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モンゴメリ日記

1936年途中から

1936年9月30日(水曜日)
「ジャーニーズ・エンド」210Aリバーサイド・ドライブ

「旅の終わり」

かつて私は、本誌(日記)の新しい巻の最初のページを、ワクワクしながら書き始めた時期があった。ドキドキしながら始めたものだった。何が書かれるのだろう? という可能性があった。少なくとも多くの項目が楽しいものになるだろうという希望があった。その時間は過ぎ去った。もう戻ってくることはないだろう。この日記に、悲しみや心配や失望の書き込みがないことを願うことができれば私は満足だろう。しかしそんなことは望むべくもない。
今日は島への旅の荷造りをして今夜出発する。私には休暇が必要なのだ。とはいえ、この島を訪れることを想像するとまったく気分が高揚しない。心配事が多すぎるのだ。恐怖だ。今、私の島には幽霊が多すぎる。彼らの交わりを悲しく思わないのか? だが、それでも私の島だ。それを変えることはできない。そしておそらく、私が本当に同じ古い奇跡が繰り返されるだろう。"人生の新しさ" を見つけるだろう。

1936年10月2日(金曜日)
シャーロットタウン、P.E.アイランド
水曜日の夜、土砂降りの雨の中とても憂鬱な気分でジャーニーズ・エンドを後にした。翌朝、モントリオールに着いたときも雨は降り続いていた。――驚いたことに、この時期のことを考えると、船室が取れなかった。予約もしていなかったので日帰りバスで行くことになった。それは汚く、フランス人でごった返していた。一日中雨が降っていた。今日もずっと雨だった。乗り心地が悪くとても疲れた。でも海峡を渡ると、そんなことはどうでもよくなった。秋の黄昏の中、ボーデンからシャーロットタウンまで気持ちよく走った。塩の香りが私を蘇らせてくれた。ワインよりも刺激的だ。汽車の窓からは、四方に私の島が見えた。島が静かで、また愛おしく思えた。私は帰ってきたのだ。ファニーは相変わらずの陽気なファンだった。彼女に変化は見られない。

1936年10月3日(土曜日)
シャーロットタウン
美しい黄金の日。ネル・ディングウォールが午後に来て、モリーとモードが夕方に来た。夕方にはMiddletonが来た。私たちは皆、とても陽気で若々しかった。彼らのおかげで結局のところ、私はまだ生きている。心配と苦い思いのプレッシャーで麻痺しているだけなのだ。私は自分の島に来ても、決して苦い思いをすることはない。まるで深い親愛なる昔の喜びが私のためにここに保管され、再び私を支配しているかのようだ。再び私のものになる。

1936年10月4日(日曜日)
よく眠れた。ファニーと古い「ビッグ・ブリック・メソジスト」に行った。チェスター・マクルーアの店で夕食をとった。午後にはアルフとソフィー・シンプソンが現れた。後者には30年以上会っていないが、彼女は変わっていなかった。女は相変わらず大柄で、不器用でソフィのようだ。私への最初の挨拶は「おばあちゃんになったのね」だった。チェスターは落選した。だからそれはソフィーが言うべきことなのだ。と言うに違いない。彼女はそれを見逃すことはできなかった。ブライト病で瀕死のティリー・ベントリーに会いに病院へ行った。ティリーの病状は回復した。ティリーは神経障害の発作から回復した。ティリーは4年前にケンジントンに見舞ったときの神経障害の発作からかなり回復し、最近までかなり元気だった。しかし今は終わりが近づいている。明るく元気だ。彼女は私に会えてとても喜んでくれた。笑って抱きついてきた。もう二度と会えないと思っていたからだ。少女時代の思い出と結びついている。

1936年10月5日(月曜日)
キンロス、P.E.I.
今日は二重の意味で素晴らしい一日だった。今日の午後、R.E.とファニーがクリスティ叔母さんの家に連れて行ってくれた。R.E.が「この親愛なる女性」を連れてきてくれたことに感謝した。私は "この親愛なる女性" と呼ばれるのが好きだった。それはとてもいい感じだった。島らしい味わいだ。道中の景色はどれも素晴らしかった。私はその景色を眺めていた。また親愛なるクリスティ叔母さんのところに行けて嬉しいよ。

1936年10月6日(火曜日)
キンロス、P.E.I.
あまりよく眠れなかった。なぜか胸が痛かった。外の木の枝に響く風の歌声は、とても悲しげだった。もうこれ以上生きられない、昔の甘美な人生の響きに満ちているようだった。私はユアンとチェスターの赤ちゃんと初めてここを訪れたときのことを思い出した。あれからクリスティも私も、悲しい変化があった。彼女は明るく勇敢な生き物で、私は彼女を愛している。
午後はアニーとジョンと過ごした。そして今夜は、アニーとクリスティーと一緒に宣教師の集会に出かけた。東の光の中を歩いて帰った。とても楽しかった。

1936年10月7日(水曜日)
静かで安らかな一日だった。午後、クリスティーン(オーウェルに住むアーニー・マクラウドの妻、クリスティーの娘)が車でやってきて私たちをオーウェルまで連れて行ってくれた。アーニー・マクラウドの奥さんだ。 オーウェルで夕食をとった。夕方、ジョンとマーガレット・スターリングがやってきて、私たちは短いおしゃべりをした。でも私がキャベンディッシュにいる間に、彼らはキャベンディッシュまで来てくれるそうだ。ジョンには何の変化も見られなかったが、マーガレットには衝撃を受けた。彼女はとても老いていて疲れているように見えた。休養が必要なのだそうだ。彼らは今ジョージタウンにいる。アーニー・マクラウドが私たちを家まで送ってくれた。雨で滑りやすい島の道路は奇妙なものだ。特に車の後ろに座っているときは。

1936年10月8日(木曜日)
ウィンスロー駅
今朝、汽車でキンロスを発ち、町まではとてもゆっくりしたドライブだった。しかしその遅さは気にならなかった。一分一秒、美しい景色に目と心を奪われていた。アルバート・ミドルトンが私を出迎え、メアリーの家まで連れて行ってくれた。メアリーは最後に会ったときよりもずっと元気そうだった。午後はアイダが来てくれた。今晩はアニーに会いに行った。旧友の味は格別だ!

1936年10月9日(金曜日)
ウィンスロー駅
素晴らしい一日だった。午後、ミドルトン夫妻がメアリーと私を連れて、公園を通ってファルコンウッドまで長距離ドライブに出かけた。秋の景色は息をのむほど美しかった。メアリーはこの夜、数人の友人を招いた。P.E.I.ならではの年代物のバイオリン弾きもいた。

1936年10月10日(土曜日)
キャベンディッシュ
再び今日、彼らは「新しい道」をドライブしてくれた。私たちは楽しいドライブを楽しみ、メアリーは楽しい話を聞かせてくれた。島を訪れるたびに、いつも1つか2つはこのような話を聞く。これは本当においしすぎて忘れられない。メアリーの知り合いのアディが数ヶ月前に亡くなったんだ。彼女はすべての美徳の化身だったかもしれないが、彼女は美しくなかった。メアリーによると、彼女はとても醜い子供で、さらに醜い少女だった。従って彼女はあまり美しい "死体" ではなかったと考えるのが妥当だろう。しかし葬儀の数日後、メアリーは葬儀に参列しなかった。 メアリーは葬儀に参列した隣人に会った。「ああ、知っていたら電話して連れて行ったのに。残念だったね。 残念だったね。彼女は完璧にゴージャスに見えたよ」。私の記憶にある限り、死体が「ゴージャス」と呼ばれるのを聞いたのは初めてだ。天下の新事実である。
ここにいられてよかった。でも妙に寂しい。最後にここに来たときは8人で食卓を囲んでいた。今夜はたった3人。アーネスト、マートル、そして私の3人だけ! それは私に惨めな感覚を与えた。キースは結婚してマリオンは結婚していない。アニタは一時的にアルバニーで臨時の家政婦の仕事をしている。ポーリーンとロレインは一日中シャーロットタウンにいた。まるで鷹が舞い降りたかのようだ。しかし私はうれしいことを聞いた。ウェッブ夫妻はここから行かない。アーネストは公園監視員の職に就き、彼らはここに住み続ける。これは大きな救いだ。しかし多くの変化があるだろう。おそらくこの古い家は取り壊されるだろう。変化は避けられない。しかし私はもう十分な経験をしてきたと思う。

グリーンゲイブルス

今夜は雨だ。窓の外から聞こえる音が好きなんだ。でも自分の土地にいるのはいいことだ。私にとってはここは幽霊だらけかもしれない。友好的で家庭的な幽霊だ。

[恋人の小径]

1936年10月11日(日曜日)
今日もいい天気だ。恋人の小径と古い森を通った。私はあそこに戻るといつも若い。小道はまた美しくなり始めている。それは牧草地の向こうにモミの木の長い影を見ることができてよかった。牧草地を横切るモミの木の長い影を見ることができた。150年近く耕作され牧草地として使われてきた。もう収穫はないだろう。悲しいことだ。
今日はアニタが家に来てくれた。ポーリーンとロレインも帰ってきた。まるで昔のようだ。今日の夕方 アレックとメイが車で来てくれた。バプテスト教会に連れて行ってくれた。そこには知っている人はほとんどいなかった。小川を挟んで右側の森は、ほとんどすべての木が伐採されていた。玄関からその向こうに畑が見える。私が好きだった白樺の古い並木は、×印の場所にあった。その根の下には深い池がありマスが集まっていた。私たちが「小川を遡上する」ときには、その池でいつも1匹や2匹は釣れたものだ。今ではその小川でマスが釣れたという話は聞かない。

[キャベンディッシュ・フィールドにいた2人の女性、おそらくロレインとポーリーン・ウェッブ]

1936年10月12日(月曜日)
始まりは良かったが、午後になって猛烈なスコールと雨に見舞われた。私はのんびりした2日間だった。メアリーとローランド・ビートンが昼過ぎにやってきた。彼らは友人に会うためにファルコンウッドに行っていた。メアリーは、これまで聞いたこともないような恐ろしい話をした。ファルコンウッドには、何年か前に発狂した男がいて、聖書の一節、"もし右手が汝を怒らせるなら、それを切り落とせ "を文字通りに解釈したんだ。腕を切り落とした。彼は薪の山に出かけ、わざと斧で自分の左手を切り落とした。そして、その斧を左腕の脇の下に入れ、強く握ってわざと右手を切り落とした。神よ、人間の脳を作ったとき、あなたは何を考えていたのですか???
今ではすっかり正気を取り戻したが、足の不自由な彼に居場所はない。恥ずかしくて家に帰れない。だから精神病院に入れられた。不思議なのは、あの男はあの恐ろしいことをしている間、痛みを感じなかったということだ。取り憑かれていたに違いない。それは 悪魔憑きを信じさせるには十分だ。なぜ、なぜ、なぜ? 人生とは終わりのない疑問符でしかない。
スコールは日没までにおさまり、夕飯を食べながら、私たちは嵐の黒い縁の下に、これまで見たこともないような素晴らしい黄金色の夕日を見た。そしてトウヒの木々の向こうに、古いブロンズの光が見えた。あの光は他の土地では見たことがない。

1936年10月13日(火曜日)
嵐は去ったが、一日中強風が吹き荒れていた。手紙を投函するため郵便受けに手紙を入れる。池がこんなにも燦々と輝いていることを忘れていた、池がこんなにも煌びやかで、こんなにも鮮やかで、10月の晴れた日には信じられないほどイブリーなのだということを私は忘れていた。湾はもっと青い。私はユアンから短い便りを受け取った。彼はあまり元気ではないようだ、自分のことは何も言わないが。
頭が少し痛い。締め付けられるような感覚だ。ここ数年ときどき頭を悩ませている。それは一向に悪くなる気配がない。まったく感じない週もある。目のせいなのかと思うこともある。おそらく私はメガネをかけるべきかもしれない。私はそれはいつもずっと嫌だった。だがそうしなければならないのだろう。

[ロレインと私]

キャベンディッシュ池

1936年10月15日(木曜日)
昨日の午後、私は愛しい森に戻りすべての小道を歩いた。もう二度と歩くことはないかもしれない。もし歩いたとしても、それはもう私のものではない。一般公開される国立公園の一部となる。
観光客や猟師たちによって冒涜されるのだ。私には苦々しい思いだ。私の人生においてこの森は聖域だった。私はそこから空想に逃れることができた。妖精の王国のような美しさと孤独に浸ることができた。私は森をあらゆる季節、夜も昼も風も嵐も太陽も。私は隅から隅まで木々まで知っている。古くからの静かな野原も知っている。その中に抱かれている曲がりくねった小川も、その花々も。
私は子どもの頃、夢見る少女の頃、そこに安らぎと諦めを求めていた。私はそこで詩や物語をアンのために書いた。喜びのときも悲しみのときも。彼らは決して私を裏切らなかった。慰めと理解と心と魂を癒してくれた。私は彼らを愛してきた。そして今、私は彼らを手放さなければならない。あきらめなければならない。彼らはもう私のものではない。それはどんな言葉でも言い表すことはできない。愛する孤独よさらば!

樺の木

「ささやきの小径」           「ロレーヌの小径」

森を出ると、私は "ピアスの野原" を横切って丘の道へと向かった。1929年、私は旧市街の木立が再び成長し、再び素敵になったという事実をコメントした。そしてその翌年、マッコウブレイズはそれをまた切り倒した! そして5年後の今、3度目の成長を遂げている。公園の一部となった今、おそらく彼らはそれを生かしておくのだろう。私は「オールド・スクール・ヒル」に登った。
墓地までの道を歩いた。墓地内をくまなく見て回った。そしてとても不思議なものを見た。ジョン・Fおじさんの意地悪さを。まあ私は彼を知っているので、まさか彼でさえこんなに意地悪だとは思わなかった。ジョン叔父さんは昨年亡くなった。アン・マリア叔母さんはその3、4年前にね。

[キャベンディッシュの古い学校の丘]

そして彼女はジョンおじさんにとって良い妻であり、50年以上も一緒に暮らしてきた。ジョン叔父さんだって彼女は立派な墓石を建てるに値すると考え、彼女に墓石を建てたはずだ。そうだろうか? 彼はしなかった! 息子のアーネストの最初の妻が20年ほど前に亡くなったとき墓石が建てられた。碑文が刻まれていた。その墓碑銘の下には、おそらく夫の名前を刻むときの為であろう、もう一人分のスペースがあった。しかしジョン叔父さんはアン・マリア叔母さんの名前と年齢をその空いたスペースに刻んだだけだった。(息子の嫁の墓石の空いている部分に刻んだ)
信じられないような話だが事実なのだ。彼女の子供たちが母のためにきちんとした記念碑を建てようと主張しなかったことに驚かされる。たとえジョン叔父さんが老年になってさらに守銭奴になったとしても、母親(ルーシー・ウルナー)の死後遺産を相続したのだから、お金を使う余裕はあったはずだ。姉のケイトが母に残した遺産である。まあ私が死んだら、息子たちが自分の墓石を恨まないことを祈るよ! 
午後、合同教会の牧師であるパターソン氏が私をアマンダの家まで車で送ってくれた。その途中、彼は私にこう言った。そしてジョージとアマンダのことを "風変わりな老夫婦" と言った。その通りなのだが、そのように言われるのは不思議な衝撃を受けた。私たちにとっては同世代の人たちはいつも若い。それなのに。アマンダが車の音を聞いて玄関に来たとき私は最初に戸惑った。あれっという反応だった。アマンダだと気づくまでは、「あの老婆は誰だ?」最後に会ったときからかなり体調を崩していて老け込んでいた。おそらく彼女は、私と同じように私たちは年老いた老女なのだ。そう信じるしかない。私は一晩中いた。アマンダは昔ほど悪意がなく親切だった。でも退屈だった。私たちが話すことはほとんどないように思えた。実を言うとね、ホッとしたんだ。でも......彼女はかつて私にとってとても大切な人だった。私たちの少女時代は一緒に過ごした。あなたはとても残酷ね。悪魔のような冗談が好きなんだから。

1936年10月16日(金曜日)
穏やかで夢のような灰色の日。私は本を読み、夢を見、話をした。夕方古い友人たちがやってきて、歓談した。しかし私はあまり気分がよくなかった。表面的な陽気さの下に、なぜか計り知れない悲しみがあった。

1936年10月17日(土曜日)
キャベンディッシュ、P.E.I.
おそらく、この古い家で眠る最後の夜になるだろう。今日は美しかった。まるで夏のようだ。今日の午後、私は古い家の跡地に行った。いつもそこに行かなければならない。内なる衝動に逆らえないのだ。毎回ジャングルのようだが、他の場所では決して見つけることのできない何かがそこにはある。古いチーズ石を見て私はこう思った。アーネスト・マクニールに頼んでみよう。ジョン叔父さんが生きている間には決して手に入れることはできなかった。私に親切や友情を示さなかったとしても、その逆を見せびらかすようなことはしなかった。逆に。古いリンゴの木はとうとう切り倒されてしまった。ジョン叔父さんは家の神々の多くを惜しまなかった。古いリンゴの木を切り倒さなかったのが不思議なくらいだ。

「オールド・タマラック」(カラマツ)

私たちはいつもタマラック、あるいはジュニパーと呼んでいた。堤防に残っているのはこの木とライラックの古木、そして数本のトウヒだけだ。桜の木も古い白樺の木もすべてなくなってしまった。堤防から小さな苔むした緑色の石を持ち帰った。ジャーニーズ・エンドのロック・ガーデンに置こう。郵便物を取りに出かけたとき、ハミルトン・マクニールに会った。私は彼に、もう一度あの古い家を見に行きたいと頼んだ。彼の農場が公園として管理されることになったら、この家は取り壊されてしまうからだ。
ユアンから嬉しい手紙をもらった。彼は明るそうだ。私が来たときにエイダが来ていて、私が聞いたこともないような古代史を話してくれた。昔ウィリー・マクムが若かった頃、彼は工場で働いていたクリスティー・キャメロンと恋に落ちた。クリスティは彼を愛していなかった。そして彼はクリスティは彼を愛していなかったと脅した。クリスティは屈服し彼と結婚した。そうしないほうがよかった。彼は溺死した。 しかしその間に彼は妻の人生を惨めなものにした。癇癪で妻の人生を惨めなものにした。幸せな、あるいは普通の人生を送った者は一人もいない。ここは "モリー" が住んでいたころモリーと私がよく歩いた古い小道だ。彼女が奇妙になり、辛辣になり、発育不良になる前の数年間、私たちは古い小道を歩いた。

「古い小道」

[アマンダの家、1936年]

私は思い出した。「11月12日」と「11月22日」という魔法のような日に、ネイトは私たちと一緒にあの小道を歩いた。 今となってはばかばかしいことだが、当時はとても重要なことだった。あの家に近づいてその古ぼけた家を見たとき、私は衝撃を受けた。家に入ってみるともっとショックだった。床を横切るのが怖くなった。そして、かつては完璧だったのにかび臭く、黴臭く、気色悪く、死んでいるようだった! しかしある意味では不思議なほど変わっていない。同じ家具がまったく同じ場所に置かれていた。

[アマンダの家、1900年]

いつも夕食の時に座っていた居間にはまだ長椅子があった。古いロッキングチェアは2つのドアの間にあった。「11月12日」、アマンダと私が一晩中語り合った小さな空き部屋にはまだベッドがあり、金枠の鏡や洗面器、湯飲み、小さな洗面台があった。2階の「少女の部屋」には、4つの窓のある長い部屋があった。その長い部屋には有名な古いピアノがあった。「マルコム」が50年代にシャーロットタウンの知事セールで買ったものだ。これは貴重なアンティークコレクターの心を虜にするだろう。 私は悲しい、悲しいと感じた。私は幽霊の中の幽霊のようだった。ここから遠くへ行けてよかった。もう2度と行くことはないだろう。
今日、デブロワ副知事の秘書が来ていた。デブロワ副知事が来週の水曜日の夕方、官邸で私のためにレセプションを開いてくださるのだ。私が少女だった頃、「官邸に招待される」ということは、誰にとっても達成感のピークだった。それが最高だった。私たちがまだ素晴らしいと思えるうちに、このような機会に恵まれないのは残念だ。残念なことだ。なぜいつもありふれた退屈なものになるまで先延ばしにされるのだろう? 退屈なのだろうか?

1936年10月18日(日曜日)
キャベンディッシュ、ガートモア農場
昨日の夕方、アレックが私を迎えに来てくれて、旧ウェッブ邸を後にした。古いウェッブの場所を去るのはとても寂しい。今日は晴れて暖かかったので教会に行った。聖歌隊は3人だけだった。午後は、台所にある座り心地のいい古いソファに横になった。そしてぐっすり眠った。今夜は猛烈な黒雲の下でとても素晴らしい夕焼けが見られた。そして新月が昇り、またニュー・ロンドンの夜がやってきた。 ニュー・グラスゴー教会は今日、修理が終わって「再開」された。ウェッブ夫妻を連れて行った。帰りはタイヤのトラブルに見舞われた。

[ガートモア農場]

いくつかのことが非道く可笑しかったからだ。私はまた昔のように笑った。笑い方を忘れていたかのように。最後にパターソン牧師がやってきて、私たち全員を車で家まで送ってくれた。途中、彼は私にこう言った。ある日チェスター・ブルマン(ペンシーの息子)を訪ねたとき、チェスターは私が西部にいたときにペンシーに宛てて書いた手紙と詩を見せてくれたそうだ。私はその詩は覚えているが、手紙の中身は天が知っている。チェスター・ブルマンがそんなものを見知らぬ人に見せるなんて、私は好きではない。ペンシーは私の手紙をすべて保管していたのだろうか。

1936年10月19日(月曜日)
よく眠り、午後はまた昼寝をした。夕方リリーに会いに行った。あの古い道路は、破壊者の斧によって美しさがほとんど失われていた。私は悲しんだ。しかし悲しみが失われた美しさを取り戻すことはない。

1936年10月20日(火曜日)
昨夜はよく眠れなかった。神経が不安定になるような悪い発作に見舞われた。これは P.E.アイランドでは初めてのことだ。4時まで眠れなかった。家庭の問題が私を悩ませた。今日は曇りで涼しかった。アレックとメイと私は海岸沿いの道をドライブした。ジョージとエヴァに会いにニューグラスゴーに行った。ジョージはすっかり老け込んでいた。私が少女時代に住んでいた「古いマクニール家」にとてもよく似ている。年を取ると、このような不思議な共通点が現れるものだ。帰りにブルマンズに寄ると、チェスターが小さな手紙の小包を出してきた。プリンス・アルバートにいた頃ペンシーに書いた手紙だ。哀れな小包だった。彼女(ペンシー)はすべて保管していた。彼女が手紙を受け取ったのは、私だけだったと思う。私はそれらをすべて読み返した。一人だったら泣いていたかもしれない。私は信じられなかった。私ががあんな愚かで軽薄な手紙を書いていたなんて。
燃やされてしまえばいいのに。誰の手に落ちるかは天のみぞ知る。確かに害はほとんどない。ただ一節だけ消してほしい。ペンシーがネイトのことで私をからかったので、私はイライラして、私がネイトを愛していないことを納得させるために、かなり事実に反することを書いた。私は "彼を憎んでいる" と書いた。もちろんそんなことないわ。彼のことでからかわれるのが嫌だっただけ。その "詩" は手紙の中にあった。高校の自分の机で書いた日のことを覚えている。私はホームシックにかかっていた。 その詩はペンシーのことであると同時に、彼女が住んでいた古い家の描写でもあった。私は確かに贅沢なペンですみれを金色に飾った。ペンシーは可愛い女の子だったが、私が描いたような絶世の美女ではなかった!
        そして彼女はそこに住んでいる。
        彼女の甘さと美しさは、ほんのわずかなものだ、
        しかし、彼女の赤らんだ気品は、自然の新鮮さと隠蔽の中で
        彼女の赤ら顔の気品はよりいっそう愛らしくなった。
ペンシーの髪は赤褐色で、瞳は青かった。"穏やかな安息にある彫りの深い甘さ"! ああ、私! 無害な誇張だった。ペンシーの青と赤褐色と薔薇色は、長い間、墓場の塵に覆われていた。家路につく車中、私ははなぜかとても疲れ、老いているような気がした。「愛していた多くの友人が」亡くなってしまった。

1936年10月23日(金曜日)
ガートモア農場
水曜日は天気が良く暖かい日だった。政府主催のレセプションには行かず、メイとアレックとシークレット・フィールドに戻った。久しぶりの光景だ。従来のレセプションよりも、どれほど楽しかったことだろう。しかし私たちはかわいそうなアマンダを連れて、素敵なドライブを楽しんだ。そしてファニー(ファニー・ワイズ)のところで夕食をとり、彼女とガバメント・ハウスに行った。レセプションはどこも似たようなものだったが、P.W.C.の旧友や同級生にたくさん会えて楽しかった。チェスター・マクルーアの家で一夜を過ごし、今日の午後マイッチが私を連れてきてくれた。
今夜はホールでチキンの夕食会があった。新聞で宣伝したんだ。ホールは超満員で、「食べるもの」が足りなかったのだ! 私はロイヤル・オンタリオ博物館にあるウル・タブレットについて少し話した。そしてそのホールで初めて聴衆の前に立ったときのことを思い出した。47年前の "文学" コンサートでのことだ。そのとき私の前にいた人の顔は、今夜私の前にいた人の顔にはほとんど見えなかった。 今夜、私の前にいたのは哀れなアマンダがそこにいた。他には数人。あとはみんな見知らぬ人たちだった。私たちが外に出たときは、絹のようなサバ雲の間から真昼の光が差し込む素敵な夜だった。私たちが外に出たときは美しい夜だった。「車を走らせながらあんなスピーチは聞いたことがない」とアレックは言った。旧友からの賛辞は、見知らぬ人からのどんな言葉よりも嬉しいものだ。ファーガソン首相は、私がこれまで聞いた中で最高の夕食後のスピーチをしたと言ってくれたことがある。プリンス・エドワード島の農夫は私の幼なじみだった。今日はシークレット・フィールドを訪れたいと思っていた。しかし一日中雨だった。きっと明日は晴れるに違いない。
でも、本を読んだり派手な仕事をしたり、メイとおしゃべりしたりして一日を楽しんだ。そして、でも "一日を台無しにするのはなんと簡単なことか" 子供の頃に読んだ古い詩の一節が蘇る。五月は私の心の奥底にある痛いところに、ごく無邪気なつもりで言った一言でその日を台無しにしてしまった。私の心の奥底にある痛みに鋭く触れたのだ。
私はチェスターの奥さんといて、そして彼女は言った: 「スチュアートにも女の子がいるんでしょ? ウェッブ家から聞いたわ。ウェッブ夫妻もそれを知っていて解決したことだと考えているのだ。私は信じない。そうしなければならないときまでね。スチュアートが私に、あの密売人の子種を娘として受け入れろなんて言うとは思えない。しかしそう思っただけでその日は気分が晴れやかになった。私は言った、それは小学生のノリに過ぎないと言った。

1936年10月24日(土曜日)
ガートモア農場
降り続く雨に私はがっかりした。シークレット・フィールドには行けなかった。朝にはトロントに出発するのでもう見ることはできない。この先見る機会があるかどうかは誰にもわからない。
もう一度。くだらない古いレセプションに行くために無駄にしなければならなかった素敵な水曜日を思うと私は目から魂が滲み出る思いだ。今晩はボブとジェニー、そしてウェッブ夫妻が来て、楽しい時間を過ごした。でも、その間ずっと胸が痛かった。

1936年10月25日(日曜日)
ガートモア農場での最後の夜はよく眠れなかった。私はいつも、"またここに来ることができるのだろうか?" という悲痛な思いにいつも悩まされる。今朝は快晴で、アレックとメイとマートルと私は、長い間愛してやまなかったあの美しい道を、再びパーク・コーナーまでやって来た。この道はいつも生きているように思えた。その生命が宿っているように思えた。水はどこまでも青かった。エラもジムもジョージーも元気で優しい。でも相変わらずここは私にとって孤独だ。
今日の午後、エミリー叔母さんに会いに行った。叔母さんは私に会えて嬉しかったと思う。喜んでくれた。でも彼女は決して恨みっこなしというわけではない。私は彼女にO.B.E.の徽章を見せたんだ。彼女はそれを見てきれいだと言った。アレックはエミリー叔母さんはしぶしぶ言ったのだ。――と渋い顔で言った。こんなことで傷つくなんて私は愚かだ。エミリー叔母さんと一緒にいて、彼女に傷つけられなかったことはめったにない。でも、どうしようもないの。『グリーン・ゲイブルズ』が出版されたときエミリー叔母さんが私に手紙をくれたとき、その本についてこう言ったんだ。よくやったことというものだった! もちろんそれは彼女流の言い方(皮肉な言い方)だった。ということだった。まあ、彼女は私の小さな名声と成功を恨むことはできなかった。神様私はそのために高い代償を払った。

[PEI、ニューロンドンへの道]

この島に来てからどこに行っても、エドウィン・シンプソンがいつもと同じように私の前にいた。シンプソンはいつもと同じように絶え間なく話し続けていた。誰もがそう言った。エラ以外はね。彼はパーク・コーナーでは話さなかったようだ! 彼はソフィーとミス・ホジソンを連れてパーク・コーナーに到着した。エラが夕食に残るようにせがむと、「急いでるから、夕食が終わったらすぐに帰らなきゃ」と言った。しかしエドは応接間でエラのスクラップブックを見つけた。彼はそれを読み始めた。夕食後、"娘たち" は出かけようとした。しかしエドは応接間に戻り読書を再開した。そして読み終えるまで帰ろうとしなかった。彼は行間から何を読み取ったのだろう! ウィスコンシンに戻ってから、彼はエラに手紙を書いた。それからエラは私に手紙をくれた。その手紙には、"モンゴメリの思い出の品々" を丁寧に集めて並べておいてくれてとても楽しませてもらいました。とのことだった。
斜体は私がつけた。まさにエドウィン・タッチだった! ゴシップ(噂)によると、H嬢とエドが結婚するらしい。彼女は素敵な人で、彼女は私とエドの3番目か4番目のいとこで、とてもお似合いのカップルだ。エドはウィスコンシン州マーシャルの教会を一時的に任されている。

1936年10月26日(月曜日)
昨晩は、パーク・コーナーの羽毛ベッドに包まれてぐっすり眠れた。やはり寒い夜には羽毛布団に勝るものはない。暗闇が優しく包み込んでくれて私は若返った。一日中雨が降っていた。良い天気も終わりに近づいているようだ。エラと 私は一族の噂話に花を咲かせた。

1936年10月27日(火曜日)
日曜の夜ほどすぐには眠れなかったが、またぐっすり眠れた。古い家のまわりは強風が吹き荒れていた。真夜中の風は荒々しく、恐ろしく、死者の声でうねった。そして今朝、地面は雪で真っ白だった。島で雪を見るのは久しぶりだ。その日は快晴で、寒く、風が強かった。エラと私は、午後から夕方にかけてヒースの家で過ごした。私たちは古き良き モンゴメリーの夕食を楽しんだ。イライザ叔母さんはリューマチで足が不自由で、椅子の助けを借りて歩き回るしかない。ああ、おばさんも年をとったものだ。彼女は年老いた。そして彼女はどれほど熱心にガバメント・ハウスでのレセプションにどれほど強い関心を寄せていたことか。イライザおばさんにとっては、それが人間の到達点の頂点なのだ。 私たちはモンゴメリー祖母(モンゴメリお爺さんの最初の妻)の話をした。私が生まれる前に亡くなり、現存する写真は1枚もない。イライザ叔母さんは、「まつげが長くて、とてもきれいな人だった」と言った。「目を伏せると小さな扇のように頬にまつげがつくの」。おそらくそれは私の長い睫毛は彼女から受け継いだのだろう。彼女は1814年に生まれ1856年に42歳で亡くなった。後に8人の子供を残して亡くなった。もっと生きていれば私が彼女を知ることができたのに。

[モンゴメリお爺さんの家]

1936年10月28日(水曜日)
昨夜、明かりを消した後、ベッドに入る前に窓の外を見た。あまりの荒涼とした光景に涙をこらえるのが大変だった。小道と果樹園の不気味な白い雪に照らされた明るく冷たい月の光。そして愛していた人たちがみんないなくなってしまった! 私はひどく眠り、ラッキーが消え、ネイト・ロックハートとの婚約が発表される恐ろしい夢を見た。ネイト・ロックハートとの婚約がGuardian紙に掲載される夢を見た。なんでそんな不条理な夢を見るのかしら? 
マートルは今日、マリオンには小さな息子がいてすべて順調だと書いていた。無事に終わってよかった。今夜がパークコーナーでの最後の夜になる。明日の夜はアルマと過ごす。そしてまた愛する島を離れなければならない。でも私ははそうしたくない。いやだ。私はここに属している。

1936年10月31日(土曜日)
今夜、家に着いた。木曜日は雨の一日だった。エラと私は食後はヒースにケンジントンまで送ってもらった。本当に恐ろしい道だった。霜が降りていて油のように滑りやすかった。私は村に着いたときほどほっとしたことはない。私はハモンド・トゥームズ(彼の妻はフローラ・ウールナー)の家に行き、夕食を共にした。予定では夕食後にリンクレターまで送ってもらい、アルマと一夜を過ごす予定だった。 しかし、すぐにそれは不可能だとわかった。雨が降っていてサマー'サイドから先の道は通れなかった。アルマに会えなくてがっかりしたが、もう二度とクルマで道路を走らなくて済むと思うと、内心ほっとした。夜には旧友たちがやってきてとても楽しい時間を過ごした。私はぐっすり眠れた。4年前にティリーと過ごしたひどい夜とは対照的だった。
まあ彼女とは楽しい時間をたくさん過ごしたし、もうこれ以上過ごすことはないだろう。金曜日は退屈な一日で一晩中寒かった。トロントに着いたのは5時半だった。スチュアートとチェスターが出迎えてくれた。まあ嬉しいことだ。そして、また自分のバスルームに戻れて本当によかった。チェスターには悪い知らせがあった。彼の新しい革のブリーフケースに、1学期の4教科のノートがすべて入っていたのだ。今週オフィスから盗まれた。数日後、ノートのうち3冊が別の建物の廊下で見つかった。ブリーフケースと練習ノートは見つかっていない。残念だ。私の帰郷には一つの影があった。それは書けない。書けばもっと材料になる。それが過ぎ去ることを切に願う。

1936年11月1日(日曜日)
穏やかな灰色の午後、グレン・ハウスに出かけた。とても寂しかった。Mrs. バラクロー夫人はベッドにいたが容態は良くなっていない。夕食の食卓は寂しかった。――ユアンと私とエヴァだけだった。ミセス・バラクローは私に、ミスター・Bが私のためにイギリスから持ち帰った銀製の小さな手提げ袋をくれた。「銀婚式」の晩餐会で渡そうと思っていたのだがそれは実現しなかった。どうしたら持てるというのか、それを持つ勇気が私にはない。
信号がまぶしい中、神経をすり減らしながら家路についた。私は日暮れ後にユアンと運転するのは容易ではない。今夜は頭が締め付けられるような奇妙な感じがする。息苦しい。家が暖かく、息苦しく感じられる。

1936年11月3日(火曜日)
よく眠れ、一日中気分が良かった。ジェーンの1章をすらすらと気持ちよく書いた。楽しく書いた。証券取引所で200ドル清算した。これはかなり助かる。私はこの6年間、市場をよく研究してきた。小額の投資でかなりのドルを手にした。良い株が1株につき1、2ドル儲かったらまた売るんだ(デイトレですね)。今日は2人の男が裏の2本の大きな松の木を刈り上げてくれた。「餌付けをした」。できることなら松の木が建築物に覆い尽くされる運命から救ってやりたい。私の2本と隣の敷地の3本が、夕日をバックに美しいグループを形成している。夜、ベッドに横たわると松が見える。 私を慰めてくれる。

1936年11月7日(土曜日)
木曜日にゴデリッヒに行き、C.G.I.T.の宴会で話をした。昨日、私はゲルフに行き、チャルマーズ教会で話をした。社交的で楽しい時間を過ごした。帰ってきてよかった。

1936年11月8日(日曜日)
私はよく眠れたが、ユアンは早くから私を起こし、心を痛めてうめき、ため息をついていた(お前は救われないユダの生まれ変わりだ、なんてあるのかもしれませんね)。彼は一日中とても退屈で無口で、長い孤独な一日だった。今7時頃だ。3週間前の今頃、アレックとエヴァとメイとマートルと私はこうしていた。
ニュー・グラスゴー教会に集い、幸せで陽気な仲間たち。影はますます深くなっている。その影が消えないことを恐れている。そしてもしそれが過ぎ去ったら耐えられるかわからない。

1936年11月9日(月曜日)
今日ノラから手紙が届いた。彼女はティミンズにいる。彼女の手紙の大まかなトーンは好きではない。彼女のことが心配でたまらない。彼女の人生には多くの悩みや悲しみがあった。かわいそうに。

1936年11月10日(火曜日)
トロント、ジャーニーズ・エンド
今日、プレス・クラブは昼食会を開いた。最近、野生動物の物語で脚光を浴びている有名なインディアンである「グレイ・オウル」である。彼はイギリス旅行から戻ったばかりで、本の出版週間のためにトロントに立ち寄ったところである。私はミセス・ミューアから「ホステスの一人」になるように頼まれた。 テーブルで私はグレイ・オウルの左隣に座っていた。彼は長い黒髪の三つ編み、羽毛の頭飾り、そして本物のメス切りナイフ――少なくとも彼はそれが本物だと言った。
ミセス・ミュアは彼の右側にいたが、皆を席に着かせるのに手間取って、グレイ・オウルを私に紹介することも、私をグレイ・オウルに紹介することもしなかった。彼女は彼と忙しそうに話していたし、私は彼とは全くの赤の他人だった。私は彼に話しかけようとはしなかった。私の左隣はW.A.ディーコンだった。彼は左隣の女性と話していた。お腹が空いていた私は誰とも言葉を交わすことなく昼食に没頭した。デザートが出される直前、私はその音を聞いた。デザートが出される直前、私の肩でグレイ・オウルの声がした。「君は僕の理想の女性だ」。「どうして?」私は励ますように尋ねた。「女はしゃべるな」と彼は答えた!
彼はイギリスから来たレオ・ハンター夫人に死ぬほど説得されたのだろう。そして彼は心の奥底で、女性は男性の前では黙っているべきだという真のインディアンとしての信念を持っているのだろう。オスの前では女は黙っているべきだ。昔、ある老インディアンとその従妹が、ある春にバスケットを売りに来た。祖父はその値段を尋ねた。インディアンが値段を告げると、老婦人(インディアンの従妹)は口を尖らせて、ミックマック語で何か言った。老婦人は非常に厳しい表情で言った。そのインディアンの配偶者(老インデアンの方)は彼女を見てさらに厳しくこう言った。 "no speakum"(しゃべるな) と。きっと彼と灰色フクロウ(作家グレイ・オウルのこと)は皮の下は兄弟なのだろう。
グレイ・オウルはビーバーについてとても興味深い話をしてくれた。耳をかさなければならなかった。その際、私はあの夜リースクデールでフクロウの笑い声を聞いたという話をした。私が話を終えると、フクロウは立ち上がってこう叫んだ。それは「インディアン以外は聞いたことがないと思っていた」と叫んだ。私たちは無口な種族だからよく聞くんだ。私のフルネームは "Laughing Grey Owl" です。私がしゃべらなかったので、彼は私がフクロウの笑い声を聞いたと思ったのだろう。というのは冗談で、もし私が彼に紹介されていたら、おそらく礼儀から話しかけようとしただろう。褒め言葉だ。

1936年11月21日(水曜日)
旅の終わり、トロント
今日は5時間書いたが、目には何の問題もなかった。私は確実に良くなっている。今夜は松林の間から沈む夕日がとても美しかった。私は座ってそれを見て癒された。でも、かわいそうなユアンは最近とても冴えない。

1936年11月13日(金曜日)
昨日、私はイートンのラウンド・ルームでシビタン・クラブのためにスピーチをした。夕方には、サンフランシスコの有名な大地震の映画を見に行った。今夜はラムトン・ミルズ・スクールのバンケットでスピーチした。最近、目や頭には何の問題もないが、耳が詰まる。

1936年11月15日(日曜日)
この2日間はどんよりとした天気で、雨が降り、暗く、寒い。私も風邪をこじらせているので少し悲観的な気分だ。こんな陰鬱な11月の夜は春を信じることはできない。しかし、春は必ずやってくる。

1936年11月16日(月曜日)
今日、ティリー・ベントリーの訃報をガーディアン紙で目にした。それは彼女にとって最善のことだった。でも私はとても悲しい気持ちになった。彼女は昔からの大切な友人だった。どんどん少なくなっている。
今夜、ウアリというフィンランド人女性が「面接」に来た。フィンランド人の女の子だ。フィンランドの雑誌に私の記事を書きたいのだという。彼女はフィンランドでは私の名前は有名で、私の本はとても人気があると言っていた!

1936年11月19日(木曜日)
今日は家の掃除をした。心配だし動揺している。今日発見したあることに傷ついた。それについて書くことはできない。それからまた耳が痛くなった。今晩レーン先生のところに行ったんだ。耳垢がいっぱい溜まっているのを見つけて、治療してもらわなければならない。

1936年11月22日(日曜日)
私は2時まで眠れなかった。雪が降っていたが、チェスターと私はマリオンとバラクロウ夫人に会いに出かけた。マートルが遊びに来るそうだ。ミセスB(バラクロウ)は少し良くなったようだ。チェスターはリードの家に行き、私たちは暗くなる前に帰宅した。でもチェスターとルエラの仲はうまくいってない。それが心配で...。私にはどうすることもできないようだ。

1936年11月25日(水曜日)
"旅の終わり"
シャーロットタウンのスチュワート夫人(旧姓ブランチ・シンプソン)とその息子は、ここで夜を過ごした。彼女は、シンプソニー色が強すぎるが良い女性である。しかし私は彼女に会えて嬉しかった。白鳥は昨夜眠れず悪夢にうなされたという。これはまたたいそうなことでということだ。

1936年11月29日(日曜日)
ユアンはとても悲惨だ。しかしそれについて新たに語ることは何もない。私は今日『風と共に去りぬ』を読み終えた。1000ページ近くある。好きかどうかはわからないが、とにかく読み終えないわけにはいかない。「スカーレット」は、でも彼女は実在していて、私は「彼女が次に何をするのか」を見たかった。この本は素晴らしい作品だ。

1936年11月30日(月曜日)
私の誕生日。寒くて暗い日だった。でもマートルとメアリーから手紙をもらった。美味しかった。そして昨夜は、私を苦しめてやまない心配事があった。この4年間、絶え間なくつきまとい、人生をとても苦しいものにしてきた。もう二度と戻ることはないだろう。信じられない。私はこの点で、私は物事がうまくいくことに絶望していた。その結末を考えるのが耐えられなかった。
それは5年以上前に始まった。スチュアートがセント・アンドリュースに行った直後だ。彼がノーバルの学校の仲間の一人であるジョイ・レアードと時々文通をしていることは知っていた。私はそれをそれほど重要視していなかった。――しかし、私はそれが気に入らなかった。ジョイ・レアードは、スチュアートが子牛と浮気するような女の子ではなかった。彼女の父親、"ルー・レアード" は恐ろしい人物だった。立派な家庭の黒羊そのものだった。絶望的な怠け者で酔っぱらいだった。さらに悪いことに、彼は悪名高い密造者だった。彼は働こうとしなかった。彼が稼いだ金はすべて密造酒だった。彼は ノーヴァルの少年たちに酒を飲ませ、味を覚えさせ、自分のマーケットにするためだった。嗜ませるためだった。彼は泥棒でもあった。少なくとも3回、少なくとも3回は、義兄の牛をトラックに積んでトロントに行き、牛を売ってその金をすべて放蕩に使った。もし義兄が彼を許してくれなかったら、彼は......。 義兄が許してくれなかったら、彼は刑務所行きになっていただろう。彼は酒に酔うと妻を蹴飛ばし、殴った。彼女はすべての過ちを黙って耐え忍ぶのではなく、機会があるたびに家の頂上から宣言した。彼女は働き者だったが、グレン・ウィリアムズの家系は単なるペテン師の集まりだった。
子供は3人だった。父親の跡を継いだ男の子とジョイとマリー。ジョイは庶民的で安っぽかった。可愛くもなかったが、セックス・アピールと呼ばれる嫌われるほどの資質を備えていた。二人とも無知で浅はかで、"男の子狂い" だった。ジョイは確かに息子の相手にはならなかった。そして私はスチュアートに、そのような人たちに絡まれないようにと忠告した。しかしスチュアートは夏の間ずっと家にいた。ノーバルには若者がほとんどいなかった。1933年の夏、私は彼がレアード一味に「縄でつながれている」ことに気づいた。彼は「子牛への愛」という非常に激しい発作に真っ逆さまに陥り、ジョイの欠点がまったく見えなくなった。もちろん彼女は本当の姿を彼に見せようとはしなかった。それ以来、私はそのことで悩み続けている。会衆はすぐにゴシップでざわめいた。
いつも陰口を叩かれ中傷された。私はとても無力に感じた。私はスチュアートに、ジョイ・レアードは悪魔のような女だとはっきり言った。彼は言い逃れをしたので、私たちの間にあった美しい関係を台無しにしてしまった。いつか彼が私にあの密造者が産んだ子を娘として迎え入れろ、と言われるかもしれない、と思うと 耐えられなかった。もし彼女がまともな家庭の娘だったら......。私は気にしなかっただろう。だがもしスチュアートが彼女と結婚したら、その恋心が冷めたとき、彼は一生後悔することになるだろうと思った。
トロントに来たとき、私の慰めのひとつは、彼が彼女の影響から大きく離れ、自分の過ちに気づくだろうということだった。しかし最初の1年間はそうは思えなかった。彼女は毎週彼に手紙を書いていた。彼がどれくらいの頻度で手紙を書いていたかは知らなかったが、彼が何度もノーヴァルに出かけていたことは知っていた。そしていろいろなことを聞いて、私が夢見た以上に二人の間が進展していることを知った。
私たちがここに来たとき、隣のコーウェン一家はとても親切にしてくれた。長女のマーガレットは歯学部を卒業したばかりだった。可愛らしい娘だった、容姿端麗で、利口で、気立てがよく、淑女のようだった。私は最初から彼女を気に入り 一緒にいて居心地がよかった。やがて彼女とスチュアートは親友になった。しかし彼女にはたくさんの "恋人" がいた。去年の春、スチュアートは彼女に友情以上の感情を抱いているのではないかと思い始めた。しかしレアードからの手紙は相変わらず来ていたし、彼は相変わらず外出していた。この秋、私が島から帰ってきたとき、ノーヴァルの友人から、彼がジョイに会いに出かけていたことを知った。私がいない間、彼はジョイに会いに出かけていた。しかし11月中、彼とマーガレットはとても仲が良かった。昨夜はマーガレットとずっと一緒にいたスチュアートが、ベッドに入る前にやってきて、腰をかがめて私にキスをした。そして意味深な口調でこう言った、 「ノーヴァルと別れてよかったと思うよ、母さん」。
彼の言っている意味がわかった。私の人生から恐ろしい心配事がひとつ取り除かれた。私はそれを知っているがまだ信じられない。真実であるにはあまりに素晴らしいことだと思う。もしスチュアートがジョイ・レアードのような娘と結婚していたら、私たちの間には埋めようのない溝が開いていただろう。私はそんなクズとは付き合えない。彼がそのようなクズと縁を切ってくれたことに、言葉では言い尽くせないほど感謝している。彼は自分が何から逃れたのか知らない。しかし私は彼女がどういう人間なのか長い間よく知っていた。自分の心を知るには、彼はまだ21歳と若すぎる。しかし私はマーガレットを娘のように愛することができた。彼女はスチュアートをとても幸せにすると思う。確かに彼女はスチュアートより4歳年上だがそうは見えない。二人には多くの共通点があり、最初の歓喜が過ぎ去った後も、幸せな人生を築く土台が保証されている。スチュアートは義理の両親のために赤面する必要はない。もしスチュアートに子供ができても、酔っぱらいで泥棒で密造酒に溺れる年寄りのルー・レアードを呼ぶ必要はない、ヒキガエルのようなルー・レアードを祖父と呼ぶこともない。そう、この何年もの間、私の心を苦しめてきたこの心配は解消されたのだ。その代わりに何がやってくるのだろう? 残念なことに、この6年間で私は悲観的になってしまった。
何年経っても、何かが起こるとは思えない。いずれにせよ古い悩みはまだたくさんある。しかしスチュアートが子牛への激しい愛から立ち直り、子牛への愛を振り払ったことを知った今、私はそれに立ち向かう、あるいは少なくともそれに耐える新たな勇気を奮い起こすことができる。スチュアートが子牛を愛する激しい発作から立ち直り、あの種族を振り払ったからだ。

1936年12月1日(火曜日)
昨夜はぐっすり眠れ、今日はランタン・ヒルのジェーンで5時間執筆した。
今晩、チェスターがビクトリアで開かれるヤング・ピープルズ・ソサエティの会合に一緒に行ってほしいという。チェスターは、ビクトリアで開かれる若者協会の会合に一緒に行きたいと言った。一人で行くのは恥ずかしかったようだ。私は喜んで行った。この2年間、彼が得られなかったような正しい交友関係を得ることができるだろう。スペイン情勢をめぐって、ヨーロッパでは戦争が迫っているようだ。戦争? 戦争! その言葉に私は身がすくむ。世界は恐怖と噂と警報で揺れている。安心感も希望もどこにもない。"恐怖のために心がくじける"

1936年12月3日(木曜日)
今日はよく眠れたし、ジェーンで5時間も幸せな時間を過ごした。書いている最中は幸せだったが、それにもかかわらず、中断したときにはかなり疲れていた。5時間というのは、かなり地道な創作活動だ。エドワード国王がシンプソン夫人に熱中していること、そしてシンプソン夫人が結婚を決意したことについて、帝国中が騒然としている。シンプソン夫人への熱愛と結婚の決意をめぐって、帝国中が大騒ぎしている。この危機は雷雲のように立ち上っている 以前からゴシップが飛び交っていたにもかかわらず。彼は退位すると脅している。彼はこれほど愚かで、これ以上悪いことができるのだろうか?

1936年12月6日(日曜日)
昨夜マートルが到着し、今日はマリオンの家に連れて行った。チェスターがリーズに行っている間、私は村まで行ってマクファーソン家に少し寄った。教会と牧師館を見たよ。本当に治るのだろうか? その傷は本当に癒えるのだろうか? 彼らが私たちをどう利用したか、忘れることはできるのだろうか? 忘れようとしたことはある。しかし、それはあまりに深すぎた。

1936年12月7日(月曜日)
「旅の終わり」
買い物客でごった返すシンプソンズで一日を過ごした。今夜は疲れすぎている。エドワードは王室の尻を叩かれたがっている。彼が世界最大の帝国の王冠を手放すことを想像すると、とてもぞっとする。世界最大の帝国の栄冠を、それに付随するあらゆる善行の機会を、中年のバツイチ女との熱愛のために手放すとは......。 二人の夫を持つ中年のバツイチ女性との熱愛のために! 吐き気がする。もし彼女が若い娘や汚れのない未亡人だったら、帝国はこう言っただろう。 "結婚させろ" と言っただろう。しかしウォーリー・シンプソンには我慢ならなかった! 
今日、アマンダから手紙があって、かわいそうなティリーの死について書かれていた。とても悲しくなった。そしてノラからの手紙によると、ネッドはまだかなり元気がなく、また手術をしなければならないそうだ。私はその響きが好きではない。レッツィンガー夫人がチェスターが生まれたときに送ってくれた銀のマグカップを街まで持っていった。今日、カムのためにお化粧直しをしてもらったの。フローラおばさんからもらったのを プッシーにあげました。こうなればいいんだけど......。 でも、現状では......。でも、今のままでは......苦い思いが混ざりすぎている。 苦味!1930年以来、他に何を食べ、何を飲んだだろう? 最近のユアンはとても鈍く、「ギラギラ」している。しかし、それは当然のことなのだ。 当然のことだ。

1936年12月10日(木曜日)
エドワード6世が退位した! 悪夢のような出来事だ。そして、とても哀れだ。彼は国もキャリアもない男になる。すべての恋がそうであるように、彼の恋が冷めたとき、彼は自分が何をしたかを知るだろう。自分が何を捨てたのかに気づいたとき、その結果はどうなるのだろう? それを予測するのは難しくない。私たちは皆、個人的な喪失感、幻滅という奇妙な苦い感覚を覚える。私たちは彼を愛していた。私たちは彼を愛し彼を信じていたのに、彼は私たちを失望させた! 哀れな "微笑み王子"。5年後、あなたは笑っているだろうか?

1936年12月11日(金曜日)
今日の午後、ユアンと私はレーン博士の家に行き、エドワードのお別れのスピーチをラジオで聞いた。とても感動的なスピーチだった。"私の愛する女性" という言葉を除いては。彼は二度離婚したウォーリー・シンプスのことを世間に思い出させない方が賢明だっただろう。彼は最後にこう言った。"The King" で締めくくった。私は目に涙を浮かべた。まるでひとつの時代が過ぎ去り、とても貴重なものを持ち去ったようなとても悲しい気持ちになった。ジョージ6世の即位によって私は5人の君主の下で生きたことになる。家父長的な響きだ。
今夜はいろいろなことでとても落ち込んでいる。でもそれはこの古い日記だけしか知らない。私はまだ、世間と我が家のために微笑むことができる。ユアンは今日、だいぶ良くなったようだ。ほとんど元気そうに見える日もある。変化はとても早い。
今夜、『ナインデイズ・ア・クイーン』を観に行った。いつもの歴史の茶番だがとても興味深く、感動的だった。かわいそうなジェーン・グレイ。彼女は歴史上最も哀れな人物の一人だ。

1936年12月16日(水曜日)
「旅の終わり」
チェスターは今日、プラクティスで最初の試験を受けた。本人は安全だと思っているようだが、私不安だ。これはノートが盗まれたテーマだ。昔の不安がまた始まる。昨年のXmas試験の時よりもひどい。 今日も右耳に注射をしなければならなかった。でもレーン先生はだいぶ良くなったと言っている。確かにそう感じる。

1936年12月18日(金曜日)
今日、P.E.アイランドから木箱が届いた。アーネスト・ウェッブが私のために石を調達し、発送してくれたのだ。私は不思議に思っている。

[古い裏庭に石が見える]

持っていてよかった。私の最も古い記憶では、その石は裏の果樹園の隅にあった。それがどこから来たのかは知らなかった。それはいつも赤い。おそらく誰かが海岸から運んできたのだろう。しかし私は海岸であれほど大きな石を見たことはない。それはかつて何かの船のバラストの一部だったのかもしれない。祖母はそれをチーズ圧搾機の重しとして何年も使っていた。夕方、郵便物を取りに来た若者たちは、その柵の角に牝馬を縛りつけ、再び牝馬に乗せるときには、その古い石を「跳び石」として使った。夏の夜、私は何度もこの石に座って勉強したものだ。――そして秋の夕暮れには、何度もその石に腰を下ろして、"跳び石" に座って勉強した。秋の夜には、巨大な丸い鉄のボイラーで「豚のジャガイモ」が茹でられる間、私はその上に座って勉強した。秋の夜、私はその上に座って、大きな丸い鉄のボイラーで「豚の芋」を煮ていた。そして、相続人がこの家(ジャーニーズエンドのこと)を売るときには、この古い石を星空の下に移してくれることを願っている。私の相続人がこの家を売却するとき、この古い石を彼らの家のひとつに移し、保管してくれることを願っている。

1936年12月20日(日曜日)
雪の降る日、チェスターと私はマリオンの家に出かけた。マートルに見せるためにルエラと赤ん坊を連れて出て行った。小さなキャメロンは可愛いわ。マリオンの男の子、イアンも可愛いわ。でも、かわいそうなパット! チェスターが帰ってから マリオンとマレーが教会から帰ってくる前に、私はマートルにパットのことをどう思うかと尋ねた。私たちは一緒に泣いたわ。とても恐ろしいことだと思ったわ。今日、ユアンの「頭痛」がぶり返した。クリスマスにも。まあ、それが私の人生だし、これからもずっとそうだろう。でもしかし、それ以外にも諦めきれないことがある。

1936年12月21日(月曜日)
「旅の終わり」、トロント
あまりよく眠れなかった。ジェーンの最後の3章以外は読み終えた。色紙とリボンとシールでクリスマスの小包をたくさん作った。でも今年はクリスマス気分を味わえない。

1936年12月22日(火曜日)
午後、街に出た。「クリスマス・ラッシュ」のせいで、今はどんな買い物も悪夢のようだ。店員は気の毒だ。これほど多くの人がクリスマスが終わったとき、「うれしい」「ありがたい」と感じるべきなのだ。人類は最高のものを台無しにするのが大好きなのだ。
チェスターは4つの試験をすべて受けた。私は、彼が今年を "Sup" なしで乗り切れることを心から願っている。そうすれば、来年はこんなに不安で心配することもないだろう。もし彼が勉強に時間を割いていれば心配する必要はない。

1936年12月25日(金曜日)
一日中、雨と霧と雲に覆われた、とても暗いクリスマス・デーだった。いつものように過ごしたつもりだが、クリスマス・スピリットが欠けているようだ。スチュアートは初めて、夕食のために家にいなかった。マーガレットとコーウェン家にいた。それはそれでいいのだが夕食が台無しになってしまった。それにしても、一緒にいたのがジョイ・レアードではなく、マーガレット・コーウェンでよかった。これでだいぶ帳消しになった。
チェスターは朝、手土産の箱を持ってリーズへ出かけた。夜、私たちのために戻ってきた。食事ではチェスターと私が少し話しただけで、その他の会話はなかった。ユアンの唯一のクリスマスへの貢献は「このガチョウは好き?」ということだった。ガチョウに問題はなかった。ただ、このところ味覚が鈍っているようなのだ。そして、その中にいるときゲイの、あるいはゲイのふりをしている他人を見るのが苦痛なのだ。彼はそれを認めようとしない。しかし見ずにはいられないのだ。私は一日中外に出ず、夜は閉ざされ、窒息しそうになった。もし散歩に出さえすれば......。散歩に行くのに適していれば私は助かっただろう。1919年以前には、リースクデールの旧邸宅で楽しいクリスマスを過ごした。その思い出の炎で心を温めなければならない。

1936年12月31日(木曜日)
「旅の終わり」
ユアンは今回、かなりひどい発作を起こしている。彼は眠らないし、とても暗い。暗いんだ。だから私もよく眠れていない。そしてあることで私の心をとても病んでいる。今年は今夜終わる。1937年がやってくる。その最初の贈り物が何なのか、私は恐れている。良い年であろうか。新年を陽気に迎えることができた日は永遠にない。希望を語ることもない。

1937年

1938!年1月9日
"旅の終わり"
1年以上の空白。そしてなんという年だったことか! ああ神様、なんという年だったのでしょう! 私の人生には悪い年もあった。1919年はひどい年だった。1933年と1934年は言葉では言い表せないほどひどかった。しかし私の人生のひどい年月をすべて足しても、1937年には及ばないだろう。最初から最後まで地獄そのものだった。理性を保つことができたのか私にはわからない。この日記を1年間書かなかったからといって、記録を残していないわけではない。ほぼ毎日その日のことを書いていた。心配と惨めさのはけ口が必要だった。しかしそのような記録は苦悩の叫び以外の何ものでもなかった。このままではいけないと思った。あまりに恐ろしく、あまりに苦しかった。そうすれば、この最も不幸な人生の記録は完全なものになるだろう。しかしというのも、この日記は私が死んだ後に他の人に読まれることになるからだ。知ってはいけないこともある。それを知っていて、決して忘れることができない。誰にも言えない。


1937年1月の最初の数日は、とても憂鬱だった。天候は寒く、荒涼としていた。ユアンはとても惨めだった。そして島から戻って以来、私につきまとう影は日に日に近づいていた。
1月18日(月)の夜8時、ラッキーは息を引き取った。フレデの死以来、これほどの悲しみと苦悩はなかった。1年近くたった今でも、私はその悲しみに耐えられない、そのことを思い出すと耐えられない。生活のほとんどすべてにおいて、今でも胸が張り裂けそうなほど彼が恋しい。目が覚めたとき、涙があふれない夜はめったにない。暗闇の中で、彼の絹のような脇腹を手で触ることができないとき、涙がこみ上げてこない夜はめったにない。
ラッキーは13歳半だった。5,000日の夜と日の大半の間、夜も昼も彼は私のかけがえのない伴侶だった。そして、そんな仲間だった! 普通の猫が死ぬとあなたは悲しむ。でも世界には彼のような猫がたくさんいる。運は唯一無二のものだった。ダッフィーが死んだとき私はこう書いた。 "だった" と書いた。長い間、私は猫を飼うという考えにまったく耐えられなかった。そしてある夜、男の子たちがお腹をすかせたパットを連れてきた。私はそれを飼うことにした。パットはいつもただの猫だった。私はむしろ彼を好きになった。でも彼は私にとって 私にとっては特別な存在ではなかった。それから3年後 ラッキー がやってきて、私にとってはダッフィーよりも二度とない幸運だった

["ラッキー"]

1923年の夏、私はP.E.I. に行き、そして ある晩アレックの家に行った。息子たちも一緒だった。息子たちも一緒だった。私たちはキッチンに座って話していたとき、私は窓の外に目をやった。そのとき見たのと同じように、いま私が見ているものを見た。太陽は低く傾き、世界はルビー・ブロンズの光で満たされていた。その中で3匹の子猫が見えた、一匹はグレーと白、一匹はパットのような普通のグレーのトラの縞模様。一匹は今まで見た中で一番美しい子猫だった。「いったいどこでそんな子猫を飼ってるの?」それから私はその話を聞いた。
当時、アレックとメイは猫を飼っていなかった。しかしその前の春にマクニールの飼い猫がアレックの納屋にやってきて、そこで3匹の子猫を産んだ。数ヶ月間、彼女(親猫)は定期的に餌をやりに来ていたが、私たちが到着する直前になって 来なくなった。彼女は以前にも子猫を産んでいた。また子猫を産んだ。でも家以外で子猫を産んだというのは、普通はそんなことは起こりえない。運命なのだ。もしその猫が家で子猫を産んでいたら、私は運を見ることはなかっただろう。私はアーティ・マクニールの家には行かなかったからだ。でもラックと私は運命づけられていた。何かの力がそうさせたのだ。私が彼を目にした瞬間から、彼の美しいマークが目に飛び込んできた。その赤い夕焼けの光に照らされたとき、私は彼を手に入れなければならないと思った。ラッキーはその美しさを母親から受け継いだのではない。

"紙の山のそばにいるラッキー"

"ラッキーの生まれたところ"

母親は白に黒と黄色の斑点が入った家庭的な猫だったという。しかしメイは、彼女は「とてもいい猫だった」と語っている。その性格を受け継いだのかもしれない。もしかしたらその容姿は父親譲りだったのかもしれない。あるいは単に "スポーツ" だったのかもしれない。なにはともあれ彼はそこに(納屋に)いた! 生後3カ月だった。盲目の子猫だったころの彼を見たかった。きっと可愛かったに違いない。
彼(ラッキー)は私がアレックのところへ行く前に一度だけ危機一髪のところを逃れたことがあった。彼が日当たりのいい薪小屋の隅に横たわっていたとき、牛に踏まれて足をひどく痛めた。メイは折れたと言ったが、私はそうは思えなかった。しかし長い間、かわいそうな子猫はみすぼらしく引きずって歩くか、邪魔にならない場所に横たわるしかなかった。その日の夜、ラックと私は初めて対面した。メイが彼を連れてきて ポーチのドアのすぐ内側の台所の床に置いた。それまで一度も撫でられたことがなく、家の中に入ったこともなかったラックは、一瞬のためらいもなく尻尾を振りながら床を横切って私のところまで歩いてきて、私の膝の上に飛び乗った、
そして私の膝の上にすっぽりと収まった。ラックと私は一目惚れだった。でもそれはラックと私が出会ったのはそれが初めてではなかった! 私たちは昔、別の人生で愛し合っていたのだ。私たちはお互いを知っていた。その瞬間からラックは私に他のどんな猫も与えてくれなかったような深い満足感を与えてくれた。彼への愛は、ダフの場合のような普通の愛から始まったものではなかった。ダフの場合のように、素敵なペットに対する普通の好意から始まって、年月と愛すべき付き合いによって大きくなっていくようなものではなかった。
その瞬間、私はラックのことが大好きだった。私はラックとの出会いの瞬間も、彼が死んだときも今でもそうだ。ラックが私のところに来たときから、私は他の猫を気にかけることはなかった。それ以前の猫は猫として愛した。ラックは人間として愛した。そして彼が与えてくれたような幸福を与えてくれた人間はほとんどいない。私の人生から去っていった人間の中で、彼のような孤独を残した者はほとんどいない。 彼が残した孤独。ほとんど、いや、たった一人だ。フレデが残したのは、取り返しのつかない喪失感だけだった。繋がれた糸の切れた喪失感。
私の膝に乗るその瞬間まで、ラッキーは一度も愛撫されたことがなかった。そして彼は愛撫されるのが大好きだった。花開いた。横たわったままその小さな脇腹は私の指の下で上下に揺れ、小さな体を振動させながら歓喜の鳴き声で小さな体を振動させていた。少年たちがやってきて、私の膝のそばに立ち彼を罵った。チェスターはまだ11歳だった。チェスターはまだ11歳、スチュアートは8歳だった。

[ラッキー」

ラックの "地色" は銀色だった。灰色で黒いマーキングがある。見たことのない模様だった。5本の細い黒いストライプが頭から首にかけてあり、そして肩には黒いロゼットがあった。その下には黒い十字の棒があり背中を通っている。両側には葉のないクローバーの葉のようなデザインだった。しかし、彼の写真にはそれがはっきりと写っていない。この葉の内側には、MかWのどちらかが描かれていた。 Wが描かれていたとチェスターは言った。「そして、幸運を意味する四つ葉のクローバー。「彼をグッド・ラックと呼んで一緒にリースクデールに連れて帰ろう」。

[ラッキー]

尻尾はいつも立派でとても長く、プラムのようで、幅の広い黒いひし形がついていて、先端は黒かった。そしていつも全開で持っていた。前足はとても細く小さな斑点があった。私の知る限り、ラックは "コモン・ガーデン・キャット" 系統の猫だった。いつも庭で発見されたが、彼の毛皮は絹のように滑らかだった。それはいつもだった。私はいつもラックのことをとても大きな猫でとても "talf " (しなやか)だった。

 

'ラッキー'とマートル・ウェッブ ]    [ 'ラッキー'とモード ]

足が長かった。彼は長い猫ですべての動きがリズミカルで優雅だった。しかし目だった。その目は猫よりも人間の目に似ていた。人間の目のように表情豊かだった。大きく、柔らかく、丸く、澄んでいた。子猫のような瞳だった。瞳孔はいつも開いていて虹彩は黄金色だったが緑色だった。ラックの目は、彼のどの写真でも、なぜならそれらはほとんどすべて 「明るい日差しの中で撮影されたものだから」だ。収縮している。ある男が私に言ったことがある、「なんて素晴らしい顔をしているんだ!」と。彼はそうだった。目のせいだ。彼は黒灰色の鼻筋が通っていた。ラックは子猫の目だけでなく口も子猫のままだった。彼の耳はとても大きかった。彼は生涯その耳を守ることができた。一度も傷ひとつつけたことがない。私は猫の耳に傷がつくのは大嫌いだ。
運は目ですべてを表現できる。嫌悪、傷ついたプライド、幸福、愛、懇願、怒り、軽蔑。そう、ラックが何者であろうと、彼は猫ではなかった。猫の体をしているのは事実だ。だがそこに宿るのは猫の魂ではなかった。ラックは猫が持つべきあらゆる性質を持っていた。一匹の猫にすべての望ましい資質を見出したことはない。どの猫にも特別な魅力があった。または魅力を持っていた。だが運はすべて持っていた。彼が持っていない猫の優美さを挙げることはできない。彼は私がこの世で見た中で唯一の完璧な存在だった。そして、そのすべてに私が知る他の猫にはないどの猫の特徴も持っていた。彼は魅力と美しさを放っていた。かつてマリオンは彼のことを「満足」と呼んだ。その言葉が彼を表していた。
ラックほど幸せな人生(猫生)を送った猫はいない。これほど「生きる喜び」に満ちた動物はいなかった。ラックのように。愛の激しい喜びだけが彼に否定された。彼はそれを決して見逃さなかった。その可憐さにもかかわらず......ほとんど女性的な繊細さを感じさせる可憐さにもかかわらず......。ラックは "お姉さん" ではなかった。彼はとても凛々しく 収穫の時期になると、脇腹を泡だらけにしながら入ってくるのを見たことがある。狩りや仲間との戦いの喜びは彼のものだった。満喫していた。彼は勇敢な戦士であり、ライバルを想定していた。他の猫を許せなかった。彼は見知らぬ猫を追いかけると、誰もが信じられないような雄叫びを上げ、必ずと言っていいほどその猫を征服した。いつも彼が征服者だった。先にも述べたように耳を傷つけられることもなかった。私が見た唯一の戦いの傷跡は、時折、憤慨した敵対者がつけた、コミカルに腫れ上がった顎だけだった。運には運なりの歩き方があった。彼のような歩き方をする猫を私は他に知らない。メイソン夫人はそれを "自慢の小さな歩き方" と呼んでいた。彼は決して多くの猫がするような、そわそわした歩き方はしなかった。尻尾を立てて、前足で "つま先立ち" になって歩いた。片方の前足をもう片方の前足の真正面に置く。 そうすることで、彼の歩き方に威厳と正確さを与えていた。
ラックはとても同情的な猫だった。私が泣くたびに、そしてこの7年間、私は何度も苦い涙を流してきた。ラックはいつも私を慰めようと最善を尽くしてくれた。私の頬をなめたり、私の顔に頭をこすりつけたりした。あるいはテーブルの上に座ってじっと私を見つめた。雄弁な目でじっと私を見つめていた。ダーリン・ラッキーは、どれほど長く、悲しく、不安な夜を過ごしたことだろう。その苦しさに耐えられなかっただろう。ラッキーは驚くほどよく鳴く。ダッフィーもパットも、お腹がすいたとき以外は鳴かなかった。猫の鳴き声ほど好きなものはないからだ。去勢されたからに違いないと思っていた。でも、ラッキーも鳴いた。親切に手が触れれば、彼は大きな喜びの鳴き声で応えた。あなたが彼をぎゅっと握ると、彼は鳴いた。もっと強くより強くギュッとすればするほど彼はより強く鳴いた。なでると彼は鳴いた。最後まで彼は私のタッチに反応し、鳴いた。
ラックは犬をまったく恐れない。彼の邪魔をするほど無鉄砲でない限り、犬など存在しないのだ。邪魔をするような無鉄砲な犬でなければ。彼はただ落ち着いて座り、犬たちの表情をじっと見つめるだけだった。ノーヴァルでの面白い出来事を覚えている。ラックは外出し、いつものように堂々と車道を歩いてガレージに向かっていた。通りを隔てた向かいにある英国国教会の牧師館に、新しい犬がやってきたのだ。村のものだと思っている。彼はラックを見た。「ハッ、ハッ」とその犬は言った。「見てろ!」。彼は通りを横切り、芝生を横切り、激しく吠えた。ラックが恐怖のあまり逃げ出すのを期待していたようだ。ラックは立ち止まって座り、落ち着いて犬と向き合った。驚いたイヌはその場に立ち止まったが、しかし、すぐに食事を受け入れるほど慎重ではなかった。また侮辱的なヤジを飛ばして一歩近づいた。運はもう十分だった。英国国教会の司祭館から来た犬どもを相手にするつもりはなかった。彼は前足の爪を軽蔑するように犬の鼻に向けて一振りした。

"ディクシーとラッキー"

忘れもしない、恐怖と驚嘆と苦悶の叫び声だった。その犬は後ろを振り返り、人っ子一人いない速さで逃げ出した。通りの向こうの芝生を横切り、車から間一髪逃れ、牧師館の芝生を横切り、牧師館を回り込んだ。二度と「私たちの」芝生に姿を現す勇気はなかった。ラックはしばらくの間そこに座り、勝利を味わった後、静かにゴールに向かって前進を始めた。ラックがこれまで犬と付き合ったのは、リースクデール邸のディクシーだけだった。ディクシーはラックが大好きだった。彼らはよくダイニングルームの古いラウンジで一緒に寝たものだ。ラックは並外れたジャンパーだった。若いころは床から 床から食器棚の上までまっすぐに飛び上がった。最晩年には サイドボードの上までジャンプできた。亡くなる前日には、ラジエーターの上に飛び乗った。彼はウサギを口にくわえて、リースクデールの軟水ポンプから台所の屋根までジャンプすることができた。それはこの写真で見るよりずっと遠い距離だ。
ラッキーはとても愛情深い猫だった。愛されるのが大好きだった。幸せを与えれば彼はそれを受け取った。彼には愛すべきやり方や芸や物言いがあった。彼は看病されるのが大好きだった。私がいつどこに座っても、数分後にはそこにいた。ラッキーは膝を欲しがっていた。彼は、私がいつ座るかを待っているようだった。彼はテーブルを囲む輪の中に入るのが大好きだった。リースクデールには、幅広の平らなアームがついたダイニングチェアがあった。運は私の片側に座った。もう片方にはパットが座っていた。彼らは何度も私から話を聞いた。少なくとも ラッキーとパットは同じように扱わなければならなかった。私たちがリースクデールを去るとき、その古い椅子は売られてしまった。ノーヴァルでは、私の椅子にはアームがなかった。だからラックは、私の後ろに、私と椅子の背もたれの間に座った。その空いた椅子(たいていはユアンの椅子)にすぐに飛び乗った。まるで "俺は家族の輪を飾ってるじゃないか" とでも言いたげに。彼は何事にも参加しなければならなかった。私が客のおもてなしをするときは、彼は尻尾を立てて行進し、招待客のまわりを回り、いつもそうしていたように、大騒ぎをして褒められた。お腹がいっぱいになると、私の膝の上に乗れない場合は客のひとりを選んで彼女の膝の上に乗る。
彼は猫じゃらしが大好きだった。猫じゃらしを箱に入れておき、おやつにあげた。彼は猫じゃらしの中でうずくまり恍惚の表情を浮かべた。奇妙なことに、彼は新鮮なキャットニップには興味がないようだった。柵の周りに生えていた。彼は褒め言葉が大好きだった。私は褒めずにすれ違うことはなかった。「ラブリー・ルッカムス」「美しい子猫」「最高にラブリーな子猫」。 ――愛くるしい子猫 撫でたり、くすぐったり、揉んだり、キスしたり。そして彼はいつも、ニャーと鳴き声の中間のような奇妙で楽しい喉を鳴らしていた。彼はないがしろにされたり、無視されたりすることに耐えられなかった。無視されると、あなたに背を向けて座り、ときどき肩越しにあなた見る。もしあなたが無視し続けるなら彼はサイドボードの下に行くだろう、アドゥラム人が洞窟に入るように、

[「運」チェスター、そしてもう一人の男]

彼は写真に撮られるのが好きだった。彼は写真を撮られるのが好きだった。誰かが写真を撮ると、自分も写るかもしれないと入っていく。彼はどんな好意にも感謝しマナーは完璧だった。誰も礼を言われることなく 感謝されることはなかった。しかし彼は笑われることに耐えられなかった。それは彼の心を傷つけるだけだった。笑われると彼は悲しみから怒りに変わった。尻尾を切り替えた。極悪人に見えた。しかし彼がしたいたずらといえば肝臓を小包から盗み出し、半ポンドを丸ごと食べたことだ。彼に悪魔の痕跡があったのは年老いたパットへの仕打ちだった。パットはクッションの上で眠っていた。誰も傷つけない。それはラックの好みのクッションではないかもしれない。クッションはたくさんあった。しかし、パットを安穏とさせていてはいけない。運は彼に襲いかかり、獰猛に噛みつくだろう。

[チェスター、スチュアート、そして『運』]

パットは臆病者で何の抵抗もしなかった。そして運は勝ち誇ったようにクッションの上に座り、そして、「どこで降りたのか言わなかったか?って言ったでしょ?」と言うような表情で私たちを見る。こんな巧妙なことを見たことがあるか?

"リースクデールに着いてすぐのグッドラック"

(ガートモア牧場でもらったラッキーを連れて)キャベンディッシュを出たとき、私はラックを紙袋に入れてパーク・コーナーに運んだ。彼は極めて哲学的に受け止めてくれた。パーク・コーナーでは、そこにいた老猫は自分の子猫を持っていたが、ラックのことを懐の中に入れてしまった。彼はアニーおばさんのそばの床に座っている彼の足元にネズミを置いた。私はマホニー家を訪ねるため、セント・ジョン経由で家に帰ろうとした。ラックは連れて行けなかった。そこで私はラックをパーク・コーナーに数週間預けた。そしてダンがある日、彼を箱詰めし、箱の側面には缶詰めの水を貼り付け、一番上には汽車の運転士にお願いしておいた名刺を貼り付けた。そして特急で私に送ってくれた。彼はPEを出発した。土曜日の朝リースクデールに到着した。しかしそれ以外はコオロギのように生き生きとしていた。10年以上もラックと一緒にいたこと、そしてそこでのあらゆる場所が彼の思い出と結びついていたのだと思うと、信じられないような気がする。
言ったように、彼は驚くべきハンターで、獲った獲物を家に持ち帰って私たちに見せ、食べる前に褒められなかったことはなかったと思う。彼はだいたい夜の11時か12時頃に狩りをする。私たちはいつも窓を開けっ放しにしていた。私はベッドに横になっていた。階段でラックの独特の鳴き声が聞こえた。獲物をくわえていたために口を開けられなかったのだ。次の瞬間、ラックはネズミか若いウサギを連れて私の枕元に現れた。私は彼を褒めて、なんて素晴らしい猫なんだろうと言わなければならなかった。すると彼は満足そうに座ってパクパクと食べた。これはとてもいいことだった。私が灯りを消す前に来たのならそれでよかった。しかしそうでない場合は、少なくともリースクデールでは少々厄介だった。というのも、ラックは私が立ち上がってランプに火をつけ彼の獲物を見るまで、ただそこに座って「メイ・オウ」と鳴き続けるからだ。アイ・ディ・ミー。できることなら今だってそうしたい! ある日の午後、ノーヴァルで台所の窓から外を眺めていたときのことだ。ラックが庭の小道を登ってくるのが見えた。

[ラック]

彼はそれを裏口に持って行き、呼び声を送った。面白半分で私はドアを開けなかった。運は間を置いてダイニングルームのドアに向かった。それでも私は開けなかった。それから彼は玄関のドアに行った。それでも私は容赦しなかった。ついに彼は書斎の窓に回り込み敷居に飛び乗った。そして私は窓を開け彼に言った。彼は猫の中の猫だ。
リースクデールでは、彼は村中で狩りをし、リースク夫人の家のブラシでウサギを捕まえた。自分より大きなウサギを持ち帰るのを見たこともある。どうやって仕留めたのかは知らない。ノーヴァルでは、彼のお気に入りの猟場のひとつが英国国教会の牧師館にあった。牧師館では石壁にネズミが住んでいた。私は彼が高速道路で車にひかれないかと持った。だが運は思慮分別そのものだった。私は 彼がネズミを咥えて牧師館の敷地から出てくるのを見たことがある。彼はいつまでもそこに落ち着いて立っていた。そしてようやく通る車の空いたスペースがあると、彼は道路を横切った。
ラッキーの最も悪名高い功績は、リースクデールでの最初の夏に生きたヘビを持ち込んだことだった。ダイニングテーブルのそばでアイロンをかけていたリリーの足の間に、彼はそれをきれいに落とした。リリーは悲鳴を上げてテーブルの上に飛び乗った。通りかかった私も椅子の上に飛び乗った。私たちはユアンが(牧師の役目で)捕虜収容所から帰ってきてそれを殺すまでそこに立っていた。運は二度とそんなことはしなかった。人望がないと感じたのだろう。
私が帰宅すると、ラックはいつも駆け寄ってきた。この点では猫というより忠実な犬のようだった。そして私が外から彼を呼ぶと彼はいつも私の腕の中に飛び込んできた。しかし彼の完璧な幸せの時間は私の膝の上で寝ることを許されたときだった。私の体にできるだけ体を密着させて寝ることだった。この14年間、私は一度もラッキーに会うのを楽しみにせずに家に帰った事はない。もし私が1日や午後だけ留守にしていても、ラッキーは特に騒がなかった。しかし、私が一晩、あるいはそれ以上留守にするときは、ラッキーは私が戻ってくると 私を視界から離さなかった。

[ラック]

私を視界から離さなかった。彼は私がどこへ行くにもついてきて、食事や執筆をしているダイニングテーブルの上に飛び乗った。そこに座っていた。まるで私がまた消えてしまうのを恐れて、私から目を離すことを恐れているかのように。私はそのときのラッキーの目の表情が忘れられない。私はラッキーがドアを引っ掻いたり、ニャーニャー鳴いて入口を求めたりするのを知らなかった。彼は、自分の権利だと思っているものを要求するために身をかがめることはなかった。しかしドアの前に座っていて、ある時間ドアが開けられないと、彼は窓枠に立ち上がり、懇願するように中を覗き込んだ。ノーヴァルでは、彼はいつも書斎の窓際に来た。そして彼のマナーは完璧だった。あなたが彼のために窓を開けると、彼は頭や尻尾を上げ、「メイ・オウ」と喉を鳴らして礼を言うまで入ってこなかった。"メイ・オウ" と喉を鳴らした。
彼は屋内外の窓が大好きで、家の中では何時間も窓枠の上でひなたぼっこをしていた。しかし彼にはお気に入りの椅子があった。その 「一番のお気に入り」は、書斎のラジエーターの近くにあった籐の小さな低い椅子だった。彼はそこが大好きだった。彼はそこで寝るのが好きだったし、パットもそうだった。運が来るとパットは悲鳴を上げて逃げ、口一杯の毛皮が四方八方に飛び散るだろう。ラックは暖かなクッションの上で丸くなる。それからラックは応接間の肘掛け椅子が気に入った。シートの隅で体を丸めていた。大きなふかふかの椅子も人気だった。毎朝、私は歯ブラシで彼の毛を掃除しなければならなかった。少なくとも夏はね。冬はそうでもなかった。彼の美しい被毛はそのときが最高だった。彼はいつでも美しかったが、冬の日に寒さから戻ってきたとき、毛がふわふわになった彼は最高だった。
私の記憶の中には、ラックの特別な写真がある。そのひとつが2階へ上がるときのやり方だ。私は一度もラックが2階に上がるのを見たことがない。彼はいつも足元で一瞬立ち止まり、それから素早く駆け足で階段を駆け上がった。稲妻のように階段を飛び上がった。彼は私と一緒に2階に上がるのが大好きだった。目を輝かせ、尻尾を切り替えながら、飛びかかろうとするベンガルトラの見事な真似をした。その真似は、私が彼を抱き上げると、うっとりとした鳴き声とキスで消えていった。しかし、もし私が2階に上がってから私に追いつくと、足を鋭く噛むという極悪非道な習慣があった。彼は決して肌に傷をつけることはなかったが、絹のストッキングを何足も私のために採掘してくれた。
彼は何とも言えない座り方をしていた。その姿に人々は 何とも言えない感じがした。彼の中にも不器用さがあった。彼にも生意気なところがあった。マーガレット・マッケンジーがノーヴァル・ラックで私たちと一緒にいたときのことだ。跪いて家族の祈りを捧げていたとき、ラックは彼女の背中によじ登り、彼女の肩の上に座った。マーガレットは、お祈りの最中に動いたり、邪魔をしたりするのはスキャンダラスだと思っただろう。だから我慢していた。マーガレットは他の誰にもそんなことはしなかった。彼女が彼を嫌っていることを知っていたからだ。しかし、私は誓って言う。そのパフォーマンスを楽しんでいた。彼はノーバルの空き地が大好きだった。空き地で彼は長い間死んでいた。

[チェスターと『ラック』]

夏の午後、私は彼がその中で丸くなっているのを何度も見つけた。私がリースクデールの応接間で原稿を書いていたとき、彼が私の足元のカーペットの上で丸くなるのが好きだったように。ノーヴァルでは私はベッドのそばで原稿を書いていた。ラックはベッドの上にもいなければならなかった。ラッキーはほとんど鳴かなかった。たくさんの鳴き声を出すがどれも愛嬌がある。彼の鳴き声に一番近いのは、大きな "メイ・オウ" (ミャオという鳴き方)だった。よく覚えているのは、夜になってからノーヴァル通りを歩いていると、ゴロップさんの小道から突然「メイ・オウ」という鳴き声が聞こえてきた。私が呼び止めると、ラックは私のところへ駆け寄ってきた。私がラックを撫でると、ラックは完璧に音のない声で「ニャー」と鳴いた。眠っているときは、くすぐったり撫でたりすると、なんとも言えないとてもいい音がした。彼は家のあちこちにお気に入りの隠れ家があった。私がリースクデールでガソリン・ランプを手に入れたとき、その根元はいつも暖かかった。ダイニングテーブルで執筆するとき、ラックとパットはランプの両側で、その暖かさに寄り添っていた。居眠りをしていた。そこでずっとうたた寝していた。そしてノーヴァルではラジエーターの上に横たわるのが好きだった。

[ラックの悪い写真]

ラックはノーヴァルの小さな書斎にあるスチュアートの簡易ベッドで寝るのが好きだった。ときどき私はベッドタイムになると、ラックがベッドにいるかどうか確かめるためにラックを探し回ったものだ。窓を開けっ放しにしていた。これまでずっと、私はラッキーの家への出入りを確かめずに寝たことはない。彼は予備の部屋に入ってベッドの上で寝るのが大好きだった。ファンシー・スプレッドが汚れてしまうので私はそれを認めなかった。ドアは閉めておくようにしていた。しかし何度もラックは私を出し抜き、私はベッドの上に彼を見つけた。半分ゾッとし半分罪の意識を感じながら、私を見てはっきりとこう言った。「友人同士の空き部屋のベッドなんて。ここにいるべきじゃないのはわかってる。私を追い払う勇気はないでしょう」。そして私にはその心はなかった。彼は箱が好きだった。箱の中に入って、丸くなって眠るのが好きだった。ぴったりしたものほどよかった。きつくフィットしていた。時々彼は居心地が悪いのだろうと思ったが、彼はそう感じていなかったようだ。亡くなる前の最後の数日間、彼はほとんどの時間をエンプティボックス(空箱)の中で寝たり、私の部屋で寝たりしていた。しかしすべてが終わったとき、昼も夜も、ラックが愛した場所はなかった、私のベッドほど好きな場所はなかった。私がベッドに横になって本を読んでいると、突然ラックが私の枕元に現れた。音もなく現れることもあった。時には 廊下で小休止し、奇妙な要求の鳴き声をあげることもあった。私はそれに応えて、そして彼はパドルを入れる。明かりが点いていて、ラックが1人起きていれば私の許可なくベッドに飛び乗ることはなかった
彼はその丸く明るい目で、彼の要求を見ていた。私がおいでと言うと、ラッキーはベッドに飛び乗った、そしてラッキーは、バネのように私の上に降り立った。私の胸がお気に入りだった。――私が疲れて、もうそこにいられなくなると、ラッキーは、私の脚のカーブに重さを感じなかった。彼は私の体のどこかに触れなければ満足しなかった。しかしもし彼が来たときに私が眠っていて、明かりが消えていたら許可は得られなかった。私は夜中に何度も何度も鳴く灰色の身体が来るのを聞いた。私は鳴き声のする灰色の体が夜中に私の腹の上に乗ってきたことで目が覚めた。そのとき彼はどんなに鳴いたことだろう! 私は彼がそこにいるのが大好きだった。夏の暑い夜を除いては。そのときは手芸に頼らざるを得なかった。私は手首に "スローン・リニメント" (ハッカか何か)を塗った。運はその匂いに耐えられなかった。憤慨した非難の表情で 背中を向けて去っていった。

[フェイ・トンプソン夫人と「ラック」]

ラックはたまにトンプソン夫人(家政婦だった人)と寝たいと思うことがあった。そしてそう思い立ったら、誰にもそれを止めさせることはできなかった。彼は私が知る限り最も決意の固い小さな生き物だった。夫人がベッドに入ると、彼はドアの外の敷物の上に座り、「もう寝たよ」と懇願したものだ。私がそっとドアを開けて中に入れてやるまで。ときどきマリオンがノーヴァルで過ごした冬も、彼は同じようにマリオンに好意を寄せた。ラックは「ワンマン」な猫だった。彼が本当に愛したのは私だけだった。しかしすべての人と友達だった。リースクデールでは、クック夫人とよく仲良くしていた。ノーヴァルではウィリアムズ夫人とペアを組んでいた。二人は彼に小ネタを与え、賛辞を送った。褒めてくれた。ラックは "すくわれる" のが好きだった。彼とすれ違うとき、あるいは彼が私とすれ違うとき、私は身をかがめて彼のお腹の下に手を入れた。するとラックは全身を硬直させた。私は片方の手のひらで彼を肩まで掃くことができた。それと同じ習性を持つ猫を私は他に知らない。
運が夕方に出かけていて、11時ごろに帰ってくると、その晩はずっと家にいた。そうでなければ、彼は早く寝て、5時頃に外に出たがった。いつもは地下室の窓から外に出ることができる。しかし時折、窓を開けておくには寒い夜があった。 寒くて窓を開けっ放しにすることができなかった。そうなると、運は老いたパットに不快感をぶつけた。彼はとにかく楽しもうと思っていたんだ。まるで100匹の猫が引き裂かれるような、耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。そして翌朝、床にはパットの毛皮が散らばっていた。だが運が彼に危害を加えることはなかった。パットはひどい臆病者だった。彼は決して戦おうとしなかった。ただ恐怖の叫び声をあげて逃げ、ラックに好きなだけ毛皮を引っ張らせた。ラックは寝ているとき、自分でも驚くような結び方をした。
時には尻尾をたたんで完璧な半円を描くように横たわっていた。そして、完璧な丸い毛玉のように体を丸め、その中に顔を埋めることもあった。これほど完璧なボールを作れる猫は見たことがない。彼の長い足と細い体がそれを可能にした。そんなとき、私はボールの下に両手を滑り込ませ、持ち上げて運び、別の場所に寝かせた。彼は微動だにしなかった。彼はまるで何も触れていないかのようにそのまま眠り続けた。触られることもなかったかのように。私は何度、その灰色のボールを枕元で見つけたことか。枕元やベッドの足元にあった。――その夜は退屈だったかもしれない。本と愛しい猫とともに。そして、もう二度と彼を見つけることはできない。
ラックはこれまで生きてきた中で最も清潔な猫だった。最後まで地下室の灰の山まで這って行った。決して「行儀が悪い」ことはしなかった。猫に理性はないという言葉を聞いたことがあるし読んだこともある。幸運はそうだった。彼はそれを様々な方法で示した。これはそのひとつだ。時々彼は外に出たがった。すぐに起き上がって彼を外に出すには都合が悪いときにね。何年もの間、ラックはただドアの前に座り、願いが叶うまで様子をうかがっていた。すると突然部屋の隅に行き、床をすごい勢いで引っ掻くようになった。まるで猫が自然の営みをしようとするときに床を引っ掻くように、その一方で、「ほら、出なきゃいけないんだ。もし出してくれなければ、お前の首が飛ぶぞ」。最初の数回は、本当に騙されて彼を出してしまった。その後、ラッカム氏は単に徘徊しているだけで、他には何もしないことがわかった。その後、彼が初めて試みたとき、私は何も気に留めなかった。ラックは、それがうまくいかないことがわかると、何もしようとせずにあきらめた。
悪さをした。しかし彼はいつもそれを続けた。ダーリン・プッシー、私は彼が私にうまくかぶせたと思っても気にしなかった。いい冗談だった。彼は私の膝の上に横たわり、前足で私の膝をこねるのが大好きだった。そして子鹿色のお腹をくすぐられるのが大好きだった。素早く仰向けになり、4本の足を宙に浮かせてあなたの指を欲しがった。くすぐっている間中、こうして横たわっていた。おなかはとても柔らかかった。
彼は庭で私と一緒にいるのが大好きだった。私が庭に出たときには彼の姿はなかったが、しばらくすると必ず彼が現れ、私が草むしりをしていると、――草取りをする私の前に転がり、ナスタチウムのジャングルやマリーゴールドの茂みから飛び出してきた。運はウインクする。その丸い目から重々しくあなたを見つめていたかと思うと、そしてそのうちのひとつを、重々しく、わざとらしくウインクするのだ。それはいつも たまらなく滑稽だった。

ラックは他の猫以上にトイレに気を遣っていた。彼は何時間もかけて体をなめたり毛づくろいしたりしていた。しかしある朝、彼はトイレを必要とした。頭のてっぺんから足の先まで泥まみれだった。どうやら夕方のトムと一緒に泥の水たまりで転がったらしい。こんな光景は見たことがない。私はできる限り泥を落としたが、可哀想なダーリンは舌をすり減らしそうになりながら、何日も自分の体を舐めていた。そして一度だけ、マーガレット・マクファーソンが(あんなことをしたので)......彼女を許したことはないけれど......庭のホースを彼に向けたことがあったわ。彼はずぶ濡れになって帰ってきて、乾くまで舐めた。ラッキーに関して、私は3度、死の苦しみを味わった。一度目は リースクデールのローリーのバムに監禁されていたとき......。肺炎になったときだ。そんな昔の苦悩は、彼が戻ってきたときの喜びで報われた。しかし今回は戻らない! ああ、愛おしい。愛すべき小さな生き物たちよ。私はラッキーのことを書き留めることができるものはすべて書き留めたかった。ラッキーの魅力と愛すべき方法と愛らしさを。
誰もがすぐに忘れるだろう。でも私は 私は決して彼を忘れない。今日、私は彼が死んだときと同じように悲嘆に暮れ孤独を感じている。私はまだ彼のいない生活に慣れることはなかった。これからも。ベッドに横たわり、このひどい一年の不安と恐怖に心を痛めながら。しかし私は熱い痛みとともにこう願うのだ。彼が私の枕元に来て、「起きてくれないか?」と聞いてくる。もしそうなったら私の傷ついた心はこんなに痛むことはないだろう。でもそんなことはありえない。あの多くの夜を共にした猫はもう私のもとには来ない。これほど幸せな猫はいない。幸せな人生はなかった。そして彼は簡単に死んだ。

[ラッキーと婦人]

     ['ラッキー'とスチュアート] [アニタ・ウェブと一緒に。ラックと撮った唯一の写真]

                       『ジャーニーズ・エンド』

彼はリースクデールで幸せになり、ノーヴァルで幸せになり、ジャーニーズ・エンドで幸せになった。ラッキーは愛する人がどこにいても幸せだった。場所に違いはなかった、ある種の猫にとってはそうであるようだ。ラッキーにとっての家とは、私がいる場所だった。決して忘れることはないだろう。ラッキーを下宿先から連れ帰った夜の喜びは忘れられない。心配なのはこのときの2週間は、ラックにとってひどいものだった。しかし私が彼を私の部屋に連れて行き、よく知られたパフの上に寝かせたとき、ラックは自分が家にいることを知った。そして私が横になって本を読んだり話しかけたりしている間、ラックは毛づくろいをした。 2時間以上も毛づくろいを続けた。毛皮から洗い流さなければならないかのように。暖かいクッション、レバーの一口愛と賞賛を必要としていた。 ジャーニーズ・エンドでの最初の夏、ラックは幸せで満たされていた。彼はハイウェイの両脇の渓谷でネズミを捕り、私がロック・ガーデンで仕事をしているときは、必ず私に付き添ってくれた。裏のポーチの手すりの上で長時間ひなたぼっこをするのが好きなようだった。彼は渓谷で狩りをしたが遠くへ行くことはなかった。新しい道を開拓するには年を取りすぎているからだと思った。しかし今になって病気の気だるさが彼に忍び寄り始めていたことを知った。実際、私たちがノーヴァルを離れる前から、病魔は彼に忍び寄っていたのだ。去年ノーヴァルにいたとき、私は何度か彼の息が臭かった。
それまではなかったことだ。唯一の慰めは、たとえ獣医に診てもらっていたとしても何もできなかったということだ。冬の間は元気で幸せそうだった。しかし去年の夏はまだおとなしかった。夏はいつもかなり痩せていたが、今は以前よりも痩せていた。食欲もないように見えた。渓谷からネズミを持ち帰って見せてくれたし、私がレバーを取りに行くと相変わらず熱心にアイスボックスに走っていった。9月になっても彼はいつものように食事をとろうとしなかった。てっきり私は、彼が年をとったせいだと思った。それでも私は本当にラッキーがすぐに死ぬとは思っていなかった。彼は生命力の強い生き物だった。死んでも死んだとは思えない。今でも私はそのことをある種の絶望的な信じられない気持ちだ。ラッキーは死ぬはずがない。あの美しさ、優美さ、魅力、生きる喜びが、無に帰するはずがない! しかし彼は病気や不快の兆候を見せなかった。徘徊するのが大好きだった
「猫の光」がやってきたとき、彼は決して徘徊しなかった。徘徊するのが大好きだった彼は、徘徊することなく、ポーチの縁に座り、前足を胸の下で美しく折り畳み、触られるたびに鳴いた。私はベッドタイムに遠くから呼ぶ必要はなかった。いつもそこに座っていて嬉しそうに鳴いていた。私の腕に抱きかかえてベッドに運ぶと、いつも幸せそうに鳴いていた。彼は毎晩私のベッドで寝た。他の誰にも行かなかった。
10月に私がP.E.I.に行ったとき、スチュアートから手紙が来た。ほとんど何も食べなくなったと。これは私を心配させた。ラッキーはいつも私を恋しがっていた。でも食欲に影響したことはなかった。家に帰ったとき私はぞっとした。ラッキーはとても痩せていた。そして食べる量も少なかった。時々レバーさえ食べなかった。レバーを食べ終わらないこともあった。そして苦しむことはなかったが、何かが間違っていることはわかっていた。彼は何とかならないものかと懇願するような目で私を見ていた。その眼差しを思い出すと胸が締め付けられる。
私は獣医を呼んだ。ラックは憤慨し、意識がはっきりした途端に毛皮を必死に舐め始めた。医者はどこかに感染症があると思うが、どこがどうなっているのかわからないと言い強壮剤を置いていった。私はそれを1日3回、忠実に飲ませた。ラックはいつも薬を飲むのが好きで、1ヵ月ほどはよくなったように見えた。少なくとも悪化はしなかった。私は彼がまだ良くなるかもしれないと期待に反して願った。彼の愛すべき習慣と魅力的なやり方は相変わらずだった。愛する人の手が彼に触れると、彼は鳴いた。亡くなる1週間前まで、食欲がなく痩せていたにもかかわらず病気の猫であることをまったく感じさせなかった。歩いているときはとても痩せて見えたが、しかし、私の膝やベッドの上で丸くなっているときは、毛並みがとても美しく厚いので、ふっくらとして見えた。ラッキーが最後にネズミを捕まえたのはいつだったかわからない。しかしクリスマスの前の週から、ネズミがパントリーに出没するようになった。朝、ネズミがそこにいた。彼は私が最初の1匹をラックに与えると、ラックはそれに飛びかかり、以前のように夢中になって食べた。5日間もそうだった。その後、彼は気だるそうに食べた。9個目は食べきれなかった。私はその時、終わりが近いことを悟った。絶望的な思いで別の獣医を探した。その獣医は最初の獣医とはまったく違っていた。彼は優しく、同情的で、理解力があった。彼はラックを傷つけなかった。彼はラッキーを傷つけなかった。それから彼は、ラッキーの肝臓に腫瘍があると言った。

短い間しか生きられなかった。そのとき私は彼にラックのクロロホルムを頼むべきだったのだろう(安楽死)。でもできなかった。できなかった! もし彼が苦しんでいたらそうしただろう。でも彼はそうではなかった。ただ疲れてぐったりしていただけだった。運はあと8日ほど生きた、ただ弱っていくだけだった。彼は何も食べなかった。ハリバー油のカプセルを毎日飲ませた。恐ろしい日々だった。情熱的に愛している小さな生き物が、少しずつ死んでいくのを見るのは恐ろしい拷問だ。彼は苦しまなかった。彼は自分の弱さを感じていたと思う。やりたいこともたくさんできなかった。ただ毎日少しずつ死んでいった。胸が張り裂けそうだった。私の心を引き裂いた。その細い足で階段を上り下りしようとする彼を見ると、胸が張り裂けそうだった。あんなに堂々と優雅に歩いていたのに。
彼は最後まで、私の枕元に来て目で尋ねた。そして最後まで飛び上がることができた。その強さには驚かされた。私が彼を抱き上げ、私の喉に押し当てたとき 抱っこされるのが大好きだった。私が抱きしめている間、彼は鳴き続けた。最後の2時間だけは何の反応も示さなかった。彼はあまりにも遠くにいた。そのころには伴侶はいなかった。

[マートル・ウエッブに抱かれたラッキー]

彼の最後の週、私は彼の付き添いと看病をしただけだった。彼は苦しむことはなかった。しかし部屋で一人になると、彼は奇妙な小さな叫び声をあげた、苦しみではなく寂しさだった。私は彼が泣き出したとき必ず彼のもとに行った。私の手に触れるだけで彼は満足した。2晩か3晩、私は彼が朝まで生きられないのではないかと思った。しかし彼の強さはすばらしかった。あの恐ろしいものがなければ、彼は何年も生きていたに違いない。しかし最後の夜が来た。10時頃、彼は私のベッドに横たわっていたが、降りて階段を下りて地下室に行こうとした。私は彼をアスムの山まで運び、地下のホールで彼を待った。運は弱々しく出てきて 一瞬、階段を見た。そして、ああなんと哀れなことだろう。
かつてのような猪突猛進ぶりだった。しかし彼は2段目で。私は涙で息を詰まらせながら彼を抱き起こし、2階から私の部屋まで運んだ。勇敢なラッキーは、最後の階段を上った。その夜、ラッキーは初めて眠らなかった。彼は目を開けたまま 私の体の上に横たわっていた。私も眠らなかった。私は彼と一緒に最後の見張りをした。私たちは何度も一緒に夜を明かした。その多くはとても悲しいものだった。私は彼が一晩中生きられるとは思っていなかった。朝にはほとんど変わった様子はなかった。朝食を食べに行ったとき、私は彼をベッドの上に置いていった。私が戻ってくると彼はベッドから降りて、ユアンのシフォニアの下の床の隅に潜り込んだ。私の足音を聞くと弱々しく出てきた。ベッドに寝かせた。彼は二度とベッドから離れなかった。私は一日中彼のそばで見守っていた。私は彼を暖かく覆っていたが、着実に忍び寄る死の寒気を遠ざけることはできなかった。恐ろしいことだ。愛しいペットが刻一刻と息絶え絶えになっていくのを見るのは。時々彼は孤独のかすかな叫び声をあげた。私がそばに行って撫でてやると彼は静かになった。まるで、仲間を求める彼の叫びに応えたかのように。暗い時間にも、まだ友人がそばにいることを知ったようだった。
前の晩、ラックがスチュアートの部屋に入ってきて、私がラックを抱き上げたとき、私はラックの鳴き声を最後に聞いた。しかし月曜日の5時に鳴くのを感じた。撫でると振動が伝わってきた。まるで彼が苦しいと言っているようだった。そして灰色のクローバーの葉が生い茂った脇腹はもう鳴かなかった。私は彼が死んだと思った。私は彼の頭に手を置いた。呼吸は止まっていた。私が今まで見た中で最も哀れなことだった。そして彼は死んだ。彼の最後の瞬間は、文字通り私の手への反応だった。私はこれほど寂しく感じたことはない。この7年間人生はとても苦しかった。ラッキーとスチュアートはそれを甘くしてくれた。


数年前、私は愚かな贅沢をした。トロントの店で当時「流行」だったとても素敵な円形のレースのショールを見たのだ。私はそれを買った。愚かなことだった。というのも、静かなノーヴァルでは(派手な宴会などないノーヴァル)、本当に使い道がなかったからだ。何年も引き出しの中に眠っていた。ラックのシュラウド(死体を包む布か)のために買った理由がわかった。彼はそれに値したのだ。ラックはそのガートモア農場で子猫だったラックを見つけたときよりも小さくなっていた。その小さな体は、見るたび、触れるたびに私に喜びを与えてくれた。私はそれをショールの上に置き、彼が好んで横たわっていた半円形の部屋に並べた。その上にレースをたたんだ。それから私はイゾベル・アンダーソンがクリスマスプレゼントと一緒に送ってくれた大きな花柄の段ボール箱を持ってきた。その中にペットを寝かせた。それ以来私は彼に会うことはなかった。ベッドに入る前、レースの下に手を入れて彼の毛皮に触れた、シルクのようになめらかできめ細かい。そして私は泣きながら眠りについた。さらばグッドラック。最も美しく、愛すべき猫たちよ。さらば!



1937年1月19日(火曜日)
今日は悲痛な一日だった。午前中、親切な隣人のフライ氏が、私の美しい猫のために墓を掘ってくれた。ロック・ガーデンの端の松の根元に墓を掘ってくれた。そして彼の墓には、私がP.E.I.の家から送っておいた古い灰色の石を置いた。数年前、その石の上に軽い気持ちで座ったとき、あるいは昨年の秋、その石を送ってくれるよう頼んだときでさえ、それがどんなものになるのか夢にも思わなかった。私は一日中フロアを歩き回り、ことあるごとにラッキーに会いたかった。
今晩、エセル(メイド)が結婚のために3月に旅立つと知らせてきた。私は安堵してその知らせを聞いた。彼女の愚かさにはうんざりだ。私はトンプソン夫人を取り戻せると思う。彼女はずっとトロントで働いていて、ジューン(トンプソン夫人の子)を連れて行くことができなかった。戻ってくることを喜んでくれると思う。

[PEIからの石]

1937年1月20日(水曜日)
また大変な一日だった。憑りつかれたようだ。もう二度と窓の外を見ることはできない。ラックがどこからか突然現れて、芝生や庭を可憐に歩いていくのを見ることはもう二度とない。ふわふわと鳴きながらお気に入りの場所で丸くなっている姿を見ることもない。私は仕事をしようと、ビジネスレターの返事を出したり繕ったりした。他人より先に顔色をうかがってはみたものの、ちょっとの間ひとりで離れて床を歩かなければならなかった。最近バー夫人の『All The Days Of My Life』 (私の人生のすべての日)を読んでいて、こんな一節を見つけた。「昼も夜も部屋を歩き回り、疲れ果てて座ることを余儀なくされた。何度同じことを感じたことだろう。どんなひどい感情のストレスの中でも、私はいつも歩いていた」。
呻くような東風と雨のどんよりとした一日だった。そしてチェスターはノートを盗まれた。科目であるプラクティスに絶句した。彼のノートは盗まれた。他の3科目は50点しか取れなかった! 彼はそれが真実だ。チェスターが何かを成し遂げられるという希望を私はほとんどあきらめている。彼は自分を楽しませることしか考えていない。このことが、一日を耐え難いものにしている。

1937年1月22日(金曜日)
日中はそこそこ過ごせたが、夕暮れ時になると運ちゃんが欲しくてたまらなくなる。私は猫が嫌いな人を哀れんできた。でも今は、彼らがどんな耐え難い苦痛から逃れているのかも知っている。キップリングは言う、
        兄弟よ、姉妹よ、用心せよ。
        心臓を犬に与えて引き裂かれないように。
彼は猫に対してもそう言ったかもしれない。次の転生では、今回のような情熱的な恋人にはなりたくないものだ。ペットも、人も、場所も、今の私のように愛さないことを願う。そしてもし私がラックの死に苦しみを感じることができなかったとしたら......。ラックの美しさと魅力が長い間私に与えてくれた極上の喜びを感じることはできなかっただろう。でも今となっては、その代償はあまりにも大きすぎるように思える。
今夜、ノラ(ルフルジー)の訪問があった。彼女はネッドを家に連れてきた。ここにいる。彼はまだ重病人だと思う。

1937年1月23日(土曜日)
昨夜はぐっすり眠れ、一日中ルーティンワークをこなした。でも、何度も刺された。自分をコントロールしようとする。そしてもう二度と見ることのないラッキーの愛しいやり方やトリックが思い出され、私はそれに耐えることができなかった。ベッドに入ると、「ラッキーはもう二度と私のところに来ない」という思いが頭をよぎる。 私はしくしく泣く。外出し、帰宅すると、ラッキーは迎えてくれない!

1937年1月25日(月曜日)
とても厳しい一日だった。灰色で暗く、陽の光は微塵もない。書こうとしても書けない。書けなかった。取り憑かれているようだ。階段を上ることができないのだが、灰色の小さな形が私の目の前を飛んでいく(幻影か)。もし冷蔵庫に行くと、運ちゃんがレバーをねだりに走ってくる。裁縫をしようと座ればラックは私の膝の上に飛び乗ってくる。私は自分に言い聞かせるようにしている。何年も生きられるはずがない。年を取れば彼の魅力は消えてしまう。でも無駄だ。何歳になっても、彼は運の持ち主なのだ。ただもう1年でも彼を飼うことができたのだから! 
このことを理解できるのは、熱狂的な猫好きだけだろう。彼らはラックを知らないのだから。
今夜、私はベッドに横になって本を読もうとした。無駄だった。私は耳を澄ましていた。 "飛び上がってもいいですか?" と尋ねる明るい目を。私は立ち上がって、歩いて、歩いて、歩かなければならなかった。だが未来の人生では......おそらく 私はまた彼を見つけるだろう。彼はまた美しく、愛おしくなることだろう! そして今日はフリーデの命日だ! 18年! そんな年月が経ったのか。

1937年1月26日(火曜日)
「旅の終わり」
小さな仲間を失って、再び日常生活を送るのは辛いことだ。もちろん、どうなるかはわかっている。何日もの間、苦悩に満ちた想い出が絶えることはない。その後、物忘れの短い間隔がだんだん長くなり、ついにはやがてまた元の生活に戻ることができる。しかしその根底には、いつまでも続く心の痛みがある。苦い痛みなしにグッド・ラックを思い出すことはできないだろう。突然の苦悩に声をあげて泣くほどだ。
昨夜、突然の洪水でロックガーデンがすべて流され、裏庭が瓦礫の塊と化すという恐ろしい夢を見た。こんな夢は見たくない。このような夢は嫌いだ。何かの前兆ではないかと恐れている。今夜は厳しい寒さの夜だ。ベッドに倒れ込んだ。

1937年1月27日(水曜日)
「旅の終わり」
ジェーンの最終章を書いているが大変な仕事だ。私はそれを忘れることさえできない。ダーリン・ラッキーがそばにいてくれたら。残すは1章だけだが、今日はそれを書くことができなかった。おそらく、ラッキーは私より先に行ってしまったのだろう。1931年のあの奇妙な夢の「6年目」である。来年の9月には「出る」だろう。慰めのひとつは、スチュアートが元気になったことだ。彼は去年の今頃とはまったく違う。

1937年1月28日(木曜日)
5時に目が覚め、また眠れなくなった。これはもうほとんど毎晩のことだ。トンプソン夫人からはまだ何の連絡もない。不思議だ。手紙はゼファーのホーム・ファミリーに送った。きっと転送してくれただろう。(トンプソン夫人は文才があったのでモンゴメリは彼女を頼りにしていました)
今夜は作家協会の会合に行って、少しの間 "忘れていた"。でも家に帰ったらラッキーはいなかった。誰が信じられるだろう。小さな猫がいなくなっただけでこんなにも家が空っぽになるなんて。でも私には仲間はほとんどいない。ユアンは心気症の恐怖と症状に包まれている。私は孤独だ。


1月29日(金)の手帳には何も書かれていない。その日すべての幸福が私の人生から永遠に旅立った。私は朝食の席で、その日の仕事の計画を立てていた。言葉では言い表せない、あの恐怖を。恐怖。ああ神よ、私はあの日を忘れることができるでしょうか? 永遠に。なぜ、なぜ、なぜあのようなことが私に起こったのか(不明)。私の人生はあらゆる慰めを奪われることなく、私の人生は十分に悪夢だったのではないだろうか?

1937年1月30日(土曜日)
昨夜は薬を飲んでも眠れなかった。今日はひどい。"私の心は打ち砕かれ草のように枯れた" それは私にはまだわずかな希望が残っていたからこそだ。しかし今は何もない。もう耐えられない。この拷問に耐えられない。気が狂いそうだ。涙を流すことさえできない。泣いているところを誰にも見られてはならない。ああ神よ、どうしてこのような事態を招いてしまったのですか?

1937年1月31日(日曜日)
昨夜は少し眠れたが、目覚めは最悪だった。 午後、ユアンと私は車でレアーズの家に出かけた。私は行きたくなかった。知り合いに会うのが耐えられなかった。でもそれが一時的に私を助けてくれた。マレーとマリオンは教会に行っていて、マートルと私はパットのことを話した。彼女も一緒に泣いたわ。泣く口実ができてほっとした。そして自分の仲間のひとりと話せて本当によかった。しばらくは私が知っていた恐ろしいことは、ありえないことのように思えた。信じられなかった。私はどんなに嫌だったか。家に戻って拷問を受けるなんて。でもそうしなければならなかった。今夜は少し落ち着いている。 絶望の静けさとともに。もし生きなければならないのなら、私はこのような生き方を学ばなければならない。もし死ねるなら 死にたい! 人は死の苦しさについて語る。人生の苦さとは比べものにならない。比べるものではない。不治の病のような苦しさだ。愛した人がこのような事態を招いてしまった。そう、私は彼を愛しすぎていた。そう感じていた。でもどうすることもできなかった。神は嫉妬深い。数日前の夜、私は謙虚に祈った。ラッキーを失った私を慰めてください。そしてこれが神の答えだ。もう祈ることはできない。二度と祈れない。今までずっと祈ってきたけれど、これからは祈れない。どこにも助けはない。(チェスターが浮気でもしたのだろうか)

1937年2月1日(月曜日)
昨夜はよく眠れた。今朝、ジェーンの最終章を書こうとした。でも書けなかった。また書けるようになるのだろうか? ついにトンプソン夫人から手紙が届いた。彼女は来るそうだ。とても喜んでいるようだ。来てくれることになり私はホッとしている。少しは生活が楽になるだろう。私は今晩、苦悩のあまり床を歩き回った。ユアンに疑われないように、涙を流すこともできない。決して知られてはならない。気が変になりそうだった。私には希望がない。何もできない。

1937年2月2日(火曜日)
旅の終わり、トロント
今朝、グローブ紙を開いてネッド・キャンベルの訃報を目にした。可哀想なノラと午後を過ごした。彼女を慰めようとして 少しの間、自分の苦しみを忘れていた。しかし、暗い夜を抜けて家に帰ると しかし、暗い夜を抜けて家に帰ると、その苦しみは再び襲ってきた。

1937年2月3日(水曜日)
今日の午後、「ランタンヒルのジェーン」の最終章を書いた。一言一言に胸が張り裂けそうだった。その日の残りの時間は、恐ろしい憤りの中で過ごした。
強迫観念。そしてユアンは自分の症状にとらわれ、何も疑わない。これでよかった。誰も私を助けてはくれなかった。あの "5、6年前" の夢の意味がわかった。死ではない。死ほど優しくて簡単なものはない。地獄のような拷問。すべての幸福の終わり。今日、ある新聞に天文学者が200の新しい島宇宙を発見したと発表したと書いてあった。かつてはこれだけでワクワクしたものだ。今は私たちのような惨めな生き物が住んでいるのだろうかと、ぼんやり思うだけだ。

1937年2月4日(木曜日)
今日は少し落ち着いた。でも少しの間ごとに、私はただ1つの大きな苦痛の叫びをあげているように思えた。苦い現実の波が押し寄せてくる。私が人生に耐えるためになぜそのわずかなものを奪われなければならないのか。そして私はこんなにも 耐え難い立場にいるのだ。(モンゴメリにとっては面目を失うことが最悪の苦痛)
イゾベルから手紙が届いた。彼女はマクドナルド氏の奇妙な夢を見たことで心を乱していた。マクドナルド氏が葬儀の花輪を手渡すという奇妙な夢を見たからだという。私が病気なのかと思ったそうだ! 不思議ね! 何かが死んだ。ああ神様! でも神を呼んでも無駄だ。神様と敵対している気がする。今まで感じたことのない最も暗かったときでさえ、そう感じたことはなかった。恐ろしい感覚だ。

1937年2月5日(金曜日)
「旅の終わり」
昨夜はとてもよく眠れた。一日中ひどい発作もなく過ごせた。ジェーンの校閲を始めた。創作活動が不可能な私にもできることだ。
週末にイゾベルとネリー・アンダーソンがやってくる。私はそれを恐れている。私は社交的な人間ではない。ましてや彼女たちとは。でもネリーにはまだ一度も会ったことがない。早く終わればいいのに。

1937年2月6日(土曜日)
今日、彼女たちがやってきた。耐え難い心の痛みに退屈した一日だった。イゾベルと私は写真(映画のことか)を見に行った。(ネリーは宣教師にはふさわしくないと思って行かなかった!)。 面白かった。いつもなら楽しめるのに一度も笑えなかった。みんなが寝静まった後、私は疲れと痛みの中、1時間床を歩いた。一人になって、自由に苦痛に身を任せることができてほっとした。

1937年2月7日(日曜日)
よく眠れなかった。娘たちを教会に連れて行った。礼拝は私にとっては傷心に満ちたものだった。礼拝は私にとって傷心に満ちたものだった。娘たちは夕方には帰ってしまった。私はずっと床を歩いた。その夜はずっと床を歩いていた。読書もできない。今は耐え難い。過去は台無し。未来はない。

1937年2月8日(月曜日)
今日は何とも言えないどんよりとした一日だった。そして氷の嵐。私の松はその中で冷たく異質なものに見えた。私は一日中、猛烈に推敲に励んだ。 ジェーンの校閲を終え、18ページをタイプした。まったくダメなようだ。でも今は何もいいことがない。今夜は霧と降りしきる雨。昔、このような嵐が吹き荒れているとき、私は二人の部屋に忍び込み、暖かく心地よく眠っている二人の子供を眺めるのが好きだった。神様、私の心をこんなにも締め付けなければならないほど、彼らを愛することは罪だったのでしょうか? そして多くの母親が同じ質問をしたことだろう。しかしそれはフェアではない。子供たちをないがしろにしてきた。私が知っているあらゆる方法で、子供たちに清潔で男らしく真実であることを教えようとした。スチュアートはいい子だ。だから完全に私のせいということはない。今夜はラックにとても会いたかった。もし彼ががここにいたら、少しは慰められただろうに。この1週間は耐え難いものだった。ああほんのわずかな祝福された時間のために苦痛から解放される! 歳をとって最悪なのは、「待てばそのうち良くなる」と言えないことだ。私は多くのものを失い、今は希望を失っている。死!死! それは大歓迎だ! もう苦しい夜も悲しい明日もない!

1937年2月9日(火曜日)
旅の終わり
今日、M夫妻がマートルを家に連れてきた。私はそれを 楽しみにしてたんだけど、今となっては全てが醜くなってしまった。彼女とマリオンとシンプソンズで一日買い物をした。私は幸せなふりをするために我慢した。しかしそれはとてもつらいことだった。それは恐ろしい緊張だった。誰にも目を合わせないようにしていた。今夜は眠れず、12時半までタイプしていた。どうしたらこんな生活を続けられるのだろう? こんな生活を続けることができるのだろうか?

1937年2月10日(水曜日)
一日中絶望的な気分だった。そしてみぞおちのあたりに恐ろしい痛みを感じる。恐ろしい心配と緊張に耐えているとき、私を苦しめる。それは痛みではない。痛みではないのだが、想像を絶するほど恐ろしい。
モントリオールの『ファミリー・ヘラルド』紙のスタッフ、スチュアート・ケネディが訪ねてきて、夜を過ごした。彼はとても興味深く、しばらくの間、私は惨めさを忘れ、本当の会話をした。彼は素晴らしい。昔、フレデがいた頃、彼はマクドナルド大学にいた。何通も手紙を書いた。そして彼は彼女を覚えていなかった。私に言わせれば 一度でも会ったことのあるフレデを忘れるなんて。しかし、彼がいなくなると、私の不幸は波のように押し寄せてきた。

1937年2月11日(木曜日)
今日は少し気分がいい。太陽神経叢に異常はなく、ただ常に鈍い心臓の痛みがあるだけだ。午後、マートルとブロアーまで散歩した。今、彼女はベッドにいる。私は1時間床を歩いて痛みを少し和らげた。そして私をこんな目に遭わせたのは、かつて私が心から愛し、私を愛してくれた小さな男の子だった。ああ、そうだ、彼はあのとき私を愛してくれていたのだ。(チェスターの浮気で有名な作家の面目が傷ついたのを病んだのか)

1937年2月12日(金曜日)
ひどい夜だった。一眠りしても眠れなかった。そして鈍い灰色の朝。朝が来るのが怖い。朝が怖くなくなる日は来るのだろうか? その日は夜のように。マートルと私は街を訪れ、お店を見て、イートンズ・ラウンド・ルームで昼食をとった。そして今晩はミセス・ウォルドロンで行われたハンバー・バレー・バード・クラブの会合に行かなければならなかった。私はどうしたらいいのかわからなかった。そしてプログラムの最初の部分では、ほとんど耐え難い痛みに苦しんだ。最後の最後まで、講演に立つまで、私には無理だと思った。できなかった。するといつものように、私は突然別世界に足を踏み入れたようだった。自由奔放に忘れっぽく話した。うまく話せたに違いない。部屋の奥でささやくような声が聞こえた。でも私は止めた......。 心配の猟犬がまた私の喉に飛びかかった。一人になって、微笑んだり、話したり、ふりをするのをやめてよかった。

1937年2月13日(土曜日)
「旅の終わり」
眠りが浅かった。午前中はジェーンをタイプしていたが、午後は苦しくて床を歩いた。マートルは友人を訪ねて行った。孤独な夜を過ごした。ラッキーはいつも私の悲しい夜明けのお供だった。今朝、夜が明けてすぐ、私は一階に飲みに行った。過去にそうしたときラッキーは眠っているわけではなく、どこかに座っていた。まるで自分のいるべき世界から戻ってきたかのように。今朝は部屋は灰色で、空っぽで、無機質だった。

1937年2月14日(日曜日)
今日は快晴で穏やかだった。長い間、私の魂をむしばんでいた野獣は少なくともその心を解き放った。少なくとも一時的には解放された。私は普通に感じたが、悲しく心が折れそうになった。疲れ果てていた。マートルと私はキングスウェイにある小さなバプテスト教会に行った。行きも帰りも、ほとんど話す気になれなかった。

1937年2月15日(月曜日)
昨夜はここ数ヶ月で一番よく眠れた。しかし新たな心配事が今日やってきた。チェスターが昨夜衝突事故を起こしたからだ。どちらの車も大きな被害はなかったが、私たちの車は少し傷つき、修理にはかなりの費用がかかるだろう。私は一日の半分はタイプしていた。今夜はマートルと写真(映画であろう)を見に行った。少しは助かったけど、齧られたせいで全てが台無しになった。私は今夜、アーネスト・バラクローに会いたいと思った。彼は何もしてくれない。でも、彼の手を握りしめ、微笑みを見るだけでも救われる。かわいそうにバラクロー夫人は悲嘆にくれている。何もかもが変わってしまった!

1937年2月16日(カ指)
寒い灰色の日。よく眠れたが、太陽神経叢の動揺がひどい1日だった。不思議なことに、よく眠った後はいつもひどくなる。一日中ジェーンをタイプしていた。それは私にはつまらないゴミにしか見えない。ユアンは元気がない。彼はレーン先生のところに行くことにした。私もこっそり行った。レーン博士に経緯を話した。彼は真実を知らなければ何もできないだろう。

1937年2月17日(水曜日)
一日中タイピング。今晩、車の事故でC.(チェスター)と衝突した男から電話があった。しかしそれは彼自身の責任であり、私は彼に満足を与えるつもりはない。彼は裁判に持ち込むかもしれない。私はそのことを一晩中心配していたが、隠さなければならなかった。今つらいことのひとつは、少しの間ひとりになれる場所がないことだ。以前はいつも "予備の部屋" に身を隠して、床を歩いたり、涙が枯れるまで泣いたりしていた。

1937年2月18日(木曜日)
「旅の終わり」
今日マートルが行ってしまった。とても寂しかったけどほっとした。私は一日中タイピングしていたんだけど、今日の夕方には泣き崩れてしまってね。どうすることもできなかった。それが救いだった。その後、気持ちが落ち着いた。痛みさえ我慢できるようになれば...。楽しく仕事ができるのに。私がやろうとすることすべてが私には憎らしく思える。そして将来がとても怖い。衝突事故の相手であるラッシュ氏とは、いまだに連絡を取っていない。電話が鳴るたびに、私は不安に襲われる。もうこれ以上のトラブルには耐えられない。

1937年2月21日(日指9
こんなことで押しつぶされるのはごめんだ。チェスターなんかはそんな苦しみを味わされるに値しない奴だ。年老いた私は傷ついた。私はそれを乗り越えて自分の人生を生きよう。颯爽と。苦悩が再発することは間違いないが、私はそれに打ち勝たなければならないし、打ち勝つつもりだ。克服しなければならない。そうでなければ私は生き続けることはできない。ユアンとスチュアートのためにも、私はもう少し生きなければならない。でも死は大歓迎だ。

1937年2月22日(月曜日)
今日、一通のファンレターを受け取った。あなたの本がこれほど世の中に役立っているのですから!と。 同じ手紙の中で、"目覚めたとき、今日一日がどんなエキサイティングなことをもたらすのだろうと考えるのは素敵なことだと思いませんか?" と書かれていた。なんてことだ。私はかつてそう感じていた。今、私は目を覚ますとその日はどんな苦悩が待っているのだろう? と思う。
ステラからの手紙の中に、「猫の計り知れない価値を理解している私たち」のために書かれた「猫」についての切り抜きがあった。計り知れない、確かに。もし私が今、ラッキーを連れていたら......。 私が耐えるのを助けてくれる! しかし、彼は "ただの猫" だった。忠実で、愛情深い、何年もの間、昼も夜も一緒にいてくれた美しい生き物。たかが!

1937年2月24日(水曜日)
昨日はビーバートンのY.P.S.で話をするために出かけ、今日戻ってきた。私は家に帰るのが嫌だった。親愛なる神よ、こんな言葉を書きながら、こんな気持ちになっていいのでしょうか! 今夜は頭痛がする。

1937年2月25日(木曜日)
頭痛と嘔吐のひどい夜だった。今日はジェーンをタイプし終えた。今晩は床を歩き回って過ごした。ユアンは一時的に体調が良くなり、今日は「3年ぶりに気分が良くなった」と言った。これは新たな発作の前触れだと私は知っている。そうか!

1937年2月28日(日曜日)
今日は少し楽だった。苦悩を克服しつつあるように思う。午後は天気が良かったので散歩をした。特に、とてもチャーミングな小さな黒い犬が、ずっと私にくっついてきたからだ。しかし時折、思い出したり苦しんだりする恐ろしい痛みが襲ってきた。

1937年3月2日(カ指)
日々は過ぎていく。今日はほとんど無関心だった。ルエラからの手紙とカムの写真があった。可愛い子だ。もし...。ユアンもまたリースクデールのロビンソンから手紙を受け取った。6月の75周年記念日に説教してほしいという依頼だった。ユアンはそうすると書いた。私は彼がそうしないことを望む。なんとなく。妙な不吉な予感がするんだ。この1ヶ月以上私を苦しめてきた「みぞおち」の何とも言えない恐怖感は今日は私を苦しめなかった。言葉では言い表せない。安堵感でいっぱいだ。

1937年3月6日(土曜日)
軽いインフルエンザの発作に見舞われ、とても憂鬱な気分だった。昨夜、私は夢を見た。ラッキーが生きている夢を見た。夢なんか見なければよかった。目が覚めた! 
スチュアートは今晩、車を欲しがり、マーガレットを連れてどこかに出かけた。なんてことだろう。スチュアートが車を持ってどこかへ行ったとき、私は彼がノーヴァルのところへ行ったのだと知っていた。ノーヴァルのところへ行ったとわかったときは、この新たな不幸さえなければ、私はほとんど幸せだった。たとえユアンが元気でなくても。私はそのことに慣れた。人生の一部として受け入れてきた。しかしもうひとつ! この不幸をなくすことはできない。私の唯一の望みは、それを忘れられるようになることだ。しかしそれは難しい。しかし私はそれに慣れつつあるようだ。耐えなければならないことは耐えられるようだ。

1937年3月7日(日曜日)
今日の午後、ユアンと二人ででグレンに出かけた。途中M'sを訪ねた。午後は不快ではなかった。彼らには他の仲間がいて、私はしばらくの間しばし忘れていた。ああすっかり忘れてしまった。でも決して忘れられないこともある。

1937年3月8日(月曜日)
今朝は短編小説の "スペード・ワーク" (準備作業など)をした。書けるのだろうか? 書くということは、心が平穏でなければできないことなのだ。そして『ガーディアン』紙には、かわいそうなレム・マクラウドの訃報が掲載されていた。関係者にとっては喜ばしいことだ。彼は少なくとも12年以上もの長い間、運動麻痺のために無力な生き物だったからだ。可哀想なことに彼の妻は昨年また心を病んでしまった。昨年もまた奥さんの心が折れてしまい、弟が彼を引き取ることになった。そして私は昔の陽気なバラ色の頬のレムを覚えている。パーク・コーナーの古い応接間で、彼は私を愛していると言った! 「ヴィクトル・ユーゴーが言ったように、"神よ、あなたは私たちに自分を守ることができますか?"

1937年3月12日(金曜日)
日々は長引いた。今日はダウンタウンで過ごした。ノラに会っておしゃべりした。彼女はとても疲れていて冴えない、かわいそうな人だ。私たちは悲しい二人だった。あの魅惑的な夕暮れ時に町並みを歩いていた二人とはなんと違っていたことだろう。私は恐ろしくて家に帰るのが嫌になった。私は故郷が大好きだった。 故郷にに帰るのをとても喜んでいた。でもここには(旅の終わりには)忘れられない思い出がない。忘れられない思い出がなければ私はただ苦しむだけだ。ユアンはまた調子が悪い。

1937年3月14日(日曜日)
「旅の終わり、トロント」
私は人生を続けようとしている。その醜悪さにはもう耐えられない。悲しみ、痛み、失望には耐えられるし、耐えてきた、しかし、醜さには耐えられなかった。そしてこれはとても醜い! ユアンはひどい咳をしている。気管支炎のようで夜も眠れない。何をやっても良くならないようだ。昔からメランコリアの発作が起きると咳が出るが、これほどひどいことはない。

1937年3月16日(火曜日)
今日、次の本のアイデアを選ぼうとしたが、どれも満足できるものではなかった。本当のところ私の心はそこにない。でも、もしアイデアが浮かんだら、精神的な落ち着きが戻るのを待ちながら書きたい。ラックが恋しい。彼がいなくて寂しい。

1937年3月17日(水曜日)
不思議なことに、今日ちょっといいニュースが飛び込んできた。シンプソン社が未払い配当を株式で支払うことになったのだ。これは私にとっては約4000ドルで大きな違いになる。過去3年間のようにペンを走らせる必要はない。今年はペンを執る必要はない。本が出版できなくても問題ない。この高揚感が私を一日中支え、耐える新たな勇気を与えてくれた。しかし私は4時から6時までひどい神経痛に襲われた。壁が迫ってくるような、窒息しそうな感じだった。しかし、夕方には祝福された静けさが訪れた。でもとても寂しかった。少年たちとユアンは憂鬱で、ラックはいない。私は涙をこらえることができなかった。

1937年3月18日(木曜日)
今朝は3時間、鋤の仕事をした。今晩は 「ウィズロー・オールド・ガールズ」の夕食会で話をし、楽しい夜を過ごした。しかし家に帰ってからラックを思い出す。

1937年3月19日(金曜日)
緊張のため2時まで眠れなかった。午後はずっと鋤仕事。今晩は、閉所恐怖症のような気分だった。これは恐ろしい。しかしこのような事態を引き起こしたものほど恐ろしくはない。手紙も書けない。ユアンの咳は相変わらずひどい。

1937年3月23日(火曜日)
ひどい夜が2日続いた。頭がとても変な感じだ。今日はヘリコニアン・クラブの昼食会に行った。エドガー教授は、最近の「人気」コンテストでモントリオールの『ファミリー・ヘラルド』紙と『ウィークリー・スター』紙が、読者のあいだで生死を問わず最も読まれている作家を調査した。その読者の間で、生死を問わず最も読まれている作家は『ディケンズと私』(!!)であった。が同率1位だった。しかし私の心の傷を癒すことはできない。

1937年3月24日(水曜日)
「旅の終わり」
今日、エセル(今のメイド)が家に帰り、夕方、トンプソン夫人(かつてのメイド)とジューン(その子)が帰ってきた。不思議なような自然なような。ジューンはもう7歳だ。家の中にまた子供がいるのはいいことだ。
アマンダから手紙をもらった。彼女の気持ちは理解できる。私も心が痛みます。でももう少しで壊れてしまうところだった。あと数年もすれば、アマンダにも私にも関係なくなる。よく眠れないし頭も痛い。

1937年3月27日(土曜に)
今日、私は女性が置かれうる最も恐ろしい状況のひとつから解放された。何週間も耐えてきたことだ。安堵感はほとんどない。私はいつもあることについての恐ろしい真実を知っていなければならない。耐え難い立場ではなくなった。でも今夜はとても憂鬱な気分だ。

1937年3月31日(水曜日)
最近、書くことがほとんどない。昨夜はよく眠れた。明日から4月だ。何年ぶりだろう。久しぶりに運(猫)のいない春になる。ガーデニングを監督する運(見守っている猫)もない! 草むしりをしている私の目の前で、小さな灰色の恍惚と悶える毛むくじゃらの姿もない!

1937年4月2日(金曜日)
とてもひどい夜だった。遅くまで眠れず、ユアンの咳で早く目が覚めた。咳はますますひどくなり、何をやってもよくならないようだ。私の目。一日中、目と頭が痛かった。また眼鏡を変えてもらっている。神経が過緊張しているせいだと思う。
今日、フィンランド語のエミリーの本が届いた。言葉は ポーランド語よりもひどい。ちょっとした英単語がフィンランド語では何十センチの長さにもなる。興味が持てればいいのだが。しかしすべてが味気ない。

1937年4月5日(月曜日)
昨夜は嘔吐と赤痢に悩まされ、一日ベッドで過ごすことになった。今夜は気分もよく、フレデと私が1907年に書いた「10年分の手紙」を読み返している。なぜ読み返したのかわからない。胸が耐えられないほど痛んだが、なぜか読み返したくなった。ほんの少しのスペースが、過去とフリーデを蘇らせてくれるように思えたからだ。少なくとも一時は保存しておくために、ここにコピーしておこうと思う。少なくともしばらくの間は。以下は私からのフレデへの手紙である。
(これは1907年にモンゴメリが10年後に開けて読んでほしいと、従妹フレデに当てて書いた手紙である)


キャベンディッシュ、P.E.I.
日曜日の夕方 1907年3月24日
親愛なるフレデ: 私は「10年目の手紙」を書くには年を取りすぎている。このような手紙を書くには15歳以上でなければならない。15歳であれば人は未来を明るく楽観的に予言することができる。なぜなら15歳では、これから起こる変化はすべて楽しくて愉快なものに違いないと想像するからだ。その後の人生では、それがすべて楽しいものでないことはわかっている。楽しいものであっても、その裏には悲しみがあるはずだ。そのうえ15歳のころは恐れることなく、非難されることもなく感傷的になれる。30歳にもなれば、感傷的になるには賢すぎるし、ユーモアのセンスも鋭すぎる; センチメンタルである。センチメンタルでない10年前の手紙は、愛のない女性のようなものだ。15歳のとき人は未来に明るさしか見いだせなかった。 30歳になった私の目は、「人間の死を見守り続けて」きた。総じて私はこの手紙がこの種のものとしては失敗に終わることを恐れている。というのも、私は年を取りすぎており、賢すぎており、孤独で気分屋だからである。

[古い台所]

日曜日の夕方、古いキッチンで書いている。おそらく安全な予言だろう。今から10年後には、この台所はもう存在しないか、コウモリとクモに支配されていることだろう。しかしあなたは今の姿を覚えているだろう。この手紙を読んだとき、あなたがどこにいようと、思いは年月と距離を越えてこの古い部屋へと遡るだろう。白塗りの低い天井が見えるだろう。「古いストーブ、木製の椅子、編みこみのマット、肘掛け椅子が目に入るだろう。木製の椅子、床に敷かれた編みこみのマット、古い肘掛け椅子に座るおばあちゃん。

[キャベンディッシュのモードの部屋]

そしてソファのクッションの上で丸くなっている "ダッフィー"。おそらくあなたも10年前の日々、私たちが夜な夜な語り合った2階の私の古い部屋を思い出すだろう。この10年は私たちにどんな変化をもたらしただろうか。笑みを浮かべてあえて予言をしようか。あなたはこれを読んでいるだろうか。ジェームス・キャンベル夫人、小さなジムたちにスカートを引っ張られながら。何を笑ったり泣いたりしているのだろう? あなたの文章を読んでいる私は、マクドナルド夫人だろうか? 皺と白髪だらけの40過ぎのマクドナルド夫人だろうか? 私が最初であろうとなかろうと、最後がそうである可能性は高い。ひとつ確かなことは、この手紙を読むとき、私たちの若さは失われているだろう。 しかし人生の最良のものはまだ私たちのものであることを期待しよう。私は長い間生きてきて、人生において本当に大切なのはこれらすべてだと悟った。 他の友人や敵はどうだろう? 10年後、ウェドロック家はどうなっているのだろう? ローラ、エセル、エブ、そして愛想のいい老婦人とその夫は。ステラはアーヴィング・ハウアット夫人になっているだろうか。姪や甥のフレデおばさんになっているのだろうか?
パークコーナーの旧居は? もちろん10年後もそこに大きな変化がない可能性はあるが、それはありえない。苦い変化古いリンゴ園が6月には白くなり、小川のほとりの白樺が池の上に緑のカーテンを垂らしているのは昔のままだ。"慣れ親しんだものがすべて失われていく" という感覚があるだろう。もしかしたらあなたはそこに住んでいるかもしれない。その時、時がもたらした変化は、その苦しさの半分を奪ってしまうだろう。苦味の半分も感じられなくなるだろう。

[パークコーナーの古い家]

私としては、牧師の妻になりそうな人がどこに落ち着くかを予想するのは馬鹿げているので試そうとは思わない。だからやめておこう。しかし私は文学的な老女になるかもしれない。自分の城に住み、子供たちには1、2冊の本を与え、夫にはペンを持たせる。もしそうなら私は不幸ではない。人生から何を得るかではなく、何に打ち込むかによってその良し悪しが決まるのだ。それでも私は願う。10年経ったら、二人とも幸せな妻、そしておそらく母親になっていることを願っている。少なくとも、その頃には私たちの運命は決まっていて、次のような道を歩んでいることだろう。最後まで歩む道を歩んでいることだろう。15歳の時なら、これよりもっと長い手紙を書いていただろう。少し疲れているし、少しブルーで寂しいかもしれない。この色を文章から消すのは難しい。しかし私は十分に幸せで希望に満ちている。未来は私たちにとって公平なものになると信じている。しかし少なくとも、影を打ち消すには十分すぎるほどの陽光がある。 そして私はこうも願っている。少なくとも私たちの友情は変わることなく成長し、深まり、年月を美しく彩ることだろう。美化されたものになるだろうと。愛に次いで、真の友情は人生最大の恩恵である。そして本当の友情は希少なものである。
この手紙を読んだら、できれば私に会いに来てください。それが可能でなければ座って手紙を書いてください。もし不可能なことが起こり、私たちが疎遠になったとしてもそうしてください。そうすれば、私たちの間にどんな溝があろうとも、それを乗り越えて再び一緒になれるだろう。この手紙を書くことで、私はむしろ傷ついているのに止めたくはない。この封筒に私の青春と希望を閉じこめれば、希望が湧いてくるような気がする。この封筒の中に私の若さと希望を閉じ込めて、あなたがそれを開けたときに、幽霊のように飛び出してくるような気がするのです。さようなら、あなた。そしてもしこれから何年か後に、私がこの世を去ることになったら......。10年分の手紙を1人で読むことになったとしても悲しんだり悪く思ったりしないでね。
それを読んでください。私はどこかにいるはずだ。笑いと歓喜はあの世から追放される。この世でも来世でも、私たちはまた会うだろう。キャベンディッシュやスタンレー、パークで過ごした昔のように、冗談を言い合いおしゃべりをし、陽気で幸せな時間を過ごすだろう。キャベンディッシュやスタンレーやパークコーナーで。生身の人間であろうとなかろうと、同じように心から、愛情をこめて、良き同志として。

ルーシー・モード・モンゴメリ



そして、以下はフレデから私への返信: スタンレー橋 1907年3月24日

親愛なるモードへ、この3月の朝は風が強く、日差しは雲に打ち勝とうと奮闘している。私はウェドロックスの居間に座っている。10年という長い歳月を経て、この手紙が退屈で "読めない" ものであったなら書いた人の環境を考えてみてほしい(忙しい私の状況を考えろ)。 ローラが入ってきて、ワトソン・フィーフが夕食に来ることを告げ、夕食の支度を手伝うよう私を台所に招いてくれました。私は平和を守るために 失礼します。(少し書いて中断する)

午後8時。 ワトソンは終日滞在し、一緒に教会に行った。その説教は例外なく、私がこれまで聞いた中で最も無意味なものだった。教会で眠ってしまったのは、私が分別のつく年齢になってから初めてのことだった。今夜は寂しかった。スタンレー教会で過ごす最後の夜なのだ。ジョー・マッケイは私の真正面に座っていた。そして私は、やがて彼女が私の席に座ることを想像せずにはいられなかった。私は彼女を恨んではいない。学校も村も恨んではいないが、私がスタンレーに来てから愛するようになった娘たちや少年たちを恨んでいるのだ。彼女には厳しくしないでほしい。私は彼女たちを厳しく扱ったことはない。半年前にここに来たとき、私はまったく孤独で、惨めで、みじめだった。マグダレンの惨めな事件の直後だった。レスリーとの情事の直後だった。私はS先生を忘れようとしてあそこに行ったんです。ハリーと必死にいちゃつき、私は本気なんだと自分を説得しかけた。自分の話によると、私はハリーの心を壊してしまった。家に帰るやいなや、私はハリーを心から嫌いになりました。ハリーと私は不思議なものです。ハリーが近くにいると、私は彼を半分愛してしまうのです。どんな意地悪もできる人だと思う。ジムはルーのそばにいた。もちろんジムは私の許可を得てそうしている。私には愛するものがない、
スタンレー・スクールの子供たちは、どういうわけか私の心の中に入り込み、そこに留まっている。アイデムとの別れは、私の心の琴線に触れるようだ。私はほとんど幸せだった。昔の不満は落ち着いたように思えた。倦怠だけが残った。そして今、私は去ろうとしている。また開いているように見える。ああモード、私はそれが恐ろしい。忘れられたら。おそらく10年後には、私たち二人とも、上記のようなことで笑っているかもしれない。もしそうなら、私は満足するだろう。
(モンゴメリの従妹フレデリーカ・キャンベルはモンゴメリより8歳ほど年下でしたが、プリンスオブウェールズカレッジを卒業してスタンレーで先生をしていました)

私たち(つまり私たちが議論し、関心を抱いている人々)が(10年後に)どこにいるのか今考えさせてほしい。あなたとおばあちゃんは古い家にいる。貧しいプレスコットは、不健康と多額の借金を抱えている。ガーティ・ベルと結婚して意気揚々としているアーン......。あなたがこれを読むころには、彼女が犠牲者(夫)を捕らえていることを願っている。ステラ、気のいいステラは、どこにいるのだろう? I. ハワット。なんて奇妙な響きだろう。どうしたら納得できるのだろう。ジョージとエラ、新しい男の子は? クララは? どこにいるのかしら。母親(アニー叔母さん)は相変わらず家にいると思う。父(ジョン・キャンベル叔父さん)はどうだろう。10年も経てば大きく変わるかもしれない。父がいなければ私の家はどうなるのだろう? ただ名前だけ残るのか。ローソンおばさんは古き良き魂、彼女は大切な思い出でしかないのだろうか? 私の手紙は実に退屈だ。もっと楽しいことを考えなければ。ユアン・マクドナルド牧師がスコットランドから帰国する。たとえ2週間留守にするよう命じられたとしても、彼に会いに来てくれる人を知っている。たとえ彼女が2週間不在を命じたとしても。彼がそうしないことを願うわモード。なぜ夜だけ、しかも誰もいないときにしか身につけないの?(婚約指輪のことだろうか)
親愛なるマクドナルド夫人、あなたの求婚を覚えていますか? 結婚生活はどうですか? この素敵な邸宅での生活はいかがですか? などなど。年老いたメイドのコズに質問されても気にしませんよね? あなたを射止めユアン・マクドナルドが羨ましかった。私のように一人でいてほしかった。でもケチケチしてごめんなさい。1907年3月22日金曜日の夜、最後に一緒に寝たときと同じなのだから。それにもし彼が休暇を過ごす場所もなかっただろう。親愛なる老女よ、すべてが幸せになることを願っています。ああ、あなたはまだ書いているのかしら? 有名になった本を書いているのだろうか。しかし予測することに何の意味があるのだろう? 過行く時間は出来事を運んでくる。悲しいことはゆっくりと、喜ばしいことは速やかにやってくる。私たちは何度、同じような古いテーマについて話したことだろう。あなたはビデフォードの友人を亡くしてから、"ジョージ・ロリマー" が現れるまでもう誰も愛せないと思っていたことを覚えているかい? あなたのケースは未来への希望が持てるようになったわ。あのねモード。今はどうしたらいいか わからないの。親愛なるジムがいる。不思議なことに、ジムはいつも顔を出して、素っ気ない態度でこう言うんだ。「いつかそれがわかって、自分を恥じることになる」。
「あなたは黙っていて、私のいとこだということを忘れないで」と私は答える。モード、これを読んだらどう思う? モード? 私にはわからない。わかっているのは、ジュンがそして1週間後には、あなたや他のすべての愛すべき人たちと別れてゲルフ大学に行かなければならないということだ。虫や他の興味のないものを研究するためにゲルフに行かなければならないということだ。私がそこにいて、戻ってくることができればいいのだが。今、W夫人のうめき声が聞こえた。かわいそうに。結局のところ、彼女はエブのために旧世界を離れて問題を単純化するのだろう。そういえば。ローラはレイコックと結婚するのだろうか? もしそうなら、私はあの手紙を書いたことを許してもらえるのだろうか? ところでモード、昨日予防接種を受けたんだ。腕が痛くならないといいけど。忘れるところだった。エド・シンプソン、エゴイストのエド。私が10年経ってもあなたを許せないことが一つだけある。 あなたが "エドウィン・シンプソン夫人" である可能性だ。この手紙をブン投げて私の存在を忘れなさい。しかし、いや、それは撤回しよう。
        私たちは共に悲しんだ
        苦い涙を流した
        草の生い茂る墓の前で
        幼き日の希望が
        そこに静かに響く声が
        汝の眉を晴らせと。
        私たちは共に悲しんできた
        ああ、何が私たちを別れさせるのだろう!
 
もう夜も更け、火も弱まってきた。おやすみなさいと言ってベッドに向かわねばならない。でもこれは13ページ目だからここで止まってはいけない(不吉などと言う迷信)。私たちはどこにいるのだろう。これを読む(10年後の)とき私たちはどこにいるのだろう。まさかキャベンディッシュにいるとは思えない。私は親愛なるパーク・コーナーの果樹園の木の下にいたい、そして父も、老いて弱っているかもしれないがまだ私たちと一緒にいたい。母が玄関まで来て、「娘たち、夕食に来なさい。手紙をしまいなさい」と言っているか。ジョージ(ロリマー)は教会から遠く離れてお腹を空かせていることでしょう。最もね。
        優しく触れて、時よ。
        流れに身を任せよう
        私たちがときどき夢見るように
        静かな夢の中を
              愛おしく
                   フレデ  

追伸:今夜の私は確かにおバカだ。庭にいたかった。さて(10年後の)1917年3月24日の雪はかなり深いだろう。だから居間を試してみることにしよう。1917年3月24日に君の部屋を開けるのを忘れてしまうだろう。ただ郵便でお知らせください。
                   F.E.C.


さて、この手紙に書かれた予言のいくつかは的中した。古い家は荒れ果てたが、私はその家が廃墟になったとは思っていない。でもフレデは「ジェームズ・キャンベル夫人」ではなかった。私の手紙を読んだとき、フレデは「ジェームズ・キャンベル夫人」ではなかった。 従兄弟のJimを大切に思い結婚しようとしていた。でも結局手紙を読む時が来たとき(1917年の時)、彼女はちょうどキャメロン・マクファーソン中尉と婚約したところだった。そして彼女のスカートを引っ張る小娘はいなかった。ああフレデ、もし自分の子供さえ残してくれていたら......。 ああ、フレデ! かわいそうな(勝手な)ステラは、1917年にはまだ「アーヴィング・ハウティ夫人」ではなかった。私たちがあの手紙を開いたとき、ジョン・キャンベル叔父さんはまだ生きていた。しかし心は消えていた。そして翌年の12月、身体も消えてしまった。ジョン叔父さんが亡くなり、私とフレデのパーク・コーナーでの生活は一変した。親愛なる大叔母メアリー・ローソンは "大切な思い出" となった。そして私を有名にする本を書いた"ローラ" は "レイコック" と結婚することはなかった。
[ビデフォード」、つまりフレデはベデークのことである。1917年、私はとても幸せだった。心配事は戦争だけだった。チェスターは5歳、スチュアートは2歳だった。私は元気で忙しく陽気だった。私の幸せは終わりに近づいていた。でもそのときは、そんなことを悲観するようなことはなかった。あの手紙を書いたとき私たちはずっと幸せだった。けれどもフレデの人生も私の幸せも運命の終わりに近づいていた。「ジョージ・ロリマー」は、私たちがユアンのことを呼んだり、知らせたりするときに使っていたニックネームだ。 "ジョージ・ロリマー" とは、私たちが手紙の中でユアンに言及するときや、ユアンのニュースを伝えるときに使うニックネームだった。フレデはいつもウェドロックに手紙を見られることを恐れていた。だから私たちは彼にその名前をつけ、私たちが理解できても、他の人には理解できないようにした。フレデは私の手紙を読むと、次のように書いた。


「1917年3月24日開封のラベルが貼られた手紙は、今月1日から私の鏡の片隅に投函されていた。昨日の朝が明けて、私は鏡の前に行った。しかしなぜか手紙を開ける勇気が出なかった。まるで墓を開けるような気分だった。私は朝食を食べに行き、戻って余計なことをして、一人になったのを確認してから手紙を開いた。最後まで読むと2つのことが心に残った。第一に 私たちの年齢が8歳も離れていることは、当時はまったく気づかなかったが(そうだろうか? )非常に明白であったこと。あなたの手紙は今の私には書けるけれど、当時の私には書けないようなものだった。私の手紙は24歳にもかかわらずとても若かった。疲れましたか? 私はあなたの手紙ほど、30歳を過ぎてから自分の考えに忠実なものを読んだことはないと思います。真実であり、慰めであり、優しさであり、悲しさであった。この手紙は私が破棄することを拒むものです。そうするように私に頼まないでください。もうひとつは余分な歳月があなたに賢明な備えをすることを教えたということだ。私が愛を持っていようがいまいが、あるいは孤独であろうがなかろうが、あなたの手紙は励ましと希望に満ちたものだった。私たちの疎遠。神に感謝しよう。少なくとも最悪の事態が起こらなかったことを神に感謝しよう。私たちは年の悲しみを分かち合い、太陽の光のバランスの中で共に喜ぶことができた。
青春の友を最後まで守り通した人はほとんどいない。とても謙虚になりとても感謝する。私たちにはまだお互いがいる。疎遠にはなっていない。これは私をマクドナルド(大学)に送ってくれたあなた自身の親切によるところが大きい。もし私が遠く離れた田舎の学校で、年老いた1人の悪友たちと一緒に苦労していたなら......。狭くて居心地の悪い場所しか残っていなかったとしたら、あなたと旧交を温めることは不可能だっただろう。喧嘩はしなかっただろうが、疎遠になっていたことは間違いない。(有名になった従姉とはまともに付き合えまい)人は見たこともないものについて、感情や考えを共有することはできない。その溝を埋めようと努力すべきであったにもかかわらず......。
今夜、その溝を埋めることができただろうか? この数年間の悲しみや喜びを分かち合わなければその溝を埋めることができただろうか? (モンゴメリの)子供たちの場合を考えてみよう。私は2人とも愛している。しかしパンチ(チェスターのことであろう)は、外見こそ私たちに似ていないものの、私にとっては特別な存在だ。彼が叱られたり罰せられたりすると、たとえそれがどんなにひどいもの(いたずらの結果)であっても、私はいつもある種の理不尽な憤りを感じる。私はいつも彼が私を理解してくれていると感じている。仲間として受け止められている。パーク・コーナーにいるドナルドにも同じ感覚を抱いている。それは単に私が赤ん坊のときに彼らを揺り動かし、そのときに彼らの性格を知ったからだ。彼らが私を嫌いになるとは想像できなかったし、彼らも私を嫌いになるとは想像できなかった。
一時的に怒るかもしれない。私は子供たちみんなを愛している。ダンと私は最初からお互いを知っていたし、これからもずっとそうだろう。ひとつの人は年月を橋渡しすることはできないのだから。私たちの手紙に謝罪の言葉がないことに感謝しよう。
1907年3月の夜、あなたは少し悲しげだった。10年後、私の手紙を一人で読んでいるかもしれない。そのときでさえ、戦争の影は説明のつかない重みを感じていたのだろうか? そう、私は古い家、古い部屋、そしてすべての昔に戻った。私は食べた。台所のテーブルでハムとピクルスとおばあちゃんのおいしいパンを食べた。私は家中の部屋を訪れ、スグリのつるを飲み、スパイのリンゴを食べた。空き部屋に忍び込んで中国の魚を鑑賞した。セーラー服の時計と,
中に大きなクモがいるグラスが欲しかった。おばあちゃんが郵便物を仕分けるのを見た。おばあちゃんについて古い井戸に行き、井戸にバケツが落ちていくのを見た。あるブロンズの七面鳥に見とれた。おじいちゃんが黒い牝馬を駆ってスタンレーへ走り去るのを見た。私は古い日記を読んだり、レースやリネンに見とれたりした。パーク・コーナーに行って、クッキーを平和の供え物にしてくれたステラと喧嘩した。過去の亡霊が次々と現れた。
あなたは、私たちの青春は過ぎ去り、運命は定まるだろうと言った。青春は過ぎ去り 運命は定まったと思う。戦争が私を免れようと免れまいと私の運命は決まった。戦争が私を免れようが免れまいが、私は少なくとも、私が人生に注いだ愛を手に入れなければならない。少なくとも友人や仕事に対する愛情は持っているはずだ。私たちが学ぶのにどれほど時間がかかることか! ジムの名前が涙を誘った。私たちは疎遠になった。彼を戦争から連れ戻してください。
手紙を送ります。読んだら送り返してください。もしあなたが価値があるとお考えなら、読んだらお返しします。何を書いたか忘れてしまったが、でもあれからずいぶん長い道のりを歩んできたものだ。青春とアラジンのランプのような幸せの野生の夢はもうない。今、私たちはお互いに、それぞれ「避難する真の心」を持っている。謙虚に言おう。その代わりとなるような人格と潔癖さを少しは持っているのだ。また手紙を書く勇気があるだろうか?
            昔のように愛情を込めて、
            フレデ

追伸 春になったら、また一緒にこの手紙を読みましょう。
        真の女性の友情のために、閣下、
        これまでも、そしてこれからも
        カルバリの十字架で女が女の側に立って以来
        カルバリの十字架で
        私たちが流す涙と守る信頼のために
        そして同じ祈りを祈る
        主よ、真の女性の友情のために、
        主よ、今日、あなたに感謝を捧げます。


ああ、神様。彼女があの手紙を書いたとき、フレデはあと2年しか生きられなかった。彼女がパンチについて書いたことは私の胸を締め付ける。私たちはチェスターを "パンチ" と呼んでいた。最初の10年間は "パンチ" と呼んでいた。フレデは彼をとても愛していた。私はドナルド・キャンベル(フレデの甥)は、数年間手を焼いた後落ち着いたようだ。ドナルド・キャンベルは落ち着いたようでいい奥さんもいる。でもかわいそうなチェスター! 私のせいか? 私のせい? できるだけ賢くしつけようとしたんだ。スチュアートも同じ訓練を受けた、まともな子だと思う。息子たちが生まれてから、私がひざまずかずにはいられなかった夜はなかった。彼らが善良で幸せな男に育つよう、ひざまずいて祈らなかった夜はなかった。私は決して名声や大きな富を求めたことはない。しかし、私は彼らが善良で と祈った。そしてこれが私の答えだ! まあ、私は世界で最初に心に傷を負った母親ではないし、これからも最後にはならないだろう。 しかしそれでも苦しみは癒えない。
私たちはもう10年分の手紙は「あえて」出さない。私は勇気が出ず、そう言った。まあいい。一人で読まなければならなかっただろうし、耐えられなかっただろう。ああフリーデ、フリーデ、私たちの長年の友情は、その断絶が私の人生に残した痛みに値するものだったのだろうかと思うことがある。ちょうど今、いつも苦痛の中にいるときは、そう考えることはできない。でも一度考えたことがある。それは不可能に思えるけれど。
少なくとも墓場には平安がある。そしていつの日か私の苦しみは終わるだろう。いつか苦しさと幻滅と絶望に目覚めることなく、眠れる日が来るだろう。神よ長くはありませんように。ああ、フレデ、フレデ、フレデ。あなたが私のもとを去ってからもう18年以上になる。そして今夜は、まるであなたが死んでしまったかのようです。

1937年4月7日(水曜日)
「旅の終わり」
退屈な2日間の後、私は今夜スクリーンに「スコットランドのメアリー」を観に行った。素晴らしいページェントだった。しかし私はそれを楽しんだ。「ボスウェル」はロマンティックで、「メアリー」はすべての美徳の化身だった。しかし彼女は女王ではなかった。単なるハリウッドスターであり、スクリーンに映し出された。エリザベスの方がずっと良かった。エリザベスだと感じる瞬間があったほどだ。歴史には指先までゾクゾクするような名前がある。マリアとエリザベスもその一人だ。二人ともその人なりに最高に「魅力的」である。どちらも謎めいている。前にも言ったと思うが、私はエリザベスに同情している。メアリーのような魅力はなかったが、彼女はとても勇敢に戦った。そして勝利者であった。メアリーは決してそんなことはしなかった。エリザベス以上に優れた女性はロンドン・イングランドを統治し、スペインに立ち向かうことはできなかった。両者の間では彼女を押しつぶしただろう。エリザベスの国民は彼女を愛していた。メアリーの国民は彼女を嫌っていた。もし二人が出会っていたらお互いに何と言い合っただろう。

1937年4月11日(月曜日)
毎日が退屈でイベントもない。昨夜は珍しくぐっすり眠れた。午前に3時間ほど鋤の仕事をしたのだが、でも目が痛い。6時になるととても緊張して、ちょっと散歩に出なければならなかった。ラッキーが恋しい。今晩、エヴァ・ウィンフィールドと友人の訪問があった。テーブルを囲んでおしゃべりした。

1937年4月13日(水曜日)
眠れなかったが、まずまずの1日だった。目は夜まで大丈夫だった。新しい眼鏡をかけたにもかかわらずだ。運を逃したユアンは今とても元気そうだ。

1937年4月16日(金曜日)
マリオンが扁桃腺を摘出するために入院している。今日会いに行く予定だったんだ。それで 助かるといいな。彼女は何年も頭痛で苦しんできた。扁桃腺はとっくの昔に摘出されているはずなんだけど、じつは扁桃腺を摘出するのを恐れていたんだ。ここ数日、少し気分が良くなった。でもいくつかのことはとても難しい。

1937年4月18日(日曜日)
今日の午後、ユアンと私はマリオンを家に送った。バラクロー夫人と夕食を共にした。彼女は少し明るくなったようだ。マリオンがいたので、かなり明るい訪問となった。しかしあの家の魂はもうない。私は行くたびにミスター・バラクラが恋しくなる。


その頃、一匹の黒猫が私たちを迎えてくれた。彼女はある日我が家にやってきて餌と隠れ家を求めた。どうやらペットだったようで、ジューンは猫が好きだった。このかわいそうな生き物が子猫を産みそうなのを見て、私は彼女をここに住まわせた。しかし私は、ティアにはまったく興味も好意も抱かなかった。彼女はラックと同じ種族には見えなかった。ラックは撫でられるのが大好きで、隙あらば私の膝に飛び乗った。私は彼女がそこにいることに耐えられなかった! 黒猫が家に来ると幸運が訪れるという話を聞いたことがある! しかし彼女はそうではなかった。黒猫が来てからというもの次から次へと不幸が続いた。可哀想な黒猫を責めるつもりはないが、彼女が私たちに幸運をもたらすことはなかったのは確かだ。

1937年4月20日(火曜日)
「旅の終わり」
今日の夕方、レーン夫人とマコウブリー夫人とウィンダミア教会に行った。ロシアについてのとても退屈な話を聞いた。私は眼鏡をかけていない。眼鏡屋で眼鏡を交換してもらっているので私は今眼鏡がない。眼鏡がないと途方に暮れる。遠くのものがぼやけて見えた。メガネを取り戻すのが楽しみだ。でもメガネをかけなくてもよくなったら、どんなにいいだろう!
今夜、ソリティアをしていたら、黒猫が膝の上に飛び乗ってきた。私は目を閉じて、彼女が運ちゃんだと想像してみた。それは不可能だった。そして私は耐えられなかった。彼女を突き飛ばした。

1937年4月21日(水曜日)
昨夜は猛烈な風が吹き荒れ、今日は風雨が激しかった。松の木があんなに悶えたのは見たことがない。吹き飛ばされるのではないかと心配になった。たそがれ時、私は運のことで苦悩した。彼のいない生活に慣れることができない。黒猫 "トプシー" の存在が私の喪失感を増大させているようだ。今夜はレーン先生と奥さんが来てくれた。いい人たちだ。

1937年4月23日(金曜日)
今日、男たちが私のロック・ガーデンで働いてくれた。私は別のテラスを作ってもらう、花の咲く低木を植えて石段で降りる。できれば斜面全体を石で囲いたい。でも高すぎる。毎年春に少しやるだけで満足しなければならない。
今夜は1時まで孤独な警戒を強いられた。その心配にはもちろん特別な理由があった。しかしそれについてあれこれ考えても仕方がない。そして私には水を分けてくれるラッキーもいなかった。彼はよく、私のそばを行ったり来たりしてくれた。忠実な愛情深い目で私を見つめていた。愛すべき小さな猫たち、どうしてあと数年も一緒にいられなかったのだろう? スチュアートの学期はもうすぐ終わる。こんなつらい1年はもう二度とごめんだと。医学部の3年目というのは最も大変な時期だと思う。3年目は面白みのない退屈な仕事ばかりだ。スチュアートは今年、とにかくよく勉強した。あまりにハードすぎて心配だ。彼はとても痩せていて疲れているように見える。

1937年4月26日(月曜日)
E(ユアン)の絶え間ない咳に邪魔されながら散々な夜を過ごした。咳がひどいのだ。一種の気管支炎のようで何をやってもよくならない。
今朝からまた創作の仕事を始め、イングルサイドのアンの鋤仕事を3時間やった(構想しただろう)。今晩はまた神経が高ぶって閉所恐怖症の軽い発作に襲われた。外に出なければならなかった。だから散歩に出かけた。夜と私はまた二人きりになった。昔はよくあったことだが、今はめったにないことだ。真夜中の冷たい冷気に私の精神は休息を飲んだ。帰ってきたとき、私はごく普通の気分だった。

1937年4月27日(火曜日)
今日は自分へのご褒美として詩を書いた。詩を書くのは本当に久しぶりだ。私は家の悲しい「空き部屋」を思い浮かべた。
         「田舎の空き部屋
        今夜の客人である友人
        月光が枕を白くする、
        低い風が歌う
        遥かなる秘密の数々を
        輝く泉が隠れる青い丘、
        忍び寄る潮を愛する薄暗い海岸。
        そして露の涼しい香りが  
        そして、露の涼しげな香りが、あなたを慰めてくれますように。
        まだ葉っぱの噂がある
        開いた窓辺で
        静寂の中で  
        灰色のフクロウが親愛なる人に呼びかける
        あるいは、あなたが火花を散らしたところから
        暗闇の中でホタルを捕まえるかもしれない、
        そしてあなたは確信を持って学ぶだろう
        ベッドがどんなに良い友であるかを。
そう、ベッドはあなたが眠れるときには良き友である。しかし目を覚ましているときは敵のように思える。さて、"すべての生命は最後に眠る"。
チェスターの試験が近づいているのが心配だ。彼が試験に自信がないのは知っている。もし落ちたら、それは彼自身の責任だ。
この冬は夜、走り回って自分を楽しませることしかしなかった。それが最悪の事態だとしたら...! ユアンの咳は相変わらずひどい。こんなにしつこくて粘性のある咳は初めてだ(ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ)。私たち二人の眠りを妨げる。今夜は頭が痛い。

1937年5月2日(日曜日)
悲惨な夜だった。ユアンがひどい咳をした。窒息するかと思った。どの医者も彼を助けることはできないようだ。彼は精神的な発作が起きると、いつもひどい咳をするのだが、今回は違うようだ。精神的にはかなり回復しているようだ。

1937年5月3日(月曜日)
今日からスチュアートの試験は解剖学から始まった。スチュアートが解剖学を恐れていることは知っていた。彼は口笛を吹きながら帰ってきて大丈夫だと言った。でも私は今夜はチェスターのことが心配だった。いくつかのことは正しいとは言い難い。

1937年5月4日(火曜日)
今日、ウィル・ヒューストン(結婚前の一時期にモンゴメリが盛んに寄っていた家)が亡くなったと聞いた。私の人生の親密な一部だった。この26年間、彼は私の人生にまったく関与してこなかった。しかしその知らせは遠い過去がひとときよみがえったような気がして胸が痛んだ。北ラスティコのあの小さな家が、ティリーによって居心地のいい家に生まれ変わった。ティリーに再会してウィルが台無しにする前の、あの家での幸せな時間が蘇った。そして私たちは幸せな時間を過ごした。小さなダイニングルームでテーブルを囲み、ティリーのおいしいものを食べて、笑って、話して、冗談を言った。その光景が目に焼き付いている! 親愛なるティリー。ウィルは彼女を26年間悩ませた。彼は84歳だった。アイ・ディ・ミー!

「ラスティコの小さな家」

1937年5月5日(水曜日)
『周囲の宇宙』を読んでいる。ちょっと怖かった。かつてのように天文学に熱中することができない。ジーンズの理論や結論のいくつかはとても恐ろしい。いやいや、サー・ジェームス、私はあなたのような数学的な宇宙には住めない。
まあ、おそらく50年後の天文学者は、ジェームズ・ジーンズの理論と結論をすべてひっくり返し破壊しているだろう。ジェームス・ジーンズが50年前の理論をひっくり返し破壊したように。真実が知られる日は来るのだろうか?

1937年5月7日 金曜日 7日間、炭酸飲料で風邪と闘ってきた。しかし今夜は作家協会の年次晩餐会に行き楽しい時間を過ごした。昨夜は遅くまで眠れなかったので、「柳に風」を再読した。世界で最も魅力的なおとぎ話だ。もう何十回も読んだ。何度でも読める。

1937年5月10日(月曜日)
トロント、リバーサイド・ドライブ210A
坐骨神経痛で二晩寝込んだ。毎年恒例の試験の心配が始まった。スチュアートは今日、細菌学の最初の試験を受けた。
小さな黒猫が私の膝の上にいる。彼女が気に入ったからだ。なぜなら彼女はこの世界で猫を飼わせるためにベストを尽くしているからだ。切羽詰まったときに私のところに来たからだ。ラッキーでさえあれば!

1937年5月11日(火曜日)
昨夜はぐっすり眠れた。記録しておくべきだ。スチュアートは今日、生理学の授業だった。論文はとても難しかった。小テストはうまくいった。しかし彼は神経学です。私は心配だ。今夜は頭が変な感じで重い。

1937年5月12日(水曜日)
昨夜、自宅(キャベンディッシュ)の古い台所にいて、西側の窓から外を眺めている夢を見た。その西側の窓から外の果樹園とトウヒの木立を見た。刈り取られきれいになっている。叶えばいいのに。
この日はジョージ国王の戴冠式の日で休日だった。オールド・ミルで夕食をとった。しかしユアンは冴えない性格だった。夜はロックガーデンに植物を植えて過ごした。私は庭に小さな喜びを感じずにはいられない。この憂鬱な春でさえ。ウィンザー公爵エドワード(王位を降りてアメリカ人と結婚した)は、今夜どんな気持ちだろう。後悔しているのだろうか? それともラ・シンプソンの魔法はまだ効いているのだろうか?

5月13日(木曜日)
「旅の終わり」
緊張のあまり4時まで眠れなかった。でもその日はノラと一日過ごした。もっと会いたいけど、彼女は遠くに住んでいる。明日からチェスターの試験が始まる。とても心配だ。チェスターは試験には自信がない。どうしてそうなるんだ?  この冬、エレは思うように勉強しなかった。夕方になると走り回って楽しんでいただけなんだ。どんな会社で?

1937年5月14日(金曜日)
よく眠れた。チェスターは今日、契約書の試験がある。スチュアートは自分の試験はうまくいったと思っている。今夜、ユアンと私は「ファイヤー・オーバー・イングランド」を見に行った。最初は心配で楽しめなかった。しかし次第に心を掴まれ心配はなくなった。『エリザベス』はとても素晴らしかった。本当に女優だ。エリザベスをハーリーウッドの人形が演じようとしていたら、私は悲鳴をあげただろう。
チェスターはクリスマスに食事をした。そうしたらチェスターは今学期2回以上落第したらどうしよう? そんなことが頭をよぎる。

1937年5月15日(土曜日)
スチュアートは今朝、神経学の検査を受けて帰ってきた。まあね、少々屈辱的ではあるが、一年棒に振ることはないだろう。不合格でも彼の責任ではない。今晩、私は奇妙な寒気の呪文を唱えた。そしてたくさんの仲間がいた。ユアンの姪イヴリン・マクドナルド(マクドナルド家と結婚したユアンの姉ケイトの娘)。ケイトはマクドナルドと結婚してモンタナに住んでいる。友人2人が来ていた。彼らはクリーブランドに住んでいて(彼女の夫はオマン医師)、とてもいい人たちだった。それでよかったのだが、ミルトン・シンプソンも来ていた。ミルトン・シンプソンは 夏期講習の講師になるためにトロントを通過する途中だった。彼はあの子たちに負けず劣らず無限のおしゃべりだ。でもミルトンにはいつも好感が持てた。私が元気だったら、彼に会うのを楽しんでいただろう。もうみんな行ってしまったが、私はまだ寒気がする。神経が過敏になっているせいだろう。緊張しすぎたせいだろう。

1937年5月17日(月曜日)
土曜の夜はぐっすり眠れたので昨日は大丈夫だった。でも今日は心配の連続だった。C(チェスター)は午後にプロパティの試験があった(司法試験であろう)。帰宅したとき彼はすべてうまくいったと思った。あと1つさえ間違えなければ! 彼が合格することがとても重要なのだ。スマートは1週間前から試験を受けている。と聞いてきた!。彼は自分の症状のことしか考えないし話さない。毎日新しい症状が出てくる。苦々しく書いているが、苦々しく感じている!

1937年5月18日(火曜日)
今日は試験がなかったので、2日間の休養の間に1日だけ至福の時を過ごした。鋤仕事を2時間やり庭の種を注文した。今晩は目が痛かった。新しい眼鏡は期待したほど役に立っていない。表現できないほど明日が怖い。

1937年5月19日(水曜日)
1日はよく眠れたが、ユアンの咳で早く目が覚めてしまった。彼はいつも4時頃になるとひどい咳をするのだ。冷たい風の吹く一日だった。チェスターの試験のことを一日中心配していた。5時に電話がかかってきてもう大丈夫だと思うと言った。何とも言えない安堵感だった。この試験に受かれば、彼の一年は救われる、明日の試験の結果がどうであれ。

1937年5月20日(木曜に)
今朝、アイビーとシャクヤクを植えた。人生にはまだ少し甘さが残っている。庭がある限り。そして石の中の「猫と子猫」の渦巻きは、とても狡猾だ。「子猫の一匹や二匹」を摘み取り、自分の隙間に放してやるのも一興だ。自分たちの隙間に入り込むのだ。
チェスターは今日、エクイティの最終試験を受けた。そしてその結果が出るまで数週間のサスペンスが待っている。

1937年5月21日(金曜日)
旅の終わり
今日の午後、チェスターと私はノーヴァルに出かけた。マリオンに会ってから少しマクファーソン家に行った。また松の丘を見て、離れるのが辛くなった。家にやって来た黒猫が4匹の子猫を産んでくれた。どれもかわいくない。一匹は黒、もう一匹は白、他は黒と白。生まれたばかりの子猫を見るのは何年ぶりだろう。生後1日のラッキーはどんなだっただろう。泣いていた。まあその頃でも美しかっただろう。
ユアンは、頭痛などでまたひどく冴えない。こういう発作は不思議だ。発作が起きては治まり、起きては治まる。以前のようなことはない。でも彼が悪い発作を起こすのではないかという不安は、決して拭い去ることができない。彼の病気についてはいつも予測がつかない。

1937年5月23日(日指)
私は3時に目が覚め、もう眠れなかった。体中の神経がピリピリしていた。体中がヒリヒリしてとても恐ろしかった。この2日間、ユアンはとても調子が悪い。バラクロー氏が亡くなって以来、最悪の発作だ。

1937年5月24日(月曜日)
ユアンは今日少し良くなったようだ。私は1時まで眠れなかったが、その後はかなり眠れた。 ユアンがチェスターの部屋で起きていたので、チェスターは留守だった。今日ジェーンオブランタンヒルの校正が来た。そのうちのひとつはとても魅力的で、私はジェーンを恋しく思った。そのデザインはとても魅力的で、私も緑の丘に座って、大きな浮かぶ満月を眺めた夕方を思い出して、ひどくホームシックになった。満月が大きな真珠のように目の前の世界に浮かんでいた。もう二度と(見られないであろうか)。私は一日中校正を読んだ。夜は庭仕事をした。ラックが恋しくてたまらない。彼がいなくて寂しい。でも今晩は久しぶりに身体の調子がよかった。長い間体調が悪かったが。頭が痛くなることもなかった。

1937年5月25日(火曜日)
「ジャーニーズ・エンド」、リバーサイド・ドライブ210A、トーア
私はよく眠れたしユアンも眠れた。調子がいいと訴えた。この症状は久しぶりだ。それを聞いたとき私の心は鉛のように沈んだ。ああ、きっと、きっと。もう1934年の苦しみを味わうことはないのだ。神よ少しは憐れみを。一日中校正を読み校了した。頭も目も5時からとても変だった。緊張のせいだと思うが、不快であることに変わりはない。夕食のとき、じっと座って普通に話すことができなかった、

1937年5月26日(水曜日)
神経不安のひどい夜を過ごした。1時まで眠れず、5時にまた目が覚めた。しかしユアンは、おそらくレーン医師からもらった鎮静剤のおかげだろう、よく眠っている。一日中、昨日より気分が良かった。カメラ店のウィンドウにあった子猫の拡大スナップを見た。どこで撮られたものなのか調べてみたが誰も知らなかった。昔、何かのコンペに応募されたものだった。私は愚かだった。もう二度とラックは手に入らないだろう。できるものならもし見つかるとしたら? 他の猫に "涙を与える" ほど愚かだろうか? キップリングは自分の言っていることを知っていた。

1937年5月27日(木曜日)
昨夜はよく眠れたし、一日中気分が良かった。苦い味が口の中にあった。私は 夜はプレス・クラブの夕食会に行った。ディナーに行った。

1937年5月28日(金曜日)
薬を飲むまで眠れなかった。今日は図書室の掃除をした。 一日中とても苦い味がして、頭に「きつい」バンドを巻いていた。今日、健康診断の結果が出た。スチュアートは年俸は上がったが、神経学はSup。彼は予想はしていたが、期待に反して期待してしまったのだろう。もちろん半分の生徒が(苦い)スープを飲んだ。しかしいずれにせよ勉強しなかったからではない。
ストークス氏から手紙をもらった。"もうひとつのブルー・キャッスル" (大人の女性の話)を書いてほしいとのことだった。そうだね。サスペンスと恐怖で緊張している今は何も書けない。でも、『イングルサイドのアン』を書く準備はしている。

1937年5月29日(土曜日)
4時間半しか眠れず、夕方まで惨めな一日だった。薬局まで散歩に行った。外は素晴らしい夜だった。灌木が咲き乱れ、頭上には星が織りなす魔術があった。私は癒されたが、寂しかった。孤独だ。仲間は必要だが、私にはそれがない。孤独よりも悪いことがある。孤独よりも。

1937年5月30日(日曜日)
ぐっすり眠れて、久しぶりに一日中気分が良かった。でもユアンは 調子が悪い。いろんな薬を飲むのはやめてほしい。彼の枕元はまるで薬屋の棚のようだ。何の役にも立たない。いろんな医者に診てもらっても、みんな違うヤマイモを言うんだ。誰も彼のどこが悪いのか見当もつかないようだ。

1937年6月1日(火曜日)
何か恐ろしいことが起こりそうだ。昨夜、恐ろしい夢を見た。書ききれないほど恐ろしい。それはチェスターが試験に合格できないことを意味しているに違いない。でも、それよりももっと悪いことが起こるような気がする。それは今までの人生で見たことのないようなひどい夢だった。もうこれ以上の打撃や心配には耐えられない。もう我慢の限界だ。このままでは壊れてしまう。

1937年6月3日(木曜日)
今日はひどい一日だった。鋤の仕事を3時間やったが、とてもきつかった。口の中の味も最悪だ。一日中ドライ・トーストを食べて過ごしたが、午後の遅い時間に頭痛に襲われた。アスピリンを飲んだら夕方には良くなった。庭でちょっとした楽しみを見つけた。ナスタチウムが毎日咲いている。グラジオラスの緑の葉も見え始めた。しかし私は恐れている。ここではグラジオラスを育てることはできない。土が砂質で軽すぎるのだ。そのためリースクデールやノーヴァルでグラジオラスを刈り取り、大きなバスケットに植えたことを思い出すと、少し悲しくなる。もう二度と手に入らないのだから。でも、それはしかし比較的小さなことだ。しかし、諦めていた庭に何かがひょっこり顔を出しているのを見つけると、昔の喜びのようなちょっとしたスリルを感じる。本当に楽しいことは何もない。チェスターが夕食に帰ってこなかった。失敗したのかと心配した。今の私の天国観は「恐れのない人生」だ。王位を捨てた「ウィンザー公爵」と「シンプソン夫人」が今日結婚した。どうだろう? 彼の報酬は、この結婚が失われた帝国と国民の愛に対する十分な補償である。もしそうなら彼はいつまでそう思い続けるのだろうか?

1937年6月4日(金曜日)
味覚と神経が一日中悪かった。何かを口にするたびに苦い味がする。精神的、霊的なものすべてを毒する魂の苦味が、肉体的に残っているのだろうか。今夜はアン・シャーリー主演の『Make Way For a Lady』を観に行った。彼女はとても良かった。しかし、『アン・シャーリー』として初めて彼女を見た私にとって、彼女はアン・シャーリーのままだった。アンが役を演じているようにしか見えなかった。不思議だ。

1937年6月5日(土曜日)
「旅の終わり」
ユアンの咳に悩まされていた。咳はますますひどくなっている。今日、口の中の味がひどくなったのでレーン先生に診てもらった。彼はこう言った。肝臓が原因だと思うとのことで、処方箋をもらった。効くといいんだけど。この10日間、食べ物を口にすることができなかった。すべてがヨモギのような味がした。

1937年6月6日(日曜日)
ユアンの咳のせいで不穏な夜だった。でも今日はいい天気だった。午前中は教会に行き、午後はロック・ガーデンの下の新しいテラスで本を読んだ。頭上には松の木、周囲にはエメラルド色のオークのカーテンに囲まれている。人生の妖精のような黄金色が枯れ葉に変わる前に住んでいた世界に戻ったと想像することができた。頭上には飛行機が飛んでいた。
午後は快適だったが夕方は最悪だった。ユアンはベッドに仰向けに寝ていた。自分自身と自分の症状について、自分では慣れているつもりだった。今夜は耐えられないほどイライラした。どうやら彼は心気症になったようだ。しかしこれは悪いことではあるが、彼が以前から抱いていた「失われた魂」と「地獄の炎」恐怖症に比べればたいしたことはない。それ以外のことは我慢できる。それにもうひとつ書けない苦い悩みがある。

1937年6月7日(月曜日)
ユアンの咳で私たち二人とも眠れない。睡眠不足は彼にとって深刻なことだ。神経にも影響が出始めている。レーン博士の薬はすでに役に立っている。苦味はかなり軽減された。しかし私はとても落ち込んでいる。私はあの忌まわしい夢に悩まされ、その一撃が下るのを毎日待っている。そして幸運を逃し続けている。親愛なる小さな理解者である同志がいれば、何もかもが耐えやすくなるのだが......。 愛すべき小さな共感的理解者である同志がいれば。ブルッヘはもう私のもとには来ないだろう。 あのうっとりとした鳴き声と、私の顔にこすりつけるような頭で。私はひとりだ。

1937年6月8日(火曜日)
1日はよく眠れたが、今日はあまりバターの味はしなかった。今朝、スチュアートとマーガレットはチェスターと街に行った。2人が車で去っていくのを見送りながら、私はこう思った。"なんて幸せそうなんだろう" まあ彼らが知っていようがいまいが、人生で最も幸せな時期なのだ。チェスターは今夜ほとんど夕食を食べなかった。試験についての知らせがないかと、私は惨めに心配していた。この不安は日に日に耐えがたくなっていく。ユアンは最近少し明るくなったようだが、咳はますますひどくなっているようだ。

1937年6月9日(水曜日)
今日はよく眠れたし、午後は3時間ほど鋤仕事をした。午後、ブロア・ストリートまで買い物に出かけた。しかしずっと気分が悪かった。目の痛み。いったいどうしたんだろう? サスペンスや心配事に苛まれる「神経」のせいだろうか? 神経が苛まれているのだろうか? それとも本当に器質的なものなのだろうか。
今夜キップリングの "世界で一番素晴らしい物語" を再読した。彼は知っていた。彼は知っている私たちの一人だった。どうして知っているのか説明することはできない。ただそうなのだ。以前にも書いたことがある。ヘルナンズ夫人の『プロヴァンスの古い海岸』についての台詞を思い出すと、不思議な感覚が私を襲ってくる。"岸辺"。私はあの海岸を愛し、あの礼拝堂でひざまずいた。そしてナイル川の "メンフィスの岸辺を過ぎ去るうめき声" を聞いたこともある。ああ神よ! なんというこの一節を繰り返すとき、深い郷愁がこみ上げてくる!
 ウィッティアも知っていた。
     忘れられた人生のスカートが
     忘れ去られた人生のスカートが
そしてテニスンはそのことを語り、ワーズワースは "不死の予感" の中で、聾唖者にそのことを語っている。

1937年6月10日(木曜日)
ユアンの咳がひどくて一度起きてから、私は4度寝をした。今日は天気が良かった、天気に関しては。
私の友人でトロントの教師であるバスカヴィル女史が昼食に来た。午後はハイパークで鳥の観察をした。しばし心配事を忘れて楽しんだ。家に帰るととても疲れていた。いい疲れだった。苦い味は消えた。でも心配なのはユアンが心配だ。蕁麻疹でひどい状態なのに、どんな薬も効かないし、一時的にでも楽にならない。

1937年6月11日(金指)
よく眠れたが、いつものように早く目が覚めすぎた。ユアンは咳をあまりしなかった。昨夜はそれほど咳をしていなかった。そして今日、マリオンから苦い知らせの手紙が入っていた。小さなパットを専門医のところに連れて行ったところ、「この子はこれ以上悪くはならない、いずれは歩けるようになるだろうし、少しは話せるようになるだろう」。マリオンはそうは言っていないし、おそらくそうではなかったのだろう。彼女(パットは)はいわゆるモンゴロイドだと思う(ダウン症か)。かわいそうなマリオンは傷心している。どうして、どうして、どうして? マリオンはとても優しいいい子なのに。子供が大好きで3人も欲しがった。なのにこんな恐ろしいことが彼女を出産から遠ざけた。これ以上悪いことはない。
彼女とマレーが、子供を持つかどうかの問題で永遠に別れるところだったなんて。そしてこれだ! これ以上証明する必要はないだろうが私は呪われているのだ。私が愛し、愛されている人は、誰ひとりとして幸運でも幸福でもなかった。誰かを助けるために何をしようとも、たとえそれが最善で純粋な動機からであったとしても。その結果、呪われてしまった。私はこのことを何度も見せつけられた。数年前、私はマリオンをノーヴァルに連れて行った。彼女が疲れていて、頭痛に苦しんでいたからだ。でも彼女はマレー・ベアードに会った。彼に会わない方が良かった。その後マートルは私に、マリオンに幸せのチャンスを与えてあげて欲しいと頼んだの。幸せのために 私は断れなかったわ。でもそんなことをしても(仲介などしても)いいことなんてないってわかってたはずなんだ。「邪悪な目」を持つ人々に関する古い迷信は、現代人が言うほど信じられないことではない(あり得ないことではない)。磁石が鋼鉄を引き寄せるように、私もその一人だ。(不幸をを引き寄せてしまう)
私は病的なのだろうか? そうかもしれない。しかし、私の人生を振り返ってみると、私が愛したすべての場所、すべての原因、すべての人 運が悪かった。すべてが一致するわけがない。かわいそうなマリオン。パットが亡くなる前、彼女はとても幸せだった。私たちは皆赤ちゃんが生きて強く育つようにと祈ったわ! 私たちはこんな嘲笑に値するのだろうか? それとも、前世の罪を償うため?

1937年6月12日(土曜日)
昨夜、ベッドに入ったときからしばらくは、とても惨めな気分だった。そして私は一度に最も天国のような静けさとくつろぎを感じた。言葉では言い表せない。以前はいつも感じていたことなのだが、今は不思議と変わってきている。一晩中ぐっすり眠り、目覚めも同じだった。長い間、最高の一日だった。
しかし今晩、ユアンが些細なことで騒ぎ出した。彼はまた 「明日、バラクラ夫人と行く予定だった」グレンに行くのは無理だと言い出したのだ。彼は1919年以来、このような発作を何度も起こしてきたが、今日、私にこう断言した。 「そのような気分になった覚えはない」と断言した。 不思議だ!
彼は食事の時間がとても不機嫌で、他のどの時間よりもそうだ。昔、息子たちが私たちと一緒に食卓を囲むようになったとき、私はこう決心した。食事の時間はいつも楽しく過ごそうと決めていた。そして1919年まで私たちはそうしてきた。そしてそれ以後もずっと。食卓でよくゲームをしたことを覚えている。「聖職者の猫」がお気に入りだった。このゲームはチリ・レンにとって、かなり教育的価値のあるゲームだと思っていた。形容詞が無制限に使えるようになるからだ。しかし楽しい食事の時間を過ごそうとはしなくなった。私はユアンが険悪にならずにユアンが少年たちのひとりと険悪な口論をすることなく食事が終わるのはありがたいことだ。しかしユアンは、どんなことでも自分の意見と違う人にはひどく腹を立てるようだ。このような攻撃を受けると、ユアンはどんなことでも自分の意見と違う人を最も激しく恨むようだ。

1937年6月13日(日曜日)
今朝はユアンの精神状態も落ち着いたようで、私たちは結局グレンに行った。田舎は今、とてもいい感じだ。
クルマを運転するときはいつもそうする。このような発作のときに彼に欠けている "運命の支配者" としての感覚が得られるからだろう。楽しいドライブだった。一日中Jにいるような気分だったし、訪問の楽しみもあった、恐ろしいほどのしつこい変化にもかかわらず。ミスター・Bが亡くなって以来、ミセス・バラクローはテーブルの前に座ってお茶を注ぐということができなかった。今日、彼女は私に頼んだ。私はそれをした。しかし、まったく場違いな場所にいるような奇妙な感覚を覚えた。
私たちが帰宅したとき、息子たちは出かけていて運はいなかった。チェスターは12時半まで帰ってこなかった。とても醜い疑惑が私の心に頭をもたげている。しかし真相はわからない。私は何もできない。彼は最近とても不機嫌そうだ。最近ね。

1937年6月14日(月曜日)
リバーサイド・ドライブ210A
昨夜は2時まで眠れず、今日は雨と霧に覆われた。でも一日中気分は良かった。『イングルサイドのアン』のペード作業をかなりこなした。今夜は頭の奥が締め付けられるような、不安で不快な感じがした。ユアンは今日はまったく起きようとせず、一日中ベッドで過ごした。法学部の試験の知らせはまだない。毎晩、私は "もうこんなサスペンスには耐えられない" と思っている。でも人は耐えられるし、耐えている。

1937年6月15日(火曜日)
昨夜は素晴らしい眠りだった。これは私にとって驚異的なことだ。今日はルエラとプッシーとキャメロンがやってきた。キャメロンは完璧なダーリンだ。でもルエラは一日中チェスターの名前を出さなかった。私も何も聞かなかった。どうしたの? 何かあるのよ。事態を悪化させるのが怖くて何も聞けない。チェスターは夕食に帰ってこなかったし、10時になってもまだ家にいない。私は彼が失敗したことを聞いていないかと、うんざりするような不安でいっぱいだ。私は夕食を食べることができなかった。夜はずっと頭が痛かった。9時手紙を投函するために郵便受けまで歩いていった。このような心配のない人生とはどんなものだろう。

12時過ぎチェスターが帰ってきた! 彼は4教科で失敗した。そのうち2科目はいい論文を書いたと思っていた。まあそれは彼自身のせいだ。冬の間勉強もせず、遊びほうけていた。私は絶望を感じている。彼をどうにかしようとしても、少しも無駄だと思う。彼は生まれつき怠け者で野心がまったくない、これが醜い真実であり、最後に向き合わなければならない。かつて工学部の3年生だったチェスターが家に帰されたとき、私はこう言うべきだった、「もう終わりだ。今すぐ出て行って、できる限りのことをして自分で生計を立てなさい」と言うべきだった。しかし私にはそれができなかった。代わりに「もう一度だけチャンスをあげる」と言った。そして、これが彼の運命だった。あの夢以来、私は彼が失敗したことを知っていた。そしてこれは恐ろしいことだが、それは私には、あの恐ろしい夢を正当化するほど悪いことだとは思えない。いや、もっと悪いことが起こりそうだ。

1937年6月16日(水曜日)
トーア、リバーサイド・ドライブ210A
悲惨な夜を過ごし、とうとう薬を飲まなければならなくなった。今朝ユアンに伝えなければならなかった。でも、彼はあまり心配していないようだった。彼は自分の症状のことで頭がいっぱいで他のことには関心がない。今日は苦い一日だった。何もかもが耐えられないほど痛く、書くこともできず、このままではいけないと思った。もう何年も何もしていない。

1937年6月17日(木曜日)
一日中雨が降り続き、私の心は鉛のようだった。それでも私は本を書き続けた。なんとか頑張った。この新たな苦悩はもう1年続くだろう。かじるように痛むだろう。それはすべてを蝕むだろうが、私はそれを克服した。その夜はずっと一人で、とても寂しかった。

1937年6月18日(金曜日)
今日も土砂降りの暗い一日だった。私はよく眠れた。5時にユアンがひどい咳をした。アンの鋤仕事を4時間やったが一日中妙に憂鬱だった。一日中、妙に憂鬱な気分だった。今夜はレーン先生に会ってユアンについて話をした。心筋が弱っていて、それが咳の原因だという。そしてそれを除けば、ユアンはこの歳にしてはかなり元気だと言う。

1937年6月19日(土曜日)
4時、ユアンはひどい咳をした。本当に窒息死するのではないかと心配した。私は一日中とても忙しかったのだが、夕方、歩いて角の薬局に行った。薬局の角を歩いた。素敵な夜だった。いつもの魔法があちこちでかかっている。どこの庭にもバラが咲いている。散歩は私を助けてくれた。しかしユアンが古いブロマイドを処方してもらい、レーン先生の鎮静剤と一緒に服用していることを知り、ひどく心配になった。彼に何を言っても無駄だ。こういう発作が起きたときの彼の頑固さは信じられない。今夜も頭の調子が悪く、ハンカチを巻かなければならないほどだ。そんなことをするのは何年ぶりだろう。

1937年6月21日(月曜日)
リバーサイド・ドライブ210A
ジェームズ・バリ卿が亡くなった。彼は長年本を書かず戯曲の執筆に専念している。彼の戯曲は大成功を収めた。『センチメンタル・トミー』は、これまで書かれた中で最も楽しい本のひとつである。今時、私以外に読む人がいるのだろうか。私の少女時代の思い出と結びついている。昨日はいろいろな理由から、私にとってとても苦しい一日だった。ユアンは昨夜、ひどい咳をした。咳が止まらなかった。今日、私は胸が張り裂けそうになった。そのことについては書けない。
でも、仕事をする勇気も、計画を立てる勇気も、せめて生活を我慢できるものにしようとする勇気もない。我が家の子猫たちはあちこち走り回っている。狡猾で面白い。愉快だ。私は子供の頃から、このような若い子猫とは何の関わりもなかった。そしてドライブ(住んでいる家の通り)の多くの子供たちは、若い子猫を見たことがない。驚異だ。彼らは毎日遊びに来て、ジューンをうらやましがる。私たちはこの子たちに、ウィンザー公爵エドワードと名づけた。白黒の3匹は、ジョージ、エリザベス、ウォーリー。私たちはジョージは処分せざるを得ないだろうと思っていた。後ろ足は麻痺しているようだった。しかし彼はすっかり元気になり、この中で一番格好良くなった。ワリーはフワフワしていて、他のすべてのボスだ。食事時にはダイニングで遊び回り、私をも笑わせてくれる。昔は私を笑わせるのはそれほど難しくなかった!

1937年6月23日(水曜日)
ユアンは今日と昨日、少し良くなったようだが、毎日新しい症状が出ている。今日は腹部に痛みがあり虫垂炎だと確信していた。私はしびれを切らしているようで、あまり何も感じない。今日、あるエージェントから電話があった。マクリーンの4年定期購読を申し込んだ。長年購読してきたがこれが最後の購読になると思う。少なくとも4年後にはここにはいないだろう。少なくとも私はそう願っている。少なくともそうであってほしくない。自分の星に行き、自分にとって重く複雑になりすぎた問題や、心痛や幻滅をすべて置き去りにすることを願っている。

1937年6月24日(木曜日)
「旅の終わり」、210Aリバーサイド・ドライブ
ユアンは今日とても具合が悪かった。食事を拒否し歩くこともできない。1934年の夏以来、最悪の発作だ。どうしたらいいんだろう? そして彼は今までの発作にはなかったことだ。私はまったく私の勇気は限界にきている。


6月には手帳(いつも持ち歩いていた覚え書きノートだろう)に記録がない日が4日ある。しかし私はその一瞬一瞬を覚えている。なんということだ、そんな4日間。私はこの4日間もうこれ以上の恐怖は味わえないと思っていた。1919年のひどい夏も、1934年の春でさえも。強さが必要なときは、それがいつもどこからかやってくるようだ。私たちはそれを持たなければならない。しかしもう一度言う! そこで起こったことを書き記すことはできてもその恐ろしさの10分の1も表現することはできない。冬にミスター・ロビンソンがユアンに手紙を書いていた。6月にリースクデール教会の創立75周年を祝うつもりだ。そこでユアンに説教してくれないかと頼んでいた。私は彼が説教するのを嫌った。彼は去年の夏そこで説教をした。私はなんとなく、このままにしておいたほうがいいような気がした。しかしユアンはミスター・ロビンソンの頼みを断りたくなかった。27日になる前の最後の週、ユアンはずっと、もう行くのはやめようかと話していた。
ほかの誰かが行くようにと。そしてここで私はミスを犯した。彼にやらせるべきだった。しかし以前はいつも、説教をしなければならないとき彼は自分が説教をすることができ、うまくできることに気づいていた。
その後、気分が良くなった。車でのドライブはいつも彼の気分を良くしてくれた。そして今回も同じだろうと思い私は彼に行くように勧めた。そこで行くことにした。しかし6月25日の金曜日はひどい日だった。ユアンは一晩中リビングルームにいたが眠れなかった。その日の朝6時、彼はよろよろと私たちの部屋にやってきた。チェスターを起こして「レーン先生を呼んできてくれ」と言った。 私は朝食が終わるまで待つように言って揮発性の塩を飲ませた。すると彼は落ち着きを取り戻し、朝食が終わるころにはもう死ぬとは言わなくなった。夕方には私は彼にドライブに連れて行ってもらった。しかし初めてそうならなかった(いいドライブにならなかった)。あまりに機嫌が悪かったので、このままドライブを続けても無駄だと思い家に戻った。しかし彼は朝レーン(医師)を迎えに行こうとしたことをすっかり忘れていた。

土曜日の朝、ユアンはとても調子が悪かった。リースクデールには行けないと決めた。彼は同意し代わりに誰かを連れて行こうとした。しかし誰かを呼ぶには遅すぎた。すると彼は怒り出し自分が行くと宣言した。私は仕事に行き、彼が選んだ2つの説教をタイプした。読みやすいようにタイプした。彼はそれを読むと私に約束していた。昼食後、私たちは出発した。ユアンはずっと不機嫌だった。あんなユアンは見たことがない。彼は(リースクデールへの)道を忘れていた。だから道に迷い不必要な距離を走った。何マイルも走った。やっとのことでアクスブリッジに着き、そこからセブンズに向かった。その道すがらユアンを見ていて、私はあることに気づいた。私たちは夕食をとる約束をしていた。アレック・マスタードの店に行こうとしたのだが、彼は夕食をとる店は右側にあると言い張った。私は彼を説得するのにとても苦労した。左側の道を曲がるべきだと説得するのに大変な時間がかかった。6本目に差し掛かるまで彼は自分の間違いを認めようとはしなかった。このようなことが、普段ユアンが手のひらを返したように知っている地区で起こったのだ。私はとても心配した。
アレックの家に着くと、ユアンはすぐにダイニングルームのソファーに横になった。眠りについた。ほっとした。私はベランダに出て、ゼラとヒュー夫人と2時間ほど話した。どこからか力が湧いてきて自然に話すことができた。しかし夕食は試練だった。ユアンの手はひどく震えていて、紅茶のカップをこぼさずに口に運ぶことができなかった。そして話そうとすると言葉が見つからないようだった。夕食が終わり、私たちはリースクデールの牧師館に向かった。ユアンは元気になったようだった。ミスター・ロビンソンとも自然に話すようになった。ミセスRと私はジョージ・リースクの家に行った。 悲しい訪問だった。リースク夫人は1年前から重い心臓病を患っていた。今は少し良くなったがジョージはとても悲惨だ。ジョージはメランコリアのひどい発作に苦しんでいる。私たちがそこにいた間髭も剃らず、声もなく。彼は1919年当時のユアンにそっくりで、身震いするほどだった。私たちがリースク家から戻ってくると、ユアンはすっかり良くなったようで、ベッドに入るとき、「完全に自由になった気分だ」と言った(気分屋なんだな)。私は少し希望を感じた。よく眠れた。また元の部屋に戻ったが今回は幽霊と戯れる時間も余裕もなかった。
ユアンは朝から具合が悪く、私は暗い予感を抱きながら教会に行った。教会は満員だった。ユアンはとんでもない説教をした。もし嘘の説教を読んでいたなら彼は大丈夫だっただろう。しかし彼はそうしなかった。彼はいつものように話そうとしたが、すぐにわからなくなり、途切れ途切れの発言が10分ほど続いた後、彼は席を立った。その10分間が私には10年に思えた。私はユアンに何が起こったのかわからなかった。夫が記念式典を台無しにするのを見るという屈辱もあった。どうやって冷静さを保ち、その後の人々に話しかけたのかわからない(メンツが潰れるのを最も気にしていたんですね)。彼らは夫が何を言おうと、彼の声をもう一度聞けただけで十分だった と言ってくれた。

サラ・ケネディの家に夕食を食べに行く約束をしていた。ユアンを休ませるためにできるだけ早く牧師館に戻った。ユアンはすっかり元通りになったようだった。夜の説教を読むと約束した。ロビンソン夫妻はゼファーの教会に行って留守だった。ユアンは2階で横になった。私は昔の日曜日の午後のように、昔の応接間に座って本を読んだ。やがてジェイムズ・ブリチャードとその新しい妻がやって来てベルを鳴らした。私はドアに向かい、ドアを開けて彼らを部屋に案内した。私はそこで幽霊のように感じた。夜の礼拝は午前中の繰り返しだった。ユアンは本を読もうとせず、また道に迷い、前と同じように10分でやめなければならなかった。書いても仕方がない。彼が二度と説教壇に立つことはないだろうと思った。私が望んでいたのはただ教会の外に出て、私と話したがっている大勢の人々から離れたいだけだった。私は恐怖と屈辱で病んでいた。
サービス終了後に帰宅する予定だった。家までは車で2時間しかかからないし、月曜日の朝には家に帰りたかった。著者大会がそこで開かれるからだ。大会が開かれ、私も執行部の一員として出席しなければならないからだ。ユアンも一刻も早く家に帰りたがっていた。ミセス・ロビンソンが昼食を用意してくれた。昼食に舌鼓を打った。ユアンの手は震えていて、こぼさずにカップを口に運ぶことができなかった。しかし彼は十分に理性的に話し、私たちが11時に出発するときにはミスターRに「また来るよ」と笑いながら言った。しかし私は、ユアンが今までに経験したことのないような精神状態になっていることに気づいたのだ。私たちが1マイルも走らないうちに、ユアンは私たちがアクスブリッジを通り過ぎて道を間違えていると言い出した。私は彼を説得しようとしたが無駄だった。私が「彼に反論し続け、それをずっとアクスブリッジまで続けた」ために、彼は激怒しただけだった。
しかしユクスブリッジを出発して間もなく、彼は再び迷い始め、私たちがダイ・プレイスを通り過ぎたことを確信した。しかしユクスブリッジを出発して間もなく彼は再び出発した。トロントに行く道が分岐する場所だ。そしてまた新たな困難が加わった。彼は道路の右側の端に寄って走り始めた。溝に入ってしまうのではないかと心配になるほどだった。彼は道の真ん中を走ろうとしなかった。彼がやっていることの危険性を指摘しようとすると、彼は激怒した。彼は「運転の仕方を知っている。 言われるまでもない」と言った。道は果てしなく続くように思えた。分かれ道を通り過ぎたのだ。しかしついにその分かれ道にさしかかった。そこでE.は決然と道を間違えた。私は反論したが無駄だった。そして私は車を降りて標識まで行くよう主張した。その標識が正しかったのだ。それでもユアンは聞く耳を持たなかった。彼は車を降りてその書付を見に行ったが読むことができなかった。私はそのとき正気を失った男と孤独な道を歩いていることに気づいた。彼は何もしない。また車に乗ろうともせず独り言を言いながらあてもなく歩いていた。そしてついに私は途方に暮れ、道端に座り込んで涙を流した。それがユアンに影響を与えたようだ。ユアンは嫌々ながら車に乗り込み、車をバックさせた。道路までバックした。しかし私たちが進むにつれ、彼はまだ右折を繰り返した。私はできる限り黙っていた。私はできる限り黙っていた。彼はずっと怒っていた。彼はひどく機嫌が悪く、私が言う言葉はすべて、たとえそれがどんなに無害なものであっても、侮辱にねじ曲げられた。ついにストウフビルから1マイルほど離れたところで私は言葉が足りなかった。次の瞬間、車は溝に落ちた!

最初は二人とも呆然として言葉が出なかった。そして私は気を取り直した。あの忌まわしいリースクデールの旅の前から、私はユアンとこれ以上嫌な思いはしたくないと感じていた。もうこれ以上ユアンと一緒にいるのは嫌だと感じていた。もう限界だと感じていた。でもこういう緊急事態には、いつもどこからか力が湧いてくるものだ。私はいたって冷静だった。落ち着いていた。最初に頭に浮かんだのは、ユアンが私の上に倒れこんできたことだった。死にそうだとあえいでいた。私は後部座席からスーツケースを引きずってきた。ブランデーを取り出した。塩揮発性ブランデーを吸入した。吸入しても効果はなかった。だからブランデーをストレートで飲ませた。しばらくして彼は体を起こし、うめき声を止め再び理性的になった。それから私は外に出て車を調べた。車はひっくり返らず、露に濡れた長い草が生い茂る側溝の底に横たわっていた。エンジンはかかったままだった。私が発見できた唯一の損傷はパンクだけだった。しかし、助けなしには深い溝から出すことはできなかった。そしてどこに 助けはどこにいるのだろう? どの方角を見ても明かりも家も見えない。12時半ごろだったので、道路を走っている車はほとんどなかった。
あの恐ろしい夜の間中、私はずっと、まるで私たちが善と悪の対立する戦場にいるかのような奇妙な感覚に襲われていた。悪が私たちを陥れるときはいつも善が私たちを助けてくれた。私は道路によじ登り、溝にはまっていた30分の間、車は一台も通らなかったが、一台の車が来るのが見えたので手を差し出した。彼らはすぐに停車し何もできなかったが、ストウフヴィルのガレージ(修理屋)に寄って、助けを呼んでくれると言ってくれた。ユアンと私は再び車に乗り込み、そこに座って待った。果てしない時間のように思えた。ガレージのおじさんをベッドから起こさないといけなかったからだ。本当に長い時間だった。ユアンはまたとても理性的になり、今までのことをとても後悔していると言った。そしてまた道路に出たら、中央を走って、端に行き過ぎだと言ったら私の言うことを聞くと言ってくれた。私は願った。私はこのショックで彼が本当に自分を取り戻し、少なくとも家に帰るまではそれが続くことを願った。(ユアンはずっと理性的な牧師のつもりでいようと思う責任とその反動での狂う欲求が出てしまうのだろう)

ようやくその助けの男がやってきて、やがて私たちの車は溝から運び出され、タイヤは交換された。これといった被害はなかった。しかしこの作業が行われている間、私はユアンとひどい時間を過ごしていた。修理の車を呼んだとき、私は乗員に夫の具合が悪いことを告げた。頭痛がひどくて具合が悪いと伝えた。そう思われるだろうと思ったからだ。車庫入れの車が来たとき、イトネの運転手が降りてきて、"お元気ですか?" と言った。――どうやらビールを飲んでいたようだ。
ユアンは彼がそう言ったのを聞いて車から降りると、上へ下へと歩き始めた。車から降りると道路を上り下りし始めた。自分は正気だ。と呟きながら道路を歩き回った。時折その男に近づき何か馬鹿なことを言った。そしてまた立ち去った。私が何を言っても、彼をなだめることはできなかった。 彼はさらに怒った。車がようやく出発できるようになったときほどありがたいと思ったことはなかった。時刻は2時を回っていた。私たちは車に乗り込み走り出した。すぐにユアンの運転がわかった。ユアンが以前とまったく同じように右側に寄って運転しているのがわかった。私たちはひどい目にあった。
ストゥフヴィルを通ってマーカム近くまで行った。そのときとても明るいライトが見え、「あの車が通り過ぎるまで完全に止まってくださいユアン」と私は懇願した。そう約束したのに、彼はまったく気にせず走り続けた。車が私たちを通り過ぎたときまた溝に落ちた。私は再び車が横切るのを感じた!
今回の溝は浅く、斜めになっていた。私たちのクルマは溝には入らなかったが、溝の側面にぶら下がった。私は再び外に出た。3時半を回っていた。他の車が来るのはずっと先のことだろうと思った。そして2台が来た。2台とも止まった。幸運なことに少年たちが4人ずつ乗っていた。全員が降りて私たちの車の下側を支えた。ユアンがハンドルを握った。そして再び車を出した。しかし邪悪な星はまだ上昇中だった。霧が出てきた。霧の中をあの状態のユアンと一緒に旅することなど考えられなかった。夜が明けるまでそこに座っていなければならない。退屈な夜だった。話すこともできなかった。ユアンは私の言葉に激怒し、私が思いもよらないような意味に汲み取るのだ。夜が明けることはないと思った。恐ろしい一日と、さらに恐ろしい夜の後、私はほとんど疲れ果てていた。そして家に帰れるのだろうか?

ついに夜が明けた。私たちは4度目のスタートを切った。薄明かりの中ユアンが中央を走り、私たちはマーカムを抜けその下を曲がった。その先はヨンジ・ストリートへとまっすぐ続いていた。約12マイルの距離だ。しかし私たちがその道をはるかに進む前に、ユアンはまた走り始めた。ユクスブリッジ街道と同じように。ヨンジ・ストリートはとっくに通り過ぎていた。引き返さなければならない。私は彼に引き返すつもりはないと言った。結局、私たちはジェイル・ファームを目の前にした。ヨンジに着く手前だ。ユアンはすぐに、まったく普通の声でこう叫んだ。「あなたは正しかった。脱帽だよ」。 私たちはヨンジを南に曲がった。私は安堵の息をついた。もう大丈夫だ。
そしてユアンは車を停め、私が理由を聞く前に道路に出ていった。またもや彼は上下に唸りながら、怒ったように独り言を言った。「彼は正気なんだ」等々。私は彼をなだめようとしたが、私の話を聞こうともせず、また車に乗ろうともしなかった。ついに私は絶望して言った。家に帰らなきゃ。ユアンもう家に帰らないと。もしあなたが乗って運転してくれないなら、私はあの家まで行って彼を起こす。「好きなようにすればいい」。彼はすぐに車に乗り込み、私たちは再び走り出した。朝の渋滞が始まっていたが、真っ昼間だったので、私たちは十分にうまくいった。そして6時、私たちは自宅の車道に出た。
ユアンと私は何度も一緒にドライブした。もういい と言った。家では誰も起きていなかった。私はユアンにすぐに寝てもらいたかったが、ユアンはキレたように「朝食をとるまで寝ない」と言った。頭痛はなかったが咳がひどく、目がギラギラしていた。自分のことばかり話していた。悪魔のような反抗心に満ちているようだった。こんなことは見たことがない。しかし朝食後、私は彼をベッドに寝かせ睡眠薬を飲ませた。彼はすぐに眠りにつき、7時まで目覚めることなく眠った。私は一日中起きていたが、何も感じず、ただしびれただけだった。そしてひどく泣いた。私は失恋し、失意のどん底に突き落とされた。どうしたらいいのだろう。 どうしたらいいんだ? どうすればいいんだ?

ユアンは7時に目覚めたが、30分ほど意識が朦朧としていた。彼は話すことができなかった。うめき声と咳が止まらなかった。最初は栄養を摂ろうとしなかった。しかし私がなだめすかしてチキンを少しと紅茶を飲ませた。そのとき彼はかなり理性的に見えたが、ちょっとした意見の違いで非常に苛立った。しかし以前の発作とは奇妙な違いがあった。それは彼は決して良くなることはなかった。しかし今回はすぐに良くなるなどと言い続けた。私を苦しめていたもの(ユアンの罪びとだという妄想)が消えたと言っていた。
しかし彼は老人じみた話し方をするので、私はほとんど暴れていた。私は次の2つのうちどちらかだと思った。彼の精神に完全にひびが入ったのか、それとも それとも悪魔が彼のもとを去り、その反動なのか。私は後者の選択肢にしがみついた。
少し前に、悪魔のような話を読んだことがある。ある男が机の上の浅いインク瓶にハエが落ちたのを見た。彼はそれを取り出し、科学的に観察するために紙の上に置いた。ハエは毛づくろいに取りかかり、やがてインクをきれいに洗い流した。そして男はまたハエをインクに入れた。またもやハエは毛づくろいをしきれいになった。そして何度も何度もその悪魔のような男は哀れなハエをインク瓶に落とした。何度も何度もガランとした小さなハエは、少しずつではあるがきれいになった。そしてついに、何度浸したか忘れたがハエはそれ以上インクを落とそうとしなかった。漆黒のしみとなり死を覚悟した。もうこれ以上の努力はできない。
私もそのハエと同じだと思った。こうして月曜日は過ぎた。火曜日から、私は「チャート」日記のようなものをつけ始めた。「もしユアンがこの発作から回復しても、また同じような発作が起こるかもしれない」。(ユアンがひと月に何度発作を起こすかなど)

1937年6月29日(火曜日)
リバーサイド・ドライブ210A
10時 ユアンは昨夜、11時から3時までうめきながら眠り、その後はさらに静かに眠った。しかし息が短く動きが弱々しい。新しい症状だ。私は少し眠ったが頭痛で目が覚めた。頭痛が嘔吐するまで続いた(神経の緊張によるもの)。アスピリンはまったく効かなかった。
ユアンは昨日よりかなり良くなったようだ。またはっきり話せるようになったし、言葉が出やすくなった。昨日は文章を完成させることができなかった。また、彼はより理性的になった。しかし朝食は食べられず、とても震えている。彼の目はうつろで、心臓の動きも強くなっている。咳もよく出る。
現在10時、再び眠る。12時。Eは10時以来すやすやと自然に眠っている。脈もかなり強くなっている。午後10時、ユアンは目を覚ますと、レーン医師の診察を受けることに同意した。ユアンは昨日私たちが帰宅してすぐにレーン医師の診察を受けさせたかったのだが、その提案に怒った。レーン医師はユアンに疲労以外に問題はないと言った。しかし彼は完全に神経衰弱だと私に言った。ユアンはその診断にとても不満そうで、「レーンが「何も教えてくれなかった」と苦々しげに訴えた。午後はほとんど寝ていて、今晩はかなり理性的だった。夕食にスープとベリーを食べさせた。それからスチュアートに夕方まで付き添ってもらい、私はロイヤル・ヨークで開催される著者大会に行き、予定されていた講演を行った。これが私が出席する唯一の会合である。そして私は今週をとても楽しみにしていた。
今週はハワード・ケネディ夫人が私にとてもいいことを言った。「私たちは他の人たちのことは知らないが、でも私たちはあなたを作家として呼んでいる」。"カナダ人作家" たちが、この言葉を気に入ったかどうかはわからない。ミセス・ケネディは、自分が思っていることをはっきり口に出すのが怖い人なんだ。でも、ひとりになれてよかった。私が家に来たとき、ユアンは眠っていた。ユアンは目を覚ますと、とても理性的で親切に、楽しかったかと聞いてくれた。

1937年6月30日(水曜日)
9時、私は12時から4時まで眠っていた。それからユアンが目を覚まし、ため息とうめき声を上げ続けた。もうこれ以上急ぐことはできなかった。結局レーンに勧められたブロマイドを飲ませた。朝まで寝ていた。夜中に泣き止んだ雌鳥も眠った。ユアンは8時に目を覚まし、最初はひどく不機嫌だったが、今はよくなったようだ。彼はエッグノッグを飲み、グローブ座を尋ねた。新聞を持ちながら先週よりずっと安定しているようだ。
4時だ。ユアンは1時までお休み。昼食はスープとイチゴ。日曜日のことをたくさん話したが、1時にまた眠り、今もぐっすり眠っている。いい兆候だといいのだが。確かに以前のひどい不眠とはまったく違う。昨夜4時以降、鎮静剤は飲んでいない。だから自然なことに違いない。呼吸も良くなっている。
5時。ユアンはまだ眠っている。呼吸は楽で、咳もまったくしていない。
7時。Eを起こし、チキンとポテトの夕食を与えた。彼は憂鬱そうに言った。手はだいぶ安定している。
9時半。それ以来ユアンはずっと起きている。うめき声はひどいが理性はあるようだ。脈拍は良好で肉体は冷えている。午後はよく泣いた。そして決心した。可哀想なハエは、もう1度その身をきれいにしようとするだろう。庭に出て少し楽しんだ。寂しいし、情けない。ユアンの病状は、私の心配事のひとつに過ぎない。すべてが間違っているように思える。私はどこかでひどく失敗したような気がする。でもどこで? 私は夫と息子たちのためにできる限りのことをしてきた。彼らをないがしろにしたことはないと思う。
ユアンは月曜日よりずっと良くなったが、まだとても弱く子供っぽい。彼の心はスタミナを取り戻すのだろうか? 記憶は戻るのだろうか? 私は孤独だ。ついこの間まで私には2人の愛すべき息子と1人の愛すべき灰色の猫ちゃんがいた。今は何もない。息子たちは変わってしまった。そしていつかは元気になり、いつまでも元気でいてくれるかもしれない、という私のしがみつく希望は消えてしまった。苦味と幻滅を飲み食いするのにとても疲れた。幻滅。
我が家の子猫たちはかなり可愛くなり、あちこち走り回って遊んでいる。私にとってはごく普通の子猫に過ぎないのだが、私は彼らを見るのが好きで、何度も笑わせてくれる。「ジョージ」が一番格好良いが、「ウォリー」が一番可愛い。彼女は毛がふわふわで柔らかいんだ。彼女は 他の猫たちの「ボス」で、欲しいときに欲しいものを取る。彼女の名前に似ている。今夜、私が朝食用のヌックテーブルに座ってココアを飲んでいると、ウォリーは私の足に巻き付いて、遊び半分に噛んだ。でも、もし私の愛しいラックが私の横に飛び乗ることができたなら。どんなに慰められただろう!


昨年7月の最初の2週間!! 今でも思い出すと気分が悪くなる、10年分くらい長く感じたよ。


1937年7月1日(木曜日)
「トロント「ジャーニーズ・エンド」 午後9時半。
1時まで寝ていたが、ユアンの咳で2人とも目が覚めた。1時から4時まで咳が止まらなかった。私はレーン先生の薬を飲ませた。しかし効果はなかった。それからブランデーを飲ませた。これで咳は止まった。私たちは7時まで眠った。しかし彼はとても理性的で、それほど震えてはいない。彼は「医者の役立たず」と唸った。確かに彼の場合、医者は "役立たず" に見える。 できる限りのことをしている。ユアンの朝食にはエッグノッグとオートケーキを用意した。昼前に起きて服を着ると、震えはなかったがとても不機嫌で忘れっぽかった。昼食を食べると、ずっと不機嫌な顔をしていた。昼食後、彼はベッドに横になって眠った。
目覚める直前、奇妙で悲惨な夢を見た。私はフレデが死んだと思った。フレデが死んで、私はそのことでひどく苦しんでいた。そしてついに苦しみが耐えきれなくなったとき「フレデが死んで18年も経つんだ。彼女のいない生活に慣れる必要はない」と思い、すぐに落ち着いた。
郵便物が届くと、チェスターの法律審議会から手紙が来ていた。中身は? 何が書いてあったのだろう? ロースクールの学部長から、嘆願書を送るようにとのことだった。練習ノートが盗まれた。それが答えだとわかっていたので、私はハラハラした。彼が立ち上がって降りてくるまで私のサスペンスは耐え難いものだった。彼はそれを開いた。受理されるとは思っていなかった。でも泣くしかなかった。とても不公平に思えた。少年たちが "プル" は4杯、場合によっては5杯を書くために流された。しかし少なくとも彼は留年を免除された。
午前にレイシー・ウィリソンから電話があった。レディーズ・クラブで作家たちをお茶でもてなすから、私も一緒にどうと? 最初は断ろうと思った。服も着ずに行って(正装もしないで)笑ったり話したりなんてできない。でもスチュアートは私に行くように勧めた。私には分別があった。だから服を着て行くことにした。そしてそこにいるときは、援助が本当に楽しかったことを忘れていた。しかし10時過ぎには、私の人生という恐怖に戻ることになった。自分の家に戻るのが嫌になるのは恐ろしいことだ。いつも家に帰るのが好きだった! 私がここに着いたときユアンはまだ眠っていた。彼は夕食をきちんと食べ、「初めてしっかりした味がした」と言った。だいぶ普通になったようだが、夜はずっと唸っていた。今はまた眠っている。私はひどく疲れていて何もする気が起きない。
        涙も笑いも関係ない、
        ただ眠るのみ。
私は今夜どこにいるか知っている。痛みと恐怖から解き放たれ苦痛と恐怖から解放される。私ならきらめく星明かりの砂浜で、空に向かってそびえ立つ古い時計塔と、ニュー・ロンドンの灯りを眺めながら。ニュー・ロンドンの光が瞬く。古い小道を登り丘の上を行進する暗いトウヒの木を見たり、緑の谷間で小さな小川のせせらぎを聞いたり......。 西風が私の顔を撫でるのを感じるだろう。

[キャベンディッシュ北入江]

[ユアンからチェスターへのカードの裏面]

私は8時にベッドに入り1時まで眠った。ユアンは一晩中咳をしていた。私は今朝は鉛の心で起きた。ユアンはかなり理性的で、朝食を少し食べた。手は安定し記憶力も少し良くなったようだ。午後はずっと寝ていて、昼食もそこそこ食べたが、うめき声が多かった。それから起きて服を着たが、すぐにまたベッドに戻った。私が思い切ってこう言った。「もう少し起きていた方がいいのでは」と私が意見を言うと、彼は「余計なお世話だ」と言った。ユアンらしくない。足が痛いと言っていた。そのまま6時半まで眠り、夕食のために起きて着替えた。ひどい食事だった。彼はとんでもないことを言い、頭を皿につけて食べた。人間というより動物のようだった。彼は人の名前も覚えられず、幼稚な笑い方をする。また頭が痛いと言っている。これはまずい。
ユアンを除いたとしても、とても悪い一日だった。雨が降って、暗い一日だった。昼間にコーウェン夫人に呼び出され、マーガレットとスチュアートとの仲を裂くのを手伝ってほしいと言われた! 私はずっと前から知っていた。彼女の表向きの理由は、「マーガレットは気まぐれで、いつも愛人に飽きてしまうから」だった。本当の理由はマーガレットにお金のある人と結婚してほしいからなのだ。私はマーガレットとスチュアートの間に不倫の問題が起こる前に、彼女がそう言ったのを聞いた。私は彼女に、若い二人なんだから、自分たちのことは自分たちに任せておけばいいんだと思う。しかしこの件に関しては、私は一日中動揺していた。スチュアートはコーウェン夫人の娘にふさわしいと思うのに!

1937年7月3日(土曜日)
「旅の終わり、トロント」
ユアンと私は4時まで寝ていたが、ひどい咳で起こされた。この咳は何をやっても良くならないようだ。しかし1日の朝はまだ一番元気だ。今日が土曜日であることを思い出した。午後は4時までずっと寝ていた。ユアンはこんなに寝ているなんて不思議だ。4時、彼は目を覚ました。それから我に返ったようだった。起き上がってヒゲを剃った。カミソリの刃の入れ方を忘れていた。夕食をしっかり食べたが、その後はとてもダルそうで、頭のことを訴えていた。この鉛の痛みが再発するのが嫌なのだ。8時半にはまた寝ている。

1937年7月4日(日曜日)
ユアンと私は9時から12時まで眠った。それから咳で目が覚めた。私はユアンにトマトスープを飲ませ、また8時まで寝た。私にはその睡眠がとても必要だった。今は午後4時だ。ユアンは憂鬱な気分が続いていて、昼食を食べようとしない。私はオキソを飲ませた。今日はあまり寝ていない。ユアンを楽しませるのは難しい。
胸と脇腹がとても痛い。今まで感じたことがなかったので嬉しい。7時。とても疲れていて、不安でブルーな気分だ。ユアンが6時にあんなに調子が悪かったのは初めてだ。薬箱の中に古い空き瓶があった。レーン先生がうちのバスルームに行って、何か暗い理由があってそれを空にしたんだと言い出した。私がそんなバカなと言うと彼は激怒した。そのときの彼の表情は筆舌に尽くしがたい。本当に人間とは思えない。しかし7時になると、彼はすっかり元通りだ。 目からギラギラしたものが消えてすっかり元気になった。咳も緩んでいるようだ。11時。ユアンは7時から寝ていた。ロレイン・ウェッブは8時に到着した。マリオンとマレーが彼女のためにやってきて楽しいおしゃべりをした。ゲストの前で明るく普通に振る舞うのは、とても大変なことなのだ。

1937年7月5日(月曜日)
ユアンと私は3時まで寝ていた。その後ユアンは最悪の咳をした。その後私は眠れなかった。彼には痛みはなく、私が「うめき声をやめて眠らせてくれ」と懇願すると、彼はそうすると約束したがそのまま眠り続けた。彼は自分がうめいていることに気づいていないようだ。レーン医師は、今日は良くなっていると思ったがベッドにいなければならないと言った。私はレーン先生がいらっしゃるときはいつも明るいのだ。私以外は誰も、彼が悪い呪文のようなものを言うと知らない。レーン医師は今、アドレナリンを投与している。アドレナリンの唯一の効果は、痰がより内に籠るようになり、ほとんど出なくなったことだ。起き上がることが不可能になったことだ。時々、ユアンが窒息死するのではないかと本当に心配になる。今晩は「耳の中で声が聞こえる」という。私はこの症状が好きではない。今日はソリティアで遊ぼうとしたが、遊び方を思い出せなかった。彼はまだあのボトルのことを言い続けている。

1937年7月6日(火曜日)
トロント、リバーサイド・ドライブ210A
午前9時、ユアンは乾いたハッキングのような咳に悩まされながら、まずまずの夜を過ごした。10時にオキソを飲ませた。それからチェスターのベッドで寝た。とても暑かったが必要な睡眠をとることができた。ユアンが目を覚ましたところ、とても具合が悪いと言っている。私は彼から何も聞き出せない。ミルクと卵を飲ませた。ひとつわかったことがある。ユアンが唸るのは観客がいるときだけだ。一人でいるときはうめき声はしない。
今日、長い間お待たせしていたペーパーハンガー(壁紙貼りか)がリビングルームのペーパー掛けに来てくれた。もちろんこんな時に来るに決まっている。本や絵などを全部出さなければならなかった。下の階はすべて「混乱状態」だ。ユアンがこのままで居ればいいのだが。7.30. ユアンはおいしい夕食を食べたが、ドクターに言った私の無害な発言について、私にとても意地悪をした。彼は完全に誤解していた。ついに私は彼に言った。こんな態度を取り続けるのなら看護婦を雇うしかない。そういって彼の前から姿を消した。10時。ユアンのためにどうやって時間をつぶそうかと途方に暮れた。カジノを2回やった。何時間遊んだことだろう。しかし今回はひどいものだった。彼はその遊び方をほとんど忘れていて、やり方を教えられることに激しく憤慨している。
レーンは彼にブロマイドを与えるのをやめた。私はただそうしなければならないと彼に言っただけだ。ユアンはもう食べ過ぎて、あせもができちゃったんだ。今夜ユアンにおやすみのキスをしたとき、彼は泣きながら「どうして行ってしまうの? と聞いてきた。私は彼を安心させるのに苦労した。かわいそうな、かわいそうなユアン!

1937年、7月7日(水曜日)
午前9時。ひどい夜だった。ユアンは10時に咳をし始め2時まで咳をし続けた。その後レーンの腔腸薬を1錠飲ませた。今朝はだいぶ良くなったようだ。目つきがよくなり、はっきりと話すようになった。私に対する態度も変わった。私はこの励ましの藁をもつかむ思いだ。まるで本当のユアンがまだ戻ってくるかもしれない。
午後3時。ユアンは一日中、安定して穏やかに眠っていた。今日も言葉を見つけるのに少し苦労している。十分に理性的だ。
蒸し暑い上に、鼻が混乱していて不快感が増す、昼食は少しも食べられなかった。午後7時、ユアンは夕食にアイス・オキソを飲んだ。悪い発作もなく、ここまで回復したのは今日が初めてだ。私は今夜の夕食を楽しんだ。数日ぶりに味を感じた。ユアンはもう寝ている。午後9時。私はひどい目にあった。ユアンが目を覚ました。おかしな質問ばかりする。質問攻め。医者は何て言ったんだ? 私は彼に何を言ったの? 誰が なぜボトルを空にしたのか? 彼は私が「ドアに鍵をかけた」と非難した。ユアンは私がスチュアートに、ドア、つまり玄関の鍵を閉めたかどうか尋ねているのを聞いたのだ。玄関のドアだ。私はつらい一日を過ごした後、それに耐えられず泣き崩れた。神よ、あなたは決して私を苦しめるのはやめてくれ! 私は家の中で彼と二人きりだった。彼の顔はひどく青ざめていた。ヒゲを剃っていなかったので、まるで66歳から86歳まで1時間で駆け抜けたかのようだった。しかし今は落ち着き、また眠りに落ちているようだ。
午前2時30分。この家には呪いがかけられている。私が愛するものすべてに呪いがかけられているのだ。2時間前、チェスターが暗闇の中、地下室の階段を下りようとしたとき、かわいそうなウォリーを踏みつけて殺してしまった。彼女は最上階の段差の上で丸くなっていた。それまでしたことのないことだった。誰のせいでもなく私たちの呪いだった。彼女は2時間は死ななかった。小さな人生で初めて傷ついたと感じたが苦しんだとは思わない。彼女は 意識はなかったようだ。骨は折れていなかったが、肺はつぶれていたと思う。詳しくは言えない。かわいそうに(チェスターは泣き、私も泣き、トンプソン夫人も泣いた。そしてついにあえぎ声は止んだ。 チェスターの誕生日の夜だ!


私は毎日1時間かけて、走り書きの記録をこの記録(日記帳)に書き写す。そして同様に、私は毎日、自分の過去の日記のコピーを数ページタイプする。これらの "スティント" は同時に行われ、私に不思議な効果をもたらしている。タイピングは、私が西方から戻ってからの4年間をカバーしている。私の人生で最も幸せだった4年間である。その4年間は、私の人生で最も幸せな4年間だった。あの頃の私はのんきで陽気な少女だったとは信じられない。

1937年7月8日(木曜日)
昨夜3時、ユアンと私はルミナルを飲んで、ユアンは8時まで、私は6時まで眠った。起き上がって仕事に行くと気分が良くなった。昼間の3時ほど絶望的なことはない。しかし、暑さはまだ厳しい。
ユアンは午前中はほとんど寝ていた。昼食後スチュアートが髭を剃ってやった。それほどひどい顔にはならなくなった。5時に起きて服を着たが、かなり大変だったようだ。夕方からずっと落ち込んでいた。というのもレーン医師が訪問してきたとき、「あまり話をしなかった」からだ。可哀想な先生は、励ましの言葉を使い果たしたのだろう。ユアンは一晩中、疑り深く、いらいらしていて赤ん坊のようだった。 自分の症状のことばかり話している。暑さがこたえたのだろう。彼はとても落ち込んでいるがまだ宗教恐怖症にはなっていない。とても落ち込んでいる。
夜、彼は昨夜のような議論を始めようとした。私はそれに引き込まれるのを拒否し、それ以来ユアンは大きな声でうなっている。10時。レーンの助言に従って、Eに腔腸錠を飲ませたところだ。私はこう言った。眠らせる薬だと言った。彼は暗い顔で効くもんかと言った。しかし私はこのようなベールに包まれた脅しを何度も聞いているので、かつてのように気にすることはない。ありがたいことに今は心配するような会衆はいない。しかし、私はゼリーを作っていた。ああ、涼しい風が欲しい!

1937年7月9日(金曜日)
トロント、リバーサイド・ドライブ210A
午前8時、ベッドに入ってから6時まで眠った。まともに眠れるのと眠れないのでは大違いだ。ユアンは寝不足を宣言し、「体が弱くて起き上がれない」と言った。彼はよくしゃべるが、より正気で、より簡単に言葉を見つけることができるようだ。 10.30. ユアンは眠っている。時々彼の心が調子を取り戻しつつある兆しが見える。咳も楽になったようだ。雨が降っている。私はリビングルームを整頓している。新しい新聞はとてもいい感じだ。 午後3時。ユアンは新聞を読み、だいぶ良くなったと言っている。彼は本当にいつになく元気そうだ。 午後5時、ユアンは今日は「そんなに疲れていない」と言った。しかし起き上がって服を着ようとすると、彼はズボンを手に取りぼんやりと辺りを見回した、またベッドに戻った。ズボンのはき方が思い出せなかったのだろう。 午後8時。ユアンは夕食をしっかり食べ、ごく普通の様子だった。 午後9時30分。あのひどいリースクデールの旅以来、私は初めて希望を感じた。ユアンが回復する可能性を感じている。彼は一日中自分らしく過ごしている、理性的に話し、不機嫌になることもなく、妄想も奇妙な発言もない。長続きするのだろうか? 
今日、シャーロット・マクーガンから電報があり、エミリー叔母さんの死を伝えてきた。

[若い頃のエミリー叔母さん]

思いがけないことではなかった。彼女は数週間前に転んで腰の骨を折ったのだ。心臓が弱く血圧も高かった。ショックから立ち直れなかった。そのニュースは私を悲しませた。私はエミリー叔母さんを愛することはできなかった。彼女はあまりにも頻繁に、そしてあまりにも深く私を傷つけた。でもこのような死はすべて 過去の何かを持っていく。エミリー叔母さんは一族のうち(彼女の家は決して甥や姪の集まる場所ではなかった)、アニー叔母さんのような場所ではなかった。おそらく彼女は愛していなかったから愛されなかったのだと思う。エミリー叔母さんは自分以外の人間に対して愛情など持っていなかったと思う。夫と子供たち以外には。ジョン叔父さんが亡くなってから、彼女はとても勇敢で気丈だった。そこで私は泣いている。私が思っていた以上に彼女のことを大切に思っていたんだと思う。私が思っていた以上に。子供の頃、私は彼女を愛していたに違いない。彼女が結婚した夜、自分がどんなに泣いていたかを覚えているからだ。彼女は茶色のシルクのドレスを着たドレスに身を包み、バラ色の頬と三つ編みの茶髪のオロネット。エミリー叔母さんは美しい髪をしていた。白髪になることはなかった。4人の娘の後に生まれた息子たちは、叔母にとっては残念な存在だった。しかし娘たちはみな賢くいい子たちだった。エミリー叔母さんの子供たちとはアニー叔母さんのような付き合いはできなかった。もちろん彼女たちは私よりずっと年下で、フレデの場合のように、生まれつきの「魂の親近感」があったわけではない。シャーロットは、エミリー叔母さんが良い母親だったことを懐かしんでいる。

1937年7月10日(土曜日)
リバーサイド・ドライブ210A
午前9時、あまり良い夜ではなかった。ユアンは3時間しか眠れなかった。ルミナルのおかげだ。彼はよく咳き込み、私の眠りは妨げられた。 午後1時、私は午前にほとんど眠っていた。ユアンはうとうとしていた。彼はどちらかというと鈍感だが分別はあるようだ。 午後7時、ユアンは午後はよく眠った。目が覚めると、しばらく奇妙な話をしていた。「犬」と「二人の姉妹」の話をした。こうして我に返った。来週もこの調子ならもっと期待できる。スチュアートが心配だ。彼は腫れ物に包まれているし、体重も少ない。私はハリバー・カプセルを飲むように言っている。暑さは厳しい。
午後10時、レーン医師がやってきた。Eの血圧は正常で、脈拍も良好だという。しかしあまりの暑さに気が滅入る。ユアンの心は回復するのだろうか? アドレナリンのせいではないだろうか? でも、咳が楽になったのは確かだ。

1937年7月11日(日曜日)
8時。良い夜ではなかった。ユアンはハックするような咳をし、10時から12時まで咳をしていた。ルミナルを飲ませたら7時まで寝たが、起きたらこう言った。「全然眠れなかった」と言った! また言葉を忘れたり、馬鹿なことをしゃべったりしている。"人が自殺する" と言った。彼は夢を見ているようだ。 今日も暑い一日になりそうだ。 9.30. 午前中、ユアンが外出したいと言い出した! 私は彼を説得するのに苦労した。私は途方に暮れている。
10時。ユアンは驚くべき早変わりで、かなり良くなったようだ。ごく普通に話す。スチュアートは腕にできものがある。腕はひどく腫れている。 11.30. 午前中ユアンは起き上がり、非常に弱々しく、介助を受けながら服を着た。今また横になった。 午後2時、ユアンは1時間半眠った。とても不機嫌そうに目を覚ました。夕食を食べようとしない。――オキソとビスケットを飲ませた。 2.30. ものすごい雷雨。家の中は夜のようで暗い。外は激流が降っている。こんなのは見たことがない。雲の爆発だ、雨ではない。 3.20. ロックガーデンが流された。テラスが陥没し、階段が流された。花はすべて土に埋もれてしまった。さて、どうしたものか。
午後5時。眠る前に服を脱いだユアンが、服を着ようとしているところだった。見ていて恐ろしかった。彼は私に手伝わせようとしなかった。しかし彼は何をするにも忘れてしまった。もう知恵が戻ることはないだろう。 午後6時、ユアンはカジノをやりたがった。私たちは3ゲームやった。惨憺たる成績だ。彼はまるで穴から出てきた悪魔のようだ。青いアンダーリップが垂れ下がり、目はギラギラ、顔は青ざめてる。しかし彼は前回より少しはいいプレーをした。少しは覚えていたようだ。 午後7時、ユアンが起きて居間に降りてきた。昨日よりだいぶ歩けるようになったと言った。 カジノを2ゲームやった。最初のゲームはうまくいったが2回目はカードを投げ捨てた。またベッドに寝かせた。私はこの緊張でボロボロだ。 午後10時、私たちはとんでもないことになった。私が「頭の具合はどう?」 と聞くと「 頭の具合はどうだと?」 と彼は狂ったようにしゃべりまくった。また土砂降りの雨。ひどい一日だった。

1937年7月12日(月曜日)
午前9時、ユアンは12時まで寝ていた。腔腸薬を飲ませたら8時まで寝ていた。彼は元気そうだ。咳はあまり出ず、「疲れ」はなくなり、「ほとんど自由」だと言っている。私もかなり眠れたので気分はずっといい。もうひとつの厄介な心配事がなければ、私は人生とうまく付き合えるだろう。昨夜、ラッキーが戻ってくる夢を見た。mのマークがはっきりと見えた。でも私が捕まえようとすると、彼は私から逃げてしまった。前はそんなことしなかった。午後1時、ユアンは無事に起き上がり、服を着た。彼は今日初めて大きな声ではっきりとお祈りをした。1週間ぶりだ。彼は今ソリティアをしていて、それを覚えているようだ。これはしかし私が望むように彼の心は回復していない。 7.30. Eは4時から6時まで眠り、夕食のために起きた。Eは食卓についた。あまり食べず、むしろ興奮しているようだった。夕食後、彼はドライブに行きたいと言い出した。これはリースクデールの旅以来だ。
12時だ。ユアンは元気そうだ。今夜、『王子と乞食』を見に行ったんだ。この映画を見る唯一のチャンスかもしれないし、外出する必要があったんだ。しばらくの間、ユアンから逃げ出すことができた。絵は良かったけど、心配性な私は台無しになった。

1937年7月13日(火曜日)
ユアンは12時に眠り、10時まで寝ていた。今朝はとても元気そうだ。少し本を読んだが、長くは読めなかった。「元気になったら島へ行く」と話していた。これがこれまでの発作との大きな違いだ。彼は決して良くなるつもりはなかった。しかし彼は普通とはかけ離れている。彼はまだ疑い深く、無害な発言から間違った意味を汲み取り、独り言をよく言う。 1時. ユアンは起きて服を着た。かなりうまくいったが、ガーターの締め方を覚えていなかった。まだ正しい言葉を使うとは限らない。
午後2時半。昼食後、Eが散歩に出ようと言い出した。私は心配だったがあえて何も言わなかった。彼はブロアー・カマーまで往復約1マイルを歩いた。一昨日、床を歩くのもままならないほど「弱って」いた男だ。午後5時半。ユアンは1時間半眠った。夕方から『テレグラム』を読み、読んだ内容についてとても面白くコメントしている。


スチュアートの腕におできができたと書いた。それ以上の言及はしない。しかし彼はそのことでひどい目にあった。彼は他にもいくつかあった。しかしこれは違った。これはそうならなかった。彼の腕は腫れ始め、腕というよりハムのようだった。私は心配した。レーンに見てもらった。レーンは言った。膿はあまり出ないだろうとの意見だった!
従って、私は2、3日湿布した。ユアンのことも。階段の上り下りはとても疲れた。しかし人はたいていしなければならないことだ。そしてついに、スチュアートと同様に私もほっとした。膿はあまり出なかったということはない! 私はあの腕から出た膿のようなものは見たことがない。1パイントはあっただろう。ほんのちょっとの圧力で親指ほどの膿が噴き出した。それが2日以上続いた。やがて腫れは消えた。スチュアートはおでき治療用のカプセルのようなものを手に入れた。そのおかげか、それとも最後の腫れで体内の毒がすべて排出されたからなのか、もう腫れることはなかった。

1937年7月14日(水曜日)
午前8時、ひどい夜だった。私たちは早めにベッドに入ったが、Eは眠らなかった。時にまた咳をし始めた。熱い飲み物を飲ませると咳が止まることが多いので、起きて熱いオキソを飲ませた。しかし今回は効果がなかった。それからルミナルを飲ませた。彼は4時まで寝ていた。ひどい咳で目が覚めた。これでは私も眠れなかっただろう。おまけに暑くて、カウアーの犬が吠え続けた。今まで気にしたことはなかったが、昨夜は「神経を逆なでされた」。そして極めつけは、スカンクが丘の上にいたことだ! 今朝はユアンの咳がひどく、私は落胆している。
午後12時半。ユアンは11時に起きて服を着た。些細なことだがとても重要なことだ。ユアンの記憶力は徐々に向上している。スランプにもかかわらず。咳の発作さえなければ。
午後4時30分。眠っていたユアンが目を覚まし、今日ここを発つのはどんな紳士なのか」と知りたがった。また妄想か、それとも夢と現実を混同しているのか。
6時。ユアンは再び眠ったが、咳の痙攣で目を覚ました。またため息とうめき声をあげている。
午後7時30分。ユアンは夕食に下りてきたが、食事中、ユアンはうつむいたまま皿の上に座っていた。私は十分においしく食べたが、特にスチュアートが髭を剃っていなかったので、ひどい顔をしていた。2階に来て、彼は先週と同じ状態に戻ったと言った。
良い意味でも悪い意味でもこうした変化は突然訪れる。彼は今 とても理不尽なんだ。
9.30 P.M. ユアンはまた落ち着いているようだ。頭が良くなったと言っている。少し話をした。彼はとても情けない。男友達がいないと言う。これは悲しいことに事実だ。ユアンはバラクラ氏を除いて、同性の本当の友人を作ったことがない。私は涙を禁じえない。ユアンがこれ以上良くなることはないだろうと今夜感じた。私自身も寂しく意気消沈している。雨と霧のとても暗い一日だった。

1937年7月15日(木曜日)
10時、ユアンにココアを飲ませた。彼は眠りにつき4時まで寝た。居間のチェスターフィールドで寝ようとしたができなかった。1時間半しか寝ていない。現在午前7時、ユアンは再び眠りについた。
世界は? 濃い霧に包まれている。実質的に眠れない夜だった。あることについての苦い心配もある。
2.30. ユアンが昼食のために降りてきた。本当に元気そうだった。それからずっと雑誌を読んでいて楽しいと言っている。彼の浮き沈みは予測不可能だ。
6.30. ユアンと私はカジノゲームをしたところだ。ほぼ完璧に覚えていたからだ。先週の日曜日とは大違いだ。
午後10時。夕食後チェスターはユアンをドライブに連れて行った。彼は元気に帰ってきた。でも疲れている。しかし普通の疲れだったようだ。――今夜は少し眠れるかな。ここでは昼間は眠れない。いつも誰かが私を求めている。何かで私を必要としている。

1937年7月16日(金曜日)
ユアンは11.30までひどい咳をしていた。それから2人とも6時半まで寝た。彼は午後もほとんど寝ていた。午後は少し落ち込んでいたようだがとても理性的だった。
アン・オブ・イングルサイドで鋤の仕事をしたがとても眠くなった。日中は蒸し暑かったが、今晩は風が吹いて過ごしやすくなった。自分を励まそうと思う。この1週間でユアンがどれだけ成長したかを思い出して自分を励まそうと思う。

1937年7月17日(ぢょうび)
午後8時。私は12時にユアンにルミナールを飲ませなければならなかった。ユアンは一日中ダルくて頭が痛かったが、今晩はごく自然な様子だった。彼はヒゲも自分で剃れるようになったし、目もまぶしくなくなった。咳は確かによくなった。本を読むのも楽しくなってきたようだ。今夜は涼しくて気持ちがいい。
10時。クスとエイダ訪問してきた。クスはいつもと変わらないダーリンだ。でも私はエイダにはもう用はない。彼女を見たとき私は心が沈んだ。彼女はチェスターが1年を棒に振ったことについて何か言うんじゃないかと思った。でもそんなことはなかった......。不思議だ。彼女はそのようなことを言う機会をめったに逃さない。

1937年7月18日(日指)
トロント、リバーサイド・ドライブ210A、「ジャーニーズ・エンド」
昨夜は二人ともよく眠れたし、ユアンは一日中とても元気だった。チェスター と私は外に出てマリオンと夕食をとった。ユアンは元気そうだった。
戻って夕食を食べた。先週の日曜日とは打って変わってとても涼しい一日だった。しかし私はこの数週間のひどい緊張の影響をいろいろな意味で感じ始めている。

1937年7月19日(月曜日)
ユアンはよく眠ったが、午前中はずっとダルそうで頭が痛いと訴えていた。しかし神に感謝することに、彼は至って理性的だ。本も読めるようになった。彼はベッドに入るとき、ノーヴァルのときに抱いていた恐ろしい「宗教的」思考に言及した。今はないと言っている。これは感謝すべきことだ。今日の『ガーディアン』紙には、クラウド・ウィリアムズの訃報が掲載されていた。小さな眉毛。ビデフォードの学生時代のクラウド。享年44歳。

1937年7月20日(火曜日)
まあまあの夜だった。ユアンは11時半まで眠らず、4時に咳き込んで起きた。ミルクを飲ませたらしばらくしてまた寝たが私は眠れなかった。E.は一日中ダルそうで頭痛を訴えていた。私は鋤掃きとルーティンワークをこなしたが、とても疲れて元気がなかった。

1937年7月21日(水曜日)
いい夜だ。ユアンは一日中冴えなかったが頭は昨日よりいいそうだ。彼も自分で車を運転してブロアーまで行った。これは大きな進歩だ。しかし一度だけ、もう二度とハンドルを握ることはないだろうと思ったことがある。
今日、我が家の子猫 "ジョージ" がキッチンを横切って、油まみれのシチュー鍋に突っ込んだ。庭の肥料用に取っておいた油まみれの食器用シチュー鍋に! かわいそうな姿になってしまった! 私は笑い方を忘れていたと思っていたが、数ヶ月ぶりに本当に笑った。そしてそれでいいことがあった。

1937年7月22日(木曜日)
ふたりとも普通によく眠った。彼は一日中本を読んだりソリティアで遊んだりしていた。こうして彼がまたこのようなことができるようになったのは本当に幸せなことだ。その日は暑くて息苦しかった。ラズベリージャムを作った。不運なジョージはまたしても危機一髪だった。彼はホールの暗い隅で丸くなっていた。 外の明るさで目がくらんだチェスターが彼を踏みつけたのだ。ジョージは意識を失ったように見えた。ジョージは2時間ほど意識を失っていたが、その後起き上がり、片方の前足が少し不自由になっただけで、いつもと同じように生き生きと踊った。片方の前足を少し引きずっていた。
今夜は疲れたよ。ユアンは一晩中、自分のことや自分の症状について話していた。それが彼にとっていいことなのかどうかはわからない。彼のためになるかどうかはわからない。でも、話を聞くのは疲れるよ。

1937年7月23日(金曜日)
私たちはよく眠れたが、ユアンは午前中と午後にひどい咳をした。再発しなければいいのだが。今日もラズベリー・ゼリーを作った。私たちの出費の多さを考えれば、これは決して軽んじることのできないものだ。

1937年7月24日(土曜日)
ユアンは夜も昼もよく働いた。日中はビールを飲んだ。夕方、私はユアンを誘ってラニーメッドに映画を見に行った。パンクな画面だったが、ユアンはその方が良かったようだ。私たちはブルーから歩いて家に帰った。それかカジノのゲームをした。私はカジノをする準備はできている。1時間単位で一緒にプレイして彼の暇つぶしになった。

1937年7月25日(日曜日)
ユアンと私は、彼がひどい咳の発作を起こした6時まで寝ていた。その日は蒸し暑く雨が降っていた。このような天候はいつも私をひどく疲れさせる。ユアンは一日中とても元気だった。彼はこの1ヶ月のことを話し、私に借りがあることに気づいたと言った。これは彼にとっては初めてのことだ。チェスターは一日中留守だった。どこへ? と尋ねると、彼は友達のところさとそっけなく答えた。でもそれが正しい友達かどうかは疑わしい。

1937年7月26日(月曜日)
ユアンは8時まで咳もなくよく眠っていた。私は体中がヒリヒリして遅くまで眠れなかった。今日、古いスクラップブックを見ていたら、私の古い詩が載っていた。涙と恐れという一節があった! その詩を書いたのは10代の頃だった。私はそのような "涙と恐れ" について少ししか知らなかった。それ以来だ! しかし私の年齢まで生きている人は皆そうだと思う。私は多くの中の一人だ。
今日は涼しく、風が強く楽しい一日だった。今夜遅く、ユアンの妹ケイトが娘のエヴリンとクリスティンを連れてやってきた。エブリンはクリーブランドのオマン医師夫人で、母親と妹が彼女を訪ねてきた。だから彼らは水曜日の朝までここにいる。私は彼らに会えて嬉しかった。母のいとこでサンフランシスコに住んでいるハロルドとパール・N・アクドゥーガルは、時々一緒にいる。サンフランシスコに住んでいてときどき手紙のやりとりをしている。明日もP.E.アイランドに向かう途中だ。この2人の訪問者はお互いを知らない。別々に来た方が、関係者全員にとってずっと良かっただろう。

1937年7月27日(火曜日)
旅の終わり、トロント
この日は、ノーヴァルでの昔の一日のようだった。ユアンは朝からひどい咳をしていたが、でも一日中元気だった。マクドゥーガル夫妻が昼食に来てくれた。メニューときれいなテーブルがあった。ここ1ヶ月は不愉快な食事が多かったから、こういう席に座るのは好きだし、文化的な気分になった。疲れていたし、心配もあった。私はその日を楽しんでいた。ゲストはみんないい人たちだった。笑いと会話が再び私のボードのまわりで輝いた。マクドゥーガル夫妻は午後遅くにオタワに向けて出発した。

1937年7月28日(水曜日)
とても涼しい。こんなにも違うものなのか。ケイトおばさんと娘たちは今朝出発した。9月にエヴリン夫妻を訪ねる約束をした。私は一日中ラズベリー酢とスイカのピクルスを作った。家事をするのがまた少し楽しくなってきた。ユアンは一日中元気で、元気になったらすぐに島を訪れる計画を立てている。私も行きたいのだが行けない理由がある。ユアンは大丈夫だと思う。旅行中はいつも元気だ。
今夜はとても疲れていてまた頭が痛い。でもちょっと笑ってしまった。古い箱をあさっていたら、アルマ・マクニールBからのある手紙を見つけた。チャーリー・マッケンジーが何年も前にキャベンディッシュ・スクールで書いた「詩」のことを書いていた。その詩は、チャーリー・マッケンジーが数年前にキャベンディッシュ校で目にした、同級生の女子生徒について書かれたものだった:
        「彼女は男の子たちを魅了する魅力を持っていた、
        彼女は男の子たちを魅了する魅力があった!

私はあんなに必死なクーエットではなかったと思う! まあ、いずれにせよチャーリーは私の "おもちゃ" ではなかった。遠い昔の憎しみや好意が、今となっては亡霊のように思える!

1937年7月29日(木曜日)
ユアンと私はぐっすり眠り、ユアンは一日中元気だった。彼の回復はいつも不思議なほど突然に、そして完全に回復する。
今日は(ユアンは)2マイル歩いた。1週間前は、自分の部屋のドアを歩いて渡ることもできなかったのに。彼の昔の表情と陽気な笑顔を再び見ることができてとてもうれしい。私は一日中、頭のひどい風邪で苦しんだが、ジャムとピクルスを作った。

1937年7月30日(金曜日)
寒くて眠れず惨めな夜を過ごした。でもユアンはここ1年では一番元気だったようだ。今日、メアリー・ビートンから手紙が届いた。彼女は友人を訪ねてバンクーバーにいる。サザーランドが今ここに(バンクーバーにか)住んでいる! 彼はかなり改心したようだ。メアリーのためにもそれが長続きすることを願っている。彼は帰郷後、島で厄介な揉め事に巻き込まれた。急いで帰らなければならなかった。

1937年7月31日(土曜日)
私の風邪はまだ続いているが、ユアンが元気でいてくれる限り私は何でもできる。元気でいる限り、私はすべてを受け入れることができる。しかし病気がすべての悩みを背負わせることは否定できない。負担になることは否定できない。昨夜、眠れないときに『アンド・ソー・ヴィクトリア』を読んだ。今、ヒットしている本のひとつで、とても魅力的な本だ。本当にとても魅力的だ。 現代の本にはほとんど書かれていないような気がする。しかし私の趣味は古いのかもしれない。スコットやディケンズやアイハッケレイやトロロープやキプリングやバリが大好きだ。今日の批評家たちは、彼らを「時代遅れ」だと言う!

1937年8月1日(日曜日)
「旅の終わり」
風邪をひいて泣けなかったが、今日は良くなった。ユアンはあまり良くなかった。咳が増え、少し頭痛がしている。


これは8月1日に私の手帳に書かれたものだ。7月はとてもつらい月だったがそれも終わった。ユアンは私が恐れていたようにはならなかった。そして8月に入り、私は少し希望と勇気が湧いてきた。今年最悪の事態は終わったのだ!


1937年8月2日(月曜日)
二人ともぐっすり眠れたし、ユアンは一日中元気だった。私は鋤をした。今日は蒸し暑くて、いつもより少し大変だった。でもユアンが元気でいてくれれば、私はどんなことにも耐えられる。


そう思っていた。まさか8月に私が耐えられないようなことが起こるとは......。少なくとも心の平穏や人生の楽しみのかけらもないものに耐えることになるとは。ラックや蝶ネジに耐えるように「耐える」ことは、本当の意味での「耐える」ことではないのだから。

1937年8月3日(火曜日)
ユアンが咳き込んだため、私たち2人にとって不運な夜となった。でも、いい一日だった。『ランタン・ヒルのジェーン』が届いた。それから ユアンと私はグレンに出かけ夕食をとった。楽しいドライブだった。奇妙なことだ。6月の朝、リースクデールから帰宅したとき(リースクデールでの記念説教)、もう二度と一緒にドライブすることはないだろうと思っていた。ユアンの回復の早さには、いつも突然の不調と同じくらい驚かされる。工場を経営しているグリフィス氏も夕食に来ていて、バラクロー氏の話を聞いていた。ミスター・バラクローの空いた椅子の端に座った。ミセス・Bはまだかなり弱っている。グリフィス氏は私たちと一緒に来て、バラクロー氏の財産について話してくれた。彼は思われているほど裕福ではなかった。

1937年8月4日(水曜日)
昨夜はルミナイを飲まなければ眠れなかった。でもユアンは一日中元気だ。1919年の春以来彼にはずっと欠けていたものがある。本人も認めている。ある種の「反抗心」が消え、思慮深く、愛情深い。今日、彼は私にこう言った。すべてがとても奇妙なことだ。レーン医師から電話があり、Eの心臓はO.K.だという。咳がよくなったのはそのせいだろう。

1937年8月5日(木曜日)
二人ともよく眠れた。ユアンは今晩、この夏初めてボーリング・クラブに行った。笑顔で帰ってきて、「家に帰れてよかった」と言っていた。
この3年間、ため息もうめき声もなく帰宅したことは一度もなかったと思う。と、ロレイン・ウェッブは島へ帰る前に訪ねてきた。

1937年8月6日(金曜日)
ロレインと私は今日イートンの家に行き、お茶を飲んだ。夕方、彼女とユアンと私はラニーメッドに行った。絵(映画)は「ピック・ア・スター」で、本当に面白かった。本当に笑ってしまった。ロレインは明日行く。残念だ。彼女はいい娘だし、いい仲間だ。

1937年8月9日(月曜日)
金曜日からかなり順調だったが、昨夜はよく眠れなかった。今日は霧と蒸し暑さと雨で不快だった。ユアンは少しイライラしていた。今日の午後も少しイライラしていた。チェスターはまた夕食に帰ってこなかった。最近よくあることだ。何か裏がありそうだが、それがわからない。

1937年8月11日(水曜日)
いつもの8月の "マグカップ" 今日、トンプソン夫人が1週間の休暇に出発した。一日中とても忙しかった。メイドが不在の最初の3日間は、いつも夜になるとひどく疲れる。それから急に「慣れて」気にならなくなるようだ。

1937年8月12日(木曜日)
ユアンは今日の夕方、島への旅に出発した。チェスターが駅まで送って行った。笑顔で元気に出発した。あの暗い島への旅立ちとは対照的だった。あのとき島へ向かう途中、芝生を横切る彼を見た1934年の晩秋の暗い夜だった。バスに向かう途中、芝生を横切る彼を見て、彼はもう戻ってこないのだろうかと思ったものだ。彼が楽しい時間を過ごすことを願っている。アニーとクリスティが彼の面倒を見てくれるから私は彼のことを心配する必要はない。そして私は何日かぐっすり眠れることを願っている。彼の咳に邪魔されることもないだろうから。一日中雨が降っていたが夕方には晴れた。虹を初めて見た。
昨夜、私にしては珍しくいい夢を見た。私の夢は不快なものだった。「予知夢」ではなく、「ありふれた夢」だ。私はいつも何かをしようとして失敗する。階段を上る、橋を渡る、狭い道を走る。しかし昨夜の夢は、自分が月夜の古いキャベンディッシュ教会から出てくる夢だ。どこかの 誰かは知らないし、そんなことはどうでもよかった。キャベンディッシュ・ロードを走った。重要なのは私が若かったことと、夜が美しかったことだ。 夜は美しさに満ちていた。不思議な感覚だった。そして目覚めは苦かった。でも気にしないで。ユアンが元気でいてくれるなら、私はまだ人生に耐えられる瞬間を見つけることができるだろう。

[オールド・キャベンディッシュ教会]

1937年8月13日(金曜日)
よく眠れたし、今日は晴れて涼しくていい天気だった。私は一日中一人だった。スチュアートはマーガレットとシムコー湖に行ってしまったからだ。もう一度一人になって仕事を片付け、少し希望を持つことにした。夕方には私はラニーミード・ホテルに2つの面白い絵(映画)を見に行った。本当に「笑い」は薬のように効く。
しかし、悲しい記憶がよみがえる。この日は "小さなヒュー" の誕生日だった。生きていれば 彼は23歳になっていただろう。彼はどんな子だっただろう? 真っ青な瞳をした、白くて小さな赤ん坊。おそらく彼はチェスターのように私の心を壊していたかもしれない。スチュアートは決してそんなことはしない。私の小さな赤ん坊。

1937年8月14日(土曜に)
「旅の終わり」
よく眠れたし、週末のパン作りも楽しくできた。でも今夜はちょっと足が痛い。『Jtznec』の英語版が届いた。ジャケットのデザインは コーワンの "Happy" とほとんど同じである。『ハッピー』は本の中に出てくるのだから。しかし芸術家というものは、必ずしもそう "忠実" ではない。今晩は寂しかった。ユアンに会えなくて寂しいし、家にひとりぼっちだった。ラッキーはもういない。彼がいた頃は決して寂しくなかった。思い出すのは私の膝に乗せると、愛しい柔らかい頭を私の頬にこすりつけた。私の膝の上に彼を持ち上げたとき、私の心はまた耐え難いほど痛んだ。彼は人間だった。どういうわけか人間の魂が猫の体に宿ったのだ。

1937年8月15日(日曜日)
1日はよく眠れた。4時に目が覚めたが、30分ほど本を読んだらまた眠った。その日は穏やかで、私はコーウェン夫妻とロイヤル・ヨーク・ゴルフ・クラブに行った。
午後はお茶をした。今晩は一人だったが満足だった。孤独よりもっと悪いことがある。クレメント・ショーターのアイアンテの本を読み直した。あの奇妙な女性たちの魅力は衰えることを知らない。

1937年8月16日(月曜日)
昨夜は眠れなかったので、ルミナール・タブレットを飲んだ。一日中みじめな気分だった。ルミナールは私には合わない。メディナルにこだわらなければならない。ああ、眠りを誘うものを必要としなかった日々をもう一度。今日、バーカーさんから手紙が届いた。彼女の『青い城』の劇がハリウッドの小劇場で上演されることになった。ハリウッドのリトル・シアターで上演される。何か大きな成果につながるかもしれない。だが期待薄だ。私にはそんな幸運はない。

1937年8月18日(水曜日)
1日ぐっすり眠って、今日はいい天気だ。ほっとした。蒸し暑くて息苦しい8月だった。アレクセナ(プリンスアルバートの友達)から手紙が来た。フレッドは糖尿病と心臓病で具合が悪い。ユアンからの手紙によると、彼はボート(島への連絡船)に乗っている30分を除けば、旅はとても快適だったそうだ。
今夜、バ・コニーに座っていると、渓谷の向こうでフクロウが鳴いているのが聞こえた。それは私に喜びを与えてくれた! 松林の丘があるノーヴァルでは、フクロウがよく鳴いていたものだ。今夜はカスバートとエイダが呼んでいた(夢か)。エイダに関する限り、そのようなことはなかった。(死んだ知らせではない)

1937年8月19日(木曜日)
坐骨神経痛のせいでひどい夜だった。蒸し暑く、雷が鳴り、土砂降りの悲惨な一日だった、アンのために鋤を使ったが大したことはできなかった。

1937年8月21日(土曜日)
まだ坐骨神経痛に悩まされている。でも今日シンプソンの店に行って、ラッキーの写真をプリントした。カメラ売り場の女の子が言った、「その猫は人間の顔をしている」と言った。確かにそうだった! 
イゾベルからの手紙がその日を暗くした。彼女とは長い間離れていた。でも彼女は昔よりずっと物わかりがよくなって、私を悩ませることはほとんどなくなった。彼女と過ごした時間! 
スチュアートは今夜、「よく眠れるようになった」と話していた。以前は4時まで眠れなかった。彼の心が楽になったんだと思う、 それが理由だろう。かわいそうに彼は人生の不安の分け前を得なければならない。誰にでもあることだ。愛情を注いでもそれを避けることはできない。

1937年8月22日(日曜日)
チェスターは今日、田舎に出かけた! 私は静かな一日を過ごした。本を読んだり手紙を書いたりした。でもその下には心配と疑惑の痛みがあった。
夕方、近所に出かけたが長居はできなかった。ラジオからは安っぽいジョークと安っぽいセンチメンタルな歌が流れていた。私はそれは昔の日曜日の夕方、パーク・コーナーにいた頃の私たちの友人たちの対話とは対照的だった。私たちはオルガンの周りに集まって賛美歌を歌った。ひどく退屈で古風だった。間違いなくね。しかしそのような夜も、なぜか対照的に苦にならない。今夜もまたフレンド・フクロウの声を聞いた。私は気分が良くない。頭がまた "きつい" のだ。


チェスターが帰宅した夜、私はとんでもないことを知った。夏の間ずっと、しかし現実は恐れていたことの10倍も恐ろしいものだった。今でもそのことは書けない。雷に打たれたような衝撃だった、いろいろなことを考えたことはあったが、そんなことは考えたこともなかった。もしスチュアートがいなかったら、私は気が狂っていただろう。彼(スチュアート)は以前からそのことを知っていたが私に何も言わなかった。終わり! まだ終わっていない。いつどのように終わるかは神のみぞ知る! 私の人生8月のあの夜以来、私の人生は地獄だった。

1937年8月23日(月曜日)
今日は恐ろしい一日だった。これは今までで最悪の出来事だ。この8年間、私を苦しめ続けてきた悪意ある力は、もう私に圧力をかけなくなるのだろうか? そうではない。私は未来への恐怖でいっぱいになり未来に立ち向かうことができない。直視できない。私は一日中、自分の部屋の床を歩き回っていた。夕方、チェスターは私に言った。彼は "別れよう" と言った。しかしある苦い理由から私には彼が誠実ではないことがわかった。

1937年8月24日(火曜日)
薬で1時まで眠った。それから起きて床を歩いた。まるで気が狂いそうだった。結局、もう1錠のメディナルを飲んで9時まで眠った。朝食のとき、チェスターはいつものように私にキスをした。しかし私はその違いを感じた。私が彼のしたいことを許さないことを知ったからだ。私がそんなことをするなんて、彼は夢にも思わなかっただろう。でも惚れた男は何でも信じてしまう。今日の夜、彼は出かけて行った。でも信じられない。そうだとしても幸せの見込みはあるのだろうか?
自分とは裏腹に、ルー・ラに対する憎しみが私を支配せずにはいられない。チェスターが悪いのは言うまでもないが、彼女の方がもっと悪い。死んでしまいたい。どこに向かえばいいのかわからないほど苦しい。ほとんど一日中。ああ、チェスター、昔の愛すべき真実のチェスターよ。何があなたを変えたの? どうして信用できない男になってしまったんだ? 誰が苦しもうとも、どんな甘えにも牙をむく。私はどうして訓練に失敗したのだろう? 正しいことを教えようとしたんだ。だが君は名誉の道を歩まない。自己満足に浸ることしか考えていない。それは私の呪いだ。私はあなたを愛さずにはいられないのです......決して愛さずにはいられないのです。私のかわいい長男が、こんなにも変わってしまった。もし私も変われたら......気にする必要がなかったら......。 もし私がこう言えたら......。
でも私にはできない。今夜はもう泣けないほど泣いた。アクスブリッジの学校検査官ハチソン氏が、ある夜のコンサート会場で、1歳のチェスターを抱いて私のところにやってきて、こう言ったのを覚えている。マクドナルドさん、あなたにはチェスターがいます。マクドナルドさん、あなたにはとてもかわいい赤ちゃんがいますね。彼は愛らしかった。誰からも愛されていた。そして、彼は自分の人生と彼に関わるすべての人の幸せを台無しにしてしまった。

1937年8月25日(水曜日)
またすぐにメディナルを飲むわけにはいかないので夜を恐れた。でもよく眠れた。しかし今日はひどかった。仕事ができずほとんど床を歩いていた。ある手紙を書いて、郵送する前にチェスターに見せた。「肩と腰がとても痛い」。私は心身ともに苦悶しているようだ。心も体も苦悶しているようだ。でも、前者だけだったら......。 と自分に言い聞かせる。でも無駄だ。こんなことに直面したのは初めてだ。すぐに終わると思えば、どんなことにも耐えられる。でも私には何カ月も、いや、何年も続くかもしれない。どうやって 耐えられるだろうか? 私は今夜、ある疑念と恐れを打ち砕くことができるかどうか確かめるために、ある散歩をした。でも結果はダメだった。嫌で嫌でたまらなかったが、必要なことだった。

1937年8月26日(木曜日)
トロント、リバーサイド・ドライブ210A
かなり眠れたが最悪の一日だった。クリスティ(ユアンの実家の姉)からの手紙で少し元気が出た。ユアンが「ここ何年か見た中で一番元気」というクリスティからの手紙に少し元気をもらった。仕事をしようとしたがほとんど何もできなかった。もしこの問題をスチュアートと話し合うことができなかったら、どうするつもりだったのか。他の悩みはすべて一人で背負ってきた。しかし、この問題はスチュアートなしでは耐えられない(兄さんは浮気だから仕方がないよと)。今日はとても暑くて近かった。少し大変だった。

1937年8月27日(金曜日)
薬で眠った。今日は悪夢だった。詳細は言えない。おそらく もしかしたらいいことがあるかもしれない。わからないし、私はとても悲観的だ。少なくとも私は災難を避けるために全力を尽くしてきた。今日の午後、ビクトリア助祭のルーさんから電話があった。彼女はどこかの新聞で スチュアートとマーガレットが湖でカヌーを漕いでいて、気が動転して救助されたという記事を見たらしい。 沿岸警備隊に救助されたという記事を見たらしい。二人は誰にも話していなかった。でもLさんが教えてくれました。泳ぎが得意なふたりだから、どうせ助かっただろうけど、そのショックとその日の緊張とあいまって、私にはとてもつらいものだった。

1937年8月28日(土曜日)
薬による睡眠。今日は少し調子が良く、本を少し鋤で耕すことができた。しかし、それどころではなかった。以前のような喜びはもうない。仕事に没頭できない。暑くてベタベタして、4時頃にはとても落ち着かなくなった。スチュアートは今日、私にこう言った。大丈夫だよどんな状況にも対応できる。残念ながら今の私はそうではない。この事態に対処できない気がする。
とても孤独に感じる。そして、こんなひどい誤った立場にいて、私には何もできない。 どうすることもできない。この状況について真実を知ることさえできない。

1937年8月29日(日曜日)
1日中、少しコントロールできるようになった気がした。今晩はコーウェンズに寄ったが、すぐに帰ってきた。これ以上長くいたら、自分の惨めさを隠しきれないと思ったからだ。だから家に帰った。ひとり。この心配と不安の苦しみに耐えてくれる人は誰もいない。私は泣き崩れた。何が起こっているのかがわかってから今夜で1週間。まるで100年の拷問のようだ。私はそれに打ち勝つことができない。私はこの重荷を背負うことはできない。少なくとも夜になるといつもそう思う。私の力はすっかりなくなってしまった。朝になれば、またこの重荷を背負うのだろう。いつもそうだ。こんな重荷は初めてだ。坐骨神経痛もとても痛くて、精神的な苦痛に耐えるのが難しくなる。その両方と同時に闘うことが、私の足を引っ張るのだ。

1937年8月30日(月曜日)
「旅の終わり、トロント」
よく眠れたが、背中と腰が一日中とても痛かった。鋤の仕事を4時間した。心配と苦悩を乗り越えて仕事を続けられたのは今日が初めてだ。しかし4時間目にはとてもナーバスになり、夜にはまた少なくとも2年間はサスペンスに直面することになる。それが最も恐ろしいことだ。この状況について最も恐ろしいことだ。
中国と日本で戦争があり、ヨーロッパには暗雲が立ち込めている。このような事態が起こったとき、ユアンが留守であったことに感謝している。もし彼が今週ここにいたら、私は苦悩を隠せなかっただろう。メランコリアに逆戻りしていたかもしれない。ユアンが帰ってくるまでに、私はもう一度自分を隠せるようになりたい。彼が帰ってくるまでに、私がもう一度、苦悩を隠せるだけの自分自身を持っていることを祈りたい。この1週間は私の人生で最も恐ろしい1週間だった。

1937年8月31日(火曜日)
この日もまたとても恐ろしい一日だった。ある新しい展開があった。ルーが動揺し、仕事ができなくなった。猛烈な暑さと湿気のせいですべてが大変だった。気が狂いそうになる瞬間もあった。坐骨神経痛で十分な睡眠がとれない。
今晩、一時的な逃避を求めて、キップリングの物語を映画化した『エレファント・ボーイ』を観に行った。キップリングの「ゾウのおまわりさん」を映画化したものだ。とても良かった。しかしその裏には恐ろしい心の痛みがあった。

1937年9月1日(水曜日)
新聞によれば、「過去96年間で最も暑い8月」が終わった。そして新しい月は最悪の日で幕を開けた。蒸し暑さがひどい。今朝は5時間の睡眠をとり鋤仕事をした。午後は展覧会に行き、キャットショーを見た。そこには運ちゃんそっくりの模様の美しい飼い猫が2匹いた。彼らは美しい尻尾、ビロードのような毛並み、大きな柔らかな目、愛らしい表情。 それにもかかわらず、彼との類似性に胸が痛んだ。そして今日、あることが私をひどく傷つけた。

1937年9月2日(木曜日)
私の毎日は、痛みに耐えられる日と耐えられない日に分かれている。前者では、私は仕事をし、計画を立て、少なくとも笑顔と表面的な落ち着きを持って世界に立ち向かうことができる。 後者ではそれはできない。自分の部屋の床を歩くことしかできない。ユアンが戻ってきたら、この安心感さえも否定されるだろう。私は "予備の部屋" が恋しい。リースクデールでもノーヴァルでも、私はいつも客間に避難していた。しかし、私はスチュアートには客間を与えてしまった。孤独に戦える場所はない。私はひどい夜とひどい一日を過ごした。
11時にルミナール錠を飲んだ。神経が多少落ち着いた。こういう薬を飲むのは嫌いだが、次のようなときもある。何か助けが必要なときがある。もちろんすっきりしない気分が続くと、すべてが辛くなる。空気は熱い厚い毛布に包まれているようだ。ユアンがこの病気から逃れてくれて本当に感謝している。彼が戻ってくる前にこの状態が終わることを願っている。

1937年9月3日(金曜日)
「旅の終わり」、トロント
昨夜はこの夏一番の暑さだったし、今日も猛烈に暑かった。しかし私はかなり眠れた。ある種の強迫観念から解放された。スペードワークもしたが、臀部の神経炎がひどかった。腰の筋肉の神経炎がひどかった。動いているときはそれほど気にならないが座るとひどい。横になっているときは拷問だ。何をやってもよくならない。アナシンを飲めば一時的に楽になる。

1937年9月4日(土曜日)
昨夜は神経炎で眠れず、薬を飲まなければならなかった。それから今日は蒸し暑くて痛くてたまらない。体がだるく、取り付かれたようだ。自分が壊れてしまうのではないかとひどく恐れている。仕事も手につかず、1927年にノーヴァルで書いた日記のコピーを少し打った。しかし、それが私に悪い影響を及ぼしていたので止めざるを得なかった。胸が締め付けられる思いだった。その年の私は幸せだった。なのに今は......! ああ、とても苦しい。昨年の秋、私はチェスターをビクトリアの若者協会に入会させた。チェスターのためになると思ったからだ。チェスターは入会し興味を持つようになった。彼は入会して熱心な会員になった。私はとても嬉しかった! でも、私が何をしようと、どんな善意からであろうと、どんな「正しい」動機であろうと私が試みるすべてのことには呪いがつきまとっていた。彼を呪うようなものだった。その結果が、現在の恐ろしい状況なのだ。アメリア・バーは『オール・ザ・デイズ・オブ・マイ・ライフ』の中でこう語っている。私が計画し、願ったことは、もしそれが実現したとしても、失望と後悔を伴うものだったと。
それも私の経験だ。ではどうする? 計画をあきらめて流れに身を任せるのか? 合理的とは思えない。なぜ私たちは計画を立てる能力を与えられたのだろう? 1919年、ユアンが病気になったとき私はこう言った。子供たちの人生を暗転させたくない。そして私はそれを守った。私は心配や恐れを隠し、いつも明るく幸せなふりをした。しかしもうこれ以上は続けられない。この先の長く暗い道のりはあまりにも恐ろしい。歩いていかなければならないが、そのときに表向きで笑っていられるだろうか?

1937年9月5日(日曜日)
昨夜、ベッドに入ってから激しく泣いた。かわいそうなチェスターが、2階に上がる前にキスしに来た。彼は悪くない。ただ弱く、孤独で、不自然な生き方をしているだけだ。同情も理解も、彼が求めるべきところには見つからない。
昨夜は天気に恵まれた。今日は涼しくて明るい。背中もだいぶ良くなり、苦痛から解放された。私は落ち着いていた。しかし計り知れないほど悲しかった。とてもとても貴重なものだった。私のように! ナサニエル・ベンソンの最近の詩の中で、彼はこう言っている。                 人生は、嘘つきの詩人たちが歌うようなもの
        嘘つきの詩人たちが歌う歌の価値はない。
4年前までなら、どんなことがあっても、私はそれに同意しなかっただろう。 若い頃は、
        不滅の幻を見て
        神の喜びを知っていた
私なら唸っただろう。人生は生きるに値する。苦しいかもしれないが面白い。そして常に希望がある。でも今は希望がない。誰にも耐えられないことがある。

1937年9月6日(月曜日)
つらい一日。神経炎がひどい。そしてチェスターが私をだましていることがわかった。どうしたらいいのかわからない。昨夜、とても素敵な夢を見た。珍しいことだ。ここ数年私の夢はほとん不幸なものだった。でも昨夜見た夢は、私が昔住んでいた家にいて、祖母がそこにいた。 祖母がいて、私がその家を10代の頃のように修復する夢だった。私は再びとても幸せだった。

1937年9月8日(水曜日)
スチュアートは今日、食事を摂りに行った。仕事ができなかった。背中がまたひどくなった。肉体的、精神的苦痛で気が狂いそうだった。私たちがノーヴァルで牧師をしに行く前にいた牧師、パターソン氏が今日やってきた。彼は一日たりとも病気になったことがないと言っていた! 昼にスチュアートから電話があり、元気になったとのことだった。私はアナシンが痛みと神経を和らげてくれたようだ。午後には仕事ができるようになった。

1937年9月9日(木曜日)
アナシンにもかかわらず、神経炎でひどい夜だった。今朝は街に買い物に出かけた。帰宅したのは3時だった。私はひどく疲れきっていた。すべてに無関心になった。ユアンからの手紙によると、彼は土曜日に帰ってくるとのことだった。彼が帰ってくるのが初めて恐ろしくなった。すべてが毒されている。

1937年9月10日(金曜日)
落ち着かない拷問のような1日だったが、夕方には良くなった。この神経炎を治すことができれば他のことに立ち向かうことができると思う。しかし私の人生は根底から毒されている。

1937年9月11日(土曜日)
「旅の終わり」、トロント
よく眠れたが、今日は強風とにわか雨のひどい一日だった。私の花はボロボロだ。でもそんなことはどうでもいい。平静を保つことができた。ユアンが帰ってくる前に自分自身を把握できてよかった。自分の重荷を背負い、このひどい状況をどう処理するか考えることができる。
今晩ユアンがやってきた。彼は元気そうで明るい。彼が私に不在の間に何があったのか、何か知らせはあるのかと聞かれたときはつらかった。だから昔の彼の帰郷とは大違いだ。ダンテがこう言ったのは真実だ。不幸の中で幸せだった日々を思い出すことほど大きな拷問はない。

1937年9月12日(日曜日)
今朝は教会に行ったが、私には拷問のような試練だった。Mrs. バラクラ夫人とエヴァが午後に来て夕食までいた。私は今そのような、もう一度人前で(平静を) "続ける" ことができるのはありがたいことだ。心配で胸が張り裂けそうな寂しい夜を過ごした。

1937年9月13日(月曜日)
神経炎のせいで睡眠がうまくとれず、一日中神経がまいっていた。字が書けないので、ビジネス・レターを書いたり床を歩いたりした。イゾベル・アファーソンからの手紙だ。そんな時だった! 今日の午後、コーウェン夫人に会いに行った。でも長居はできなかった。とても緊張して、苦しくてじっとしていられなかった。
今日の夕方、マーガレットとスチュアートと私は、ビクトリア教会の若き新牧師フレイザー氏の就任式に出席した。行きたくはなかったが少しは気持ちの助けになった。ある種の物事が少し縮まり、影が薄くなった。しかし私は1926年のユニオンでの "入会式" と、両会衆が私たちをめぐって同じような大騒ぎをしたことを思い出し、とても皮肉で苦い気持ちになった。物事も人もほんの数年でこんなにも変わってしまうものなのだ。

1937年9月14日(火曜日)
幸運なことに、A・シンプソンが2時に到着し10時まで滞在していた。ずっと途切れることなく話していた。私はアルフが好きだった。
昔、彼はそんなにひどい口調ではなかった。でも彼は変わった。彼は悪意に満ちている。(シンプソンなら、あるいはシンプソンと結婚している人になら、彼はよくしゃべった。)どんなシンプソンにも、あるいはシンプソンと結婚した者にも彼はよく話した。しかし彼はその神聖なポール以外の人については良い言葉を言わなかった。彼はシカゴを訪れ、エドの結婚式に出席した帰りだった。エド・フィスク夫人かフィッシュ夫人か、どちらかは聞き取れなかった。彼はまた糖尿病を患い、食事療法をしているが、神経衰弱からは回復している。彼は現役の牧師業から引退した。
アルフが去ったとき、私はひどく疲れていた。座って彼と話し、微笑み、興味を示すふりをするのはとても負担だった。私の心が折れそうなときに、微笑み、関心を示すふりをするのはとても負担だった。アルフは私たちが会ったとき、私の文学的成功について一言も話してくれなかった。私が本を書いたという事実にさえ一度も触れなかった。
午後、私は自分の本が入ったケースを手に取った。私はO.B.E.の記章が入ったケースを手に取りこう言った。アルフ、訪問してきた人全員に見せるわけじゃないんだけど、旧友が見たがっているかもしれないんだから出す。
しかし、その "旧友" は、私がそれを目の前に出すと、小指の先でそれをはじいただけだった。 フンと慇懃に言っただけで、それ以上何も言わなかった、私はシンプソンがこれほど育ちが悪いとは思わなかった。私は徽章をテーブルの上に置き座った。アルフに好きなようにしゃべらせた。結局のところ彼も彼の礼儀のなさも今となっては何の意味もない。しかしかつてアルフと過ごした夜は、本当に楽しいものだった。

1937年9月15日(水曜日)
ユアンはひどく眠ったが、一日中元気そうだった。10月にモントリオールに行き、マリタイム・クラブで話をするという招待があった。行きたいけど、行けないんだ。私はそのときになって、私の恐ろしい状況の展開に動揺してしまわないように。行くことができない。私の本のフランス、ポーランド、チェコの権利に関する手紙もあった。そして手紙の上手なマートルからの肉厚の長い手紙もあった。彼女の手紙はいつも私を少し元気にしてくれる。でも、向こうではパーク(P.E.I.国立公園)の件で険悪な喧嘩が続いている。結局のところ、この話はなかったことにしてほしい。

1937年9月20日(月曜日)
金曜の朝、チェスターとユアンと私はエヴリンとマイクを訪ねるためにクリーブランドへ向かった。今夜戻った。楽しい旅になるはずだった。しかし2つのことがそれを台無しにしてしまった。ユアンの頭がずっと痛かったこと、また発作が起きているのは間違いない、もしそれが6月のようなものだとしたら......。もうひとつは、チェスターがあることについて私をだまそうとしていることだ。うんち? チェスター。彼はいい旅の友だ。父親のように、彼は車を運転しているときが最高なのだ。心配事を忘れてドライブを楽しんだこともあった。エブリンは素敵な家で、私たちに親切にしてくれた。マイクもいい人だ。
土曜日の夜、彼らのクラブで友人たちと食事をした。チェスターがいかにうまく、見事に男たちと話しているかに気づいた。彼が仕事に落ち着かず、彼の頭脳を生かす仕事ができないのは残念だ。才能や天賦の才を、それを生かそうとしない者のためになぜ無駄にしなければならないのか。今日、家に帰った。心配事や醜い自分の世界に戻るのが怖かった。
今の生活。家に帰ってもうれしくないのは、とても不思議で苦しい。メアリーからの手紙を見つけた。来ないでほしいと願わずにはいられない。このような気持ちのまま、誰かをここに連れてくるのが怖い。スチュアートは神経学の試験に合格した。これで小さな心配は解消された。ジェーンの批評がたくさんあったが、どれもとてもよかった。ひとつは "復讐に燃えたリアリズム"、もうひとつは、ジェーンは "大都会新聞の最終版と同じくらいモダンで、ある意味では非常に似ている"。これは、"甘い、古風な物語" という別の批評と比較すると、これは特に可笑しい!

[ドクターオーマンの家]

[ユアンとモード]             "E・アンド・マイク"
                       [マイケル・オーマンと妻エヴリン]

1937年9月21日(火曜日)
リバーサイド・ドライブ210A
貧しい夜と苦い一日が続いた。ユアンは一日中とても冴えず無関心だった。私は一日中働き、暗くなるとベッドに横になった。絶望的な気分だった。この先、心配と恐怖と失望に満ちた数年間しか見えない。 (本当だ)。

1937年9月22日(水曜日)
眠りが浅く、一日中とても惨めな気分だった。少し良くなった。夕方、ジュノール夫人の家でカナダの作家たちのエグゼクティブ・ミーティングがあった。いつも通り多くの話があったが、ほとんど何もできなかった。ロブソン氏は私に、「この夏は楽しかったですか? と聞いた。私は「ああ、とてもよかったよ」と答えた。 いい夏だった!

1937年9月23日(木曜日)
あまり良い日ではなかった。仕事をするのがとても辛かった。黒猫がまた4匹の子猫を生んでくれた。一匹は 死んでしまった。奇妙なことに他の3匹は最初の3匹とほとんど同じなのだ。黒1匹、白黒2匹。最初の子猫のうち「ジョージ」だけだ。エドワードとエリザベスはマリオンに譲った。私たちは新入りたちの名前を繰り返し、エドワード、エリザベス、ジョージと呼ぶことにした! 夕食後、コーウェンズの家に寄った。外に出て体を疲れさせようと、1時間ほどリバーサイドドライブを歩いた、そう、そうかもしれない。私が家に入ったときにはみんな出かけていた。私は孤独が厚い雲のように押し寄せてくるようだった。日本と中国の間で戦争が勃発している。どこもかしこも不穏だ。苛烈な世界だ。

1937年9月24日(金曜日)
今日はよく眠れたし、気分も少し良くなった。本を4時間読むことができた。今晩は、スチュアートが持ってきてくれた「狂気」に関する本を読んだ。その中には、不思議なことにユアンのケースに当てはまるものもあった。夜遅く、手紙を出すために郵便受けまで歩いて行った。夜は私を癒し休ませてくれた。この心配に終止符が打たれることを望めば、まだ立ち直れると思う。しかしそんなことが可能だとは思えない。ユアンは一日中、とても冴えず、無気力だった。

1937年9月25日(土曜日)
一日中、神経がとても悪かった。午後はずっと鋤の仕事をしていたが全く気合が入らなかった。アマンダから手紙が来た。面白かった。
5時、私はとても落ち着かず、ブロマイドを試さなければならなかった。少しは効果があったが頭が変になった。ユアンは一日中とても不機嫌だった。今日、杉の箪笥の中身を調べていて、チェスターの6月のセント・アンドリュースのレポートを見つけた。1928年6月のチェスターのレポートを見つけた。それは「彼の学年で最高の成績というだけでなく、全校生徒で最高の成績」だった。そして今は。

1937年9月26日(日曜日)
私は6時に起床した。とても惨めな気分だった。しかし直面することになった。今日の午後、ルエラとプッシーとカムが1週間の滞在のためにやってきた。この状況では、ほとんど耐えられない。まったく情けない。でも、誰にも疑われてはいないと思う。

1937年9月27日(月曜日)
今日は地獄のような一日だった。何もかもがめちゃくちゃで一晩中眠れなかった。一日中神経が高ぶり、みぞおちのあたりに1935年以来の恐ろしい感覚が現れた。できるときは働き、できないときは部屋に閉じこもって床を歩いた。涙を流せば緊張がほぐれるだろうが、誰にも私の状態を疑われたくないので、涙を流すことはできなかった。何とも言えない苦い気分だ。

[小さい時のチェスターとスチュアート]

1937年9月28日(火曜日)
10時から4時まで自然によく眠れた。それからメディナルを半量飲んで8時まで眠った。このためか、あるいは何らかの理由で一日中気分がよかった。すべてが良くなったように思えた。子供たちも元気だった。しかし、一日たりとも(苦い思い)なしには過ごせなかった。
夕暮れ時、私は一人で部屋にいた。チェスターとスチュアートがやってきて、些細なことから始まってひどい口論になった。スチュアートは当然のように憤慨した。しかし私は、彼が私の前で口論を始める必要はないと思った。私が今どんな緊張を強いられているか知っているのだから。 しかし彼は私の話を聞こうとはしなかった。私はその場に座って、彼らが互いに非難し合うのを聞かなければならなかった。私はあきらめた。
彼らをなだめようとして、呆然と惨めに座り込み心を病んだ。彼らはかつてあれほど愛し合い、あれほど楽しそうに遊んでいた子供たちだったのだろうか? 喧嘩をしたことはなかったと思う。チェスターがセント・アンドリューズに行ったとき、スチュアートは心を痛めとても寂しがった。最初の寂しい一週間の終わりに、彼がチェスターに書いた手紙を覚えている。その中の一文に、「君が去ってからずっと雨が降っている。お天気もあなたが去ってしまうことを残念に思っているのでしょう」と。
そして今! 多くの母親が、このような事態に耐えなければならなかったに違いない。私は "初めてではない" ユアンは今日少し良くなったようだ。

1937年9月29日(水曜日)
一日中よく眠れ、体調もよくなった。神経的な不安もなく仕事もできた。さらに不思議なことに何事にも無関心になった。それが続くことを願っている。この1ヵ月の苦しみに戻ることを考えると恐ろしい。でもそうならないことはわかっている。一時的な精神の衰えに過ぎない。意識にはそして苦悩が戻ってくる。 ユアンはとても鈍い。

1937年10月1日(金曜日
今日は暖かくていい天気だった、憂鬱ではあったが。エラから手紙をもらった。「叱ってやりたい人がいるんだ!」と! 今晩は少しの間逃げ出さなければならないと思った。『ソロモン王の鉱山』を観に行った。いつもの茶番劇だったが、しばらくの間、我を忘れることができた。

1937年10月2日(土)
今日もまた神経をすり減らすハードな一日だった。マージョリー・ウィルソンから手紙をもらった。『サタデーナイト』誌に彼女の近著『The Longest Way Round』の書評を寄せてほしいとの依頼があった。サタデーナイト。彼女はいつも私の書評を親切に書いてくれているので、書かなければならない。でも不誠実なことを言わなければならないから嫌なんだ(お世辞で褒めなくてはならない)。マージョリーは決して創造的な仕事をしようとしてはいけない。というのは不誠実なことを言わなければならないからだ。またやってくれたな。「彼女はまたやってくれた!」。という意味だ。
今日の午後、私はブロア・ストリートまで歩いた。葉がそっと落ちていた。私が通り過ぎた庭は、ミカエルマスデージーの幽玄な紫色でいっぱいだった。それで少し救われた。しかし今夜は苦い憤りを感じずにはいられない。

1937年10月3日(日曜日)
今日、ルエラと子供たちは家に帰った。愛しい子供たちに会えなくなるのは寂しいが、ルエラに会えて、ルエラが.帰っていくのを見送るのは、この状況下ではとてもほっとした。今日の夕方、私は神経が落ち着かずとても苦しんだ。外に出かけなければならなかった。
スチュアートはマーガレットが作ったピアスターのマスクを持ってきた。私は気に入らなかった。死んだ顔みたいだった。ユアンはとても冴えない。

1937年10月4日(月曜日)
いい天気だ。晴れて穏やかだ。午後は自分の仕事を片付けるに追われた。神経質な落ち着きのなさに悩まされたが、一日を通して我慢できた。 日中は耐えられた。夜になって、また耐え難いほどになってきた。もう耐えられない。この恐ろしいサスペンスと心配にあと2年は耐えられないと思う。私は悲鳴を抑えることができない。チェスターは夕食に帰ってこなかった。なぜだろう? と聞いても教えてくれないからだ。そしてこの子は、幼少期から一度も嘘や言い逃れをしたことがなかったのに! 私は彼がとても正直である誇らしく思ったものだ!

1937年10月5日(火曜日)
夜は調子が悪かったが、一日中かなり調子が良く鋤仕事もできた。今日、法科大学院が開校した。ロー・スクールは修理のために数週間遅れて今日開校した。チェスターは2年目をやり直した! 私は今晩、センテニアル・ユナイテッド・チャーチで話をした。昨年の春、その約束がまだあることを発見する前にした約束の埋め合わせだ。そのおかげで、少しの間、自分の美の世界に浸ることができた。

1937年10月6日(水曜日9
私はよく眠れた。午前中はずっと手紙を書き、マージョリーの本のレビューを書いた。午後は街に出て、ストリートカーから家まで歩いた。美しい色に包まれた素敵な夜だった。あのひどい8月の日曜日以来初めて、自然が再び昔の魅力で私に呼びかけ、私の痛んだ心はかすかな返事をした。

1937年10月7日(木曜日)
スチュアートの誕生日。彼は21歳だ。21年前の今日生まれたのだ。あまりに幸せすぎて、神々はそれを気に入らなかった。
今日、メアリーから手紙が届いた。トロントに立ち寄ることができないことを知りほっとした。楽しい交歓は持てないと感じていた。これもまた苦いことだ。

1937年10月8日(金曜日)
今日、マージョリーから手紙をもらった。私が絶対的に誠実であることを知っていたからだ。それは痛かった――私の書評は誠意がなかったからだ。彼女の本はひどくありふれたもので、彼女の処女小説『チャイルド』を特徴づけていた特徴がまったくない。彼女の最初の小説集『子供の家』にはその特徴がまったくない。あの本はほとんど人気がなかった。しかし非常に巧妙に書かれていた。彼女の新作にはその魅力がまったくない。(誠意がないと言うのはまともに批評して貶すことが出来なかったという意味か)
ユアンは今日はとても退屈だった。地下室に行き何時間も頭を抱えて座っていた。私は今晩、作家協会の開会式に出席した。
それはむしろ心地よいものだった。ある女性は、BC州で「私の本もハーディの本も全部読んだ」という家族に会ったことがあると話してくれた。なんという結びつきだろう! 私は爽やかで涼しい夜の車列から家まで歩いた、また現実から逃避できる。この瞬間がなかったら私はこの先も生きていけないだろう。

1937年10月9日(土曜日)
まあまあ眠れたが、一日中頭が "きつかった"。夜には閉所恐怖症になった。しかしユアンはずっと元気で明るかった。「大きな」ジョージ(猫)は私のベッドの足元で眠っている。そこでうたた寝をすることはあまりない。私は決して促さない。私は彼がラックの居場所にいることを恨んでいる。

1937年10月11日(月曜日)
感謝祭の日だ! 本当に感謝すべきことがたくさんあると思う。心が痛むのでそれを実感することはできない。ノラがここで1日過ごしてくれたおかげで私は助かった。私たちは感謝祭のディナーを楽しんだ。かわいそうなユアンは今日、新しい医者に診てもらった。彼はもう半ダースの医者に診てもらったと思う。みんな違う話をして違う治療をする。結果はいつも同じだ。
今日、エレノア・アグニュー(ローラ・アグニュ―の娘)から手紙をもらった。彼女は婚約していた男性と結婚するために南アフリカに行く。なんという旅だろう。ローラが生きていたら、きっと悲しむと思う。しかしローラは夢も見ずに眠る。

1937年10月13日(水曜日)
昨夜はルミナールを飲まなければならなかったので、今日は心配で何も書けなかった。今夜は寒くて荒れ模様だ。今夜はメアリーに手紙を書いた。メアリーが来ないのはとても寂しい。昨夜は霜が降りて庭がなくなってしまった。でもどうしたんだ? ユアンがまた横隔膜の「焼けるような感覚」を訴えている。それにはいつも身震いするんだ。以前はひどい発作の前兆で、地獄の幻覚の前触れだったからだ。
今日、古い1897年の日記に目を通すと、エドウィン・シンプソンとの婚約直後に書かれたこんな一節があった。「悲劇的な人生もあるようだ。 私の人生もそのひとつだ」。(ああ、そうだ、そうだ!) その恐れは正当化された! もう1つのエントリー(記述)は、"こんな夜はもう二度と経験したくない" というものだった。エドがベデックを訪れた直後に書かれたものだ。私はこれを見てひねくれた笑みを浮かべた。私はそれより何千倍も恐ろしい夜を生きてきた。それでも、あの夜はひどかった。私はまだそのような感情が過ぎ去ることを知らなかった。年月が経つにつれて薄れていき、自分が経験したことがあるなんて信じられなくなる。そのような感情が過ぎ去っていくことを私はまだ知らなかった。エドウィン・シンプソンへの恐怖も、ハーマン・リードへの恋もいまや亡霊にすぎない。エドがこう言ったのを覚えている。私が彼に自由を求めた後、彼の気の抜けた手紙の中で、彼はこう宣言したのを覚えている。
彼との愛は永遠であることを。しかし数年後彼は結婚した。結婚しその結婚生活が幸せであったことを疑う理由はない。時というものは時に優しく、時に残酷である。

1937年10月14日(木曜日)
私の日々はすべて悲惨に思えるが、数週間に一度その悲惨さが際立つ日がやってくる。その悲惨さは際立っている。今回もそうだった。ユアンの徘徊のせいで眠りが浅かった。ルミナルを飲ませたが、早く目が覚めた。すると郵便が来て、ボガード氏からの手紙が入っていた。ボガード氏からの手紙にはこうあった。チェスターはもう事務所に来なくていい!(チェスターは法務助手でもやっていたのか) 疲れて気分が悪かったので、私はすぐに服を着てストリート・カー(電車)で街に出かけた。ユアンに彼のことを話す勇気もなかった。ボガード氏は、チェスターは夏の間ほとんどオフィスにいなかったと言った。どこで過ごしていたのだろうか? チェスターは先週、あるクライアントのために重要な仕事を与えられたが、それがまだ終わっていなかった。そのクライアントは11時にその書類を取りに来る予定だった。
私は恥を忍んで、B氏にチェスターにもう一度チャンスを与えてくれるよう懇願した。彼は妻と二人の子供を養っている。と私は言った。B氏は、彼にもう一度チャンスを与えると言った。彼は言った。「Cは素晴らしい頭脳の持ち主」であり、「素晴らしいことができる」だろうと言った。
だが「怠け者だ」と言った。このことは私もよく知っている。彼はチェスターは講義を数分勉強すると、それを放り投げて探偵小説を読むと言った。これは私もよく知っている。私たちが話している間に、チェスターが講義から戻ってきて、彼が調べていた証書を持ってきた。結局、間に合った。しかし、もしC.がこの先2年間、もっとしっかりしなければならないのであれば、私たちはC.を叱らなければならない。チェスターが非常に愚かだったことは分かっているが、B氏はどう考えても理想的な "主将" ではない。スチュアートはいくつかのことを発見した。彼のオフィスは学生にとって良いオフィスとは思われていない。仕事量に対して生徒の数が多すぎる。ほとんどの時間、彼らは何もせずにぶらぶらしている。彼は私にこう言った。彼(ボガード氏)は「チェスターのために大したことはしていない」と認めたが、彼が仕事を終えたら、起業する場所を確保すると言っていた。彼がそうするかどうかは大いに疑問だ。他の学生との約束を守らなかった。そのような幸運は私たちにはない! できる限りの調整をした後、私は買い物に出かけた、気分が悪かった。
通りである少女が来年の「数秘術チャート」を売っていた。なぜかはわからない。私はそのようなものを少しも信じていない。お弁当を食べながら読んだ。過去と私の性質について書いてあることが不思議なほど当たっているように思えた。書いてあることが、私には不思議なほど正しく思えた。
「あなたは素晴らしい自信を蓄えている。(創作力があり創造力があり、優れた文学的才能がある)。(あなたは自分の能力を過小評価する傾向がある)。 (おそらくそうだろう)。自然を愛し、あらゆる源から知識を得ようとする天性の勉強家である。経験によって (その通り。) "あなたは人脈を通じて成長し"、精神的に強くなる。
仲間とともに" (本当です。)?" あなたには人を惹きつける個性がある。 "どこに行っても傑出した人物になる" (人々はあなたにインスピレーションを求めるでしょう)。インスピレーションの源として、困ったときにはあなたに助けを求めるでしょう」。(その通りだ)。 "あなたは批判を好まないが感謝は好きだ"。(本当です。 そして誰に対しても)" あなたの好みは経済的ではない。最高級の肌触りの服を着て、良い環境に住み、高級なものを食べているときが本当に幸せなのだ。心底冒険家であるにもかかわらず荒れた生活を好まない。(でも、必要なときにはとても経済的になるんだ」。) "大金を稼ぐ能力はあるが、自分のために気前が良すぎる。"。「気前の良さ」が、決して返してくれない友人にお金を貸すことを意味するなら、悲しいかなその通りだ。気前が良すぎる。) "財政に関する計画に入る前に、必ず法律家に相談すべきである"。(そうすべきなのだが、残念ながらそうしなかった)。あなたは一目で気に入られ、多くの人を惹きつけるが、内心では孤独な心を持っている。(本当に、本当に、本当に!)あなたは恋愛には特別恵まれていない。あなたは同じような激しい愛が返ってくることはめったにない。あなたは友人は多いが、本当のあなたを知る人は少ない。あなたの欠点は人に仕えることだが、あなたに仕える人はほとんどいない。(これも真実だ。) "驚異的な直観力を持ち、超常現象や超能力に近い" (本当だ、 おそらく――少なくともある程度は) "もしあなたが女性なら、次のような職業に就いて幸福と成功をつかむでしょう。舞台、デッサン(?戯曲や物語を書くこと、音楽"!)

といったところか。すべて妙に当たっている。未来予想図がそうであることを願っている。そうであってほしい。

"1938年はあなたにとってとても幸運な年になるでしょう" (?) "あなたは長い間 "ブレイク" を待っていた。(本当だ!)、今、それがやってくる。あなたは完全にラッキー・サイクルのピークに近づいている。挫折が訪れても心配しないでください。"あなたは必ず、驚くべき方法で困難を切り抜けることができる"。

そう願うが信じてはいない。これは私にとって幸運ではない。なんて憂鬱なんだろう。チェスターのために何かをしようとしても、少しも無駄なようだ。仮にチェスターが助かったとしても、何の役にも立たないだろう。

1937年10月16日(土曜日)
「旅の終わり」、トロント
まあまあ眠れたので、一日を乗り切った。今夜は頭が「きつい」感じがする。私はこの感覚は12年ほど前から感じ始め最初は心配だった。でもこの間、悪化もしなかったので、ただの "神経" だと結論づけた。危険ではないがとても不快だ。このところ、可哀想なユアンが私の神経を逆なでする日が続いている。退屈で食事中も冴えない顔で座っている。誰にも一言も話しかけない。彼は最近、別の医者に行ったら、血圧が160もあると言われた。今日またレーンのところに行ったら、普通でしかなかった。だからユアンは今夜は気分がいい。安心感がなくなるまではもっと良くなるだろう。どの医者に行っても違うことを言われる! 
今夜は散歩に行きたかったけど、一緒に行ってくれる人がいなかったし、一人で立ち向かうことはできなかった。一人で散歩するのが私の最大の楽しみだった、魅惑的な空想に誘われての一人散歩は、私にとって最大の楽しみのひとつだった。

1937年10月18日(月曜日)
ひどい一日だった。ぐっすり眠ったにもかかわらず、一日中神経が「高ぶった」感じだった。ユアンはとても不機嫌で、一日中雨が降りとても暗かった。私は4時間、スパッドの仕事をした。最近のチェスターはとても険しい。彼の恨みで私たちの間には氷のような雲が漂っている。
今晩、私はC.A.A.の幹部会議に出席した。男たちはタバコを吸いながら、12時15分まで本の週刊誌のプログラムについて議論した。何も得られなかった。頭が痛くなり、終わったときは嬉しかった。でもそのおかげで私はいいことがあった。

1937年10月19日(火曜日)
「旅の終わり」
またしても緊張のひどい一日だった。大惨事を待っているような感覚だ。鋤の仕事を少しこなし、午後はマクルネス夫人がノックス・カレッジで開いていた小さなお茶会に行った。彼女たちは皆、自分の息子やその成功について語っていたからだ。でも、私には今、痛いところがたくさんある。そのうちのいくつかはいつも触れられている。『ランタンヒルのジェーン』の英語版が今日届いた。ジャケットの犬がハッピーにそっくりだ。今夜は苦くて長い散歩をしなければならなかった。月を見た。そして私は無力だ。

1937年10月22日(金曜日)
この雨の一日、とてもダルくて疲れた。私は街の反対側に行き、友人のバスカヴィル女史と夕食を共にした。その気概と明るさに、私はいつも恥ずかしくなった。私たちはビクトリア大帝を見に行った。『ゴッド・セイブ・クイーン』が歌われている間、観客は全員立ち上がって歌った。 私はとても不思議な感覚を覚えた。God Save our gracious Queen(神よ、我らが女王を守りたまえ)を再び歌うのは、とても不思議な感覚だった。一瞬、90年代に戻ったような気がした。 エドワード国王の即位後、皆が男性代名詞に移行するのに苦労したことを覚えている。エドワード国王の即位。そして私が聞いた面白い話も覚えている。代名詞が混ざっていることがバレないようにしようと決心していた。そこで彼は、次のように歌った。第3節(当時は賛美歌全体が頻繁に歌われていた)を次のように歌った。
        おお、われらの神、主よ起ち上れ
        敵を散らし
        そして彼らを倒させよ
        彼の政治を混乱させ
        卑劣な策略を挫き
        我らの心を彼に向けよ、
        神よ、我らを救いたまえ!』」!

今夜もチェスターへの苦いインタビュー! 彼は私を欺こうとしているし、それを知っているからだ。


10月24日と25日の手帳には何も書いていない。10月24日(日)の夜、私は軽い出血をした。ごくわずかだったが、それでも出血があった。その夜は眠れなかった。翌日、私はレーン医師のところに行きそのことを告げた。彼はやってきて一種の検査をした。診察をしてくれた。深刻な病気だとは思わなかったが、しばらくの間治療のためにしなければならないことがあると言われた。この1年、何カ月も続いた他のことに加えて心配が重なった。 (この日記は1月に「書き上げ」たものだが、一度も「追いつく」ことができなかった。「現在1938年の10月中旬である)。それ以来私は、レーン医師は、あの出血は尿道の炎症によるものだと確信している。膀胱炎にも少し悩まされていたからだ。しかしその出血の後、最初の数ヶ月は続いた。

1937年10月26日(火曜日)
昨夜は眠れた。この毎晩の治療は恐ろしく厄介だ。 もちろん何カ月も続けなければならない。今日は無理やり少し鋤仕事をした。午後はお茶に行った。ある夫人に出会った。鉱山工学科1年生の息子がバプティ賞を受賞したのだ。ラニー夫人に会った。私はチェスターが初めてS.P.S.に行ったときのことを苦々しく思い出した。チェスターが初めてS.P.S.に行ったとき、彼にこの賞のことを話して、挑戦するように頼んだことを苦々しく思い出した! レイニー夫人の歓喜の声を聞くのはとても辛かったが、Jはそれを彼女に見せなかったと思う。息子たちがクラスをリードし入賞していた頃、私は息子の活躍を自慢するようなことはしなかった。私は、息子がセント・アンドリューズでクラスをリードし、賞を獲得していた頃、息子の功績を自慢するようなことはしなかった。そのことを口にしたことさえなかった。1人か2人の親しい友人にしか。しかし、当時は彼らを誇りに思っていた。今となっては、少なくともチェスターに関しては恥ずかしながら沈黙を守ることしかできない。

1937年10月27日(水曜日)
今日、エレノア・アグニューが、南アフリカに旅立つ前にお別れを言いに来た。南アフリカへ向けてカナダを発つ前に! 彼女は元気そうで、まったく幸せで自信に満ちている。私は悲しそうに彼女を見送った。もう二度と彼女に会うことはないだろう。でも彼女が幸せになることを願っています。かわいそうに。

1937年10月28日(木曜日)
とても冴えない暗い日。「イングルサイドのアン」の鋤入れを終えた。でも果たして書けるのだろうか! 確かに今のような気持ちのままでは書けない。そしてもし来年の出版に間に合わせることができなければ、経済的にも厳しい状況になるだろう。最近また市場が暴落している。来年の春には売らなければならないと思っていた株も、私が買った値段よりはるかに下がっている。最近はどんな投資でも、投資というものは、たとえ良いものであったとしても、その投資先がどのような状況にあるのか、今となっては誰にもわからない。日暮れ時、私はとても寂しく不幸でもう耐えられないと思った。トッパーを観に行ったんだ。とても面白くて笑ってしまった。気分が良くなった。

1937年10月29日(金曜日)
今日、絶対に必要な新しいイブニングドレスを買いに街に行った。黒のレースがとてもかわいかった。着てみると、ひどく老けて疲れているように見えた。フィッティング・ルームで試着してみた。でもそれがどうした? 私は新しい帽子も買った! 私が少女の頃、「ラスティックス」は廃れていた。みんなハットピンを持っていた。老婦人たちだけが「ラスティック」にしがみついていた。笑われたものだ! 今、私たちはみんなそれをつけている。今夜はとても緊張して落ち着かない。チェスターは相変わらず不機嫌で不細工だ。すべてがひどい混乱でもう片付く見込みはなさそうだ。
今日、ある日付を確認するために古い日記を見ていたら、こんな記述があった。 「Sat. 1891年11月7日、このペンで何かできる日が来るのだろうか。もう少し教育を受けることさえできれば! しかしそれは不可能に思える。自分の将来をちょっと覗いてみたいものだ! もしそれが暗かったらどうしよう!」。


そう、そのときはまだ、自分の将来がどうなるかはわからなかった。おそらくそれは私たち全員にとって。この先に進む勇気を持つ人はほとんどいないと思う。無知な私たちは、私たちはいつも "明日が報われることを祈りながら"。 ――私がそうであったように、"明日" のない場所にたどり着くまでは。

1937年10月30日(土曜日)
「旅の終わり」
とても惨めな一日を過ごした。恐ろしいほどの落ち着きのなさに苛まれた。レーンの勧めで鎮静剤を飲んだが効き目はなかった。午後、週に一度の買い物をしにロブローに行った。いつものようにチェスターが運転してくれたが、何も話さず、とても怒っていた。私を嫌っているのだろう。
午後遅く、私は家にいられなかったのでブロアーまで歩いた。暖かく晴れ渡った素敵な日だった。庭にはミカエルマスデージーの紫色が点在していた。しかし私に癒しはなかった。なぜ、なぜ? どうして、どうして? 私には多くの欠点があり、多くの過ちを犯してきた。良妻賢母であろうと努力してきた。なぜ私はこの果てしない絶望的な惨めさに耐えなければならないのか?  今夜はみんな出かけている。私の孤独はひどい。頭が鉄のバンドでぐるぐる巻きにされたような感じ。腕が痛くてたまらない。本も読めない。ラッキーがここにいてくれたら、私の愛すべき慰めの老伴侶が! 私たちが飼っている猫たちは私にとってかけがえのない存在だ。どこに向かえばいいのか、どうすればいいのかわからない。今夜は閉所恐怖症がぶり返したが、風が冷たくて外に出られない。私は本当に恐ろしい状態で、"書き出す" ことで少し安堵している。信じられない。出血が深刻な事態を意味するものではないと言ったレーンの言葉が正しかったことが信じられない。私は楽に死ねるなら大歓迎だが......。そんなものはない。私にも、私の愛する人にも、良いことが再び訪れるとは思えない。すべては暗い時間の中で私に示される。これが私が愛した子供が私にもたらした状態なのだ。もう愛するのをやめたい。彼を。そうすれば彼は私を苦しめることはできない。でもそれが私の呪いなのです。私にはできない。

1937年11月1日(月曜日)
昨夜は眠る前に薬を飲まなければならなかった。今日はいい天気だった。息子たちと街に買い物に出かけた。今夜は 「真夏の夜の夢」を少女時代以来初めて再読した。初めて読んだ夜のことを覚えている。私は10歳くらいで、古い "座敷" の囲炉裏の敷物に寝転んで、火の明かりの下で読んだ。フレイザーさんが持っていたシェイクスピアの本から取り出した。そのときの私の反応は忘れられない。私は本当におとぎの国に入り込んだようだった。今夜もまた古い呪文が紡ぎ出され、私は外の雨が枯れ葉に降り注いでいることも忘れていた。冬が私の心の中にあることを忘れていた。

1937年11月6日(土曜日)
昨日、私はバスでオリリアに行き、夕方、長老教会のヤング・ピープルで話をした。マクルネス牧師夫妻の家に泊まった。また牧師館に泊まれてよかった。雰囲気が好きだった。小さな家族でみんな幸せそうだった。そうだね。私にも一度だけあったんだ。
今日家に帰ったら、少なくともスチュアートは快く迎えてくれた。夕方にはブックフェアに行き、何人かの友人に会った。ある不遜な女性は、『赤毛のアン』で大儲けしたのかと聞いてきた。グリーン・ゲイブルズ。その下には、不幸の鈍い痛みがあった。ミル・マクレランドが家まで送ってくれた。ユアンは最近とても険しい。

1937年11月7日(日曜日)
旅の終わり
ユアンは今日とても調子が悪かった。ワルシャワに行ってアンガスに診察してもらおうとか、アンガスにここに来てもらおうとか、とんでもないことを考えている。なぜならアンガスには何の役にも立たないし、アレックを笑ったように彼を笑うだけだからだ。私はアンガスのことを知っている。でも、私が反対したせいでユアンはとても不機嫌になり、夕食の席で騒ぎ立てた。来るのを拒み、"食べられない" と言った。St. そしてEはたっぷりのパイをトッピングして食べた! 今夜は少し回復したようだがアンガスに手紙を書いたようだ。今夜は出血が心配だ。疲れてくると、レーンはどう言うだろうかと思ってしまう。

1937年11月8日(月曜日)
今日はP.E.N.クラブで、著名な英国人作家プリーストリー氏の昼食会を開いた。それからブックフェアに行き、ネリー・マクラングとキャサリン・ヘイルの講演を聞いた。帰りは路面電車に乗らなければならなかったが、リバーサイド・ドライブを楽しく歩いた。帰った時刻は12時。12時になってもチェスターはいない。私は彼がどこにいるか知りすぎている。何もできない。私には何もできない。(浮気で遊びまわっている)

1937年11月9日(火曜日)
少々慌ただしい一日だった。今朝エドウィン・シンプソンから電話があった。彼は奥さんとトロントを自動車旅行で通過していて、私に会いたいと言った。私はダウンタウンで昼食会、そしてブックフェアのお茶会に行かなければならなかった。4時に出発しなければならなかったので彼らを誘うことはできなかった。しかしシンプソンズで一緒にアフタヌーンティーをすることにした。3時半に私たちは会った。エドの登場に私は驚かされた。まさか最後に会ったのは30年以上前だった。彼の髪は雪のように白い。顔にシワがあると聞いていた。しかし私はつい最近まで彼は太っていたというが、ほとんど骸骨のようだった。糖尿病のために必要なダイエットの結果だろう。私はそんなことは知らなかった。私は彼を見たことがなかった。顔は小さなしわのかたまりで目はくぼんでいた。彼は、私が覚えている「キャロラインおばさん」に最もグロテスクに似ていた。キャロラインは彼の大叔母にあたる。私は彼の変化に驚いていた。少なくとも言葉では裏切らなかった。
新しいエド・ミセスは、私がこれまでに会った中で最も魅力的な小柄な女性だ。彼女はとても若く、少なくとも40歳には見えない。可愛らしく、可憐で、身なりがよく、魅力的な声をしている。エドが相変わらず会話をほとんど独占していたので、彼女はほとんど使う機会がなかった。私は彼女がとても気に入った。彼女がなぜエドのような病人と結婚しようと思ったのか私には想像もつかない。もし彼女が再婚を望んだら、男たちはこぞって彼女を手に入れようとしたに違いない。しかし彼女はそうした、可哀想なエドに、孤独な年頃に素敵な伴侶ができたことを、私は何となく嬉しく思った。
ただひとつ、エドはまったく変わっていない。彼は30分間ずっと自分がしたこと、経験したこと、言ったことについて話していた。私の家族について訊くことはなかった。私の文学的成功について少しも言及しなかった。私はシンプソン夫人に話しかけようとしたが、断念せざるを得なかった。私はシンプソン夫人に話しかけようとした。彼女は気後れするかと思ったが、まったくそんなことはなかった。少しもそう感じなかった。この男がかつて私が知っていたエドウィン・シンプソンであるとは信じられなかったし感じることもできなかった。彼は私にとっては全くの他人であり、おそらく彼にとっても私がそうだったのだろう。彼らが帰るとき、私はまたトロントに来るときはいつでもジャーニーズ・エンドに来るように頼んだ。彼らはそうすると言った。この招待状は心から送られたものであり、私は心からそれに応えたと思う。誠実に応えたと思う。しかしどういうわけか、私はそれが受け入れられるとは思わない。受け入れられることはないだろう。エドウィン・シンプソンと私は、最後の出会いと別れをしたと思う。

1937年11月10日(水曜日)
昨夜はぐっすり眠れたが、一日中妙に不自然な疲れを感じていた。午後、私はブックフェアに行き、3人の講演者のうちの1人になった。ローラ・サルヴァーソンとアクランド少佐だった。私はサルヴァーソン夫人が好きではなかった。ユーモアのかけらもない、とてもいいスピーチだった。

1937年11月11日(木曜日)
今日の午後もまたブックフェアに行った。幽霊のように歩き回り、「私に会いたがっている」退屈な連中にしきりに声をかけられた。私は、私がこのフェアに十分な時間滞在し、帰ることを正当化できたとき、うれしかった。
今日、ある "ファン" からの手紙には、「神はあなたを最も素晴らしく祝福された」などと書かれていた。すべて、人々に力を与える私の書く才能についてである。
喜び。私にはとても辛辣に聞こえた。この7年間、私の人生にゴールドの「祝福」があったとはとても思えない。スチュアートは医科大学に合格しとてもよくやった。それはとても救いだ。ユアンも最近良くなって明るくなったように見える。でもそれは決して長くは続かない。

1937年11月13日(土曜日)
一日中雨が降り続いたので、私は物語を鋤で耕した。夕食後、ユアンは車で出かけた。一人で車を運転するのも、あのアワジュル・タイト以来だ。一人で出かけるのも、一人で車を運転するのも、6月のあのひどい締め付け以来だ。彼は何の問題もなく9時半に帰宅した。

1937年11月14日(日曜日)
腸のトラブルで一晩中眠れなかった。ユアンは5時に喘息のひどい発作を起こした。どうやら 純粋に神経の影響らしい。今朝、教会に行った。ずっと会いたかった人に初めて会えた。今晩は涙をこらえきれず、自分を解放せざるを得なかった。スチュアートとマーガレットが散歩に行くというので一緒に行こうと誘われた、今の気分では誰とも付き合えないと思ったからだ。私は今夜、反乱を起こした。今夜は反抗期だ。すべてが不公平だ! 息子が生まれてこなければよかったと思うなんて。息子が生まれたときはとても幸せだったのに! 心配と恐怖で気が狂いそうになる時がある。

1937年11月15日(月曜日)
今日の午後、チェスターはノーヴァルのところへ出かけた。しかし、ひどいドライブだった。チェスターは険しい表情で黙っていた。でもマリオンに会えてよかった。しばらくの間、私は忘れて安らいだ。こんな恐ろしいことが本当であるはずがないと思った。マリオンはとても痩せている。パットは太っているが精神的には良くなっていない。チェスターは帰り道、とても友好的に見えた、この "任務訪問" が終わってほっとしたのだろう。ロブ・リードと一緒でなければ満足できなかった時期もあった。毎日午後と夕方、ロブ・リードにいなければ気が済まなかった! スチュアートは夕食に出かけていて、Jは彼に会いたがっていた。ユアンは精神的には良くなっているようだが、気管支炎がとても気になるようだ。

1937年11月16日(火曜日)
今日は嫌なことをしなければならなかった。必要なことではあったのだが、まるでスライム(ヘドロ)の中を引きずり回されたような気分だ。今晩、トンプソン夫人と私は「ミスター・ドッズ、テイクス・ザ・エアー」を観に行った。とても面白かったが、私は終始憑りつかれたような気分だった。私はこんな忌まわしい立場にいる! ああ、こんな生活が延々と続くのだろうか?

1937年11月20日
もうこれ以上先延ばしにはできない。夜までイゾベルと過ごした。私たちはノーヴァルを通り過ぎた。黄昏時、明かりが煌々と灯っている。そこにはノーヴァル教会があった。かつて私の家であり、今も私の家である。イゾベルと私は映画を見に行った。私は惨めな夜を過ごした。寒くて坐骨神経痛に悩まされた。退屈な午後の後、私たちはゲルフに行った。寒くて退屈だったが少なくとも時間はつぶせた。今晩帰宅すると暗い寂しい家に。誰も迎えてくれない。愛する猫でさえも。どんなに寂しいことか。寂しい! ユアンはベッドにいて、とても険しかった。

1937年11月21日(日曜日)
生きる喜びを増すために風邪をひいている。今晩、カスバートとローラの訪問があった。夕方。再会できてとても嬉しかった。ユアンも今日はもっと元気そうだ。

1937年11月23日(火曜日)
風邪がまだ治らない。ルエラと子供たちが買い物にやってきた。ルエラは子供たちをここに残して街に出た。私は子供たちの世話をした。幸せはもうない。苦しすぎる。かわいそうに彼らは知らない。彼らの幸せを守り、彼らのために家庭と父親を確保するために私がしている絶望的な闘いを彼らは知らないのだ。
今日、レアード夫人から手紙をもらった。ジョージとアマンダで有名なエリザベス・ロッカービーは、やがてフィラデルフィアのベーコン氏と結婚してフィラデルフィアに住み、そこで亡くなったそうだ。つまり私が理解していたように、彼女は最後までジョージの思い出に忠実ではなかったということだ。しかし、おそらく彼女は本当にそうだったのだろう――"私の流儀に倣って、シナラ"。

[プッシー、ルエラ]               [カム]   

1937年11月24日(水曜日)
今晩、ユアンと私は、新しい牧師であるフレイザー氏とその奥さんと一緒に、ポート・クレジットの教会に行った。私たちは 私たちは楽しい夜を過ごし、また牧師たちの間にいることができて嬉しかった。私たちはくつろぎ、ユアンはたくさん話をした。しかし微笑みとおしゃべりの下で、私は昔のような心の痛みを感じていた。

1937年11月28日(日曜日)
心配でたまらない日々が続く。昨夜は眠れなかった。ルミナールを飲んだが、何の効果もなかった。スチュアートが2時にやってきて、もう一度状況を話し合った。話し合う」ことは少しは助けになるのだが彼は何もできない。
今日、私はさらに苦い発見をした。数週間ごとに新鮮な幻滅に襲われる。それを背負わなければならない。午後は暗く陰鬱だった。本を読むことさえできなかった。今夜は頭がとても「きつい」感じがする。ユアンはとても憂鬱で、自分の症状について話し続けている。

1937年6月30日(火曜日)
昨日アンガス(ユアンの兄か)がきた。ユアンが彼に手紙を書いたところ、彼は「何の役にも立てないだろう。しかしもしユアンが専門医に相談したら、彼(アンガス)はその費用を支払うと書いてあった」。私はこのことに激怒し、ユアンはその手紙に返事を出さなかった。アンガスからまた手紙が来て驚いた。彼は「何も問題ない」とユアンに言った。彼はユアンに、「神経質になっているだけだ」と言い、頭痛がしたときのようにただ「忘れてくれ」と言った。彼の訪問は楽しいものではなかった。彼は私と一緒にいても落ち着かないのだろう。数年前にあんなバカなこと(大きな借金を作った)をして以来だ。彼の最初の質問のひとつはチェスターはいい子ですか? というものだった。もちろん私はひどく傷ついた。チェスターの結婚と大学進学の失敗を、島の人から聞いたのだろう。チェスターはしかし、アンガスの実の兄弟や叔父たちよりは全然ましだ。もしすべての話が本当なら、若いころのアンガスよりもずっとよい。
一晩中眠れなかったが、今朝彼の最後の姿を見ることができてよかった。ユアンはがっかりしてとても暗い顔をしている。
今日は私の誕生日だった。退屈な一日だった。だが今晩はグラニット・クラブで開かれたプレス・ディナーに行った。とても素敵なイベントで少し元気が出た。先日、昼食の席でふと通りの向こう側を見た。あっと叫びそうになった。なぜか。「ラッキーがいるじゃないか」と叫びそうになった。それは一種の目の錯覚だった。向かいの家の灰色の石造りの手すりと階段に映った陽光と影による一種の目の錯覚だった。本当に驚いた。ラッキーは私に背を向け、頭を少し回転させた姿勢で座っていた。何千回も見たことがある。長いダイヤモンド模様の尻尾で背中には黒い縞模様があり、ネクタイには薄い縞模様があった。背中の黒い縞模様があった! こんな光景は見たことがない。そして毎日、太陽が輝くと私はお弁当を食べながら彼を見る。 奇妙な心地よさだ。誰にも話したことはない、私だけの秘密だ。毎日しばらくの間、ラッキーは私のところに戻ってくる。そして、影はゆっくりと忍び寄り、やがて灰色の石だけになった。でも私は明日には彼が戻ってくることを知っている。

1937年12月1日(水曜日)
「旅の終わり」
ユアンは12時以降眠れず、悪夢にうなされたという。彼は一日中とても冴えなかった。彼の目は野生的で、また狩人のようだ。私はクリスマスの買い物をしに街に行った。Xmasグッズはどれも興味深かった。私はアケイディアン・コートで美味しいランチをご馳走になった。貧しいユアンの険しい顔もなく、一人で座っているのは心地よかった。その日は私を元気づけた。今日の夜は、いつものような堅苦しさは感じなかった。

1937年12月5日(日曜日)
今日の午後、ミセス・ウォルドロンのアフタヌーン・ティーに行った。恐ろしい女性の魔手にかかり、私の知らない、そして知るはずもない1ダースもの人々のことを詳しく聞かされた。彼女はまた、彼女はまた、「リピーター」は可能であればいつも「リピーター」を引き抜くのだと、陽気な情報も披露してくれた。
夕暮れ時にその場を離れると湿った雪が降っていた。そしてまず、ここ(家)に上がって寝る前にバルコニーに出て、妖精のような美しい光景を眺めた。渓谷の木々は雪に覆われ、松は真っ白だった。渓谷の木々は雪の輪郭を描いていた。すべてが驚異的で、非現実的な美しさだった、はかない美しさの絶妙な悲しみを含んでいた。ユアンはとても退屈そうだった。

1937年12月9日(木曜日)
今日の午後、ドライブの(近所の)女性数人のもてなしに少しお茶をした。とても楽しい時間を過ごしすべてがうまくいった。また少しもてなすことができてよかった。楽しかった。心配事を忘れて楽しめた。
今日、マートルから肉厚の手紙が届いた。彼女の手紙はいつも家にいる日のようだ。でも、ひとつだけ悲しいニュースがあった。エミリー・マッケンジーと息子のチャーリーは旧バプテスト牧師館に住んでるそうだ。旧マッケンジー邸は道路用地として "パーク" に売却され、家は取り壊されることになった。もうひとつ 私が楽しいひとときを過ごした古い家屋がまたひとつなくなった! もう1通の手紙が私を楽しませてくれた。私の人生のスケッチをどこかで読んでいた "ファン" からだった。あなたの親愛なる祖父母。私は彼らのことを読んだだけで、どんなに愛おしくなったことでしょう。あなたのことを読んだだけで、私は彼らのことが大好きになりました。愛おしい孫を愛おしそうに見つめ、こう言ったことでしょう。私たちの大切なダーリン "と!
祖父は私に愛情など抱いていなかった。祖母は愛情を注いでくれた。二人とも、誰かを「大切なダーリン」と呼ぶことはなかったが、このような手紙を書いた人物を「大切なダーリン」と呼ぶことはあっただろう。このような手紙を書いた人は、"連れ去られる" のがふさわしいと思ったに違いない。

1937年12月11日(土曜日)
1日中とても惨めな気分だった。もうダメだ。家の中にはユアン以外誰もおらず、彼は頭をかきむしりながら不機嫌に座っている。そしてチェスターのXmas試験という拷問が迫っている。今のところどうやって耐えればいいのかわからない。彼は心配もしていないし、勉強もしていない! このような試練が終わることを願わないというのは、どんなものだろう。我が家の2匹のジョルジュはとても面白い。でも、ただの猫だ。

1937年12月12日(日曜日)
今日の午後、エヴァ・ウィンフィールドが車でやってきて、私たちはグレンに出かけた、寒い明るい日で、道も素晴らしかった。可哀そうなバラクロー夫人! 人々は彼女にひどい嘘をついている。世の中にはどんな悪人がいるのだろう。私は彼女を説得することに成功したと思う。彼女の姉の息子たち、ウィンフィールド家の息子たちが真相に迫っている。彼らはいつもアーネスト・バラクローを嫌っていた。彼は「だから彼女を傷つけようとするんだ」。1人は笑い、話し、私のひそかな苦悩は、かじる、かじる、かじる。これはある種の偽善かもしれないが、憂いを撒き散らすよりはましだ。そして時折、私が 「行動」することで、1時間くらいはそれが現実になり、私は忘れてしまうのだ。チェスターの試験は水曜日から始まる!

1937年12月15日(水曜日)
チェスターは今日、プラクティスの試験を受けた。チェスターが2時に帰宅したとき、彼は「大丈夫だ」と言った。午前中はハラハラドキドキしながら過ごした。スチュアートはインフルエンザにかかり、まだひどい咳をしている。ユアンはどこかの病院で治療を受けている。最初はよくなるようだが、でもすぐにまた悪くなるんだ。
私は今日、私の若い頃のファッションが再び「流行」していることに気づいた。髪を高く結い上げ、ベールをかぶり、頭の上に帽子をかぶり、袖を膨らませ、チェーンのブレスレットまでしている。あの頃の幸せが私にも戻ってくることを願うばかりだ。そしてあの頃の平和と安心が世界に戻ってくることを願うばかりだ。しかし私の人生における物事が再び正しくなることはないだろうと私は恐れている。あまりにももつれすぎている。

1937年12月16日(木曜日)
チェスターは今、一晩中家にいることはない。もし彼が私の信じるところにいるのなら、彼はわざと私を欺いているのだ。彼は今日、エクイティの試験を受けたと思っている。でも以前はそう思っていたらしい。

1937年12月18日(土曜日)
咳が止まらず、2人とも眠れなかった。結局ルミナルを飲ませ、少し眠ったが、私は一日中ヒリヒリして神経質になっていた。Xmasの小包をいくつか包んだが、仕事に身が入らなかった。ユアンは一日中険しい顔をしていた。一日中不機嫌で、頭をひっかいていた。

1937年12月20日(月曜日)
くすんだ灰色の日で、一日中雪が少し降っていた。チェスターは[代理店の試験]を受けに行った。一番苦手な科目だと言っていた。私は惨めな前日を過ごした。ユアンもとても鈍かった。彼は、チェスターが帰ってきたとき、彼は合格したと思ったと言った。彼は再試験の年に "Sup. " 私は耐えられない。

1937年12月24日(金曜日)
みぞれや雪が降る灰色の日が続いている。今夜は風の強い夜、暗い丘を眺めながら 閉ざされ、窒息しそうな気分だった。Xmasの小包を仕上げた。チェスターの奥さんと子供たちに贈るためだ。チェスターはそのことにまったく興味を示さない。私にとっては「悲しいかな、クリスマス・イブ」なのだ。

1937年12月25日(土曜日)
よく眠れなかった。その日はくすんだ灰色だった。雪は降っていない。私たちはクリスマス・ツリーを飾り、プレゼントを配った。クリスマスツリーやプレゼントの配布は昔と同じように行ったが、オリーブの喜びやスピリットはない。チェスターはノーバルのところへ出かけた! 私は居間で火を焚いた。リビングルームで一日中読書をしていた。
クリスマス・プレゼントのひとつが、マクミラン氏からのいつもの本だった。そのチラシには小さな詩が書かれていた。その褒め言葉が嬉しかった。そして私はステラから猫のクリスマスカードが届いた。それはまさにラッキーの生き写しだ。同じように大きな柔らかな目と秘密めいた表情。そして同じマーキング。不思議だ。彼の生まれ変わりかもしれない!

[懐かしいペンフレンド、ジョージ・ボイド・マクミラン氏]

[ステラの猫、ラッシー」

1937年12月26日(日曜日)
今日、チェスターとアイダ・ビレルが意図的に私の目をごまかそうとしている。私はひどく動揺している。こんな連続的なショックには耐えられない。ユアンも 一日中うめいていた。私は惨めな午後と夜を過ごした。

1937年12月27日(月曜日9
薬を飲んでから眠ったが、午前中はずっと床を歩いていた。今日の午後チェスターが私を欺いているという新たな証拠をつかんだ。1晩中どうしようもなく泣いていた。どうしたらいいのかわからない。まるで鳥の時間に捕らわれているような気分だ。これは私の人生で最も恐ろしい問題だ。あの26年前のあの誇らしげで幸せな7月7日を。私は汚れ、汚物の中を引きずり回され、心も意志も打ち砕かれた気分だ。もう二度ときれいになることはできない。気が狂いそうになる。かわいそうなチェスター。しかし、彼には弁解の余地がある。彼は不自然な生活を強いられている。二人の間に溝を作ったのは彼女の行動なのだから。しかし彼の行為を正当化することはできない。私は彼に幸せな人生を送ってほしかった!
ユアンは今日もバイオレット光線の治療のために病院に行った。アンガスから手紙が届いた。私の手紙には、"私の2人の立派な息子たち" についてとても褒めてあった。ああ神様! マックミアン氏からの手紙には、スコティッシュ・カップで最優秀賞を獲得した猫「赤毛のマシュー」の写真も添えられていた。ナショナル・ショーで最優秀チンチラ・キャットに贈られるスコティッシュ・カップを獲得した!

1937年12月28日 火曜日 ユアンは体調が回復し、とても陽気で明るくなった。 私自身も良くなった。やはり、悪いことが起きないように、あることはやっておかなければならない。

1937年12月29日(水曜日)
トンプソン夫人は今日から1週間実家に帰った。私は小さなパーティーの準備をして過ごした。チェスターがビクトリアY.P.S.の重役をさせてくれるように頼んでいたのだ。チェスターはとてもいいホストだった。彼は人生を台無しにしてしまった。彼はまだ まだ自由であるべきだ。今日、グリーン・ゲイブルズが戯曲化され、サミュエル・フレンチ社から出版されたという記事を読んだ。その切り抜きを書いた人は、この物語は台無しにされたと言った。ストーリーが台無しにされた。その通りだ。私は何に対しても興味を感じないようだ。恐怖の中で生きている。もう1時だ。パーティの食器を浸け終わったところだ。今夜は眠れそうにない。

1937年12月30日(木曜日)
今日の午後、マッキンリー夫人の家に昼食に行った。楽しいひとときだった。しかし、"笑いの中にも心は悲しみに満ちている"。
今夜、チェスターはいつものように出かけている。彼は夕食のとき、今日受け取った手紙のことでとても動揺していた。中身がわかればいいのだが。消印はゲルフだった。アイダ・ビレルにはそこで結婚した妹がいるそうだ。今夜はとても疲れた。彼が何をしようとあまり気にしない。後でね。チェスターがとんでもないことになった。何が起こったのかはわからない。アイダ・ビレルの家族に見つかったみたいだけど、彼は結婚している! どうして、なぜもっと前に気づかなかったんだろう。ビクトリア[教会]の何人かは 知っている。アイダ・B.自身はずっとそれを知っていたから、ライズを開けたまま今まで通り振る舞ってきた。彼女のライズは開いている。チェスターは横柄な態度で、とんでもないことを言ってわめき散らしている。
ちなみに彼は、私との約束にもかかわらず、この不倫関係を断ち切るつもりはまったくなかった。しかし彼はいつも私に親切だった。私は彼の苦悩を憐れまずにはいられなかった、彼が招いたこととはいえ。おそらくそれが彼の教訓になるだろう。でも今夜彼が言ったことを忘れることはできない。もしそれが本心なら、彼とルエラは二度と結ばれない。しかし挫折した情熱の苦しさは許容しなければならない。今、本当に別れたとしても、彼はいずれ冷静になり、忘れるだろう。そうすれば、彼は正気に戻るだろう。私は本当に彼と同じように取り乱している。

1937年12月31日(金曜日)
地獄の1年の締めくくりにふさわしい。今日私はまた恐ろしい一杯を飲んだ。幻滅の一杯を飲んだ。この結末はどうなるのだろう? 終わりはあるのだろうか? 終わりなんてあるのだろうか? このまま一生続くのだろうか? 
1937年が終わった。ああ、なんという年だったのだろう! どうすればいいのだろう。生き抜くことができたのだろう? そして1938年をどう生き抜けばいいのだろう? もし明日、誰かが私に新年の祝辞を述べてくれるなら、私はその顔に向かって叫ぶだろう。この家に幸せはなかった。この家に幸せはなかった。
[この項終わり]




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