935年1月11日(金曜日)
牧師館、ノーヴァル、オンタリオ州
昨夜はよく眠れたし、一日中考え事をしないように努力した。ユアンは今晩、イズモンドの家に行って、彼が彼らを滑らかにできるかどうか(怒りをなだめられるかどうか)見てきた。ダメだった。ロバート・リード(イズモンドを侮辱した男)が謝罪に行ったようだが。
教会にはジョン・イズモンドのようなタイプはいないほうがいい。家族を失う余裕(教会員を失う余裕)があれば、ジョン・イズモンドのような人物がいないほうがいいのだが......。

1935年1月13日(日曜日)
ユアンは一晩中調子が悪く、6時には緊張の発作を起こした。寒い嵐の日だった。私は気持ちのいい一日になることを期待していたのだが...。彼をユニオンに送り出すのは大変だったが、なんとかやってのけた。彼はすっかり元気になった。ユニオンの人々は彼の周りに群がって歓迎した。 ある女性は、"あなたが戻ってきて、また家に戻ったみたい" と言った。
しかしノーバルでの礼拝はかなり悲惨だった。ユアンは説教を読みすべてうまくいった。しかし誰ひとりとして彼に話しかけようとしたり、彼の帰りを歓迎しようとしたりする人はいなかった。私には理解できない。考えれば考えるほど不可解だ。たとえガーフィールドが何かに腹を立てていたとしても、信徒全員がそうであるはずがない。みんなガーフィールドのことが好きではない。去年の春までは、みんな私たちの友人だった。たとえユアンが体力的に仕事を続けられないと思っていても、それは彼らがまともでない理由にはならない。これをどう説明するんだ? 家に帰ると、一日の疲れがどっと出て、涙をこらえることができなかった。ユアンは夕方にはだいぶ良くなったようだ。大変な一日だった。でもユアンが自分の説教壇に立つ姿を見るのは、とても素敵なことだった。彼が仕事を続けられることを会衆が知ればきっと大丈夫だろう。しかし、彼らは私たちに対して、あるべきようには振る舞っていない。
私は今晩、チェスターに手紙を書き、以前彼が発作を起こしたときにいつも助けてくれた薬を一箱送った。

1935年1月14日(月曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館)
ユアンは調子が悪く、結局薬を飲まなければならなかった。彼は頭の感覚は麻痺の前兆だと考えている。このような彼の心気症的な考え方は打ち消すのは難しいが、神学的なものまでそれとは比べものにならない。よく眠れたしいい一日だった。私はブランプトンの文学クラブで論文を発表しなければならなかった。ホッジンズ夫妻と昼食を共にし楽しいひとときを過ごした。ブランプトンの新しい牧師の奥さん、コールター夫人も来ていた。とても素敵な方だった。夫妻は私を家まで送ってくれた。家に帰るのが怖かった。ユアンが元気だった頃はどこに帰るのも好きだった。

1935年1月15日(カ指)
今日はあわれな夜、そしてつらい一日だった。ユアンは一日中、頭と神経の調子が悪かった。しかし でも、彼の心が無事であることを神に感謝したい。しかし私は彼の恐怖症の再発を恐れて歩いた。恐怖! 恐怖だ! 夜は恐怖とともに横たわり、朝は恐怖とともに起きる。恐怖は常に私の敷居の住人なのだ。
その日は寒く生ぬるかった。メールもニュースもなかった。今夜、年次総会が開かれた。かなりうまくいった。しかしガーフィールド、サム・マクルーア、アンディ・ギッフェンという3人の "主役" はいなかった。その理由は? サム・マクルーアはいつも私たちの良き理解者だ。このことは、ユアンが対処できるようになり次第、明らかにしなければならない。ユアンはしかし、私たちが帰宅したとき、彼は気分が悪かったと言った......。

1935年1月16日(水曜日)
マートルとファンから、シャーロットタウンでグリーン・ゲイブルズを見たという悪い手紙が来た。シャーロットタウンでグリーン・ゲイブルズを見たという内容だった。島から手紙をもらうと故郷の味がする。もし私が P.E.アイランドの6月のある日、できれば90年代の6月のある日に数時間だけ身を置くことができたら。緑の森の小道を歩いたり、昔愛した農場を眺めたり......。木々の間から突然サファイア色の海を垣間見る。小さな小川を辿りシロツメクサのワインを飲む。堤防から小さなシダが生えている曲がりくねった赤い道の魔法をたどる。満開の海に浮かぶ月の輝きを見る。しかし残念ながらそのような願いは叶わない! 私はスターからの手紙を恐れていた。きっと大丈夫に違いない。

1935年1月18日(金曜日)
...とても寒く、何も書くことができなかった。スチュアートがバスで帰ってきたので、彼の週末があまり厳しいものにならないよう、私も頑張らねば。

1935年1月19日(土曜日)
...今晩、チェスターとルエラとベイビーが来た。チェスターは具合が悪そうだ。彼がオフィスでどう過ごしているのか、私は彼から何も聞くことができない。私の心は時々私に誤解を与える。

1935年1月20日(日曜日)
久しぶりに過ごしやすい日曜日だった。二人ともよく眠れたし、ユアンは一日中元気で明るく、両方の礼拝をうまくこなした。夕方にはグレンに行き元気に帰ってきた。私はバスで出発する前にチェスターと真剣に話し合った。言ったことを心に留めておいてほしい。しかし残念ながら彼の印象は長続きしないようだ。

1935年1月21日(月曜日)
二人ともよく眠れた。私は物語のスペードワークをし、ここでの劇の練習の準備をした。以前のような興味は持てない。11月に受けた仕打ちが忘れられない。今はみんなとてもいい人たちだ。ユアンはベッドに入る前に30分ほどキャストとおしゃべりをした。後で彼はこう言った。もう人に会うのが怖くないっていいことだね。ユアンはこのまま仕事を続けていけば彼はすぐに元気になると思う。もし...もし...もしそうでなかったら。しかし、人は少しの希望も持たずに進むことはできない。

1935年1月22日(火曜日)
ユアンはよく眠れなかった。一日中頭が痛かったが、でも頭は正常だ。まだ自分のことや自分の症状について考えすぎたり話しすぎたりしている。毎晩郵便物を取りに行くのが怖い。ボガードさんからチェスターの調子が上がらないという手紙が来ているかもしれない。保護観察期間が終わるまでは 保護観察期間が終わるまでは、彼がスランプに陥らない限りは、本当に何も聞くことはないだろう。でも、もしそうならいつ手紙が来てもおかしくない。しかし私のゲイの人生において(荒れた人生と言う意味か)、多かれ少なかれある恐怖とは何だろう? 私のゲイ・ライフの中で 郵便が来るのが怖くなくなる日が来るのだろうか。
私は幼少期から少女期にかけて毎日、郵便を心待ちにしていた。怖いと思ったことは一度もなかった。しかしエドウィン・シンプソンとの不幸な婚約中に私は郵便を恐れるようになった。それは過ぎ去った。その次はユアンがグラスゴーにいた冬だった。戦争が始まるまで、それっきりだった。それ以来、何らかの理由で戦線からの悪い知らせや、ユアンからの陰鬱な手紙。ロリンズからの心配事。ロリンズからの訴訟に関する悲鳴、そして近年はチェスター。テイラー・ノートの支払期限は過ぎている。私は何も聞いていない。すべてが順調であることを祈るばかりだ。

1935年1月23日(水曜日)
牧師館、ノーヴァル、オンタリオ州
......トンプソン夫人から手紙をもらった。彼女は夫のもとへ帰ってしまったのだ! 感嘆符を並べただけでは私の反応は表現しきれなかった。夫のことをあれほど言っていたのに! 夫に利用されたって! かわいそうに彼女は "逆上" してしまったのだ。彼女はジューンを預けられないので、私がトンプソン夫人を連れ戻せばよかったのだ。エセルを行かせてやればよかった。
今夜はとても寒く、東風を直視できないと思ったので郵便物を取りに行かなかった。でも、もしユアンが2ヶ月前と同じだったら......と考えると、文句を言ってはいけないと思う。
16年前の今日、フレデが亡くなった。幸せなフリーデ! 一緒に行きたかった。青い黒髪、輝く瞳、動きのある表情......。 輝く瞳、動きのある表情豊かな顔。フレデは美人ではなかった。彼女は生命力にあふれ、健康的で、陽気だった。
さて、おそらくもっと悲しい星が彼女を必要としているのだろう。彼女はどこかにいる。いつか、どこかで私たちは再会する。私はそれを知っている。その間に......彼女の笑い声が聞こえ、一瞬でも手を握りしめる感触があれば人生は今のような恐怖ではなくなる。こんな恐ろしいことはない。

1935年1月24日(木曜日)
...私は、いつものように恐る恐る夜の郵便物を取りに行った。しかしそこにはストークスから素敵な手紙が届いていた。 "新しいパットの本を喜んでいる" とのことだった。タイトルは気に入らないらしい。"シャトレーヌ" (お城の主人と言う意味だろうか)と発音するのを怖がるだろうから。だから、新しいパットを探さなければならない。

1935年1月25日(金曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
二人ともよく眠れたが、ユアンは一日中とても冴えなかった。寒さは続いている。そして11時、電話が鳴った。ジョージタウンのモントリオール銀行からだ。 というメモが送られてきた! 慌ててテイラー事務所に電話した。彼は不在だったが、彼の秘書は大丈夫だと言った。どういう意味かわからないが、この状況はまったく気に入らない。私はテイラー氏をとても恨んでいる。しかしそれはすべて私自身の愚かさによるものだ。5時まで鋤の仕事をして、それから泣いた。11日は苦い一日だった。何が私を執拗に迫害するのだろう! 私が少し勇気を出すたびに、新たな打撃や心配事が襲ってくる。

1935年1月26日(土曜日)
二人ともぐっすり眠れなかった。また氷点下になり寒くて書けなかった。私は地下室を片付けて暖炉の灰を全部出すことに専念した。ユアンは一日中とても冴えず、ひとり遊びばかりしていた。そしてまたと思い、不安になる。確かに最近、改善は見られない。でもこの1週間は私たち二人にとってハードな1週間だった。私たちは先週の日曜日からずっと家に閉じこもっていて、今夜も相変わらず寒い。

1935年1月27日(日曜日)
よく眠れたが、今朝は氷点下25度。納屋のようだった。ユアンはあまり調子がよくなかった。昔のように「メッセージがない」「自由がない」とまた話していた。恐怖症が再発したようだ。彼は寒さのために車のエンジンをかけるのが難しく、それで彼は動揺した。彼は少なくとも心配事にはまだ耐えられない。心配性だ。ノーヴァルの礼拝の間中、彼はとても苦しそうで、私は惨めな気持ちで座っていた。でも夜はグレン・ハウスで過ごした。とても楽しそうだった。外に出て友人たちに会えたのはとても嬉しかったが、すべてのことが心配でたまらなかった。問題があった。ヒューソン夫人が手首を骨折したのだ。ということは誰か彼女の代役を探さなければならない。

1935年1月28日(月曜日)
牧師館、ノーヴァル
...ユアンは午後、バラクロ夫妻とトロントに行った。私は午前中寒い中、ヒューソン夫人の代役を引き受けてくれる人を探して回った。ようやくジョージ・ブラウン夫人が引き受けてくれることになった。またウィニペグに住む見知らぬドイツ人からの手紙もあった。金を無担保で貸してほしいというものだった! 午後は昼寝をした。今晩は気分がいい。

1935年1月30日(水曜日)
これまでで最も寒い夜で、氷点下27度。これでは生活が苦しくなる。ユアンは眠る前に薬を飲まなければならなかった。私は落胆している。そして私が起きたとき家はとても寒かった。座って泣いた。自分が恥ずかしかった。でも眠れなかったし、何もかも憂鬱で死ぬほど心配なんだ。"ああ"、でもほんの1時間でいいから、私がかつて感じていたように感じたい。そう願っても無駄だ!

1935年1月31日(木曜日)
少し穏やかになったが、まだ氷点下。ユアンはバラクロ夫妻とトロントに行った。ミスター・テイラーがようやくやってきた。テイラー氏とギブソン氏は英国で良いコネクションを築くことができた(イギリスでの出版元を探しに行ったのか)。しかし今はまだ資金がない。手形を取ることもできない。銀行はよほどの担保がなければ更新しない。結局私は最後の1000ドルの保証金を担保に入れることに同意した。 私は最後の1000ドルの保証金を担保に入れることに同意した。私の保証金にはもう二度とお目にかかれないかもしれない。しかしあの手形の心配から少しでも解放されるためには、何かをしなければならない。
私はMたちとブランプトンへ行き、「ウィンポール・ストリートのバレット」を見た。しばらくの間、牢獄から脱出した。それからグリーンウッド夫人のところへ行った。その夜はオールド・タイムの(劇の)練習をしていた。家に帰るのが怖かった。ユアンがボガートの家にチェスターの様子を見に行くと言っていたからだ。でも、彼はベッドでぐっすり眠っているから、おそらく何もないだろう。

1935年2月5日(火曜日)
ユアンは薬を飲まなければならず、一日中不機嫌だった。私はほとんど眠れなかった。今日は冬の嵐のような寒さだった。トロントへの旅行を計画していたが断念せざるを得なかった。家は寒かった。可哀想な猫たちが暖炉の上にふんぞり返っているのを見るのは本当に可笑しかった。 可哀想な猫たちが暖炉の上でふんぞり返っているのは本当に可笑しかった。今夜はブラウンズで練習があり、疲れて帰ってきた。『丘の中の花畑』で楽しい時間を過ごした。あの本は読むたびに新しい発見がある。

1935年2月6日(水曜日)
......氷点下20度で、家の中は寒すぎて書けなかった。しかしW.M.S.はクラレンス・アンダーソンの家で会合を持った。今日の午後、クラレンス・アンダーソンの家でW.M.S.の会合があった。
夕食会。前回のミーティングとは対照的だった。ユアンはそこにいた。とても陽気で笑ったり冗談を言ったりした。今日は素敵な郵便物はなかったが、恐ろしい手紙もなかった。

1935年2月7日(木曜日)
...インスティテュートはジョー・ハンター夫人のところで開かれ、私はとても楽しい時間を過ごした。またちょっとした社交を楽しめるようになってきた。でも今夜のウェブスターでの練習は疲れたよ。そして家に帰ると、チェスターからの手紙がテーブルの上に転がっていた。私は震えながらそれを開いた。最初の一文が、まるで一撃のように私に飛び込んできた。"悪い知らせはすぐに伝えた方がいい" という事だった。私の心臓は凍りつくような恐怖の中で静止した。「彼は消されたのだ」。そう思った。そして残りの段落を一目で理解した。彼はストリートカー(電車)でポケットから28ドルスリ取られたのだ。手紙は私の手からひらひらと落ちた。私は気を失い後ろに椅子がなければ倒れていただろう。今となってはこのようなショックには耐えられない。お金を失ったことは、私が恐れていたことに比べれば幸せなことだった。しかしこれほどお金がない今、軽いことではない。私は新しいコートを買うのはあきらめなければならない。私の古いコートは4回目の冬を迎えるが十分暖かい。私は一生、袋の服を着て暮らすつもりだ。それで心が安らぐのなら、私は一生袋の服を着続けるだろう。

1935年2月8日(金曜日)
牧師館、ノーヴァル
よく眠れたし、今日は穏やかな雪だった。私たちはトロントに出かけた。車が氷で横滑りしてひどい目にあった。足が痛くて買い物に苦労した。そしてパットUのタイトルについてマクレランド氏と話し合った。彼やスチュワート氏は、私がとても疲れて疲れているように見えると言い、旅に出ることを勧めた! 彼らは私の人生の事情を理解していない。しかし私はイートンズのラウンドルームでマクレランド夫妻と楽しい夕食を共にした。チェスターにも会ったし、今のところすべて順調のようだ。帰りは雪が凍るようなひどいドライブだった。フロントガラスに積もった雪が凍りつきひどいドライブだった。デフロスター(霜溶かしか)が効かないので、フロントガラスを開けたまま運転しなければならなかった。

1935年2月9日(土曜日)
二人ともよく眠れた。ユアンは以前のように睡眠中にピクピクと痙攣することはなくなった。夜はM家(マレーとマリオンの家)で過ごした。マリオンに赤ちゃんが生まれることになった。残念だ。早すぎる。マレーはとても喜んでいるようだ。赤ちゃんに対する恐怖心は消え去ったようだ。人生って不思議だね。

1935年2月10日(日曜日)
二人ともぐっすり。ユアンは今日、回復後初めて聖書クラスに参加した。そしてガーフィールドから嬉しい侮辱を受けた。男性たちがクラスに入ってこなかったので、ユアンは、男性陣が教室に入ってこないのは、彼らはちょっとダサいおばさんたちと同じクラスになるのが嫌なのだろうと思った。だから日曜学校が終わると、彼はガーフィールドのところへ行き、男性たちに聖書教室を開くことを提案した。ガーフィールドの答えはこうだった、「いい考えだ。それなら何とかなるかもしれない」。
ユアンは唖然とした。これほど彼を侮辱した人物はいなかった。それにガーフィールドは、昔はそうであったかのように、私たちの最大の友人であったガーフィールドが! どうしたんだ? ガーフィールド。チェスターの結婚以来、ガーフィールドとその妻(ルエラの叔母にあたる)の仲は決して良くはなかった。でも、だからといって、私たちに対する彼の態度を完全に説明することはできない。
ユアンが回復して、彼と話ができるようになればいいのだが。何か誤解があるに違いない。私たちはそんな態度を正当化するようなことは何もしていないし、何も言っていないのだから。おかげで一日が台無しになった。夜はグレン・ハウスに行った。バラクロー夫人は具合が悪い。貧血と心臓病を患っている。みんな心配していた。1日はずっと炭酸飲料で風邪をこらえていた。いつもより少しさびしかった。ボガードの手紙から今日で1ヶ月。あと2、3日でC. あと2、3日もすればC.がそこに行けるかどうかわかるだろう。もしできなかったら...。

1935年2月12日(火曜日)
朝は−15度を下回ったが次第に穏やかになった。二人ともよく眠れた。今日はユアンによる葬儀の儀式があった!彼もとてもよくやった。でも夕方からずっと指の「しびれ」を気にしていた; リアンダーおじさんのようになるんじゃないかと心配していた。もちろんそんなことは馬鹿げている。リアンダーおじさんは指がしびれたことなどない。しかし彼はほとんど毎日、自分が何か新しい病気にかかるのではないかと想像している!可哀想でなければ笑い話だ。今夜は本当にイライラした! ユアンは自分の想像上の不満については常に心配しているが、チェスターのことは心配しない。彼はどうやらそのことをすっかり忘れているようだ...。(息子の仕事の心配を忘れるな)

1935年2月13日(水曜日)
今日は風邪が少し良くなったような気がする。今朝、エセルが郵便物を取りに行って、チェスターからの手紙を持ってきた。手紙を開くのがこんなに恐ろしかったのは生まれて初めてだった。やっとの思いで無理矢理開封してみると......。すべてが順調であることを知った。私の安堵を表現する言葉はない。しかしその反動でひどい疲労感が襲ってきた。私は今夜、特に恐れもなく夕方の郵便物を取りに行くのはとても素晴らしいことだと思った。
ユアンは今夜、教会のセッション・ミーティングに出かけている。彼はまだ帰宅していない。どういうわけか、私はこのミーティングを少し恐れている。


2月14日のエントリーはない。ノートに数行書くことさえできなかった。終わりが来たのは2月13日のエントリーを書いたその夜だった。ユアンの帰りがとても遅かったのだ。彼が入ってきたとき私は彼の表情で何が起こったのかわかった。「言いたくないが、言わなければならない」と彼は言った。私はセッションがあなたに辞任を求めたのですか? と言った。彼らはそんな男らしくまともなことはしていない。彼らはただ少なくともアンディ・ギッフェンとロブ・リードはそう言いたかったか。マクルーア、ウィギンズ、アーサー・マクルーア、アルバート・ハンターは何も言わなかった。彼らは黙って座って牧師が侮辱されるのを許していた。彼らはいつも私たちの温かい友人を装っていた。しかし、いざとなると彼らがユアンに対して主張できたのはユアンを非難できたのは、"彼のせいで人々が教会に来なくなった" ということだけだった。
ユアンはこの人たちが誰なのか尋ねた。そして彼らが挙げることができたのは5人だった。パーシー・レスリー、グレイドン・チェスター、ジム・ラッセル、ジョン・イズモンド、ジョージ・イズモンドだ。パーシー・レスリーは、私たちがノーバルに来たとき、オークヴィルの近くに住んでいた。彼は辛辣なユニオニスト(合同教会派)で、オークヴィル・ユナイテッド・チャーチの長老だった。彼は喧嘩して合同教会を出て行った。その後、彼はオークヴィルの農場を売却し、3年ほど前にノーバルに農場を購入した。
彼は私たちの教会の娘のひとりと結婚し、婚姻届には次のように書かれていた。彼は私たちの教会にはほとんど来なかったが奥さんは定期的に来ていて、私たちの親友だった。パーシー・レスリーが私たちの教会に来なかったのはユアンのせいだと言うのは馬鹿げている。グレイドン・チェスターも数年前にノーバルに来た。彼は英国国教会出身で、合同教会に通う女性と結婚したばかりだった。二人は長老派と妥協することに同意していた。しかし教会にはほとんど来なかった。私たちは彼がここに来るまでは教会に行ったことはなかったが、私たちが彼らを訪ねると、彼らはいつも親切で友好的だった。ジム・ラッセルは私たちの親友の一人だ。誰もが知っているギッフェンとロブ・リードもよく知っている。 ジム・ラッセルが教会に行かなくなったのは、ジオ・ゴロップと喧嘩したからだ。それ以外の理由はない。
ジョン・イズモンドが脱退したのは、ロブ・リードがクリスマス・コンサートの夜に彼を侮辱したことが原因だったことはよく知られている。ジョージ・イズモンドは、ある長老選挙で落選した後、教会に来なくなった。おそらく彼はユアンを責めているのだろう。しかし牧師に不満を持つ者が1人だけというのは、どの教会でも9年後にはかなり良い記録となる。私が知っている教会では9年後のどの教会にとってもかなり良い記録だ。ユアンは冷静かつ適切に対応した。彼は彼らにこう言った。よろしいと告げた。そしてこうも言った。自分がここに来て以来、彼らも管理職も協力的ではなかった。教会のために何かしようと思っても、管理職の彼らが教会の利益のために彼に協力したことは一度もなかった。まあひどい夜だった。私たちは心を痛めた。私たち二人は、この教会のために身を粉にして働いてきた。その報いとして、こんな仕打ちを受けるとは......。いわれのない侮辱だ! 私たちを辞めさせたいのなら侮辱することなく辞職させることができたはずだ。病気は犯罪か?(ユアンの病気がかなり教会を停滞させた)他に罪はない。昨年の春までは誰もが私たちの友人だった。誰からも文句を言われたことはなかった。それが理解できなかった。彼らの言葉には悪意があるように思えたとユアンは言った。

私たちは苦境に立たされた。もちろん私たちは出て行かなければならない。それ以外の方法は不可能だった。しかしユアンはあの状態で(別の教会に)「召集のための説教」に行くことはできなかった。たとえ彼のような年齢の牧師がまともな場所を得ることを望んだとしてもだ。唯一の方法はトロントに家を借りて引っ越すしかなかった。都会に住むのは嫌だった。ノーヴァイを離れるのは嫌だった。キャベンディッシュを除いてこれほど気に入った場所はなかった。ル・マンにいたときと同じようにリースクデールにいたときほど長くはいられないことはわかっていた。でもチェスターが仕事を終えるまで、あと3年は、チェスターが法学部を卒業しユアンが定年退職を迎えるまで。年金がもらえるまで。私はときどき邸宅からそう遠くない、とても美しい川沿いの土地を買うことを夢見ていた。それを買って、そこに素敵な家を建てて残りの日々をそこで過ごすことを夢見ていた。そこで残りの日々を過ごし、教会や地域社会に貢献する。それでユアンの精神状態が悪くならないか心配だった。しかしそんなことはまったくなかったと思う。それどころか自分が利用されたことに対する怒りが、ユアンを「元気づけた」ように思えた。
私たちがノーバルにいる限り、彼はそれ以来本当によくなった。最悪だったのは私が一番辛かったことだ。ユアンはノーヴァルやここでの牧会を離れることをまったく気にしていなかった。彼は決して 場所や家に愛着など微塵も感じないのだ。しかし私の心は折れそうになった。朝までに私たちは自分たちの進むべき道を見定め、誇りを持って歩こうと決心した。恥じることは何もなかった。恥ずべきことは何もしていない。私は慰めを考えてみた。少なくとも数年間はあの子たちとまた一緒にいられるのだから。友人も選べる。誰かが「自己隠蔽の一生」(自分の感情を抑えて生きなければならないこと)と呼んだものはもう終わるのだ。もう "訪問" する必要はない。自由だ! 
そして、自分の仕事をする時間が少し増えるかもしれない(著作の仕事が一番大事だ)。しかし最初は、屈辱と苦痛の苦悩を和らげるものは何もなかった。その上今までのことがすべて重なり、ほとんど耐えられなかった。そしてノーヴァル教会での幸せな年月や楽しいつきあいのすべてが台無しになった。私たちはそれらを喜んで振り返ることはできなかった。私たちは教会を再訪することもできなかった。というのも、私たちを忌まわしく利用した人々とはどんな形であれ、二度と関わることができなかったからだ。私たちは知っている。管理職(長老職)と信徒全員が彼らの背後にいたに違いないからだ。(信徒全員に疎まれたと思ってしまった)
松や川や丘のあるノーヴァルを去ること! 美しい瀟洒な 美しい木陰の敷地、私の庭、私が愛し、尽くしてきた教会を去ること。これはとても苦いコップの中の最も苦い一滴だった。そしてこのような残酷な形で引き離されたのだ。このあとどんな家に住めるのかもわからない。よく不思議に思うことがある。 私はなぜこんなにも深く情熱的に場所を愛するように生まれてきたのだろう。引き裂かれ、根こそぎにされ続けた。その恐ろしい夜が過ぎ、霧と雨の一日が続いた。私はその日の大半を荷造りを始めた。私は一日中熱中して働いた。泣きながら。私はずっとこの小屋が好きだった。

牧師館

昔、パーク・コーナーのガレージ(住んでいる家を修理工場に例えた)で楽しんだからだ。ずっと、そしてノーヴァルに来てこんな素敵な大きなギャレットを見つけたとき、私は子供のように喜んだ。とても便利な場所だったし、それとは別に私を魅了する何かがあった。その小さなドーマー窓からは、川をさかのぼり、ウェスト・ブランチの丘まで見渡すことができた。そしてとても陰影があり、雨が降ると亜鉛の屋根に雨がポツポツと落ちた! そして猫たちはこの家が大好きで、家に入るとすぐにジャングルの虎に変身した。私は日が暮れるまで仕事をし、そして心が折れそうになった。一撃に次ぐ一撃に耐えてきたのに、この裏切りと恩知らずには打ちのめされた。すべてが私を傷つけた(オーバーに感じるんですね)。そして私はまたあの閉塞感に襲われた。それが何なのか今ならわかる。ある種の閉所恐怖症だ。私はこの感覚を「窒息感」と呼んだことがある。しかしそれは適切な表現ではなかった。まるで生き埋めにされたような閉塞感を感じたのだ。この壁を押しのけて外に逃げ出さなければならないような。いったん外に出ればその感覚は過ぎ去った。しかしこの日は土砂降りの雨で、私は外に出ることができなかった。そのしばらくの間、何とも言えないひどい気分だった。もし私がトランス状態になって目が覚めたら、自分が生き埋めになっていたとしたら......。しかし、その日も閉所恐怖症の日も過ぎ去り夜が来た。

1935年2月15日
牧師館、ノーヴァル
私は9年間、日記の冒頭に「ノーヴァルの荘園」と書いてきた。もうあまり書くことはないだろう。二人とも薬を飲んで眠った。今日は晴れて穏やかだった。この冬には珍しい組み合わせだ。ユアンはトロントに行った。私は一日中起きて仕事をした。エセルに泣いているところを見られたくないからだ。午後はホールで練習をした。練習にはまったく興味がなかった。ユアンが帰宅し、夕方同情的な友人たちとの語らいをすることを待ち望んでいた。しかしバラクラ夫妻は留守で、家は暗く空っぽだった。家に帰るまでずっと泣いていた。でも先週の水曜日にあえて幸せだと感じたとき、こんなことが起こるのはわかっていたかもしれない。先週の水曜日、チェスターに対する不安が取り除かれたからだ。もう何年もの間、私は運命に翻弄されるネズミだった。ほんの少しの間、彼女(運命の神)は私を一人にしてくれた。そして彼女はまた襲いかかってくる。長い間、私は最後の一撃を歓迎すると思っていた。ノーヴァル信徒から受けた仕打ちに私は激しい憤りを感じている。そして私がそれを理解しようとしても、私には理解できない......。

1935年2月16日(土曜日)
今夜、我々はすべてを知る。大きな謎がついに解けた。今日の午後ユアンはロバート・リードに会いに行き率直に尋ねた。「あの手紙のせいだ」とリードは言った。ユアンは彼を見つめた。
「手紙だと、どんな手紙?」 そして真実が明らかになった。この不条理の結果が、私たちにこれほどの苦しみをもたらすものでなかったなら。
8月下旬か9月上旬、ちょうど私がが寒さを感じ始めた頃だった。サム・マクルーアはセッションの事務官として、次のようなタイプライターを受け取った。トロント長老会の書記からタイプ打ちの悲鳴を受け取った。ちなみにこの長老会は、現在の構成では思慮深さや賢明さでは注目されていない。その手紙には、長老会の「ある会衆」が牧師の給料を滞納しており、その給料の前に他の請求書を支払っていると書かれていた。そしてその結果、長老会は会衆に厳粛に次のことを思い出させた。牧師の給与は資金に対する最初の請求であり、何よりも先に支払わなければならない。
さて、これは単なる回状(連絡状)でガリ版刷りだった。長老会はそれを範囲内のすべての会衆に送ることを決定し送っていた。非常に賢明でない手続きだったが、当該長老会に関する私のコメントは上記を参照されたい。そしてもちろん、愚か者でなければそれがただの回覧板であることに気づき、それを台所のストーブに投げ込んだことだろう。しかしサム・マクルーアは、それがノーバルに独自に送られたものだと思い込んだ。なぜなら彼はノーヴァルがその支払いを何百ドルも滞納していることを知っていたからだろう。良心の呵責に苛まれたのだろう。サムはいつも私たちのよき友人のひとりだった。これ以上の傷はない。箴言が誰よりも愚か者に厳しいのは当然だと言っているのも頷ける。
サムはその手紙をセッション(長老の討議会)に持って行った。彼らはそれを管理委員会に付託した。ガーフィールドが会長だった! そして火に油を注ぐことになった。もちろんガーフィールドは当然、激怒した。このような状況、いや、想定される状況を検討するための経営者会議が開かれたとき、残りの経営者たちは全員、銀行から金を借りて給料の滞納分を支払うことに賛成した。ガーフィールドだけが反対票を投じた。この動議は可決された、そして資金は借り入れられ私たちに給料として支払われた。私たちは彼のことを何も知らなかったが、突然の支払いにとても親切だと思った! 
ユアンがロバート・リードに、私たちは長老会に給料のことを話すなんて(給料が遅れたことでトロントの長老会に訴えることなど)夢にも思わなかったと言った。リードは「それは本当か」と言った。ユアンは笑って言った、「そんなことは証明できません。私の言葉を信じてほしいのです」。
この発見は、私たちの気持ちに大きな違いをもたらした。屈辱という屈辱はなくなった。もしノーヴァルの人々が、ユアンがそんなことをしたと信じていたとしたら......。彼らが怒ったり痛がったりするのは理解できる。しかし私は彼らを責める。私たちの潔白を証明する機会を与えてくれなかった。私たちを当惑させ傷つけたすべてのことが今説明された。おそらく オールド・タイム・コミッティの侮辱(芝居の会で私たちをのけ者にしたこと)もこの件が原因だろう。
チェスターが今夜帰宅し、皆でグレン・ハウスに行った。私たちはリーズの家に寄ったんだけど誰もいなかったんだ。ロバート・リードは今夜、ガーフィールド・マクルーアの家に行ったのはこの新展開について話し合ったようだ。

グレンハウスの人情味あふれる雰囲気の中でリラックスできてほっとした。私たちは、特にユニオン・チャーチでの謎めいた合同会議での言動について。さらにクリスマス直前にはノーヴァル・セッションはユニオン・セッションとの合同ミーティングを要請した。そのような会合は牧師または司会者によって召集されることなく開催されることはないのだから。
ノーヴァル・セッションはアンディ・ギッフェンを通じてユアンを脱退させるために、ユニオン・セッション(ユニオン地区の長老会)を支援する(働きかけるよう)ように要求した。ユニオン・セッションは激怒した。ジム・マッケインはギッフェンに言った。あなた方は過去に3人の牧師を追い出したが、もう2度と同じことはしない(ノーヴァルの要求など聞かない)。ユニオンの町のすべての男も女も子供も、マクドナルド氏を支持していると言った。
それは私たちがこれまで知らなかったことだが、過去3人の牧師はノーヴァルの不満のために辞任せざるを得なかった。その一方でユニオンには何の落ち度もなかった。不思議なのはセッション・ミーティングでも教会ミーティングでも、ノーバルの男たちが次のような言及をしなかったことだ。
ノーバルの者たちはこの手紙(給料を早く支払うようにとの要請)について何も言及しなかったことだ。彼らはユニオンの信徒がいつもきっちりと給料を支払っているのに、自分たちがこれほど給料を滞納していることをユニオンに知られるのが恥ずかしかったのだろう。もしそのことを話していたら、ユニオンも同じような通知の手紙を受け取っていたことを知っただろう。ユニオンもまた同じような手紙を受け取っていて、本来あるべき場所(暖炉のゴミ)に捨てていたことがわかっただろう。
ユニオンはこの件で激怒しているとバラクラ氏は言う。彼はユアンに辞任してほしくなかった。あの手紙は君の責任ではない。ノーヴァルは大丈夫だ。彼らは(地元の名士であるバラクラ家の人)そうかもしれないが私たちはそうなれない。ノーヴァル・セッションのような振る舞いをする男たちとは一緒に働けない。
今夜は疲れているが、あの恐ろしい水曜日の夜以来ずっと気分がいい。アンディ・ギッフェンとガーフィールド・マクルーアは、自分たちがいかに無実の男を迫害してきたかを知ったら、かなり後悔するだろう。
エセル(メイド)に別れを告げると彼女は言った。これはガーフィールドが非常に(追い出しに)積極的で、おそらくすべての問題の原因であることを示している。アンディ・ギッフェンは蝋のように彼の手の中にある。ガーフィールドがボールを作り、アンディがそれを発射した。ガーフィールドの自己愛は、自分が会長になったとき、あれだけ吹聴しておきながら自分の政権下で信徒からクレームが出たと思えば、狂喜乱舞する(慌てふためく)ことだろう。どうして何年も奉仕し、友情を育んできた私たちがそんなことをするなんて彼でさえ信じられるわけがない。可哀想なユアンは、昨年の夏、給料などという俗世間のことはあまり考えていなかった。つい先日昨年6月にウィギンズ氏から渡された75ドルの小切手を見つけた。

1935年2月17日(日曜日)
今日は苦い一日だった。ユアンは朝ユニオンに行き辞意を表明した。その結果、全会衆の怒りと混乱が起こった。しかし彼が言ったように他にできることは何もなかった。私は日曜学校に行き、自分のクラスを教えた。表向きは平静を装っていたが自尊心のために泣きたくない涙を抑えるのが大変だった。ノーヴァルは涙を流している私を見ることはないだろう。ガーフィールドもギッフェン(ノーヴァルの長老たち)もそこにいて聖書クラスに入った。明らかに彼らはリードから真実を聞いた。彼らは知るのが遅すぎた。またジョン・イズモンドと家族がそこにいた。ロバート・リードが総会で監督を辞任し、代わりにアルバート・ハンターが任命されたからだ。
ユアンのために彼が来なかったというヤム(中傷)はもうたくさんだ。ユアンはとても良い説教をした後辞任とその理由を発表した。彼は(給料催促の)手紙は単なる(本部の)回覧であり、トロント長老会は彼からノーバルの苦情を聞いたことがないと言った。会衆は唖然としたようだった。私が外に出たとき、あるマネージャーが別のマネージャーにこう言ったのを聞いた。「これは驚きだ」。
礼拝後、私はノーバルに来て以来初めて、女性たちと握手したりおしゃべりしたりするために長居をしなかった。私は右も左も見ずに外に出た。私は牧師館の窓から、彼女たちが2、3人のグループでようやく教会から出てくるのを見た。鞭打たれた犬が、尻尾を股に挟んでそそくさと立ち去る姿に、これほどよく似た人々を見たことはない。おそらく彼らは自分たちの行いが何であったか、そして自分たちがどれほど愚かであったかを思い知ったのだろう。
ユアンが帰宅したとき彼は私にこう言った。9年間も彼の人柄を知っているのに、どうしてそんなことをするのか、と。ガーフィールドでさえ恥じて頭を垂れた。とユアンは言った。サム・マクルーアは、「病気の彼に迷惑をかけたくなかった」とつぶやいた。とても思いやりのある人だ! 
今晩、私たちはグレン・ハウスに行った。苦い思いで胸がいっぱいになった。もうあそこを訪れることもないだろうと思うと胸が苦しくなった。そこは私たちにとってメッカだった。バラクラ氏によると、ユニオンは激怒しており、ノーヴァルなどとの分離を宣言しているとのことだ。 もちろんそんなことはできない。単独では地区の教会は成り立たないし、他の会衆と一緒になることもできない。やがて冷静になりベストを尽くすだろう。しかし今は気持ちが赤くなっている。可哀想なケイト・マクファーソンが今夜、内臓ガンで亡くなった。彼女自身の奇妙に歪んだ人生だ。彼女は私たちの親友だった。シャーロットは号泣した。でもティルにはいつもマクドナルドがあるじゃない。彼女は言う。「そのすべての責任は、会衆の中にいる2人の男、ガーフィールドとアンディ・ギッフェンにあると」。でも、もし残りの信徒が私たちに忠誠を誓っていたなら私たちに危害を加えることはできなかっただろう。

1935年2月18日(月曜日)
......ユアンはトロントの長老会の書記に会い手紙のことを知った。それはどこかの都市の会衆と田舎の会衆からクレームがあったようだ、というものだった。長老管区は、不良信徒を特定して警告することを「好まなかった」。すべての会衆に勧告の手紙を送ることにした。賢明な処置だ! 罪のない者も罪のある者も皆同じように侮辱する。とはいえ長老会は知らなかったが、ノーヴァルは有罪だった。彼らは自分たちだけに向けられたものだと信じたからだ。私は長老会議に対して恨めしい気持ちを禁じ得ない。このようなことが起こらなければ、ユアンと私はここで仕事を続けることができた。ユアンはすぐに回復していただろうと今となっては と思っている。

1935年2月19日(金曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
今晩、劇の練習はマリオンの家で行われた。ガーフィールドは遅くまで来なかった。私たちが夜食をとるまでだ。彼が入ってきたとき私たちはテーブルについていた、いつものようににこやかにおしゃべりした。私は彼を無視した。ガーフィールドには目もくれなかった。数分後、彼は自分が無視されていることに気づいたのだ。彼と知り合って以来、私はガーフィールド・マクルーアを初めて見た。彼は食事中ずっと黙っていた。そのあと練習があったが、私は必要なときには礼儀正しく話しかけた。
"マクルーア" と呼んだ。親しみやすい "ガーフィールド" の時代は永遠に終わった。むしろガーフィールドは家に帰るとき、彼はかなり腐った気分だった。彼は自分が陰謀を起こしたことがバレたことを知っている。良心のかけらもないと思う。彼の自惚れは、"バレた" という知識の下で悶え苦しむだろう。
ユアンは今日、サム・マクルーアに会いに行った。サムはブランプトン教会が長老会から同じ手紙を受け取ったことを知った。サムは長老だったが、毒殺された後もサンにいる間も、牧師に会いに来ることも行くこともなかった。真実を知った今、彼は自分の行いにかなりうんざりしているに違いない。自分の行いを悔やんでいるに違いない。

1935年2月20日(水曜日)
ケイト・マクファーソンの葬儀が今日行われた。葬儀が終わった後、ガーフィールドが何人かの長老やマネージャーと話し込んでいた。彼は何を話していたのだろう。間違いなく自分自身をごまかそうとしている。ユアンはだいぶ良くなったようだ。普通に眠りよく笑う。今日、私はある満足感を得た。この数カ月間、ユアンがいろいろなときに試してみたが、効果がなかった睡眠薬を彼は何度も試してみたが結局ダメだった。それを見るのも嫌だった。神に感謝しよう。

1935年2月21日(木曜日)
今日、W.M.S.がロビンソン家で会合を持った。私は彼らに次のことを肝に銘じておくべきだと冷静に伝えた。次の会合で別の会長を選出する必要があることを私は冷静に伝えた。ガーフィールド夫人とウィル・マクルーア夫人(ガーフィールドの妹)は、とても居心地が悪そうだった。苦い苦い話だった。私は何年も一緒に仕事をしてきてみんな好きだった。私は、ほとんど元気のなかった補助チームを 活気と繁栄のある社会へと成長させた。そして今、私たちはこのように別れなければならない。

1935年2月22日(金曜日)
オンタリオ州ノーヴァル、牧師館
また氷点下の寒さ。ホールで劇の練習をした。舞台の上ではとても静かだったが、舞台の外ではとても騒々しかった。モーガセン氏は非常に怒っていた。舞台袖であんなに騒いでいたのだから、リハーサルが失敗したのも無理はないと言った。
ユアンは今日、ポール博士の葬儀に出席した。そしてユニオンのエド・タウンゼントと話をした。彼はこう言った。ノーバルの連中はパニック状態で、どうしていいかわからない。彼らにできることは何もない。彼らにはどうすることもできない。彼らはそれを知っている。

1935年2月23日(土曜日)
荷造りはどんどん進む。行き先も決めずに荷造りをするのはとても苦しい。以前荷造りをしたときは、いつも家が見えていた。リースクデールで荷造りをしたときと何が違うのだろう! リースクデールの家の整えた調度を壊すのは残念だったが、悲しみはあっても恨みはなかった。トロントに住むなんて考えたくもなかった。あそこでは夜になると、何マイルも続く家々に囲まれて人っ子一人いなくなる。とても寂しいものだ。
エセルも一緒に行く。私は彼女が友人たちや愛するゴードンを残して行かないことを望んだ。でも彼女はそうするようだ。もしエセルを行かせてもまたここに連れ戻したいわ。でも今は新しいメイドもいらないし、新しい場所と新しい生活もいらない。でもエセルがいつまでも言い続ける「この国のために」という言葉が私の心をざわつかせることがある。"この国のために" が私の神経を逆なですることがある。

1935年2月24日(日曜日)
今、聖書クラスに男性陣が大勢集まっているのが面白い。 まるで、自分がマークされるのを恐れて外に出られないかのようだ。ちょっと遅すぎたようだ...。

1935年2月25日(月曜日)
牧師館、ノーヴァル、オンタリ州
雪とみぞれのひどい一日。荷造りをして、トロントの何軒かのハウス・エージェント(不動産屋)に手紙を書いた。家賃は月50ドルしか払えないと決めた。現在のトロントの住宅事情では、私たちが望むような家賃は得られないだろうと心配している。
今日、ウォーレン夫人から手紙をもらった。トンプソン夫人(以前の家政婦)はまた夫のもとを去ったそうだ。エセルを連れてトロントに行く約束をしていたのに。
今夜はグレン・ハウスで夕食をとった。トラブルの話で台無しになった。 嘘つきの連中にバラクロー夫妻は憤慨していて他のことは何も話せない。私は一時的に忘れたいくらいだ。でも彼らの同情はとても優しい。聞いたところによるとノーヴァルの人々は、今回の出来事でひどい煮え切らない様子だと聞いている。私たちが牧師館に戻ってくると、愛しいラックちゃんがいつものように走って迎えに来てくれた。トロントに行ったらどうなるんだろう? 彼は明らかにマクファーソンの納屋にいたようだ。クローバーの干し草の香りに満ちていた。トロントにはクローバー牛舎はない。
昼間はなんとかやっていける自信があるのだが、夜になると意気消沈してしまう。ユアンがそこで(これから行く家で)満足することはないだろう。彼には トロントには友達もいないし、時間を埋める趣味もない 数週間前より体調が良くなっているのはありがたい。食欲も出てきたし、ほとんどの夜はぐっすり眠れる。時折良いことも悪いこともすべてが終わってしまったような気がする。でも、少し休んで気持ちを楽にすれば、今でも自分を取り戻せると信じている。今でも。

1935年2月26日(火曜日)
氷点下10度。確かに厳しい冬だ。今日の午後ホールでゲネプロがあった。ガーフィールド夫妻はとても親切で私を家まで送ってくれると言ってくれた。私はこの冬凍った道を家まで一人でとぼとぼと歩いて帰った。送ってもらえるのは喜ぶべきことだがそうではない。
大変な仕事の中にも喜びはたくさんあった。かつては友人であり、冗談を言い合ったりおしゃべりをしたりした人たちから切り離されたように感じる。何年も冗談を言い合ったり、おしゃべりをしたり、計画を練ったりしてきた。あの忌まわしい手紙の前までは、みんな私のことを気に入ってくれていたのに......。あのような愚かで最悪なことをしたと思わなければ、まだ私のことを好きでいてくれるだろう。私の姿を見るのが嫌なのだろう。彼らは自分の愚かさと裏切りを思い知らされるのだから。(気位の高い人を怒らせては大変だ)

1935年2月27日(水曜日)
牧師館、ノーヴァル
昨夜は二人ともよく眠れた。寝たのか寝てないのかメモしようとは思わなかった(こまめにメモを取る人なんですね)。昔はよく眠れたのは当然のことだった。今はぐっすり眠ることは稀だ。氷点下20度で家は一日中寒かった。荷造りも乱れていた。ユアンは一日中とても冴えず険しかった。何にも心が動かなかった。夕方、マクファーソン家を訪ねた。悲しみに打ちひしがれていた。

マクファーソンハウス

1935年2月28日(木曜日)
今日、不動産会社から2通の手紙をもらった。彼らは 「しかし、何か(よさそうな家が)見つかったら知らせてくれるとのことだ。オールド・タイムのコンサート(劇の会)が今夜初日を迎えた。今年は2夜連続の公演だ。私はドレスも着ず行列にも加わらず観客席に座った。もはや彼らと一体化する気持ちもなかったしそんなふりもできなかった。
ガーフィールドは、芝居の中で自分の役をばかばかしく演じた。他の出演者たちは非常に憤慨し、オリバー・ハンターは彼に単刀直入にこう言った。彼が芝居を台無しにしたんだと。彼らは私に花束を贈ってくれた! ガーフィールドが花束を贈ってくれなかったと思えば......。他のキャストは私の友人で 私が置かれた困難な状況に素直に同情してくれた。明日の夜で見納めになることを感謝している。

1935年3月3日(日曜日)
不動産業者からいい知らせがない。私の問い合わせの手紙には3通しか返事がなかった。
金曜日の夜、オールド・タイムの2回目の公演が終わった。着飾って行くのが嫌だった。私は朗読をした。人前で朗読するのはこれが最後だろう。そして私の思いは 昔、キャベンディッシュ・ホールで初めて「人前で朗読」したあの夜のことを思い出した。1889年11月22日だった。キャベンディッシュの人々や学生たちの小さな聴衆の前に立つということは、私にとってとても大きな出来事のように思えた。
キャベンディッシュの人々や学友たちの小さな聴衆の前に立って『殉教者の子』を朗読し、最後の一行で右手を劇的に上げた。最後の行、"In that fair upper fold" (その美しい上部の折り目に)、で右手を大きく上げた。私はとても緊張していた。私はとても緊張していた。細部まで鮮明に蘇ってきた。そしてネイト・ロックハートはその後私たちと一緒に家まで歩いた。ネイト・ロックハート!
この間、現在に至るまで私はずっと "朗読" をしてきた。ノーヴァルに来て間もなく教会の聖パトリック(スコットランドの聖人)・コンサートで自作の詩「番人」を朗読した。それだけで "入場料を払う価値がある" と言ってくれたお客さんもいた。まあ、もう終わったことだ。私が "人前で朗読する" ことはもうないだろう。もう二度と。申し訳ない。いつも楽しんでいたからだ。いつも私の中のドラマチックな衝動を満たしてくれた。
昨日は...イゾベルと過ごして、夜にチェスターとルエラが迎えに来てくれた。私はトロントに行ったらイゾベルにしつこく付きまとわれないようにしたい。少なくとも同じ程度にはね。昨夜はよく眠れたけど、休んだ気がしない。今日は日曜学校と教会には行けたけど、夕方には神経衰弱になってしまって、ユアンとグレン・ハウスに行く気になれなかった。絶望的な気分だ。
これからの2ヶ月がとても恐ろしい。「引っ越しは行かなければならないのだからすぐにでも行きたいわ」。今夜グレン・ハウスで、ミセス・バラクローの妹のミセス・ウィンフィールドが言った。彼女の友人がワトキンス夫人から手紙を受け取ったそうだ。その手紙には憤然とこう書かれていたという。「ノーヴァルの無作法な連中が彼を追い払ったのです!」。ジム・ラッセルも、マクドナルド氏のビールの扱われ方に激怒しているという。ユアンのせいで教会に来なくなったという話は、これくらいにしておこう。

1935年3月5日(火曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
一日中雨が降っていたが、一晩ぐっすり眠れたので気分はいい。ユアンはバラクロ氏と長老会に行った。
レページ不動産会社から憂鬱な手紙が来た。家賃が手頃な家はほとんどないそうだ。とのことだ。今夜モーガセン氏からオールド・タイムのビジネス・ミーティングの件で訪問があった。私はこう言った。 行く必要はないと言った。彼はとても急かした。「マクドナルドさん、あの会にはお友達がたくさんいるんですよ」。そうでしょうね。「本当はお別れのプレゼントをくれるんだろうけど、そうであってほしくないわ」。
ユアンが帰ってきた。彼の辞表は長老会で受理されず電報で送られた。「調査委員会」の結果を待つため電報で伝えられた。ユアンはそれを望まなかった。彼らはこの問題を解決し、ユアンを残留させることができると考えているようだった。それが不可能であることに気づくべきだ。あまりにも多くの膿んだ傷ができてしまった。そしてそれは、私たちにとってさらなる屈辱と誤解を意味する。会衆はおそらく私たちがそれを求めたと(よそに行きたがったのだと)思うだろう。長老会から糾弾されることを恨むだろう。この悪夢に終わりはあるのだろうか?

1935年3月6日(水曜日)
今日ユニオンのW.M.S.がヤング夫人の家で会合を持った。私は一日中ひどい倦怠感に襲われた。魂の倦怠感で一日中ひどい気分だった。
今日の夕方、ゴロップ爺さんがやって来て、オールド・タイムのビジネス・ミーティングに行くことを約束させられた。私は行くと答えた。それがどうした? どうだっていいじゃないか。「プレゼンをする」というのなら、出席を拒否してスキャンダルを起こすわけにはいかない。

1935年3月7日(木曜日)
ユアンは昨夜、神経性の悪寒に襲われ息切れがひどかった。私は薬を飲ませたところ、一晩中眠っていたが、一日のハードさを考えるとヴェロナールを飲ませなければならなかった。とても寒く、家も寒かった。私は午後はずっと、ここで開かれる研究会の準備に追われていた。23人が集まった。この種の団体をもてなすのはこれが最後だろう。私はいつもこのような催しを楽しんできた。素敵なメニューを作って、きれいなリネンや食器を用意して、みんなに楽しい時間を過ごしてもらうのが好きなんだ。「あなたが行ってしまうなんて、とてもとても残念です」と、スメリーさんは言った。スメリーさんは、私たちの仲間ではないが、私たちの催しにはいつも来てくれていた、「クリスタデルフィアン」である。私は彼女がとても好きだった。
トム・マクドナルドが今日ユアンに、ノーバルの誰もがガーフィールド・マクルーアのことを見下していると言った。面白い話だ。彼らは皆ノーヴァルから逃げ出したがっている。ガーフィールドに全責任を負わせようとしている。彼はそのほとんどに値するがすべてではない。いや、そうではない。
今夜、オールドタイマー協会の「ビジネスミーティング」が行われた。私は報告書を採択し、来年の役員を選出する間私は控えめに座っていた。そして私は壇上に呼ばれ、モーガセン氏が演説を読み、オリバー・ハンター氏がとても素晴らしい議場を提供してくれた。ハンターが協会の名でとても素敵なフロアランプを贈ってくれた。私はそれに答えるスピーチをした。そのスピーチはとても素晴らしく、滑らかで優雅なものだった。しかし周りにはかなりの数のネズミ(ゴシップ好きの連中)がいた。私は満足げにスピーチをした。ヒューソン夫人があの偽善者のゴロップに、協会の創設者である私の扱われ方について何か言ったらしいということを耳にした。ゴロップ氏は彼女にわざと嘘をついたのだ。私は創設者ではない、と。 彼らはファーガソン氏の時代にオールド・タイマーズを始めたのだと!
ハチミツとバラのように甘く、私は微笑みながら言った。オールド・タイム・アソシエーションを創設したのは私なのだから。私はその始まりから、私がここに来て2年目に開催されたヤング・ピープルズ執行部の会合、そしてオールド・タイム・アソシエーションの設立を提案した私の提案まで、オールド・タイム・アソシエーションの成り立ちと歩みを描いた。オールド・タイム・ナイトをプログラムに加えるという私の提案。その結果生まれた楽しい夜、古い歌や衣装、そして愉快な夜を紹介した。古い歌や衣装、そしてプログラムの最後を飾った「なぜ私たちは結婚しなかったのか? という面白い寸劇もあった。そして最後に彼らの今後の成功を祈念して締めくくった。ゴロップ氏はその場に座ってそれを(お前はうそつきだと)受け止めるしかなかった。まあ彼はその量に値した。教区ホールでの最後の晩になると思うと、私は寂しい気持ちになった。私はいつもあの場所が大好きだった。あのホールが建てられて以来、私たちはそこでたくさんの楽しみと親睦を深めてきた。もう二度とあのホールにいることはないだろう......。

ノーヴァル、パリッシュホール

1935年3月8日(金曜日)
夕食後バラクロー夫妻とトロントへ。いくつかの不動産会社に訪問したが、満足のいく回答は得られなかった。どこも無関心だった。トロントでは家不足で、彼らはわざわざ人々を喜ばせようとする必要はないのだ。 ある不動産会社は、イングルウッド・ドライブに50ドルで家があり、翌日訪問すれば鍵をもらえるというのだ。私は外に出て、イングルウッド・ドライブまでストリート・カー(路面電車)で行った。イングルウッド・ドライブは素敵な通りだと知っていたし、その家に住めることを願っていた。
可能性はあった。結局、通りの古い方の端にあるのを見つけた。私の心は鉛のように沈んだ。そこに住む! 意地悪な2軒の間に挟まれた意地悪な小さな家。狭い私道が小さな薄汚れた裏庭に続いている。そしてガレージがあるだけだった。私はキッチンの窓を覗いた。キッチンはひどかった。私は玄関のガラス越しに中を覗いた。小さな暗いホールと急な暗い階段。恐ろしい紙が貼られた惨めな部屋が2つ。まるで悪夢の中にいるような気分だった。あんなところに住もうとは夢にも思わなかった。それに、私たちの持ち物の3分の1も入らないだろう。 私は心を病み、その日はもう家探しはできないと思った。しかし幸いなことに、私はもう一軒、A.ルページ社に行くことにした。そこではまた違った雰囲気があった。彼らは興味を持ち理解してくれた。私は火曜日に何軒か家を見に行く約束をした。するとルページ氏が言った、 「マクドナルドさん、家を買いませんか?」
「家ですって」と私は言った。「頭金として数千ドル用意できれば、残りは住宅ローンを組めばいい。たとえ50ドルで家が買えたとしてもね。利息は家賃ほどではない。年900ドル以下では本当に気に入る家は手に入らないと思う」。
その考えは突然私の心を捉えた。それは私の問題を解決してくれる幸せなアイデアに思えた。最近価値が戻ってきた有価証券を売れば2、3千ドルを調達できる。そして4年後には私の持ち株の1つが戻ってくる。そして4年後には、私が加入している保険が適用され、抵当権が抹消される。私たちは家を所有することになる。いつでも頭越しに売られたり、またすぐに引っ越しを強いられたりすることはない。そして自分の家に住む。自分の土地を持ってこの土地は私のものだ。好きなようにできる家。 "信徒" がどう思おうが気にする必要はない。 ずっといられぬと考えることもない。1年か2年後には引っ越さなければならないかもしれない。
不動産事務所を出たとき、私は新しい生き物のように感じた。希望と励ましが、殺伐とした私の心を暖かく包み込んだ。すべてが変わったように思えた。私たちは車で家に帰った。冬の夕焼けの燃えるようなオレンジ色の丘が目の前に広がっていた。人生を潔く歩むことができるかもしれないと、久しぶりに感じた。帰宅したときはとても疲れていたが、今夜はとても気分がいい。真っ白だった壁に扉が開いたようだ。

1935年3月9日(土曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
今日、私は新しいアンの本の執筆に取り掛かった。出版社や "ファン" の切迫した声(要求)についに屈してしまったからだ。彼女がサマーサイドの学校で教えていた頃は、『島のアン』と『アンの夢の家』の間である。もし「過去に戻る」ことが十分可能であることが証明されれば良い本ができる。新しく作られた映画の後で商業的にもうまくいくはずだ。
仕事に取りかかったとき、私は不思議な感覚を覚えた。ある種の興味が、生気が戻ってきた。まだ仕事ができるかもしれないという発見が私を勇気づけてくれる。最近、私はしばしばもう二度と仕事ができないのではないかと恐れていた。
今日、ウィギンズ氏の葬儀が教会で執り行われた。ユアンはよく話し元気そうだった。私は今夜カエルのような声で風邪をひいている。神経衰弱のようだ。私は都会に住むことになじめない。松の木が欲しい。川が欲しい、庭が欲しい、近所の人たちとおしゃべりしたい、星が見たい。すべてが欲しい。星が恋しくなる。都会では星をきちんと見ることはできない、明かりに照らされた大都市は星から閉ざされている。人間性が疎外される。(自然物を見ないと安らげないという事ですね)

1935年3月10日(日曜日)
ぐっすり眠れたが、目が覚めたとき暗く湿った氷のような朝だった。不安が波のように押し寄せてきた。ノーヴァルの友人を訪ねていたユニオン出身のドルソン少年が、今日の私のクラスにいた。授業が終わった後、彼は私のところに来て言った。「ユニオンにあなたのような先生がいたら、マクドナルド先生!」と言った。
その夜はグレン・ハウスで過ごした。そこで出会った同情と理解は、困難な立場にある私たちにとって大きな助けとなった。私たちは次のことを知った。いくつかのノーヴァルの家族は、私たちがバラクロー家と親密であることに非常に腹を立てていることがわかった。嫉妬と愚かさだ。嫉妬と愚かさは、世の中で起こる害悪のほとんどをもたらす。世界では嫉妬と愚かさが害をなすことがほとんどだ。しかし我々は、彼らが嫉妬していようがいまいが、もはや1ペニーたりとも気にしていない。

1935年3月11日(月曜日)
ぐっすり眠って、午後は新しいアンの本を3時間書いた。夕食にはマリオンが来てくれて楽しい時間を過ごした。彼女がノーヴァルに住むようになったとき、私は自分の知り合いの誰かが近くにいてくれたらどんなに楽しいだろうと思った。そして今、私は彼女と別れなければならない...。

1935年3月12日(火曜日)
牧師館、ノーヴァル、オンタリオ州
今夜はとても疲れているが、長い長い時間の中で一番幸せだ。昨夜は素敵な夢を見た。キャベンディッシュの愛すべき古い部屋に戻ってきた夢だ。私はそこに滞在することを知っているようだった。その部屋は清潔で新しく、新しい窓がついていた。家具は散乱し小包があちこちに転がっていた。でも私は思った。「愛しい部屋に戻れる」と思った。おばあちゃんもそこにいて笑顔で親切だった。私はとても幸せな気持ちになった。
目が覚めても夢の影響は消えなかった。私は思った。ユアンと私はトロントに向かった。ルペイジ氏とのアポイントは、ブルアーの端にある彼の西事務所で10時の約束をしていた。私たちは9時半に到着し、1人が言った。リバーサイド・ドライブ沿いの素敵な家々を眺めながら10時までの時間を過ごそう。
モッサム・ロードとリバーサイド・ドライブは、ハンバー川に沿ってブロア・ストリートからレイク・ショアまで延びる奇妙な尾根の頂上を行く、曲がりくねった長い通りである。トロントの新しい郊外開発の中でも美しい、いや最も美しいもののひとつである。ここ数年、急速に開発が進んでいる。私たちは ビジネス街へ行くときは、いつもこの辺りを通るんだ。「引退したらここに住みたいね」と冗談めかして言っていたが、まさかそんな夢が実現するとは思ってもみなかった。どの家も素敵で、木々が生い茂る素敵な庭に建っていた。私が気に入るような家の周りや近くには木があるに違いない。樹木のない家は裸同然の下品なものだ。私たちはゆっくりと車を走らせた。
芝生に「売り出し中」のプラカードが掲げられていた。一目で気に入った。正面にはオークの木が2、3本あり、その後ろには松の木があった。「松だ!」と私は言った。
しかし、尋ねてみる必要はなかった。オーナーと建設業者がやってきて私たちを案内してくれた。私は一目で気に入った。玄関のドアを開ける小さな前庭があった。ガラスのドアから素敵なパネル張りのホールに入った。右手にはダイニング・ルームがあり、端には大きな美しい飾り窓があった。ブレックファスト・ヌックとパントリーが、明るくコンパクトで便利なタイル張りのキッチンとの間にあった。便利なタイル張りのキッチン。左側には暖炉のある美しいリビングルームがあった。この部屋は家の端から端まで続いている。
正面の窓からは車道が見える。手前の窓は車道に面していたが、奥の窓は美しい渓谷に面していた。裏の窓からは、オークや松が生い茂る美しい渓谷が見えた。夏には腰までシダが生い茂るそうだ。眼下にはハンバー川が流れ、その向こうには緑に覆われた丘陵地帯が広がっていた。左手には湖が見えた。私はこの渓谷を見たとき、私はこの家に住むべきだと思った。 猫たちが徘徊する場所だ! 斜面の下には、どんなに素敵なロックガーデンが造れることだろう! そしてガレージの後ろにある黒々とした大きな松が、どんなに素敵だったか!

「新しい家」[リバーサイド・ドライブ210番地]

階段を上がると踊り場があり、ガラス戸を開けると素敵な四角いバルコニーがあった。上階には3つの素敵なベッドルームがあった。タイル張りのバスタブはホールの脇にあり、もうひとつは大きな "マスターベッドルーム" の脇にあった。ワードローブ内蔵のドレッシング・クローゼットもあった。南側の大きな窓からは渓谷、川、湖が見渡せた。3階には素敵な部屋、トランク・クローゼット、バスルーム、そして素敵なホールがあった、地下には暖炉のある素敵な "娯楽室"、ランドリー、炉室、2つのクローゼットがあった。恐る恐る値段を尋ねたところ、14,0001ドルと言われた。がっかりした。そんなに高くは払えない。しかしその場を去るとき私はこう感じた。「私の」家を後にするのだと感じた。
私たちはルページ事務所に行き、ルページ氏はキングスウェイ地区をくまなく案内してくれた。とてもいい地区で、頭がくらくらするほど家を見て回った。どれも素敵で、新しく、便利だった。「私のものだ」とは思えなかった。最後にルページさんに、ドライブ沿いにある家について尋ねた。頭金を3000ドル払えば、表示価格より安く買えると言う。私たちは戻ってその物件に目を通した。私は以前よりも私の家だと感じた。私たちは家に帰って数日間じっくり考えることにした。私の夢は叶ったのだ......。

1935年3月13日(水曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
今日、私の荷造りはかなり進んだ。それをさらなる作業の土台として使う必要があった。私はひどく傷ついた。ファイブはいつもこの大きな影のある部屋が好きだった。そして私は応接間が好きだ。もう二度と持てないと思うと残念だ。絶望的に時代遅れになってしまった。今は「リビングルーム」しかない。そしてリビングルームは、パーラーのような称賛を得ることはできない。あの神聖な部屋は、来客のときだけ開放されるものだった。確かに私はリースクデールとノーヴァルの応接間は、この家の他のどの部屋にも負けないくらい「住んで」いた。
私はいつもリースクデールの応接間で原稿を書いていた。親愛なるスチュアートは外のホールの床に横たわり、ドアの下で母にキスをした。母が執筆している間は、どうしても必要な理由がない限り、邪魔をしてはならなかった。彼は私のためにドアの下に花を刺してくれた、愛しい子。
ノーヴァルでは、私はいつも自分の部屋で執筆してきた。松林の丘の向こうにもインスピレーションを得ることができる。しかし応接間はいつもよく使っていた。暖炉があったからだ。部屋は広く大きな出窓があり、その窓の外はちょっと殺風景な脇道だったが、松の丘とその向こうに沈む夕日が見えた。私はこの5年間何度も苦悩しながらその床を歩いた。鏡や絵やカーテンを取り去り、カーテンを巻き上げ......。カーペットを敷き詰め、クッションや小物を片付ける。空になった哀れな部屋は、私がそこに入るたびに私を非難しているようだ。私たちが来たときに運び上げて以来そのままだったトランク類も、小屋から下ろしてきた。グレンハウスで夕食をとった後、ホールで行われたプレーコンテストに行き、審査員の報告をした。旧グレン・ホールも最後だろう。でも しかしそんなことで感傷に浸る必要はない。
今日、ガレージでポイントレースの箱を開けていたら、私のゴールドの指ぬきを見つけた。その金の指ぬきは30年以上前に手に入れたものだ。何か重要な雑誌に載った記念に。私はいつもそれを使ってきた。それは普通の指ぬきのように指が変色することもなかった。それが2、3年前になくなった。仕事用のバッグから落としたのだと思った。何日も探したが見つからなかった。そして今日、折り畳んだレースのバータから転がり出てきた。どうやってそこに入ったのか想像もつかない。でもまた見つけることができて嬉しかった...。

1935年3月15日(金曜日)
今日は春のような陽気だった。私たちはトロントに行き、ルページ氏と建築業者のスモール氏と相談した。リビングルームを歩き回った。私は渓谷と松を眺めた。彼らは私を決めた。私はこの家を買うと言った。12,200ドルで買うと言った。私はバカ? そうは思わないね。この界隈は素晴らしい。もし家を持てなくなったらこの家を売るのは簡単だ。いい家で人生を終えたいんだ。"旅の終わり" と呼ぶつもりだ。「旅の終わり」であってほしい。二度と「引っ越し」をしなくて済むように。私はもう一度、この建物を見直したが相変わらず気に入っている。一度も住んだことのない家には不思議な無個性さがある。記憶も伝統もない、幽霊もいない。魂を求めているようだ。
しかし、マクレランドの家に行ったとき、不愉快な驚きが待っていた。ホッダー&ストウトンが『パット嬢』を拒否したのだ。この平手打ちはまったく予想外だった。まったく予想外のことで理解できない。彼らは『シルバー・ブッシュのパット』には「大喜び」し、かなりの成功を収めた。続編は、『シルバー・ブッシュ』や『ミスター・ストートン』に匹敵する出来だと思う。 ストークス氏は、彼らが「喜んでいる」と書いてくれた。マクレランド氏は、彼らはその理由を言わなかったと言った。マクレランド氏はハーラップ社が引き受けてくれるだろうと考えている。彼らは私の本の再版をたくさん扱っているし、いい会社だと思う。しかし私は落ち込んだ。ホッダーは『イングルサイドのリラ』以来、私の本をすべて出版している。私は変わるのが嫌いだ。変わるのは嫌だし私のプライドも少し傷ついた。しかし、それは人生の他の心配事の中では小さなことだ......。

1935年3月16日(土曜日)
牧師館、ノーヴァル、オンタリオ州
......今日、ガレージの本をすべて梱包した。リースクデールでの荷造りとはまったく違っていた。手伝ってくれたり、食事をご馳走してくれたり、お悔やみを言ってくれたり......。

1935年3月17日(日曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
ぐっすり眠って、聖書クラスと教会に行った。ユアンが病気になってから初めて、即興で説教をした。月明かりの中で夕方、ジョー・マックルアーズに会いに行った。心の痛みが慈悲深い無感覚に変わることがあるのだろうかと思いながら。

1935年3月19日(火曜日)
一日中荷造りをしていたのでひどく疲れた。イゾベルからも手紙をもらった。午後は外の空気を吸いに川までぶらぶら歩いていった。そして愛すべき小川との別れを惜しんだ。今度行くところのハンバー川はそれほど美しくない......。私の庭はマドンナ・ユリが地面を押し上げている。もう庭を持つことはないのだろうか? 私は3つの庭を去らなければならなかった。
ドイツが再軍備の意向を表明し、新聞は戦争の話題で持ちきりだ。 なんという世界だろう!

1935年3月20日(水曜日)
昨夜は神経が高ぶって眠れなかった。今日はチェスターの部屋を荷造りするために剥がし、私たちが来たときのことを思い出した。
今日の午後、ユアンがマクファーソン家に会いに行った。誰に聞いても会衆の誰もがひどく後悔しており誰もが他人を非難している。今晩はユアンが留守で私は調子が悪かった。私は以前は一人でいることを気にしたことはなかった。今は耐えられない。閉所恐怖症のひどい発作に襲われた。閉所恐怖症になった。外に出なければと思った。一瞬たりとも耐えられない。未来に対する恐怖でいっぱいになり、それに直面することができなかった。電話が鳴るたびにビクビクした。そのひどい瞬間、私はこう感じた。1年前の恐ろしい夢の中で、私は死んだ宇宙でたった一人の生き物だった。私は恐怖の化身でしかない。

マクファーソン・グループ

拷問を受けた幽霊のような生き物は、かつては陽気で、どんなことにも冗談を見つけることができたのに、今は打ちのめされた怯えた犬のように感じている。人生は悪夢以外の何ものでもないのだろうか? 今日は『島のアン』と『アンの夢の家』を読んだ。私の新しい本はその間を埋めるものだから、その精神に戻りたいんだ。そして書くことがとても簡単で楽しいと感じた、甘くシンプルな昔の日々を懐かしく思った。

1935年3月21日(木曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
坐骨神経痛でひどい夜を過ごした。ポール博士の錠剤を1錠飲まなければならなかった。少し眠ることができた。私は今日予備の部屋を解体した。松の丘が見える。閉所恐怖症の発作が襲ってきて、それがずっと続いた。30分ほど歩いただろうか。夕方、私はマクファーソン家に寄った。帰り道、慈のある川の夜はとても美しかった、松の木は暗い。しかし私はもはやこれらのものとの昔のような神聖な交わりを感じることはできない。
夕方、スチュアートから手紙が届いた。それを開けるのを恐れる理由などこの世にはない。でもどうしても開ける気になれなかった。だから朝までお預けだ。
今日、『フランス文学芸術協会』の会員に選ばれたという知らせを受けた。この栄誉が、私の坐骨神経痛を治、私の魂と芸術の傷跡をすべて取り去ってくれることを願っている!

1935年3月22日(金曜日)
素晴らしい日だ。これほど美しい3月というのは記憶にない。私は昨夜は薬を飲まなければならなかったが、ぐっすり眠れて一日中気分が良かった。神経的な落ち着きのなさはなかったが、その代わりに不思議な計り知れない悲しみを感じた。
今朝、スチュアートの手紙を読んだ。彼の新しいオーバーコートが盗まれた。私たちの不運はすべてにおいて追いかけてくるようだ。今日、部屋の絵を全部下ろした。ここに来てすぐに部屋のペーパー(壁紙)をかけた。この春にもう一度紙を貼るつもりだった。今は誰かがやるだろう。その色あせない絵の飾られた空間が、恨めしそうな亡霊のように下を見つめている。
今晩、私たちはグレンでユーカーゲームを楽しんだ。新たな影が私たちを覆っていた。バラクロー氏は高血圧で心臓が悪い。この知らせは私たちを非常に心配させ動揺させた。

1935年3月23日(土曜日)
......一日中荷造りをしていた。家がひどい有様になってきた。夜はミストレス・パットの校正を読んだ。以前は校正を読むのが好きだったが今夜は何の楽しみもなかった。今晩はユアンはよく働くが、すぐに疲れてしまう。私は今夜は寂しくてホームシックになりそうだ。

1935年5月24日(日曜日)
牧師館、ノーヴァル、オンタリオ州
...教会は耐え難かった。涙をこらえるのがやっとだった。次の日曜日はどうだろうか。しかし我が家はまだ1ヶ月は完成しないので、完成するまで行くことができない。後頭部に嫌な痛みがずっとあって、とてもやせてきている。悲しみや心配から解放され本当の休息がとれれば、私もすぐに回復すると思う。ある医者が私に言ったことがある。すぐよくなりますわと言っていた。でもチャンスはなさそうだ。ちょっと元気になると、また打撃が来る。だんだん迷信的になってきた。

1935年3月25日(月曜日)
今日から食器の整理を始め、樽一杯のディナーセットを詰め込んだ。私は昔からあの可憐で繊細な食器が好きだった。結婚以来かなり使い込まれたので、メイドの不注意による傷はいくつかある。しかし欠けているのは一枚だけだ。
......今日、長老会の委員会がここで開かれた。私が所用から帰宅すると、ユアンがニュースを伝えてくれた。彼らは徹底的に物事を洗い出し、ノーバルの人々に知っておいたほうがいいことをいくつか話した。結局のところ彼らが来てくれてよかったと思う。最初はそうは思わなかったけれどね。しかしニュースの核心は会議の後にあった。
外でガーフィールドが大胆にもユアンに近づいてきて、「あなたとマクドナルド夫人はなぜ私と話をしないのですか」。もちろんそんなことはなかった。ガーフィールドとは必要なときにはいつも丁寧に話している。ガーフィールドが本当に言いたかったのは、なぜ昔からのように親しみをこめて『やあ、ごきげんよう』と話しかけてくれないのか」ということだった。ユアンは、マクドナルド夫人は自分自身のために話すことができると手短に言った。彼女はオールド・タイマーズ・アソシエーションに侮辱されたのだと。「私は関係ない」。とガーフィールドは叫んだ。「あれはモーガセンとゴロップの仕業だ」。
もし私がガーフィールドの正体を知らなかったら、あの嘘が彼の正体を明らかにしていただろう。もちろん、ゴロップもその(陰謀の)中にいたが、それはガーフィールドが糸を引く操り人形としてだけだった。モーガセン氏は無関係だった。何が行われたかを知ると、彼はこれ以上オールド・タイマーズと関わることを拒否し、私を助けるために劇場に戻ってきただけだった。ガーフィールドがこう言ったとき、もし私がその場にいたら......。そう言っただろう、
翌日、田舎中を車で走り回って芝居を探し回り、見つけた芝居を持ち帰ったのはゴロップ氏とモーガセン氏のどちらか教えてください。と言った。彼はそれにどう答えただろうか。そしてガーフィールドが彼に罪をなすりつけたと聞いたら、モーガセン氏は何と言うだろう。
しかし何人かの友人にこのことを話してみようと思う。石灰の中で彼に伝わると思う。ガーフィールドが自分についてどのような虚偽を語っているのか彼は知るはずだ。私のことは? 「私としては、」ユアンは続けた。私が『男性聖書クラス』を作ろうと話したとき、あなたは『いい考えだ』と言った。
「私はそんなことは言っていない。誰が言ったんだ?」
「ユアンは言った。「君が言ったんだ」。
そして彼は振り返って立ち去った。うぬぼれの強いガーフィールドは耳の中にノミが住んでいる。

1935年3月26日(火曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
今日の午後、W.M.S.がマリオンの家で開かれた。牧師の妻として最後のW.M.S.だった! 私はとても悲しく、ずっと涙と戦っていた。彼女たちはお世辞の挨拶を読み、素敵なテーブルランプをくれた。しかし私の夫が病気になったとき、彼女たちの夫が私の夫を追い回したのだ。私は心配でたまらなかった。そのことが忘れられない。昼食後アーリー夫人が泣きながら私のところに来た。「あなたが行ってしまうなんて、本当に残念だわ」。と泣きながら言った。「私もよ」と私は静かに言った。彼女は何も言わなかった。私はマリオンが皿を洗うのを手伝うためにみんなが帰った後も残った。
またおかしなことを聞いた。ガーフィールドが悲痛な面持ちでマレー家にやってきたのだ。「みんなが彼をヤギにしたんだ。彼はあまり同情されなかった。かわいそうに ガーフィールドは、いくつかのことが帳消しになるのならそれなりのことをするだろう。しかしその醜悪さは私を傷つけた。ユアンの聖職がこのような結末を迎えることを思うと......。他の信徒たちは彼が行くことを嘆き悲しんだのに!

1935年3月28日(木曜日)
......私たちは今日トロントに行き、マクファーソン家の娘たちを連れて行った。帰りに新しい家を見せるために電話したんだ。この家にいるときはとても気に入っているし、幸せになれると思う。しかし家に帰ると、マンスリーへの愛が再燃し、タウンハウスへの憎しみが湧いてくる。しかし私の心はまだそれを知らない。私たちの右隣に住む女性、コーワン夫人がやってきて私たちに話しかけてきた。彼女はとても親切でフレンドリーだ。グレン・ハウスで夜を過ごし精神的に楽になった。でもひどく疲れて坐骨神経痛にずっと悩まされていた。

1935年3月29日(金曜日)
今日はよく眠れたし、それほど疲れも感じなかった。底なしの絶望に襲われることもなかった。とても恐ろしい。言葉では言い表せない。一瞬 一瞬、私の足元に黒く空虚な恐怖の溝が開いたように思えた。その一瞬が100年のように思える。幸いなことにそれが一瞬より長く続くことはない。もしそうなったら私はどうなってしまうのだろう。私は一日中荷造りをし、夕方にはユニオンのユーカー・パーティーに行った。あの人たちとはいつもアットホームな感じだった。みんな大きな家族のようだった。

1935年4月2日(火曜日)
牧師館、ノーヴァル
悪意ある運命が私たちを追っていないと言うのは、誰にとっても無益なことだろう。先週の土曜日、ユアンと私は、他の人たちとともに、突然の死や大怪我からこれまでで最も間一髪のところで逃れた。どうやって助かったのか想像もつかない。それは運命に違いない。単に宿命なのだろう。
土曜日の午前中は荷造りをしていたが、午後になるとバラクロー氏がやってきて、一緒にドライブに行こうと誘ってきた。彼は立派な新車を購入し、それをテストするためにドライブに出かけるところだった。彼は私たちにその車の感想を聞かせてほしいというのだ。私たちはグエルフにいる姪のエヴァ・ウィンフィールドを迎えに行き、エルミラまで車を走らせた。和気あいあいとした交友関係はいつも私を助けてくれる。エルンチラで折り返してキッチナーを通って帰ってきた。迷信深い人は角を曲がるときに霊柩車を見るのは縁起が悪いというだろう。ある角を曲がったら霊柩車のすぐ後ろに葬列があった。私たちは、彼らが脇道を曲がって教会に向かう脇道に入るまでそのあとを走り続けなければならなかった。バラクロー夫人はかなり動揺していた。
私たちはキッチナーをあとにして、非常に緩やかな速度で走行していた。片側には高さ3メートルの堤防があり、(崖際には)手すりすらなかった。その時それは起こった。言葉では言い表せない。何が悪かったのか誰にもわからない。あの車は突然おかしくなった。まるで悪魔に取り憑かれたかのように、2、3回往復した。「どうしたの、アーネスト」と夫人が叫ぶと、「どうにもならないんだ」と彼は答えた。 あぶない! とB夫人が叫んだ。車が堤防を越えていくのを感じたとき、私は恐怖も不安も感じなかった。 しかしはっきりとこう思った。何人かは間違いなく死ぬかひどい怪我を負うだろう。"少年たちは(私の子供たちは)あとをどうするのだろう?" 車はウサギのように何度も何度も転がりながら、幸いなことに斜面を下っていった。幸い切り立った傾斜ではなくわずかに傾いていた。二回転半した後、車は横倒しになった。幸いにも柔らかい泥の水たまりの中だった。特徴的なのは、最初に私の舌を見つけたことだった。"誰か怪我は?" と叫んだ。そしてすべての声が「大丈夫」と答えた。 これは奇跡だった! 私たち5人は全員メガネをかけていた。メガネは1つも外れなかった。

しかし、その後30分はかなり厄介な時間が続いた。バラクロー氏は上のドアを開け、彼とユアンはそこから逃げ出した。奥で私は下側のガラス戸の上で、何とも言えない格好で丸くなっていた。Mrs. バラクロー夫人は体重200ポンドをはるかに超える女性で私の上に横たわっていた。私たちの間には震える小さなボストン・ブルがいた。その上にエヴァが横たわっていた。私たちが通り過ぎたときには、人影も車も見当たらなかった。しかし男たちが降りてくる頃には、いつものように人だかりができていた。彼らは私たちの上のドアを開け、エバは男たちに引っ張られながらなんとか外に出た。しかし、ミセスB(バラクロー)が重すぎたので、私は背中の筋肉を痛めてしまい、動くたびに痛みが走った。
そのため近くの家に脚立を借りに行かなければならなかった。その間に熱くなったエンジンにオイル二火が回り黒い煙が出始めた。その様子は見えなかったが、外から "燃えてるぞ!" という声が聞こえてきた。私たちは罠にかかったネズミのようだった! 急降下よりも、この緊張のほうが私たちを苦しめた。しかし梯子が運ばれてきて、私たち二人は外に出た。助けられて土手を登った。車は泥で覆われたが、しかしそれ以外はほとんど傷つかなかった。スチール製の幌と割れないガラスが、私たちを救ってくれたのは間違いない。
死ぬか、切り刻まれるか。そのガラスは割れなかった。夫人と私はその上に1時間半立っていたが、ヒビひとつ入らなかった。結局、私たちは全員、クチェナーのホテルに集められ、状況を把握した。ミスターB. とユアンにはかすり傷も打撲傷もなかった。エバは肋骨にヒビが入り、(後でわかったことだが)、ミセスBの膝はひどい打撲を負った。私は筋肉の痛みでほとんど動けなかった。しかし私たちが大怪我をせずに済んだのは信じられないようなことだった。結局、私たちはタクシーに乗り全員家まで送ってもらった。私は腰が痛くて、でもやっと家に着いた。ベッドに入って横になると動かない限り、背中は痛くなかった。しかし朝起きようとすると 朝、起き上がろうとすると、ユアンに腕を引っ張られた。一旦起き上がると、私は何とか服を着ようとした。もちろんベッドにいるべきだった。しかしその日は「お別れ」の日曜日だった。私は教会に行く決心をしていた。事故のニュースが漏れて、私たちとバラクロー家の親密さを妬んでいる人たちを満足させたくなかったのだ。

それからユニオンに行くつもりだったんだけどあきらめたんだ。ユアンは一人で行った。礼拝が終わると、男女を問わず会衆全員が涙を流して座っていた。昼食後、私は聖書クラスに行き、それが終わると少年たちに別れを告げた。彼らはとても残念そうだった。私もそうだったが、3年かそこら前ほどではなかった。私がノーヴァルに来たとき、17歳以上の大柄な少年たちのクラスはなかった。中級クラスでは「大きく」なりすぎて日曜学校に流されてしまうのだ。そこで私は青年聖書クラスを組織した。それは常に大成功を収めてきた。私たちは自分たちで財政を管理し、年間約40ドルを集めていた。私たちは予算を日曜学校の資金に寄付し、残りは好きなように使った。とりわけ ランタンと讃美歌のスライド、讃美歌のボード、地下室で使うピアノをもう一台手に入れた。クラスではいつも興味深い時間を過ごした。少年たちは自分の意見を持ち、それについて議論するのに十分な年齢だったからだ。そして数年前、その少年たちは皆、引っ越したり結婚したりしていなくなってしまった。中級から入ってきた少年たちはもっと若かった。13歳から16歳まで。彼らに質問について議論させるのは難しかった。実際彼らはもっと愚かで、何の意見も持っていないように見えた。それでも、彼らのほとんどはいい子たちだった。彼らと別れるのは残念だった。別れのスピーチの最後に私はそう言った。彼らの一人がこう答えた。
「マクドナルド夫人、私たちもあなたも同じように残念です」。これで9年間の仕事は終わった。誰が教師になるかはわからない。この後に適当な教師は見当たらない。でも次の牧師の奥さんが継いでくれるかもしれない。それから私は2階に上がり、ユアンの(牧師を辞任するときの)告別説教を聞いた。それは私にとって辛い試練だった。背中が痛かった。しかし私は正座し何も示さなかった。そこには大勢の部外者がいた、ユナイテッドとアングリカン。そのうちの何人かは間違いなく友好的であったが、何人かは興味本位であった。好奇心から来た者もいた。彼らはあまり得をしなかった。ユアンは見た目もよく、説教もうまかった。むしろ言わなかったことに意味があった。彼は9年間の牧師生活について簡潔にそして好意的に言及した。ヤング・ピープルズ、日曜学校執行部、W.M.S.、レディース・エイドに感謝した。

ノーヴァル教会内部

まったくその通りである。彼はセッションと管理委員会については言及しなかった。彼らは皆、その理由を知っていた。ユアンを自分の説教壇で見ることは二度とないだろうと、私は悲しく思った。礼拝が終わると私はすぐに立ち上がって外に出た。私は知っていた。もう二度とノーヴァイ教会に入ることはないだろうと思った。私はこの教会が大好きだった。私はリースクデールでの最後の日曜日、泣き叫ぶ女性たちに囲まれてほとんど外に出られなかったことを思い出した。泣いている女性たちが私の周りにいた。ここにいる女性たちも同じように悲しんでいるのはわかっていた。 私たちの間には越えられない壁があった。
私たちは夕方にグレンに行き、事故のことを話したり、感覚や印象を比較したりして過ごした。私たちの逃避行を理解することはできない。昨日はよく眠れたし気分も少し良くなった。それから絶対的な疲労感が襲ってきた。荷造りができなかったので賢明な行動をとり、ほとんどベッドにいた。暗い一日で、雪も降った。4月の雪は、キスを期待していたのに平手打ちを食らったような忌まわしいものだ。今日は起きて荷造りと休憩を交互に繰り返した。背中が痛くて荷造りをするのはとても苦痛だが、樽を詰めるのは絶対に不可能だ。ユアンはトロントに行った。ボガードさんがチェスターはもう元気だと言っていた。(それが長続きすればいいんだけど!)
私は今日、ストークスから印税報告書を受け取った。予想よりずっと良かった。経済的なことで少し心配していたのでほっとした。私は『ジャーニーズ・エンド』の支払いをするために、損をせずに売ることができる株はすべて売り払ってしまった。

1935年4月3日(水曜日)
牧師館、ノーヴァル
......午前中はずっと荷造りをして、スチュアートの小さな書斎を壊した。彼は数年前からそこで寝ている。ラッキーはそこが大好きだった。寝る前にラックがいるかどうか確かめようと家中を探し回った夜もあった。彼はスチュアートの小さなベッドの上で丸くなっていた。

1935年4月4日(木曜日)
今日ジョージタウンに行き、ポール医師から強壮剤をもらった。とはいえ彼は、心の安らぎや痛みの緩和の薬を1瓶のボトルで売ってはいない。
今晩はユニオン・チャーチでのお別れレセプションに行った。そこにはガーフィールド・マクルーア家とウィル・マクルーア家を除くすべてのノーヴァル家の代表が出席した。私は早めに行ったので、ディック夫人が皿を並べるのを手伝っていた。彼女は苦々しげに言った。でもノーヴァルがこのような仕打ちをしたのはあなたが初めてではないし、あなたが最後になることもないでしょう。つらい夜だった。私たちは壇上に座り、ユニオンの男たちからの賛辞のスピーチを何度も聞かなければならなかった。かわいそうなノーヴァル人もスピーチに招かれたが悲しい苦境に立たされた。彼らは立ち上がって私たちを賞賛することができなかった。私たちを追い払ったことを非難しているのに。哀れなアンディは立ち上がりこう口ごもった。「とても残念だ」と。おそらく彼自身もその意味がわかっていたのだろう。オリバーはずっと私たちの味方で、私たちのために立ち上がってくれた。ノーバルのスピーチをした。私たちには財布が贈られ、演劇クラブからはペンとインクスタンドが贈られた。私たちは帰りにグレン・ハウスに寄って、この件について話し合った。

1935年4月5日(金曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
今日、なんとかジャムを1樽詰めることができたがとても大変だった。体を曲げると死にそうになる。それから夕食を食べに行き、夜はグレン・ハウスでユーカーを楽しんだ。バラクローさんは良くなり、血圧も下がった。いつものようになった。

1935年4月6日(土曜日)
もう1つの樽といくつかの箱を梱包した。その後ジョー・マクルーアの店で夕食をとった。そこには、ブランプトンの信徒である兄のデイブ・マクルーアもいた。彼はコールター夫人(ブランプトンの新牧師の奥さん)について話していた。とても魅力的な女性だ。彼は彼女のあらゆる良さを天にも昇るほど褒め称えた。理想的な牧師夫人だ。フン! ガーフィールドがそう思うかどうか! 悲しいことにかつてはそうだった。彼は季節の変わり目にも私を褒めてくれたものだ。そして私は変わっていない。すべてが私を傷つける。

1935年4月7日(日曜日)
どんよりとした一日。日曜学校にやってくる車を見て私は恐ろしく感じた。もし私たちが自分の意志で「引退」し、リースクデールから行くのであれば、私はここにいる限り日曜学校を続けただろう。この状況ではそうすることはできなかった。ユアンも突然、新しい「空虚さ」に気づいたようだった。彼は冴えないし、頭が痛いと訴えていた。私は彼がまたメランコリアの発作を起こすのではないかと心配している。この数週間彼はとても元気だった。ノラとネッドは今日の午後外出した。ノラは私たちのトロントでの生活について喜んでいる。でも私にはそれが理解できなかった。私の重苦しい心に、小石のように落ちてきた。
夕方、ベンハウスに行った。ミスターBによると、ユニオンにはほとんど人がいなかったそうだ。ボストンとオマーグのケイ氏が、空席の説教壇で説教し、また候補者であることを理解させた。しかし彼に勝ち目はないと思う。
帰宅して家に入ると、枝の丘の向こうに新月が見えた。今まで何度も見たが、もう二度と見ることはないだろう!

1935年4月8日(月曜日)
牧師館、ノーヴァル、オンタリオ州
寒い朝、トロントに向かった。ボガード氏に初めて会った、私は彼に大きな好意を抱かなかった。おそらく君がトロントに来てくれて嬉しいよと言われたからだろう。確かにその通りだが傷ついた。彼は私がL.M.モンゴメリだと知ったばかりで、「チェスターにそんな有名な母親がいたとは知らなかった」と言った。ある意味そうであった方が(親は有名でない方が)チェスターにとっては良かったのかもしれない。
私たちは12時に出発し、ブランプトンに寄ってコールター夫妻と夕食を共にした。ビクトリアのDr. マッケロール博士夫妻もいた。楽しむべきだったが疲れすぎていた。私は文芸クラブに行った。ノーヴァルに来てから毎年そうしているように私は文芸クラブに行き論文を読んだ。彼らは私にバラの花束を贈られた。今夜はとても疲れていてもう休めないような気がする。また何かいいことが起こるとは思えない。もう寝た方がいいと言われ続けている。私は誰にも文句を言ったことはないけれど、みんな私の様子に気づき始めている。どうしたら寝られるのだろう?

1935年4月9日(火曜日)
よく眠れたし、一日中元気だった。ユニオンのホア夫人を連れて、彼女の姉妹と夕食をとり、孫に洗礼を授けた。車を走らせながらホア夫人はこう言った。「私たちがユニオンに来て9年になる」また、すべての田舎がガーフィールド・マクルーアに対して「落ち込んでいる」とも......。

1935年4月10日(水曜日)
よく眠れたし、今日は晴れて暖かかった。ありがたいことに、最後の樽に荷物を詰めた。ユアンは「あまり気分が良くない」と言った。私はその言葉の意味を知っている。
5時、私は泣き崩れた。私たちはヴェルヌ・トンプソンの家で夕食をとり10時に帰宅した。今夜はY.P.が地下で社交パーティをすることになっていて、ルエラが私を誘ってきた。私は夕食の約束があるから行けないと言った。そしたら彼女は、私が帰ってきたら行ってくれと言った。私はこの時、別のプレゼンテーションが控えていることを知っていたのでしぶしぶ出向いた。Y.P.と私の聖書クラスが一緒になって、銀のトレーに載ったガラスのお皿を私にくれた。私が好きではなかったクロード・マクラフリンが司会を務めた。彼は私のクラスではY.P.のメンバーになったのは今年が初めてだ。劣等感に苦しんでいるわけでもない。彼は非常に慇懃に、マクドナルド夫人はノルヴァルの教会にまた必ず来てくれると信じている。ノーヴァル教会に来ればいいんだ! 
私は立ち上がって、この我慢のならない男にこう言いたかった。マクドナルド夫人は歓迎されようがされまいがノーヴァル教会を再訪するつもりなど微塵もないと言ってやりたかったのだが......。

1935年4月11日(木曜日)
牧師館、ノーバル、オンタリオ州
つらい一日だった。私はとても心が傷ついた。デイヴィス夫人が電話をかけてきたが、正確には明るい話ではなかった。ジーン(娘)が、マクドナルド夫人のいない日曜学校は日曜らしくないと言っていたそうだ。マクドナルド! 私は日曜学校のために一生懸命働いてきた。と言った。

1935年4月14日(日曜日)
今日は素敵な日だった。午後はグレンに行き、ディックさんのところで食事をした。このような行事は、私にとってはいつもしつこいおしゃべりで台無しにされる。もう忘れたい。ユアンは冴えないし、不機嫌で、いつもごろごろしていたいんだ。また頭と腹部の「あの焼けるような感覚」を訴えている。 私自身は、ようやく背中が良くなり、車の乗り降りも問題なくできるようになった。 車の乗り降りも問題なくできるようになった。

1935年4月15日(月曜日)
土砂降りの雨が雪に変わり、強風が吹き荒れた。夕食後、車に荷物を積んでトロントに行った。荷物を運び出しながら恐ろしく感じた。ユアンは午前中はずっと元気がなかったが、午後には良くなったようだ。私たちは荷物をジャーニーズ・エンドのクローゼットの中にしまった。これで "住み慣れた家" になった。
この夜はマッケイン夫妻と過ごした。頭が変な感じで、ずっと締め付けられるようだった。ユアンが台所で子供たちと話していると、マッケイン氏がこう言った。マクドナルドさんは、「若い人たちにはついていけない人だろうね。私の息子たちは、彼のような人はいないと思っています」。

1935年4月16日(火曜日)
厳しい寒さで、軒先には泣きそうな風が吹き荒れている。家の中ではユアンは冴えない。一日中、頭が変な感じだった。"ホームレス" のような感覚に悩まされた。今夜はアーサー・マクルーアのところで夕食をとった。ユニオンとノーヴァルの訪問には不思議な違いがある。ユニオンでは、みんな私たちが去っていくこと、そしてそこに至る経緯について話す。しかしノーヴァルの家庭では、そのすべてについて絶対的な沈黙がある。

1935年4月17日(水曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
よく眠れ、天気は良かったが寒かった。午前中はずっと、売却する家具や雑貨の準備に追われていた。私は嫌だった。時間が来ると、チェスターの部屋に閉じこもり終わるまでそこにいた。特に杉の箪笥がなくなるのが嫌だった。ワードローブは本当にハンサムな家具だ。リースクデールに行ったときにどの部屋にもクローゼット(戸棚)がなかったからだ。でもジャーニーズ・エンドはクローゼットが充実していて、こんな大きなものを置くスペースはない。そんな大物を置くスペースはない。杉のクローゼットもあるし、私のチェストはとても大きくて扱いにくくてどこにも入らない......。
今夜、私は裏の壇上に立ち、教会の後ろにある月の光を長い間眺めていた。そして、自分のこだまに別れを告げた。何度、私はそこに立って「プス・プス・プッシー」と呼ぶと、まるで妖精が松の丘の向こうからエルフの国の子猫を呼ぶかのように。 まるで妖精が月光の中からエルフランドの子猫を呼び寄せるかのように猫たちがやってきた。

1935年4月18日(木曜日)
今日もまた、ジャーニーズ・エンドに荷物を運んだ。それからグレン・ハウスで夕食をとり、その後ユニオン・チャーチに行った。チェルトナム・ヤング・ピープルの劇の司会をしていた。私は朗読をした。「出演」は結局、私の最後の出演ではなかった。今夜スチュアートが帰ってきた。ノーヴァルでの最後の週末を過ごした。

1935年4月19日(金曜日)
今日は6月が4月に変わったような日だった。私はユニオンの最後のW.M.S.に行った。アンドリュー・マクドナルドの家に行った。彼らは私にとても素敵な荷物と住所をプレゼントしてくれた。というのも、それが彼らとの「一体感」に言及していたからだ。彼らはいつも私を自分たちの仲間だと感じていたからだ。私たちはみな涙を流した。ユニオンW.M.S.を去るときほど、組織との別れに痛切な痛みを感じたことはない。今晩はロビンソンズで夕食をとり退屈な夜を過ごした。スチュアートはとても辛そうだった。試験のことが心配だと言う。こんなの嫌だ。

1935年4月20日(土曜日)
ジャーニーズ・エンドに車で荷物を運んだ。私は古いウールナーの水差しを膝の上に乗せ、クローゼットの中に大切にしまっておいた。今夜はフレッド・ライオンズでひどく退屈な夜を過ごした。私の目は頭から抜けているようだった。交通事故以来ずっとこんな調子だ。ミスターB(事故を起こしたバラクロー氏)は彼の車を完全にオーバーホールしたが、その行動の理由は見つからない。ステアリングギア(ハンドル)に一時的に何かが詰まったのだろう。
今日は2回か3回、恐ろしい "絶望の波" が襲ってきた。その恐ろしさは筆舌に尽くしがたい。おいおい、どうしたんだ? 死にたい。まさに私の気持ちを表している。彼らは決して長くは続かない。もし長く続いたら。

1935年4月21日(日曜に)
牧師館、ノーヴァル、オンタリオ州
日曜日はいつも苦い日だ。ボイル氏が説教に来た。誰もボイル氏を出迎えることができなかった。ユアンは彼をユニオンに連れて行き、ここで夕食をとった。私は人を寄せ付けないわけではないが、ノーヴァルは自前で候補者を擁立するべきだと思う。

1935年4月22日(月曜日)
今朝、シダと猫をトロントに連れて行った。それぞれを麻袋に入れた。パットは行きの道中ずっと機嫌が悪そうに鳴いていたが、ダーリン・ラックは決して泣かなかった。彼はどんな気持ちだっただろう! 私は彼を置いて出て行くのが嫌だった。そして家に帰ったとき、私は彼にとても会いたかった、窓辺で再会したり、カエデの下をトコトコ歩いたり、空き地で丸くなって眠っているのを見つけることもなかった。これがスチュアートのノーヴァルでの最後の夜だ。ここに来たとき彼は10歳の子供だった。今は19歳だ。

猫たち

1935年4月24日(水曜日)
牧師館、ノーヴァル
スチュアートは昨日大学に戻った。もう二度と、この部屋で彼の足音を聞くことはないだろう。今夜、私は最後に夕方の郵便物を受け取りにオフィス(郵便局のことか)に行った。小さな小さな村の通りだが、私はいつもこの通りを歩くのが好きだった。遠くには美しい丘や川、松、教会の周りの美しい木々。
今日はほとんどすることがなかったので、午後はしばらく横になっていた。背中はすっかり良くなった。腰はすっかり良くなったが、神経はまだ事故のショックから回復していない。夕食を食べ、夜はグレン・ハウスで過ごした。ユーカーゲームをした。でもみんな悲しかった。私たちが帰るとき、バラクロー夫妻はいつもと同じように居間の窓の前に立っていた。

グレンウィリアムズのバラクロー家

そして私たちに手を振ってくれた。帰り道、私はずっと泣いていた。なぜなら私たちは将来、他の訪問を望んでいる、そう何度も訪れることはできないし同じことはできないからだ。彼らは私たちにとってここに来た夜から頼りになり、そして私たちは楽しい時間を一緒に過ごしてきた。神々はそれを私たちから奪うことはできない。ノーヴァルでの最後の夜、最後の夜だ。9年前の最初の夜は特に幸せなものではなかった。私たちはピッカリングの一件で悩んでいた。私はリースクデールにホームシックになっていた。ひどく寒い夜だった。しかしそれもすべて過ぎ去った。ここでの最初の4年間はとても楽しかった。
明日の夜の今頃は私たちをを歓迎する明かりで照らされることはないだろう。灯りは消える。すべてが暗く静まり返る。私たちはいなくなり 閉ざされたドアと空っぽの部屋には、私たちの苦痛と快楽の亡霊が残される。私はいつも日記に「ノーヴァルの牧師館」と書いた。ついにこの日記帳の「書き上げ」で、私たちの生活は終わった。モードとプッシーノーヴァル。そしてうれしい。古傷が日ごとに新たに開いていくのだから。毎日が新鮮だった。でもいつもと同じように、それは私にとって素晴らしいことだった。すべてを書き出すことで、私の魂から毒が抜けたようだ。これで傷は健全に回復すると思う。傷跡はいつまでも残るだろうが、古い痛みは消えるだろう。ページをめくるように、本を閉じるように。

モードとプッシー(孫のルエラ)

[この項終わり]




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