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モンゴメリ日記

1931年

1931年1月7日(水曜日)
ノーバル、オンタリオ。
1931年は、1930年と同じようにババ抜きになるのでしょうかね。まだ始まったばかりだが殊勝に。ほとんどの場合私はとても惨めで、不眠不休で、命知らずだった。食欲がなく、毎朝目が覚めても眠れず、嫌な予感がする。だが予感は確実に起こるということだ。今、私の考える天国は以下のようなものである。恐怖のない生活を送ることができたらそれが天国だ。もし私がこれほどまでに荒廃していなければ、事態は悪化しなかったと思うのだ。このように私を心配させる。
私は昨日は楽しい一日を過ごすことができた。私たちはトロントに行き、昼食はCuth'sで、父の遺体を運んで東にいきシャーロットタウンに埋葬したJim MacIntyreに会うことになった。哀れなダンカンおじさんは87歳でとうとう逝ってしまった。彼は自分の酒を飲んで若さとプライム(平穏な人生か)を捨て、妻の人生を台無しにし、自分のためにも子供たちのためにも全く何もしなかった。そしてその報酬は、長寿と最後まで優しい心遣いだった! ハム! 
ローラも来ていて楽しい時間を過ごした。それから私は1時間ほどノラと会った。私に必要なのは楽しい交友関係や本当の意味での休息である。
スチュアートは今日、セント・アンドリュース(高校)に戻った。気持ち悪いくらいに寂しい。しかし1つの願いは、私はチェスターについては、私がスチュアートについて感じているのと同じくらい簡単なことだと思った。
今日ポープの訳した『イーリアス』を読み始めた。奇妙な話だが、この本は17年前から持っていたのだが、今まで読んだことがなかった。私はただその理由を語ることはできない。しかし私はそのことを全く知らないわけではない。幼少の頃、私は、"SENES" を読んだ。子供向けの雑誌に、この作品に関する論文が掲載された。その概要はもちろん多くの引用がなされていた、それを暗記し忘れたことはない。しかし私はそれを読むつもりだ。そうすれば今までの悩みや煩わしさを少しは忘れられるかもしれない。三、四千年前の戦いの中での存在感を得る。

1931年1月9日(金曜日)
今日はジョージタウンに行って、ある "祈りの儀式" に参加することになったんだ。その儀式はこんにちの教会が乱雑に扱われているようなものの見本だ。私はそれらを全面的に否定する、その説を絶対悪と考える。それはあたかも「神の祈り」さえも聞き入れない。
毎月の定例会では数人の信仰心のある人が集まっている。しかしこのジョージタウンの集会のように様々な地域から多くの女性を集めて大きな「祈りの祭典」を行えば、主はあなたの願いを叶えてくださるだろう。そうお願っている。しかし牧師の妻である私は、奉仕するつもりで行ったのだが、こんな集会より寝ていたほうが神さまにはずっといいだろうと思う。
礼拝の後、私は「裁き」を受けることになった。ミッション・バンドの演説はいつでも嫌いなものだが、今回は特別にそうだった。今日は疲れていて緊張していたのに、嫌な予感がした。するとユニオンのディック女史が出てきて、「ユニオン(元のメソジスト派が長老教会を乗っ取って作った連合教会)の日曜学校で授業をさずけませんか」とクールに聞いてきた! 私は本当にあきれた。つまりそうなったら日曜朝の10時にユニオンに行かなければならないのだ。そしてユニオン教会で授業をし、説教を受け、帰宅し、急いで食事をする。
夕食の後、ここで聖書教室を開き、また説教を聞く。私なら1週間のうちで唯一休みがある日曜日がまったく休めなくなるではないか。1時間か2時間、自分のための休息だ。しかしディック夫人は、私が何週間も体調を崩していたことを知っていた。もちろん、ディック夫人の常識は有名ではない。きっとユニオンでは誰も彼女がそのような要求をすることを想像した人はいないだろう。だがたくさんいるあそこにいる女の子たちのためにそのクラスを教えるのか。
私はディック夫人にはっきりと「無理だ」と言った。すると彼女はとても悔しそうだった。ユニオンでは牧師への報酬はどうなっているのだろう。もし奥さんがずっと働いてくれないのであれば、その分の給料はどうなるのだろうか? でも今日はちょっとだけ満足できたし、本当にいいことがあったよ。
Mrs. シンクレア夫人は、私に審査員を依頼し、文字通りすべての反対を押し切って、私に審査員をさせた。私が体調が悪いと言うと、「そうでしょうとも」と言われた。"小説を書くのはあきらめましょうよマクドナルドさん" と言う。本当に私は沸騰しそうになるほど怒りましたよ。この冬の悩みの半分は、小説を書く時間がとれないことだからだ。
私はこの小馬鹿を睨みつけ、自分に本を書く贅沢を許したのです。と痛烈に言い返した。"いいえ、シンクレア夫人、私は執筆をあきらめるつもりはありません。しかし私は「全国を駆け巡り、他人の仕事を代行する(教会の仕事に打ち込むこと)」のはあきらめるつもりです。と。
ああその態度を見れば私がなめた態度をとったということは確かだ。しかし今日はもっとがっかりするようなビジネスレターがあった。その結果どうなるのか。ある事柄について、私はどうなるか知らないが、そのことについて "推測と恐怖" である。
(なぜカナダで連合教会が伸びたかというと、それは資金の問題なのです。長老派は中産階級が多く、金持ちの長老が多額の金を寄付することによって成り立っていました。連合教会(ユニオン)は礼拝で献金を募ることはあっても、多額の献金を要求することはなかったので貧しい人たちはみんな連合教会に移ってしまいました)

1931年1月14日(水曜日)
昨夜、年に一度の信徒総会が行われた。ユアンと私はこれまで 何週間も前から、その日が来ることを恐れていた。総会は嵐になる。アンディ・ギッフェンは、「不平不満などすべての作品を放送する」と発言したと報道された。私たちは恐れおののきながら参加したが、会議全体の進行がまるでクリームのような滑らかさだった。とはいえ簡単に不満の炎に包まれ破裂してしまったかもしれない。私はその晩ずっと呟く火山の火口にいるように座っていた。
アンディはずっと、とても静かだったが、ガーフィールド・マクルーアが鎖でつないだのだろう(文句を言わないように諫めた)。ちょっと一言ユアンが開口一番に言ったことも効果的だった。私が帰宅したその頃、というのも、この夜の緊張感からかなかなかうまくいかないのだ。一晩中眠れなかった。そして私の頭は一日中悪く、奇妙な状態だった。
さらにマーガレッマクファーソンが今晩、スコッチのロー夫人の悲痛な話をもってやってきた。彼女は数年前からNorvalに住んでいる未亡人で、私たちの教会にも来てくれている。ロー夫人は手術しなければ治らない内臓の病気で苦しんでいる。彼女は働くことができず、食べ物もお金もない。もちろん、私たちは彼女の面倒を見なければならない、それは人間としての義務である(長老教会の指導者としての役目)。そして私は自分の役割を果たす用意がある。しかし私は、他の多くの人々の分もこなさなければならないだろうし、"実行" しなければならないだろうと思っていることを全部やってみた。そして今、私は本当にその気になれないのだ。

1931年1月15日(木曜日)
今日の午後、W.M.S.の幹部がここに集まり、特に私は、ロー夫人のことを話題にした。彼女はもう動けないという人もいた。ロー夫人は夏に息子のルイスに全く必要のないバイクの購入の支払いに充てるために70ドルを渡したといい。この後支払いを続けられなくなったという理由で彼女は敗れたのだ。あんなにお金を捨てているのに助かる資格はない。私はそう指摘した。結局その女性は病気で貧しく、どんなに飢えていたとしても許されないということで、自分がいかに愚かであったかを会衆のみんなが聞くことになった。
ミス・マクファーソンと私は委員会に任命された。ロー夫人のためにファンド(募った資金)を管理すること。また管理者に依頼することで、彼女が住んでいる家は教会のものなので、彼女が働けるようになるまで、あるいは息子がもっと良い仕事に就くまで家賃は無料にしてあげましょうという事になった。現在彼はチェルトナムの農場で月10ドルの冬期賃金を支払われている。そのLewisは、逞しい若い子だが仕事があまり好きでないと評判だ。彼女には娘もいる。学校に通う13歳の少女、ヴァイオレットだ。

1931年1月19日(月曜日)
今日は、神経と喘息の悪い夜の後、もう一つ悪いことがあった。この冬はハモンドのニュースが多かった。マッケンジーが心不全で急死したことでとても惨めな気持ちにさせられた。ハモンドとエミリーは、いつも私の良き陽気な友人であり、彼らの家を訪問するのは楽しいものだった。これから先、私が生きている限りは、こうして旧友のニュースがちょこちょこと顔を出してくれる。これは年をとるということは、そういうことなのだ。
今日、イーディス・スケルトンとその夫の写真を撮ったのだが、いい感じのお年寄りのカップルだった。写真に写っている母性的な女性には、私の昔のような華奢な姿は見当たらない。 P.A.(プリンスアルバート時代)の仲間だ...黒い瞳以外は、このイーディス(モンゴメリが父の家にいたときにメイドだった子)は見知らぬ人だ。私はこの写真を見て、私はほとんど見なかった方がよかったと思った。イーディスは、私がP.E.I.に去った後、プリンス・アルバートでの生活がどれほど幸せなものになったかを書いている。(父の家のメイドをやめて継母から離れたあと幸せになったのであろう)そこで彼女はモンゴメリー夫人に苦労させられた。イーディスは素直でよく働く小さな女の子だった。 欠点が見当たらない女の子。
かわいそうな(おろかな)モンゴメリー夫人。私は私の人生において、一度や二度は、実に様々な女性と生活を共にしたが、彼女のような気質を持つ人を私はこれまで知らなかった。私は決してあのような人は乗り越えることのできない。私を利用したことへの恨み節。そして私は愛することを覚悟して行ったのだという思いがあった。特に父のために彼女を喜ばせようと一生懸命になった。酒を飲む。でも私のやったことはすべて彼女の目には間違っていたのだ。彼女は私を何事も間違ってはいけないと思いつつも、それを実行するために何もせずに立ち止まっていた。嘘に嘘を重ねていた。
私がそこを去った後、私のことを真実のかけらもない、とんでもない嘘で塗り固めた人だ。西部の憤慨した友人たちは、このことを私に書き送ったが、私は何の気にも留めなかった。父のためを思ってのことだ。そして長い目で見れば私に害はなかったのだ。父は彼女を信じた。
彼女の嘘の一つに、私が彼女の子供を「刺した」というのがあった! 私は決して彼女の子供の一人に悪さをしたことはない! ブルースは愛すべき赤ちゃんだった。私は彼を愛し彼女が街を徘徊している間彼の世話をして待った。いいえ私は決して許せません。彼女のことは考えないほうがいい。もう何年も彼女のことを考えたことはない。しかし今回のP.A.訪問とイーディスの手紙によって、彼女のことが思い出された。昔の恨みも含めて。ただ今、緊張して落ち込んでいる時、体調を崩している時、私の魂には、昔の悩みや苦しさが蘇ってくるようで、とてもじゃないけどその記憶を追い出すのは無理だ。

1931年1月31日(土曜日)
牧師館、ノーヴァル
この1ヶ月は悲惨な月だった。一晩たりとも完全な快眠は得られなかったいう日々である。寒くて灰色の天気がほとんど続いている。ずっとです。教会の心配事や悩みも同じだ。ただ子供心に、1つでも素敵なことがあればということが起こるかもしれない。 天国は恐怖のない生活だと思う。
[2月7日]が恐い。たぶんそれは愚かなことだがいずれわかることだ。昨年7月、私はいくつかの事柄について心配で眠れない夜を過ごした。とうとう私は恐怖を伴う業務がいつ終わるのか、不安な気持ちで眠りについていた。その結果危険と恐怖がやってくる。そして眠りの間の瞬間にふと目覚めたとき、私はよく見る「ビジョン」(予知夢)のひとつを見た。しかしそれは曇り空で漠然としていて、その全貌を捉えるにはあまりにも早く目が覚めてしまったようだが、その夢は何かの予知だという確信のもと、「2月9日」がその始まりであることを告げた。
でも、何か......何か......分からないんだ。その何かが「2月7日」につながっていて、しかもそれが不快だった。それ以来私は、恐怖の「2月7日」。カナダ・アソシエイテッド・コスの「クラッシュ」(倒産か何か)を意味するのだろうか、それともギブソンとテイラー、あるいはその両方? もしそうなら、私は破滅だ。(株を買っていた会社の倒産か)

1931年2月1日(日曜日)
今日の「ちょっと嫌なこと」は、チェスターが高速道路で車を置き去りにしてしまったことと、昨夜は「暴れた」ため、良い絨毯が2枚も盗まれてしまった! 一日中、体調は良かったのだが、夕方からずっと頭と耳が痛くて困っている。 「頭」と言っても、本当は額全体が毛羽立ったような嫌な感じなのだが。

1931年2月2日(月曜日)
昨晩は数週間ぶりにぐっすり眠れ、一日中体調が良く、元気に過ごすことができた。(事務所か)に出勤した。今夜はホールの練習に行き、とても寒い中を帰ってきた。冴え渡る月夜。その美しさに癒され心が洗われる。その愛らしさは自然は永遠であるという事を示す。そして丘の上の松は眠り、その影が落ちている月夜の雪は自分よりも美しい。

1931年2月3日(火曜日)
夜中に神経が悪くなり、4時に喘息の発作が起きた。15時過ぎに今朝は氷点下だったが、午後3時過ぎにトロントに行った。霜の後の風景は異常に白く、重い霜は、奇跡のような、夢のような美しさだった。小枝には1センチ近くも霜が降りている。そんな中でも、私はドライブを楽しんだ。イートンズとシンプソンズのマリオンに応募したんだ。マリオンがいないのだ。 (1)震災の影響による不況のため、(2)震災の影響による不況は、1年以上にわたって、この国を濡れ毛布のように重苦しくしている。可愛そうなイゾベルは病気で、哀れな手紙を書いている。彼女は「私の生々しい神経を逆なでする」。

1931年2月6日(金曜日)
今朝、熟睡から目覚める直前、奇妙な嫌な夢を見た。誰かが大皿を私の口元に持ってきて、そこには何かの食べ物が乗っていた。飲みたくないと思ったことで飲まずに目が覚めた。この夢はよくない。明日は運命の7日だ。何か関係があるのだろうか。新しいトラブルが起こるのがとても怖い。自分には立ち向かう力がないような気がする。この冬は今朝は緊張で落ち着かず、本も書けなかった。
私はなにかを待っているようだった。(予知夢による)恒例の悪い知らせはなかった。ジャス・ベントレーは死んだ。ティリーの夫である。彼は年寄りだったから当然のことである。でもティリーには申し訳ないことをしたと思っている。彼女自身体調が悪いのである。
2人の女性から、教区のホールでバレンタイン交流会を開きたいと連絡があった。どうだろう? 手伝おうか? また、「世界祈祷祭」についての電話もあった。祈りの祭典だ。そして夜にはギルドソーシャルがあり、ずっとプログラムを見たとき、じっとしていられなくなった。主催者をもう一回やろうか。そして今日もイソベルからの手紙があり、ヨレヨレ感満載だった。というのも、広葉樹の床板を入れたために、彼女の部屋はめちゃくちゃになったからだ。大災害としか思えない。
恒例の悪い知らせは、Can.Ass.Co.(出版協議会か)からの手紙である。 彼らは "再組織化" するつもりだ。おそらく、これは資本金の縮小を意味するのだろう。それが最良だろう。これが7日の悪い予感の結果なんだろうかね。でもなかなか悪くはないようだ。これなら十分です。他に何かあるはずだ。スチュアートは今日、週末に帰ってきた。彼にまた会えてとても嬉しかった。

1931年2月8日(日曜日)
まあ予知夢の結果は来たんだけどね! そしてそれはとても苦い苦いものである。金曜の夜、ペンを置いたところにスチュアートが郵便物をもってやってきた。そこには、非行に関するバーシティ協議会の事務局からの手紙があった、チェスターが出席率不良で審議会に報告されたことを知らせたこと、測量製図科の仕事もうまくいかず、アドバイスもできなかった。彼を退学させることにしたと。
チェスターがバーシティに行ったときからずっと心配していた。最初の頃私は彼が本当に適性のない職業を選んでいるように思えたのである。私は彼に何か他の職業に就くよう促した。例えば、彼には法律が向いていると思う。しかし何事にも動じない。秋学期の間中、私は確信した。彼がどうもおかしい。彼はあまりにも頻繁に家に帰ってきて、何もしていないように見えた。仕事のことも勉強のことも何も聞き出せなかった。そんな中、クリスマス休暇に、非行審議会からこんな手紙が届いた。仕事も出席率も悪かったので、このままではいけないと(チェスターは怠けものではないだろうか)。チェスターは年末に悪い立場に立たされることになる。私たちはチェスターを厳しく叱咤激励した。そして彼はすぐに落ち着いて仕事をし、失った時間を取り戻すと約束した。私は彼の出席が悪い理由について、ハムから満足な説明を受けることができなかった。このクラスは、おかげでXmasシーズンが台無しになった。

当時は青天の霹靂だった。チェスターのことで、楽な気持ちになったことはなかったが、女になびきやすい上に、彼は女の子に関わることでは大いにバカになる。彼は女に骨抜きにされる。そして経済的には父親よりも分別がない(散財してしまう)。しかし彼は仕事や授業で倒れる(失敗する)とは夢にも思っていなかった。正月以来、彼はあまり家に帰ってこなくなったので、私は彼が落ち着いたと思った。だからこの手紙は私を狂わせそうにした。その夜半分くらいは床を歩いていた。すべてがひどかった。彼が家に戻って来るという屈辱は、というのも彼は私たちの会衆の前で、善処しなかったからである(悪い態度を直そうとしない)。私たちに妬みのある敵がどのようにほくそ笑むだろう! 私は地獄の苦しみを味わった。
ユアンは何の役にも立たず慰めにもならなかった。彼が(ユアンが)発することができるのは、この世界で最も人気のない4つの言葉のようだった。英語――"I told ya' so"(言った通りだ)とか。チェスターが帰宅するのはあまり好きではなかったとか、家にいるときにはある女の子に会いに行くばかりだとか。でも、それを止められないのならなぜ努力はしなかったのだろうか? 彼は努力もしなかったし、拷問以上のこともしなかった。私はそのことについて、彼の果てしない無責任な態度の追及を受けた。彼の振る舞いは会衆の前で私をとても苦しくさせた。(息子をまともに叱れないということ)
その苦悩の最中に、あの惨めなイゾベルが...私に電話をかけてきたのだ。電話をして、私を抱きしめてよと。何年にも思えるような数分間、苦悩の洪水を流し込んだ。大家さんが階段の下に広葉樹の床板を敷いていたことを揶揄している。その結果、イソベルの部屋や家具は埃まみれになってしまったのだ!!! イソベルがやっと電話を切ったとき私はベッドに入った。このままでは眠れないと思ったからだ。そして翌日を迎えるために眠らなければならないと思った。しかし私は恐ろしくて寝ている。起きてイソベルを思い出すのはとても醜いことだ。私はコデイン2錠を飲んだが水と同じような効果しかなかった。私はあの暗闇の中ずっと眠れなかった。夜が明けるのを待ちながら、ユアンは眠りながら、まるでこの世のものとは思えないほど、私のそばで安らかに眠っていた。
朝、私は起き上がって服を着た。私は自分がひどい顔をしていて、みんなは、私が泣いていたのがわかるだろうと熱く願った時間だった。部外者の立ち入りを禁止する。
土曜日は地獄のような一日だった。ユアンと私は朝食後トロントに向けて出発した。その日は雪が降り、風が吹く、冷たい灰色の嵐のような日だった。車での移動はまるで悪夢のようだった。ピッカリング裁判の帰りに運転した時以来、これほど嫌なことはなかった。私たちは評議会の事務所(チェスターの授業態度を調査している事務所)に行き、そこで秘書のミスター・ウィルソンと二人で話をした。会長のオールカット教授が屈辱的なインタビューをした。私はあまりのショックにそのようなインタビューをされたらユアンは輝きを放つことが出来ない。私はそう思う。 私はあの人たちに対して正義を振りかざすことはできないが、あの人たちを忌まわしい存在だと思っている。上から目線で無愛想。
チェスターは、自分の仕事に遅れをとっていたが今なら追いつける。正月から出席率が50%しかないとのことだった。これは納得がいかない。チェスターはあんなに熱心に授業に出席すると約束したのに出ていなかったのか。ウィルソン氏は、「彼を家に帰すわけではありません」と慇懃に言った。「私たちは彼のことをアドバイスしているだけです」。私はこれを見て少し気合を入れ、かなり皮肉っぽくこう言いました「私は学業で転んだくらいで、家に帰らされるなんてことはないでしょう。15人くらいのうち、1人くらいは出来ない生徒がいても、それは(退学させることは)かなり異常なことだと思います」。(モンゴメリは出来ない子でも何とかしてやりたいと思っている)
教授はチェスターが測量士の試験に失敗したら大学のせいにされるのが嫌だったんだろう!? そして、ウィルソン氏は測量製図の成績に限ったことではないと言い、次のように話していた。数日前にライト教授からチェスターが技術英語に関するエッセイを提出しなかったこと、そしてそのエッセイを提出しなかったのは彼一人であったこと。 エッセイをしていないクラスもあった。

ある意味、これは最悪の事態だった。チェスターが絵を描いているのを見つけたのは知っていたが とても大変でした。そのことはまったく新しいことで、彼はこれまで苦手だったんだが手先が器用なのだ。そのために落胆するのは理解できる。しかしもし彼が簡単にできることのはずなのにエッセイを書かなかったとしたら、これは絶望的だった。
私はあの高慢な男たちに、チェスターがセント・アンドリュース(高校生のとき)でうまくやったこと、彼の高校時代の校長は、彼が「並外れた能力を持つ少年」であったことを書き記し、彼は優秀な成績でSenior Matric(上級創造性の試験)に合格したのだと。しかし彼らはそれをすべて母親の自分の子に対する僻めであろうと笑顔で、愚かな母親のおとぎ話(願望だろう)と思っている。仕方がない、あの人たちは 配慮も親切もない。オールカットは英国人であり、その物腰は憎むべきことである(気取っていて皮肉な態度)。一筋の希望も許さない――チェスターは彼よりずっと遅れていたのだ。だが追いつくわけがない。
"まあ、彼を大学から引き離すつもりはない" と言われた、私は決然と "彼は1年を棒に振ってしまったが、ここに残らせるつもりだ。"(留年してもよいと)言った。 拒否されなかったのでほっとした。私はチェスターについてとんでもない秘密を知っているという心配があった。私はチェスターが倒れた(学業不振になった)からと言って、そう忠告されるのは理解できない。何かをデパートで購入した。他からは悪い報告はなかった。そして私はまだそれを理解することができない。しかしそれ以外には何もなかったので、私の最悪の恐怖は杞憂に終わった。
不思議なもので、何かとても苦しいことに耐えているときに、そのようなことが起こることがある。期間をくれという話をしていたが。私が彼らと話しているとき、私の真珠のビーズネックレスの紐が切れて真珠の半分が床に落ち、残りの半分がが背中に滑り落ち、動くたびに落ち続ける。足掻くしかない。真珠はビーズ(作り物)なのにとてもきれいだった。フランス製の良いもので、ネックレスは高価なものだった。この愚かなことは、その最後の笑い話だ。これほどまでに取るに足らないことを感じたのは初めてだ。もしあの人たちが、私が「L.M.モンゴメリ」であることを知っていたら、どうだっただろう。 私はもう少し配慮が必要だった。そうやってうまくいくのをよく見てきた。しかし私はそれを知られないように気をつけた。
私は平凡で、無名で、田舎くさいユアン・マクドナルド夫人に彼らがどのように行動したかをずっと覚えている。彼女が受け取ったのは、ほんのわずかな侮蔑に近い礼儀を見せられただけなのだから。彼女の息子は、まったく頭の悪いニンゲンではなかったということだ。私たちはついに逃げ出し、ノックス・カレッジに行った。キャンパスは男の子でいっぱいだった、学内を行ったり来たりしていた。まるでみんなが私たちの用事を知っていて同情してくれているように思えたのだ。
チェスターは授業で出かけていたので、彼の部屋に行って待っていたのが、私は心が折れてしまい泣いた。庭を渡ってくる彼をやっと見たとき、私の心から苦い思いと恨みが消え去った。私は一気に、彼のことを親愛なる小さな坊やと心の中で誓い、熱烈に歓迎した。私が若いころに欲しくて欲しくてたまらなかったのに、手に入れることができなかったチャンスを、彼はすべて手に入れる。それはしかし彼はまだ私の息子であり、私の愛する息子だった。
私たちは彼に手紙(校長からの通達であろう)を見せた。彼はその結論を読んで少し白目を剥いた。留年するようにとのアドバイスであった。しかし彼の反応に私は戸惑った。"お母さん、彼らはおかしいよ。確かに前の学期はバカをやってしまったと思う。でもそれ以来、新年早々頭痛に悩まされてドローイング(鉛筆による製図描き)のクラスを2回だけ欠席した。そしてつい先日、ブランク'' (デモンストレーターの一人は誰だったか忘れたがチェスターは彼を呼び出した)

その彼が「前学期、我々は君が(チェスターが)良い生徒だとは思っていなかった。しかし今期は確実に成績を引き上げたね」。"でも提出しなきゃいけないレポートがあったじゃないか" 「技術的な英語エッセイのレポートが」" と、私はしょんぼりした。チェスターは驚いたような顔をした。「なぜですか、お母さん私はそうした。提出期限の5日前に提出したんだよ」。
私は、彼の驚きが本物であり、少なくともこの点では彼が本当のことを話しているのだと確信した。私たちは長い間話をした。チェスターは、7時に起きると約束し、その日のうちに朝は1時間延長して描き、昼は半分にして帰っている。彼は可能な限り追いつけるように頑張るつもりだ。私は、この子に何が起こったのか考えられない。大学を卒業できるとでも思っていたのだろうか。仕事もせずに? 彼は1年を棒に振り、私たちはそのためにかかったお金をすべて失うことになる。そして彼の失敗という屈辱を味わうことになる! 
でもこれで彼は目を覚ますかもしれない。彼にはどうやら抜本的な治療が必要だった。私は心を病んで帰ってきた。彼が落ち込んで孤独になるのを放っておくのは嫌だった。自分で招いたことなのに。彼はまだ若いし、私たちも賢くはないのだから。何事においても少なくとも、自分の母親はあまり厳しくしない方がいい。しかしこのことは、私たちを老けさせた。もう人生に立ち向かえなくなったような気がする。
レストランで夕食をとりあまり食べられなかったが、車で家に帰った。風と雪の荒々しい午後を経て 今晩、私は彼の成績を見渡した。チェスターのセントアンドリュース(高校)での記録は、私が誇りに思っていた記録だ。彼のクラスでの成績はほぼ全科目で高得点、「よく考え、理由が明確」。某教師は数学と反対のことを書いていた。 「2月7日」の悪い予感にまつわる私の夢は、安心した私に復讐するために「出た」のである。昨夜は疲れていてよく眠れたが目覚めは最悪だった。聖書の授業や教会をどう乗り切ればいいのかわからなかった。しかし私は危惧して以下のようにうまくやった。やるべきことは必ずできる。聖書の授業(子供たちにする聖書の授業)が耐えられたのは、私は多少なりともレッスンに興味を持ったので、一瞬心配を忘れた。しかし私は教会の礼拝の間、動かずに座っているのは大変だった。夕食の後、ユアンはスチュアートがいるオーロラへ。かわいそうに、彼の週末はこのせいで台無しになったんだ。

1931年2月10日(火曜日)
今日も大変な一日だったが何とか乗り切った。ルーティンワークを強要された。今夜は劇の練習をしようと思ったがその気になれなかった。私にとっては世界全体が古臭く興味が持てない。

1931年2月11日(水曜日)
今日は幸いなことに、私の神経が限界に達していたので少しはましだった。悲観にもブレーキがかかる転換日だ。自己満足のウィルソン氏から手紙が来た。彼はチェスターのテクニカルエッセイの提出について勘違いしていた。彼はライト教授の言い方からチェスターが提出しなかった少年だという「印象を受けた」のだ。「誤ってごめんなさい」等々。彼はそうかもしれない。
彼がそのような発言をする筋合いはない。ライト教授が何を言っているのかわからないままその "印象" で提出しなかったのだと決めつけるのか、確かにそうだったんだね! 彼がやったことはその "印象" で、私を鋭く責め立てたのだ。私の安堵感はすさまじく、気がつけばまた仕事ができるようになっていた。もちろんというのは、これでチェスターの本当の欠点が改善されるわけではない。しかし、それは(エッセイを提出していないと思った)ことは最悪のことだった。それが一番心配だった。チェスターは嘘をついていたのか? それともエッセイを紛失したのか、ちゃんと提出されたことを証明するものはないのか? このような疑問が日夜私の気にかかっていた。しかしウィルソン氏は「誤解だったと言った」ため、すべて解決された、このことを祝福している! 私に与えた影響を、これほど軽く取り除くことができないのは残念なことだ。
もうひとつ、ちょっとした朗報というかほっとするようなニュースが、ギブソン社からの手紙にあった。テイラーと合併するという趣旨のCan. Ass. Co. の知らせであった。これで倒産を回避することができる。テイラー氏から知らせがあったこの合併は、「長い目で見れば私たちの大きな利益になるのです」と電話で教えてくれた。私は心からそう願っている一方、これで大きな心配事が一つなくなった。

1931年2月12日(木曜日)
くすんだ灰色の一日、心を痛めるには悪い日だ。でももう一度著作の仕事ができるのはありがたいことだ。今日、チェスターから手紙が来た。ライト教授と長い間話をしたそうだ。ドラフティング部との交流が始まり双方の理解が深まった。ライト教授は、「自分の方が理解しているのだから、絶対に提案しない」と言った。ドラフティング部を退部することになった。これは大きな救いである。

1931年2月15日(日曜日)
昨日トロントに行き、いつか一章を読むと約束した著作の評論を著者協会に提出した。私はほとんど心当たりがなかったのだが、あるときその夜はみんなで楽しめたこと。ちょっとしたお香が人の心を和ませるのだ! そして、少し地元の噂話以外のことに興味がある人たちとの会話。 (私自身、地元の噂話が少しスリリングに感じないわけではないが) でも1つぐらいは料理としてではなく、調味料として好きなのだ。)(満腹するわけではないがちょっと味見るだけならいいと)
確かに、哀れなガービン(勝手な想像をする老人)が思いついたのはグリーンゲイブルズ(の出版)を "引き受ける" よう、トロントの神話的な会社(老舗会社)に助言したという、昔からの言い伝えがある。何度そう言われたか覚えていない。風邪をひいているので、喘息が再発しないか心配で震えている。ああ春に向けて期待を広げる! この冬は私には間延びしているように思えた。

1931年2月18日(水曜日)
月曜日の夜、私たちはSam McClure'sで行われたDolson goldenの結婚式に出席していた。私はと言えば、今はそんなことをする心境ではないので恐る恐るだった。しかし私はそれを楽しんだ。全体的な興奮が私を刺激し、しばらくの間私は "忘れなければならないから忘れた" のです。とてもおいしい夕食をいただき、私は乾杯のスピーチをしたのだが、それが「受けた」ように思えた。食後、25年以上ぶりにカドリールを踊った!! 年配の方ばかりが踊っていた。50年来の新郎新婦がリードしてくれた。
私はダンサーを眺めていたところ、サム夫人が「あなたも1セット踊らないといけない」と言い出した。 家に帰る前に、冗談でサムと踊りに出かけたんだ。私はてっきり踊り方をすっかり忘れたと思った。しかし、プレスト・ヘイ!に突然音楽が疼いた。足元には30年前と同じように軽やかに床の上を浮遊する自分の姿があった。その踊りの模様は、まだ私の脳裏に織り込まれていた。そして私の心の中には、突然踊って踊って踊り明かしたいという熱い思いがあった。しかし私は控えめに帰ってきた。
踊っていたころははるか昔のことである。私はそのうちのひとつだった。これは私の青春の小さな悲劇の一つだった(と、私は思っていなかったが)ダンスが好きで好きでたまらないのに、その機会が少ないというのはちょっと些細なことだ。で私のダンス人生の中で20回以上ダンスに参加したことはないと思う。その私が初めて踊ったのは、15歳の少女時代、レン・トゥームスでの一夜だった。フランス製の小型ハープ、フランス人の少年が演奏した。「ジュズハープ」の音楽に合わせて、古い8本針のリールを踊った。スタントン・マクニールと踊った。彼はもう死んでしまった。レンも死んだ。 他のダンサーも世界中に散ってしまった。私にはもう踊る心もない!

1931年2月20日(金曜日)
今日はトロントのJarvis St.Collegiateで朗読会をした。200枚のサインを書いた後、コサージュブーケをもらった! 今晩はマレーと一緒に行き、マリオンと「猫の忍び足」を観に行った。もう何年も映画を観に行ってないんだけど観たかったんだ。サタデーナイトが「ものすごく気持ち悪い」と言ったのでこの作品を見た。それはそうだった。マリオンが耐え切れず外に出てしまうほどだ。しかし私はそれを楽しんだ――その "不気味さ" が楽しいスリルを与えてくれた。
ここ数日体調が良くなっている。頭も耳も気にならないというくらい。でも本当に気分が良くなることはない。私が欲しいのは心配事や悩みから解放される本当の休息だ。単調な業務と蚊に刺されること。しかしこれらは今年も常態黒猫だ。例えばたった今、合唱団での喧嘩がある事態を招いた。その中で最高の家族の一人を失うことになりそうだ。これらのことでこの冬は悩みが尽きない。そんな中、ユアンはというと、あるケースで手当てをすると、他の誰かが新しい問題を勃発する。

1931年2月27日(金曜日)
......昨夜、私は初めて "放送" というものを体験した。私はプレストンで次のようなことを話した。朗読の夕べと、コンサートのために放送局へ行った。そして、私の海の詩をいくつか読んだ。私はこれまでと同じように愚かで自意識過剰だと感じた。マイクに向かって話しているときは、私の人生の中で、最も重要なものだった。でも、もし私が 一人だったらそう感じることはなかっただろう。私と一緒にいたのは数人で、人混みは平気だけど、オーディオルームで数人でいるといつも嫌な思いをする。少なくともチェスターは今夜帰宅した。私は彼から彼のことをあまり聞き出すことができない。"追いつけ追い越せ" の進歩。でも彼は努力していると思う。

1931年2月28日(土曜日)
今日、ユアンはロー夫人の手術のために病院に行き、ヴァイオレットはここに来た。母親が留守の間滞在するためだ。他の誰も彼女を家に連れて行かない。普段の私なら気にしない。でも今は知らない人がいるのは不安だ。そのため、というのも私が「頑張ろう」と思っているのは、ほんの少しだけ勇気のある顔をしていようということだ。それにね、私はミス・バイオレットがあまり好きではない。しかし母親が留守の間彼女を見なければならない。そして牧師の妻以外の誰がその責任を持ってくれるのだろうか? ということなのだろう。でもマリオンと私はちょっとだけ楽しませてもらった。ありがとうございます。ジョセフの一族マリオンは部族の封印を受ける。(牧師の一族の義務を受けた)

1931年3月2日(月曜日)牧師館、ノーヴァル
緊張で眠れない夜が続いた。惨めな気持ちになった。憂鬱になり、まるで人生の最盛期が終わったかのように――それはそうかもしれないが、しかしあるときそのことを強く意識しない限り、それを忘れてやり過ごすことができる。楽しいことは何もない。今日も。しかし楽しいことではないことがあった。それはこの冬の模様と同じものである。メイソン夫人(メイド)が今日、6月に結婚することを私に告げたこと。彼女は3月いっぱいで辞めたいと言っていた。全然突然ではなかった。彼女が婚約していることも結婚することも知っていたから、しかし少し前の彼女の言葉から私はこう思っていた。秋までは出ていかないだろうと。
このニュースは驚きと不快なもので、私たちは二人とも泣いた。メイソン夫人と私はとても仲がよくて、今までとても楽しい4年間だった。彼女は私が今まで持った中で最高のメイドだ。きちんとして有能な、そして働き者。忘れ物をしない。何事にも興味を持った。完璧に健康的でありいい仲間だ。彼女には何の落ち度もないのだが、ただ彼女が食器を扱う時には本当に恐怖を感じ、割ったり欠けたりさせていた。私の良いディナーセットは がひどく欠けさせられた。でも彼女と一緒に仕事ができて嬉しかったし、これは損した気分だ。彼女が行くことを考えた。彼女が来たときみんなは私がおかしいと思ったと思う。なぜなら、私は幼い赤ちゃんと一緒に女性を連れてきたからだ。そして怪しい実験だとも思っていた。しかし結果的にそれを成功させた。ヘレン(メイソン夫人の子)は昔から品行方正な大人しい子だったから......。
メイソン夫人は春の大掃除の後まで残ってくれていたらいいのに。それは最悪の事態だ。新しいメイドを雇うのに最適な時期だ。募集の広告を出さなければならないだろう。確かにこの辺りには、家に入れたくなるような人はいないね。
「イリアス」を読み終えた。原作を読むことができたら、おそらくは楽しめただろう。しかし終わりのない血糊と殺戮にとても嫌気がさした、特にポープの滑らかで単調な韻を踏んでいるところが。しかし私はある種の満足を感じている。少なくとも、その読み方を達成したこと。そして私は、次のようなところで、一笑に付された。
     現代のような強大な石を
     地球の堕落した息子2人では育てられない。
イタリック体は私のものだ! キリストのおよそ1000年前、ここに老ホメーロスがいた。 現代という時代の堕落を嘆く。ちょうど今、人々がしているように!(戦争にばかり明け暮れているというこtか)

1931年3月9日(月曜日)
この冬を乗り切ったら、私はあまり体力が残っていないと思う。先週の火曜日から私は最悪のインフルエンザの発作でずっとベッドにいる。それを恐れていたため、発症に気づいた時は絶望的な気持ちになった。喘息はいつもそれで再発するのだが、不思議と再発はしなかった。しかし体調を崩し咳が止まらなくなり、医師から、病気が悪化する予防のための美容液をもらった。もしそれが予防になったのなら、私は彼がくれたことに感謝している。私は、それだけ十分に悪い。
今日も這い上がってきたけど、まさに芋虫のような気分だ。だが誰かに踏まれた。そして私はあ! という表情! 今週は小さな陽の光がひとつあった。チェスターは、とうとう彼の設計の絵を完成させた。これも数に関しては良いニュースのうちだ。しかし品質についてはどうか? また、『アンの夢の家』はポーランド語に翻訳されている。
ひどい吹雪に見舞われ、いたるところで道路が封鎖されています。そこで オンタリオ州では、ここ数年、このようなことはありませんでした。私たちがここに来てから初めて ユアンは日曜日にユニオンに行けなかった。

1931年3月14日(土曜日)
今週は1日、自分のことが好きになれなかった。一晩中咳をして一日中被害者だ。自分がこの世界、あるいはどの世界にも属さないという奇妙な感覚に襲われることがよくある。インフルエンザに罹患している という状態はこの感覚を強めている。
嵐に見舞われている。車庫から車を出すこともできない。(家に滞在中の)マリオンがプレストンに行った。先週の土曜日、友人を訪ねたまま一度も戻ってこれず、寂しい思いをしている。実に嫌な気分だ。メイソン夫人は今週、ジーフィ・レスリーから手紙を受け取った。サザーランド・ビートンは、30ドルの食事代を未払いのままそこを去っていた! 
そして私たちが見つけたヴァイオレット・ロー(母親が手術のために置いてあげた娘)は、最も素っ頓狂なウソを連発した。詳細は書けない。それは気持ち悪いことだ。彼女がここにいる間、私たちが親切にしてあげたのにね! 幸いなことに発見したその日に母親が病院から帰ってきて、ヴァイオレットを見て、「このままではいけない」と。母親が帰ってしまった。その後彼女が家の中にいるのは本当に許せなかった。母親が病気でも彼女の嘘の言い訳にはならない。言い訳を試みてもあまり意味がない。そのクラス(下層クラスということか)の人たちを助けてあげてほしい。彼らは感謝することができないのだ。でも私はそのことを申し訳なく思っている。 ヴァイオレットがかわいそうで、助けてあげたかった。

1931年3月22日(日曜日)
さて縁結びはもうおしまいだ!!!
この冬、たった一つの明るい話題は、私の幸せのために取ったものだったようだ。マレイとマリオンの件で、マリオンがここに来てから、マレーはどうやら彼女に献身的に尽くしてきた。彼は常に彼女を連れ出し、自分の家を訪問させた。マリオンは自宅と親戚一同と、夜な夜なここで四六時中過ごしている。マリオンはバラのように咲き誇り、私はそれを見て、ある種の身代わりの幸福感を味わった。
彼らを見て。時々ちょっと切ない羨ましささえ感じていた。そんな理想のようなマッチングだ。二人とも若く幸せで、互いに愛し合っている。そう思えたし、もしかしたら私はそのことをみんなに言う。教会のみんなは、それを定着したものとして捉えていたようだ。そのことについて、たくさんのヒントをもらった。私自身は、まるで......と思うほど嬉しくて、予定がいっぱいだった。マリオンは私の実の娘だったのだ。自分の娘を持つのは楽しいことだ。松山の向こうのあの美しい家で(グリーンゲイブルスのこと)私のすぐ近くに住んでいたのだ。結婚式も挙げた。(モンゴメリの空想の内)
マリオンに贈ろうと思っていたプレゼントを選んだ! まあ、私たちは皆一緒になってバカをやっていたわけだ! マリオンが来てからの2ヶ月間、彼女は完全に幸せだったと思う。例えばこの1ヶ月間、彼女は私たちの期待通りに恋愛が進展していると思っていた。この1ヶ月間私は彼女が少し鈍いなと思うこともあったが、マレーが言ったように、私はそのことを彼とは関係なく、「この人なら大丈夫だろう」と思っていた。イートンやシンプソンに入れなかったことを悔やんでいたということだ。イートンは店員を手に入れようとしていた。経営不振は深刻で、彼らは新しい店員を受け入れるかどうか。私はマリオンが場所を確保することに不安を感じていた。若夫婦には厳しい時代だ。というのも彼女は自分の生活を支えるためにお金を稼ぎたいと考えているのだろう。いざという時の嫁入り道具。
そして、青天の霹靂が訪れた!

昨夜、12時台に帰宅すると...マーレーとマリオンが車で出迎えて私を連れてきてくれて、彼らは夕方まで一緒に過ごしていた。私は門の前で二人だけでおやすみなさいを言わせるために、そっと車の外に出て家の中に入った。数分後、私が台所にいると、マリオンが入ってきてまっすぐ歩いてきた。 彼女は誰とも言葉を交わすことなく、ダイニングルームを通り抜け2階に上がっていった。この様子が、あまりに彼女らしくないので私はかえって不安になった。
しかし今朝、朝食の時に彼女は教会に行った後、マレーと一緒に昼食を食べに行くという話もあった。弟のマックとその妻が遊びに来ることになっていたので私はそう思っていた。そこまではすべて順調だった。礼拝の後、マリオンの友人たちがトロントのレアーズには行けないが、マレイはトロントで降りてくると言っていた。夕方のことだ。この夜はマリオンと私以外みんな出かけていた。私たちは座っていた。マリオンは母に宛てて手紙を書いていた。玄関のベルが鳴ると、彼女は立ち上がり、書いていた手紙を私に手渡した。「これを読んでほしいのモードおばさん。遅かれ早かれ知っておかなければならないことだから」。
その言葉から、私はすぐに何かが間違っていることを悟った。嫌な予感がした。私は図書室に行き、その手紙を読んだ。ここにあるのは――少なくとも、そのマリオンの気持ちに関係ある部分――
 
"数通前に警告したはずだ" "マレーと私は決して結ばれないが最高の友達です"。昨夜、私たちはそれを持ち出したが、それは私たちのすべてであるということになるのでしょう。1ヶ月以上前から何となく知ってはいたのですが、その話題は決して先週の水曜日の夜まで、本当に真剣に育ててくれました。私が彼のことを気にかけていることを彼は知っていました。友達であることに関してはかなり深く関わってきましたが、しかしその下にはこのような状況では、私は彼の妻として幸せになることはできません。彼は、ある時気がついたのです。しかしそのせいで彼を低く評価しないでください。しかし、彼にとってこのテーマ(結婚するという事)は簡単なものではありませんでした。その主な理由は、「より多くの理由がある」ということです。 というのも私にとっての家庭とは小さな子供たちのためのことであり、マレーは実質的に子供を憎んでいるのだから、やることは一つしかない(結婚は出来ない)。彼にはどうすることもできないし理解することもできない。それを克服するために彼はメルセデスの小娘で十分に努力した。でも憎しみは消えない。さて私たちは幸せな冬を過ごしました。もうじき終わりますよ。マレーは確かに私にとても親切にしてくれました。私を甘やかしてくれたのでしょう。彼は素晴らしい仲間であり、これからもそうである」
 
私はこの手紙を読んで、急に年をとって弱くなり、愚かで愚かになった気がした。私はラウンジで丸くなって泣いた。これほどまでに傷つき失望したことはない。私がやったことはマリオンが我が子であったなら美しいと(上手く後押しをしてやったと)思われていたものが、今となっては甘ったれで、余計なタワゴトで、反感を買っていたのだ。そして私は憤りを感じた! 誰もマレーにマリオンの後を追って来てくれとは頼んでいない。私が昨年秋に彼女が上京してくるという話をしたのは、私がそう思われるのを(マリオンをマレーにくっつけようとしたのだと思われる)恐れてのことだった。他のみんなにはマリオンが近づいてきたと言ったんだ。トロントで何かしようと思っていたから。だからマレーは、強制されたかのような態度で彼女の後を追いかけるのはどうかと思う。
子供に関する彼の不思議な執着については、――私が覚えているのは、数年前、レアーズのある夫婦のもとに滞在していたチェスターが帰宅して夕食のテーブルでこう言ったのだ。「あんなに子供を嫌う人がいるなんて驚いたよ」と"
「マレイもそうだというのか」「ナンセンスだ」と私は言った。「彼は子供を嫌悪していない」(マレーは子供を嫌わないだろうと)
「いや、そうだよ母さん、彼はそうだよ。彼は子供は嫌いだと言っているよ」。とチェスターは言った。
「彼は自分のもの(子)を持てば、それを乗り越えるだろう」と私は言った。私そのことは本当に重要視していなかった。何人かの自意識過剰な若者の話を聞いたことがある。というのは、「子供が苦手」ということだ。しかしそれは明らかにより深いマレーの何かの問題である。私には理解でない。彼はとても親切で優しい人なのだ。子供好きなんだろうなと思うような人だった。
マレーはあまり長くは滞在しなかったが、彼が去った後、可哀そうなマリオンやってきて、私たちは 一緒に泣いて長い話をした。マリオンはひどく落ち込んでいる。でも彼女はかわいい勇敢な少女であり、彼女の人生を台無しにすることはないだろう。彼女は言う、自分は何事にも負けずというのも、彼女が来てくれたおかげで知ることができたからだ。もし来なかったら、彼女は "私が行けば、うまくいったのだろうか?" という問いに生涯悩まされたろう。私もそれを感じている。最初の苦い反動で、私は、「私が行かなければよかった」と思った。マリオンを誘ったことは一度もない。でも、もし私がそうしなかったら、マリオンは私がマートルに何もしてあげなかったことを恨んでいただろう。そして、もしそうであったなら、すべてがそうなっていたかもしれないといつも後悔していただろう。
だが期待通りだった。だから結局のところ後悔はしていない。全ては最初に言った通り、私はもうずっと縁結びをするのはやめようと思っている。マリオンが手紙の中で言っていた「その他の理由」が何なのか私は知らない。私はマリオンは、「マレーは本当に私のことを気にしているのだろうか」と率直に尋ねた。とつぶやき、「彼は少しは気にしている」と言った。それがすべてを物語っていた。マレーは気にしない。そうすればすべての困難が解決されるだろう、彼の子供に対する執着心の問題でさえも。
そしてこれが、私がマレーを苦々しく思う理由だ。彼はマリオンを愛しているのでなければ、彼女を追いかけることはなかったはずだ。彼女は、しかしそれは何を議論するためのブーツなのだろうか?私は、マレーは、誰よりもオーダー(相手)を愛せない。なぜ彼がそうしないのか理解できない。マリオンが大好きだ。彼女はとても魅力的な女の子だ。ふたりはお互いのために作られたようなものだ。マリオンは1000人に1人の女の子だ(欲目かも)。マレーは、自分を好きにさせてくれる人を見つけることができないだろう。妻になるべき相手がそうであったように。
さて私はいつかこのすべてを違う角度から見ることができるかもしれない。しかし今、この耐え難い冬の最後の藁(縋りつく希望)に思えるのだ。 私は人を助けようとは思わない。私は誰にでも幸運をもたらすわけではない(必死で言い訳に走っている)。私は以前、何度も、何度もこういうことを見た。マリオンはもう家に帰りたい気分だったが。私は彼女を思いとどまらせた。彼女のために何もしてやれてないのだ。
数年後、キースは妻を迎え入れることになる。私はマリオンに トロントでの募集があるまで、ここにいればいい。またはそれ以降になってもいい。そうすれば、夜間にビジネスコースを受講して、自分に合った仕事をすることができる。本当に良いビジネスポジションだと思う。これが彼女のやりたいことなんだ、私は知っている。寝るのは嫌だ。私は眠ることができないだろう。すべてが醜く見える。それはこんなに悔しい思いをしたのは何年ぶりだろうということだ。非常に深い芯を突き刺すような感じだ。

1931年3月23日(月曜日)
もちろん寝不足で、バカみたいに一晩中泣いていた。しかし、人はバカであることで救われる。もしそうできるなら、人生はもっとシンプルなものになるはずだ(余計なことを気に病むことなく暮らせる)。これはこれまでブルーデイ一色(つらい気分だ)。違和感に欠けることはないだろうということで(この気分ならさらに悪いことがあっても同じだろうと)、手紙が来た。今朝チェスターから、インフルエンザで1週間寝込んでいたとの連絡があった。そのため多くの貴重な時間を失ってしまった。ということだろう。年が過ぎていく。

1931年3月24日(火曜日)
私は昨夜はよく眠れたので今日も頑張れそうだ。しかし私は何にも興味がない。なんだか傷ついた子供のように、苦しく不当な扱いを受けているような気がする。マリオンは勇敢で陽気だが、よく眠れていないのはわかる。彼女の夜は、きっと、かわいそうにつらいです。
メイソン夫人が旅立つと知ったとき、私はジェニー・ハリソンに手紙を出して尋ねた。彼女が来てくれるかな。彼女は私に、「行きたいけど、妹のエドナの健康状態があまりに悪いので、母親は彼女が定職につくことを嫌がったそうだ」。ジェニーは素晴らしい料理人であり家政婦でもあるため、私はがっかりした。好きな女の子だ。
でもそれを聞いたシアー夫人が手紙をくれて、ゼファーのトンプソン夫人が家を欲しがっていると言ってくれた。 私には彼女がとても合うだろうと思うって。で、私は彼女と行動を共にした。彼女は1歳になる女の子がいたが、夫の元を離れたのは、彼は "こんな野蛮人" だったからだ。私は過度に熱中する(期待する)ことはなかった。私は赤ん坊のいないメイドを望んでいたのだ。この実験はヘレンの子の場合にはうまくいった。しかし、もう一回これほどよく成功する確率は低かった。私は夫の事実(トンプソン夫人の夫が野蛮人だという事)が気に食わなかった。
死人に口なしとはよく言ったものだ! しかし悪い生き物はいつでも現れるし、妻を説得して自分のベッドに戻らせることもできる事例だ。そして最後にゼファーの名前そのものが私の鼻孔に刺さった(ゼファーは気に食わない町)。その一方で、見ず知らずの人に向けて広く広告を出したり、また取り上げたり(選んだり)することは好きでは無かった。シアーさんは、私が何を必要としているかを知っていて、彼女の推薦は重みを持つ。そこで私はトンプソン夫人に手紙を書き、今日、夫人からはこんな返事が届いた。彼女は来るだろう。

1931年4月1日(水曜日)
昨日は体調が悪かったのだが、今日は久しぶりに体調が良くなった(たぶん)。というのも、昨晩、愛しのスチュアートが休暇で帰ってきたのだ。しかしその日のうちに朝食後すぐにメアリーから アーチーの急死を伝える電話があり、不快な思いをすることはなかった。アーチー・ビートンの死は何の意味もない。私は彼のことが好きではなかったからだ。
しかし私が動揺したのはメアリーのせいだ。彼は彼女の人生を幸せにした。彼は数年間頭がおかしかったのだが、それは彼のせいではない。近年まで大酒を飲んでいたのでそのせいもあり、まったくもってメアリーが彼と一緒にいることは、決して羨ましいことではなかったのだが。それでも間違いなく彼女は彼の死を痛感し、心配や悲しみに耐えられるような状態ではない。メアリーは私たちの古い「カルテット」(四人組)の中で最初に未亡人になった人だ。もちろんアーチーは彼女より15歳も年上だったが。そして私が彼女の結婚式で踊ったのはつい先日のことのようだ。

1931年4月4日(土曜日)
このところ少しよく眠れるようになったので、昼間の体調もよくなった。しかし私は生きているだけで嬉しいと思える日が来るのだろうか。でも今夜は大笑いできたのでどんな神様にも感謝しましょう。である。マーク・トウェインの『ラフィング・イット』を読み返していたら、「トム」の話に行き着いた。 鉱山で爆破された猫「クォーツ」。そこを何度も読み返す度に、私はただただ痙攣して二重になる。今晩はそのような事態になるまで笑ってしまった。私の目には涙が浮かんできた。老いた "トム" は、腐った薬(効き目もない薬)よりも私に良いことをした。今年に入ってから、ずっと撮り続けてきた映画がある。でも、何もかも忘れて一人で静かに過ごしたいのだ。何年も何年も宣教師の名前を聞く必要のない、緑の多い土地で。補助員、聖書クラス、聖歌隊、ボードオットマネージャー!...。

1931年4月7日(火曜日)
......今夜、ギルドの冬期行事の終了に伴う "宴会" があった。私にはどちらかというと表面的にはいい時間であった。でも、ああ、疲れた。

1931年4月8日(水曜日)
今朝、ユアンと私はトロントへ行くことになった。そして私は出掛ける時にメイソン夫人にさよならを言った。というのも彼女は午後から出かけるので、私たちが戻ったときにはここにはいないはずだからだ。私たちはトンプソン夫人(新しい家政婦候補)とその赤ちゃん「ジューン」に出会い、家に連れて帰る。私は最初から信用することは出来ないという印象が強いので、彼女に関するすべての意見は、彼女がここに来るまでは延期する。いつかは書くだろう。
家に帰るとメイソン夫人がいなくなったことに気づいた。私はグリーンウッド氏に関する悪い知らせと相まってとても疲れ果ててしまった。私は自分を馬鹿にしていた。夕飯も食べられず涙も止まらない。人前で泣くことはもう嫌だ。今夜はまったくもって憂鬱だ。マリオンに母親の悪い知らせが来た...。彼女は(マートルは)黄疸のひどい発作で重病だ。私はむしろ、彼女の失望が黄疸の原因であろう、黄疸はしばしば不快な感情によって誘発される。Myrtleはそのような効果が続くタイプだ。これについては全体的に心もとない一日だった。

1931年4月13日(月曜日)
状況は良くなっていない。まだ咳が止まらず、睡眠も浅く、神経質で気落ちしている。Mrs. サムは聖歌隊に戻ったが、デイビス夫人(憎らしい夫人)はまた調子が悪くなっている。元気な郵便物はない――Myrtleはとても惨めで、マリオンは家に帰ろうかどうしようか迷っている。ジューン・トンプソン(新しい家政婦が連れていた赤ん坊)は夜も昼も泣いていた。しかし今日の午後、私は一時的に家を脱出する。ブランプトンのホッジンズ夫妻と昼食に行った。とても素敵な知的な人たちだ。 ――で、そこの文芸協会で論文を読んだ。元気をもらって帰ってきてはるかに緊張しない。

1931年4月14日(火曜日)
"今日も青い一日(憂鬱な一日)が始まった" 最初に嬉しかったのは、ある男性から朝食中に電話がかかってきて、「過失運転致死傷罪」でチェスターの召集令状を受け取った。公道で事故を起こしたのか! チェスターは本当にいつもそうなので驚いた。良いドライバーです(皮肉な表現)。
もちろんこれでは1日が台無しだ。チェスターが直接行くことができなかったためE(ユアン)はミミコに行って判事に会わなければならなかった。その結果この若いバカは、(Luella Reid’(恋人)に腕を回したまま)スピードを落としすぎてちゃんと運転ができなかったのだ。警官に許可証を要求されたときユアンは許可証を持っていた。ユアンは罰金として15ドルを支払わなければならなかった!。しかも、1セント単位が重要な春にだ! 
ユアンはトロントのハウテン教授に会いに行った。ハウテン教授はチェスターは夏休みの間、鉱山で働く少年たちの居場所を探していたが、教授はチェスターは大学時代の成績が悪かったので彼のための仕事はないと言っていた。しかし、E(ユアン)が仲裁に入り、ハウテンがが我慢して、サドベリーのフルード鉱山への紹介状を渡した。というのも嬉しいね。
ユアンは離れて仕事をしている方がC(チェスター)のためになると言う。父親と仲が悪い。チェスターのせいばかりではないが、チェスターが家にいるときはほとんどない。彼が自分の時間を占めるためにこの仕事が手配されたことで私はとても安心した。最近の心配事のひとつだった。
そして今夜、また新たな衝撃が走った。このノバスコシア銀行が閉鎖されたのだ! 本当に残念なことだ。ノーヴァルに来るまで銀行が近くにないことでずっと不便な思いをしてきた。ここはとても便利だった。そして今、私は昔のような不便さが戻ってきた。銀行は、それ以来後手に回っている。
工場は焼失した。あれでノーヴァルは本当に死んでしまった。それに、これではグリーンウッドさんが回復してもノーヴァルに工場を戻してくれない。そして彼は私たちの社会生活とギルドに大きな空白を残すことになる。スチュアートの(成績の)報告書は今日届き、明るい話題となった。しかしチェスターのほうは以前はセントアンドリュースでも優秀なレポートが......。(送られてきたのだが)

1931年4月16日(木曜日)
昨夜はスチュアートを連れ帰る際に、みんなでオーロラにドライブに行った。そしてそれは緑に包まれた神秘的な薄明かりの中、柔らかな夕焼けの空の下、楽しいひとときを過ごした。マリオンはドライブインに最適な会社だ。あまりの楽しさに、私はこの数週間で最高の睡眠をとることができた。私の回復に必要なのは、仕事と心配事からの解放だと思うのだ。しかしそれは難しいようだ。それを今だけ手に入れた。

1931年4月18日(土曜日)
マートルが腹膜炎の発作で重病だとマリオンが知らせを受けた。すぐにでも帰郷してほしいとのことだった。彼女は月曜日に行くことになった。

1931年4月20日(月曜日)
今朝、Eと私はMarionをトロントに送り、Montrealで涙で見送った。私は惨めな気持ちになった。もしマリオンが婚約者であるマレーと彼女の結婚式の準備のために家にいることになっていたら、私はヒバリのように幸せだっただろう。
その日はとても良い天気で、家に帰ると前庭には水仙が庭に咲いていた。しかし何も元気が出ず、マリオンはゲストルームを占領していたのだが、その部屋を元に戻しているときに私はとても寂しくなって、このままではいけないと思った。涙が止まらない。そして今夜ある男性の訪問があり、トンプソン夫人(新しい家政婦)を尋ねてきた。その後私がキッチンに行くと、彼はそこにいて、彼女は冷静に彼を紹介した。その男性を夫にしたのだ!!! 彼は11時まで滞在していた! さて、この風向きは何だろう? 何を取ろうとしているのだろう。トンプソン夫人が彼の元に戻っていくのは素敵な状態だ。しかし他に何を期待するのか、この魔の年に? しかしこの2週間で3キロも太ってしまったので、もしかしたらこのままでは物理的にグレードアップしそうだ...

1931年4月21日(火曜日)
チェスターは今日家に来た。彼は2つを除いてすべての試験に合格したと思っている。もしそうだとしたらサピエメンタルを服用しなければならないが、1年を棒に振ることはないだろう。しかしそれは私が恐れているのは卒業試験ではなく、その年の学期中の提出作品で合否を決めるという点で、十分な成績を残せなかったことを危惧している。サスペンスは忌まわしい。人は向き合えることを知っていること。彼は夏の仕事が決まったことをとても喜んでいて、次のように決意している。せめてその中で良い結果を残すように。

1931年4月26日(日曜日)
今週は悪魔のような1週間だった。ラックが二重の肺炎になってしまったのだ! 先週の水曜日の朝、私が起きると、ラックが前の敷物の上に座っていた。鏡の中の彼はとても堅苦しく見えた。彼は夜中に壊れた地下室の窓から外に出ていた。明らかに何かを食べていた。というのも彼は桶のように満腹になっていたからだ。食べ過ぎで気分が悪くなったのかと思いきや、こんなこともあった。
この日は掃除で忙しかったので、ほとんど一人で留守番をさせていた。昼過ぎに私は不安になった。彼はソファに横たわり、その小さな 脇腹が大きく揺れていた。私はそれが気に入らなかったので、獣医に電話をかけた。獣医はこう言った。それは胃の不調だけだろうと思い、ヒマシ油の投与を勧めた。私はそれを彼に与えた が、いつの間にか吐き出してしまった。彼は急速に悪化し、息をするのもままならず、半分座り半分横になっていた。口を開けている。夕食後、私は彼が毒殺されたと思い、ニッケル博士に電話した。
獣医さんが来て、かわいそうな運ちゃんを揉みしだき、獣医さんはいくつかの検査をして、そして、「あなたの猫は肺炎です。片方の肺は炎症を満タンにし、もう一方はほぼ満タンになっています。"私は絶望が胸を満たすのを感じた。多くの猫が肺炎になることは知っていたが、私はそれらが回復したという話は聞いたことがない。獣医はラックに毎日与えるように錠剤をくれた。3時間、窓を開けて暖かくしておくようにと言われた。これで新鮮な空気を吸えるようになった。これは言うは易く行うは難しだった。ラックに蓋をする(飛び出さないようにする)のは簡単なことでなかった。私自身あまりに寒い部屋にはいられなかったし、天気も悪かったのであえて彼を置いてはいなかった。
寒くなったので、唯一空いていた客室に案内したんだ。窓を開けたベッドの足元に彼を覆い、一晩中座り込んで見守っていた。大変な夜だった。かわいそうな猫はとても苦しんだ。息をするのもままならず、彼の目はまるで "私のために何かしてくれないの?" と言わんばかりに、情けなくも私を追っていた。私は心が折れそうになった。運ちゃんはとても大切な小さな仲間であり友人であったのに、特に冬と春は大変な思いをさせられたが、彼は私にとってとても心強い存在だった。私はそのように思っていた。雨の降りしきる夜、かわいそうなペットと格闘しながら 彼の命のための戦いは、運のない人生を象徴しているようで、とても甲斐ないことだ。「ノー・ラッキー」。
私が帰宅すると、芝生を駆け回って出迎えてくれる灰色の雌猫も、猫もいない。というのもこの部屋では、ベッドに寝転んで、半分ギラギラとした表情をしているのだ、まるで「ここにいてはいけないとわかっているけど、私は美しくないの? 私を追い出す勇気はあるのか」とでも言いたげに、半ば懇願するように。猟師が夜明けに私の枕元に獲物を運んでくることもない(猫の習性をを猟師に例える)。 どこからともなく現れ図書室の椅子のクッションの上に毛糸の玉が乗っているのでもない、私が庭仕事をするたびに、「猫ギャルじゃないんだから、手伝ってよ」とせがむのだ。私が小説を書き始めたらすぐに2階に上がってきて、書類の上で丸くなって寝るんだ。優しい眼差しで見つめられたり、優しい指で触れられたりするたびに、嬉しい悲鳴を上げることはない。つまり愛すべき、愛されるべき、愛すべき運の持ち主など、まったく存在せず、この猫は哀れな存在でしかなかったのだ。芝生の木の下のどこかに毛皮と骨の小さな棚(のようになって)埋まっている。
運ちゃんは、獣医さんの心を掴んでいた。こんないい猫は見たことがないと言っていた。すると、朝様子を見に自分の考えでで上がってきたのだそうだ。その具合はまだわからないという報告もあり、あまり心強いものではなかった。運も良くなかった。その一方で私はその長い、暗い、冷たい雨の日の間、あまり良いことがなかった。しかし夜、私は運ちゃんの呼吸が少し楽になったような気がした。でもう一晩腰を上げた(見守った)。私は枕に頭を乗せて、うとうとと眠っていた。朝までに私は彼が良くなったことを確信した。口を閉じても呼吸ができるようになっていた。そして彼が弱々しく呼吸をしようとするのを見たとき、私はその顔を見たとき、彼が良い方向に向いたと確信した。本当に嬉しくて涙が出た。それからは少しずつ良くなってきた。でも今日初めて少しは食べてくれた......。

1931年4月27日(月曜日)
まだまだ厳しい寒さが続いているね。今日はCちゃんの衣装の準備で忙しかった。マリオンの手紙では、今日、母親の状態をあまり明るく描いていない。運はかなり良いようだが、かわいそうな猫は物陰に隠れてしまった。それでも彼は生きている!

1931年5月2日(土曜日)
聖歌隊では、トレーナーのキャップス氏が始めた別の行事が行われている、彼は非常に軽率でペッパーな男だ(コショウのように辛い男)。ユアンは落胆しているし、私も落胆している。この冬は、教会の些細な争い以外何もなかった。しかしそのようなことから離れて、楽しい数日間を過ごすことができた。
木曜日の朝、私たちは は、チェスターを送るためにサドベリー(チェスターが勤める鉱山)に向かい、320マイルを1日で走破した、サドベリーに着いたのは夜の10時だった。最後の80マイルは、ダンテの神曲ような満月に照らされる風景を通り抜けた。サドベリーは2万人ほどの町であるが、その周囲はひどく荒れた丘陵地帯である。丘陵は大いな災いを隠す。チェスターは鉱山に行き、お役所仕事から解放され、鉱山師になるため再出発した。試験などを行い翌朝出頭するように言われた。私たちは彼にいい下宿を紹介した。ローム通り13番地だったんだ。そんなの(チェスターが家から離れる事)嫌だよ。いや私は知らない。誰に笑われてもいい。いいことは何もないのだから。
チェスターから離れる時が来た時、私は恐ろしく感じた。私の赤ちゃんがあそこに行ってしまう。あの荒れた土地で、さまざまな誘惑を受けながら。その中で彼はどう暮らすのかということだ。これまでのところチェスターは私たちを失望させることもあったが、決してそのようなことはしていない。しかし私は失望するつもりはなかった。それでも私は重い気持ちで彼を見送った。帰りはのんびりとドライブして昼過ぎに家に到着した。この家はひどく寂しい感じがした。子供がいなくなった。しかしラッキーがまだここにいて、私に会いに来てくれたことに感謝する。彼は楽しそうに鳴いている。

1931年5月4日(月曜日)
オンタリオ州、ノーヴァル
今晩、チェスターから手紙が届いた。彼はサドベリーが好きなのだが、その手紙は安心できない内容だ。土曜の朝、出勤して最初の仕事は唸らせられることだったと。重い石をハンマーで割ったりする。当然ながら彼はあまり専門的なことはできなかったので、すると「ボス」は彼をその場でクビにした! しかし部下たちは、彼が(ボスがであろうか)公正な判断をしていなかったと言い、チャンスと思い、別の上司に別の仕事を与えてもらった。これが心配なのだ。きっと何の苦労もしたことのない少年に期待することはできないだろう。最初から古株についていけるように肉体労働をすることは無茶な話だ。ハウテン教授は、ユアンに「最初はチェスターを地下に(地下の坑道)行かせなかったし期待もしていなかった」と語った。最初の夏を頑張れば。しかしこれはそうは思えない。

1931年5月8日(金曜日)
今週は嫌な一週間だった。体調が良くなくて、毎晩下を向いて歩いていた。チェスターからの手紙を恐れて夕方の郵便を待っていた。今夜まで一通も来なかった。彼は2回目の仕事はうまくいったが、1日半しか続かなかった。彼の次の仕事は、「泥」を車(トロッコだろう)に押し込み、別の場所で降ろすという設定だった。彼は失敗することはないだろう。しかしその手紙を読んで、私は漠然とした不安を覚えた。
合唱団に関しても、もっとトラブルがある。本当にこのようなことはよしてください。私たち二人とも疲弊しているんだ。私はハウスクリーニングをしているのだが、それが嫌いだ。一般的には私はハウスクリーニングが好きだ。冬の汚れやホコリを取り除いて、すべてがリフレッシュされるのは嬉しいことだ。しかしこの年は気持ちを込めてやることができない。体調も悪いし、心配だし、気分も落ち込む。生きているだけで嬉しいと思える日が来るのだろうか。

1931年5月9日(土曜日)
今朝、工学部の合格者リストが新聞に掲載された。チェスターの名前はその中になかった! もちろん予想していたことではある。しかしそれで苦い思いをすることになった。彼は2つ以外全部合格だと思っていたのだから。逃げ出したくなるような、泣きたくなるようなそんな一日だった。悪魔が登場する。しかし私はとてもとても苦い思いをした。私はチェスターの親にふさわしくなく、それで彼はこのように私たちを失望させるべきだ。

1931年5月10日(日曜日)
ひどい夜で、涙が止まらず眠れない。そして教会に行くと、みんなが知っている。さらに悪いことに、土木工学の合格リストにはC.マクドナルドが通過したと載っていたが、みんなはこれをチェスターだと思い込み祝福してくれる人もいた。そして実は私たちの息子は落第したのですと皆に告白する屈辱を味わうことになった。
今日の午後、ファーガソンさんが来て、「オープンミッショナリー」礼拝で話をした。今晩はと、私は彼女をニコニコともてなし100のことを話さなければならなかった。楽しいという感じはほとんどなかった。まあこんなことはいつまでも続くわけがない。人はそのうちに事を時間内に終わらせる。

1931年5月11日(月曜日)
オンタリオ州ノーヴァル、牧師館
30年前に褒められたというのは不思議な経験だね。――その言葉が発せられてから7年。ファン・ワイズ(ファニー・ワイズ)が最近のP.W.C.誌のコピーを送ってくれた。その中にP.W.C.で私のクラスだったラムジー博士の記事が載っていた。アンダーソン博士のことを書いているのだが、彼は昔の博士が授業していたときの絵を描いている。何かについて意見を言う。
今回の例では、初めてというタイトルのスケッチが載った大学新聞の号に掲載された。勉強する二人の女の子の寸劇「ウェイ」。"天才的な作品" この宣告をしたアンダーソン博士の姿が目に浮かぶようだ。しかし私は決して知らなかった。その時彼はスケッチを読んだことすらなかった。彼は私にそのことを決して言わなかった。ラムジー博士の記事でホームシックになった。

1931年5月12日(火曜日)
今日、ユアンと私はトロントに行ったのだが、大学に行ったらチェスターの成績が表示されていた。思っていたよりずっと悪い。15科目中、9科目で失敗した! どうしてこんなことになってしまったのだろう? 私たちは帰りは家まで苦いドライブをした。すべてが汚されたように思えた。私はまるで自分で誰がどういう顔をするかも想像することができる。これを喜ぶ人もいるはずだ! (私を妬んでいる人)
今日の夜、チェスターのセントアンドリュースレポート(高校時代の成績表)を全部取り出して見てみた。そして泣いてばかりいた。あんなに自慢していたのに。悪いものではない。80年代から90年代にかけての多くの実績と、「優秀な学生」「理由」。このマーク(82!)は、彼の能力に見合わない」。5年間の成績は平均80%、「並外れた推理力」! どのようにしてこの成績の子が、大学1年生であんなにみっともない失敗をしたのだろう。ただ純粋な怠慢としか言いようがない。不愉快な事実は直視したほうがいい。そして彼が大学で1年を棒に振ったということだけではない。それはこれから先の彼の全生涯の問題?

1931年5月13日(水曜日)
眠れない夜。朝からテイラーさんがいらっしゃった。出版社をめぐる状況はGibson & Taylorはまだあまり期待できないが、Can. Ass. Co.の案件は疑いが晴れた、それが一番の心配事だった。
今日の午後、ノラと彼女の友人たち(島の古い人たち)が出てきて、そしてアフタヌーンティー(午後の紅茶)を楽しんだ。ある意味楽しかった。しかしそれは拷問であった。チェスターについて質問されたからだ。それでも彼らの訪問は私を少し良い方向に導いてくれた。今、庭に日記帳を置いて書いているところだ。私はそれ(記述)をすることを強制するが、すべての私の古い喜びはなくなってしまった。この春は何もかもが汚れているような気がする。不幸になるのは恐ろしいことだ。春になると世の中はとても幸せそうで、自分の不幸とは無縁のような気がする。

1931年5月16日(土曜日)
昨夜はよく眠れたし、今日はあらゆる面で少し調子がいい。今日届いたガーディア紙にはプリンスエドワード島のクリフトンにあった父の古い店(モンゴメリの生家)が焼けたという話が載っていた。残念でならない。私の過去の名所の一つだった。

1931年5月18日(月曜日)
オンタリオ州ノーヴァル
今朝、私はガーディアンを手に取り、その中で次のことを発表するパラグラフ(一節)を読んだ。 エドウィン・シンプソンの妻がワシントン州の病院で死亡したと。私の知らない女性の死が、憂鬱な雲を投げかけてくるとは。それを一日かけて思うことは、私にとって心理的なパズルだ。でもそうだったんだ。私は、その記事で34年前の苦い思い出がよみがえったからでもある。というのも同時代の人たちが、このようなことを言うのは(昔のことを蒸し返して言うのは)あまりいいことではないからだ。
あるいは、同時代の妻たちが舞台を去り始める(昔の人はもう亡くなっていく時代の)今となっては。エドは、ワシントン州ヤキマのバプティスト教会の牧師である。彼は各地を放浪している。大陸を駆け巡り、一箇所に長く留まることはない。なぜだろう。彼はいつも落ち着きのない神経質な人間だ。彼は今とても孤独だろう。しかし私は、もしエドが3年以内に再婚しなければ、(エドは私に対する)憎悪と皮肉に満ちているからだと思う。3年後、それは彼の努力不足のためではないだろうか。そのことを非難される筋合いはない!

1931年5月19日(火曜日)
今日もひどい一日だった。今朝私はトンプソン夫人を手伝っていた。 おーいという声が聞こえたので、芝生の上(の窓の)カーテンを伸ばした。庭が見えた。するとそこにはチェスターがいた。私は彼を家に連れて行き、憤慨しながら彼の話を聞いた。
私は、チェスターが1年を棒に振ったことを言い訳にして責めた。それはすべて彼自身の責任であり、彼はそれを認めはした。しかしこれは違う。彼は正攻法でやってきたわけではない。彼は仕事に就いた最初の1週間のうち3日間体調を崩していた。彼らは彼に男は往々にしてこんなものだと言った。地下に潜ったとき、最初はそう思ったがそのうち治るだろうと。そうしたら彼はもう悩むことはない。2週目の月曜日、彼は足首をひねってしまった。そして1日半の休職を余儀なくされた。水曜日、彼は職場に戻った。木曜日、彼は上司からこのままではいけないと言われた。もっと多くの鉱石を掘り出し、もっとうまくやらなければ「クビ」にしてしまうぞと。チェスターは頑張って、彼と一緒に仕事をしている人たちと同じぐらい鉱石を掘り出せたそうだ。
しかし金曜日には(現場の監督は)彼に金を払って出て行けと言ったのだ。しかも彼(監督)は水曜にチェスターと話す前に、ボス(学校の教授)と話していたことがわかったんだ。それは "彼に時間を与えよ"(使って見ろよ) ということだったのだ。私には理解できない。一度も仕事をしたことのない大学生に、"時間を与える" ことを期待するのだろうか。このような過酷な労働を強いられたとしても、古参のベテラン労働者と肩を並べることができるのだろうか。もしそうなら、それは最も不公平なことだ。慣れるまでに少なくとも2週間は必要だろう。そうすれば地下に馴染むことができる。彼らが地下に慣れるまで給料を減額するのは公平なことだ。しかしまだ本格的な仕事が始まっていない段階で、彼らを解雇するのはとんでもないことだ。
(チェスターは現場の生え抜き労働者ではなく、鉱山学校から派遣された研修生のようなものだったので煙たがられたのかもしれない)。
永久に雇い続ける必要があったわけでもない。だから私にはまったく理解できないし、チェスターを責める気もない。しかし全体的な状況は耐え難い。もしチェスターが大学でうまくやっていたら問題にはならなかっただろう。あるいは大学で失敗しても、夏の間うまくいっていれば、それは彼の経験の助けになっただろう。しかしこれでみんなは彼がクビになったのは、彼がダメだったから、教授がクビにしたからだと思うようになるだろう。来年はもっと大変なことになる。それに次のチャンスなんてあるのだろうか......。

1931年5月21日(木曜日)
我慢できないと思っても仕方がない。我慢しなければならないし、している。でもこの3日間、寝られる夜もなくとても苦しかった。昨日のマリオンの手紙には少し良い知らせがあった。彼女のモッチーは、確実に良い方向に向かっている。この先も続くのだろうか? そう願うしかない。
今夜、電話がかかってきたとき、「Afz. Macdonald」という声が聞こえたマクドナルドさん「オーロラ」があなたと話したがっています。その電話はスチュアートについて話していた。マクドナルドさん私の赤ちゃんが!

1931年5月26日(火曜日)
オンタリオ州、ノーバル
この家は、スチュアートの笑い声が消えると、いつも不思議なほど空っぽになる。彼は週末とビクトリアの日に帰郷している。 私はまた執筆やルーティンワーク(繰り返しの仕事)に落ち着たが、私の心はいつも とても重い。またいくつかの厄介な小さな体調不良に悩まされていた。首と腕に湿疹ができた。トンプソン夫人(新しいメイド)は、休暇を利用して旅行に出たり実家に帰ったりした。彼女の夫 がやってきて彼女を連れて行った! この状況は理解できない。
しかしもしまた彼が現れたら、私はどういうつもりなのか聞いてみたい。知りたいんだ。今のままでは私は感じることができない。夏休みの予定が決まらなかったり、予定が立てられなかったり。計画を立てたいわけではない。私は無の心境だ。しかしある事柄は手配しなければならない。セント・アンドリューのポーリン牧師が昨夜ここに電話をかけてきた。彼はスチュアートが人気が「ある」と言った。とても人気のある男の子だ。時間ができた午後に、私はハンフリー夫人のところでW.M.S.を指導した。頭痛がする。アスピリンで治るかもしれないが、心の痛みはどうしたら治るのだろうか?

1931年5月31日(日曜日)
今、2回目そしておそらく最後となるホルトの本を読み終えたところだ。宇宙との関わりと不老不死。それがあることを強く確信するようになった。 "スピリチュアリズム" (心霊研究)には何もない。もちろん不思議で神秘的なものが多いのは認めるが、その「霊」を信じることはできない。私たちの死者はそれらを行う。
5月が終わった。天候や外界に関しては美しい月だった。私の人生に関しては地獄のようなものである。

1931年6月1日(月曜日)
ついに私の新しい本の名前が決まった。4ヶ月間、私たちのストークス社は、マクレランドと揉めてる。ウェブ、揉め事というのは「あまりにハードルが高いので」という言葉があるが、そのことで盛り上がったことがある。この新しい本を読み終えたとき、私自身本当にふさわしい名前を決めることができないでいた。が書き上げた事は私を喜ばせた。そこで原稿の最初のページに仮題のリストを載せて出版社に伝えた。自分たちの好きなものを選ぶことができた。
タイトルは、「ジャグダークスの冒険」。 と「Penhallows-The Fun Begins-A Tangled Web」、そしてもう一つ忘れてしまったものがある。彼らはどれも好きではなかった。そこで私は、「ベッキーおばさんが始めたこと」という題を提案した。それは「長すぎる」のだが、「ベッキーおばさん」と呼びたかったのである。というのも、「ベッキーおばさん」は第一節で死んでしまうし、というのもこの本は彼女のことでは全くないからだ。ストークスが『ムーンマン』と呼びたがったので私はこう反論した。 Crying For The Moon......これは実にふさわしいタイトルだっただろう。しかしフレンチ氏は「モンゴメリ・ブックらしくない」と考え、ローズを提案した。恋のリボンと月光のリボン――感傷的な青とピンクの素敵なスウィート・シックスティーン。中高年を主人公にしたユーモア小説のタイトル! 私は怒った。そして、「好きなように呼んでください」と言った。それで今夜はストークスの手紙とカタログでは。やはりA Tangled Web(もつれた蜘蛛の巣)に決定したそうである。私はそれが自分のタイトルであることが嬉しい。よかった、ローズ・オブ・ラブから脱出できた。やはり私の本には、そのようなタイトルはつけたくないものだ。
Isobelからまた手紙が...! 家に来てきて「抱っこ」させてくださいと懇願する "一晩中抱きしめてくれと" 私は手紙を書いて、彼女に愛していると伝えることだ! 私は彼女を愛してなどいない。彼女を愛してください! 私がどんなに彼女を憎んでいるかを哀れな少女が知っていたら! 私は返事を非常に辛辣に書かなければならないだろう。これ以上このようなことは許せないとはっきり伝え、その結果どうなろうが、何をしようが、これ以上このような形でしつこくされるのは御免だ。
この手紙の中で彼女は自殺についてベールに包まれた形で語っている。このことは私はずっと恐れていたのだ。しかし何があろうと、私はこのようなものから逃れなければならないということだ。不幸な人生を送るくらいなら死んだ方がましかもしれない。それはアピールするようなものではないから、誰も助けてはくれない。もし彼女の姉が...家にいて、代わりに仕事をしてくれていたら。特に教えたくない異教徒に教えるために日本へ行くのだと思う。彼女はもっと本当の意味で神に奉仕していたはずだ。
彼女はここでトレーニングホームにいたころは、もっとトラブルが多かったという。ひとつには彼女が一人で部屋を与えられなければならなかったというのは、毎晩10時から11時まで祈ることに拘るからだ。「不幸な同居人が眠りたいときにね!」。
食欲もなく、眠りも浅く、ずっと神経が高ぶっている感じだ。苦難の時間だ。不愉快なことはすべて、それに比例して私を傷つけ心配させる。重要なことは私に必要なのは、悩みも仕事もあらゆる問題から解放され、長い絶対的な休息をとることだ。でもそれが手に入らないから、ただ這い上がるしかない。

1931年6月2日(火曜日)
今日、私は2枚の短いスケッチ(記念写真)に目を通した。1枚はマクニール家のもの、もう1枚は...。 モンゴメリー家で、それをコピー(写真を複製)するのも悪くないと思った。それを本誌(日記)に掲載し、万一の事故(紛失など)に備えて保存することにした。マクニール側の文書は、メアリー・ローソンおばさんが書いた手紙の形をしている。それを一族に関する情報を求めてきた彼女の甥に渡した......[参照 付録A]。
メアリーおばさんの手紙の中に次のようなものがある。家族の多くのギャップ(抜けている情報)、そのうちのいくつかは私が埋めることができる。他の資料から取ること、その多くは私にはできない。彼女(メアリー)が手紙を書いた甥の名前はハロルド・マクドゥーガルと言う、その母エマ(祖父アレクサンダーの姉妹)は大叔父のウィリアム・マクニールの娘である。絶世の美女と言われた。若くして結婚するもうまくいかず離婚を成功させた。夫と別れ彼は彼女のもとを去った。彼らはカリフォルニアに住んでいたと思う。メアリー叔母さんが勘違いしているのは、ジョン・マクニールは初代の主審と一緒に島に来た。主審はスチュワート氏。デュポンはその身分が初代主席判事、スチュワートが2代目主席判事となった。1775年にP.E.I.に来て、このジョン・マクニールは私にとってはほとんど神話的な人物である。

"メアリー・ローソン大叔母さん"

大おばさんは、彼はArgyllshireから来たと言っているが、教区は教えてくれない。ずっと不思議に思っていたのだがマクニール家にもモンゴメリー家にも、旧大陸に残してきた親族との関係を示す文書がまったくないのだ。旧大陸の親族とも手紙のやり取りはあったはずだ。たとえそれがごくわずかなものであっても。しかしそのような痕跡は一切ない。どう見てもこれらの家族はカナダに来たとき、彼らは残された友人たちとの関係を一気に、そして永遠に断ち切られたのだ。
ただ1つだけ伝わっているのは、スコットランドの小詩人ヘクター・マクニール。ヘクター・マクニールは、ジョン・マクニールの一、二番目のいとこである。その真偽のほどは疑う余地もないだろう。これはメアリー叔母さんの父親が、自分の父親からこの話を聞いたのだ。それにマクニール家の人々はみな文学的な素養があり、中にはヘクター・マクニールに劣らない詩を作る人もいた。
(マクニール家で最初に)カナダに渡ったジョン・マクニールは1775年に旧大陸から出てきた。ウィリアム・シンプソンの一家は同じ年に同じ船で渡ってきた。同じ年、同じ船で出て来たと思う。マクニールはこの航海で、後に妻となるマーガレット・シンプソン(当時16歳の少女)と出会う。彼らの長男が生まれたのは1782年なので、二人が結婚したのは1781年よりずっと前に結婚したとは思えないが、結婚の日付はわからない。
この結婚はマクニール家とシンプソン家の長い婚姻関係の最初のものであった。彼らはほとんど非難されることはなかった。当時は適当な結婚相手を見つけるのは容易ではなかったからだ。フランス人を除けば、この島にはほとんど家族がいなかった。そしてその頃イギリスから出てきた移民の多くは、マクニールやシンプソン家に比べればとても劣ったタイプであった。マクニールやシンプソンが花嫁を求めるとき、その選択はほとんど自分の一族に限られていた。その結果、良い資質も悪い資質も再現され、顕著な程度に強められた。
シンプソンとマクニールがどうであれ彼らは無色透明でも無視できるものでもなかった。ここでシンプソン一家の出生届と、彼らが持参した人物証明書をコピーしておくのも一興であろう.....。ウィリアムとジャネットの二人は、とてつもない勇気を必要としたに違いない。シンプソン一家が、無限の海を越えて北アメリカの原生林に移住するのは、とてつもない勇気が必要だったに違いない。もしかしたらそれは絶望的な勇気だったのかもしれない。大家族の前途には貧しさしかない。
しかしどうだろう。ジャネットはそのことを考えながら旅立ったのだろうか。16歳のマーガレットは、もっと軽く考えていた。そうだろう。彼女にとっては冒険なのだろう。彼女とジョンはどんな顔をしていたのだろう。 船上で一緒に歩いて見知らぬ新天地について語り合ったのだろうか。どんな顔をしていたのだろう。この「人物証明書」は、古い時代の堅苦しい言葉で表現されている。そしてスコッツクリマンの(人物証明書の)注意に注目してほしい。彼はウィリアムとジャネットが、どのような社会にも受け入れられる、本当にふさわしい存在であると平然と言い放つつもりではない。いやいや、そこまで言い切ることはないだろう。彼が言うのは、ただ彼らがそうであってはならない理由(受け入れられない理由)を「知らない」と言うだけである! 
ジョン・マクニールとマーガレット・シンプソンは結婚した。最初はシャーロットタウンに住んでいたのだろう。長男のWilliam Macneill(私の曾祖父)はそこで生まれた。祖父(アレクサンダー)は自分の父親がシャーロットタウンで生まれた最初のイギリス人男性の子供だと言っていた。祖父より先に生まれたのは女児だった。キャベンディッシュが「シンプソン、マクニール、クラークス」によって開拓されたのは1790年なので、John Macneillはそれまでは別の場所に住んでいたのだろう。私は彼がどこに住んでいたかはわからない。

しかし島の東のどこかだと聞いたことがある。また最終的に何かがきっかけで1790年にキャベンディッシュへ移り住み、海岸近くの小さな丸太の家に住んだ。ジョン・マクニールが何歳で亡くなったかは知らない。しかし9人の息子と3人の娘を生むほど長生きしたのだから、少なくとも中年にはなっていたはずだ。
ある日、彼は突然、腸の炎症と呼ばれる病気になった。曾々祖父の家の近くには医者がいなかった。シャーロットタウンは島の反対側(南側)にあり、森の中の細い馬道を通って行くしかなかった。そこでジョンは馬に乗り、マーガレットは彼の後ろに乗りシャーロットタウンに向かった。それが二人の最後の旅だった。今ならジョンは虫垂炎の手術を受け、マーガレットと一緒に無事に家に帰ることができただろう。 2、3週間後にはマーガレットと一緒に馬車で無事に家に帰れただろう。しかし当時は誰も虫垂のことなど知らなかった。ジョンは死んだ。埋葬のために遺体を運ぶことは不可能だった。 彼の遺体を手すりのある道路に埋葬することは不可能だった。
だから彼は古い「マルペク通り」の埋葬所に埋葬された。「マルペック・ロード」と呼ばれるシャーロットタウンの郊外の埋葬地に埋葬された。墓石もない。ジョン・マクニールの最期の地は不明である。マーガレットは何とか家族を育て上げたが、老後は残念な結果になった。再婚をした。彼女は貧しい下層階級の老人と結婚し家名を侮辱した。彼の名前は聞いたことがあるが忘れてしまった。私が知っているのは、それがきれいなものではなかったということだ。
結局、彼は死ぬかして彼女の元を去った。彼女は90歳10カ月まで生きた。当時の女性は肉斧で殺すことはできなかった! 彼女はキャベンディッシュの墓地に埋葬されたが、その墓には島の砂岩でできた古い板が墓標になっており、そこには彼女がジョン・マクニールの妻であったことが記されている。2番目の夫については言及されていない。シンプソンもマクニールも誰もこの2番目の夫を誇りに思うことはない。
この結婚から生まれた12人の子供のうち、曾祖父ウィリアムを除けば、4人の「マルコムおじさん」、「ニールおじさん」、「デビッドおじさん」、「エフィーおばさん」しか聞いた記憶がない、マルコムおじさんは、ジョン・キャンベルおじさんの妹、サリー・キャンベルと結婚した。アマンダが少女時代に住んでいた家は彼が建てたものだ。アマンダが少女時代に住んでいた家は、当時は「官邸」と呼ばれるほどの宮殿だった。マルコムは有名なマクニール気質であった。ニールはある程度黒い羊(悪い血を引いている)で、家政婦を "トラブル" に巻き込んで結婚した。
他のマクニールは二人を凍りつかせた。エフィー叔母さんはシンプソンと結婚した。その息子ウィリアム・シンプソンは、私が子供の頃によく知る人物で、いつも「ウィル・エフィー」と呼ばれていた。ウィリアム・シンプソンと言う名前の人はたくさんいたので、何らかの方法で区別する必要があった。
ジョンとマーガレットの家族で私が見たことがあるのは、レイ・グレート・グレイ・アンクル(大叔父)だけだ、デイヴィッド・マクニールだ。私が少女だったころ彼はとても年老いた人だったが、祖父とそれほど変わらなく見えた。祖父よりずっと年上だった。彼は今マートルとアーネストが住んでいるところ(グリンゲイブルズ)に住んでいた。彼は知性にあふれ読書家で、有名なマクニールの記憶力と気質を備えていた。
デビッド叔父さんは、シンプソンと結婚しなかったという失敗をした。その代わりに彼はノースリバー出身のメアリー・ドッケンドルフと結婚した、オランダ系で家柄もよかった。しかしドッケンドルフ一家はみな「クィア」(風変わりな人)であった。アンクル・デイビッドの家族には、そのクィアさが非常に強く出ていた。みんな「変な人」だった。一癖も二癖もあった。だから彼はシンプソンズ(お調子者と呼ばれていた人達)で我慢していたのかもしれないね。マーガレット・シンプソン・マクドナルドの息子である男をよく知っていたことを思い出すと奇妙な感覚に襲われる。1759年生まれのマーガレット・シンプソン・マクニールの息子である。

ドッケンドルフ家(私たちはダッケンダフと呼んでいた)の話は、私の記憶の中に春を呼び起こす。ジョンとマーガレットの2人の息子のことを思い出した。曾祖父のジョンとジェームス。二人とも "ダッケンダフ" と結婚した。3人の兄弟が3人の姉妹を結婚させたのだ。そしてジョンの結婚には古いロマンがあった。ドッケンドルフ夫人から、ある日彼女の家に来て結婚するようにと連絡があった。もちろん、当時は郵便も郵便局もない。ところがそのメッセージがねじ曲げられたり、誤解されたりして、「これは何だ?」ジョン・マクニールは結婚式はその翌日だと思った。
そして迎えた結婚式の日。花嫁は準備万端。招待客はいたが花婿はいなかった。その夜ミスDはどんな気持ちだったのだろうかと思う。想像がつく。翌日、結婚を心待ちにしていたジョンが到着すると、彼はすぐに右往左往させられた。言い訳は通用しない(結婚は取りやめになった)。しかしその日から13年後に二人は結婚したのだ。私は事実を述べているのだが、その間の期間を埋めることはできない。ドッケンドルフが許すのに13年かかったのかもしれない。あるいは、そのころにはもう誰にも相手にされないとわかっていたのかもしれない。その 「ジョン・マクニールとジェーン・マクニール」、そして「ビッグ・ジョージ」は、私の子供時代の子供たちである。この結婚の子孫であり、他にもいくつかある。
メアリー(大)おばさんの「シンプソンズは自分たちが一般人より優れていると信じている」という狡猾な発言に、私はいつもほくそ笑んでいる。自分たちは一般的な群れより上だといつも強く信じていたのだ。メアリー・ローソン大叔母さんは はシンプソンズが好きではなかった。しかしマクニール家は同じような信念(自分たちは優れていると)を少しは持っていたはずだ。マクニール家もシンプソン家も、同じような信念を持っていたはずである。それはまったく正しかったと思う! 当時の「庶民の群れ」は、とても「庶民的」だった。私の青春時代には、「シンプソンズの驕りから、マクニールズのプライドから、クラークスの見栄から」という古い言葉があった、 シンプソン家の驕り、マクニール家のプライド、クラークス家の見栄から、主よ我らを救いたまえと。 しかし彼らには誇れるものがあったのだ!
メアリー(大)おばさんの言う通り、彼女の父親(ウィリアム)は一家の中で最も才能があったのだと思う。 一家の中で一番才能があった。少なくとも彼は最も多くの足跡を残した。当時P.E.アイランドの農場で彼が登りつめたような高みに行くには、それなりの意味があったのだ。知力、忍耐力、そして 推進力、「帝国の棒が揺らすかもしれない手」、曾祖父マクニールはこれらすべてを備えていた。欠点もある。「マクニール気質」である。シャーロットタウンの政治家たちと交際する間に(余計な献金などをしたのであろう)農場をつぶしてしまった。しかしその功績でナイトの称号を得たという伝承がある。しかしマルコムを筆頭とする兄弟たちの嫉妬がそれを阻んだ。
どうしてか覚えていないが、私が幼い頃、メアリー叔母さんがその話をしていたのを聞いた。再選を阻んだとかそんなところだろう。そのようなものだと思う。嫉妬はマクニールの特徴であり、プライドでもあった。しかし、"マクニール議長" は間違いなく、旧キャベンディッシュ墓地で安らかに眠っているに違いない。彼の子孫である私たちは、肩書きにふさわしい生活をすることに負担はない。私たち子孫は肩書きに縛られることはない! 
ウィリアム・マクニール(P.E.I.に来てからの2代目マクニール、3代目はアレクサンダーお爺さん)が結婚したイライザ・タウンゼントは、若いころは美人だったと言われている。彼女の祖母は、旧民間墓地に埋葬されているエリザベス・タウンゼントである パークコーナーの池のほとりにある古い個人墓地に埋葬されている。その彼女が初めてP.E.I.に来たとき、ひどくホームシックになったという話はよく語られている。何週間もボンネットを脱がなかったそうだ。私はこのようなノスタルジーにとらわれることが多いのだが、それは彼女から受け継いだのだろうか。

彼らは1775年にイギリスから出てきた。彼らの息子であるジョン・タウンゼント大尉は、マクニール議長(シャーロットタウン議会議長)の花嫁の父親である。彼女の母親が誰で、いつどこで死んだのか私は知らない。キャプテン・ジョンは明らかに冒険的な刃物で、色とりどりの人生を送った。ジョン・キャンベルおじさんの農場は、彼らの最初の「地所」の一部であり、彼らはそこにパークコーナーという名前をつけた。
他の人たちと同じように、彼らは古い土地(故郷のイギリス)から切り離されている(断交している)ようだった。旧国での友人の話も思い出もない。彼らウィリアム・マクニールは、2つの伝統に背を向けて美しいイライザと結婚したのだ。しかし彼の場合はうまくいったのである。私はジョン大尉の絵の原画がどこにあるのか、あるいは誰が持っているのかわからない。私は見たことがないが、ジョン・C・クラークの店で、その絵から作られた複製を見たことがある。いつか追跡してみようと思う。
William Macneillは忙しく、役に立つ人だった。祖父(アレクサンダー)がこう言っていたのを聞いたことがある。祖父は全盛期、P.E.アイランドのすべての男女と子供を知っていた。たしかシャーロットタウンの立法府に議長(ウィリアム・マクニール)の肖像画があると思う。父とキャベンディッシュに定住し、当時は当たり前だった大家族を持つようになった。キャベンディッシュの古い家を建てたのは、ウィリアム・マクニールだった。
ジョン・マクニール大尉の話を聞くと、眠っていた記憶がよみがえる。ジョンとマーガレットのもう一人の息子、「アンクル・チャールズ」が、「アッパーカナダ」(現在のオンタリオ州)に移住することになった。彼は移住前にニューグラスゴーで工場を経営していたが、オンタリオではホームシックで死にそうになった。他の多くの一族と同様、彼はその苦悩を詩に託した。祖父はその詩から、故郷を夢見る「チャールズおじさん」を表現した一節を引用するのをよく聞いた。ほんの一行しか思い出せない。......メアリーおばさんの一番上の兄のジョンはシンプソンと結婚した。その次の兄は 「ウィリアムおじさん」で、ラスティコに住んでいたのでよく知っている。彼もまた詩人だった。でも、彼の詩で覚えているのは、彼が書いたジョン・A・マック卿の詩を題材にしたちょっとした寸劇の1、2行だけだ。ジョン・A・マクドナルド卿の政治的なごまかしを題材にした寸劇の最初の2節だ。
     おい、サー・ジョン、この夜はどうしたんだ。
     急ぎ足で逃げてきたのか?
     全力疾走で逃げ出した。
     朝には海を渡っているのか?
     東の下界では騒がしいが
     そしてもしかしたら、あなたは転んでいたかもしれない。
     しかし、それはあなたの皮膚を保存することはできない
     朝にはわかるさ。
ウィリアムおじさんは、ウェールズ人の娘と結婚して新しい血統を導入した。"アンおばさん" は若い頃は絶世の美女で、とても美人の娘を何人も持っていた。私が覚えているのは年老いたしわくちゃの小さなおばさんだけだ。彼女は100歳近くまで生きたが、少なくとも体はそうだった(しわくちゃだった)。10年間彼女の心は死んでいた。自分の子供さえも忘れてしまったのだ。私は彼女を見てこう祈ったものだ。"どうか私はこのような人生を送らないですむように "と。

「アンクル・トム」は若い頃よく見かけたが、祖父とは特別な仲ではなかった。特に好きというわけではなかった。おそらく彼がシンプソンと結婚したからだろう。祖父は シンプソンズを熱狂的に愛していた。「ジミーおじさん」はキャベンディッシュの隣に住んでいた。キャベンディッシュの隣に住んでいて、俗に言う "キャラ" だった。私たち若い稚魚は彼が半分狂っていると思ったが、それはおそらく天才的な才能が邪魔をしただけなだろう。彼はおそらく良い船乗りになれただろうが、農夫としては失敗作だった。彼は詩を作る才能があり、秋の夜長に座って「豚のジャガイモ」を眺めながら、何百篇もの詩を作った。風刺や英雄譚など、地元の出来事を題材にした詩を何百篇も作った。しかし一行も書き残されることはなかった。しかしそれはとても残念なことだった。私は彼が地元の出来事を詠んだ詩のうち、2行を思い出すだけでいい。ニュー・グラスゴーの地元の抗争を題材にした詩の2行を思い出す。:
     ヒューストンの角のあたりで、今、戦いが起こっている。
     そして、すべての人が忙しく働いていた。
アンクル・ジミーの結婚は悲劇だった。彼はシンプソンと結婚しなかったが、もしそうならもっと良かったかもしれない。彼は少年たちの中で唯一結婚したのだ。交際をした唯一の少年だった。メアリー叔母さんの慎重な言及の行間から、それを読み取ることができる。"誠実なスコットランド人の娘" と。
ジョージ・ハーカーは正直者であったが、ハーカー家は "貧しいゴミ" だった。ジミー・マクニールがジェーン・ハーカーと結婚したとき、マクニールのプライドはひどく傷ついた。ジェーンの母親は、本来あるべき姿とは違っていた。彼女はジョージ・ハーカーと結婚したが、P.E.I.に来てすぐに産んだ子供は夫(ジョージ)の子ではなく、彼らが乗ってきた船の船長の子だった。ジョージはその子を自分の子とは認めなかった。しかしジョージは妻を許し、自分の息子や娘も産ませた。嫡出であることは間違いない。私はジョージ・ハーカーについて、あることを除いてはそれ以上何も知らない。
私はジョージ・ハーカーに親しみを感じていた。ジェーン叔母さんから聞いたことがある。彼女の父親が彼女と弟を初めて学校に連れて行った日のことを話してくれた。その日のことだ。老ジョージは先生にこう言った。「先生、子供たちに厳しくしないでください。勉強ができるようにならなくても、あなたを責めたりしませんよ」と。この言葉は、ジョージ・ハーカーが審判の場に来た時に、義理を果たしたとみなされる(天国に入れる資格を得た)と思う。
しかしジェーンおばさんの人生と彼女に関わるすべての人の人生を悲劇にしたのは、ジェーンおばさんの出自が低かったからではない。私はジェーンおばさんを、信じられないほどしわくちゃな顔をした老婆としてしか覚えていない。しかしジミー叔父さんが彼女に心を奪われたとき、彼女はリンゴのような頬をしたみずみずしい少女だった。狂気という致命的な病気がなければ、すべてがうまくいっていたかもしれない。彼女は生涯を通じて、自殺願望のある "呪縛" に悩まされていた。
老年になってからは、正気を失っていたわけではないが、しかし彼女は非常に独特で奇妙な存在であったため、家族は悲惨な生活を強いられていた。家族は彼女が何か恐ろしいことをするのを恐れて、決して彼女に逆らうことはできなかった。彼女はジョージ・Rの人生を狂わせた。彼は優秀な男で、もっと幸せな星の下であれば、成功者になれたかもしれない。ジェーンおばさんが狂気の発作を起こしたのも無理はない。メアリー叔母さんによると、彼女には息子2人と娘2人の家族がいて、息子の1人は少年期に亡くなっている。しかしこのほかに8人の赤ん坊が死んでいたとは言っている。

祖母がこう言っていた。確かにどんな女性でも狂うには十分だ。どんな旧家にある乾いた(古びた)出生・死亡記録の裏にはどんな悲劇が待ち受けているのだろう。空想の世界で言うイブの陰の谷(出産時の苦労)を8回も通って、手にしたのは「死」だったなんて......! みんな可愛い赤ちゃんだったんだよ、おばあちゃんは言ってた。蝋のような生き物で光に目を向けることはなかった。かわいそうなジェーンおばさん。
メアリー叔母さんはジミー叔父さんが 救われたと言ってた。なぜ叔父さんだけ? 教会に行かなかったからか? 死ぬまでずっと教会に行かなかったからだろう。彼の世代の常識から見ればこれはひどいことだった。メアリー叔母さんはこの発言で、彼が教会に行かなかったことを推し量る人の歯(言いぐさ)に反抗の言葉を投げかけたかったのかもしれない。マクニールは救われなければならない。マクニールの家柄は、たとえ正統派でなくても「救われる」のだ!
メアリー叔母さんが弟のアレキサンダー(マクニール祖父)に対して抱いていた印象が、私が抱いていた印象と違っていたのはとても興味深いことだ。私にとっても、そして彼の孫たちにとってもきっとそうだろう。祖父は、厳格で、小心で、「気難しく」、不公平で独断的な老人に見えた。恣意的な(言う事を押し付ける)老人に見えた。私たちは皆祖父を恐れていたが、メアリーおばさんにとっては、おじいさんは愛情深い和気あいあいとした兄弟であり友人であった。そして私たち二人が正しかったと信じて疑わない。
私たちが彼を見た角度からすれば。現代の心理学では、マクニール爺さんは無意識のうちに若者に嫉妬した人だと説明されると思う。彼が嫉妬したのは、私たちがもはや彼にできないようなことをしたり感じたりできたからである、私たちの目の前には人生があり、笑い、未来を楽しむことができた。長くなる影(人生を夕暮れに例えている)を意識することなく、未来を楽しむことができるのだ。彼は、自分がそれができなくなったことを恨んだ。その恨みを私たちにぶつけたのだ。
私は、ある晩、祖母が留守でルーシーが来ていたとき、祖父がどんなに激怒したかを覚えている。夕食の支度をしながら、私たちは常に笑ったり冗談を言ったりしていた。しかしそれが祖父をひどく怒らせたのだ。祖父は祖母に手紙を書いていた。もうこれ以上書けませんと無愛想に手紙を短くした。それが彼の(怒りの)典型的な態度だった。若者の軽はずみな行動に対する彼らしい態度だった(不愉快だということ)。その晩の出来事で、今でも忘れられないことがある。私は夕食のためにビーフハムを焼いていた。その鉄板の電線は遠くまで伸びていて(フライパンの柄が長いことか)、ハムの切れ目を入れておくのが大変だった。ハムを焼くのに苦労した。ハムを焼いたとき、一枚の小さな破片が突き破って炭火の上に落ちてしまった。祖父は、まるで私が何か恐ろしいことをしたかのように、真っ黒な顔で私を見つめた。「お前の祖母ならあの肉を一粒も漏らさずに焼くことができたはずだ」と、彼は厳しく言い私を睨みつけた。おそらく私よりも専門家である彼女にはできたのだろう。しかし私は祖母も祖父も同じことを経験していたと思う。しかし私は心に傷を負った。祖母が不在の間、私は12歳の子供として最善を尽くそうとした。その結果このような細かい小言をいわれたのだ。
しかしメアリー(大)おばさんをはじめ、多くの祖父と同世代の人たちには、彼はまったく別の顔を見せていた。メアリー叔母さんが、かつて私にこう言ったのを覚えている。祖父ほど母親や姉妹に慕われている少年はいなかったよと。その言葉に私はひそかに驚いていた。私はあえて言えば、その崇拝が後年祖父を甘やかし、祖父は無意識のうちに皆から期待され、それが叶わないこと(家名の期待に沿えなかったこと)に憤慨していた。

しかしもし祖父がもう少し優しく、もう少し公平に、もう少し子供の気持ちを考えてあげていれば、私たちは皆心から彼を賞賛したことだろう。しかしその代わりに、私たちの記憶には残酷で不当な言葉や、人を傷つけるような視線が刻み込まれている。
しかしメアリー叔母さんが、彼の中に「優しくない行為や思いやりのない言葉を見つけたことがない」と言うのは、この思いやりのない言葉もなかったという人と同じ人のことなのだ。本当に人間の本性というのは不思議なものだ。伝記作家や歴史家が、誰であれどんな出来事であれ、究極の真実に到達することができないのも当然である。
オリバー・ウェンデル・ホームズは、「朝食のテーブル」シリーズの中でこの点を強調している。ジョン・スミスが見たジョン・スミス、隣人としてのジョン・スミス、神から見たジョン・スミス、一人の人間の中にあるさまざまなジョン・スミスのことである。人にはそれぞれ違うジョン・スミスが見えてくるからだ。 メアリーおばさんのおばあちゃんへの言及がかっこいい。メアリー叔母さんは義理の姉妹の誰一人として好きではなかったと思う。確かに祖母のことは気にも留めていなかった、しかし彼らはいつもお互いに友好的な態度を保っていた。なぜ彼女はこう言うのだろう。 祖母が「イギリスで教育を受けた」と言うのは、一族の威信を高めるためでない限り私にはわからない。もちろん、ある意味祖母はイギリスですべての教育を受けたのだ。12歳までどこかの学校に通っていた。そして12歳のときにカナダに出てきたのだ。
メアリーおばさんの一番上のお姉さんのマーガレット(大叔母)は覚えているのだが、しかし私が覚えているのは、完全に記憶を失い、子供の一人も知らない、夫の存在さえも覚えていない、非常に年老いた女性ということだけだ。彼女の腰は曲がっていた、しかしメアリー叔母さんは、「マーガレットは最初の赤ん坊の揺りかごを囲んで喜びのダンスを踊っていた」と話している。ああ、人生とはかくあるべし!
「へレンおばさん」のことも覚えている。ヘレンおばさんは一般にこう呼ばれていた。また帽子をかぶった老女で、美貌と頭脳はとうに失われていたが、親しげに目を輝かせて、学生時代の恋人のことで、私をからかっていた。
「ジェーンおばさん」は見たことがない。
アン・マクニールは26歳の時に麻疹で亡くなった。メアリー叔母さんのような年齢の女性にとっては、それはまだ若者のように見えたかもしれなかった。彼女はキャベンディッシュ教会に埋葬された。
奇妙なことに、メアリー叔母さんは自分の姉妹の一人である「ペミー叔母さん」のことを忘れている。 "ペミーおばさん" だ。おそらく本当に忘れてしまったのだろう。あるいは、マクニール家が一族の骨格(隠さねばならない恥)とみなしていることを、姪に教えたくなかったのかもしれない。メアリー叔母さんは、ペミーおばさんはある男と結婚したんだ......名前は忘れたが......その男はとんでもない奴で ひどい男だった。彼は彼女を捨てた、あるいは彼女が彼を捨てた。彼女は姉妹のジェーンのところへ行きある程度の教育を受け、アメリカの都市で学校の教師として生計を立てていた。マクニールのプライドが強すぎたのだろう、彼女は家に帰らなかった。彼女は祖父に写真を送ってくれたことがある。祖父が亡くなったとき彼女は生きていたが、彼女ももうずっと前に亡くなっただろう。
メアリーおばさん自身は素晴らしい女性だった。エレン叔母さんはマクニール家の中でも頭脳派と言われるかもしれないが、エレン叔母さんはメアリー叔母さんにはかないません。もしメアリー叔母さんが教育を受けていたら、彼女は知的な女王になっていただろう。でも当時は女の子に教育を施すなんて誰も夢にも思わなかった。そして私は彼女たちが 幸せだったと思う。ウィリアムとイライザ(曾おじいさんの代)の11人の子どもたち(アレクサンダーお爺さんの代)はアンを除いて全員老齢まで生きた。しかし今はみんな亡くなってしまった。全体として人間の欠点や短所にもかかわらず、彼らは立派な民族であった。私は自分の先祖を恥じる必要はないのだ。

モンゴメリ家側のスケッチは、ジョン・モンゴメリおじさんの弟であるジョージ・モンゴメリによって書かれたものだ。マクニールのスケッチと同様冷静な事実の行間に燃え尽きたような感情が溢れている......[付録Bを参照]。
ジョージ・モンゴメリが、この「一族の伝統」が次のようなことも言っていないのが不思議だ。我が家はエグリントン伯爵家の士官候補生(親族の1人か)の子孫であると主張している、その姓はモンゴメリーであった。これを証明するものは何もないのだが、次の2つの状況証拠がある。それがその言を少し補強している。
祖父モンゴメリ(ドナルド)は、地方議会の会議に出席するようになったころ、政府庁舎で開かれた舞踏会に出席した。舞踏会の会場に入ると、その場にいた伯爵夫人(何かは忘れた)が気を失ったのだ。その時彼女はかつて当時のエグリントン伯爵と婚約していたが、何らかの理由で破談になったことが判明した。彼女は祖父が部屋に入ってくるのを見たときあまりに似ていたので昔の恋人だと思ったそうだ。祖父の娘であるメアリー・マッキンタイア叔母さんは、私にこのように話してくれた。
またある時、おじいさんがアメリカのどこかの街を歩いていると、若い男が驚いておじいさんに駆け寄り、「おじさん、あなたが池のほとりにいるとは知らなかったよ」。"どうして、おじさんこんなところにいたんですか」と。彼はエグリントン伯爵の甥であることがわかった。
だから、そこに何かがあるかもしれないし、ないかもしれない。いずれにせよそんなことはどうでもいいことだ。ジョージによると、ヒュー・モンゴメリとその妻メアリー・マックシャノン(名前からしてアイルランド人)は、1769年にプリンストタウンに定住したそうだ。しかし彼はどのようにしてそこに定住するようになったのか、その経緯は語られていない。
彼らはケベックに向かっていた。しかしかわいそうなメアリー・モンゴメリーは大西洋を横断する長い航海の間ずっと船酔いをしていた。セントローレンス湾で船は水不足になり、船長はセントローレンス湾の沖に停泊した。船長はプリンス・エドワード島の沖合に停泊し、船員を陸に上げて水を汲ませた。そして船長はモンゴメリー夫人に「あなたも行って、陸で足を伸ばしていいんだよ」と言ったのである。メアリーは行った。メアリーは陸に上がると、「もう二度と船には乗らない」と誓った。彼女の夫もまた、商品と家財を携えてそこに上陸しなければならなかった。夫がそれをどのように受け取ったか、また夫が喜んでいたのか、不本意だったのかについては伝承がない。
フォックスポイントは、ジョン・モンゴメリーおじさんとエミリーおばさんが住んでいたところだ。古いモンゴメリの家屋敷もそこにあった。とても美しい場所ですが ヒューとメアリーがそこに屋上を構えたとき、荒々しく孤独だったに違いない。 そこで「ドナルド・モンゴメリーはナンシー・ペンマンと結婚した」。饒舌な文章で、その背景にある色とりどりのロマンスを全く感じさせない。ペンマン夫妻はポートヒルに住んでいた。マクニール爺さんがペンマン家はU.E.ロイヤル主義者だと言っていたのを覚えている。しかしこのことは、彼らがポートヒルに来たというジョージ・Mの主張と調和することはできない。 Mの主張する1758年にロロ公と一緒にP.E.I.に来たということとは調和しない。おそらくジョージ が正しいのだろう。
いずれにせよ、ペンマン家は貧しかったが、娘たちは超絶的な美しさを持っていた。娘たちはノースショアのあらゆる良家に嫁いでいった。ナンシーはペンマンの娘の中で最もハンサムで、ベデックのデビッド・マレーとマルぺケのドナルド・モンゴメリーに求婚された。ある嵐のような冬の日ドナルドがフォックスポイントの家に一人でいると、デビッドがベデックからマルペケに向かう途中でやってきた。モンゴメリー家のその頃のもてなしとは、来客においしいスコッチを一杯ふるまうことだった。ドナルドはそれを実行した。

「フォックスポイントにある古い家屋」

マレーはスコッチを飲んで舌を緩め、ドナルドに「ナンシー・ペンマンに頼んでくるよ」と言った。ドナルドはちょっとびっくりした。理由はわからないが、彼は「最初の男」が勝つことを恐れていた。おそらくナンシーは、善意の誘いには乗らず、デービッドの求婚に「イエス」と答えるかもしれない、他の人が来ないように。そこで狡猾なドナルドは、不運なデイヴィッドをさらに手厚くもてなした。デイビッドは酔った勢いでぐっすり眠ってしまった。ドナルドは外に出て、デイビッドの装備を持ち出し湾の上のナンシー・ペンマンの家に行った。デイビッドの乗ってきた装備もロマンチックではなかった。頑丈な牛に引かれた粗末な木製のそりである。
ドナルドはポートヒルに着くと、さっそくナンシーにプロポーズをし、ナンシーは抵抗することなく彼を受け入れた。しかしドナルドはペンマン家に長居をする気はなかった。翌朝、ナンシーを説得して一緒に出かけた。 ドナルドの馬小屋で見つけたまだ若い仔馬に乗って氷の上を疾走していた。鳥は飛んでしまったのだ。抜かれたDavidが暴れまわっている間にBetsy Penman(ベッツィー・ペンマン)がやってきて「そんなことをするのは大馬鹿者よ」と言った。彼女はナンシーに負けず劣らずの美貌の持ち主でナンシーと同じように格好良く、喜んで彼を連れて行くだろう。デビッドは冷静になって、期待されたことをした。そしてデビッドとベッツィーは、これまで生きてきた中で最も幸せなカップルであるというのが、我が家の伝統の一つであった。
よく考えてみると、ドナルドがデビッドに恋人ができるのを恐れていたのは、ジョージ・ペンマン(ナンシーの父親)がデビッドに好意を抱いていることを知っていたからかもしれない。いずれにせよ、彼(ナンシーの父親)はドナルドに好意を抱いてはいなかった。
結局、ドナルドはナンシーを奪ってしまった。彼は弟のジョンにナンシーを預け、ある晩ナンシーは家を抜け出しジョンと一緒に走り去った。"ああ、ドナルドが結婚してくれなかったら、私はどうしたらいいのかしら? と言い、ジョンは、「ドナルドが結婚しないなら俺がする」と颯爽と断言した。恩知らずのナンシーは、その後イライザ・タウンゼントに「ジョン・モンゴメリーと結婚するくらいなら、早く死んだ方がましよと言った。

ドナルドはナンシーとの結婚を心から喜び、二人はフォックスポイントに定住し、17人の子供をもうけた。ドナルドとナンシーには人種的な自殺は無かった(近親相姦の血が入る危険はない)。彼らには孫は18人いた。目まいがするほどだ。そのうち16人が成長し結婚した。そのすべての結婚について不思議に思うことがある。それとも当時は女の子は結婚しなければならなかったから? 他の職業に就くことはなかったのだろうか。
メアリーの場合も幸せな結末ではなかった。ジョージによると、彼女が結婚したピジョン氏は長老派の牧師だと言っているが、私にこの話をした人は、彼は会衆派の牧師だと言った。どっちが正しいんだろう? ロンドン宣教師会から派遣されたという話と一致する。当時、ロンドンから派遣された長老派はいなかったはずだ。私が聞いた話では、彼は島で唯一の会衆派教会の牧師だったそうだ。そしてその会衆はピジョンのスキャンダラスな行為(浮気)によって分裂し、完全に破壊された。彼の妻は彼を捨てて、ニューブランズウィックの兄弟のもとへ家族と身を寄せた。
Mr. ピジョン氏は教会から追い出され、ロングリバー近郊の惨めな小さな小屋で何年も暮らしていた。ある日曜日の午後、彼はスプリングブルックのゲディ記念教会の礼拝に行き、礼拝中に自分の席で倒れた。だが彼の住んでいた小屋があまりにひどい場所だったため、葬儀屋が棺を教会に運び、そこで埋葬する準備をし、そこで葬儀が行われた。彼はその古い墓地に埋葬されたが、墓の上には、誰が建てたか知らないが、昔ながらの横長の板が1枚置いてあると思う(テーブル型の墓であろう)。これがこの物語の卑近な概要である。
不思議に思うのは、それほど陰湿な話だったのだろうかということだ。ピジョンさんには何もなかったのだろうか? ピジョン氏がすべて悪いのか、それとも突然の誘惑に振り回されたのか。「事件の女」はよくあるヴァンプだったのか、それとも ドン・ファンや圧倒的な情熱の無垢な犠牲者だったのか? 安っぽい陰謀だったのか、それとも大きな愛だったのか。謀略なのか、それとも大恋愛なのか。メアリー・モンゴメリーにも責任があるのか、ないのか? 追放された牧師はその後の人生でどのような反省をしたのだろうか。どのように考えていたのだろうか? 今はまだ誰も知らない。知る由もない。
ジョージ・ピジョン牧師は メアリーの孫で、ユニオンによる長老教会の崩壊の際に活躍した人はメアリーの孫にあたる。教会にせよ結婚の誓いにせよピジョンの家系にはないようだ。「若くして死んだ」小さなマーガレットは、どのくらい若かったのだろう。その少女らしい瞳は、なぜこんなに早く閉じてしまったのだろう。
モンゴメリー祖父は、「ビッグ・ドナルド」と呼ばれた。というのは、背が高く肩幅が広いからであり、従兄弟の「小ドナルド」と区別するためでもある。間違いなく、私がこれまで見た中で最もハンサムな男だった。私が覚えているのは彼が年をとったときの姿だけだ。 若い頃の彼がもっとハンサムだったら......神様、助けてください。

"ドナルド・モンゴメリー"

と言う噂を、当時の女の子たちの間で流行らせた! 顔がハンサムなだけでなく、その存在感は堂々としていて印象的だった。美しいナンシーにとてもよく似ていると言われた。エグリントンの話とはちょっと違うんだけどね! 私が知る限り彼は立派な雪白の太い髪、あごには深いえくぼがあり、これは孫の一人だけが受け継いだもので彼の子供たちは誰も受け継いでいない。そして私たちの多くが受け継いでいる磁性的な濃い青色のまぶたの目をしていた。
彼の最初の妻、つまり私の本当の「モンゴメリーおばあさん」は、彼の最初のいとこであるアニー・マーレイだった。アニー・マーレイは、デビッド・マーレイとベッツィ・ペンマンの娘だ。彼女は40代前半に「消費」で死んだ。彼女の写真はなく、どんな人だったのか見当もつかない。ただひとつ祖母について知っていることがある。モンゴメリー祖母について知っている唯一のことは、とても優しいということだ。彼女の記念としてここに書かせてほしい。マーガレット・サザーランド叔母さんが話してくれたことだが、幼い頃、学校に通っていた彼女は、ある日学校が終わると家に帰らず、何人かの子供たちと「ザ・コーブ」(入り江))に行くようにと誘われ家に帰らなかった。すると怒った姉か弟が彼女を探しにやってきて「お母さん」が家に帰ってきたら「あげちゃうぞ」(言いつけるぞ)と言うのだと告げた。幼いマーガレットは恐怖に震えながら家に帰った。しかし家に帰ると、"お母さん" は恐怖に震える小さな罪人を自分の膝の上に乗せて抱きしめて、無事であることを喜んだ。親愛なるモンゴメリーおばあちゃん、この75年間、私はあなたを愛していたと思う。
祖父がいつまで男やもめであり続けたかはわからない。結局彼はシャーロットタウンの未亡人、ギャル夫人(旧姓ルイザ・カンドール)と結婚した。彼女は 「モンゴメリーおばあさん」と呼ばれていたが、私は彼女に愛情を感じたことはないし、かといって嫌いでもない。継子たちの多くがそうだったと思うが、私は彼女を嫌いになったわけではない。彼女はとても「偉大な女性」で、そのドレッシーな「帽子」は若い稚魚たちの驚きと賞賛の的だった。彼女は厳格な「英国国教会」の女性で、いつも自分の教会に通い、長老派の教会とは一切関わりを持たなかった。祖父が長老を務めていた長老教会とは一切関係ない。彼女には最初の結婚で息子「ウィリー・ガル」をもうけたが、彼は若くして亡くなった。彼女は祖父との間に一人の息子を産んだが、赤ん坊の時に死んだ。
祖父の最初の家族の一人、 「クリスティ」は16歳の若さで亡くなっている。若かったが、愛情を知るには十分な人生だった。クリフトンの若いマッケイと婚約していた。モンゴメリ家の女の子はみんなちょっと早熟だった。でも当時は女の子が若いうちに結婚するのが流行っていたのだ。ハンサムで男勝りな一家は人生の喜びに満ちあふれていた。今はみんな亡くなってしまった。誰ひとりとしてあまり年を取らなかったのだ。おそらくアン・マレーは、ある種の体質の繊細さを受け継いだのだろう。私は子供の頃、モンゴメリーおじいさんの家によく遊びに行ったものだ。

"ドナルド・モンゴメリー夫人"
後妻のほうであろう

そのとき、私はとても嬉しかった。彼らは当時古風な古い家に住んでいた。台所から「おばあちゃん」の家の一部へと続く、ある古い「裏ハコ」(中二階)を覚えている。おばあちゃんが自分の家だと言っていた。この廊下の片側の壁には食器棚が並んでいて、いろいろなものが収納されていた。その先には大きな祖父の時計があり、短い階段を上ると、祖母が座って友人をもてなす部屋に通じていた。その先にある2、3段の階段を下りると、祖母の寝室があった。その古い家で私は腸チフスにかかり死にかけた。
新居を建てた夏に行ったのだが、家政婦の娘で黒髪の小柄な少女がいた。「ルイザおばさん」は「下働き」はしなかった。「そして、板張りになる前の大きな「出窓」でピクニックするのがとても楽しかった。私はとても小さかっただろう。ドナルド・モンゴメリーとナンシーの息子と娘のうち、私が知っているのは3人だけだ。祖父はマルペケの「エドワード・モンゴメリーおじさん」。「ジョン・キャンベルおじさん」の母親でステラとフレデの祖母であるエリザベスおばさん。
エドワードおじさんはジョン・モンゴメリーおじさんの近くに住んでいて、私が見たときはとても年老いた人だった。しかし、「エリザベスおばさん」は私が大きくなるまでパークコーナーに住んでいた。私は彼女のことをはっきりと覚えている。彼女はとても年老いた女性だった。若い頃はとてもハンサムで年取ってからも立派な老婦人だった。大きなくぼんだ目をしていた。夫のジェームズ・キャンベルは二度結婚している。最初の妻は「エリザベス モンゴメリー」で、"リトル・ドナルド" の妹である。彼女は彼に少なくとも2人の息子を産み亡くなった。その後、彼は "ビッグ・ドナルド" の妹である "エリザベス・モンゴメリー" と結婚した。不思議に思うのは二人の妻が同じ名前だったら、どんな気持ちになるのだろう。そして二番目の妻は幽霊のように感じるのではないだろうか? 
エリザベス・モンゴメリー、No.2、彼女もまた母親の多産性を受け継いで、17人の子供を産んだ。そのうちの1人は、「黒いコレラ」がP.E.島にやってきた夏に1週間で死んでしまった。船に乗っていた黒人が持ち込んだものである。その頃エリザベス・キャンベルは病床で、もう一人子供を産んでいた。そして、彼女がベッドから起き上がったとき、次のようなことが告げられた。4人の子供の死を知らされたのだ。そのような衝撃に耐えられる人間がいるのだろうかと不思議に思う! エリザベスは、肉体的な強さだけでなく、精神的な強さも持ち合わせていたのかもしれない。
私はアニー叔母さんがこの話をするのをよく聞いた。「エリザベスおばさん」は70歳だった。ある夏の暑い日、彼女は池の泉まで歩いて行き、2つのペール缶に水を入れて担ぎ上げた。水桶を2つ担ぎ上げた。そして彼女は腰を下ろした。 「アニー、」彼女は言った、「私は非常に奇妙な感覚を持っている。今まで感じたことのない感覚よ。きっと疲れてるんだわ!!!」 本当に、当時は巨人がいたのだね。この女性は17人の子供を産み、育て、原始的なP.E.島の農場の仕事をこなした。しかし70歳になったその日、彼女は初めて "疲れを感じる" という経験をした。"疲れを感じた" のだ。 おばさん!!!」
大叔父のジェームス・タウンゼント・モンゴメリー(ジョン・モンゴメリー叔父の父)には会ったことがないが、彼の未亡人の「ローズおばさん」のことはよく覚えている。私はよくエミリー叔母さんが結婚してマルペクに行った後、そこにはローズ叔母さんが住んでいたので、よくマルペクに行ったものだ。モンゴメリーおばあさんのようなドレッシーな帽子ではなく、ぴったりとしたフリルのついた白い帽子をいつもかぶっている、優しい顔をしたおばあさんだった。ローズ叔母さんはいわゆる "信心深い" 人だった。モンゴメリー家はそうではなかった。彼らは神を敬うまっとうな人々で、教会に忠誠を誓っていた。

ジョン・ウェスレーは、そんな彼らを、まだ焼かれずに残っているブランド品としか思っていなかったのだろう。
(英国国教会の司教であったジョン・ウェスレーは貧民救済運動としてメソジスト派を興した人で、長老派などの古い信仰運動などは救いの足しにもならないと思っていたことだろうと言っている)
しかし、ローズ叔母さんの信心深さは嫌なものではなかった。彼女は本当に善良なクリスチャンの女性だったのだ。そして毎週日曜日には、彼女が私と一緒に聖書の1章を読んだ。私は「エステル記」を初めて読んだのを覚えている。ローズおばさんはポケットにジューシーなレーズンを忍ばせていて、1節読むたびにレーズンをくれたんだ。ローズおばさんとの聖書朗読は本当に楽しいものだった。今日でも、エステルやヴァシュティ、モルデカイやアハシュエラスの話を聞いたり読んだりすると、ピンクの頬のローズおばさんとレーズンを思い出さずにはいられない。
ローズおばさんの妹のマチルダおばさんもそこに住んでいた。マチルダ・マクガリーおばさん(あるいはマッカリー、どちらか定かではないが)は、フィクションの典型的な老女房である。私は彼女の帽子の縁の下で光る黒い瞳を決して忘れることはできない。というのもマチルダおばさんも帽子をかぶっていたが、ローズおばさんのものは頬にやわらかくぴったりとフィットしていた。マチルダおばさんのそれは、頭のまわりで過激にはみ出した。彼女は愛されておらず、とても辛辣な舌を持っていた。しかし彼女は私にそれを使うことはなかったし、実際私はマチルダおばさんのことが好きだったし、おばさんも私のことを気に入っているようだった。マチルダ叔母さんは、ローマ・カトリックがどのようにして成立したのか、興味深い話をよくしてくれた。マチルダ叔母さんは、父とその家族がアイルランドで牧師をしていたときに、ローマ・カトリック教徒がどのように迫害したかという、刺激的な話を聞かせてくれた。
ああ、昔のモンゴメリー家とその花嫁たちはもうみんないなくなっちゃったんだ。エミリーの息子のジェームスはフォックスポイントに住んでいる。だからヒュー・モンゴメリの家は、この世代で他人の手に渡ることになる。カナダの農場で160年もの間、同じ家のままであったものはそう多くはないだろう。 この世の栄光と、愛と憎しみと希望と恐怖は、こうして過ぎ去っていく。そしてドナルド・モンゴメリがナンシー・ペンマンとデビッドを切り離した(抜け駆けで結婚した昔話)かどうかなど誰も気にしない。あの(コレラが襲った)黒い一週間に一緒に死んだ4人のキャンベルの子供たちにも涙は流れない。エリザベス・モンゴメリの涙はとっくに乾き、モンゴメリじいさんの涙はとっくに乾いている。モンゴメリ爺さんの堂々とした姿は、亡霊の間を歩いている。

1931年6月8日(月曜日)
牧師館、ノーヴァル
......私はとても魅力的な本を読んでいる――ヘンリー・ヴリルとその妻たち(ハケット著)だ。とてもよくできた本で、うっとりするほどだ......そして、その主題はどんな本でも面白くしてくれる。私の悩みは、キャサリン・オブ・アラゴンやアン・ブーリンの悩みに比べれば、ごくわずかなものに思える。アン・ブーリンに比べれば私の悩みなどたかが知れている。ヘンリーは民族の謎の1つである。人は彼のようなことが起こったとは信じられない。

1931年6月15日(月曜日)
私は今夜、素敵な時間を過ごした。数時間、私は若くて幸せだった。私たちはバラクラ夫妻と一緒に彼が所属するクラブが所有するプライベートな釣り堀に行った。そこは誰も通らないような小さな裏道を通って行くとても美しい場所だった。その日池はビロードのような影で覆われていた。男たちが下の池で釣りをしている間、夫人と私は松林を抜けて上の池まで歩いた。私は自分がいつも森の近親者であるという事実を再認識した。私たちは松の木に囲まれた池のほとりで1時間座っていた。そしてハッタリ王ハルと、不幸な遠い国の花嫁たちの話を読んだ。私はその魅惑的な場所から離れるのが惜しくなった。

1931年6月16日(火曜日)
喘息が再発したようだ。風邪もひいていないし日中も元気なのに、なぜだろう。もしかしたらイチゴのせいかもしれない。もしそうなら私は喘息になってもその苺の方を選ぶ! 
今夜、スチュアートがイザベル・コックシャット賞(歴史部門)を受賞したとの知らせがあった。(賞金――25ドル)、そしてクラスで最初の一般技能賞を受賞したそうだ。私はどうだろう。少しは喜べるだろうか。

1931年6月27日(土曜日)
牧師館、ノーヴァル
私はとても楽しい時間を過ごしていたのだが、毎晩のように喘息に悩まされ、1時間くらいは寝ていた。喘息が毎晩1時間ほど続いたので、かなり疲れて帰ってきた。私は先週の月曜日にトロントに行き、夜はCuth'sに泊まった。その夜、アートギャラリーで来日したライオンのためのレセプションがあり、私はかなり興味深い時間を過ごした。ある女性が近づいてきて、その女性は『赤毛のアン』については、もうほとんど語り尽くされていると思いますが、でも私は誰も言ったことがないようなことを言おうと思います。赤毛のアンが読者の精神的な苦痛を和らげるのに役立ったという話をした人はいますか。赤毛のアンが監禁されている人々の苦痛を和らげるのに役立ったという話をした人はいますか?と言う。
"いいえ" と私は弱々しく答えた。そして彼女は、最初の陣痛のとき、夫がベッドサイドに座って『赤毛のアン』を読み聞かせたところ、二人とも大笑いして、それほど苦しくなかったと言うのである! "ご主人はヒーローだったんですね" と、私はさらに弱々しく言った。なんてヤムなんだ! 彼はイギリス人だったのだ、当然だがイギリス人以外にはあんなことはしないしできない。あのようなことはしない。(イギリス人は皮肉好きだという事)
私はマーシャル・サンダース(モンゴメリの秘書か弁護士)と一緒に車で帰ったが、彼はいつものようにページとその出来事のことしか話さなかった。彼は彼らのことを脳裏に焼き付けている。ルイスは、今はベッドに寝たきりになってしまったようだが、まだ指示をしているようだ。また彼は私に、古い謎を解き明かすようなことを話してくれた。L.C.から届いた電報で、ジョージ・ペイジの "衝撃的な死" の後、ジョージ・ペイジ夫人は回復していないと伝えていた。ジョージ・ペイジが心臓病で死んだと公式に発表されたので私は突然の死が遺族にショックを与えるという事実を除けば、そのことに特別な「衝撃」を感じることはない。

「クスの家」

しかし、マーシャル・サンダースはこう言っている。ジョージ・ペイジは本当は自殺したんだ。彼はこの事件のすべての事実を知っている人物からそう言われた。これは本当に十分「衝撃的」なことだった。しかし、あの二人はどちらも不安だったのでジョージは精神的に不安定な状態で自殺したのだろう。
火曜日は、協会のセッションに出席し、何人かの旧友に会い、残念なことにもう来ないであろう何人かの友人を逃すことになった。オプティミスト・クラブ主催の昼食会に出席した。その夜ハートハウスで夕食をとった、政府からいただいたものだ。夕食そのものは良かったが、それ以外は葬儀の方がよっぽど楽しかった。3人の男が3回、延々と続くようなスピーチをした。そのスピーチは、端にいた私たちにはまったく聞こえなかった。なぜ食後の講演者は まるでそれが最初で最後、そして唯一のチャンスであるかのように必死になって話すのだろうか?。アフターディナーのスピーチは、短くキビキビとしたものであるべきだ。ほとんどすべての女性がタバコを吸うか、吸わなかったことを謝っていた。
翌日の朝会では、西部から来た国会議員のルコビッチ氏が素晴らしいスピーチをした。新カナダ人と文学」というテーマで素晴らしいスピーチをした。50年前、彼のウクライナ人の両親は貧しく無知なままカナダにやってきた。今、彼らの息子は国会議員になり、カナダの理想と法律について非常に熱心である。一つの世代がこれほどまでに発展するのであれば、メルティング・ポット(人種のるつぼ)に希望が持てる。彼がカナダ出身であることを示す唯一の兆候は、非常に顕著な「劣等感」だった。これは、幼少期から青年期にかけて、周りのカナダ人の子供たちから劣等感を持たされた結果だと思う。彼の子供たちにはそれがない。それ(劣等感が現れているところ)は彼が「このような聴衆」の前で文学について意見を述べることを何度も謝ったことに表れている。彼の意見は優れていて正しいのだが、彼はそれに自信がなかった。
トロント・ハント・クラブで行われたシアード夫人の昼食会に参加した。詩は上手いが小説はとても下手な女性だ。私は楽しんだが、女性たちの甲高いおしゃべりに疲れ果ててしまった。5年前との違いに気づいた。彼女たちは皆、熱を帯びて話しているようだ。まるで誰かに邪魔される前に言いたいことを全部言おうと必死になっているように。だいたい誰かが口を挟んだとしても、損はないだろう。
ロイヤル・ヨークのラウンジでパーティーが始まるのを待っていたとき、ハリファックスのデニス嬢と私はたまたま一緒に座っていた。「待っている間、私はあなたと一緒にいられることに感謝します」と彼女は言った。「人はあなたといると静かでいられるわ。あなたはいつも必死に話しているわけではありません。私だって自分も話さなければならないような気がしてなりません」。 と言われたのは、これまで何度も言われた中で一番うれしい褒め言葉だ。
夜は市主催の夕食会がキング・エドワードであった。またしても美味しいメニューに続き、またもや恐ろしく退屈な長ったらしいプログラムが続く。幸運なことに私には気の合うテーブル・コンパニオンがいた。詩人のウィルソン・マクドナルドが右手にいた。私は彼が好きだった。私も彼の詩はとても好きだ。しかし彼の純朴さは面白い。メインディッシュが出されたとき、ウェイターがマクドナルドに、とてもきれいに盛り付けられた野菜を皿いっぱいに持ってきた。 (メインディッシュは)「これだけです」。ダイエットしてるんですか? とからかうウェイターに、彼は「肉は食べないんだ。それは天才の食べ物ではないのだ。タゴールやホイットマンがそう言っていたのだ」と言った。私は笑みを隠した。ウィルソンはとても魅力的な詩を書くが、彼は「天才」ではないし、たとえ100年間野菜を食べて暮らしたとしても、これからもそうだろう。私自身はそんなことはありません。

天才の妄想をするために、美味しいものを食べまくって、食欲が戻ってきたことに感謝しながら、街のおいしいメニューを食べました。スピーチの半分も聞き取れないので、ウィルソンは得意の手品で私たちを楽しませてくれた。彼はテーブルの上に1セントを置き、その上に手を置く、手のひらを上に返すと1セントは消えてしまったが、しばらくして彼は私の袖から冷静にそれを取り出した。
それにもかかわらず、私たちはひどく退屈していた。男性陣のスピーチが終わると、2人の女性が立ち上がり、それぞれ2分ほどのスピーチをした。「女性がおしゃべりな性であるなどとは、もう二度と言うまい。とウィルソン・マクドナルドは唸った。私は急いでその場を離れたが、ラッコビッチ氏がやってきて、私の本がいかに面白かったかを話してくれた。彼はとてもいい人だったが、彼の原点はひまわりのような賛辞を送ることが再び明らかになった。そこに繊細さはない。「あなたは とても格好いい」と言った。"作家がこんなに格好いいとは思ってもみなかった"。しかし彼の息子たちは、もっと優雅に賛辞を贈る方法を学んだことだろう。
翌日、さらに2つの大きなピジョンを食べて大会は終了した。この間、私はプレスクラブの昼食会とアフタヌーンティーに出かけた。マクリーンズ誌の編集者ネピア・ムーアと会った。彼は私にMaclean'sの連載を書けというのだが、私は連載を書くことができない。
木曜日の夜はCuth'sでLauraと話した。夕食会よりもずっと面白い時間を過ごすことができた。しかしその晩は喘息の発作がひどかった。昨日帰ってきてから、ずっと『A Tangled Web』の校正刷りを読んでいる。

1931年7月2日(木曜日)
猛烈な暑さと湿度で、本当に恐ろしい2日間と夜が続いた。私はこんなことは今まで経験したことがないと思う。夜も眠れない。
仕事場へは自分で運転して行かなければならなかった。今日は12瓶のイチゴジャムを作った。それで夕方にはもうボロボロだった。私たちはグレン・ハウスに行った。B(バラクロウ)さんとEwanはユニオン(町の名)の準備礼拝に行った。B夫人はベランダで他の客と話をしていた。私は、しばらくの間くつろぐつもりでブランコの椅子に横たわった。私は眠りにつ3時間ほどぐっすり眠った。涼しい空気の中で目が覚めると、まるで生まれ変わったような気分だった。世界一素敵な家であり、世界一素敵な人々である。たとえ明日が今日であったとしても、私はまた先へ進むことができる。明日も今日と同じように。

1931年7月10日(金曜日)
オンタリオ州ノーバル
私は、コダック社の国際コンペティションのカナダ部門の審査員の一人である。他の審査員は、ネリー・マクラング、「ジャニー・カナック」、ワイリー・グリエ、アーティスト、キャノン・コーディ、そしてケベックのガニオン中尉だ。今日、私たちはロイヤル・ヨークで、子供たちの絵を審査するために集まった。そこに参加できたのは、グリエ氏、ガニオン中尉、そして私の3人だけだった、私たちはとてもスマートでおいしい昼食をとり、それから「審査」に臨んだ。子供部門だけで3万5千点もの応募があったことは知っていたので、午後の1時間でそのすべてを審査することができるとは思えなかった。私はこのようなことには非常に疎いのだ。
しかし私は突然熟成されたのだ。コダック社は、各項目に分類できないものをすべて「淘汰」した結果、各県から21枚ずつ選び、残った物は計150枚ほどしかなかったのだ。受賞作品が目に飛び込んできそうだ。少なくとも1等賞と2等賞は決められた。この2つの賞については、ほとんど意見が分かれることはなかった。3位はもっと選ぶのが難しかった。同じように良さそうなものがたくさんあったから。ほとんどの場合、私はワイリー氏の意見に同意した。彼の芸術的な判断に従ったが、しかしいくつかのケースではそうではなかった。自分の意見を持つという秘密の権利を保持したまま、彼の芸術的判断に委ねた。
また私は不思議に思う。見ていないものもたくさんある。写真は技術的な優劣ではなく、美しさや面白さで選ばれるものなのでもっといいものがあったかもしれないのに、あえて却下されたのだと思う。しかし、そうではないかもしれない。本当に面白い美しい子どもの写真というのは、意外と少ないものだ。しかし、私はとても楽しい一日を過ごすことができた。ドライブインとアウトは魅力的だ。この国はバラの花があちこちで咲いていてとても美しい。
私はトレベリアン著『マコーレーの生涯』を再読している。最初に読んだのは、あの冬プリンス・アルバートで読んだ。当時はとても面白かったが、今も同じように楽しい。しかしその魅力のほとんどは、マコーレーの手紙によるものだ。マコーレーの手紙には、彼の本質を示すものは何もないというのが序文の筆者の批判である。その通りだ。そうかもしれない、いやほとんど間違いなく、もし深遠であったとしても愉快なものにはならなかっただろう。海の深さは深いが、私は散歩には陽のあたる草原が好きだ。いずれにせよ、私はマコーレーから手紙をもらいたいものだ。

1931年7月11日(土曜日)
赤スグリのゼリーを作った。見た目はルビーのようで、味は見た目どおりです。赤いカラント(すぐりの実)祖母とスグリのワインを思い出す。私はゼリーやジャムを作るのが大好きだ。そしておいしいものを食べるのも好きだ(カナダでは甘い物が多い)。もし私が貧しい悪魔のような作家でなかったら私は素晴らしい料理人になれたと思う。
今夜はユリを全部切って教会に飾った。大きなバスケットに入ったマドンナ・ユリとリゲイル・ユリのバスケット。今年初めて咲いたものでとても素晴らしい。私はその前に立って礼拝の恍惚感を味わうことができた。
ホッダー・アンド・ストウトン社は、この新刊を『A Tangled Web』とは呼べないと書いている。というのも、昨年「The Tangled Web」という本を出版しているからだと書いてある。だからイギリスでの(出版では)は『ベッキーおばさんが始めたこと』(Aunt Becky Began It in England)になるのだ。きっとこれでその祝福された本の名前についてのタマシャの終わりだ! 
私たちは何かを忘れたことがあるのだろうか? 私はないと思う。今日の午後、私は古いノート(覚え書きノートか)を探し回っていた。シャトレーヌと書くと約束した物語のアイデアを探していた。1冊読み返すと40年近くが一瞬で過ぎ去り無に帰した(40年の年月も消えた様に)。私は1892年の冬に戻り、パークコーナーの居間の東の窓際に座っていた。嵐のような冬の日の夕方だった。雪は砂糖のように細かく、窓枠の下でふるい落とされていた。外では風が吹き荒れていた。アニーおばさんの夕食のおいしい匂いとともに、暖炉のある部屋でそれを(食事の用意の音)聞くのは、なんと心地よいことだろう。アニーおばさんの夕食のおいしい匂いがキッチンから染み込んでくる。私は一人だった。 算数の "stint" (早解き、暗算ということか)をしていたのだが、もう暗くなってしまってそれどころではなかった。そこで私は鉛筆とスレート板を置き、夢見心地で背もたれに寄りかかった、そして窓の外を見た。するとそこにはトウヒの木が点在する丘が風に吹かれ、畑が広がっていた。

ゴブリンの冬の踊りがあるようだった。そこには時折、夕焼けに照らされる厳かな古い丘があった。その丘の中腹に、カスバート・モンゴメリーの農場と隣家の間のフェンスに、背の高いトウヒの群生があった、背の高いトウヒの木が3本仲良く並んで生えていて、私の視界では、その輪郭の奇妙さによって他の木々から区別されていた。背の高い女性が3人肩を寄せ合ってひそひそ話しているように見えた。その木は何を話しているのだろう? 私はその問いを軸にして物語を紡ぎ始めた。私が座っている家の中で繰り広げられている物語を、木々は語り見ているのだ。その物語は何年も続き、木々はその一部となり、常に見守りささやき続けていた。喜びも悲しみも、涙も笑いも、彼らが愛した家に訪れたのだ。私はこの家が大きくなる前に(大家族になる前という意味か)、そこでとても幸せな時間を過ごした。木々が嵐の波に飲み込まれてしまうほど暗くなる前に、私はそこでとても幸せな創造の時を過ごした。
その後、小さなノートに物語のアイデアを書いた。いつかはこの物語を書いてみようと思った。でも書けなかった。今となっては、これからも書くことはないだろう。それは現代の旺盛な食欲にはあまりにも微かで妖精のようだ。私も少し残念に思っている。その当時から私はあの3本の木に特別な興味を抱いていたようだ。彼らと私が秘密を共有していた。パークコーナーにいるとき、私はいつも彼らのほうを横目で見ていた。腕を振って、"私たちの物語はもう書かれたのか" と囁いているようだった。
最後に行ったとき彼らに会った。しかし彼らはとても年をとっていた。枝の半分が枯れていた。長年の風によって打ちのめされ死んでしまったのだ。その昔、嵐のような冬の夜に、私にその話をした時は、若い緑の乙女であった彼らは、ただの年老いた老婆になっていた。私が覚えているすべての素敵なことが、私が死んだら忘れられてしまうなんて考えたくもない! 古い記憶が呼び覚まされるのは不思議なことだ。
先ほどの文章の中の一節。台所から夕飯の匂いがしみ込んでくる」というフレーズで、昔の「自宅の料理屋」を思い出した。これは台所の直角にある小さな建物で、その間この建物はキャベンディッシュの「古い」教会、つまり私が少女時代に通っていた「古い」教会の前にあった教会のポーチだったと聞いている。その教会は、キャベンディッシュで最初に建てられた教会だと思う。そのポーチから判断するに、それほど堂々とした建物ではなかったと思う。ポーチをよく写真に撮ったものだ。
1800年代初頭の古いスコットランド人の男女がそこにやってきて、若者はドアの前で女性を待っていた。あえて言えば、そこはロマンと神学に彩られた場所だった。毎年春になると、調理用ストーブ(最初は古い「ウォータールー」、次に石炭ストーブ)が「クックハウス」に移され、夏の間の調理はすべてそこで行われた。料理人たちにとっては余計な手間がかかるが、そのおかげで母屋は涼しくし、ハエを寄せ付けないという、網戸のない時代にはありがたいことだった。その古い場所で多くの料理が作られた。壁一面の棚は食料庫として使われた。
おばあちゃんは、大きな箱の中に乾燥したハムを入れ、その隅にオートミールを置いていた。梁にはハーブやキャロットの束が吊るされていた。おばあちゃんはそこでチーズの凝固物を作り、「フープ」に入れて果樹園のフェンスの隅にあるチーズプレス機に運んだ。大きな灰色の石が重しになっていた。おばあちゃんはチーズ作りの "名人" だった。個人でやる分にはもう失われた技術だ。今時のチーズはすべて工場で作られている。その結果チーズはおばあちゃんが作った物のような風味はない。

ウォータールーの調理用ストーブ

モノが大量に作られると何かが失われる。果たして今のカナダにチーズを作れる女性が一人でもいるのだろうか。外国の植民地の人なら別だが。
チーズの話をすると別の記憶がよみがえる。かつての夕方のことである。祖母と祖父がプレス機の下にあるチーズフープを調節している。私はその傍らに立ってその様子を眺めながら、周りの美しさに酔いしれる。ジュンが畑の上を歩いていた(猫か犬のこと)。太陽が沈むと琥珀色の夕空に若い月が浮かび上がった。
そして、子羊たちは家のそばの牧草地で遊んでいた。今、子羊はあんな風に遊ぶのだろうか? そうなんだろうけど見る機会がないんだ。でもあの子羊たちの夕暮れ時の遊びは、なんと華やかだったことだろう。穏やかな年老いた母親が草を齧っている回りで子羊たちは畑の端から端まで走り回った。その小さな蹄の音はまるでIdの雷のようだった。彼らは日が暮れるまでただ走ることを楽しんでいるように見えた。そんな幸せな生き物は見たことがない。
今日、ある人が「星が見える」という表現をしたのを聞いた。その人は「星を見たことがあるのだろうか」と思った。私は長年、「星が見えた」という表現に親しんできた。"星が見えた"(目から火が出た) という表現は、昔からよく知っていたし実際に自分でも使っていた。しかし私はそれは単なる言葉のあやであり、むしろ "Icnocked out"(ノックアウトされた) や "dazed"(茫然自失になった) を意味するものだと考えていた。
しかしある晩、私はこの言葉の意味を確信する体験をした。それは寒い冬の夜だった。私は震えながら服を脱ぎベッドに飛び込んだ。ブランケットを耳にかけ寝ようと思った。しかし誰がベッドを作った人(整えた人)は、毛布を足元までしっかりと入れすぎていたのだ。私は2、3回優しく引っ張ったが、どうやらうまくいかなかったようだ。しかし私は毛布を少しは緩めたのだろう。私が突然、強くせっかちに引っ張ったとき毛布は抵抗なく足元から離れた。そして上端を掴んでいた私の二重の右拳は、飛び上がり私の右のこめかみにガツンと一撃を食らわせた(拳ががぶつかった)。 星だ! キラキラと星座が見えた。私の拳ほどもある巨大な星が一つあり、その周りには小さな星が銀河のように連なっていて、死んだような黒い宇宙を背景に踊り狂っていた。私は半ば呆然として枕に倒れ込み意識を失った。翌朝、乙女の眉間に黄色と紫の痣ができ、何週間も痛むことになった。しかし私は "星を見た" のだ。
なぜ悪魔のようなことは、私たちが最も大切にしているものにいつも起こるのだろうか? あの時 「パークコーナー」で青い箱の戦利品(おばさんの形見)が分けられた時、私は2枚のガラス板(皿か)を手に入れた、とても小さなもので、もう1枚は15センチほどの大きさだった。私はそれをずっと大切にしてきた。でも去年、とんでもない方法で割ってしまったんだ。それもひどくね。私はそのことで1時間泣いたよ。そしてそれをトロントにある魔法使いの仕事をする人(器用に修理する人)のところに持っていったら本当に見事に修理してくれて、つぎはぎをつけてくれたんだ。でもしかし所詮はそれはあくまでも欠陥のあるプレートであり、常にそのように扱わなければならない。
私は最近十数枚のガラス皿を購入した。もしそれが全部割れていたとしても私は気にしなかっただろう。しかし物語と伝統のあるこの古い皿は大切にしなければならないのだ! そう悪魔がいるのだから! (悪魔とは不注意による事故のことか)
今日、今シーズン50個目のアップルパイを食べた。美味しかったよ。しかし昔のアップルパイはどこにあるのだろう。いや、アップルターンオーバーは?(三角形の小さなパイ) 祖母はアップルターンオーバーを作るのがとても上手だった。パイを焼くときいつも私に作ってくれた。(大きなパイ皮の切れ端で作ったのだろう)

パイの皮がピンと張っていてジューシーなスパイスの効いたリンゴがいっぱいだった。秋の夕暮れ、屋外から駆けつけて熱くてスパイシーでジューシーなリンゴの「ターンオーバー」を食べるのは、アンブロシア(砂糖漬けの果物で作ったサラダ)しか食べられないオリンポスの神々にも同情することだった。だから人は何も忘れてはいない。
先日、あることがきっかけで古い詩を思い出した。10歳くらいのときに、金曜日の午後に暗唱するために覚えた詩である。もう何年も忘れていた。 一行も聞き逃すことなく読み通すことができた。その昔の魅力を、時間が経つまでずっと覚えていることだろう。私は作者の名前は覚えていない。有名な名前ではなかった。その詩は家の中に転がっていた古いアンソロジー(異なる作者による作品集)に載っていた。......[付録C.J参照
もちろん、何でも脚色するのが好きな私にとっては、「呪われた春」は 学校の森にあるモミの木の影のような古い泉で、恋人の小径の裏山がその泉だった。恋人の小径の裏山は、失われた狩人が妖精の花嫁と暮らした「緑の丘」だった。昔の農場の黄昏時の草原で、その詩を繰り返し読んだとき、私は胸が熱くなった。その指が私の魂を揺さぶり、幽玄なハーモニーを奏でたかのようだった。どこか別世界がすぐそこまで来ているような気がした。あの暗くなりかけた丘の向こうで、影のある女性たちがゴブリンの宴に手招きしていた。小さな笑い声の亡霊が 谷間に漂っているように見えた。私もまた楽園の水を飲んだ。丘陵地帯の小さな小川のほとりで、神秘的な恋人たちと逢瀬を重ねた。 もう二度と元には戻れない。想像の中でさえもこのような魔法の杯を飲む人はありえない。
そのような魔法のカップから、人は何か奇妙な得体の知れない障壁、現実の世界との間に永遠に存在し続けなければならない不可解な障壁をほんの少し踏み越えたのだ。これは祝福であり呪いでもある(自然の美しさに感化され、それから神秘な世界の幻影も見えるということ)(もって生まれた能力だから祝福であるという事、またそれから離れられないから呪いでもあるという事)。
私の新刊は、イギリスでは『A Tangled Web』とは呼べないようなのだ。昨年、Hodder & Stoughton社から『The Tangled Web』という本が出版されたからだ。だから私の本は Aunt Becky Began It in England(ベッキーおばさんがイギリスで始めたこと)という名前になる。2つの名前があるのは嫌だけど仕方ないね。
エラからの手紙には、アレック・マクニールの心配な知らせが書かれていた。彼は春からずっと調子が悪く、以前からあった胃の病気もあって、今は憂鬱だと言われている。もちろん、これは歪んだゴシップに過ぎないかもしれないが。

1931年 7月16日(木曜日)
牧師館、ノーヴァル
今日チェスターをトロントに連れて行った。彼はトロントの学校の管理人が休暇中に用務員として3週間働くことになった(夏休みの間の修行)。100ドルほどもらえるそうだ(1ドル1000円ほどか)。少しは助かる。
それから耳の穴にできた腫れ物を治療してもらうという楽しい経験もした。数日間、夜通し痛んでいたのだ。そこで専門医のところに行き、腫れ物を見つけてもらった。局所麻酔を使ったのだがそれでも十分痛かった。麻酔薬の注射はとても痛かった。そしてその後の2時間、耳の痛みはほとんど我慢できないほどだった。彼は「聴力には影響しない」と言った。そうであってほしいと願っている。私は、モンゴメリー祖父の聴覚障害を受け継ぐのではないかといつも少し恐れていた。私が覚えている限り、彼はとても耳が悪かったのだ。

1931年7月18日(土曜日)
牧師館、ノーヴァル
今日もまた耳の治療のために行かなければならなかった。とても痛いが治療は順調に進んでいる。先生は、腫れものもうこれ以上はないだろうと思っている。先生が最初に見たときには、あと2、3個はあるかもしれないと言っていた。私は彼の意見変更に感謝している。ワーズワースは、ある詩の中でこう言っている、
     恋人の頭の中には、どんな好きで愚かな思いが
     恋人の頭の中に...
まあ、好きで愚かな考えは誰の頭にも入り込むものだ。いったいどこから来るのだろう? 今日の夕方、私は夕暮れ時の通りを歩いていた、丘の上の松の暗い美しさに心を奪われていたとき、突然こう思った。スチュアートとチェスターが死ぬときが来たらそれがどんなに早くてもどんなに遠くても、死にゆく枕元で見守ってくれる人はいるのだろうか。逝く時の苦しみを和らげてくれる人はいるのだろうか? そう思うと、なぜか私は苦悩に包まれた。もし、もし、もし、誰もいなかったら、もし彼らが見捨てられ孤独に死んだら。 私が愛してやまなかった子供たちがひとりぼっちで死んでしまったら......! このような考えは病的であることは間違いない。しかしここしばらくのように神経をすり減らすと、人は奇妙なことを考えるものだ......。

1931年7月19日(日曜日)
牧師館、ノーヴァル
......グリーンウッドさんが今日亡くなった。私は自分の個人的なサークル以外では、これほど私に影響を与えた死はないと思っている。グリーンウッド氏は、私たちがここに来て以来ずっと友人だった。彼は、私が知る限り最も優れたアマチュアの雄弁家だった。彼がいないとギルド(演劇クラブのような物)の運営はどうなるのかわからないほどギルドの助けになってくれた。彼は触れたすべての人生に彩りを添えてくれた。彼が死んだと思うのは無理なようだ。彼はとても元気で生命力に溢れていた。彼と私、そしてガーフィールド・マクルーアーズと一緒に、オールド・タイム・ナイトのために劇を作り、楽しんでいたのはほんの数ヶ月前のことだ。楽しかった。老いぼれの "ミスター・コドル" を演じたミスターGは、私の人生の中で一番面白かった。彼は会場を沸かせた。

1931年7月23日(木曜日)
今日はとても退屈な「宣教師ピクニック」だった。演説はうんざりするほどで私は聞き流した。その代わり、北国の青い空に浮かぶ雲の絵をなぞって楽しんだ。たとえばタイタニック号の「ジョーヴェ」。古代ギリシャ人は、本当に天の父を見たのだと思ったかもしれない。
今夜、グレン・ハウスで私たちは、数年前私が経験したばかげたことを思い出した。フレデはスタンレーで教鞭をとりながらロスの家に寄宿していた。春先のある朝、彼女と一日を過ごすために歩いて行った。その時私は愚かにも新しい靴を履いてしまったのだ。6マイルのハイキングを終えたとき、その靴は私を傷つけた。6マイルのハイキングが終わったとき、かかとに水ぶくれができていることに気づいたのだ。私はその日一日フレデのスリッパを履いていたのだが、夕方、帰りに靴を履くときに、まったく耐えられないと思った。我慢することができなかった。私はむしろ困惑していた。フレデが貸してくれたのは、古い捨てられた一足だけだった。私はそれを履いて出発した。しかしフレデは、かかとで悪名高く「オーバー」してしまった。靴はひどくゆがんでいて足首が痛くてとても歩けないのだ。そうして半分の距離は歩けるようになった。しかしベイビューの橋の上まで来るともう一歩も歩けなかった。私の足首と筋肉が耐え難いほど痛むのだ。私はその拷問用のブーツを脱いで、フェンスの向こう側の森に投げ捨てた。
満足と安堵の最初の荒々しい痙攣が過ぎ去った後、私は荒れた道を3マイル歩いて帰るという考えに直面した。日中に解凍されて泥になり、今は急速に凍っている悪路を3マイル歩いて帰らなければならない。しかし私はそれをやり遂げた。そしてそれはそれほど恐ろしいことではなかった。もちろん、ストッキングはすぐに切り裂かれ、凍った泥や氷の上を素足で歩くことになった。しかしもう痛みはなく、私が恐れていたのは誰かが私に "リフト"を(車に乗れと) 勧めてきて、私がそのわけを説明しなければならないことだった。自分の苦境を説明しなければならない。それは1カ月間地元のジョークになることだろう。幸運なことに誰もそんなことはしなかった。夜が明けると、凍った道路は私の友だちだった。帰宅間際、逆走するトラックワゴンに出会った。でももう暗くて、運転手には私の足が見えなかった! その時、キャベンディッシュを歩いた。キャベンディッシュを歩くのはあまり楽しいものではなかった。家に着くととてもありがたかった。私はその結果、ひどい風邪をひくかと思ったが、そのようなことはなかった。私は 1ペニーも悪くならなかった!(ひとかけらと言うような意味)

1931年7月28日(火曜日)
牧師館、ノーバル。
E(ユアン)は今日島へ旅立った(休暇で)。スチュアートが駅まで送っていった。この夏、Sは車の運転を習うので、私はチェスターの時のような苦悩を味わうことになる。でも彼はとてもうまくなっているよ。スチュアートはこの夏大きく成長した。彼は今私より背が高い。そして先日、彼のテーブルの上に女の子からの手紙を見つけた。その手紙にも、その女の子にも、何の害もなかった。でもその手紙を読んで私は胸が痛くなった。この子の人生において、私はもう唯一の女性ではないのだと実感したからだ。スチュアートが、いつかは結婚して母親と離れなければならないかもしれないと心配していた頃とは大違いだ。
今日、シャトレーヌ(雑誌)に「牧師夫人が信徒に期待すること」という記事を書いた。ネリー・マクラングが書いた「会衆が期待すること」に対して、私は「牧師の妻が会衆に期待すること」という記事を書いた。私は真実しか書かなかった。しかし真実のすべてを書いたわけではない。牧師夫人にあこがれてから20年間抑圧された後会衆に幻滅した、――しかしそれをあらわに書く事は決してしなかった!

1931年7月30日(木曜日)
ユアンは今夜、島にいる。それを思うと寂しくてホームシックになりそうだ。私もそこにいたいと思う。私の心は海を求め、そばの影のある池を求め痛んでいる。
私が愛した砂丘、月明かりに照らされた小さなモミの木、灰色の港に降り注ぐ雨...。白いスミレの咲く小さな夕焼けの窪み......私が育った木々......愛らしいピンク色の。白い白樺は幽霊のような手で私を捕まえようとしていた。母のような古い家。私もそこにいるべきだ!

1931年8月2日(日曜日)
一年ほど前、この日記をたった一人の少年(我が子のこと)に託すには、もう一人の少年にはタイプライターでコピーをとってあげよう。それで毎週日曜日に、私は数ページをタイプしている。最近はハーマン・リアードに関する記述をコピーしている。ゆっくりした作業なので、細部まで「しみじみ」と感じられるのだ。また彼が実際に生きているような気がする。今夜、書き終えた後、私はとても家にいることができないほど、古い感情に支配されていた。
私は外に出て小さな村の夢見る通りを歩いた。夏の夜が私の周りにあった。しかし私の心はここにいなかった。私は30年以上も前に戻っていたのだ。そしてハーマンと若さと人生と一緒に、このまま過去に戻っていたいと思った。私はしばしば、ハーマン・リアードが私に抱かせた抗しがたい魅力の秘密は何だろうとむなしく考えてきた。彼はそこそこイケメンだったし、嘘のようにちっぽけで頭脳もない。些細なことで頭脳も教養も全くなかった。その一方で私は、最初にキスしてきた男に何倍もの恋をするような、愚かで多感な少女でもなかった。キスも男性も私にとっては目新しいものではなかった。
私は22歳で、15歳のときから、それ以来たくさんの恋人がいた。いい男たちだった。そのほとんどが、ときどき私にキスをしてくれた。そしてとても退屈で愚かなパフォーマンス。私は悪く言えばとても吐き気がするものだと思った。6人の男性が私に結婚を申し込んできた。エドウィン・シンプソンは、私が知る限り最もハンサムで最も賢い男の一人で、私に愛されようと最善を尽くしたが失敗した。私は彼を愛するために最善を尽くしたが失敗した。しかしハーマンの唇が私の唇に初めて触れたとき、私は永遠にハーマンのものになった。私は永遠に彼のものであった。20年来の妻であり子供を産んだ男(ユアン)のものでもない。なぜああなったのか! 400年前なら魔術と呼ばれていたかもしれない。人々はそのために火あぶりの刑に処された人もいる。(ハーマンが父に似ていたからかもしれない)
そのような人がいるのだ。私は信じている、この力と才能を生まれながらにして持っている人がいるのと同じように、音楽、ペン、筆の才能を持つ人がいるのと同じです。それは頭脳や美貌や社会的地位とは関係ない。その人たちはその才能を持っていることにまったく気づいていないかもしれない。今振り返ってみてその強力さに気づいたとき、私はよくこれに抵抗し逃れられたものだと思う。プライドと野心という強力な情熱があったからだ。その強力な情熱のおかげである。
今、私は過去のことを書いているのだが、ここにその過去の写真を載せておこう。それはこの絵(写真)は、恋人との逢瀬のために背後の洞窟から出てきた海の妖精ではない。それは当時の水着を着た私自身であり、少なくとも私の水着である。
ノーラ・ルフルギーと私は、普通の入浴着を持っていなかった。キャベンディッシュでは誰も持っていなかった、しかしあの寂しい海岸ではそんなことはどうでもよかった。私たちはたいてい「コンビネーション」スーツをを着ることにした。ある晩、私はノラを連れて行き、ノラは私を連れて行った。私たちは、誰かに見られるのを恐れて私の写真を隠した。見られたら私たちは永遠に恥をかくことになるのだ!

1903年、キャベンディッシュビーチでのモード

先日、屋根裏の箱の中でこのプレート(ガラス乾板か)を見つけ、写真をプリントアウトした。とても魅力的で最新のものだと思う。海水浴のドレスだが、今日の少女たちが公然と着用している水着は、もっとスカスカなものだ!

1931年8月5日(水曜日)
今日はトロントにいて、マックのオフィス(著作権管理者)に行った。そこにスチュワート氏を発見した。彼は素晴らしく回復している。いつも気をつけなければならないが。またそこで彼に会えて嬉しかったよ。私はいつも彼が好きだった。
スチュアートは受験した4つのマトリック試験に合格した。私以外の家中の人がインフルエンザにかかり、私は激しい一週間を過ごした。でも今晩はソーン博士を読んで慰められた。世の中は逆さまだ。私たちが大切にしてきた信念や伝統はすべて(自由主義と共産主義に)板ばさみになってしまった。赤いロシアの影がすべての上に暗く横たわっている。しかしまだアンソニー・トロロープを読むことができるのはありがたいことだ。

1931年8月21日(金曜日)
牧師館、ノーヴァル
今日、私の『A Tangled Web』のコピーがストークスから届いた。私はこのジャケット(表紙カバー)が気に入らない。主人公の姿それだけで十分なのだ、ポケボネットとクリノリンを身につけた姿が、ヴィクトリア朝の感傷的な小説を連想させるのだ。
私はストークに自分の考えを話すつもりだ。私は彼らが私の本のためにできる限りのことをしてくれているとは思っていなかった。この5年間、彼らが私の本のためにできる限りのことをしてくれているとは思わなかった。彼らはわざわざ 「私の評判」に甘んじているのだ。私はこの本をフレッドとアレクセナ・ライトに捧げた。私は自分の本を捧げられる人が少なくなってきた。タイトルページに献辞人の名前を書く気になれない。
私の本の献辞者には、インスピレーションや友情など、私にとって何か意味のある人物の名前が書かれている。なぜマクニールの祖父と祖母に本を捧げたことがないのですかと不思議がられたが、私にはできなかったのだ。私の祖父が、私が教育を受けることに反対したことは決して忘れることができない、祖父は私がキャベンディッシュ校(地方の小中一貫校)以上の教育を受けることに反対し、私がその教育で少しお金を稼ぐようになるまでずっと反対していた。祖母は私の執筆への情熱を、愚かな時間の浪費だと嘲笑した。私は本の成功について彼らから賞賛を受けたことは何もない。 だから私は彼らに本を捧げることができない。もし、私がまだ若くて苦労していたときに、励ましの言葉をかけてくれたなら、それは可能だっただろう。しかし 彼らは決してそうしなかった。

1931年8月31日(月曜日)
今日はピクルスとゼリー作りで大忙しだった。私はこれをするのが好きだ。とても楽しい。テーブルの上に半透明のルビーやアンバーが並んでいるのを見るのは、楽しいものだ。しかし一日が終わると疲れてしまい、夜は静かに本を読みたくなった。
フラムリー・パーソネージ(Framley Parsonage)。初めて読んだ時のことを思い出す。私は14歳の少女で リアンダーおじさんが夏休みに一冊買ってきてくれたのだ(祖父母と違って上の伯父さんは少しは文学に理解があった)。私はそれまでトロロープスの小説を読んだことがなかった。ある夏の黄金色の夜、私は裏口の階段に座ってその小説を読んだ。それまでトロロープスの小説を読んだことはなかった。そして、その小説の愛が色あせることはなかった。それ以来何度も読み返したが、いつも同じ喜びを感じている。私はルフトン卿夫妻、マーク、ルーシー、ファニー・ロバーツ夫妻、グラントゥル夫妻など、昔からの変わらぬ友人たちと一緒に夜を過ごしたかった。そして忘れてはならないのが グリゼルダ、ミス・ダンスタブル、ハロルド・スミス、そしてプラウディー夫人も忘れてはならない。
その代わりに、私はU.F.O.の会合で過ごすことになった。 グリゼルダ・グラントリーがU.F.O.に行ったらどうするんだろう。でもミセス・プラウディーなら全然平気だっただろう。
今日、ジム・マスタード夫人からの手紙で、ウィル・クックがリリー・マイヤーズ(元マクドナルド家のメイドだった)と結婚したことが知らされた。ウィル・クックはリリー・マイヤーズと結婚したのだ! そうだろうとは思っていたが、私はどうしても信じられなかった。彼は社会的自殺を遂げたのだ。あのかわいそうな女の悪いところは彼女がとても嘘つきであることだ。どうして彼があんなに狂ったのかわからないが、マスタード夫人の手紙の内容からしてスキャンダルがあるのではと思う。結婚といえば、ロブ・アンダーソンが結婚したことをこの日記に書いたことがあったかな。ロブ・アンダーソンが数年前に結婚していたこと、しかもエルシー(エルシーも元マクドナルド家のメイド)とではなく、トロントに住むアイルランド人の女性と結婚した。私は何が原因で彼とエルシーが別れたのか知りたい。エルシーとの間に何があったのか知りたい。ここを出たときには婚約していたのに......。

1931年9月6日(日曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
夕食を食べに来たクースとエイダ、そしてサザーランド家の娘たちは今帰ったところだ。行ってしまった。「サザーランド娘」とは、(昔馴染みの)ジャック・サザーランドの娘であるベティとマーガレットのことである。彼女たちに会うのは、まだ小さかった頃以来だ。とてもいい子たちで、すぐに打ち解けることができた。私たちはテーブルを囲んで長く座り大笑いした。私は彼女たちに、アール・グレイ(モンゴメリが昔謁見したカナダ総督)とマクファイルの物語の話や、メイ・マクニールがデヴォンシャー公爵と繰り広げた荒唐無稽な冒険の話をした。後者はこの日記に書いたことがないと思うのだが、それはそうしないのは残念だ。無くしてしまうのは勿体ないくらい美味しい話だ。私は中古で手に入れただけだが、でもメイが話すとほとんど損はしていない。
数年前デヴォンシャー公爵が総督だった頃、彼はP.E.I.を訪れ、「キャベンディッシュを訪問するのは総督としての喜びだ」と告げた、キャベンディッシュという名前は、彼の家の士官候補生がP.E.島の初期開拓に興味を持ったことにちなんで名づけられたものだ。これによってキャベンディッシュは注目されるようになった。娯楽委員会(もてなし委員会)が急遽結成された。謁見は当時空家だった邸宅の敷地内で行われることになり、婦人委員会がその中に公爵夫人のための部屋を用意した。絨毯、カーテン、ソファ、洗面台、タオル、石鹸、ミラー ヘアブラシなどなど。1つを除いて、すべての緊急事態に対応できるようにしたのだ。その1つは彼らの頭にはなかったのだろう。
おそらく彼らは、悪徳商人がこの点では一般的な土人とは違うと思っていたのだろう。ヴァイスリーガル(総督)の一行は、埃っぽい夏の日に到着した。公爵夫人とその従者たちは部屋に運ばれ、旅の汚れを取り除いた。すると公爵夫人の一人が芝生に現れ、やや曖昧で不安げな表情を浮かべた。 メイ・マクニールが、彼女の罪滅ぼしのために自分に声をかけてきたのだ。彼女はどこへ行けばいいのだろう。かわいそうにメイは足を踏み外して死にそうになった。行くべき場所はただ一つ、納屋の裏の古い水庫だの肥溜めに隣接している馬小屋を通り抜けるしかないのだ。貧しいメイを先頭に、公爵夫人はおとなしくその後ろをついていった。二人は芝生を越え、馬小屋を通り抜けた。メイの手が聖なるものの小さな扉を開けようと伸びていたとき、馬が警告するように頭を出してきた! 
メイと公爵夫人は馬小屋の外に出て公爵が通り過ぎるまでそこに立っていた! 
ベティ・サザーランドが教えてくれた家族の歴史。この日記にモンゴメリーの歴史を書いているときは知らなかった家族の歴史を教えてくれた。あまりにも絵になる話なので忘れてしまうかもしれない。
メアリー・マックシャノン・モンゴメリー(Mary MacShannon Montgomery)が、船の船長に賄賂を渡して船長に1本のウイスキーを渡して、彼女を上陸させたようにである。その日、メアリー・マクシャノン・モンゴメリーは船長を買収して、ウイスキーの瓶を渡し、彼女を岸に立たせたようだ! 結局のところ、禁酒法は混じりけのない祝福ではないのだろう。

[スチュアート 15歳と1/2]

1931年9月10日(木曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
スチュアートは今日、セント・アンドリュースに戻った。彼はこの夏大きく成長した。添付のこの写真は彼の顔がよく見えないのだが、若かりし頃の姿だ。私は今夜は孤独で見放された気分だ。疲れていることもある。あの運ちゃん(猫)に4時に起こされちゃったし。夜中に「ネズミが出た」と家中駆け回って叫ぶので私はまた眠れなくなった。
(私が文句をつけたので)ストークスは結局、本のジャケットを新調した。極端な話、彗星同士が正面衝突しているようなデザインだ。しかし、他のものよりずっと「印象的」であり、この本には適している。
この1週間は恐ろしいほど暑かった。天候はまるで妖怪のようだ。1898年以来最も暑い9月の天気だそうだ!

1931年9月13日(日曜日)
先日の夜、私は実験的に、室内で電灯による長時間露光で写真を撮ることを試してみた。その結果かなりうまくいった。すべての部屋でやってみよう。

 

私の蔵書庫があるコーナー

今日は日陰で93度(摂氏32.5度)くらいだった。このほかにも(暑さ以外にも)いくつかの理由で、それは一種の悪夢だった。
エセル・メインの「バイロン婦人の生涯」を読んでいる。若い頃、大学でバイロンの詩を研究していたときに興味をそそられた謎がすべて明らかになった。間違いなく解明された。この物語全体は卑猥で恐ろしいものであり理解しがたいものである。バイロン夫人の性格は、バイロンと同じくらい、いやそれ以上に謎に包まれている、その謎のひとつは、バイロンのような男がどうして『ギリシャの島々』や『そこにあったもの』を書けたのかということだ。
ギリシャの島々 "や" "夜には酒宴の音がする"、"汝、深く紺碧の海を転がれ。 紺碧の海よ転がれ" それはバイロンの頭脳を、ある超絶的な音楽家が拾って弾いた、微妙に細工されたヴァイオリンのように見れば説明できる。このヴァイオリンは、私の神々しい旋律を表現する媒体として役立つように作られている。その持ち主が下品で堕落し、追放されようとも私は気にしない。私にとって重要なのはバイオリンだけなのだ。もちろんバイロンが異常であったことは言うまでもないが、バイロンが異常であったことは、今日の精神科医にとって事件である。普通の基準で彼を判断するのは無駄なことだ。アナベル・ミルバンケは世界で一番結婚してはいけない女性だった。彼女には彼をどう扱えばいいのかまったくわからなかった。彼と幸せになれる女性はいなかった。しかし、ある女性は、彼を管理し、ある程度は一線を越えさせることができた。バイロン自身、それを知っていた。『バイロン夫人の生涯』は、私が何日もかけて読んだ本の中で最も魅力的な本だ。しかし彼女が書いたような手紙! 当時の人々はあらゆるメモやスクラップ(切り抜き)を残しているようだ。
手紙の保管といえば。私は最近ファンレターの「草分け」をしている。無慈悲にも燃やし、最高のものだけを残している。これまでは全部残していたのだが、しかし空間がついに反旗を翻した(しまう空きがなくなった)。ここ数週間で何千通もの熱狂的な女子高生の手紙を燃やした。

1931年9月16日(水曜日)
今日、ゲルフ(中規模の都市)に行って新しい帽子を買ってきた! オーストリッチの羽が巻いてあるのだ! それは私を奇妙なほど若返らせた。羽毛を使うのは何年ぶりだろう。新しい帽子の多くは、とてもきれいだ。何年も前から帽子はそれ自体が醜く、初老の人にはふさわしくないものだった。

1931年9月24日(木曜日)
今夜は9月の月の出の意味を改めて学んだ。ユアンと私は訪問に行った。行くのは何でもなかったが、往復の運転は恍惚としたものだった。金の日の翌日、銀の夜がやってきたのだ(おそらくよく晴れた日の夜は月がきれいだったという事)。私たちは大きな松が淵を作る寂しい道を通った。松の木があちこちに影を落としている寂しい道を進んだ。
空気中には霜の気配と輝きがあった。このような夜には、いつも私は若い頃に戻りたい、恋人がいる女の子になりたいと思う。そう思うことはめったにないことだ。情熱の緊張とストレスがすべて終わったことに感謝するのが普通だ。バーまだ世界に月明かりがあるとわかると、突然失われた青春への憧れに駆られる。キャベンディッシュの丘や海岸の草原で、もう一度若さを取り戻したいと思う!  ああ!

1931年9月27日(日曜日)
今朝、目を覚ましたときに見た嫌な夢に、一日中悩まされている。何かの声を聞いたか手紙の文字を読んだか、どちらかわからないが......。 "L.M.モンゴメリー、5年か6年長くなる"。というような印象を受けた。それが私の余命の長さであるかのような印象を受けた! それは私の勘違いかもしれない。このフレーズ以外はぼんやりしていた。しかしもしそのような意味でないのなら1936年か1937年に何か大きな変化があることは間違いない。(モンゴメリは天の啓示を受けているような発言をしますね)

1931年9月29日(火曜日)
牧師館ノーバル、オンタリオ。
昨日、チェスターをトロントに連れて行き大学での勉強をやり直させた。 昨年は大きな希望と自信をもって彼を見送った。今日は疑いと不安だけである。
その後、私はロイヤル・ヨークに行き、コダック国際コンクールの最終日の審査に臨んだ。今回、審査員は全員揃っていた、ギャニオン大佐、キャノン・コーディ、エミリー・マーフィー審査員、ネリー・マクラング、そして私です。とても興味深い一日だった。写真には6つのクラスがあった、静物、建築物、風景、非公式な肖像画、そして「ゲーム、娯楽、職業」の6つの部門があった。全部で18万点の応募があったが、約200点まで絞られた。それでも大変なことだった。どの写真もとてもきれいでよく撮れている。その中から各クラス3点の入賞作品を決めなければならない。そして、その中からカナダ全土に贈られる1000ドルの大賞を決めなければならない。
最後に、「ゲーム、娯楽、職業」を除くすべての審査が終了した。"職業" の部門。これについては、かなり意見が分かれた。他の審査員たちは、ある絵を1位にすることに決めていた。 しかし、私は誰も気づかなかった、ある小さな絵(写真)に目を留めたのだ。私はその絵をよく見て、店長に「拡大写真を見せてください」と頼んだ。――そこには、すべての展示物の拡大図があった。拡大写真もありますよ。と言って彼はそれを持ってきてイーゼルの上に置いた。
「私は、「これは完璧な絵だ。技術的にも、心の面白さでも完璧な絵と呼べるものだ。ワイリーグリエはそれを見て同意した。みんなも同意した。結局プロスペクターはその部門(職業)で1位を獲得したが。そして綱引き大会が始まった。一等賞の拡大図(写真)がずらりと並べられその前に全員が厳かに座り一等賞を決める。ワイリー・グリエ は、父親の剣を持った少年の絵を選んでほしいということだった。マーフィー夫人とマクラング夫人は、読書する老人の肖像画を選ぶことに決めていた。キャノン・コーディは別のものを、そしてガニオン大佐は口をつぐんでおこうというのが彼の得意とするところである。

"ザ・プロスペクター"(鉱山夫)

誰も「プロスペクター」のことには触れなかった。私は立ち上がった。「他の写真はどれも魅力的だが、でも、世界中のどこの国でも撮れたかもしれない写真だ。この このプロスペクターの写真はカナダでしか撮れなかったものなのです」。開拓者カナダの本質的な精神、すなわち不滅の探求、夢の丘の向こう側、「山脈の向こうに失われたもの」を表現している。これこそあなたがジュネーブに送りたいものなのです。ジュネーブに送りたいのは、カナダ全土の一等賞というキャシュをつけた写真なのです。カナダを世界に伝える絵です」。
私の饒舌は、ワイリーグリエを説得した。彼は降参した。「あなたの言うとおりです。マクドナルド夫人」 女性たちは少し持ちこたえたが私は粘り強く戦った。結局、満場一致で私の選んだ写真が一等賞に選ばれた。そして私は内心で満足げに頬をなでながら、そして席に着くなり、内心満足げに頬張った。面白いのは昼食の準備のために2階に上がったとき、マーフィー夫人とマクラング夫人がいたことだ。マーフィー夫人は、「あの写真が選ばれて本当によかったわ」と叫んだ。「"まさにカナダ "です」と。
私は吠えることもできたがそうはしなかった。私は自分の道を切り開いたのだから、それでいいと思っていた。私がいなければ入選すらできなかったであろう写真が(目立たない小さな写真が)、この部門で賞を獲得したのだ。 そのクラスではHonorable Mention(入選)さえも得られなかった絵が、オールカナダ賞を獲得し、ジュネーブに行くことになったのだ。それだけで十分だ。私たちは素晴らしい昼食会を開き、それぞれの女性に蘭と薔薇のコサージュを贈った。素晴らしい昼食会だった。私はサタデーナイトの著名な音楽評論家であるヘクター・チャールズワースと同席したが、彼はひげが多いにもかかわらずとてもいい人だった。
昼食後モーガン氏は私たちに、新しいムービング・ピクチャー・カメラが動く様子を見るために、展示室に戻るようにと言った。カラーで映画を撮り、再生する新しいムービング・ピクチャー・カメラを見るためである。確かに素晴らしいもので、私たちは感嘆の声を上げていた。しかしその時、支配人の冷静な判断で、私たちの口は塞がれた。審査員一人一人に、感謝の気持ちを込めてカメラと再生機(映写機)をプレゼントします!!」というマネージャーの冷静なアナウンスに、私たちは口をつぐんでしまった! 
本当に、あまりにも素晴らしいことだと思った。全部で500ドルくらいするんだろう? もちろん私の人生はすべてそうであるように遅すぎたのだ。息子たちが小さかった頃にこれがあればと。スクリーンをセットして15年前と同じように、リースクデールの芝生で遊んでいる姿を見ることができる! そしてこの映画のジョーカー(問題点)は、フィルムが恐ろしく高価であることだ。それでも私はこの映画から何らかの喜びを得ることを期待している。そして子供たちが喜ぶことを期待している。ワクワクする。コダック社は、「私たちの誇り」だ。

1931年10月10日(土曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
今朝のグローブ紙の『もつれた網』のとても良い批評の中のある段落を読んで、私はとても腹が立った。それは「私が何時間もかけてP.E.アイランドの人たちと話して、事件や洒落た言い回しなどを聞き出したに違いない!」と書かれていた! 神々よ、私はこのようなことに我慢しなければならないのか? この『Tangled Web』には、私が誰かから聞いた逸話が2つだけあるんだが。それ以外は事件も台詞もプロットも、すべて私の創作である。G-R-R-R!(ガーーー)
しかし、それはある意味褒め言葉なのだろう! 私のキャラクターや会話は、他人の話!を真似たと言われればそれまでだが! 現実の妻たちの物語からコピーしたと思われるなら......。

1931年10月15日(木曜日)
一日中、いろいろな理由でブルーになっていたのだが、夜、村から帰ってくると、私を元気づけるものを見た。ラッセルの丘の暗い松の上に10月は細い新月を指輪のようにつけていた。その光景は、それ自体とても素晴らしいものだったが。その光景は私に多くの古いもの、愛するもの、忘れられないものを思い起こさせた。ワインのように美味しかった。
新聞は中国と日本の戦争の噂でいっぱいだ。戦争......まさにその言葉は背筋が寒くなるような言葉だ! そして私たちは皆、イギリスの選挙を息を呑んで待っている。この選挙が文明の運命を決めると思う。 世界はなんという混乱に陥っているのだろう!

1931年10月21日(水曜日)
今日の午後、私たちはオーロラ(スチュアートが行っている高校のある町)へ賞品の授与式を見るために出かけた。その日は夏のような暖かさで、私たちは秋のカエデが深紅と褐色に燃え上がっている新しい道を通った。
オーロラに着く直前、私たちは美しい光景を目にした。見たことのない光景を目にした。しかしそれは私にとって奇妙なほど馴染みのあるものだった。その光景は英語の小説を読んでいるときによくイメージしたことがあった。ピンクの服を着た狩猟の男たちが、柵を飛び越えて野原に飛び込んだ。犬がたくさんいた。すべてが魅力的で犬も可愛かった。私たちは止まって、最後の馬が鉄柵を越えるまで見ていた。スチュアートは賞品を手に入れ幸せな気分になった。 晴れ晴れとしていた。

スチュアート

1931年10月22日(木曜日)
エジソン死す。"王子と偉人が イスラエルでこの日倒れた。" エジソンとヘンリー・フォードは、歴史が誕生して以来、他のどんな2人の男よりも、世界と世界の生活を変えたと思う。
鹿の肩甲骨の上に、言葉を表す記号を彫りつけるというアイデアを最初に思いつい無名の男だけが彼らと同列に扱われる。
エジソンが死んでしまったのは残念だ。なんとなく彼は死なないような気がしていた。でもそれよりも 私の庭が死んでしまったことの方がもっと重要だ――色も個性もすべて失われてしまったことだ。今年はとても良い庭で、私にとって喜びであり慰めだった。そして今、いつも思うのは、私と私の庭のためにまた春が来るのだろうかということだ。

1931年10月31日(土曜日)
オンタリオ州ノーヴァル、牧師館
今週は頭の調子がいい。この10月の間ずっと頭を悩ませていた。ただ単に "奇妙な感覚がある" だけなのだ。去年の秋と春にもあったんだけどね。
先週火曜日、英国でザ・ナショナル・ガバメントが返還された。4年ぶりにイギリスは強力な政府を持つことになった。世界を救い出すことができることを期待したい。しかし彼女が「ドール」制度を続ける限り、私は彼女が決して強固な地盤に立たないことを恐れている。
マリオンからの手紙によると、マートルはまたとても悪い症状に見舞われたそうだ。
そして、ユニオン(ノーバルの北にある町)ドラマティッククラブの練習を始めた! 週に4日練習するんだ。早く終わらせて邪魔にならないようにするためにね。これで大丈夫だ。クラブにとっては。でも私にとっては! まあ、私のキモ(一番興味のあること)なんだけどね。
(ユーアンはノーバルとユニオンの2つの町の会衆を受け持つ牧師だったが、そのうちユニオンでは演技に興味を持つ人が多かったので、モンゴメリが素人芝居の指導をした)

1931年11月7日(土曜日)
私の「ムービー」カメラなどは木曜日に届いた。彼らはフル装備で送ってきた。私は少しは熱中したいものだ。4本のフィルムを送ってくれたので、操作を学ぶためのお金を無駄にする必要はない。
今日の午後、ユアンと私はトロントに行き、新しい鉱山研究所の開所式に出席した。楽しい一日だった。また私の心はある一点で安心した。先週の火曜日、ユアンは大学でハウテイン教授に会い、教授が彼に、「チェスターが去年の夏、フルード(鉱山)でどうなったか」と聞いた。ユアンはその一部始終を彼に話した。
H教授は非常に憤慨していた。彼はこれまで一度も学生を解雇したことがないと言った。というのも、彼ら(鉱山学部)には彼ら(生徒の派遣先の鉱山会社)との間に(研修生を解雇しないと言う)了解事項があったからだ。そしてそのことを手紙に書いて、会社はもし納得のいく説明ができないなら、もうこれ以上学生を送らないと言った。私はすぐにC(チェスター)に、ハウテインのところに行ってその一部始終(鉱山でどんな目にあったか)を話すようにと書いた。
彼は今日、そうしたと言ってきた。私は今、ハウテン教授は何が起こったかを知って、C.のことを(だらしない奴ではないかと)恨んだりしないだろうと思う。 C.は今年はより良くなっていると思う。彼は自分の仕事に興味があるようで、テストも絵もいい点数を取っている。
全体として私はこの一日を楽しんだ。落胆することも少なくなった。しかしひどく充実した一週間で、私はとても疲れている。月曜の夜、練習。火曜日の夜の練習。水曜日の午後はユニオンでWMS、木曜日の午後は地元の研究所の会合で、私は朗読をしなければならなかった。夜、私はAberfoyleまで32マイル走りPuslinch Institute(文学研究会)で演説をした。金曜日の午後はアングリカンバザーで、今夜は(芝居の)練習だ。金曜日はトロントに行く。今日は快適だったが、あとはすべて義務だった!!!?

1931年11月9日(月曜日)
牧師館、ノーヴァル
今日、マーガレットから手紙と、マリオンからのメモがあった。土曜日に胆のうの手術が行われるとのことでした。だから、もう終わったことなんだけど、これから結果を聞くのはまだ数日後だ。私は苦々しい思いでその結果を待っている。私はとても心配している。お医者さんが思っている以上に深刻な内臓疾患が見つかるのではないかと心配だ。
マーガレット(モンゴメリがキャベンディッシュを離れる時にいた牧師夫人)から長い間連絡をもらっていなかったので彼女の手紙を歓迎した。しかし彼女はあまり幸せではないようだ。昨年の夏にモンタギューを離れ、アルバートンの近くの古いメソジストのコミュニティに行き、駅から7マイルのところにある古い「牧師館」に住んでいて、水も衛生設備もない。ジョン・スターリングがマーガレットをその年齢でそのような場所に引きずり込んだことは非常に残念なことだ。彼は「そこに行くのが義務だと思った」のだ!
だがもう若くはない妻に「義務」はないだろうに。私はJ.S.が好きだが、時には喜んで沸騰した油の中に彼を沈めたい時もある。
今日、ルーシー・L・モンゴメリの訃報に接した。共であり長年の文通相手であった。彼女は85歳で、以前から病気を患っていた。私は彼女の手紙が恋しくなり、このニュースを聞いて退屈な一日が少し寂しくなった。

1931年11月10日(火曜日)
牧師館、ノーヴァル
昨夜、とても不思議な夢を見た。黒い牛に追いかけられたが、ついに逃げおおせたという夢だ。黒い牛はスコットランドの古い死のシンボルである。マートルと何か関係が? 
今夜、ユニオンでの(退屈な)演劇の練習から帰宅した直後、私は黒い牛に警戒された。劇の練習から帰宅した直後、電話の音に驚かされた。11時に電話が鳴るというのは、ここではとても珍しいことだ。P.E.I.からの悪い知らせの電報だったのだろうか? 受話器を取ると足が震えて立っていられなくなった。しかしただのトロントのバカからの電話であった。 トロントのバカが、バカな会合で演説してくれと電話してきただけだ。私はどんなに楽しかったか。「ノー」と答えるのが楽しかった! 
さてそろそろ腰を据えて、S.S.(クリスマスコンサート)のコンサート・プログラムに取り組まなければならない。昨年のデイヴィス夫人の騒動を思い出すと、私はこのコンサートがとても怖くなる。しかしやり遂げなければならないのだ。

1931年11月12日(木曜日)
今日はオンタリオが11月と12月に独占しているような、暗い朦朧とした一日だった。一日の大半はハイドロ(電球のこと)をつけなければならなかった。私は昨夜はあの電話のせいで、昨夜はよく眠れなかった。しかしメールに嬉しい知らせがあったんだ。マリオンからの手紙によると、手術は終わり、医師は成功したと考えているそうだ。これで一安心だ。この秋はいろいろと不安や心配事が多い。

1931年11月18日(水曜日)
11月に入っても暗く冴えない、しかし非常に穏やかな日が続いている。この季節の開放感には驚かされる。庭にはマリーゴールド、スカビオサ、ルピナスがまだ咲いている。今朝はまた嫌な衝撃を受けた――電話機に電話がかかってきた。ミセス・ユアン・マクドナルドに電報です! トロントからですか。いいえモントリオールです! A ビジネスの電報だ。しかし1日は慌ただしかった。
そして別の仕事に関する心配な手紙に悩まされた。不況と言われる昨今、配当が悪くて私のビジネスレターのほとんどは、落ち込んだり心配になったりするものだ。私が多額の投資をしているアソシエイト社なら、11月1日の配当は可能であっただろう。そう願っていたが11月1日の配当は無理だろう。この秋から冬にかけての快適さとつまらなさの差は、この配当で決まるはずだった。(好きなことに使えるかどうか)

1931年11月22日(日曜日)
今日、庭でマリーゴールドとルピナスの花束を摘んだ。レタスやジプソフィラなど、自分で蒔いた種があちこちに咲いている。一年に二度も春が来るのは良くない兆候だそうだ。でも私にとっては今は良い兆候はないようだ。今日の午後は暗くて陰気だった。一人で座っているとリースクデールの日曜日の午後を思い出す。リースクデールでの日曜の午後、メイドが家に帰り、私は二人の子供と二人きりだった。床で海賊ごっこをしたり、寝そべって本を読んだりしていた。私はそこで孤独な日曜の午後を過ごしたことはほとんどなかった。でも今は家に帰っても子供たちはもういない。日曜の午後は別の場所で過ごすことにしている。しかしだからといって、この苦い思いが軽減されるわけではない。

1931年11月27日(金曜日)
月曜日の夜、私はモントリオールに行き水曜日の夜までそこにいた。私は楽しい時間を過ごした。とても楽しくて、すっかり元気になって、1分1秒を楽しむことができた。本当に私に必要なのは、ちょっとした楽しい交わりと、単調で絶え間ない "教区" の仕事から解放されることだ。
私はR.N.テイラー夫妻のところに滞在した。テイラー夫人はCh townのマリアン・サザーランド(Marian Sutherland)である。彼女は当時、島の美人の一人だった。私が初めて彼女を見たのは 西部へ向かう途中、ロバートおじさんの家に行ったとき彼女もそこにいた。私が今まで見た中で一番きれいな女性だと思った。その美しさは今はもうほとんど残っていない。それは色彩の問題が大きい。しかし彼女は「いい女」であり、楽しい家庭を持っている。私は彼女の贅沢さに屈して、水曜日の朝、ベッドで朝食をとった(どうぞどうぞ、お運びしますのでベッドで召し上がってくださいましと)。それは気分が悪くなったり怠くなったりすることだ。
火曜日はプレス・クラブ(記者クラブ)主催の楽しい昼食会に出席した。プレス・クラブが主催する昼食会と、マリタイム・クラブの役員たちが主催するお茶会に出席した。夕方には海事婦人会で講演し楽しい夜を過ごした。お会いしたのは旧友や旧友の娘さんたちである。そして私に話をしに来た女性たちの中に、私の知っている顔があった。マクドナルド・カレッジ(フレデが勤めていた学校)のフェルプスさんだ。彼女に最後に会ったのはフレデが死んだときだった。なんということでしょう。その夜の楽しみの中ですべてがよみがえり、私の心を引き裂いた! 
水曜日の朝、私たちは山々をドライブした。サンライフビルで昼食をとった。ある部署の責任者だが。いい奥さんを亡くした人がいるんだね。サンライフの社長である偉大なT.B.マコーレー氏と昼食を共にし、ビル内を案内してもらった。 その建物は実に素晴らしいもので、洗浄された空気を吸っている。この巨大な巣箱で働く3000人のために、病院、休憩室、ジム、ラウンジ、カフェテリア、肉屋などがある。
水曜日の午後は作家協会のモントリオール支部が私のためにお茶会を開いてくれたのだが、それは他のこのような催しと同じだった。しかし私はそれを楽しんだが。結局のところ、それはライオン化される(王者のように持ち上げられる)のは嫌な感覚ではない!

昨夜帰宅して、急いでユニオンでの演奏練習に出かけなければならなかった。そして今朝、郵便受けには憂鬱な手紙がたくさん届いていた。そのうちの一通が新たな悩みと屈辱をもたらした。詳しくは言えないが。そして別の会社が私の750ドルの英国ロイヤリティ(イギリスでの本の売り上げの印税)は、為替と所得税で469ドルにまで減額された。
またジョー・マクルーアという優秀な部下が脳卒中か何かで倒れたんだ。ジョージタウンの友人の一人が自動車事故を起こし人を殺して過失致死罪で逮捕された。このようなことがあっても、元気づけられるようなことは1つもない。私は最も不幸で苦しい一日を過ごした。今夜は眠れないだろう。特にS.S.の練習が終わったらね。
しかし人が恐れるようなことはいつも起こるとは限らない。S.S.の練習は、摩擦もなくスムーズに進んでいる。ミセス・デイビスは、昨年の癇癪持ちから一転して天使のように優しく助けてくれている。だから人はこのような小さな慈悲にも感謝しなければならない。

1931年11月28日(土曜日)
オンタリオ州ノーヴァル、牧師館
神経をすり減らしながら退屈な仲間をもてなす厳しい一日だった。天気は最悪で、寒く、暗く、生暖かく、暖炉は作動せず、家中が寒かった。家中が冷え切っていた。
昨夜は全く眠れず、取り憑かれたように絶望的な気分になった。私は月の時間を間違えて生まれてしまったのだと思う! お金を貸した別の友人からの手紙。今年の利息は払えない。誰も払えない。いろいろな友人に1万ドル以上貸したが、彼らは利子も払ってくれない。元金については、明らかに贈与とみなしているようだ! もし私が1セントも貸さなければ、この秋、小銭を数えることもなかっただろう。
ウィル・クックはリリー・マイヤーズと結婚した。彼女はウィルの先妻の死後、彼のために家を守ってくれている。いつかは子供が生まれる予定だ。私はいつも何が起こるかわかっていた。どうなるかわかっていた。ウィルはよくぞここまで持ちこたえたものだ。彼は結婚式以来ずっと ''憂鬱'' で、仕事もしない。その結果、彼も私に借りたお金の利子を払えなくなった! 彼の家族はこのことで心を痛めている。若い娘になんてことをする母親なんだ! リリーのことをよく知っている私なら、風刺的に笑うことができる。しかし彼女は労働者だ(働き者ではある)。ウィルがスランプから脱することができれば、その線でウィルの助けになるはずだ。しかしかわいそうなことに、彼女は真実を語ろうとしても語れないのだ。

1931年12月1日(火曜日)
牧師館、ノーヴァル
今日一日、私の神経はとても悪かった。株式市場のニュースも悪かった――メアリー・ビートンが胆石の手術を受けた。しかし、もし彼女が回復すれば、これは良い知らせになるはずだ。彼女は何年もひどい発作に殉じ、心臓が悪いので手術をするのを恐れてきた。
ユニオンの演劇クラブは週のうち4晩は練習をするつもりだ!!!

1931年12月4日(金曜日)
私の神経は相変わらず悪いままだ。日中はそれほど我慢できないほどではないが、不思議なことに顔面の灼熱感や刺すような感覚が、飛び回るブヨのように私を悩ませる。しかし夜になると神経不安がひどくなり、持ちこたえるのに苦労するほどだ。ベッドに横になっても昨夜は眠れなかったので、「柳に風」を読んだ。ありがたいことに私はまだおとぎ話を楽しむことができる。しかもこの種の作品の中で最も楽しいものの一つである。
日々あらゆる種類の「小さな悪い知らせ」があり、それを打ち消すような明るい話題や楽しい話題は何もなく、退屈な日常が続いている。私は、最初はひどいインフルエンザのひどい発作と戦いながら、克服してきた。ありがたいことに、私はこのような発作を食い止める治療薬を見つけたのだ。発作を防いでくれる治療薬を見つけたことに感謝する。ここ数年、私は毎年3、4回かかっていた。私の神経の状態は、これらの発作が私の体内を毒で満たしたためだと思う。
治療法は簡単だ。風邪の最初の症状が出たときにレモン1個分の果汁に小さじ1/2のソーダを加え、グラスに水を半分ほど入れて発泡しながら飲む。レモンが手元にない場合は、小さじ1/4杯のタルタルクリームでもよい。これを症状がなくなるまで2時間おきに繰り返し、その後数日間は外出に注意する。その効果は、私にとってはほとんど魔法のようだ。繰り返しているうちにその力が失われないことを願っている。
多くのレメディー(民間療法)や薬剤がそうであるように。世界中が借りたがっているようだ。私のところにも、半ダースもの人が借金を申し込んできた。中には断りたくなるようなものもあった。しかし、私は貸すものがなく断らなければならなかった。幸運なこと友人にお金を貸すのは悪いことだとわかったからだ。というのも友人にお金を貸すのは商売にならないからだ。
夕食後、私は数分間横になって、ベンソンの楽しいミス・マップを読んだ。愛しいラッキーは私の胸の上で鳴き、ときどき顎にキスをしてくれた。私はラッキーとミス・マップとともに、夕方までずっとそこに居心地のよい状態でいたいと思った。しかし私は起きてユニオンに演劇の練習に行かねばならなかった...練習は私にとって悪夢だった。いつでも楽しいわけではない。一人のバカな若者がいて、いつもゲラゲラ笑っている。他のみんなを笑わせようとするんだ。彼に「やめてくれ」と言っても無駄なんだ。劇の夜には、彼は裁判官のように重々しくなって、かなりうまくやるだろうと思っている。しかし彼はその愚かさによってすべてを妨げてしまうのだ。今夜は我慢するのが二重に大変だった。我慢ができない。私は本を投げ捨ててこう言いたい気分だった。
「若者たちよ、私は自分の楽しみや利益のために、毎晩ここに来て君たちを訓練しているのではない。君たちにできることは芝居に真剣に取り組み、馬鹿を演じ続けることなく、それをやり遂げることだと思う。せめてもの救いは、芝居に真剣に取り組み続けることだ。そうでないなら私は帰りますよ」
しかし、もちろん私はそうしなかった。私は自分の人生において素晴らしい外見上の忍耐力を獲得したのだ。!

1931年12月11日(金曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
昨夜は「一睡も」眠れなかった。何事も神経を休めることはできない。しかし不思議なことに今日は久々に気分が良かった。それは天の恵みだった。というのも、S.S.(クリスマスコンサート)のツリーに飾るプレゼントを買うためにトロントへ行かなければならなかったからだ。私はこの仕事が嫌いだ。一日中雨が降っていたので快適なドライブもできなかった。私も家族へのプレゼントは可能な限り細いものを買った。初めてのクリスマスだ。この先どうなるかは神のみぞ知る。世界恐慌の終わりは見えず、それどころか事態はこれまで以上に暗く迫っているように見える。ドイツで何が起こるかは誰にもわからない 改善されることはない。ドイツは1914年に世界を破滅させたが、1932年にもまた破滅させる可能性がある。しかし愚かで盲目的なベルサイユ講和は、ドイツと同じくらい責められるべきものだ。

1931年12月13日(日曜日)
二晩ぐっすり眠れたのでとても気分がいい。私に必要なのは十分な睡眠だと思う。しかし今日は3回目の暗い霧雨が降るどんよりとした日曜日で、私の魂はいろいろなことに反抗した。しかし今夜は「Lady Into Fox」を読んで面白がっていた。かなり狂気の沙汰だが、狂気の沙汰にしては意外によくできている。

1931年12月19日(土曜日)
おかげさまで秋の一番大変な週が終わりた。月曜日は一日中働いて、劇のドレスリハーサルのために準備した。火曜日の午後は、私たちのW.M.の年次総会があった。そして火曜日の夜、劇を上演した。彼らはよくやってくれて素晴らしいものになった。しかし私は1時に家に帰ったときには眠れないほど疲れていた。水曜日の夜はコンサートのドレスリハーサルを行った。木曜日は私は少し書く時間があった。そして木曜日の夜、シャーロット・マクファーソンと私はプレゼントにラベルを貼った。
昨日の午後、息子たちが帰宅した。チェスターが「Gee、チェスターが私にキスをしながら「お母さん、きれいだね」と言ったのが今週起こった唯一の嬉しい出来事だった。しかし、オーストラリアは、このような事態を招いた労働党政権を退け、世界を正すための新たな一歩を踏み出した。やれやれ、なんという疲れだろう! でも、この世界にはまだ猫がいるんだ。賛美します!

1931年12月26日(土曜日)
クリスマスが終わってよかった。この一週間は私にとってはどんよりとしたものだった。この一週間はずっと退屈だった。体調もすぐれず、昼も夜も何かに対する恐怖に取り憑かれているようだ。生きることすべてが恐ろしく怖いのだ。これは全部神経衰弱だ。このような発作は何年も前に故郷で恐ろしい冬を過ごして以来初めてである。
チェスターは今期は去年より良くなっていると思う。彼はすべてのテストがうまくいったようだ。テストは1つだけで、その1つは去年合格している。彼は自分の勉強に本当に興味を持ち、把握しているようだ。しかし昨年、私は彼に対する信頼を失い、それを回復することができなかった。私の「恐怖コンプレックス」の一因は、昨年のように非行審議会からまた手紙が来るのではないかという理不尽な恐怖にあると思う。私は神経が弱いので些細な心配事が全てに大げさに影を落としてしまうのだ。
このところ夜は悪夢のようで、眠れないし考えることもできない。夢を見て現実逃避することもできず、ただ心身ともにひどく不安定を感じている! このような状態が続く限り、この日記を書くことをあきらめようと思う。憂鬱や悩みを書き続けても、その影を照らすような面白いもの、楽しいもの、ユーモアのあるものがないのだから。

1932年

1932年1月2日(土曜日)
新年のあいさつをするのは嫌いじゃない。あまりに馬鹿にしているようにしか聞こえない。私はこのままではこの日記を書くのはやめようと思っていた。この日記を書くのをやめようと言った。でも無理なんです。ここに書くことが習慣になっているので苦痛なく省略することはできない。それに他にどんな憩いの場、交友の場があるのだろう。
月曜の夜、私はいつものように聖書クラスをもてなした。そして火曜日の夜には楽しい時間を過ごすことができた。B(バラクロウ)さんの誕生日ということで、グレンハウスで夕食をご馳走になった。Bさんがいつも作ってくれる宴会があり、素敵な夜が続いた。スチュアートはいつも通り優雅で魅力的だった。B夫人は「なんて素敵な人なんでしょう」と言った。チェスターは以前より親しみやすくなったようだ。月という砂漠の中の緑のオアシスであり、人生は再び美味しくなった。
しかしそのツケが回ってきたのだ。水曜日のことである。眠れなくなった。木曜日の夕方、T夫人(メイド)は新年を迎えるために家に帰った。そして1932年1月1日(金)、私たちは目を覚ますと、かなりひどい状態になっていた。本当にこれほど、昨日ほど地獄のような一日はなかったと思う。この日が1932年に起こることの象徴でないことを祈りたい。"悪い始まりは良い終わりをもたらす" という古くからの諺を信じよう。
私たちが目を覚ますと、オンタリオ州は過去最悪の氷河期に突入していた。氷の嵐に見舞われていた。木、ワイヤー、フェンス、すべてが氷に覆われ氷雨が降り続く。凍てつくような雨が降り続く。10時、新年の夕食をオーブンで焼こうとしたとき水力発電が止まった。それ以来水力発電は一度も作動していない。昼も夜と同じように暗い。私たちは2つの古い石炭油ランプとろうそくでしのいでいる。でもお正月にはゆで卵の夕食を食べたよ! 古い石炭レンジがあるが、オーブンは錆びていてまったく役に立たない。でももちろんその上で料理はできる。
でもお正月だからね。お店は閉まっていて何も手に入らなかった。よって、卵!!ありがたいことに、家にはたくさんあった! しかしトイレや水道の設備もハイドロ(電気)と一緒にエンジンが使えないから使えない。古いポンプに頼ることができたのはよかった。私の頭は一日中変だった。これほど冴えない正月を過ごしたことはない。電話ももちろんダメで、新聞の被害状況を見る限りしばらくはそうなりそうだ。芝生の上にある大きなカエデの1本が2つに割れて、運良く家から離れた。
今週のある日のアイランド紙には、バンクーバーに住むベイフィールド・ウィリアムズがバンクーバーで亡くなったという記事が載っていた。
私は37年前に思いを馳せた。ある夏の午後、私はエラズリーで路面電車を降りた。粋な若者が歩み寄り、私に名刺を渡してくれた。E. ベイフィールド・ウィリアムズだ。そして彼の連れである金色の髪の可愛い女の子、イーディス・イングランドを紹介した。私たちはミラー氏の家まで陽気にドライブした。イーディスと私はあの日から仲良しだ。そして今は...2人とも死んでしまった。かわいそうなベイフィールド。チャンスはいくらでもあったし。明るい未来もあった。賢くて教養もあり人気もあった。でも全てを投げ捨て人生を台無しにし、酒でイーディスの心を傷つけた。彼は自動車に轢かれて死んだ。イーディスは溺死した。奇妙に思えるが 二人とも激しい死を遂げたのだから。

1932年1月9日(土曜日)
オンタリオ州ノーヴァル、牧師館
先週の日曜日の午後、48時間以上不在だったハイドロ(電気)が点灯し、私は喜びで踊った。しかしこの1週間はずっと電話が使えず、いろいろと大変だった。
チェスターは月曜日にトロントに戻った。私はこの連休中ずっと、毎日手紙が来るんじゃないかと半信半疑だったんだ。というのも彼は今学期は本当によくやっていたようだからだ。仕事にも興味があるようだし...。
スチュアートは水曜日に行ってしまい、それ以来人生は11月に雪が降る前に世界を覆うような、冷たい灰色の光に包まれているようだ。
オールド・タイム・ナイトのための劇の練習を始めたんだ。私はそのことに何の思い入れもない。私たちはミスター・グリーンウッドが恋しいのだ。でも今は何もする気が起きない... やることがたくさんあるんだ。ギルドペーパー、オールドタイムコンサート、W.M.S. コンサート、ユニオンの劇を他の場所で上演すること、特別な祈りの祭典、神さまがより傾いていること。祈りの祭典― 神さまは自分たちの補助団体で静かに行う祈りよりも、3、4つの教会が集まる特別な集まりで行う祈りのほうが、叶えようとされる。
地元の補助団体の幹部会では、接待や昼食会が行われるのだが、それを考えると気が滅入る。そのことを考えると気が散ってしまう。もし私が元気であれば、そのために蟻地獄のような計画を立て、すぐにでも完成させることができる。しかし今のところ1月と2月を生き抜けば、何も私を殺すことはできないし、私を狂わせることもできない。半年くらい休んだほうがいいのだ。泣いたり笑ったり、悪態をついたりできるような6ヶ月の休息があってもいいはずなのに6時間の休息さえも得られない。セラー。(なるようになれか)

1932年1月10日(日曜日)
最近、ケイト・ダグラス・ウィギン(少女レベッカの作者)の自伝『私の記憶の庭』を読んでいて、彼女が学校の先生と、私の「イズ」の体験によく似た体験をしたことを知り、とても面白かった。私の「イジー・ロビンソン」とよく似ている。彼女が語るイジー・ロビンソンの描写は、この時の教師は、痩せていて、帆が高く、批評家だった。彼女の冷たい青い目の視線は、人の骨髄に突き刺さる「彼女の唇は甘美というには薄すぎた」。この教師はケイトが憤慨するような仕打ちをした。後年ケイトが作家として成功したとき、ミス "X" は再び彼女の前を通り、"ケイト・デア" に向かって "a" と言った。"彼女の声には今までなかった蜂蜜のような抑揚があった"。(驚きの調子があったのか)
しかし、ケイトは同じような状況に陥った私よりも少し気骨のある人だった。彼女はX嬢に、古くからの恨みを晴らすかのように、小さく丁寧なパルティアンショット(弓術に例えて短い皮肉を放った)を施した。恨みを晴らしたに違いない。そしてアール・グレイにも会ったが、それは彼が主宰する演劇のコンクールで審査員を務めたときのことだ。彼女はリドー・ホールで1週間過ごした。でも家の階段で一緒に座ったとは思えない。アール・グレイと一緒に水洗トイレの階段に座ったとは思えない。少なくとも彼女はそう言っていない。

1932年1月12日(火曜日)
牧師館、ノーヴァル
東風の吹く灰色の日、悪い知らせがあった! カナディアン・アソシエイト社の新社長であるテイラー氏が来ていた。現地は大変なことになっている。どうなるかは神のみぞ知る。私にとっては経済的な破滅を意味するかもしれない。その原因は間接的には29年の株式市場の暴落に起因するものだ。私は当時は株に手を出していなかったので、暴落も何の意味もないと思っていた。前大統領のドーソン氏は誰もが有能な人物だと思っていた。しかししかし、彼は愚か者にもほどがあり、会社を恐るべき混乱に陥れた。
テイラー氏が去った後、私は一日中役に立たなかった。夕方にはディボーション・ギルド(献身の会)に行かなければならなかった。夕方にはディボーション・ギルドに行き平静を装っていた。
郵便局でチェスターからの手紙を受け取ったが、臆病者なので開けられなかった。でもその手紙には彼が学校に戻ったときに受けた鉱物学の試験のことが書かれているかもしれないと思い、あえて読まないようにした。寝不足にならないようにあえて読まなかった。でも読んだほうがよかったかもしれない。とにかく神経が落ち着かずひどい夜だった。暗闇の中ではすべてが絶望的に思える。今朝チェスターの手紙を開けたら、いい知らせが書いてあった。彼は試験に合格して、しかもあるテストでは95点を取ったという。
その上、私が戦々恐々としていた会社が、四半期ごとの配当金を発表したんだ。

1932年1月24日(日曜日)
牧師館、ノーヴァル
退屈な灰色の雨の日、眠れない夜、心配事、100のことをするための絶え間ない努力。葬式......バムが燃えた......遊びの練習......神経が高ぶる......絶望的なスペインとドイツの赤の脅威......そんな一週間だった。
この一週間を振り返ってみよう。そして明るいことや楽しいことは何もなかった。まあ、ほとんど何もないのかもしれない。私は「ボニー・ブライアー・ブッシュ」と「オールド・ラング・サイン」を読み返し、その魅力に取り憑かれたように悩みも忘れた。なんとい楽しい本なんだろう! なんて楽しい本なんだろう! なんと口の中にいい味が残るんだろう! あなたは感じる。世の中にはまともな人もいるんだ、みんな "エルマー・ガントリーズ" (ペテン師の説教師)じゃないんだ、と。
「ウィリアム・マクルーア」と「エルマー・ガントリー」を同じ世界に想像するのは奇妙なことだ。しかしどちらも存在するのだ。しかしマクルーアについて読む方がよほど楽しい。スコットランドの田舎暮らしのこの物語は、奇妙なことに、私が子供の頃に住んだキャベンディッシュと同じ風味を持っている。その記憶は私の記憶の中で銀色の月明かりのようだ。 雰囲気は同じで背景もよく似ている。そして、本を読みながら、私は赤(共産主義)も静電気も戦争負債もヒトラーもない世界に戻っていた。
最近読んだ本に、1830年に生まれ1913年に死んだ人は、これまでの世界史の中で最も幸福な時代に一生を送ったことになるという文章が書いてあった。それは本当だ! という羨望の念を抱くことがある。母や祖母の世代の女性たちを羨ましく思うことがある。彼女たちが生きてきた社会は何の疑問も持たれることはなかった。 ――宗教、政治、社会......すべてがきれいにマッピングされ、整理され組織化されていた。
そして私の世代! 私たちは何を見なかったのだろうか? かつて私たちが動かせないと思っていたもの(古い常識)すべてが、その台座から引き剥がされ廃墟と化した。私たちの古いこれまでの基準や信念は一掃され、世界全体がひっくり返りかき乱される。疑心暗鬼と混乱と不安の渦に巻き込まれるだけだ。このような時代は必ずやってくるものだと思うが、そのような時代に生きることになった私たちは不幸である。

1932年1月31(日曜日)
牧師館、ノーヴァル
とても憂鬱で、心配で、不幸な1月が終わった。2月も同じようなものだろう。"前へ、未来は見えないけれども、推測し、恐れる"
今週は「The Way Of All Flesh」を再読した。いつも不思議に思うのだが、このような本もボニーブライヤーブッシュを楽しむように、それなりに楽しむことができる。しかしでもおいしいメープルシロップとグリドルケーキが好きな人はカクテルも好きなはずだ。"それぞれの聖者に、それぞれのキャンドルを"(どんな本にも光る部分はあるという事)
この1週間は単調であったが、水曜日の夜に悪夢のようなバラエティがあった。エリンデールでユニオン劇を上演することになったのだ。ジャック・クックが私を連れて行くと言い出した。ユアンが劇を見るのが嫌で行きたがらないのを知っていたので私は同意した。7:30には到着したかったので、ジャックは7時に迎えに来ることになっていた。しかし彼は8時20分まで来なかった。Billy CookeとWill Townsendは彼と一緒だった。私たちはハイウェイを猛スピードで駆け抜け失った時間を取り戻そうとした。
ブランプトンでジャックはガソリンスタンドに立ち寄った。ホイールからネジやナットが外れているのを発見した。ガレージ(修理屋)のおじさんはそれに合うナットを探そうとしたが、しかしどうにもならない。30分ほどナットを試してみたがダメだった。あきらめることにした。車輪を固定するために釘を打ち込んだ。この間、私はずっと焦りを隠して身悶えしていた。出発したのは9時20分だった。エリンデールからまだ14マイルの地点で、劇は8時30分に始まることになっていた! 私たちは疾走し、私の思いは釘で固定された車輪のことを考えても、神経を痛めたときの万能薬にはならなかった。私はこのままではディトシーに着地してしまうと思った。
しかしそんなことはなく9時にエリンデールに到着した私たちは、焦った観客と何を考えているのかわからない半狂乱のキャストを見つけた。一体どうなってしまったのだろうと半狂乱になるキャストたち。その後、準備のために慌ただしく動き回り、厳しい寒さの通路で夕方まで待機していた。劇の後の昼食はお粗末なものだった。その釘がまだ忠実に車輪を世界に繋ぎ止めている状態で家まで運転して帰った。
夜20時1分、階段を上ると、ユアンがベッドでくつろいでいた。「この後も劇をやるときはあなたが私を連れて行ってほしい」。と私は不吉なアラム語で彼に言った。"金輪際 こんな夜は二度とごめんだ" と。
中国と日本の間で戦争が勃発した(満州事変)が、これは泥沼化した世界を解決する助けにはならない。ある種の素朴な人たちが、私たちは最後の日に生きているのだと考えるのも無理はない。ある意味私たちは末期に生きている。それは数世紀にわたって世界が機能してきたシステム(帝国主義時代)の最後の日であり、墓場に向かってよろめきながら進んでいる。結局のところそのシステムには問題点があった。その後に何が起こるかは誰にもわからない。
今日、Mary RinehartのTishの本を読んでとても笑ったので、神経衰弱の気分がかなり和らいだ。神経衰弱を感じなくなった。それに昨夜はまた奇妙な象徴的な夢を見た。私の解釈が正しければいい夢だった。しかしここで疑念が生じる。前例があってそれを全面的に信頼することはできない。でもそのおかげで元気が出た。不吉な夢は実現した。私は、「元気な予兆」があればそれを信じてはいけないのだろうか?

1932年2月7日(日曜日)
オンタリオ州ノーヴァルの牧師館
私は、昨日イゾベルが訪ねてきてくれたおかげで助かったが、ひどい風邪で忙しい一週間を終えた。彼女は冬の間ずっと来たがっていたのだが、私はある言い訳をして彼女を遠ざけてきた。「この冬は神経衰弱と不安で心配な冬だと思ったからだ」と言い訳して彼女を遠ざけてきた。神経衰弱と不安のこの心配な冬に、彼女は本当に最後の藁(頼み)となるだろうと思ったからだ。しかし昨日とうとう彼女を連れてきた。風邪の症状で悪化した惨めな退屈な一日を過ごした。
私は寝ているべきだった。私は彼女に楽しい訪問をさせようと最善を尽くしたが、それは困難な作業だった。丘の上の仕事だった。彼女は何も話すことができないのだ。一日中このようなことが続くと、私はほとんどジッター(ふるわせ屋)になりそうだった。彼女が夕方のバスで帰っていったとき、私は思わず感謝の祈りを捧げた。あの娘は、私にとってまさに「海の老人」になりつつある。あの娘には、あえて失礼な真実を教えてあげたいものだ。しかしその結果が本当に怖い。あの子を狂気や自殺に走らせるのにさほど時間はかからないと思うんだ。私はこんなことをされなくても、自分のことで十分な悩みを抱えているはずだ。こんなことをさせられてはたまらない。

1932年2月11日(水曜日)
今日は何の励みにも元気にもならない日だった。まったく逆だ。エドガー・ウォレスが死んだ。疲弊した世の中を和ませ、苦しみを少しでも忘れさせてくれる「スリラー」はもうない。私は個人的に喪失感を感じている。それからイゾベルからの手紙もあった。これは私が自分の問題を誇張していないことを子孫に証明するためのものである。(以下イゾベルの手紙)
 
『1932年2月8日、親愛なるマクドナルド夫人へ:―。これが私があなたに書く最後の手紙なので、もう一度だけあなたが決して知ることのできないことを話してみようと思います。あなたが決して知ることのないことを伝えようと思います。それは私があなたを愛しているということです。魂を込めてあなたを愛しています。永遠はあまりにも短く 私の愛情を表現するにはあまりにも短い。なぜなのか理解できません、その華やかで甘美な日のために生き、働き、耐えてきたのに、なぜあなたを手に入れるために、あなたを手に入れることができるのに、なぜ涙と失望しかない心で、その日を迎えなければならないのか。なぜこの期に及んで、あなたから遠ざかる必要があるのだろう。どうして最初より遠ざかるのでしょう。小さな少女時代からあなたを崇拝してきたのになぜ私は少しは本物の愛で報われないのか? あなたは私を愛していると言う。私はそれを信じません。息子と猫以外を愛しているとは思えない。息子たちや猫、それにご主人を愛しているのでしょうか? でも実を言うと、夫のことを考えると、想像はいつも星に絡め取られてそれ以上進まない。それ以上のことは考えられません。あなたは猫を愛している、彼はそれを知っている。あなたはキスをする。猫に2つのキスをする。 ―でも、飢えた心には一片の愛もない。
あなたはあまりにも長い間それを懇願してきました。あなたはまるで素敵な宝石のような輝きを放ちながら、その心は冷たく残酷なほど硬い。あなたは素敵です。私はそんな目の保養をしました。あなたは本当に美しい女性です。あなたは今までにないほど美しい。あなたは美しい目をしている、そして空気と肌、甘い甘い口、花のようにきれいな顔。全体が絶妙に可憐な気品に包まれています。そしてこんなにも豊かな個性がある。あなたは私が心を痛めるほど素敵な人です。あなたは私のことをよく考えてくれていた。私はあなたに話すことができたし今もそうしている。薔薇の花を咲かせるために私が必要とするすべての回復剤は、あなたの小さな落ち着きのない2つの手に握られていることを。彼らはとても魅力的な小さな手です。私は彼らを愛しています。そして私は、私に必要なのは、ほんの少しのあなたの糧だと知っています。私が幸せであれば私は元気です。愛は最も恐ろしい、最も落ち着きのないネット(網)です。私たちを無力な奴隷にし、私たち自身の人格をすべて虜にし 私たち自身の人格を、愛するものの支配的な力の中に沈めてしまう。最愛の人。あなたは私を緊張させ、気まずくさせ、自意識過剰にさせますが、私はあなたの友達になりたいです。友人でありたい。私はいつもあなたの中の何かを崇拝してきた。あなたは本当に私の魂が作られたものだと知っている。しかしあなたへの恐ろしいほどの愛に支配されている間は、決して友人になることはできない。そして私の魂は本当に信じている。唯一の救いは、少しの甘えと満足感だと思います。自分が何を求めているのかわからないが、それが不自然なことではないことだけはわかる; それは、歴史上のすべての時代を通じて、愛が常に要求してきたことにほかならないということです。ただ 昼も夜も私を悩ませる、あなたへの呪われた飢えを、ほんの少し認めてほんの少し満たしてください。誰もがあなたを愛し、あなたを賞賛し、あなたから少しばかり何かを切望している。そして、それをもって自分の道を喜んで進む。しかし私は決して目をそらすことができない。私たちは価値を認めることを厳格に教えられました。そして私にとってあなたは、すべての宇宙の中で最も美しいものです。去年の夏の日曜日の午後、あなたを訪ねた元ブラントフォード人の牧師が、あなたについて書いた文章をご覧になりましたか? あなたは彼が行ったと思いますか? もし彼があなたに恋をしていなかったら、このような文章を書いたと思いますか? 一言一句が愛撫であり、恭しいものであり、憧れに満ちたものであった。憧れで埋め込まれていたのです。いわゆるフリーク(マニア)と呼ばれる人たちが汚れた失望した人生から離れようと、なぜあなたのもとを訪れるのか、私には多少理解できます。その理由は、それは彼らが切望し手に入れられなかったものを、あなたが保持しているからです。憧れているのに持っていない。私は自分が何を求めているのかよくわからないし、それを探し出そうとするには疲れすぎている。しかし世界のどこかにあるはずだ。私はある人を知っている......特に、ある素敵な人を......その人はあらゆる前進に4分の3ずつ応えてくれるだろう。あらゆる欲望を満たしてくれる。幸せで苦痛を感じることもないはずです。飢えを救う唯一の方法は飢えを満たすことです。食べさせることです。
しかしそれはあなたの中にはないのです。あなたは囁くような存在でとらえどころがなく、独占的で、衝動的な存在です。あちこちに飛び回り、エキゾチックな甘さの軌跡を残しながら狂おしいほどの欲望を抱く。あなたは自分の時間や物事に対して非常に無欲で、名声に汚されることもなく、美しく輝いています。しかしあなたは本当に愛を求めてはいない。愛に対してあなたは軽蔑の念を抱いている。そしてもしあなたが、ほんのわずかな広告を受け入れてくれるなら、私の心に重くのしかかっている崇拝をほんの少し受け入れてくだされば、その重荷を払いのけ、あるいは大いに軽くしてくださるのではないかと思います。それは理屈や軽蔑に関係なく存在する負荷だからです。

そうでなくてもあなたにとって土曜日は退屈で、貴重な時間の浪費であったことは知っています。貴重な時間の無駄であり、少なくとも1年間は耐えられないような、乗り越えられるようなものだった。1年というのは長い長い時間であり、春までは長い長い時間です。そしてあなたを他の人と共有しなければならなくなる。そしてあなたにとって今までにないほど愚かなことになるのです。耐えられない。私は人が他人の目に、自分が持っていない美しさや栄光をどのように映し出されるかを知っています。そして、人が常に機械の鼓動を静観するようになることを私は知っているのですがどうにもなりません。あなたは私にとってこの世で最も親愛なる存在です。あなたのような人は他にいません。私はあなたに夢中なのです。私は精神分析を受けて射撃か何かをする必要があるのだろうが、私はそれを助けることができない。もうこれ以上頑張る気はありません。私の訪問に感謝しますし手紙や多くの貴重なものをいただいたことに感謝します。しかしそれにもかかわらず、なぜか私はただ心が痛むのです。最初に言ったようにもうこれ以上あなたに手紙を書くつもりはありません。今まで手紙を書くのが好きだった。しかしこれ以上あなたに理解してもらおうとするのは疲れすぎているし、これ以上書く気になれない。他のことを書く気になれないほど痛んでいる。私はあなたなしで死んでしまうでしょう。あなたはいつも私の人生の中で金色の星のように輝いていた。霧が光を覆い、私は一人でつまずかなければならない。L.M.モンゴメリへの愛のために死ぬ! 栄光と美と名声を手に入れることができる。あなたは否定した。あなたは私が破滅的な愚か者だと思うでしょう。あなたは世界で世界一かわいいと思っている。でもあなたを愛しすぎてはいけないと言うのは無駄なことです、私は愛していますから。それは古くからある哀れな物語で、何も持たない人を愛することに心を奪われるのです。また私はあなたのほんの少しの犠牲も受け入れることができませんでした。そしてこの最後の手紙は、学校で書かれたものである。明るいうちに私は正気であり、冷静であり、私の周りの人間性の塊に邪魔されることはありません。
          敬具
          イゾベル...
 
"私に会う" という、彼女が切望していた "幸福" を少しでも与えようとした私の努力はこれだけだった。彼女が私を退屈させたというのはまったく正しい。私はそれを彼女に見せなかったつもりだ。彼女は、自分の致命的な鈍さが、誰をも退屈させるに違いないと思ったのだろう。この信じられないような泥沼から逃げ出さなければならない。ミス・イソベルに手紙を書こう。彼女に手紙を出そう。もう二度と手紙をくれないといいのだが。しかしそんな幸運は望めない。まったくその可能性はゼロではありません。私はこれまでずっと愚か者を苦しめようと努力してきた。我慢してきた。しかしこの冬はそのような忍耐力は残っていない。心配と恐怖に苛まれている。だから私は「愛せない」のだ。
 そうでしょうか、フレデ?
 墓場からの答えだ。
でもイゾベルが望むような愛ではない、認めるよ。私はレズビアンではない。でも彼女はとても不条理だ。自分を演出するのが大好きなのだ。"愛する人のために死ぬ" "L.M.モンゴメリへの愛のために死ぬ" 幸いなことに彼女がそれを実行する恐れはあまりない。まあ私の若い頃は何人かの男が私を愛していると熱弁をふるったものだ。しかし私は私のために死ぬと脅した人など一人もおぼえていない。しかし、58歳という壮年の私が、哀れなイゾベルにこのような絶望的な情熱を抱かせることができたのだ! フォウ! このようなことは、嘲笑によって浄化されるにはあまりにも吐き気がする。

昨夜はネイトの手紙を読んで眠れない時間を過ごした。屋根裏を物色していたら手紙の入っていた箱が出てきた。読んでいる間は不思議と幸せな気分で、過去に戻るような錯覚に陥った。しかし読み終わるとホームシックで死にそうになった。私が欲しかったのは、ネイトでもなくあの手紙が書かれた時代の私の生活、つまり比較的自由な生活を送りたかったのだ。 ――気を遣うこともなく、シンプルでスリリングな喜びにあふれた生活、 希望と笑いと活力に満ちた人生だ。その手紙は、いや、むしろその背景は、私にある種の絶望をもたらした。あの頃の生活と今の生活との間にあるひどいコントラストを、ある種の絶望感とともに思い起こさせる。
ネイト自身はというと、まるで夢のようですっかり過去の人になってしまった。でも1890年のある夜、ネイトと私が喧嘩して、一晩中眠れずに泣いていたのを覚えている! 今、私が目を覚まして心配していることも、もしかしたら嘆くほどのことではないのかもしれない。ということになるのだろう!
私はネイトを友人として維持できなかったことをずっと残念に思っている。私は彼のことが好きだった。彼のことはとても好きだったし、私たちは知的にもとても調和していた。私は一時期、すべてをうまくセットしていたと思っていたのだがそうでなかった。私はネイトが初めて学校に来た日からずっと好きだった。「新しい少年」「バプティスト牧師の息子」。だったんだけど、彼はそういう感じじゃなかった。彼は9歳か10歳くらいで、全然ハンサムじゃなかった。ネイトは決してハンサムではなかった、気まぐれな笑みを浮かべ、表情豊かな顔立ちをしていたが。しかしネイトは決してハンサムではなかった。その最初の日、彼は色白のそばかすのある若者で、笑うと舌の先を歯に挟む癖があり、いつもボロクソに言われていた。最初ネイトの出現は私にとって何の意味もなかった。彼はバプテスト派だった。私は長老派であった。私たちの間には大きな溝があった。
当時はまだ2つの教派の間の感情は非常に険悪だった。キャベンディッシュのバプテスト教会はその恨みに端を発している。もちろん元々はキャベンディッシュの人々は、マクニールもシンプソンもクラークスも、みな長老派だった。マクニールの3人が、バプテストであったノースリバー出身のドッケンドルフ夫妻と結婚し、表向きはバプテストであったにもかかわらず心は長老派であった。
不況運動がどのように始まったのか私にはよくわからない。あるシンプソン家は、なぜかバプテストの "異端" を受け入れていた。長老教会のアイザック・マレー博士は、人を敵に回すことに長けていた。そして、「ラザロの復活」が、くすぶり続けていた不和を一気に解決した。ある日の夕食時、学校で優秀な若者たちが、ラザロの埋葬と復活物語を "劇" にしたのだ。マレー博士はいつも、この提案を大叔父のデイビッド・マクニールの息子であるアーネスト・マクニールのせいだと言っていた。大叔父デビッド(ドッケンドルフの花嫁の一人)は、このアイデアはジョニー・マレーが最初に思いついたものだと言い返した。いずれにせよジョニー・マーレイはイエスでありアーネストはラザロであった。浅い墓が掘られ、すべての物語が「演じられた」。そして、集まった小学生たちが感嘆の声を上げる中、その物語は演じられた。しかし子供たちがその話を家に持ち帰ると......キャベンディッシュではあることが起きていた。

オールド・キャベンディッシュではドッケンドルフの妻が3人もいて、マクニール家とシンプソン家の旧友たちが、少しは共通の話題で盛り上がっていたら......と思うと胸が痛む。 ドッケンドルフの妻が3人いたのであれば、マクニール家とシンプソン家の老人は、この悪ふざけを幼稚な愛情に過ぎないと見抜いただろう。神聖な題材をレベルまで引きずり込むことを軽く叱責してやり過ごすべき、ドラマチックな物語への子供じみた愛に過ぎないと見抜いただろう。キャベンディッシュにはバプテスト教会はなかっただろう。しかし苦い思いもあった。ドッケンドルフがあり子供たちの子供だましを真剣に受け止める気質があった。
Dr. アイザック博士とD大叔父は二人とも暴走し、D叔父さんは教会に行かなくなり、不仲のシンプソン一家は心理的な隙を突いてバプテストの神学を説く伝道師を呼び寄せた。 ――信じてキャベンディッシュ・バプティスト教会を設立した。キャベンディッシュ・ロードの起点にあるカエデの森の中に小さな建物が建てられ牧師が呼ばれた。バプテスト派のフリーマン牧師が呼ばれ、彼はバプテスト派の中でもバプテスト派だと思うが。浸礼した人以外は天国に行けないときっぱり言い切った。バプテストと長老派は互いに何の関係もなかったのだが、バプテストはあまり深く考えずに、あまり退屈しないように、すぐに自分たちの教会で素敵な催しを始めた。それが何であったかは知らないが、「ビッグ」ジョージ・マクニールとアーサー・シンプソンは2つの派閥のリーダーで、義理の兄弟であったにもかかわらず、生涯敵対し続けた。フリーマン氏はビッグ・ジョージに味方し、アーサーのことを丁寧に「A.(S.)S.氏」と呼び、イニシャルを付けていた。
フリーマン氏のことは全く覚えていないが、後任のウッドランド氏のことはおぼろげながら覚えている。きれいな花嫁を持つ若い男で、ヴルルほど狭量で偏屈でもない。フリーマン氏ほど狭量で偏屈ではなかった。
フリーマン氏が去った後、スパー牧師が妻と赤ん坊の娘、そして妻の連れ子のネイサンを連れてノヴァスコシアからやってきた。ネイトは最初ネイサンと呼ばれていた。14歳くらいになると突然自分の名前を使うようになった。彼の母親はロマンチックな物語のヒロインだった。母親はノヴァスコピアの小さな学校の先生だった。若い船員のナサニエル・ジョセフ・ロックハートと結婚していた。二人は数ヶ月間幸せな時を過ごしたが、その後、彼は南米行きの船で最後の航海に出た。ハッテラス沖でひどい嵐に遭い、船長ともども海に流された。少なくともそれは、乗組員たちは帰国後そう話していたが。しかし、しかし、「フェリックス牧師」は、真相はわからないが、ある種の不正行為を疑うには十分な理由があると書いていた。
一方、ロックハート夫人はネイトの誕生を心待ちにしていて、そのために母の家に帰った。汽車の中で新聞を手にすると、そこには夫の死が書かれていた! ネイトは叔父の詩集を持っていて、それがまた彼をロマンチックな後光に包んでいた。私の目にはロマンスの後光が差しているように見えたわ......。スパー夫人は、ロマンチックな物語のヒロインには少しも見えなかった。彼女は賑やかで有能な小柄な女性だった。地味だが陽気な顔立ちだ。ほとんどのバプテスト(嘘のバプテスト)が彼女を気に入っていた。ただし、彼女を「走らせたい」と思いながら、それができないことに気づいた数人を除いては。私は彼女がとても好きだった。後年、彼女から音楽のレッスンを受けているうちに彼女のことをよく知るようになった。スパー氏はいい人で、梁の幅はかなり広かったが、でも説教壇ではとんでもない人だった。彼の話を聞くのは本当に苦痛だった。しかし彼は良い牧師であった。その頃がキャベンディッシュ・バプティストの最も盛んな時期だったのだろう。

今はほとんど廃れた教会である。彼が牧師をしていた頃、長老派の若い人たちは、日曜日の夜バプティスト教会に行くようになった。そこを社交の場として考えていた。私が行くのを許されるようになったのはずいぶん先のことだ。祖父は私が行きたがるから滅亡に向かうのだと思った。
私が教会に行くのが好きだったのは、神学的な偏見や興味からではなく宗教のためでもない。......それは認めなければならない。私がが好きだったのは、というのもその場所がとても美しい場所だったからだ。窓際の教壇の隅に座って、あの美しいメープルグローブを眺めるのが好きだった。夏の夜には紫色、夏の月明かりには銀色、秋の夕暮れには深紅と金色が、冬の夕暮れには白い絹のような華やかな色がそれぞれ映し出された。私はいつ行っても完璧に幸せだった。後で知ったことだが、ネイトが聖歌隊に座っていて、讃美歌の本を見ながら私をこっそり見ていた。バプテストの女性たちは彼の迷走を激しく憤慨し、私を恨んでいた。
しかしこのようなことは、「新しい男の子」が学校に来たときには、まだ遠い未来のことであった。私はその夜、日記に「バプティストの新任牧師の息子が今日学校に来た。彼の名前はネイサン・スパー。彼はそばかすだらけだが私は彼が好きだ」と。まあ私はずっと彼のことが好きだった。しかし最初の数年間は、彼とほとんど関わりを持たなかった。しかしすぐにわかったことは、私のリーダーシップが危うくなったことだ。それまで授業や試験でライバルがいなかった。私はいつも簡単にリードしてきた。ところがそれを維持するために努力しなければならないことがわかった。ネイトは優秀な生徒で勝つために努力していたのだ。(ネイトというのはギルバートのモデルであろう)
その日以来、私たちの間には完全に友好的なライバル関係でありながら、常に鋭い緊張があった。私たちはかなり相性が良かった。時々、彼は1、2点リードすることもあった。時には私もそうだった。そして私たちは突然、そして一度に、まるでそうであるかのように、私たちがすべてにおいていかに気が合うかを発見した。私たちは何事にも気が合うのだ。私たちは本が好きでその話をするのが好きだった。私たちは野心家でその話をするのが好きだった。
私たちは二人とも人生の呼び声の最初のサイレンの音を聞き始めたところだった(野心が生まれ始める)。私たちは、休み時間に一緒に歩いて話したり、毎晩手紙を書き、文学館から家まで一緒に歩いて帰り、一緒に笑顔で過ごしたり、ネイトが流行りの校歌の小節を口ずさんだときは、とても感動した。 校歌の小節を口ずさんだとき
     そして、ああ、なんと完璧で、なんと神聖なことだろう。
     彼女の貞淑な魅力が自分のものだと思うと
――と、私をまっすぐ見て歌いました! あの世代のバプティストの女子は、今日まで私を許したことがない!」。ネイトはすぐに私に恋した、あるいは恋したと思い込んだ。私はロマンチックに恋をしているわけではないのだが、彼に興味を持った。しかし私がそのような力を持っていることを知ったのは素晴らしいことだった。彼を無視したりすると、ネイトを隅に追いやることができる力を持っていることがわかった。もし私が彼に微笑みかけたり、視線を送ったりすれば、彼の頬を和ませ目を輝かせることができる。そう、とても素晴らしいことなのだ。あの感動をもう一度味わいたいものだ。
そして、彼が私に「キャベンディッシュで一番好きな男の子を教えて」と言ったときが来た。私は、「彼が一番好き」と告白した。これは単純な真実だった。私は彼が好きだった。とてつもなく好きだった。困ったネイトは、私が好きという意味以上に、彼を愛しているという意味だと当然のように考えているようだった。しかし私にはそのような意味はなかったのだ。

私は今夜彼のメモを見て少し微笑んだ。私のことを一番好きなだけでなく愛していると書いてあった。私は少し微笑んだが、いいえ!大いに。あまり笑わない方がいい。私はあの冬の朝、大きな灰色のカエデの下の学校の森で、そのメモに赤面していた15歳の少女を思い出した、そして彼女に微笑みかけることはできない(昔の自分をほほえましいと笑うことはできない)。いや実のところ私は彼女がうらやましいのだ。
「1890年2月18日」、私はその夜、日記にこう書いた。「この日を忘れることはないだろう」。と
しかし残念なことに、もしこの手紙で記憶がよみがえらなかったら、私はそのことを思い出すことができなかっただろう。思い出せなかったかもしれない。しかし私はあの時の興奮と恍惚の代償を払ったのである。その代償は欲しいと思った友情を失い、欲しくもない恋人を手に入れた。私は彼が欲しいと思い込もうとした。ネイトの本気度を知ったとき、私はその冬の間必死に努力した。
ネイトの本気度を知ってから、私はその冬から春にかけて、ネイトを愛している結婚してもいいと自分に言い聞かせようと必死だった。結婚しなければならないと思っていたのだ。今思い出しても、とても笑い話になるようなばかげた話だ。 眠れぬ夜を過ごした。愛していないとわかっていながら。なぜかというと私は彼にキスされるのが嫌だったのだ! 夏の星空の下彼と一緒に家まで歩いた。庭の門の周りの月、葉のささやき、夕焼けの海岸、ああ楽しい(ロマンチックな様子だけなら)。しかしいざ肉体的なことを考えると......この先何年経っても、ネイト・ロックハートと結婚するのは無理だと思った。
ネイト・ロックハートと結婚することはできない。息子のスチュアートより2歳も若いのだ! そうやって心配し、眠れなくなっているうちに......。その時はとても重要なことに思えたし、そうでなかったと誰が言えるだろうか? それはただバプテストの人たちは、私が彼に「夢中になっている」と言った。ネイトは、告白を交わした後しばらくはとても陽気だった。そして私が遠慮していることに気づき始めたのだ。彼はプライドが高かった。何も言わずに颯爽とその状況を受け入れてくれた。
私たちはその夏、単なる友人として別れた。その夏は単なる友人として、私は西へ、彼はアカディア・カレッジへ行った。私たち二人の間に新しい興味が生まれ、私たちの間の距離を広げた。私はそのような状況でもネイトの大学時代の手紙はあまり保管していなかった。そのうちの数枚しか持っていない。私たちの文通は友好的に行われていたときはとても楽しかった。私はネイトを友達にしようとする試みは見事に成功したと思っていた。そして彼がそうでなくなった正確な理由については、私はまだ全く知らない。
彼は91年の夏、キャベンディッシュにいたが、私は彼がアカディアに戻るまで西から帰らなかった。翌年も文通を続け、92年の春、私が帰郷の途につく直前、彼は私に最後の手紙をくれた。その手紙とほぼ同時に彼は島に行くことになっていたので私は返事を出さなかった。彼がキャベンディッシュにいたのは、夏の代理店に行く数日間だけだった。アカディアカレッジに出発する数日前にキャベンディッシュにいた。一度や二度は会ったが昔のような仲間意識はなかった。私たちはもう毎日学校で会うこともなく、所属する教会もセット(教派)も違っていた。私のような立場の人間には、彼に訪問してもらうことは不可能だった。そうしたらバプテストの人たちは、私が「彼を取り戻そうとしている」と言うだろう。ネイト自身もそう思っていたかもしれません。その後、彼はどこかへ行ってしまい、大学へ戻るまで家には戻らなかった。

その時に返事をすればよかったのだろうが、夏の沈黙の後何となく「気が進まない」のだ。なんとなく「嫌だった」のである。彼はまた手紙をくれるだろうと思ったし、私が彼に手紙を出す義務があると思ったのだろう。手紙の借りができたと思ったのだろう。いずれにせよそれで私たちの文通は終わりを告げた。
私はとても残念に思ったが、それを続けようと努力するほどではなかった。というのも、もしそうしたら、彼は私が思ってほしくないことを考えるかもしれないと思ったからだ。翌93年か94年の夏、バプティスト教会でほんの少し会っただけで、礼拝の後、私とルーシーと一緒に歩いて帰っていった。最後に彼がキャベンディッシュに来たのは、96年に学校の試験会場で少し話をしたのが最後だった。その年の秋、SpurrsはCavendishを去った。
次にネイトに会ったのは1901年の晩秋だった。1901年の晩秋、ダルハウジーの "Breakup" で振り向いたとき、驚いたことにネイトがいた。その時ドアの前にいた大勢の少年たちの中にネイトがいたことに驚いた。彼は同じ瞬間に私を見て、昔のようにコミカルに眉をひそめて私を認識した。私は微笑んで彼に手を振った。そして外に出たとき私は彼を探した。彼は私に話しかけようと待っていたに違いない。しかし彼はそうしなかった。そして私は今でも彼がそうしなかったことを忌まわしいことだと思う。正直なところ私は少し傷ついた。2月に入ってから、ある日道で彼に会うと、彼は振り返って私と一緒に下宿に歩いて行った。私は彼に、今度訪問してくれと頼んだ。彼はそうすると言ったがしなかった。
今まで一度も理解することがでなかった。私たちは学生時代の恋愛の後6年間友人だった。96年のあの日、私たちは最高の条件で別れることができた。その時彼が友好的であってはならない理由は私には思いつかない。それから、グリーン・ゲイブルズが出版されたとき、ネイトは私にお祝いの手紙をくれたかもしれないと思った。私は彼とよく話し合っていた昔の野望を達成したのだ。彼は私に善意の作品を送ってくれるはずだと思った。しかしどんな言葉も私たちの間にある "変化の溝" を越えることはなかった。まあほとんど違いはない。ただ最初に言ったように、私は彼の友情を保てなかったことを残念に思っている。
ネイトは一時期シドニーで弁護士をしていたが、あまりうまくはいかなかった。その後ウルフヴィルのメイベル・サンダース嬢と結婚して、サウスカロライナ州エステヴァンに行った。そこで成功したという話は聞いたことがない。ジョン・レアードはかつてエステバンへ走る列車の車掌だった。彼が初めて帰宅したとき、彼はネイトを駅で時々見かけたことがあるが、彼の家に行ったことはなかった。数年後、私は再びジョンに会った。私は彼にネイトの奥さんに会ったことがあるかと聞いた。彼は「ない」と答えた。そして奇妙なことを付け加えた。
"ネイトが西に行ったとき何がどうなったのかわからないんだ。頭が腫れ上がったようだった" その話はネイトがジョンを家に招かなかったということなのだろう。これは奇妙なことだ。ジョンはキャベンディッシュでの親友で、学校でも何年も一緒に座っていた。でもその理由はきっと「頭が腫れぼったいから」ではないだろう。ネイトはそんな子じゃなかった。
なぜ私はこんなことをつらつらと書いているのだろう。ただ寂しくて、ホームシックで、書くのが好きで、あの幸せだったころの出来事や人々のことを考えたかったからだ。ネイトの人生は私の人生と同じように、失敗や成功、喜びや悲しみなど、誰にでもあるコンパクトなものだったと思うのだ。彼には、かわいそうなことに1つだけひどい悲しみがあった。大好きな息子が射殺されたことだ。"フェリックス牧師" がそのことを書いたとき、私はとても傷ついたのを覚えている。その息子は私の息子だったかもしれないのだ。
私は彼の父親を愛していた。私はいつもそれができなかったことを残念に思っている。陽気な仲間だったからだ。どうして私の人生において、一番好きだった男が愛せなかった男だったのだろう!......。(体質か何かの問題)

1932年2月25日(木曜日)
オンタリオ州ノーバル
近年、戦争の愚かさと恐ろしさについて、多くのことが書かれ発表されている。戦争の愚かさと恐ろしさ、そして文明を維持するためには、戦争の可能性をすべて排除することが必要である。少し前に私はある雑誌の記事を読んだ。その中で、「戦争の廃止を求めるのは若者である」という記事を読んだ。この記事の解説として、私は18歳くらいの若い女の子から聞いた話を記録しておく。
18歳の少女には、「戦争」はもちろん歴史の問題でしかないのだが、今夜こんなことを言った。私たちはフレッド・ライオンの家で、終わることのない遊びの練習をしていた。私はメアリー・ライオンズと日中間の混乱について話していたらメアリーが私にこう尋ねた。この騒動は他の国、特にアメリカを巻き込む可能性があると思うかと尋ねた。私はそうは思わないと答えた。彼女は「そうならないことを願うわ」と言った。
"ああ、自分勝手なことを!" と若いマーガレット・レスリーは叫んだ。"私たちのちょっとした興奮を恨んでいるのだろうか? 恨むの?" まあ、マーガレットにはあまり厳しく言わない方がいい。マーガレットにとって戦争は単なる名前に過ぎない。そして1897年のある日、新聞を開いて、アメリカとスペインが戦争中であることを見出しで見て、興奮しすぎたことを恥ずかしながら思い出す。なぜかというと私は興奮したのだ! いや、世界が戦争の廃絶を求めなければならないのは若者ではない。もし、この世代が――あの忌まわしい争いを経験した世代が戦争を廃絶しないのであれば、その望みの完成はまだ遠いところにある。
私は戦争は廃絶されるべきだと考えている。戦争はあまりにもひどく、地獄のようなものになった。人間と人間の間のきれいで迅速な争いではなく、機械的な大虐殺の恐ろしいお祭り騒ぎだ。戦争はやめなければならない。しかしそれがなくなれば、ある種の素晴らしいものも一緒に消えてしまう。偉大な文学も、偉大な芸術も、もう存在しないのだ。これらのものは、神々が戦争の代償として与えたものか、あるいはその根に血の水を与えなければならない生長物である。戦争がなくなれば私たちはそれらを手に入れることはできない。戦争がなくなれば。

1932年2月26日(金曜日)
牧師館、ノーヴァル
この冬には珍しく昨夜はぐっすり眠れた。というのも今年私にピンを刺してきた(目をつけた)権力者たちが、今日も私に仕事を与えてくれたからだ。
エラ・キャンベル(キャンベル家の嫁)から、この冬私を悩ませたある事柄についてとても悩ましい手紙が届いた。心配事といえば私は7つ以上の別々の心配事に悩まされている。不眠症になるのも無理はないだろう。チェスターの大学での進度、来夏の鉱山の仕事の見込み、2つの会社の苦境などなど。 ――私が多額の投資をしている2つの会社の苦境、自分の健康状態、マートルの体調、パークコーナーの状況。最後の1つは私の心配事ではないにもかかわらず、私の肩にのしかかっているのだ。簡単に説明すると次のような状態である。

農場はジョン・キャンべりおじさんからアニーおばさんに託された。アニーおばさんは遺言で農場をドナルドに託すことにした。ただし常に母親(のエラ)を支え、他の子供たちを教育することを条件とする。叔母がこの遺言をしたときドナルドはまだ小さな少年で、私たちは皆、彼が立派に成長することを願っていた。アニーおばさんの生前、彼女はダンが農夫にはなれないと悟り始めていた。彼はどちらかというと乱暴で贅沢な性格で仕事も好きではなかった。経験豊かな年配の農夫のアドバイスも提案も受けようとしなかった。しかし彼女は遺言を変えずに亡くなったので、ダンは21歳で財産を取得することになった。その間、後見人が任命された。
ステラはダンを連れて出て行った。ステラは自分の取引に嫌気がさし、他の誰かにそれを押し付けようとしているのだと思う。農場は貸し出され家畜はすべて売られた。エラとその家族は私の助けを借りて......メイドに服を着せて......なんとか家賃を払おうとした。エラのために言っておくがエラは弱点はあってもお金に関しては倹約家である。パーク・コーナーでは、フレデを除いて誰もそうではなかった(浪費家だった)。ジムは成長し、誰もが思うような立派な仲間になった、いい経営者だ。私はずっと、ダンがジムに責任ある仕事を与えてくれることを望んでいたし、彼はいつもジムが成人したらすぐにでもそうするつもりであるかのように話していた。
1933年12月まではそうするつもりだった。しかしジムは「銀行」に行きたがった。彼はいつもダンが自分とは違うことを話すと言っていた。そしてダンが自分に場所を与えてくれるとは思っていなかった。しかしジムは、2度(銀行の)入試に挑戦したが合格できなかった。これで銀行へ入るチャンスもなくなり、すっかり背が伸びてしまった彼はもう学校へ行く気にもなれなかった。昨年の秋エラは大慌てで私に手紙をくれた。農場を借りていたヒース・モンゴメリーが、もう借りてくれないという。誰も生活するのに十分な家賃を提示してくれないのだ。でもダンはジムに、もし彼が耕作を請け負うなら、農場を譲るというのだ。エラによるとジムはかなり興奮している。
しかし少なくとも700ドル(約800万円)の資金が必要だという。700ドル貸してあげようか? さて私はパーク・コーナーにお金をつぎ込むことに「うんざり」していた。ジョージ(エラの夫)が亡くなる前に、ステラの急な要請で2000ドル貸したことがある。彼が死んだとき、私はアニーおばさんが利子を払えないことを知っていた。アニーには利子を払えないと思ったので、抵当権を設定し1938年に返済期限を迎えるようにした。1938年に返済期限が来るが利息は払わなくてよいというものだった。そのため、私はすでに次のような損失を被っている。アニーおばさんとエラに渡した分以外に1400ドルも失ってしまったのだ。
しかも私は、自分が愛した場所や助けようとした場所に対して迷信を抱くようになった。私はその場所に不運をもたらすようだ。何をやってもうまくいかないのだ。エラはたとえ700ドルを貸してもらえたとしても、それを使ってパーク・コーナーの事業をさらに進めようとは思わなかっただろう。しかし私にはそれが(貸す金が)なかったのだ。貧しいエラはいつも私はお金持ちで、緊急時には "モードおばさん" に頼めばいいと思っている。それでも私はパーク・コーナーに対する古い愛情を振り払うことができなかった。私はパーク・コーナーとその亡霊たちが見知らぬ人に売られるなんて。それは冒涜である。しかし他に選択肢はなかった。ダンが今帰ってきてもP.E.島で農業を成功させることはできない。だから病気でも、疲れていても、落胆していても、私は昔のよしみで自分を奮い立たせ、もう一回、悪魔を騙す努力をしようと思ったのだ。

私はステラに、彼女かクララが700ドルを貸してくれないかと手紙を書いた。エラには島の誰かから借りてくるようにと手紙を書いた。ジムは3年間そのためのメモを書き続ける。ステラはいつものようにお金がない、クララもない、ダンは仕事がない、といった悲痛な叫びを返信してきた。
ダンは仕事がなくて、家に帰って農場を手に入れたほうがいいと思っていた。私は腹が立った。ステラは何度も何度も、ダンは農家にはなれないとわかっていると言っていた。というのだ。私は彼女に平易な(率直な)手紙を書いた。私は彼女に8年間もまったく違う生活をしてきたダンが農家でやっていけると思うのは愚かなことだと指摘した。ダンが8年間もまったく違う生活をしていたのに、P.C.でうまくやっていけると思うのは馬鹿げていると指摘し、そのための資金をどこで調達するのかと尋ねた。私ははっきりと、これ以上彼にお金をかけることはしないが、ジムを助けようと思うと言った。
さて今日のエラの手紙によると、結局ダンはこの場所をジムに譲ることを再決意したが、しかし15年間の借地権を与えると言っている。15年後、ジムが立派に働いていれば、ジムはその場所を手に入れることになる。ジムは私は彼を責めないがそのような条件ではいられないと言うのだ。だからかわいそうなエラは私を頼ってきた。彼女はどうすればいいのだろう? 
私は、かわいそうに、当然彼女はこの年になって家を出て世界に出て行くのは嫌なのだ。それに、贅沢な考えを持つダンが家に来て農業をやろうとすることを考えると、彼女は狂喜乱舞しているように見える。ジムのために家を守ることができると言っている。ジムのためなら家事もできるけど、ダンのためには絶対できないって。さて、どうしたものか。私はあらゆる方面から悪意を受け、おそらくパーク・コーナーは犬死にすることになるだろう。ジムはいいやつだ。しかし彼には資本もなければ経験もない。近所の人たちはみんな彼にこの計画を思いとどまらせようとするのだが、なぜなら私たちがよく知っているように、彼らは皆、あの素晴らしい農場を自分の息子に安く買い与えたいと思っているからだ。私はこう思う。ヒースが借りるのを拒んでいるのはこういうわけなのだろう。ジムがこのような事態に直面しても、うまく立ち回ることができたなら驚異的だ。しかし彼にチャンスがないのは残念なことだ、でもチャンスがないのは残念だ。私はダンには次のような手紙を出した。

「親愛なるドナルド:―。
今朝、あなたの手紙と、あなたのお母さんからの手紙を受け取りました。私はこの件には全く関与しないほうがよかったと思います。私は今、自分の心配事や責任に十分浸かっている。それに私の経験ではこの種の問題を解決しようとしても、あまり感謝されることはありません。長い目で見れば両者から悪意を持たれることが多いのです。しかしあなたが私の広告の氷を求めるので、もし私が少し平易な(乱暴な)言葉を使ったとしても、あなたはそれを良しとしなければならないでしょう。それなりに受け止めてください。
私はこの件に関して、すべての行動や発言において、関係者のために正しく行動し助けになりたいという誠実な願いによって動かされています。パークコーナーが元の場所に戻れるように、関係者全員に正しいことをしてあげたいのです。私は地球上のどの場所よりも古い場所を愛していますし、私は皆さんが思っている以上に多くのことをしてきました。あなたの貧しいお父さんが亡くなってから(倹約ができず、借金まみれだったため)、私はこの場所のために、あなたが思っている以上のことをしてきました。倹約ができず、物を持たずに生活していたため、耳まで借金を抱えていた哀れな父親が亡くなった後、それを救ったのは私だった: 私はアニーおばさんが亡くなるまで毎年200ドルか300ドルを渡し、葬儀費用の3分の2を支払った。そして抵当権を設定し、1918年から1938年までの契約で、あなたのお父さんが私から借りた2000ドルの利息を払わなくてすむようにしたのです。

というのは、20年間で私がパーク・コーナーに与えた、あるいは1938年までにかける予定の利息はちょうど2000ドルということになる。ですから私が自分の利益を追求していると非難することはできません(その間の利息を払わなくていいようにしてやったから)。さて最善の方法は、この問題をすべてありのままに見て回ることです。
まず第一に ジムは手紙の中で、あなたが農場を譲ってくれない限り自分は農業をしないと力説している。しかしすぐにでも出て行って、自分の仕事を見つけるつもりだ。と言っている。そして私の知る限り、ジムはその言葉を守り抜くと確信しています。自分の考えをしっかり持っていて決断力のある男だからです。そして私は彼を責めるつもりはありません。私たちは ドナルド、ジムのような年頃の少年は、もうすぐ自分の進路を決めなければならない。自分のものでもない農場で何年も働き続けるなんてできない。仮に10年間働いて打ちのめされたとする。何も手に入らず、何か価値あることを新たに始めるには年を取りすぎている。なぜなら何の訓練も教育も受けていないからです。5年働いただけでもこのようなハンディを負うことになります。このことはあなた自身の目で確かめることができるはずです。せいぜいジムは鍬を入れるのが難しいくらいでしょうが、私は彼が農場を自分のものにすることができると信じています。しかしその農場を自分のものにすることができれば、彼はそれをすることができるでしょう。しかし自分の土地になるか確信が持てない限り、彼にそれを期待することはできない。とにかく彼は「やらない」と言ったのだからそれはそれでいい。それならあなたが帰って農業をやるか、彼に譲るか、あるいは売却するかの3つの道が開けています。
1つ目については、今、分かりやすく言うと。私はドナルド、あなたが農家として成功するとは思っていません。これはあなたの名誉を傷つけるものではありません。誰もが農夫になれるわけではありません。農夫の素質がある人ばかりではありません。あなたは非常に賢い聡明な少年だと思う。 しかし農夫に必要な資質は持ち合わせていない。もしあなたがP.E.I.で農業を始めたとしたら、特に今の状況では成功する確率は低いでしょう。で農業を始めたら、数年後には絶望的な借金を背負い何も残らなくなる可能性が高い。母親を養いジョージーを教育しなければならない。ジムは家にいないのだから時々手伝ってもらわなければならない。一方、農場を売却したとします。今、農場の値段は低い。私の2000ドルがその中から私に支払われたとしても(そうせざるを得ないから)、私はそれを完全に失うわけにはいかない。私は若くはないし長年の精神労働の苦労が身にしみている。売った金額のうちいくら残って、どれくらいの期間お母様とジョージーさんを支えることができるのでしょうか? そのことを真剣に自問自答してください。それにジムは何もないまま送り出すわけにはいかない。さて、ドナルド、私は正直なところこれから提案することが最善の道だと信じている。関係者に公平だと思う。間違っているかもしれない、誰も無謬ではないのだから。しかし私が勧めるのはこれだ。農場をジムに譲りなさい。その際、5年後ジムがもうやっていけないと思い、自分の意志で農場を手放したくなったらそれはあなたに戻ることになる。それができない理由はないでしょう。ありえないことではありません。そうすればあなたは自由です。あなたはもうお母さんや誰にも責任を負わず、誰にも迷惑をかけない。自分以外の誰も養うことも心配することもない。そしてあなたが大きな犠牲を払うことになるとは思いません。すでに述べたようにもし農場が売れたとしたら(現在では赤字にならざるを得ない)、私への返済の2000ドルが出た後、何が残り、それがいつまで続くのか。母を養うなど、どれくらいの期間続くのでしょうか? そう長くはないでしょう。せいぜい数年でそれはすべてなくなってしまうでしょう。そしてあなたはそれ以上良くならない。だからあなたはあまり諦めてはいけないんだよ。

繰り返しますが、ジムは農場の運営を700ドルから始められると確信しています。あなたは1000ドルと言いますが、しかし私はあなたの考えはP.E.アイランドには少し大きすぎるのです。その点はいつもキャンベルの失敗で、お父様がうまくいかなかった主な理由です。今は物価が安く、いい牛が35ドルで買えますし、700ドルもあればささやかに始めるには十分でしょう。ジムとあなたのお母さんはとても経済的で、私が指摘したように、ジムにはビジネスで成功する素質があると思います。二人は数年間、非常に質素な生活をしなければならないだろう。しかし彼らはそれに慣れていますが、あなたはそうではありません。あなたのお母さん(エラ)は、私が知っている誰よりも、1ドルをより多く使うことができます。だから700ドルあれば十分だ。私は700ドルならジムを助けられるが、1000ドルでは無理だ。今は700ドルも貸せないんだ。しかしミーのノートには参加するつもりだ。ミーが島でお金を用意するか島でお金を借りてくるか......無理なら......。 私はジムのことをとても信頼しています。というのも私はジムをよく観察しているからです。もし彼が成功できなければ誰もできない。でも私は彼に チャンスはあるはずだ。その時あなたは自由であり、彼や誰にも一セントも与える必要はないでしょう。エイミーは数年間、49ドルの利子を払って、この古い建物を立ち直らせることに貢献するだろうし、残りの人たちも、少なくともそこから生活費を得ることができるだろう。ジムは抜け目ない人だから、誰も彼を騙して逃げようとは思わないよ。
これが私にできる唯一のアドバイスであり、ベストプランと思われます。そして、もしあなたがその通りにすると決めたらすぐに実行に移すべきです。ジムは今年中に何かを成し遂げるには、すぐにでも始めなければならない。農場を借りることもできないし、一年間も放置して、自分たちが何も食べられなくなるのは愚の骨頂だ。法的な手続きには時間がかかると思います。ジムはすぐにでもサインすることを約束してくれるだろう。すぐにでも始められると思う。あのね、ドナルド、あの農場を手に入れた人は、最初の10年間は一生懸命生きなければならないんだよ。最初の10年間はね。その点は絶対に間違えないでほしい。贅沢はしない、車もない、高級な運転手もいない、娯楽もない。必要最小限の衣服と質素な食卓だけだ。テーブルも。この6年間お母さんがどんなに節約してきたか、あなたにはわからないでしょう。でも私は知っています。私がP.C.(パークコーナー)にいるときは、母(エラ)は私のために食卓にちょっとした贅沢品を用意してくれました。しかし私は、彼らが一人でいるとき、そして最初の数年間は、どのように生活しなければならないかを知っています。ジムはこれまで他を知らないから、そんなに大変じゃないだろうけど、あなたはどう思う? もしあなたが ジムが農場を持つなら、私はできる限り彼を助けるつもりです。ジムのことをよく知っているからだ。これ以上、見込みがないのにジムがそこに留まることを期待するのは無理な話だ。彼は自分の力で生きていくしかないのだから。私はパーク・コーナーーがかつてのように、PEIで最高の農場に戻るのを見たいと思っています。しかしそれを実現するのは容易なことではありませんし、ジムが挑戦するのですから、自由な裁量を与えるべきだと思います。彼は常に人を必要としているわけではありません。収穫の時など特別な時を除いては一人で十分なのです。確かに最初の数年間は、誰もその農場に安定した雇い人を置いておく余裕はないでしょう。だから最初は大変だと言っているのです。本当にあなたはロサンゼルスでの生活の後では、農場ではひどく不満で不幸になると思います。

さて、私はあなたに言われたとおり、自分の考えをわかりやすく伝えました。しかし私はパーク・コーナーとあなたのご家族の利益を第一に考え、純粋な動機からこのようなことを行っているのです。もしあなたが自分のことだけを考えるなら、農場を売って2000ドルを払えと言うでしょう。もし今私に2000ドルあったら、今日とんでもなく安い優良株に投資して3年後には3倍にするだろう。しかし私は自分の利益を考えているわけではありません 結論から言うと、もしジムが農場を持っていたら彼はそれに心血を注ぎ成功させるだろうと思う。お母さんは、自分のやり方に慣れた息子と古い家に住み続けることができ幸せだろう。お母様も、自分のやり方に慣れた息子と一緒に古巣に残れるし、あなたもこれ以上心配することはないでしょう。そうすれば、あなたはその心配から解放され、これ以上引きずられることもないでしょう」。
 
この手紙はステラのためでもありダンのためでもあった。彼の行動の背後に彼女がいることは間違いないからだ(ステラがダンに農場を売らせようとしたのだと)。彼女は間違いなく激怒するだろうが私は気にしない。彼女は何も言えない。彼女は私に何千ドルもの借金があり、その利子を1セントも払うことができなかったのだから。でもこの件で「胸騒ぎがする」ので、今夜は眠れそうにない。

1932年2月28日(月曜日)
オン足り州ノーヴァル
最近、楽しいことが一つもない。人生はまるで月面の風景のようだ。神経質なほど落ち着かない夜が続き、奇妙な何とも言えない感情が頭の中にずっとある。長い絶対的な休息が必要だが、それを望むのはむなしいことだ。
今夜はクロージアの「ポンテオ・ピラトの手紙」を読んでいる。フィクションだが驚くほどよくできている。おそらくピラトの手紙は、もし書いていたとしてもこれとよく似ていたのだろう。しかしおそらくそれほど叙事詩的ではなかった。ある一節は、無意識のうちに皮肉が効いていて、私を大いに楽しませてくれた。ピラトはユダヤ人に水道の費用を負担させるのに苦労している。 ピラトは水道橋を作る費用をユダヤ人に払わせるのに苦労していたが、完成させることを決意したと言う。ピラトは水道橋が完成すれば自分の名を後世に残すことができる、そう信じているのだ。さてピラトの名は守られたが、彼の水道橋のおかげではない! 彼はイエスを、(ピラトの)敵がローマで彼のために問題を起こすためのハンドルになるかもしれない、イエスは無邪気な改革者であると彼は切り捨てたのだ。だから彼は非常に重要でない、邪魔にならないようにするのが一番だ。誰にとってもどうでもいいことなのだ! マリオンからの手紙には、マートルの良い知らせはなかった。この友人を失わねばならないのか?

1932年3月17日(木曜日)
今日ダンから手紙が来た。私の手紙は、彼やステラの頭を少しは理解させたようだ。あるいはステラの頭に叩き込んだようだ。彼は私の提案にすべて同意し、ジムに場所を譲ると言っている。そして今後もしジムがうまくいかなかったらみんな私のせいにするんだ! ひとつだけ確かなことがある。ジムは失敗するかもしれないがダンでは失敗するだろう! ジムとエラには、春の仕事の準備を進めるようにと書き送ってあるんだ。ジムがローンを組めないなら、私は何らかの方法で700ドルを調達しようと思っている。私は愚か者だ。経済的にはね。しかしパークコーナーがライオンに投げられ、あの一家が世間から見放されるのは見たくない。

1932年3月24日(日曜日)
昨夜、ユアンと私はセントラルYで行われたオンタリオ州のジュニアメダルとチャンピオンシップの体操競技を見るためにトロントへ行った。スチュアートはセントアンドリュース(高校)の選手として出場していた。彼は「勝つことを期待するな。でもそんなこと考えたこともなかったよ。その夜はジュニアとシニアの両方のコンテストが開催され、とても興味深い夜だった。ジュニアとシニアの両方のコンテストが行われ、とても興味深いものだった。高鉄棒、馬上槍、平行棒、マットの4つの競技が行われた。そしてスチュアートがメダルを獲得した。16歳にしてオンタリオ州のジュニアチャンピオンになった。 この冬初めて「うれしい」ことが起きた! と、嬉しさのあまり家に帰るまでずっと興奮していたよ。
若さと明るさを取り戻した気分でした。しかし支払いは要求されるだろう。スチュアートは、勉強そっちのけで陸上競技に打ち込んでいる。St.A.に行って以来初めて、彼はクリスマスにも、その年のリーダー(主席)にもなれなかった。これは私にとっても残念なことだが、スチュアートはチャンピオンになることを望んでいる。学校の名誉につながるからだ。

1932年3月30日(水曜日)
チェスターとスチュアートはイースターのために帰国している。チェスターと私は木曜日の夜に長い間興味深い話をした。この冬はうまくいっているようだが、化学の勉強が少し怖いそうだ。彼は化学的なものを少し恐れているようで、この点については条件がつくかもしれない。もしそうなら私は耐えられない。1年目ならまだしも、"繰り返し"の (留年した)年に何かと条件を付けられるのは教授の目には黒星として映るだろう。自分が優秀であることを納得させることはできないだろう。昨夜はオールドタイムナイトが開催され成功裏に終わった。そのために私と他の数人は奴隷のように働かなければならなかった。私は花柄のモスリンのドレスを着て、クリノリンに レースのショールに、真珠と花のポークパイハットをかぶった、そしてしばらくの間、心配事や心痛を忘れ夜を楽しんだ。

1932年3月31日(木曜日)
オンタリオ州ノーヴァル
スチュアートは今日、トロントで行われたインタースコラスティック・コンテストに参加し、オンタリオ州のパラレル・バー・チャンピオンに輝いた。オンタリオ州の平行棒選手権で60人の選手を抑えて優勝し、またメダルを獲得した。
私はというと、ジムとエラから憂鬱な手紙をもらった。お金がないんだ。私は銀行に行って700ドル借りた、まるで自分が犯罪者であるかのような気分だった! それに、このままでは私が窮地に立たされるかもしれない。

1932年4月2日(土曜日)
ストークスの報告書が今日届いたが、ある項目が嬉しい驚きだった。マリーゴールドの再版のための500ドルである。これで今年一年の経済的な心配は解消された。不測の事態が起きなければ十分な資金を得ることができるだろう。今日から新しい本「シルバーブッシュのパット」を書き始めた。私はこの本のアイディアが好きだ。しかし心配で神経質で不眠症になっているときにどうやって本を書けばいいのだろう。そして、そのための時間やゆとりがほんの少ししかとれないのに、どうやって本を書けばいいのだろう? 世界や市場のニュースは悪いことばかりで、どこも雲行きが怪しくなってきた。どの国からもどの国からも、遠くからも近くからも良い知らせはない。
面白いことに、私たちは皆ヒンデンブルグが次のドイツの選挙で「当選」することを望んでいる。しかし1918年には、私たちはどのように彼を罵倒していたのだろう! 何という皮肉だろう。宇宙を動かしている権力は、われわれを逆立ちさせることを喜んでいるのだろうか。

1932年4月16日(土曜日)
牧師館、ノーヴァル
......頭がいつも変な感じなんだ、まるで固いバンドでぐるぐる巻きにされてるみたいなんだ。何日かは 書けない日もある。生まれてこのかた文章を書くことに没頭することができなかったのは初めてだ。 書くことに没頭することで、いくばくかの休息を得ることができなかったのは生まれて初めてのことだ。眠れないときはフローラ・クリックマンの楽しい『フラワーパッチ』シリーズを読む。このシリーズは、私を癒し、休ませ、一時的に元気にしてくれる。彼女の「フラワーパッチ」シリーズを読むと、まるで「家に帰った」ような気分になる。もし、そんな隠れ家があったら! もし私が 一ヶ月間、誰にも会わず、誰とも話さずに済むような場所に行けたら!

1932年4月20日(水曜日)
今日、私が2ヶ月間恐れていた打撃が降り注いだ。シンプソン社が配当金を出したのだ。これで私の収入は1,000ドル近くも減ってしまった。私はこのことを予期していたし、もし彼らが立ち直ると思えばそれほど心配することはないだろうと、配当なしで予算を組んでいた。ビジネスが軌道に乗れば、また立ち直るだろうと思っていたので、それほど心配はないと思っていた。しかしこのままでは完全に破綻してしまうかもしれないし、私は14,000ドルもの資金を投入している。それは金箔入りの(保証付きの)投資だと思ったのだが...。

1932年4月23日(土曜日)
牧師館、ノーヴァル
今日、チェスターが帰ってきた。彼は試験に合格したと思っている。私たちは3週間のあいだその知らせを待つ不安な日々を過ごすことになる。それ自体はそれほど大変なことではないのだが、他のすべてのこと、すなわち他のこととの関連で... シンプソン社の株は市場で12ドルにまで下がっている。私の14,000ドルは、現在1680ドルほどの価値しかない(高掴みした)。どこへ行っても「不況」ばかりが耳につく。神経を逆なでするような話だ。その話をすることに何の意味があるのだろうか。私たちは皆、それ(不況)が存在することをあまりにもよく知っている。しかしそれは過ぎ去るべきものである。しかし人々の話を聞いていると決してそうではないと思うだろう。そしてこのようなことを繰り返し聞かされると 催眠術にかかったようになり、このままではダメだと思うようになる。この先には破滅しかないと思うようになるのだ。

昭和7年4月30日(土曜日)
私は去年の秋に貰ったムービング・ピクチャー・カメラを使う時間がなかったんだけど、チェスターに練習用のリールを持たせておいたよ。冬の間、家にいるときはいつも何回か写真を撮っていた。最近、彼はそれを完成させ(フィルム1本撮り切り)現像してもらった。私は本当に期待していた。しかし今日、彼は私を応接間に呼びリールを走らせた(フィルムを映写機にかけた)。そしてそれは財産だ。
私は(その映像に)とても面白く、くすぐられ、しばらくの間、自分の悩みをすべて忘れてしまった。ユアンと私が芝生を歩くシーンを見て不気味な感じがした。映像の中の私たちがとても生き生きとして自然に見えたので私は不気味な感覚に襲われたのだ。映像を見ている私たちは自分の体から抜け出して幽霊になって自分の姿を見ているような、不気味な感覚に陥った。そして、ラッキーが芝生を行進している一番かわいいものもあった。
フィルムを後ろ向きに走らせたこともあったのだが、面白すぎて言葉が出なかった。私は一挙に映画の回し者になったが、ただ心配なのは、私たちは皆とても困っているので、リール(フィルムを巻いてあるリール)をたくさん買う余裕がないことだ。私が少女の頃こんなものがあったら! もし、私が箱の中に入ってフィルムを取り出して、コダスコープに入れレバーを調整する。祖母が古い勝手口から笑顔で出てきて父が納屋から歩いてくる。アマンダと私は小道を徘徊し、学校の運動場でボール遊びをする「昔の仲間たち」、叔父さんの姿も見えた。私たちを迎えるジョン・キャンベルおじさん、フレデとステラ、白樺の下を駆け下りるクララ......降り積もった雪の銀色の道を口笛で進むネイト......。 雪が降り積もった銀色の道を口笛で駆け抜けるフレデとステルとクララ。プレイハウスを作ったり、砂浜で泡のチャージャーを競ったり...。花束や花輪を持って道を行進するメイフラワーのピクニッカー(山車)たち。シャーロットタウンの通りを行き交う昔の「カルテット」......自分は恋人の小径で長居をしていた。ローレル・ヒルの草原の斜面を駆け下りるローラ。トプシー、レディ・キャサリン、マックス、プッシーウィロー、ダッフィーズ、半世紀も埃をかぶっている子猫たち。半世紀もほったらかしで、庭を徘徊したり、長い間途絶えていたリンゴの木をよじ登ったりしている。岩をよじ登るペンシーと私、岸に寄せる魚の船などなど残しておける......まるでおとぎ話のようだ。
でも次の世代が年をとったら、それができるようになるんだ。それでも、もしかしたら結局はそんなに楽しいことではないのかもしれない。喜びよりも悲しみが多いかもしれない。ボール遊びといえば......なんと楽しいことだろう。その遊びは少々複雑だった。野球でもなければ、今日行われている球技のどれにも似ていない。もしかしたらもうどこもやっていないかもしれない。しかしこれが私たちの遊びだったのだ。19世紀最後の10年間、古い学校の運動場で行われていたゲームなのだ......[付録Dを参照。]

1932年5月1日(日曜日)
牧師館、ノーヴァル
昨夜はよく眠れたし、テイラー氏に関する奇妙な夢を見た。その象徴を解釈する限りでは吉兆のように思えた。私が見た夢は、彼が私に大きなダイヤモンドが2つ入った指輪をくれたのだ。私が通りを去ろうとしたとき1つが落ちてしまった。私はそれを彼のところに持って帰った。彼は「ああ、それをまた入れよう」と言いそうした。私は、"このダイヤモンドが本物ならすべてがうまくいくだろう" と思いながらオフィスを後にした。
宣教師のマクミラン氏は今日ここに来て、今夜のユニオンの公開宣教師会議で演説していた。彼はゴッドボールという名の友人を連れていた。さて、この名前にはどんな意味があるのだろう? ペース・シェイクスピア
今日イゾベルに手紙を書いたんだ。少しは常識が身につくといいんだが... 可能ならね。しかしそうなるだろうか?

1932年5月2日(月曜日)
牧師館、ノーヴァル
私は神経が不安定で完全に地獄のような夜だった。今日、私の頭は手紙を書き始めるまでは良かったのだが。そして、「奇妙な感じ」が戻ってきた。まるでバンドでぐるぐる巻きにされ、目が頭から引き抜かれるような感じだ。夕食後、その感覚は完全に消え去り、完全に元気になった。天国のような気分だ。焚き火の後の雨のような。

1932年5月3日(火曜日)
昨夜はよく眠れたので、トロントでの一日を楽しんだ。マクレランドを訪問し、仕事に戻っているStewart氏に会った。またそこで彼に会えるのは嬉しいことだ。彼は2人のパートナーの中でいつも私が一番好きな人だ。彼は片肺しかないのだが、T.B.は死んでいるようで、気をつければ何年も生きられるかもしれない。
午後は牧師夫人会の会合に出席し講演をした。楽しい時間だった。しかし家庭的な女性が多いね! スチュワート夫人と話をした。... [イゾベルの問題で]スチュワート夫人と話をしたんだが、彼女の夫は14年間もイゾベルの教会の牧師をしていたそうだ。彼女(イソベル)は牧師に恋をして、牧師の奥さんが来てそれを止めるまでしつこく牧師館に通い詰めたそうだ。公正なイゾベルは恋に落ちるコツを知っているようで男女の別はあまり関係ないようだ! しかし私は彼女を気の毒に思っている。彼女のような呪われた存在になるのはぞっとする。
マクレランドのスチュワートさんから、アガサ・クリスティの新作「Peril at End House」をいただいた。今夜はこれを読んでしばし悩みを忘れよう。ありがとうございます。作者が人類を救おうとしているわけではなく、裏返しにして展示することで人類を救おうとしている。 裏返しにして腸を見せることで人類を救おうとはしていない。

1932年5月11日(水曜日)
この春一つの心配事が消えた。チェスターはすべての試験に無条件で合格した。私はその結果が出るまでうんざりするほど恐れていたのだ。そのせいもあってこのところ このところ眠りが浅い。一日一日、予想される時期が近づくにつれ、もう耐えられないと思う瞬間があった。昨年は5月12日に結果が出たが、今年はそれよりも早く結果が出るとは思っていなかった。今朝、私たちが朝食に起きると同時に、チェスターが郵便物を運んできた。新聞を開くと科学の試験の結果が載っていた。
私たちはお祈りのために図書室に入ろうとしたときだったので、一人で自由に行動できるようになるまで目を通さなかった。ユアンが新聞の何を読んだかは知らない。25分という時間は永遠にも思えた。そして私は応接間に入ってドアを閉め、震える手で新聞を開いた。そこにはチェスターの名前があり、何の条件も付いていなかった! その安堵感はほとんど痛みを伴うものだった。彼は合格者のちょうど半分が条件付きであった割には、悪くない結果を出している。
もちろん、これで彼のコースに関連するすべての問題が解決したわけではない。むしろ問題をより複雑にしている。考えられるのは、もう一度不合格になったほうがよかったかもしれない。または失敗して他のことに目を向けなければならなくなった方がよかったかもしれない。しかし少なくとも私たちは、昨春のような屈辱を味わうことなく、他の問題もやがて解決することだろう。ここ数日、夜中に軽い喘息があった。このまま再発しなければいいのだが。4月に風邪をひいて以来、体が弱く食欲がないのだ。

1932年5月13日(金曜日)
牧師館、ノーヴァル
今日のマートルからの手紙は、ある意味では励みになり、ある意味ではそうでないものだった。彼女が言うには、医者が来て癌の心配はないと言っていたそうだ。しかし彼(医者)は、彼女がその症状(癌)を発症していないことにむしろ驚いているようだった。
それが嫌なんだ。それではまるで癌だということを予想していたかのようではないか。彼女が癌であるという印象が広まっていることは知っていた。それが心配だったので、この手紙は良い知らせだった。しかし彼女はとても惨めで、数日おきに悪寒と発熱があり体重も増えない。何であれ、もう回復しないのではと心配である。まあ、こういうことには向き合わなければならない。
今日もまたリンドバーグの赤ん坊が殺されたという恐ろしいニュースが飛び込んできた。世界中がそうであるように、私たちもこの事件の進展を何週間も見守ってきた。もし私がリンドバーグであったなら、このようなことが平気で行われるような国の塵を足から投げ捨てたい。あのかわいそうなお母さん! クロッドはどうした? 私はまだ家の掃除とガーデニングをしている。前者は理不尽に疲れるし、後者には何の慰めも見いだせない。

1932年5月30日(月曜日)
先週の月曜日、ユアンと私、トンプソン夫人とジューンは、リースクデールまで車を走らせた。私は本当に行きたくなかった。奇妙なことだが、年月が経つにつれて私は元いた場所に帰ることをより嫌いになっていくようだ。戻るのが嫌になるんだ。まるであそこで受けた苦しみのすべてが湧き上がってきて、リースクデールがその苦味と結びついていて、その2つを切り離すことができないのだ。
でも、ユアンも私も4月のインフルエンザ以来うまくいっていないのだ。私は弱々しく神経質で、ユアンは嗄声が続いている。家の掃除やガーデニングが終わったので、旅行でもしようかと思ったのだが、これがなかなか難しいのではないかと思っていた。そしてその通りになった。旅行中はひどいベッドにもかかわらず、よく食べよく眠れた。裕福な農家にはあらゆる快適な設備が整っているのに、なぜもっと良いベッドがないのかといつも不思議に思っていた。しかし私の家のベッドはいつも快適で、他のソファを使うのが嫌になるくらいだ。
全体として、私はこの旅を楽しんだ。ドライブも快適で、花咲く果樹園や春の若葉を見ながら100の異なる色調を持つ春の森を通り抜ける。森は緑に包まれていた。旅先ではほとんどの人は不況と物価の悪さについてしか話さなかった。しかし何人かの人は陽気で、楽しいスキャンダルを話してくれたので、私はもう「良い手本」である必要はない。リースクデールの模範である必要性がなくなった(もうリースクデールでは牧師夫人の顔をして澄ます必要がない)私はむしろそれを楽しんでいた。Wm.セラーズ夫人は夫に苦労しているようだ。彼は、まっすぐで狭い道から大きく外れてしまったようだ。
長老派から離れて連合教会の桟橋に引き渡された、それは彼のモラルに良い影響を与えることはなかった。噂によるとセラーズ夫人は彼を刑務所から救うために数千ドルを支払わなければならなかったそうだ。この事件の少女は「同意年齢」以下だったのだ(不倫をしたのか)。と言われているように彼女が合同教会に行ったのは、父親が「このままでは1セントももらえない」と言われたからだというから、これはこの混乱した世界ではあまり見られない、詩的な正義のスポットだと思う。
私たちは、月曜の夜をジム・マスタード夫人のところで過ごし、火曜の夜をGeo. Leask'sで過ごした。後者で寝た後、私は横になって窓から古い牧師館の灯りを見ていた。窓から見える古い邸宅(元いた牧師館)の灯りを見てとても奇妙な気分になった。あの家で感じた喜びと苦悩は何だったのだろう。翌日、私たちはそこに訪問した。芝生は放置されている。ローワー(蔓を下げる棚であろうか)もない。

牡丹の花は寂しくなってしまったが20年前に植えたスピレアの茂みは大きな潅木になった。私たちは木曜日の夜、雨と霧の恐ろしい組み合わせの中で帰宅した。雨はそれ自体で素直なものだ。霧は素敵で不気味なものだ。しかしこの2つが合わさると恐ろしいことになる。
家に帰ると、歓迎の言葉が待っており、ベル・テレフォンが配当を減らしたという知らせだった。
金曜日、チェスターと私は街に行きエレノア・アグニューを連れ出した。彼女はトロントでヴァイオリンの勉強をしている。彼女は今夜帰った。ローラの娘さんを我が家の客人として迎えるのは不思議で、愛おしく、少し非現実的だった。
私は今、カラバのメアリー・スレッサー、ジョーン・オブ・アーク、フローレンス・ナイチンゲールについて、3本の連載記事を書いている。そしてフローレンス・ナイチンゲールについて、「有名な少女たち」という本のために3つの連載記事を書いている。マクレランドとスチュワートが出版する「有名な女の子たち」の本でスチュワートが出版する予定です。私は嫌なことだが、その分お金が入ってくるので、助かる。本の執筆で時間を割くことができないので、読むのは夜間にしなければならない。時間が取れないからだ。それに夜になると頭が変になるんだ。

"エレノアの貧相な写真"[アグニュー]

1932年6月5日(日曜日)
牧師館、ノーヴァル
今夜は嫌な経験をした。ノーヴァル合同教会の創立記念礼拝に、礼儀を尽くして出かけたのだが、あるロブ氏が説教をした。このロブ氏はユニオン設立事件の時にビーバートンにいた人物で、西部からやってきた非常に評判の悪い人物だった。ある問題に関して非常に不愉快な評判を持ちながら西側からやって来たのだ。彼はユニオンに対して非常に不愉快な態度をとり、ユアンと長老会の他の数人の牧師が比喩的な方法で、彼にそして当然のお仕置きをしたのだ。もちろんそれ以来、彼はユアンを憎み続けているのだが、今夜はそれを正すいい機会だと思ったのだろう。
彼は聖アンデレのことを話していたのだが、彼は聖アンデレのことを「名士の弟であることに苦しんでいた」と言い、さらに、彼は「著名な作家の夫のようなもの」である。"あの人の夫" だと言った。彼は名前を出さなかったが、出してもよかったかもしれない。会衆は彼の言っている意味がわかり、牧師と同じように、笑い声が教会中に響いた。私は怒りで顔が熱くなった。しかし、なぜこのような生き物に言われるのか! そんなことをするような男はどんなことにも屈しないだろう。というものだ。連合教会はそのような代表を歓迎するだろう。
説教については面白い講義だった。彼は一つのことをやろうとしているようで、完璧なまでに成功した。これほど陽気な集まりは見たことがない。数分ごとに笑いの渦が会場を覆い尽くした。しかし笑ったのはほとんど来場者と若い人たちだった。年配の方々は険しい顔をしている。連合教会にも、低俗なコメディアンの居場所はないと考える時代遅れの人たちがいるようだ。しかし私はロブ氏のユーモアのブランドを公平に判断することはできないだろう。

1932年6月10日(金曜日)
一日中、頭と手の調子が悪かったが、何とか自分の原稿を書いた。
今日もまたイゾベルから苛立たしい手紙が来た...最初から最後まで非難と不平の叫びでいっぱいだ。彼女が憤慨しているのは、前回の手紙で私が、彼女が誓う私への愛を世間ではどう呼ぶかを示唆したからだ。一晩中あなたを抱いていたい。あなたの顔や首筋、あらゆるところをキスで覆ってしまいたいと。
もちろん彼女は自分がレズビアンであることをまったく自覚していないと思う。しかし私は彼女に完全に我慢の限界に達し、次のように手紙を書いた: ―親愛なるイゾベル:―率直に言うと、この不満足な関係を解消したほうがいいと思うので、お許しください。私たちのこの不満足な文通は一旦やめる方が賢明だと思う。
この冬から春にかけては、私自身のいくつかの差し迫った悩みや問題、それに最愛の友人の長引く病気に対する不安、そして私があなたの想像から作り出された人物であるはずがないというあなたの非難の手紙によってほとんど気が散っていた。あなたが想像から創り出して私の名前で呼んだ人物にはなり得ないからだ。最後の藁のようなものだ。もしあなたが、私の他の友人たちとの付き合いの内容で満足できるときが来たなら、それは、私を満足させることができる時が来たら喜んでお返事する。それまではこの不幸な状態を終わらせた方がお互いのためだと思う。
これで彼女が怒って、永遠に私を一人にしてくれることを願っている。彼女はこれまで この2年間、私にとってまさに「海の老人」(怪物のこと)であった。
今夜、街でブルさんに会った。ノーヴァルの合同教会の信者だ。彼は私にロブ氏をどう思うかと聞いてきた! 私は冷静に、「あまりに面白い説教師には興味がない」と答えた。そこでB氏は、手近な門柱を拳で叩きながら、「朝、あの男が説教した後、私は彼のところに行き、この教会にはもうあのような説教は必要ない」と言ったんだ。と笑うことである! しかしB氏の不評は、ロブ氏をあまり心配させなかったようだ、夕方の説教がその証拠だ。しかし私は、自分が全く理解されていないわけではないと感じている! 私が書いている間、ラッキーはテーブルの上で鳴きながら、明るい丸い目で私を見ている。猫を愛せないということはどんなに恐ろしいことだろう! どれだけ人生を棒に振ることになるのだろう。しあわせを逃してしまうのだろう。

1932年6月24日(月曜日)
オンタリオ州ノーヴァル
今日、またisobelから手紙が来た。 "最愛のダーリン:――そうですね、確かにもうやめなければならない、私もこれ以上我慢できない――私はとても苦しく心苦しい。すべてを忘れて本当の友達になりましょう。私はあなたをとても愛しています。どうか私を信じてください、それは想像上の生き物ではなく、あなた自身のことを愛しているのです。この夏、何度かあなたを手に入れることができないだろうか。もしかしたらあなたは7月のはじめに叔母の家に来てください。そしてたまには私があなたに会いに行くかもしれません。どうかあなたに対する私の特別な必要性を理解してください。そうすれば、きっと私の熱っぽいあこがれと膿んだ傷のすべてを癒してくれるでしょう」。
そして、「友情」で満足するという約束と、すべてを台無しにする追記で締めくくられた。というあとがきですべてを打ち消した。"黄泉の国のすべての悪魔が、私の心からあなたを引き離すことはできない"。私は彼女が「私を特別に必要としている」ことを彼女自身よりもずっとよく理解している。それは、レズビアンの恐ろしい渇望だ。私は彼女が単純な友情で満足するという約束を守るかどうかを疑っている。もしそうなら、私はできるだけ彼女を助けてあげようと思う。可能な限り人生に耐えられるよう手助けするつもりです。しかしこの2年間、彼女は私を恐怖で満たしてきたのだ。この2年間、私は彼女に会うのも、彼女と1時間でも一緒にいるのも恐ろしくなってしまった。私が緊張したり落ち込んだりすると、かなり彼女にババ抜きをされた気分になる。

1932年7月2日(土曜日)
オンタリオ州ノーヴァル、牧師館
今週は天国と地獄が混在したような良い一週間だった。地獄のスパイス、カイエンヌをひと振り。そしてあらゆる面で気分が良くなった。私に必要なのは陽気な仲間だと信じている。先週の月曜日、ノラ(かつてキャベンディッシュで一緒だったノーラ・ルフルジー)とエビーがやってきて今日までいた。ノラと私はドライブしたり、イチゴジャムを作ったり一緒に楽しい散歩をし話をした。ああ私たちはどんなに話し、どんなに良かったか! 
ある日の午後、私たちはYYキャンプに行き、森を抜けて家に帰った。クレジット川の西の支流に沿った森を抜けて帰ってきた。野生のイチゴを摘んで食べた。私はノーヴァルに来て以来、野生のイチゴを見たことがなかった。野生のハニーサックルでいっぱいの一角を発見した。 ――かわいいスカンクの赤ちゃん3匹を見た。私たちは物語を語り、互いを叱咤激励し、笑い声をあげた。これは私にとって良いことだと思った。私は笑い方を忘れてしまったと思った。本当に笑う方法を忘れてしまったと思った。

エビー[ノラとエドマンド・キャンベルの息子]

私はノラにイゾベルの問題を相談した。彼女は私に完全に縁を切るように恐る恐る警告した。「そうしないと、いつかどんな恐ろしいスキャンダルに巻き込まれるかわからないわよ。と彼女は言った。私は惨めな気持ちで言った。「彼女は今までにも 自殺を予告したこともある。でも最近アンドレ・テドンの『精神分析と愛』を読んでいるんだ。彼の無意識のホモ・セクシュアリズム」という章は、イゾベルのために書かれたものかもしれない、手紙の文言に至るまで。ノラは「抱かれたい」と書いてきた少女を、「無意識のレズビアン」ではないと断言している。
ノラは、「一晩中抱きしめて、体の隅々までキスしたい」と書いた少女は、無意識の(知らないで行っている)レズビアンではなく完全に意識的なレズビアンであると断言している。しかし私はこの点では同意しかねる。イゾベルは、自分の呪いが何であるかを理解するにはあまりにも素直でない。
私たちはムービングピクチャー(家庭用映画)で大いに楽しんでいる。今日、チェスターは私たち全員をトロントまで車で連れて行った。ノラと私は出発してから到着するまで、お互いを侮辱し合った。もしイゾベルが聞いたら...私たちを非常識だと思っただろう。(そして私たちも彼女を非常識だと思った。"All the world is queer etc.")(世界は不思議に満ちている)ノラと私は、いつも美味しく「ゴロゴロ」するコツを持っている。私は今まででこのような遊びができる相手はノラ以外にはいない。そのためにはちょっとでも強調しすぎると命取りになる。何年も前から、私たちは一度も感情を害したことはない。このゲーム紙にはできないんだ。(文にすることはできない)スクラップブックにゴザを貼り付けるようなものだ。
私はイゾベルとフェンスのゲームをする(うまく垣根を築く)のが大好きだ...観客のために。友情のあり方についてまったく新しい視点を与えてくれるはずだ! トロントからの帰り道、チェスターと私はいろいろなことについて長い間話し合った。私は少なくとも、彼の信頼を保つことができたことに感謝している。でもチェスターにはいろいろな問題があって、それは私一人で解決していかなければならない。

1932年7月10日(金曜日)
牧師館、ノーヴァル
今日は暗くて雨が降っていた。このような日は私の神経質な不安はいつも強まる。教会ではほとんど座っていられなかった。私はこのような呪文を理解できない。今まで一度もこんなことになったのは初めてだ。とても恐ろしいことだ。でも私は肉体的にはかなり元気なようだ。
金曜日に過ごした一日は私の神経を刺激するものではなかったと思う。イゾベルと過ごした...何ヶ月か彼女をなだめるためにね。彼女はクルーソンズ・コーナーズという、ゲルフの高速道路沿いにある小さな集落にいる叔母を訪ねていた。私はその日を恐れていた。一日中イゾベルと二人きりで座っていたらどうしようかと思ったからだ。私は犬のように吠えればいいと思っていた! しかし今回ばかりは運が味方してくれた。結婚している妹が来ていて、妹と叔母さんが私たちと同じ部屋に座っていたのだ。だから私は何とか会話をしようとした。しかしそれはひどく退屈なものだった。おばさんも妹さんもまったく面白くない。イゾベルは話しかけられるまで何も話さず、ただそこに座ってレズビアンの憧れを育んでいた。少なくとも私は、彼女の手紙の中の告白を思い出してそう思っていたのだと思う。
私たちは午後、野生のイチゴが生い茂る、人里離れた塀のある道を散歩に出かけた。野いちごが生い茂る道を一人で風に吹かれながら、あるいはノラのような人と一緒に行けるなら、この散歩は最高の喜びだっただろう。しかしそれは窮屈な応接間より一段とましなのだ。私はいつも神の怒りのような顔をして歩いているイゾベルが、私が肉体的な愛撫という恐ろしい欲求を満たさないために激怒しているのだといつも感じていた。肉体的な愛撫を求める彼女の恐ろしい欲望を満足させられないからだ。私は
夕食後にチェスターとその女友達が私を迎えに来たとき、私はやっと安堵のため息を抑えることができた。イゾベルは私にスイートピーの花束をくれた。それはとても素敵な花束で、もしそれが普通の友情の贈り物だったら、私に喜びを与えてくれたことだろう。しかし、私はそれを受け取るのが嫌だった。
昨日は頭が変でパット(パットオブシルバーブッシュ)を書くのが大変だった。マドンナ・リリーが咲いたよ。美しい花だ。蛇の足跡がない。私たちのカラー映画は実に美しい。残念なのはフィルムがとても高価で写真は撮るのが大変なのだ。

1932年7月14日(木曜日)
牧師館、ノーヴァル
ローラ・アイルズワースが数日前から出かけてきている。ジョセフのような人種が手近にいるのは、なんと嬉しいことだろう! 私たちはたくさんの話をした。ローラの娘のパットが8月にジョージタウンの若い弁護士、ケネス・ラングドンと8月に結婚するそうだ。そして私は 花嫁介添え人になる。私のような年頃の女性が、パットのような若い花嫁の寮母になるなんてばかげた話だと思う。でもパットはその気になったのだ。
パットは、「L.M.M.」が寮母になったら、知り合いの女の子たちはみんな羨ましがるわ。と冷静に説明する。私は彼女を喜ばせるために譲歩したのだが、そのための理由はいくつかある。しかしローラと私は、結婚式の詳細を計画するのが楽しかった。ノックス大学のチャペルで、とてもシンプルな結婚式を挙げる予定だ。バーティが、ローラに小さな娘ができたと書いてから、もうそんなに経っていないようだ。そして今、彼女は結婚している。パットは可愛らしい毛玉のような子だ。ケンは、おがくずを詰めたようないい生き物です。二人はとてもお似合いで、人生がうまくいく限り十分に幸せになれるはずだ。私は二人のどちらかに賭けるつもりはない。ジョーダンの膨れ上がり。

1932年7月18日(月曜日)
今朝、マートルから手紙が来て、とても驚くような良い知らせがあった。彼女はずっと元気だ。この6週間、寒気も熱もなく、食事もしっかり摂れている、外に出てベリーを摘むこともできるようになった。とても信じられない。みんな 春になると、誰もが彼女について最も悲惨な予言を書いてきた。そして今、この太陽のような輝きを放っている! もしそれが この先も続くのであれば! この朗報は日曜学校のピクニックに同行している間、その日の退屈な時間を支えてくれた。
午後になると私は逃げ出し、湖の片隅の松林の中でベンソンのシャーロット・ブロンテに関する新刊を読んだ。魅力的な本だ。しかしシャーロットは、彼が描くような支配的で小さな地鼠のような存在ではなかったと思うし、おそらくティラン・サイルは、『ミセス・ミセス』のあまりにも聖人的なヒロインのような存在だったと思う。ラン・シールは、ギャスケル夫人の伝記に登場する、あまりにも聖人君子的なヒロインに似ていたのかもしれない。私は誰も本当のことを知らなかったし、これからも知らないだろうと思う。本当のシャーロット・ブロンテを知っている人、知っていた人、これから知ることになる人はいないだろう。
私はブランウェルが『ワザリングハイツ』の一部を書き、『ワザリングハイツ』にインスピレーションを与えたというベンソンの説を信用していない。ブランウェルの取り巻きの二人が、「彼はこの本の最初の数章を読んでこう言った」と主張した以外には何の根拠もないのだ。ブランウェルの取り巻きの2人が、ブランウェルはこの本の最初の数章を読んで、自分の作品だと言ったと主張する以外、何の根拠もない。彼らは真実を語っていたかもしれないが、私はブランウェルの発言を少なくとも信用しない。彼は他人のMSを読んで自分のものだと言い張ることは十分に可能だった。彼は間違いなく、チャーリーよりもエミリーの信頼を得ていた。
エミリーの信頼を受け何らかの形でMSを手に入れていたのは間違いない。Bensonは、CharlotteがBranwellに対して無愛想な態度をとったことを非難している。私は次のように想像する。天使なら、この状況下で同情的になるのはむしろ困難だと思っただろう。ベンソンには高慢で繊細な女性の心が理解できない、ただそれだけだ。私はシャーロット・ブロンテをとても愛しているので、彼女を軽んじようとする人がいると怒る。しかし彼女は、会う人会う人ほとんどを嫌いになってしまうという、うらやましい才能を持っていた。シャーロットには愚か者を喜ばせる才能がない。そして、その後に結婚した男性について、その後に結婚した男性についてこう言っています!

1932年7月21日(木曜日)
牧師館、ノーヴァル
火曜日、私たちはバラクラ夫妻と一緒にキングストンまで車で行った。グランド・ロッジの会合に行くためだ。楽しい旅を終えて今日帰ってきた。私はすっかり元気になった。水曜日には、サウザンド・アイルズでとても楽しい船旅をした。サウザンド・アイルズ(千島列島)をボートで旅した。どんな場所でも、その時の心の状態によって楽しみ方が変わるものだ。1919年にユアンと私がサウザンド・アイルズを訪れたとき、私はサウザンド・アイルズに失望していた。しかしそのときはユアンの病状を心配して何も楽しめなかった。しかもその日は暑くて霞んでいて、激しい風が吹いていた。乾燥した夏の日差しに照らされ島はカラカラに乾いていた。
この時は何もかもが変わったように見えた。空気は澄み渡り、島々は緑に覆われ花が咲いている。それは子供のころに思い描いたのと同じように、すべてが素敵だった。これほど素敵な場所はない。どんな場所でもそうだ。私はこの旅を楽しんだ。しかし今、私は再び戻ってきたことを感じている。

1932年7月30日(土曜日)
少年たちと私は木曜日にトロントにいた(スチュアートはエキシビジョン(体操の演技の展示)でのコンテストのために体育館で練習するため)。私たちはエレノア・アグニューを週末に連れ出した。週末を過ごした。パットに会いに来ていたケンも出てきて、とても陽気な人たちだった。スチュアートは、自分でも人ごみを盛り上げることができた。彼は私のような冗談を言い続けるという私の古いコツがある。ローラの娘が私の家に来てくれるなんてとても素敵だ。で、ちょっと信じられない。エレノアはとても愛らしい子だ。ローラには少しも似ていないけれど、態度はローラに似ている。会うたびにそれをより強く感じる。2年前、(西部にローラに会いに行って)私たちの友情が復活して以来、私はずっとローラに飢えていた。

1932年8月20日(土曜日)
私は最も素晴らしい一週間を過ごした。私の人生においてこのようなことは何年もなかった。私は若返ったようだ。8月4日にトンプソン夫人(最新の家政婦)は休暇のため帰郷した。最初の1週間は私は一人で家事をした、それが好きだった。唯一の不都合なことは、あの惨めなイゾベルが "週末は一緒に過ごそう" と書いてきたことだ。この迫害は本当に耐えがたくなってきた。彼女と過ごせば、しばらくの間安らぎを得られると思ったのだが......。(しばらくの間離れていてくれるだろうと)しかし、1回の訪問が終わるやいなや、彼女は次の訪問を懇願するのだ。もし私が彼女から解放されるのであれば! しかし不運なことに、彼女が友情で満足するという約束を守る限りは(実際には満足していない) 私は彼女に耐えるしかない。

8月12日(金曜日)
ノラとエビーが帰ってきた。エブは子供たちと一緒に川辺でキャンプをした。ノラと私は世界の縁の向こうの魔法の岸辺へ航海に出かけた。(歩きに出掛けた)私たちは昼間にすべての作業を一緒に行ったがとても楽しかった! 私たちは冗談を言ったり、美しいくだらない話をしたり、ただ楽しくてやってみたり。
何十種類もの新しいレシピ(遊び方)を試した。そして私たちは笑った。私が長い間知らなかったような笑いを。私はそんな笑い方を忘れてしまったと思った。そして毎晩、夕食の皿洗いが終わると、私たちは4マイルを歩いた、駅までの「タウンライン・ロード」を往復した。あのような散歩がこの世に残っているとは思ってもみなかった。そのときから月模様の影の中に身を置いた瞬間から、あらゆる心配事がまるで魔法にかかったかのように、私たちの心や魂から心配や不安のかけらも消し去られたようだった。希望は再び私たちの友となり、私たちはもう明日を恐れることはない。私たちはただ、私たちを見下ろした古い古い星の下で何度も何度もうろうろした。

"川辺のテント"

少女時代は、遠い海のそばでかすかな魅惑の月明かりの中をさまよう。昼間は何の変哲もない道だが、月光に照らされたその道は幻想的である。その道沿いの木々は、絶妙な銀色の茂みに立っているように見え、その向こうの野原には美が揺らいでいるように見えた。その向こうには野原が広がっている。空気はコオロギの鳴き声に満ちている。遥か彼方の丘や谷は、古くからの神秘と魅力に満ちていた。私たちは時々話をした。時にはただ黙って歩き、自分たちだけの野生の喜びを味わった。
話すときは、頭に浮かんだことを何でも口にした。私たちは軽いものから深遠なものまで、この世のあらゆるテーマについて話し合った。地上に飽きたら "島宇宙" の最も遠い秘密まで、天空を冒険した。時には詩を引用することもあった。ノーラが連句の最初の行を発声し私がそれを完成させる。一度だけ、ワーズワースの "Ode on the Intimations" の全文を朗読したことがある。「不死の予感に関する頌歌」の全文を暗唱したことがある。「われわれの誕生は、しかし、眠りであり忘却である。私たちの心は、互いに火花を散らしているようでした。機知に富み聡明であることは、とても簡単なことだった。
私たちは長い間閉ざされていた記憶の扉を開いた。色あせた喜びや、かつて苦悩していた古い悲しみを、私たちは再び見つめた。あるとき私たちは畑の門のそばで立ち止まり1時間もの間、完全な沈黙のうちにそこに立っていた。一言も発せず、ただ神の恍惚とした表情で、夕焼けの空の美しさに酔いしれた。薔薇色と濃い金色の夕焼け空を背景に、木々が永遠の安らぎを表現しているのを、ただ愛おしく思って眺めていた。私は今までの人生で、フレデでさえも、自然にこれほどまでに重要な意味を感じさせる人物に出会ったことがない。ノラ以外にはいない。私たちは
     スリルを感じる人たちです。
     美のスリルを感じる人たちです。

野原や森を一日中歩いていても、何とも言えない幸せな気持ちになれる。私たちは野原や森を一日中歩き回り、私たちを完全に支配しているような偉大なオーバースピリットとの何とも言えない完璧な交感を味わうことができる。何とも言えない幸福感に包まれる。月明かりに照らされたクレジット川の景色! ノラはある晩、娘が亡くなってから欠けていたものが自分の人生に戻ってきたと言った。そして私は、たとえつかの間であっても、私の人生に何かが戻ってきたと思った。そして私は少女時代にはなかった何かが、たとえ束の間であっても私の人生に戻ってきたのだと思った。ある夜、私たちは散歩から10時頃に帰ってきた。散歩道を歩いていると、「もしこれがキャベンディッシュだったら......」と私はノラに言った。これがキャベンディッシュだったらシンプソンズの一人だと言うだろうね」と言った。
そして中に入ると、そこにはエドウィン・シンプソンの一番下の弟、ミルトン・シンプソンがいた! 彼は休暇でムスコカ(トロントの北にある湖水地帯)まで来ていて、アメリカの大学で教鞭をとっていると知らせてきた。私がベルモントで教えていたころ、ミルトンはPWC(プリンスオブウェールズカレッジ)にいて、休暇になると帰ってきていた。その頃私は彼がとても好きだった。彼は見た目がよくて、他の子たちが持っているようなおしゃべりの熱狂はなかった。しかし彼はそれを発展させたようだ。
この日、その夜は10時から12時まで、ほとんど息つく暇もなくしゃべり続けた。しかもシンプソン家の奇妙な特徴である、質問しているのに聞いていないような印象を与えるような、そんな話し方をした。 その上、シンプソン特有の、質問をしながらもその答えをまったく聞いていないような印象を与えるのだ(うわの空で話している)。彼がいなくなると私はノラに言った。「ミルトン・シンプソンは、次に生まれ変わったらラジオになるんだ」。そして、それは最悪の罰になるだろう。それでも私は彼に会えてうれしかった! なぜか、彼は昔の島の味を持ってきたのだ。 "もうなくなった日々" の香りを漂わせている。エドはとても惨めで、完全に神経衰弱に陥ってしまい、仕事を諦めなければならなかったという。彼の貧しい妻は、20回の手術の後、内臓癌で死んだ。ひどい話だ! これが若さと希望と野心の行き着く先なのだ。もしそうでなかったら同じように哀れなことである。

エビーとノーラ

ある晩、ノラと私は旅程を変更し、タウンラインには行かずノーヴァルラインに行った。ノーヴァルの墓地まで行き、墓地を通り抜け、その向こう側に積まれた材木の上に何時間も座っていた。これは奇妙で病的でエキセントリックに聞こえるがそんなことはない。墓地の向こう側からは、月明かりに照らされたクレジット川を眺めることができ、それはだった。私たちはそれを眺めながら話をした。私たちの周りには松の木があり、空は月明かりで白く染まっていた。この場所全体が、「過ぎ去った亡霊の孤独な息吹に見放されている」。"過ぎ去った幽霊のようなもの" だった。しかし私たちの背後には、きらめく妖怪のようなモニュメントがあり、私たちには何の意味もなかった。私たちの死者はそこには眠っていないのだ。

クレジット川

もしキャベンディッシュの墓地だったら、古い湾と銀色の池を眺めながら、少なくとも私は霊的な存在に取り囲まれて何も話すことができなかっただろう。
ある日、私はイゾベルを...降ろした(家に呼ぶことにする)。ノラは彼女に対する好奇心で一杯だった。私のほうは彼女を寝かせることを約束し、彼女と二人きりで過ごす日の殉教を恐れていた。そこで私は水曜日に彼女を誘った。水曜日の朝イゾベルは素敵な朝を迎えた(モンゴメリ様のところに行ける)。
水曜日の朝はとてもいい天気で、イゾベルがバスに乗ってやってきた。彼女は一日中私と二人きりになるのを楽しみにしていたのだろう。ノラがここにいると知ってがっかりしたのだろう。最初の数分間、私は本当にあの子が泣くのではないかと思った。最初はノラも私も彼女を引き出して、一般的な会話を続けようとした。しかしそれは無駄なことだった。イゾベルは何も応えようとしなかった。私たちが彼女から引き出せたのは、せいぜい拗ねたように「はい」か「いいえ」で答えるのが精一杯だった。ノラと私はついに神経質に反応した。
そして変節の精神が私たちを襲った。私たちは、「やらない」と誓ったことをやりはじめた。イゾベルの前で互いを引きずり合おうとしたのだ。私たちは確かにそれを実行した。イゾベルは 私たちが互いに浴びせる侮辱や非難を耳を疑うかのように座って聞いていた。私との友情がどんなものなのか、彼女にとっては奇妙な発見だったに違いない。私との友情とはこういうものなのだと、妙に納得したことだろう! 
夕食のとき、私たちはさらに彼女を恐怖に陥れたに違いない。男の子たちはノラや私と同じように冗談を言い合った。しかし私たちは機知に富み、風刺に富み、愉快だった。イゾベルは決して笑わなかった。夕食後、私はやけくそになって、ノラが欲しがっていたフェムのためにジョージタウンの温室までドライブに行くことを提案した。往復ともイゾベルは不機嫌そうに座っていて、一度しか口をきかなかったが、私とノラは口げんかをやめて普通に会話した。帰宅すると雷雨に見舞われ、ノーラと私は夕飯を食べに行くまで、2時間くらい眠れなかった。
夕食の後チェスターが車でイゾベルを家まで送ることになったが、イゾベルはずっと無言で乗っていた。......不機嫌というより、ただただ怒りに燃えていた。誰もがそれを感じた、チェスターでさえも。私は彼女を会話に加えることをあきらめノラに話しかけた。私はイゾベルにとても腹が立ったのだ。彼女は降りてくることを許可してほしいと懇願した。私は彼女に、私の親友の一人に会う特権を与えるために来てくれるよう頼んだのだ。私の親友の一人であり、誰もが会ってみたいと思うような世界的な才女である。私は彼女を私の家族の親密な輪の中に迎え入れたのである。そして彼女の感謝はすべてこの行動だった。私はイゾベル嬢を膝の上に乗せて、健全で有益なお仕置きをすることを心から望んでいた。 初歩的なマナーや常識を教えるために、健全で有益なお仕置きをしたかった。

1932年8月25日(木曜日)
牧師館、ノーヴァル
パット・アイルズワースは今日、ノックス・カレッジのチャペルでケネス・ラングドンと結婚式を挙げた。 私は花嫁付添人を務めましたが、あまりおばあちゃんらしく見えなかった。私は紺の帽子をかぶり、紺のジョーゼットとレースのドレス、そして紅茶のバラのつぼみのブーケを身に着けていた。パットは 茶色のベルベットの帽子をかぶってとてもかわいかった。彼女の横に立って、私は2つのことを思い出した。結婚式の主役の一人だったことがある。1つはバーサ・マッケンジーの花嫁付添い人、バーサはもう死んでいる。2つ目は私自身のパークコーナーのパーラーでの結婚式である。

パットの結婚式

さて、今回が最後であることはほぼ間違いない。ちょうどこの原稿を書いているときに、私の手に緑色のハエがとまった。私は立ち止まってそれを見てみた。長さは1.5センチほどで、信じられないほど細長いので(虻のような物)、昔の幾何学的な定義「長さには幅がない」を思い出した。しかしそれは信じられないほど美しかった。淡い緑色で、その背中には白いエナメル模様がある。こんなのは見たことない。どんな力があの小さなものを完璧に作り上げ これほどまでに完璧に、そしてこれほどまでに美と技を無駄に(?)したのだろうか。私の目以外には映らなかった。何のためにあんなに美しく作られたのだろう。そして、なぜそれを作った力は、なぜこれほど多くの醜い人間を、そしてこれほど多くの苦しく醜い人間の人生を作ったのだろう。
今日、私の日記の第一巻をタイプライターで修正しながら、私は次のことに注目した。特に、昔パークコーナーで行われたある日曜日の記録は、当時の典型的な日曜日であった。クララ、ステラ、私の3人は、日曜日の朝起きて、教会に行こうと思ったら、歩いていかなければならないことに気づいた。車でもランナーでも通れないような早春の道だったのだ。私たちは教会に行きたかったのだが、とても とても行きたかった! しかし宗教的な熱意や礼拝への精神的な衝動が過剰だったわけではない。でも友達に会いたかったんだ。要するに教会は社会的機能だったのだ。ほとんど唯一の社会的機能であり、それを奪われるわけにはいかなかったのだ。だから私たちは皆、長行の説教場まで歩いて行った。その距離は行きは3キロ帰りは4キロ、全部で8キロだ。その日は快晴で夜中の霜で地面が硬くなっていた。私たちは散歩を楽しんだ。説教も楽しめたかもしれない。でも、正直言って何も覚えていない。私たちは2人の女友達を夕食に誘った。彼女らはやってきて、私たちはパーク・コーナーのディナーに大枚をはたいたのだ。パーク・コーナーのディナー、エイ・ディ・ミー! "Them was ディナーはディナーのままだった"
夕食後、私たちはフレンチリバーの日曜学校まで歩いて行った。 2マイルの道のりを歩き、パーク・コーナーの夕食を食べた。そして涼しく美味しい春の夕暮れ時に、私たちはスプリングブルックにある「イングリッシュ・チャーチ」(当時は英国国教会の教会と呼ばれていた)に歩いて行った。行きは4マイル、帰りは4マイル。門をくぐるたびに何人かの女の子や男の子が加わって、私たちはかなりの人数になった。とても陽気な群衆になった。しかし私たちは日曜日にふさわしく、決して騒がしくなく軽薄でもなかった。家に帰るときも、一斉に帰るわけではなかった。私たちは "ペアで " 帰りった。
家に着くと、パークコーナーのランチを食べた。そして一日の終わりを告げ、ベッドに入った。私たちの若い脚は、その日20マイルも歩いたのだ。今、P.E.アイランドやオンタリオで、そんなことをする人がいるのだろうか。おそらくそんなことはしないだろう。でも、もしそうしなければならないのなら、そうするだろう。その必要がないのは残念なことだと思うこともある。この辺りでは今、歩くことはほとんどない。車のせいで若者は損をするのだ。

1932年8月26日(金曜日)
牧師館、ノーヴァル
今晩は私の持っている3冊の『グリーン・ゲイブルズ』の挿絵を面白がって眺めていた。1908年のオリジナル版、1925年の新版、そしてメアリー・マイルズ・ミンターの映画の写真が付いている版だ、小説はいまや「挿絵付き」ではない。私の作品ではグリーン・ゲイブルズだけだ。ほとんどの小説には "扉絵" がついているのだがね。初版の絵はもちろん今となっては古臭い。奇妙なことに5年前のスカートが最も短かった頃と比べれば、今の絵はそれほど古風には見えないのだ。今、スカートが再び長くなり、"パフスリーブ" が登場したので、古い前立てはもう古い。『グリーン・ゲイブルズ』の古い扉絵(言いにくい言葉だ!)が襟が高く、髪が伸びていなければ、かなり現代風に見えるだろう。
しかし私はこの "新しい" 表装があまり好きではない。別の画家によって最新のものにされたのだから。グリーンゲイブルズらしさが感じられない。グリーンゲイブルズの雰囲気は、以前の絵ほどはないように思う。スキルは短くネックラインは低く、ベルトはウエストではなくヒップに巻かれている。古い絵では33ページのアンがグリーンゲイブルズに到着したときの絵も、私はもっと好きだ。それではマリラはもっと年取っているが、新しい絵では彼女はあまりにも若く、陽気で、険しい顔をしているというよりも、もっと少女のように見える。
私の想像していた重苦しく角ばったスピンスターよりも少女のようだ。マシューも旧作の方が良かった。アンはどちらもかなり良いが私は旧作の絵の方が好きだ。リンド夫人を侮辱している絵もそうだ。どちらも上手くはないんだけどね。マリラとリンド夫人は古い方がずっと良いが、姿としてはボンネットをかぶったリンド夫人を描いた後世の画家は正しい。彼女は訪問ではなく呼び出しに来たのだ。帽子を脱ぐことはないだろう。私は日曜学校に行くアンの新しい絵が好きだ。物語の中ではアンが他の女の子がポーチでひそひそ話しているのを発見したことになっているが。しかし明らかに教会内の座席に座って、開いた本を手にしている姿がが描かれている。スレートが砕かれるシーンは古い方がいい。私は新しい画のギルバートもアンも好きではない。アンは新の方が好きだ。屋根を歩くエピソードの絵は、どちらも実質的に同じであるが、私の時代には、P.E.I.のキッチンの屋根にある新しい煙突のような高い煙突はなかった。私の知る限り今もない。

橋の杭にしがみつくアンの古い絵にはいつもイライラさせられる。それはアンが髪を剪定した直後で、髪が短い巻き毛になっていた頃の出来事だ。ショートカールのリングレットだった。絵のアンは長髪だ。どちらのアンも私のアンとは全く違うが、新しいアンは最も貧弱である。アンはこんな人形じゃなかった。古い本のギルバートももっと良かった。旧作の最後の絵、黄昏の道でギルバートがアンと出会うところ、これも癪に障った。これはこれまた苛立たしいものだった。本の文章では、日没をとっくに過ぎているとはっきり書かれていた。しかしアンは開いた日傘を差しているように描かれている! また ギルバートは「帽子」をかぶっているが、絵ではおしゃれな麦わら帽子をかぶっている。そしてアンもギルバートも、まるで1908年のファッション・プレートの一部であるかのように堅苦しくなっている。
新しいのはもっとよくて、もっと自然で、もっと私が思ったとおりの人たちなんだけど。ギルバートの時代の少年たちは、「プラス4」もゴルフストッキングも履かなかった。アヴォリレアでは。マイルズ・ミンター版はもちろん、他の作品とは一線を画している。前掛けに描かれた「失われたマリア」の横顔は、私が想像していたアンによく似ている。マリラの髪は波打っていたが、アンにはそのような長いカールはなかった。駅で待っているアンは良いが、マシューのそれは不合理で、本では長い髭が描かれているのに、髭は剃っている描かれている。ほとんどの場合アンはどの絵でも良いが、彼女のバッグはカーペットバッグではない。
マリラはある場面の絵では下手で、ある場面では上手である。アンと雌鶏が寝室にいるシーンは本にはそんなものはないのだから不条理だ。マリラは、アンがキスをする場面の絵は優れている。ピクニックの場面は人工的で貧弱だし、アンとダイアナが一緒に学校へ歩いていくのも不条理だ。(二人の家は近くにはない)。エレインを劇化する場面では、絵では7人の少女が写っているのに、物語では4人しかいなかったのだ。全体として、この物語は「新版」の挿絵に負うところがない。(見るべきところがない)

1932年8月27日(土曜日)
牧師館、ノーヴァル
今日、イソベルから手紙が来た。私はイソベルからの手紙が来るのをずっと恐れていた。昨年の冬に同じような失望を味わったときの手紙を思い出して、同じような暴挙に出るのではないかと思っていた。しかしこの手紙は比較的まともなもので、彼女は「驚くほど楽しい」一日を過ごしたと私に告げた。 愉快な」一日だったと書いてあった。まあそうかもしれない。しかし彼女はその事実をうまく隠していた。
それにもかかわらず、彼女は私が禁止した「崇拝」をかなり入れてきた。そして彼女は、自分が帰る前に私に会いにこないかと涼しい顔で聞いてきた。彼女は10月に東へ行く前に、「さようならのキス」をしたいのだ! 彼女がここにいるとき、ノラが私に出発前に時間を割いて会いにきてくれないかと頼むのを聞いていた。彼女は、私が「絶対に無理だ」と答えたのを聞いていた。本を書き上げなければならないし、息子たちを大学に行かせなければならないし......。それなのに彼女は私がノラの家に行かないのなら、自分の家に来ることもできるはずだ......と、勝手に想像している。

1932年8月31日(水曜日)
9/10の日食で猛暑の一日はとてもおもしろかった。私たちはスモークグラスで見た。昔、家でも同じようなことがあったのを思い出した。20世紀の初期、あるいは前世紀の後期、家でも同じようなことがあった。祖母と私は台所の階段でジャガイモのセットを切りながらそれを見ていた。今同じ現象が繰り返されていた。
独特の鮮やかな青色、全世界を覆う不気味な光、消えゆくような減衰する光、そして最後の段階では、壁や床に三日月型の光が飛び散るという現象が繰り返された。壁や芝生の木漏れ日に三日月のような光の飛沫がかかる。日食を初めて見た原始人は、さぞかし恐ろしかったことだろう。立ち尽くす 太陽が文字通り食べられてしまうのを目の当たりにし、永遠に消えてしまうのではと不安になったろう! 
今夜、星空のビロードの夜、ラッセルの丘の松の木の上でフクロウがとても楽しそうに鳴いていた。私はベランダに座り、夜のプールのように深く静かな影の中で、ノラも一緒になってその声を聞いていた。フクロウには何か不思議な力がある。彼の名前そのものが運命づけられているのだ。フクロウは、フクロウ以外には呼べない。カエルが、あの面白くて、愛おしくて、魅力的で、不条理な言葉であるように カエル以外の何ものでもない!

1932年9月2日(金曜日)
牧師館、ノーヴァル
スチュアートが体操競技に出場することになったので、今日はみんなで展覧会に出かけた。彼は高鉄棒で金メダル、全カナダ選手権で2位で銀メダルを獲得した。16歳にしては上出来だ。

1932年9月5日(月曜日)
昨夜はとても不思議な夢を見た。私はモリーと一緒に古いキャベンディッシュ・ホールにいた。私たちはまた女の子だった。私たちはちょうどホールから出てきて、そのホールで立っていた。

牧師館のベランダ、1932年

月明かりに照らされた群衆。ネイトとジャックは少し離れたところにいたが、私は話しかけようとはしなかった。話しかける理由もなさそうだった。私たちは皆、若返り、そこに属しているのだ(昔のキャベンディッシュ)。やがてネイトは道路に出て、そこに停まっていた車(馬車)のそばに立った。群衆の誰かが、「かわいそうに」という声が聞こえた。その瞬間、私はネイトに会うのは何年ぶりだろうと思った。行って話を聞いてこようと思った。私が車を走らせると、彼は車のドアに手をかけて振り返り、私を見た。彼は青白くしわくちゃだった。――彼の髪は雪のように白く顔には涙が流れていた。夢は破れ、解け、私はアマンダと月明かりの道を歩いていた。アマンダは私に、ある友人についての非常に悪い知らせを伝えようとしていた。誰なのか、どんな知らせなのかは、目が覚めるまでわからなかった。しかし、その 夢は一日中私を悩ませていた。

1932年9月11日(日曜日)
ノラは先週の火曜日に出てきて今日までいた。私たちはまた楽しい時間を過ごすことができた。木曜日の夜、私たちはまた駅まで歩き、戻ってくると、ノーヴァル・ダムの最も絶妙な月光効果を見た。火曜日の午後、私たちは昼間のハイキングに出かけた。砂利道は足の裏に負担がかかるので、底の薄い靴を履いていた。ノラはEbを、私はStuartを連れていった。私たちの足の外観はとても奇妙なもので、私たちはそれをひどく意識しながらノーヴァル通りを歩いた。
しかし橋を渡り、秋の日差しが差し込む町並みの中に入ると、私たちはもうそのことを意識することはなかった。足裏が気にならなくなったし、誰も見る人がいなかったからだ。私たちは駅までホールのような道を歩いた。駅まで行き、柔らかな黄金色の野原を横切って森に下り、徘徊し探索した、そして、川沿いを歩いて帰ってきた。川沿いの道を歩いていると地図に描かれた堤防の間から、リンゴの木が伸びているのを発見した。カエデや松の木に混じって、土手から伸びているリンゴの木を見つけた。鳥が落とした糞の種から育ったリンゴの木で、砂漠の空気に触れて甘さを失っているリンゴをたくさん積んでいた。
そのリンゴは、パイを作るのにちょうどいいほど酸っぱかった。ノラと私は、月明かりの下で一人一籠ずつ集めて帰ろうと誓った。そして、牧草地を横切り、ドレスとホースを文字通り「棒タイツ」で固めた。 オンタリオに生えている "スティックタイツ" という怪しげなものである。本国ではスティックタイツと呼ばれているものではないが、絹のホースにとっては10倍も悪いもので、ただただ台無しになる。しかし私たちは「風と太陽と黄金の日」の午後を過ごしたのである。その値段は安かった。
夜が明ける前の小さな紫紺の時間に、私たちは再びそれぞれバスケットを持って出発した。今度は、タイツを避けるためにホステルの庭を通り抜け、やがて私たちのリンゴの木を見つけた。私たちは、リンゴを落としたり拾ったりするのが楽しくて、痙攣で死にそうになりた。それからバスケットを茂みに隠して川をさかのぼると、あるところに出た。川をさかのぼると息をのむような美しい場所があり、私たちは木の幹に2時間以上座って、ただただその美しさに見とれていた。その2時間の間、私たちはほとんど話をしなかった。これほどまでに美の愛に近づき、美と一体化するのを感じたのは初めてだった。それはただそこに座って、音と光景の愛らしさに酔いしれるだけで十分だった。水面に映る月光の輝き、水面を横切る木々の影、月下の川の銀色の笑い声(水の流れる音)。やむなくそこを立ち去ったとき、私たちは時間が経っても壊せないものを手に入れたと二人は感じた。

"私たちが座った場所"

リンゴの入ったバスケットを持ったままホステルの庭にたどり着いたとき、私たちは衝撃を受けた。そこで私たちは、私がこれまで経験した中で最も楽しい冒険をしたのだ。その理由を説明するには時間とスペースがかかりすぎるから、それはやめておこう。しかしそれが終わったとき、ノラと私はただリールを巻いただけだった(映画の一場面を見終えた)。ホステルの長い木陰の小道を、笑いに酔って、あるいは夜の銀のワインに酔って転がり落ちていった。「人生の灯のない12月」に、もし訪れることがあればそのことを思い出すだろう。月の下で笑う2人の陽気な幽霊を見ることになるだろう。
採ったリンゴについては、昨日の夕食にリンゴのパイを作って食べたが、今まで食べた中で一番おいしかった。
今、市場に出回っているリンゴは、本物のパイを作るには十分な酸味がないのだ。アップルパイを作るにはどんな砂糖でもいいから、酸っぱいリンゴを使いたい。酸っぱいリンゴには甘いリンゴにはない風味がある。私は祖母のパイを覚えています。ショートニングの代わりにクリームを使ったパイ生地は、特に「おいしい」。 祖母は私に「ターンオーバー」を作ってくれた。おいしそう! 今、味わっているところだ。 (酸味と甘みのバランス)

私たちが座った場所からの眺め

レアード家の結婚式の集合写真

昨日、ユアンと私は地元の結婚式に出席した。ベッシー・レアードである。そしてまた夕方、ノラと私は駅まで歩いて行った。「友情の糧」による神々しい食事をし、話の色で景色を照らした。夕暮れの丘が紫のスカーフを巻いている間、私たちの話の色で景色を照らした。
今日、6人の孫を持つネリー・ディングウォールから手紙をもらった! ――マートルの健康状態はかなり良くなっているとのことで、結局、彼女は私を説得してくれるのではないかと思い始めているそうです。私は少し希望が持てるようになった。もしマートルが本当に回復したらどんなに素晴らしいことだろう! ノラは今朝家に帰った。私は彼女が庭を出て行くのを見送った、まるで青春が戻ってきたような気がした。全てがちょっと素敵すぎたわ。愉快だ、神々はどんな代償を要求するのだろう。(運命の神は愉快の後には悪いことを起こすぞと)

1932年9月12日(月曜日)
オンタリオ州ノーヴァル、牧師館
月明かりと銀の美しい夜。私はノラに会えなくて寂しかった。モード・キャンベル(エラの子)は夏に入学を許可され、P.W.C.に行くことになった。私は彼女の入学費用を捻出しなければならない。私は彼女が自分で生活できるように十分な教育を約束した。もし彼女が合格すればホームスクールを受けられるようになり、少しはみんなの役に立てるようになるだろう。しかしそれは私にとっては辛い時期だ。
マートルから手紙をもらったが、彼女は本当に良くなっていて、1ヶ月間風邪をひいていない。この1ヶ月間熱も出ていない。あまりにも良い話だと思い。私は希望に対してとても不信感を抱くようになった 。

1932年9月14日(水曜日)
神々が法案を提示した。昨夜、エレノア・アグニューから手紙が来て、彼女の母親が1週間前に亡くなったと教えてくれた。彼女は先週の金曜日に埋葬され、お墓のセメントの下にいた。私がノラと月夜の川辺に座って、とても幸せな気分になっていたときだ! 恐ろしいことだ。
もしこれが2年前に西を訪れる前に起こっていたら、私はこのように切実に感じることはなかっただろう。このような鋭敏な苦痛を感じることはなかっただろう。しかしその訪問の間に、私のローラに対する昔の深い愛情が私の人生の中で以前の居場所を取り戻し、とても身近で大切な存在になった。私は彼女が死んだことが信じられない。あんなに明るくて、あんなに楽しくて、あんなに生き生きとしていて、あんなに愛されていて、あんなに必要とされていた人が死んだなんて...。
ローラのいない世界なんて信じられない。ウォーマンジャンクション(乗換駅)での嵐の夜、ローラと別れたとき、私たちは永遠に別れるのだと思った。そして帰路のサスカトゥーンで会った数分間も、私の心からその確信が消えることはなかった。私は、最後に見た彼女の姿を思い出す。ゆっくりと走りだす列車の横を歩きながら、彼女はそれについていけるほどだった。私に手を振って微笑んでいた! ローラ――ローラ! 彼女はまだ58歳だった。私たちは同じ年に生まれた。彼女は2月に、私は11月に生まれた。かわいそうなエレノア! 家から遠く離れて知らない人たちに囲まれて、彼女は母親にとても献身的で、母と娘というより姉妹のようだった。
     ここに心の結びつきはない。
     ここに終わりを見出さないものはない......。

1932年9月15日(木曜日)
イゾベルからのうんざりするような手紙が今日のハイライトだった。今の私の気分は苦渋と悲しみに満ちていて、彼女の迷言には我慢がならない。
"マクドナルド夫人、親愛なる人へ、 聞いてください。あなたは親愛なる夢見がちな人で、いつも言われたことに耳を傾けてはくれません。この願いの意味は、文字通り「聞く」ことではなく、むしろ理解してほしいということなのです"。
フン! 私はイゾベルが思っているよりずっと「理解」している。私は「夢見る」ものではない。「夢見る」ようなことは全くないのだが、これは間違いなく、私が彼女の手紙に書かれている心を乱すような多くのことを無視していることが影響している。彼女の手紙には、私にとって不愉快なことがたくさん書かれている。
"私はあなたをとても愛しています。それ以外のことをしようとしても少しも意味がないんだ。またその必要もないと思う。自分に嘘をつくようなものだ"。
私は彼女にこれ以上「ラブレター」を書くことを禁じ、彼女はそうしないと約束した。"嫌と言うほどの物ではない" の方が正しいだろう。
"あなた、私が他の友達よりあなたを必要としているのがわからないの?" "私の淡白な外見の下に、激しく燃えるような憤りがあることに気づいてほしい。恨みを抱いていることに気づいてほしい。私の哀れな姿に、ほんの少しでも同情していただけませんか? 私を憐れむ気持ちにさせられないだろうか? 
どうして彼女は、他の友人たちが自分よりも私を「必要としていない」ことを知っているのだろう? そして私は "憤りの底流" (レズの欲求)を十分に理解している。あの日、彼女と一緒にいた誰だろうと気づかないわけがない。彼女はそれをどう正当化するのだろう。彼女が唯一訴えることができるのは、私が彼女に肉体的な愛撫を与えないということだ。「彼女を憐れむ」というのは、私の考えからすると、憐れむというのはとても遠いことだと思う......。 しかし彼女は生き続け、私のローラは連れ去られた! なんて馬鹿げた、そしてティ・リゾーム(根源的に間違った)な世界があるのだろう!

1932年9月18日(日曜日)
牧師館、ノーヴァル
昨日、かわいそうなエレノアが出てきた。私のところに来なければならないと思ったそうだ。彼女は傷心しているが、ここに来たことで救われたのだと思う。母親のことを 知っている人に話したかったのだ。ローラが結婚したとき、ブライダルリースのオレンジの花を私に送ってくれた。私が結婚するときにはそれを身につけるようにと、私の結婚式はまだだったが、でもその小さなつぼみはずっと持っていて、結婚するときリース(花輪)にねじ込んだ。
今夜、私はそれを手に取り、自分のリースのスプレーに絡ませてエレノアに渡した。私にはそれを身につける娘がいないので、エレノアに渡すのは次善の策である。彼女はとてもかわいい子だ。でもローラの娘は、それ以外にはありえない。ローラは死んだんだ! 私が思うに、もし信じられたらそんなに傷つくこともないだろう。それを受け入れて、自分を諦めることができるかもしれない。でもそれを信じろと言われるのはとても愚かなことだと思う。墓場のこちら側にはアマランス(ヒユ科の植物)の畑はない。声もないのだ、どんなに調子のいい声でもすぐに消えてしまう; どんな名前でも情熱的な愛が繰り返され、その響きが最後にかすかでないものはない"
グローブ紙(ボストンの日刊新聞)の編集者ハモンド氏とその友人一行がこの地を訪れた、ハモンド氏とその友人の一団が今日の午後ここに来て、私の写真と古いウールナーの水差しの写真を撮っていった。ハリエット・ケンプの船乗りの恋人が、最後の航海の時にアムステルダムで彼女のために特別に作らせた水差しだと祖母から聞いていた。ハモンド氏の友人の一人はモード嬢だった。

モードと古いウールナーの水差し

古い陶磁器の収集家である女性によると、この水差しは間違いなくイギリスの古い「サンダーランド焼」だそうだ。「Sunderland "焼だと言っていた。祖母は混同していたのだろう。おそらく恋人が最後の航海に出る前に、ハリエットに水差しを渡したのだろう。
今夜、私はローラの名前を、誕生日カードを送りやすくするために保管している小さな「誕生日リスト」から消した。このペンは(誕生日リストから消すために引いた線であろう)、私の心に傷をつけたと思う。

1932年9月21日(水曜日)
牧師館、ノーヴァル
今夜、アレクセナ(プリンスアルバートのもう1人の友達)からローラの死について書かれた手紙を受け取った。彼女は本当に膿んだ胆嚢が破裂して腹膜炎で死んだ。もし手術が48時間早かったら、彼女の命は救われたかもしれない。「もし......もし......」。
アレクセナは、「ローラは子どもたちのために命を捧げた」と心から言う。大学の寄宿舎に入り浸ったのも、子供たちの教育のためだったのだ。そうであってはならない。そんなことはない。ローラはただ疲れていたのだ。

1932年9月24日(火曜日)
チェスターは今日、鉱山工学の2年目に入るため大学に戻った。昨年は73%の成績だったにもかかわらず、私は彼のことを安易に考えることはできない。私はチェスターがこの職業を選んだのは間違いであったという思いがある。だが私の推論に反して「落ちない」のだ。彼がこの職業に向いているかどうかは疑問だ。もしそうなら私は、というのも危険や欠点があるにせよ、この職業は「来るべき」職業のひとつだと思うからだ。
しかし彼はこの仕事を続ける決心をしているようだ。 二人の男の子を社会に送り出すということは、なんと深刻で不安な仕事なのだろう。大変なことだ。私は彼らが小さなおいしい生き物だったとき、とても幸せだった。家庭の保護を受けていた頃はとても幸せだった。でも今は違う! 
先日、眠れずに何か気を紛らわすものが欲しくて、Ardathを読み直した。忘れられた哀れなコレルリは物語を語ることができた。その多くの狂気にもかかわらずArdathはあなたを魅了する。彼女はどれほど忘れ去られているのだろう! そして30年前、彼女の本は世界で最も話題になり、書かれ、非難され、軽蔑されたものだった。世界のどの本よりも。この世の名声はシックに移り変わる。あと30年もすれば、誰もL.M.モンゴメリが誰であったかも知らないだろう。しかしそんなことはどうでもよいことだ。何が重要なんだ? 何が重要なんだ? 
私は月曜日に島へ出発する。そんな余裕はないんだ。しかし私はそれを見なければならない。見てみたいんだ。3年ぶりに故郷に帰りたくて故郷の風景に飢えているんだ。樺やトウヒの木立に吹く風をもう一度聞きたいし、モミの木の香りを嗅ぎたい。海との友情を取り戻し、昔のようにラスティコ港に月が昇るのを見たい。薄暗い青い海岸を歩き、砂丘の上に星が沈んでいる間に、失われたささやきを聞きたい。そして古い友人たちと一緒に酒を酌み交わしたい。古い友人たちと歓談し、ジューシーなスキャンダルやスパイシーな悪魔のようなゴシップを聴きたい。だから私は節約に節約を重ね、お弁当を持っていくつもりだ。睡魔に襲われることもない。家に帰るか冬を越せないかだ。一ヶ月の自由がある! もちろんこのような世界には本当の自由というものはない。ありえない。"自由になるとは、主人を変えることだ" という言葉を何年も前に本で読んだことがある。しかし、ある「主人」は他の「主人」より優れている。

1932年10月2日(日曜日)
牧師館、ノーヴァル
昨夜は、いまどきよくある神経不安の夜だった。何が原因かはわからない。でも、今日は素敵な日だった。ノラとネッドが来てくれて、ノラと私は川を散歩した。心地よかったけど、あの月夜の魔法はもうない。私はローラのことをずっと考えていて、優雅な秋の日は悲しみに満ちていた。
私は今夜、「島」に出発する。トロントまでモーター(自動車)で行き、モントリオール行きの列車に乗る。こんな暗く、秋の早い夜に家を出るのは好きではない。それは憂鬱なものである。

(ここでノーヴァルへの帰投後に移る)

1932年11月13日(日曜日)
オンタリオ州ノーヴァル、牧師館
少なくとも肉体的には、また戻ってきた。精神的には私はまだ私の島にいる――そこで私は幸せな1ヶ月を過ごした。丸々1ヶ月の幸せ、なんという宝物だろう! それは3年前のような陽気で浮かれた訪問ではなかったが、パターンとしては不思議なほど似ていた。そのようなものだった。しかし
     地上でも天国でも、何事も
     前と同じように来ることはない。

それに比べれば、今回の滞在は「月光から日光へ、水からワインへ」のようなものだった。しかし月明かりはとても素敵で日光にはない魅力がある。私は主に美しい時間を過ごした。私はすべての心配事や悩みを捨て去ることができたようで、その1ヶ月間は少女に戻ったようだった。
ある日の午後、私は小川を渡った。ここにはまだ古い「丸太」橋の名残がある。 「そして、トウヒの木立を抜けて、かつて「ピアスの野原」だったところへ行った。今はマッコウブレイの畑になっていると思う。でもここは本当に私の畑なのだ。大好きなんだ!
私が結婚するまでは、北西の角はカエデとトウヒの美しい木立で埋め尽くされていた。結婚後すぐに切り倒され、私はピアース・マクニールに対する私の意見をこの日記に記した。この日の午後、私は気づいた。その角はまたカエデとトウヒで埋め尽くされていた。カエデやトウヒが植えられている。そして愛する木々を殺され、心を痛めていた思い出は「つい先日のこと」のように思えた。大きくなったものだ」と言った。そして以前の木々が切り倒されてから20年経っていることを思い出した! だからまた大きくなっていても不思議はない。
あの美しさが戻ってくるとは思ってもみなかった。復活したのだ。でもそこにあったのだ。恋人の小径が再び素敵になることはあるのだろうか。私はそうは思わない。今、この場所で唯一美しいのは茂みのある上の橋だけだ。20年前には木が1本もなかった。
キャベンディッシュにはもう一つ変化があった。学校は道路を越えて、かつて果樹園の下にあった小さな畑に移動した。これは間違いなく良いことだ。そのほうがいい。ちゃんとした運動場を作るスペースがあるのだから。でも以前の場所(現在のお化けの森の中)はとても荒れ果てた感じがしてそれが私を苦しめた。ほとんどの夜は大丈夫だったのだが、ある夜大雨が降ってきて、マートルと私は居心地の良いリビングルームで、本を読んだり、話をしたり、空想の仕事をしたりした。
雨は窓ガラスにぶつかり、風は荒々しい音楽を奏で、遠くで湾が音を立てている。こんな荒れた雨の夜でも、この愛すべき農場では楽しい。雨はおいしくより甘く感じられた。というのも去年の春に、もう二度とこのようなことはないだろうと心配したからだ。マートルの回復は奇跡的としか言いようがない。昨年の秋にアーネストが手術をした時、医師は彼女が膵臓の癌で、数ヶ月しか生きられないと言ったそうだ。同じ医師が、今は完全に元気で気をつければ長生きできるかもしれないと認めている。と言っている。マートルが病気だったとき、私は古い本「サイコロジカル・ロー」の提案に従って、執拗に「精神的に彼女を癒す」ようにした。毎晩、眠る前に潜在意識に彼女を治すように命令した。そのせいだろうか?
いや、本当に信じることができない。私はそんな運命論者になってしまった。すべてが運命づけられている。私たちはそれを助けることも妨げることもできない。その信念は私の心に揺るぎなく刻まれ、これからもずっと持ち続けるだろう。

私はウェッブ家(グリンゲイブルズ)を離れるのが嫌だった。私はいつも自分が幸せだった家を離れるのが嫌なのだ。幸せというものはとても希少で貴重なものだからだ。でも私はアレックの家では、また楽しい時間を過ごすことができた......。 ミニーと "午後を過ごす" ために行ったんだ。この古い言葉が好きだ。 午後のひとときを "過ごす" というのはとても贅沢で豪華な響きだ! レンが亡くなってから初めての訪問だった。彼の陽気でフレンドリーな姿がとても懐かしかった。存在感があった。でもミニーもいたし、結婚している娘も2人、この日のために家に来ていた。
そして私たちは予定していた散歩をした。その日は天気に恵まれ、遠くの海が紺碧の恍惚に輝いていた。私たちは森を抜け、白樺の生い茂る野原に向かった。褐色のスパイシーシダが生い茂る白樺の生い茂る野原へ。徘徊する観光客に全く気づかれることなく、P.E.I.の農場の奥に隠れていることが多いのだ。そしてまた別の森の小道を通って家に帰り、黄金の瞬間を満喫した。そしてミニーの息子のウィルが、港に向かう古い「ショアロード」をドライブしてくれた。そしてみんなで灯台の明かりに登り、砂浜を駆け上がる泡の白いライダーを見た。
帰り道、私は皮肉なジョークに出会ったが笑わなかった。皮肉屋のタイムが好む皮肉なジョークに出会った。ウィル・ヒューストンの家を通り過ぎたとき、女の子のひとりが「彼が喜ぶから、ちょっと車で来てみようか」と言った。私は承諾した。ティリーが眠りについて(死んで)から初めて、私は小さな白い家へと車を走らせた。そこはティリーが生きていたころのような整った場所ではなかった。いたるところで腐敗が進んでいた。庭にはゴミが散乱し、灰色で錆びないトイベッドが置かれていた。
ウィルは家ではなく、丘の向こうの丘のカブ畑にいることがわかったそこで私たちは車を走らせ、ウィルは車に乗って私たちに話しかけてきた。私は20年ぶりに彼に会った。そのころの彼は体つきもよく 中年末期のハンサムな男だった。しかし今はかなり老けていると私はそう言われていた。しかしその現実を目の当たりにしたとき、私にはその覚悟がなかった。老いた! 私は彼だとわからなかっただろう。彼は年月の軌跡を残し、揺れ動き、漂白され、老いている。私は彼を見た。私の手にしがみつき、幼稚でぼんやりとした話し方をする彼を私は見た。そして私は思い出した。私はかつて、実際にこの男のことを何度も恐れたことがある。そしてそれはとても馬鹿げているように思えた。まあ、私もいつかは老いて漂白され、老人になるかもしれない。そして男性はこう言うかもしれない、 男の目から見て彼女は魅力的であっただろうか? 人生は残酷よりも美しいのか、それとも美しいよりも残酷なのか?

でも今日はいい一日だった。そして次の日はもっと良かった。その日も黄金の日だった。そしてアレックとメイと私は、また戻ってシークレットフィールドを見た。3年前私とメイが森で過ごしたあの日の午後......。アレックからたくさんの素敵な野原や角の場所を聞いたものの、見つけることはできなかった。
だから今回、アレックは私たちと一緒に行ってその場所を教えてくれた。私たちは車で彼の畑を通り抜け、森の境界線まで戻ってきた。木道に飲み込まれる直前だった......木道というのは、あちこちに陽の光が差し込んでいて、魔法に満ちあふれている 私たちは湾を見ようとした。キャベンディッシュで変わらないのは、畑のはるか下にある、柵のないエーカー地帯の峡谷である。塀に囲まれていないその土地は、濃く華麗な青色をしている。オンタリオの湖は、本当の青さを知らない。
そして私たちは森に飛び込んだ。森には相変わらず秘密がいっぱいで、彼らは私たちにいつも囁きかけていたが、決して囁かなかった。アレックは私たちを秘密のフィールドへと導いてくれた。こんな光景は見たことがない。私はその光景を目の当たりにしてすぐに、そして永遠に魅了された。私は常に森のものである。そこは2エーカーほどの小さな野原で細長い。ラスティコのマクルーア一家が自分たちの土地だと思い込んで、農場の裏の森の中の畑を開拓し始めたらしい。
新しく測量が行われ、それがアレックの土地であることが判明した。アレックはすでに自分の土地以上に開拓していたのでその畑には何もしなかった。羽毛のようなベントが生い茂る畑になった。そしてそこは完全に森に囲まれていて、一本も切れ目がない。独特の魅力がある。トウヒやカエデ、シラカバやブナなどが、厚い切れ目のない壁となって周囲を取り囲んでいる。その周囲はまさに妖精の宴の場である! 
私はその場所に立ち、木々の緑が生い茂る早春の頃を見た。夏の夜、夢のような月明かりに照らされた木々を見て息を呑んだ。秋の輝き、冬の雪が降り積もった後の冬の薄明かりの中で見た。そして、私はそれをとても愛した。それ以来、ホームシックで死にそうになっている。書いている今も、暗くて静かで、秘密の知恵に満ちているその姿を。モミの木と葉のないカエデに囲まれ、私の古い星々がそこを照らしている。それは長くは生きられないだろう。すでにその曲がり角には、小さなトウヒが羽を生やしている。数年後には、森に取り残されてしまうだろう。しかし私はそれを見て、永遠に私のものだと思った。
私たちは「木の女王」と「シダの姫」を訪ね、絹のような囁きと魅力的な影を持つカエデの小径を通った。私はまた若返った。森の中ではいつも若々しくいられる。そして喜びをかみしめながら家路についた。
水曜日は風が強く曇りがちだったが、穏やかな天候だった。私は海岸沿いの古い家まで歩いて行った。ハモンドの家だった海岸沿いの古い家を訪ねた。悲しい訪問だった。エミリーは年をとり、体が曲がり弱くなった。笑いはなかった。ボブの家で夜を過ごしたが笑いもなかった。私たちは3年前のあの夜、笑い転げたに違いない。それを繰り返すことはできなかった。

そこには、私たちのジョークや思い出とは無縁の見知らぬ人たちが訪れていた、私たちは楽しい夜を過ごしたが、それ以上ではない。ボブは元気がなく、見た目も......今回、多くの島の男性がそうであったように弱々しく、青白く、老けて見えた。昔の陽気なボブとは似ても似つかない。ああ、時の流れは私たちに何をもたらすのだろう! 
しかし次の晩は、土砂降りの雨と寒さにもかかわらず笑い声が絶えなかった。灰色の海を覆う雨の波にも負けず笑いがあった。スターリング夫妻(牧師夫妻)がやってきて、私たちは楽しい夜を過ごした。そして翌日、彼らが去った直後にアルマがやってきた。彼女は法的には エイドリアン・マクルーア夫人だが、私にはアルマ・マクニールとしか思えない。12年ぶりに彼女に会った私は、その変わり果てた姿に衝撃を受けた。金色の髪は雪のように白く変わり、青い瞳は衰え、野生のバラのような顔色は消えていた。しかし彼女の微笑みは相変わらず甘く、私たちは定期的に話をするようになった。結婚し母になり、見知らぬ土地に滞在するようになってから何年も経つのに、不思議なものだ。「島」に戻るとすべてが消え去り、そこが再び私の故郷になる。私の家だ。
しかしその晩は最悪だった。結婚以来、訪れるたびにアレックの家での最後の夜は最悪で、その後も訪れるたびに少しずつ悪くなっていった。というのも翌日キャベンディッシュを離れるとき、私はいつもこう思うのだ。もう二度とガートモア農場の屋根の下で眠ることはないのだろうかと。私はひどく悲しい気持ちになった。恐ろしいほどの孤独の痛みが私の魂を引き裂いた。風が吹きすさぶ。"夜が深まるような未来は不吉で 暗い"。1時間ほど泣いた後、私は眠った。そして翌日は晴れアレックとメイとマートルと私は、3年前の日曜日と全く同じようにドライブした。
ただあまり笑わなかった。私たちはパークコーナーに行き、パークコーナーの伝統的なアヒルの夕食を食べた後、エミリー叔母さんに会いに行った。アレックと2人のMは夕食後に帰宅し、私は老いを感じた。しかしパークコーナーが再び活気を取り戻すのを見るのは楽しいことだった、牛舎には牛がいて、子牛は走り回り、荷車は行き来している。ジムは初年度に大成功を収め豊作だった。収穫があればいいのだが......。
しかし今の時代は、農場はどこもかしこもひどい状況だ。そう、ジムはよくやった。しかし私は自分が支持するもの、愛するもの、興味を持つものに対して、とても迷信深くなってしまった。私は幸運をもたらす人間ではない。私に関係する人や場所に幸運をもたらすことはない。このことは何年も前から気づいていた。だからパークコーナーに希望を感じることができない。ステラもとても奇妙な行動をとっていて、私はすっかり彼女に嫌気がさしている。
火曜日の夜、エラと私はヒースの家で夕食をとった。大きな応接間で火を囲んだ。壁の絵や窓のカーテン、マントルの上の大きな鏡に至るまで、すべてが祖父の時代とまったく同じである。私たちは昔話に花を咲かせた。それでもまだ、パークコーナーでの生活にはそのような瞬間がある。私はイライザ叔母さんが好きではなかった。イライザおばさんも私も、昔はあまり好きではなかったのだが、最近はお互いに好きになってきた。たとえ変わっていても、彼女はモンゴメリーの伝統に則った女性だ。これ以上の伝統はないだろう。彼女は80歳を過ぎているが、その黒髪は冬の間そのままで、精神力も衰えてはいない。しかしヒースの妻は親切で下品な生き物だが、彼女の代わりにはならないだろう。そしてイライザ叔母さんがいなくなれば、その家に100年以上前からあるものが消えてしまう。 "カーストの慣習" (身分の習慣)である......。

P.E.島での最後の夜はケンジントンで過ごしたが、とにかくひどいものだった。 恐ろしいものだった。決して忘れることはできない。しかしそれは笑うためである。笑ってため息をつく。本当に笑ってしまうほど悲しかったからだ。ティリー・マクニール・ベントレー(今は未亡人となり、ケンジントンのとても居心地の良い小さなバンガローに住んでいる)は、私がケンジントンに着いた直後、アマンダに手紙を書いていた。 私がキャベンディッシュに着いてすぐ、ティリー・マクニール・ベントリー(今は未亡人、ケンジントンに住んでいる)がアマンダに手紙を書いて、私が帰国する前に彼女に会いに行くようにと伝えてきたのだ。そこで私は島での最後の夜を彼女と過ごすと書いた。
ヒースは私を水曜日の夜にケンジントンまで送ってくれた。水曜日の夜、ヒースの運転でケンジントンまで行き7時ごろに到着した。私は雨戸のある玄関をノックして、しばらくすると、誰かがそれをいじりながら、非常に嘆かわしい口調でうめき声やおえつをするのが聞こえた。ようやく彼女が開けてくれたので、私は「さて」と軽い気持ちで中に入った、"ティリー、元気かい?" すると彼女は私の首筋に倒れ込み、うめき声と悲鳴をあげた。"ああ、モード......死にそう......死にそう......。朝食を用意することもできないし、あなたを楽しませることもできない。朝ごはんも食べられないし......どうしよう......どうしよう!。
私は一瞬にして、彼女はまた頭がおかしくなったのだろうと思った。だから私は、「まあ、気にしないでティリー、もしあなたが付き合う気にならないなら、私はあなたと夜を過ごし、それからホテルに駆けつけます」と言った。ここで私は恐ろしげな叫び声に遮られた。ああそれは絶対にダメだ。しかし彼女は私が十分に暖かくならないことを恐れていた。朝はどうするんだ。朝食は誰が取るんだ、と。 ヒステリックな声で、私の腕を掴みながら。私は、「朝食のことは心配しなくていいんだよ。エラが昼ごはんをたくさん食べさせてくれたから、朝ごはんの心配はいらないよ」と言うと、彼女はひとまず落ち着き、ティリーはよろめきながら椅子に座り、悩みを打ち明けた。
彼女は 彼女は完全に「神経衰弱」していた。 高血圧、膀胱炎、などなど......。本当に、ある意味で、この公演(醜態を見せたこと)はとても面白かった。にもかかわらず私は大笑いせざるを得なかった。私は、自分の置かれた状況に落胆していたにもかかわらず大笑いせずにはいられなかった。一体どうしたらいいのだろう。こんな状態でティリーと一緒に夕方から夜まで過ごしたらいいのだろうか? 幸運なことに一人のの訪問者がいた――アルフ・マクニール、昔の学友だ。
アルフ・マクニールは、私が来ることを聞いて、私に会いたがっていた。アルフは私にとって何の意味もなかったが、私は彼の首筋に倒れこんで呼びかけることができた。懐かしい弟のように歓待していたかもしれない! 彼は2時間滞在した、彼は流暢にしゃべるので時間が経つのを忘れてしまった。ティリーは椅子に倒れ込み、「ああ、大変」とうめき声をあげながら、時折苦悶の表情を浮かべながら私たちの話を聞いていた。彼女は大柄で太っていて健康そのものに見えた。「痛みも苦痛もない」と認めていた。私は死期が迫っており、私がベッドで冷たくなっているのだろうと知っていたので、彼女はもう一度私の顔を見られたことを神に感謝した。
10時になると、彼女は食料庫に入り昼食を作り始めた。そうだ私たちは昼食を取らなければならないとアルフと私は二人とも激しく抗議した。でも彼女は死ぬ気で頑張るが昼食が取れるか取れないかわからないと言った。そこで私は、しかしこれが最後の侮辱になったようだ。彼女は窓を閉めた。

パントリーの扉から、うめき声と泣き声と "oh dearing"(私のダーリン) が30分以上続いた。アルフと私は、互いの目に慰めを求めたがあえて干渉しなかった。ようやく「ランチ」が登場した。バター入りのビスケット、クッキー2枚、チーズとラズベリービネガーが一杯。まともなものだが、なぜこんなに大騒ぎして用意したのだろう。アルフと私はそれを食べた。
私はルーラ・モンゴメリーの店でものすごい夕飯を食べたが、一粒も残さなかった。そしてアルフは行った。私は、「老サイラス」たちの旅立ちに、これほど心からの後悔を感じることになるとは思ってもみなかった。そしてティリーは、またもや悲痛な声を上げた、同じことを繰り返す。「本当のことを言うわ。 私は死ぬんです。もう死にそうなんだ......」。私は彼女に医者に診せるように頼んだが医者はただの神経質だと言って、子宮の病気の手術を受けろというのですが、手術を受けたら死ぬとわかっていましたと言うのだ。私はできるだけ外交的に、彼女はどうせ死ぬと思っているのだから、いい加減なことを言ってはいけないと指摘した。
私はできるだけ外交的に、「どうせ死ぬんだから、いい加減にチャンスをつかんだらどうですか」と言った。しかしティリーはそんなことはお構いなしだった。個人的には、子宮のトラブルが神経衰弱の発作を引き起こしているのだと思う。
しかし私が昔の話や友達の話をし始めると、ティリーは悩みを忘れ、心から笑い、すっかり元気になった。"ああ、でもあなたがいなくなったら、私は今までと同じように悪くなってしまうわ。ってね。私たちは1時までこの状態を続けたが、ティリーはついに私を寝かせることにした。ベッドに行くことにした。でも朝ごはんはどうするつもりだったんだろう! 
ついに私はベッドに入った。ティリーは3つの平皿とレンガを用意して、私のために熱くしてくれた。私はレンガを受け取ったが、平焼きは断固拒否した。ティリーはベッドに3つ分の掛け布団とパフを積んでいた。すべてが防虫剤の臭いを放っていた。彼女は医者からもらった睡眠薬を飲んでベッドに入り、子羊のように眠った。しかし私は5時過ぎまで目を閉じることができなかった。神経をすり減らすような夜の後、私はただただボロボロだった。
5時頃、私は眠りについたが、6時頃、ティリーの転落で目が覚めた。6時、ティリーが廊下の向こう側にあるベッドからドサッと落ちて、家中が揺れた。家の中が騒然とした。私は急いで駆けつけたが、彼女は起き上がり、部屋の中をよろよろと歩き回り、壁にぶつかって倒れていた。しかし彼女は注意深く家具を避けていることに気がついた。ヒステリーの一種としか思えない。彼女はこう唸った。"やれやれ、どうして火をつけて私の朝食を取ってくれるんだろう?" 私は、「ベッドに戻って、9時には船に乗るから朝食を取る時間は十分ある」と懇願したが何の役にも立たなかった。
彼女はベッドに戻り、私が服を着ている間、ずっと彼女のひどいうめき声が聞こえていた。彼女は痛くも痒くもないと言っていた。彼女のうめき声が神経症的なものであることは分かっていたが、それにもまして恐ろしいものだった。ぞっとするような声だった。私が降りると彼女は火をつけてお茶を入れ、パンとバターを用意していた。ポット入り肉の型がテーブルの上にあった。もし私が空腹であったなら、それはおいしい食事であったろう。でもそうでなかったから、私は一口一口を無理に飲み込まなければならなかった。
私はティリーと一緒にお茶を飲む気になれなかった。彼女はただストーブのそばに座ってうめき声をあげて泣いた。彼女はもう死にそうで、二度と私に会うことはないだろう。もちろん私は黙っていたわけではない。私は彼女がいかに快適な環境にいるか、またこのような発作がしばしば起きていたことを指摘し、彼女を説得しようとした。以前はこのような発作からよく回復していたことを指摘した。以前にもよくあったことだ。しかし無駄だった。ティリーは死ぬ気でいた。時々立ち上がってはよろよろと歩き回り、壁が彼女を立ち上がらせるまで。私はこのヒステリーを見ていた。

でも、本当にめまいがして脳卒中になったり、ストーブの上で転んだりしないか心配だったんだ。私はそんな状態の彼女を一人にしておくわけにはいかないと思い、出かけて近所の人に頼んで、一緒にいてもらうことにした。それでそうした。まだ明るくはなかったし恐ろしく 寒かった。
その女性の家まではかなり距離があったので、薄暗い中、門をくぐろうとしたとき、緩んだ板に足を引っ掛けて、固く凍った大地に真っ逆さまに倒れた。顔面を打撲し、眼鏡のノーズクリップ(鼻掛け)をひねって眼鏡が外れた。それで帰りには役に立たなかった。新品の旅行服の肘に穴が開いてしまった。しかし私は幸運にも鎖骨や腕が折れずに済んだ! その後、私はドアを延々と叩き続けなければならなかった。
エバンス夫人を起こすまで、何時間でもドアを叩き続けなければならなかった。実際はほんの15分ほどだったが、強風の吹く寒い朝には十分な時間だった。結局、彼女は目を覚まし私と一緒に戻っていった。そしてティリーとの別れのシーンがやってきた。彼女は「ああ、モード、 "もう二度と会えない" と 私はエバンス夫人に医者を呼ぶよう言い、文字通り身を引き裂いて駅に急いだ。私の楽しい訪問は、なんという結末を迎えたことだろう。
秋の澄んだ空気の中を駅まで走り、電車に乗ったときには大きな安堵のため息が出た。しかし私はティリーの容態をとても気の毒に思い悲しんでいた。ティリーの容態を考えると、本当に残念でならない。私たちは昔からある種の親友で、彼女は死んだ日の甘い思い出がたくさん詰まっている。そんな彼女が、誰にも看取られず誰も彼女の面倒を見ることができないのだ。 私は何事もなく家に帰り、それ以来、落とした(記憶のか)糸を拾い集めるのに忙しくしている。

1932年11月18日(金曜日)
牧師館、ノーヴァル
スチュアートが週末に帰ってきて危うく逃げ出すところだった。彼は5人とともに車に乗ってやってきた。道路は凍結しており、ブランプトンから出たところで車は横滑りして2回ひっくり返り、溝に入ってしまった。幸いなことに誰も大きな怪我はしなかった。二人の少年は傷を負ったが、スチュアートは全く怪我をしなかった。彼らはもしかしたら死んでいたか、大怪我をしていたかもしれない。スチュアートが笑顔で元気に帰ってくるまで、私はそのことを知らなかった。
それにしても嫌な衝撃だった。しかし応接間に入り、島で撮った動画フィルムをコダスコープで見ているとそんなことも忘れてしまった。それは見事なものだった。そしてそれが私をどんなにホームシックにさせたことか。私はP.E.アイランドのすぐそばで窓からP.E.島を覗いているようだった。もし私が声をかけたら、そこにいる人たちに聞こえるに違いないと思えた。マートルが海岸を歩いていて、周りの岩に波が高く打ち寄せていた。恋人岬の木々は波打ち、マリオンとポーリンは5匹の猫に夕食を与えていた。マリオンとアニタは、ささやきの小径を歩いて私の方へやってきた。家のそばの畑を耕し、その向こうには湾が広がっている。小さなトウヒの木のそばで......秘密の野原で......パークコーナーの一団が......。 小径のカーブを曲がってくる。映画が終わると私は我に返った。まるで一挙に千里を横断したかのような精神的な衝撃を受けた。もし私が映画館に行ったとき、1ダースの映画(フィルム)を買う余裕があればよかったのに。

1932年11月22日(火曜日)
オンタリオ州ノーヴァル
私は今日、Isobelに次のように手紙を書いた:-。
「親愛なるイゾベル:-。 この手紙を不親切な手紙だと思われるかもしれませんが、そうではありません。そうではなく、真剣に考えた末に書いたものです。私と同じようにあなたも感じているに違いないことですが、私たち二人にとってかなり耐え難い状況になったことから抜け出す唯一の方法として真剣に考えた末に書いたものです。私たち二人にとって、かなり耐え難い状況になってきているのです。
昨年の春、私はあなたに、あなたがその程度の満足を得られるのでなければ、私たちの間のすべての交流は停止しなければならないと申し上げました。私のような年齢と経験を持つ女性と、あなたのような少女との間で可能な程度の友情で満足できない限り、私たちの間の交流はやめるべきだと昨年の春に言いました。あなたは私にこう約束しました。そうすると約束しました。
しかし8月と9月の手紙で、私はあなたが私が提供できるものでは満足できない、あるいは満足するつもりがないのだと確信しました。あなたは、私が与えることのできないものをしつこく求めています。を求め続けている。あなたはこれを "愛" と呼ぶ。私の愛する人、それはそのようなものではありません。単なる強迫観念だと精神科医なら誰でも言うだろう。精神科医の記録には、そのような症例がたくさんある。手紙の文言に至るまで、そのような過去の事例がたくさんあるのです。私のように、職業柄多くの事例を研究していればお分かりになると思います。
そして、このような執着は、その対象が取り除かれない限り、被害者を不幸に陥れ、不幸に終わらせるものである。ある日突然、あなたはその事実に目覚めるでしょう。ある日突然、あなたはその強迫観念から立ち直り、また元通りになる。そのとき、この手紙が真の親切であったことに気がつくでしょう。 この手紙は本当の優しさだったのだと気づくでしょう。
あなたの手紙は、このような往復のイザコザが無用以上にひどいものであることを端的に示している。あなた自身の告白によれば、あなたはいつも手紙の後、前よりも不幸になっているのです。ですから、このようなイザコザをやめることがあなたにとって一番良いことです。将来あなたが私が言ったことがすべて真実であることがはっきりわかるでしょう。そうすれば私たちは最初の頃のような友好的な付き合いをすることができるかもしれません」。
もちろんイソベル! はこの手紙をとても「残酷な」手紙だと思うだろうが、彼女が私を追い詰めたのだ。これ以上彼女の恐ろしい渇望に耐えることはできない。彼女のためであり私のためでもある。私自身のためにも止めなければならないのだ。

1932年12月1日(木曜日)
オンタリオ州ノーヴァル
イゾベルからの手紙が昨夜来たが今日まで開けなかった。人は朝にはそのようなことに直面するものだ。そしてそれは明らかに向き合うべき手紙だった! 
「親愛なるマクドナルド夫人へ:――あなたがおっしゃったことは、ひとつを除いてすべて本当のことでしょう。そしてもしあなたが私に判断能力を認めてくれるなら、私があなたの言うような "削除" に応じられないことを理解してください。あなたが言う「対象物の除去」(イゾベルの排除)に応じることはできないのです。どうか一緒に解決していきましょう。私たち二人がそれなりに寛容で理解ある心を持っていればそれほど時間はかからないでしょう。理解できる心を持っていればそう時間はかからないでしょう。友情と愛とは何か辛抱強く教えてください。そして、私は真摯に学ぼうとします。もしあなたが私の友人なら、私があなたを必要とするとき私を見捨てないでください。私があなたを必要としているときに。絶望の暗闇の中で私を一人締め出さないでください。もう もうこれ以上私と関わりを持たないでくださいなどと一筋の光もなく、手探りで歩いている私を置いていくなんて、あまりにひどいとしか思えません。これほど無慈悲で残酷なことはないと思う。そして私がそれに耐えることができないことをあなたに伝えるのは、公正なことだと思います。私はそれに耐えることができない。あなたの非難する態度は、やがて私の心を打ち砕くでしょう。私の心を一時的にでも私をあなたから完全に切り離すことは、その目的を達成することになり、その目的はすぐに達成されるでしょう。しかしそれは、神ご自身がそれを拭い去ることができるとは思えないほど、苦い思いをもたらすことでしょう。それを拭い去ることはできないでしょう。どうかマクドナルド夫人、早く私に会いに来てください。私はあなたのことを友人としてだけ考え、分別のある人間であろうとします。私はあなたが望むようになりたいと思っていますが、それは本当に難しいことなのです。あなたの約束は私に再び幸福をもたらすでしょう」。
これが女性から女性への手紙であることを考えると、私の問題の本質が見えてくる。私の問題の本質は明らかである。この一点でこの少女は正気ではない。正気であれば適用されるはずのルールや判断がここでは通用しない。このことが私の問題を難しくしているのだ。イゾベルは、私に "寛容で理解ある心" がないと結論づけるのだろう。 "心" がないと結論づけるのだろう。残念なことに私はこの状況をあまりにもよく「理解」しており、「寛容」であることが長すぎたのだ。この手紙は私をひどく心配させた。しかし私は無視することにした。しかしもしイゾベルがこの手紙を読んだら、私たちの付き合いは不愉快なものにしかならないだろう。もしイゾベルがこのレズビアンの恐怖を心から切り離さないなら私たちの関係は破綻します。私は断固とした態度で臨まなければならない。苦痛を乗り越えれば、彼女はずっと幸せになれるはずだ。彼女はおそらく 私を憎むようになるかもしれないが、その方がお互いにとってずっと快適になるのだ。

1932年12月3日(土曜日)
ノーヴァル、オンタリオ
今日、Silver BushのPat(銀の森のパット)を書き上げた。書く時間を確保するために必死に闘ってきた。また少しは書くための本当の余裕ができるのだろうか。私にはその見込みがない。書く時間を確保するのが大変でなければ私はパットを書くのが好きだっただろう。私の心にぴったりの設定だし、「パット」はどのヒロインよりも私らしいヒロインだ。「アレックの秘密の畑」や「ウェッブ家の猫」、「シルバーブッシュ」などは、私にとってはとてもリアルで、自分自身がそこに住んでいたような気がする。
帰郷して最初の2週間はとても調子が良かったのだが、今になって神経が不安定になり、頭の中が変な感じになってきた。不安と頭の中の奇妙な感覚が戻ってきた。そしていろいろなことが心配になり意気消沈している。なんとなく苦い気分だ。人生はこんなものではないはずだ。
「不況」は一向に収束する気配がない。小麦は400年ぶりの安値だそうだ。市場は壊滅状態、原油は暴落、私の貧弱な投資(した株)は日々目減りしていく。3年前に14,000ドルの価値があったものが、今日は840ドルの価値しかない。どういうわけか、この日は帰ってきてから最も暗く、寂しい一日だった。そして今夜はS.S.のコンサート(クリスマスコンサート)の劇の練習に行かねばならない。G-R-R!(ガーという叫び)
それどころか、いつも何かしらの練習に走っている。オールド・タイムの夜の劇の準備をしている。オールド・タイム・ナイトのための劇を立ち上げているんだ(古き良き時代の劇を上演していた)。でも、これが結構楽しいんだ。練習は楽しいし日頃の悩みを忘れてしまうのだ。 昨夜は嫌な夢を見た。きっと何か悪い知らせを予感させるものだったのだろう。

1932年12月23日(火曜日)
オンタリオ州、ノーヴァル
昨日、ステラから電報が来た。クララが死んだということだ。虫垂炎の手術が遅すぎたためだ! このような悲しみの苦しみが繰り返される中で私は神々から要求された代償を払うのだ。友情の賜物である! 私はC!araとは四半世紀近くも会っていない。しかし私たちは幼少期から少女期にかけては姉妹のような関係だった。
私が20歳の時にクララはボストンに行ってしまったが、私たちの 古い愛情は、この数年の別れの間にも決して壊れることはなかった。昨日の夜私は目を覚まして、私たちの青春時代の楽しかったこと、笑ったことを を思い出した。私はいつもクララが大好きだった。彼女は優しい性格で、愛情深い心の持ち主で冗談に目がない。あの濃いその暗い青い瞳は、どれほど喜びに輝いていたことだろう。彼女は私と同じように、夜になると瞳孔が大きくなって暗くなる(黒っぽくなる)「モンゴメリーアイ」だった。私たちは毎年、どんなに楽しい時間を一緒に過ごしたことだろう。毎年毎年、私たちの小さな秘密や恋の悩みを共有した! 
そして今、彼女は異国の海辺で死んでしまった。ステラ以外の家族はみんな死んでしまった。ジョン、アニーおばさん、クララ、ジョージ、フレデ。あの陽気な陽気な笑いを愛する輪はすべてテーブルを囲んでいた、ジョン叔父さんが荘園で生まれ、アニーおばさんはグレービーソースとスタッフィングを配りながら微笑んでいた。そしてそのうちの3人が全盛期に。 (死んだ)
さて、何を話せばいいのだろ。この日記で何度も言ってきたことを繰り返さない限り何もない。この日記で何度も言ってきたことを繰り返さない限りは! 私はこの2週間は暗くて寒い日が続いた。私は体調が悪く、忙しすぎてとても辛かった。クリスマスまであと2日だが、私の心には何もない。私にとっては幽霊のような世界になりつつある。

クララ・キャンベル

[この項終わり]




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